デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

6章 旅行
■綱文

第29巻 p.464-466(DK290159k) ページ画像

明治33年6月29日(1900年)

是日栄一、東京ヲ発シ静岡ニ赴キ、三十日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三三年(DK290159k-0001)
第29巻 p.464-465 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
六月廿九日 曇夕雨
 - 第29巻 p.465 -ページ画像 
此日ハ静岡商工会発会式ニ招宴セラレタルニヨリ、午前六時二十分ノ汽車ニテ新橋ヲ発シ、十一時半静岡ニ着ス、森理七・松平隼太郎同行ス、大東館ニ入リテ休憩ス、汽車場ニハ商工会員数十名来リ迎フ、且沼津マテ幹事三名出張セリ、午後二時半浮月楼ニ抵ル、会スル者五百名余、楼ノ上下来集会員ニテ充塡ス、幹事其他ノ披露演説アリタル後壇上ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス(商工業ノ前途ト題スル趣旨ヲ以テ、既往将来ニ渉ルノ経歴ト企望トヲ述ヘ、且地方人士ノ敢為気象ヲ有セラルヽ事ヲ奨励ス)畢テ園遊会ヲ開ク、降雨至ルヲ以テ、庭上ノ散歩意ノ如クナル能ハス、午後四時求友楼ニ抵リ、静岡銀行者及商業会議所員ノ催シタル宴会ニ出席ス、席上商業ト学問ノ関係ニ付テ一場ノ演説ヲ為ス、夜十時宴散シテ大東館ニ帰宿ス、此日大川平三郎・荒木民三郎二氏、各其会社ノ公務ニテ静岡ニ来ルニ会ス
六月三十日 曇
午前静岡浅間ノ社ヲ拝シ、八時三十五分発ノ汽車ニテ東京ニ帰ル、駐車場ニハ会員数十名来リテ送別ス、午後三時半東京着 ○下略


竜門雑誌 第一四五号・第五〇頁 明治三三年六月 静岡商工会の青淵先生招待(DK290159k-0002)
第29巻 p.465 ページ画像

竜門雑誌  第一四五号・第五〇頁 明治三三年六月
○静岡商工会の青淵先生招待 静岡市の各商工業家数百名にて、今回組織せられたる静岡商工会の重なる人々の懇請を容れられ、青淵先生には其発会式に臨場して、一席の演説を為すことを承諾せられたり


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK290159k-0003)
第29巻 p.465 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三三年    (渋沢子爵家所蔵)
六月廿九日 夜雨
今朝六時廿分発新橋汽車ニテ、青淵先生静岡ヘ赴カルヽニ付、早起徒行御見送リヲナス ○下略


竜門雑誌 第一四六号・第四五―四六頁 明治三三年七月 ○静岡商工会発会式の光景及青淵先生の演説(DK290159k-0004)
第29巻 p.465-466 ページ画像

竜門雑誌  第一四六号・第四五―四六頁 明治三三年七月
    ○静岡商工会発会式の光景及青淵先生の演説
青淵先生には愈々前号に記せしが如く、去月三十日静岡紺屋町浮月楼《(二九日)》に於ける商工会の発会式に臨まれたり、当日は随行員として渋沢家元方松平隼太郎氏を従へしか、偶ま本社員大川平三郎・荒木民三郎両氏の来合せるありけれは、両氏とも同会に出席せられたり、今其光景を記せんに、同日門前には杉葉を以て造りたる緑門を設け、楼上楼下には球灯を吊し、玄関両側には受付掛を設け、開会前既に来会員は六百余名に達したり、斯くて席定まるや発起人平尾徳太郎氏開会の旨趣を述べ、併せて規則の議定を為さん為め、座長の指名を托されん事を求め、一同の同意を得て磯野新蔵氏を座長に推選し退席せり、次に磯野氏は満場の喝采に迎られて着席し、暫時座長の席を汚す旨を述べ、続ひて規則の討議に移り、発起人星野鉄太郎氏規則案を朗読し、異議なく可決確定し、尚同会の幹事推選を座長に一任するや否やを問ひ、満場異議なく、磯野氏十二名の幹事を推撰し、幹事は別室にありて同会の商議員十四名・相談役二十八名の推選ありたり
右報告終るや座長磯野氏は席を退き、森理七氏之に代つて、青淵先生が病気の為め遂に来岡本日に延引したる次第を述べ、玆に先生には発
 - 第29巻 p.466 -ページ画像 
起人大石角次郎氏の紹介に依り、満場の拍手に迎へられて演壇に上り先づ静岡商工会の発会を祝し、日本現時の商工業に就き、縷々一時間余に渡りて演説されたり、其大要左の如し
 諸君、余は三十三年以前当地に居住し、当地は余の第二の故郷なれば斯の如き前途有望なる商工会の発会式に望むは、余の大ひに満足とする所なり、而して我国の商工業は欧米の商工業と異なり政治の刺撃に依つて発達せしものなれば、之を以て未だ十分の発達と云ふを得ず、将来益奮励して其衝に当らんことを希望す、且つ海外の商工業と我国を比較すれば最も甚だしき差違を見るとて、欧米独仏諸国の貿易高・手形交換高・鉄道哩数の統計を引いて、尚ほ我国商工業の十分進歩を図るの覚悟なかるべからず、殊に静岡商人は敢為の気象なかる可らすと論じ、終りに氏は曩に明治元年静岡藩の禄高拝借金五十三万円の所置に就き、当路者の大久保一翁・平岡順蔵両氏に建議せし事あり、当時紺屋町の大官邸に於て実業家の合本を計画して、太政官の札を以て東京・大阪より商品を輸入せし事ありしが抑も之れ本市発達の導火線なりしと云ふべし、氏は斯くの如き関係あり、尚ほ今後数年を経て再び此静岡の商工会に臨み、諸君と共に今日此席上に会合せし談話を為さん事を希望する次第なり、云々
右演説終るや、発起人安達俊助氏は先生の万歳を唱へ、会員一同之に和し、次に先生は静岡商工会の万歳を唱へ、会員之に和し、之れより園遊会に移り、折しも降雨あり、午後四時頃散会せりと