デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 12. 西村勝三
■綱文

第29巻 p.387-391(DK290113k) ページ画像

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■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK290113k-0001)
第29巻 p.387 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
十月二十九日 午前晴午後雷雨
○上略 午後二時紅葉館ニ於テ催サレタル西村勝三氏ノ園遊会ニ出席ス
○下略


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK290113k-0002)
第29巻 p.387 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 晴
○上略 午後四時過大磯着、長生館ニ抵ル、西村勝三夫妻来話ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK290113k-0003)
第29巻 p.387 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
八月十六日 曇 冷気
○上略 西村勝三氏今日到着ノ由ニテ来訪セラル
○下略
   ○栄一、八月十二日ヨリ同月十七日マデ箱根小涌谷三河屋滞在。

 - 第29巻 p.388 -ページ画像 

(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK290113k-0004)
第29巻 p.388-389 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
十二月七日 晴 大風
今朝ハ渋沢男爵ニ於テ西村大人ヲ病牀ニ見舞ハルヽトノ予報ニ接セシヲ以テ、九時頃ヨリ徳子ト共ニ同家ニ至ル
大人ハ今日ハ昨日ヨリ大ニ不良ノ容体ニシテ、熱モ高ク疲労ノ様子也男爵ハ十一時頃来着セラレ、病牀ニ大人ヲ訪ハレ、親シク病状ヲ見舞ヒ、且白煉瓦会社ノ後事ニ就テ過日八十島ヲ以テ御伝言ノ件ハ委細承諾セル故安心アレト申サレシニ、大人ハ折柄発熱苦痛ノ際ナルモ、余程精神ヲコメテ、順序ヲ立テ来訪ノ好意ヲ謝シ、明治七年福地ノ紹介ニ依リ拝面シ、商業会議所ノ御世話ヲ願ヒシ以来、陰ニ陽ニ常時指導高配ヲ蒙リ、御蔭ヲ以テ晩年ヲ全フスルニ至レル、其間ノ厚恩謝スルニ辞無ク、近クハ日清戦後煉瓦事業拡張ノ念ヲナシ、急激ニ若松ニ工場ヲ起サント計リシトキモ其急進ヲ戒メラレ、其御蔭ニテツマヅキモセス今日ノ盛況ニ至レルナリ、此等ノ厚恩ハ諜々改《(喋)》メテ拝謝ノ機ナカリシニ、今ヤ死ニ際ニ至リ此御礼ヲ申陳ベルヲ得タルハ、実ニ至幸トスル所也ト、ユツクリユツクリ口ヲ聞キテ陳ヘ立テラレ、其間脳ノ為カ処処少シツヽ不明ノ個処モアリシ様也、男爵ハ御覚悟ハ実ニ天晴ナレドマダマダ左程ノ御衰弱トモ見受ケズ、御養生御快復ヲ祈ル、併シ所謂人間ハ一回ハ死サネバナラズ、コハ運命ナレハ近親ノ人ナドニ取リテハ名残惜シキハ勿論ナレド、其当人ハ所謂死生ノ間ニ談笑スルノ態度ハ必要ナリ、御大病中ハ御事業向等老生一切御掛ト相談シ尽力スヘキニツキ、所謂安心シテ之ニ処セラレタシ、貴君ノ如キハ真ニ大悟徹底ニ近キ方故、敬服ノ至リ云々申サレシニ、大人モ武士ノ家ニ生レ父又ハ兄等ヨリ幼時ヨリノ訓戒身ニシミ、願クハ未練ラシキ死ニ様ヲ致シタクナキ決意ナリナド、始終病苦ノ間ニモニコニコシテ答ヘラル、男爵ハ凡ソ十五分間位ニテ別レテ室ヲ出テラル、カクテ別室ニテ時分時ニ付昼飯ヲ差上ケ、其間モ藤村及予等ニ対シ、大人ト明治元年横浜ノ□商会《(原本数字欠)》ニテ、水戸家ノ為ニ鉄砲ヲ買フトキニ見カケシガ始メニテ福地ノ紹介ニテ近付トナリ、会議所・瓦斯局・桜組整理等ノ懐旧談アリ、一時帰ラル、予ハ終日西村家ニ在リ、夜帰ル
今日ハ心待ニセラレシ男爵ニ会シテ一生ノ謝詞ヲ陳ベ、重荷ヲ卸ロセシト称セラルヽ程アリテ、アトハ幾分ガツカリノ態アリ、又今朝来胸部ニ聊ノ気管支炎的音キコエル由、医士ノ心配話アリ
   ○中略。
十二月廿二日 晴
○上略 徳子品川ヘ見舞ニ参リ居リ、本日ハ幾分大人ハ食事用ヒラレ気力モアリ、予ニ面会シタキ旨希望サルヽ旨電話ニ付、夕刻参趨、肉汁・牛乳・オモ湯共何レモ三十ガラム宛位漸ク治マリニ過ザル《(ルカ)》由ナルモ、大分血色モヨク又気力アリ、母公・直・辞三郎氏等ト共ニ、枕辺ニ予ヲ招カレ、申サルヽ言葉モハツキリシタリ、其要旨ハ何分病魔ニ打勝ツ事ハ到底出来得ヌト信スルガ、過日来自記シ又ハ家人ヘ口授シタル遺言ノ趣旨ヲ再演スルニ付、其要領ヲ筆記シ呉レタシトノ事ニテ、其申聞ニ従ヒ予ハ半紙参枚ニ清書シタル要点ハ如左
○中略
 - 第29巻 p.389 -ページ画像 
末尾ニ本日ノ日附ヲ記シ、其終リヘ病中乍ラ勝三ト自署ノ上捺印セラル、又外ニ他ノ遺言帳ノ如キモノヘ半バマデ自署セラレ、後半ハ口授ニヨリ予ガ代書セシ箇条如左
○中略
次ニ左ノ一条ハ口授ニヨリ予代書ス
 一渋沢男爵ヨリ受ケタル永年ノ恩誼ハ莫大ニシテ、真ニ感謝ニ不堪予カ子孫ハヨク此意ヲ体シ、常々報恩ノ務ヲ忘ルヘカラス、又予カ死シタルトキハ、右ノ紀念トシテ参千円ヲ竜門社ヘ寄附スヘシ
○下略
   ○十二月七日・同二十二日ノ栄一ノ日記ヲ欠ク。


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK290113k-0005)
第29巻 p.389-390 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年   (八十島親義氏所蔵)
一月二十五日 曇
今朝ハ品川大人ヲ病床ニ見舞フ、去ル十三日ヨリ下痢一時一寸宜シク重湯位治マルヨウニナリシモ、終ニ一週間程前ヨリハ腹痛及嘔気ノ為氷ト平の水位ノ外一切ノ食餌治マラズ、薬サヘモモドシテ受付ケズ、今日当リ平温ニシテ脈モタシカ又気分モ確カナレトモ、身体各部ハ衰弱ヲ増スノミ今後二三日中ニ食気生セザレバ終ニ立ツヲ得ザルベシト一同心痛セリ、今朝ハ丁度気分ノ宜シキ時ナリシカ、不相変ニコニコシタル温顔ヲ以テ ○中略 種々ノ御物語アリ、大要ヲ録スレハ左ノ如シ
○中略
一渋沢男爵ニ今一応、勝三ハ死ニ際ニ呉々感謝シテ死セシト伝ヘラレヨ、予ハ旧主人堀田公・親ノ外ニハ、渋沢男ノ外恩人無シ、予ニハヨキ友人モナク、真ニ事業トシテ独立独行、且時々男爵ヨリ忠告モ受ケタル如ク、部下ニ碌デナキ人間アリテ、却テ予ヲ妨ゲシ位也、カヽル間ニ渋沢男ハ終始予ノ為ニ懇切ナル指導者トナリ、援助者トナリ、厚恩筆紙ニ尽サズ、桜組ノ始ハ別ナルモ、白煉瓦トイヒ、硝子トイヒ、皆男爵ニ謀リ、マーヤツテ見ヨト賛同ヲ得テヤリシ次第又商業会議所ノ如キモ紛紜アリテ、予モヌレ衣ヲ着ントシタル際、男爵ノ御纏メニヨリテ無事ニマトマリタル次第也、此カル永年ノ厚恩ハ終世忘レズ、何卒呉々モ宜シク願フ
○中略
頗衰弱セラルヽモ未脈ハタシカナリトノ事、十一時半兜町ヘ出勤 ○下略
   ○中略。
一月卅日 孝明祭 雨
終日西村邸ニ在リ、今日ハ脈モ段々アシヽ、 ○中略 不相変熱ハ四十度、夜半十二時ヨリ仮寝セシニ
一月卅一日 曇
暁三時半呼起サレ、直ニ病室ニ至レバ、急ニ呼吸変調ヲ呈セラレ、三時四十分永眠ニ就カル ○下略
二月五日 曇時々雪
今日ハ葬儀当日也 ○中略 正一時ニ出門 ○中略 行列ハ粛々トシテ数町ニ亘ル道ニ一時間ヲ費シ、東海寺ニ着ス ○中略 会葬者ハ渋沢男爵無拠差支ノ為代トシテ若主人、大倉・益田・安田・馬越・原六郎・市原盛宏・西村
 - 第29巻 p.390 -ページ画像 
提理・手島校長以下約弐千人、三時二十分式ヲ終ル ○下略
二月十一日 紀元節 曇大ニ寒シ
朝飛鳥山邸ニ至ル、男爵ハ不相変来訪客ニテ大多忙ヲ極メラル、漸ク十二時頃終リ暫時話シ、西村大人死前男爵ニ謝恩ノ伝言ヲ伝上ス、夫ニ付男爵ヨリ大人ニ関スル一二逸事談アリ ○下略
   ○中略。
三月卅一日 日曜 曇夜雨
今日早朝西村直ヲ呼ヒ、同伴シテ飛鳥山邸ニ至リ、共ニ男爵ニ謁シ、直ヲ紹介シテ故大人ノ遺言トシテ、男爵ヘ終生ノ厚恩ヲ謝シ、且将来不相変御愛顧ヲ乞フベキ旨ノ申付アリシニツキ、其陳述拝願、並ニ男爵ヘ謝恩ノ微意ヲ表スル為メ竜門社基本金ヘ金三千円ヲ寄贈スルニツキ陳情シ、且此事ニ関スル書面ヲ呈上セシニ、男爵ハ喜テ厚意ヲ受ケラレ、将来モ指導誘掖ヲ賜ハルヘキ旨厚ク申示サレ、昼飯ナド饗セラレ厚遇セラレ、予モ大ニ面目ヲ施シタリ、茲ニ大人生前予ヘノ遺嘱数件ノ内ノ一件ヲ無滞決了シ、安神セリ、三時帰宅 ○下略
   ○中略。
四月六日 少雨
朝西村直ヲ綱町ニ同道シ、渋沢篤二氏夫妻ニ引合ハセ、且亡大人ノ遺言ニ基ツケル竜門社基本金寄付金三千円ヲ提出ス
○下略


竜門雑誌 第二二五号・第三三頁 明治四〇年二月 故西村勝三君(DK290113k-0006)
第29巻 p.390-391 ページ画像

竜門雑誌  第二二五号・第三三頁 明治四〇年二月

図表を画像で表示竜門雑誌  第二二五号・第三三頁 明治四〇年二月

      ○故西村勝三君 本社特別社員西村勝三君は、本年一月三十一日病を以て品川御殿山の邸に易簀せられたり、享年七十二、嗚呼悲哉、本月五日品川東海寺に葬る。君は旧佐倉藩士にして、故宮中顧問官西村茂樹翁の実弟なり、君が本邦工業界に於る偉績は今更茲に之を言ふを俟ざる所にして、其生前に於る略歴は下に記する所の如くなるが、其中にも見ゆる如く実業上に於ける青淵先生と君との関係は、其由来極めて久しき者あり、即ち明治六年東京営繕会議所議員を命ぜられ、瓦斯局及養育院の創設に尽力せられし当時より君は先生と相知りて、先生の下に瓦斯局副長及養育院副長たりき、又明治八年東京商法講習所(今の東京高等商業学校)の創立に当りても、君は先生と共に大に尽力せらるゝ所あり、又同年千葉県漁産会社及品川白煉瓦製造所の創設、並に明治二十一年品川硝子製造所の創設の如きも、皆君が先生の賛同を得て経営せられし所なり、特に君が一身の心血を注がれたる桜組の事業に至りては、最も先生の扶掖幇助を得たる所にして、桜組の今日ある全く先生の賜なりとは、君が平生人に向て語らるゝ所なりき 斯の如く先生と君の関係は由来久しきことなるが、君は夙に先生に傾倒して平生深く之に推服し、先生亦君が志操の堅固なるに感じて頗る君を推重せられたり、従て其交の親密なり 以下p.391 ページ画像 しことは言ふまでもなく、君の病漸く篤きや先生は一日(昨年十二月七日)親しく君の病牀を訪はれしに、君は病苦を忘れて大に喜悦せられ、先生に謂て曰く「余今垂死の境に立つ死生命あり、復た如何ともすべからず、然れども此場合に於て、親しく閣下に対して生前の厚誼を謝することを得るは、実に余の幸とする所なり、是に於て余は喜んで地下に入るを得べきなり」と、既にして病革まるや、遺子を枕頭に召して懇に後事を告げ、其今後に処する一に先生の指導に俟つべきを以てし、溘焉として逝く、先生と君との交情以て其一斑を知るに足るべきなり ○下略 





〔参考〕西村勝三翁伝 同翁伝記編纂会編 序 大正一〇年一月刊(DK290113k-0007)
第29巻 p.391 ページ画像

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