デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

6章 旅行
■綱文

第29巻 p.576-586(DK290189k) ページ画像

明治41年9月27日(1908年)

是日栄一、東京ヲ発シ郷里血洗島ニ赴キ、二十八日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290189k-0001)
第29巻 p.576-577 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
九月二十七日 晴 涼
○上略 午前八時三十七分王子発ノ汽車ニ搭シテ旧郷里ニ抵ル、十一時深谷駅ニ抵ル、治太郎以下多人数来リ迎フ、相共ニ血洗島ニ抵ル、午飧後諏訪神社ニ抵リ獅子舞ノ祭典ニ出席ス、畢テ家ニ帰リ更ニ墓参ヲ為ス、先人ノ墳墓ヲ拝シテ後、手計ニ抵リ藍香翁建碑ノ地ヲ鹿島神社ノ付近ニ一覧ス、更ニ尾高氏ノ墓地ニ詣シ、定四郎ノ家ヲ訪ヒ小憩ス、五時過帰宿ス、夜飧後市郎宅ニ村人多数聚来シ、獅子舞ノ祭典アリテ
 - 第29巻 p.577 -ページ画像 
夜十一時過散会ス
九月二十八日 半晴 涼
午前六時半、起床朝飧シ後揮毫ヲ為ス、大里郡長来訪ス、午前十一時八基小学校ニ抵ル、村民多数《(衍カ)》ノ来会ス、依テ自治制度ニ関スル一場ノ講話ヲ為ス、畢テ重立タル村民等ト談話シ、午後一時市郎方ニ抵リテ午飧ス、食後又揮毫ヲ試ミ、午後三時過市郎方ヲ発シ、四時頃深谷発ノ汽車ニ搭シテ七時王子ニ着ス ○下略


竜門雑誌 第二四五号・第八八頁 明治四一年一〇月 青淵先生の帰郷(DK290189k-0002)
第29巻 p.577 ページ画像

竜門雑誌  第二四五号・第八八頁 明治四一年一〇月
○青淵先生の帰郷 青淵先生には郷里埼玉県大里郡八基村民の招待に応じ、去る九月廿七日同村鎮守社諏訪神社の祭典に臨まれたるが、同日は同地方農業家の懇請に依り、農業の振興に関せる有益なる講話を為され、翌廿八日無事帰京せられたり


一村興隆の手段に就て(DK290189k-0003)
第29巻 p.577-586 ページ画像

一村興隆の手段に就て           (渋沢子爵家所蔵)
         「渋沢男爵の講話」(速記録) 明治四十一年九月二十八日 於埼玉県大里郡八基村大字血洗島血洗島小学校
橋本村長さんから御披露がありましたやうな次第で、私ハ今日此所に出まして諸君に御目に懸るので御座います、御集「り」の皆様の中にハ、此学校の祭「典」の時に御目に懸つた御方も御座いませう、「又」稀にハ極「めて」熟知の御方も御座いませうけれども、多数ハ初めて御目に懸つたやうに存じます、左様に私も稀に此「地に参り」ます訳でありますが、御聞及びの「通り」私ハ血洗島の渋沢市郎右衛門の倅て御座います、二十四歳迄ハ此「村」で成長したのでありますから、「皆様」方と同じやうな境遇で、同じやう「に」生活「し」、同じやう「に」成長した、「と」言ふて宜いので御座いますから、どうぞ別の人間「の」やうに思ふて下さ「るな」、全く同じ種類の人間でありますから御親み下さるやうに願ひます、東京へ住居しても時々出て参ります所謂故郷「忘れ難し」で御座います、況や「鎮守の」御祭礼などに就てハ、毎年毎年子供の時分に大変嬉しかつた「ことを思ひ出すと」大人になつても嬉しい、年老いても矢張り嬉しい、獅「子」舞の無い村方「の諸君はあの様に」大騒ぎをして、それ程愉快であらうかと御笑ひになるか知れませぬが、私などハ昨夜の獅「子」舞ハ、東京の歌舞伎座で名人の芝居を観るよりも興がある、価「値かあると」思ひますそれ故に故郷の「懐かしい」観念ハ、誰でも左様であらうと思ひます「私が」今日此所で御話しやうと思つたことハ、左様に、演説的に申上る積りでハ無かつたのです、「同行し」ました渋沢「治」太郎に相談した旨意ハ、斯様であつた、「私が」二十四の歳に故郷を出まして、最早今年「は」六十九歳で「ある」から、四十「五」年の歳月を他郷で送つて居つて、何等故郷に対する功もありませぬが、併し幸「に」世の中が、維新の「政治」が開けてより、海外から種々な学術も教育も輸入して、此上も無い文明の盛運に際したので御座います、加るに二十七年、又三十七年の大戦役ハ、御互国民にハ大苦痛ハ与へたけれども、其苦痛と同時に亦大なる名誉も、利益をも与へて、国家ハ次第に
 - 第29巻 p.578 -ページ画像 
進歩発展致して、今日ハ日本国民も、海外の列強と「同し様に」唱へられる、御仲間入りが出来「たのである」、「世界の地図を見ると」土地も広「く」、国数も多「く」、なかなか算へ尽せぬ程であるが、英吉利仏蘭西・亜米利加・独逸・露西亜と、それへ我国「を加へると」云ふことになつたのである、是は政事を為す人の働きであるとか、「教育に従事する」人の働きであるとか、或ハ法律家の働きであるとか、各自慢をして「居るけれとも」併し彼様なる大「発展は」、此実業家、即ち御互の力が十分「進歩して来たから」今日斯様の国民と相成つたと申して宜からうと思ふ、左すれバ此名誉ある国民になつたと云ふは、御互「の力である、併し名誉には又責任がある」、即ち諸物価ハ騰くなる、農事ハ非常に苦しい「各自の」負担を増すと云ふ、ハ已を得ない、さう云ふ名誉ある国民となつたと云ふことハ、東京と云ふ帝国の首府の人はかり誉める訳にハ行かぬ、各地の都会の人も、又「其」地方の農業家もありませう、全国、苟も事業に従事する者、何処の者でも残らずの国民が一緒になつて、「此名誉を荷ふと共に」未来の進歩、未来の発展を「勉め」なけれバならぬのであります、デ国民として全国「の人が」悉く我国を愛するのハ「本分てある」、併し物にハ各厚薄ありで、国を愛すと云ふことハ、口ばかりで、家を愛し、家族を愛すと云ふのでハ、本統の国家を愛すると云ふのでハ無い、又国家のみを愛して、妻子を愛さぬ、親を愛さぬと云ふのハ、寧ろ「間違ひ」である、私ハ二十四歳の時父母を捨てゝ他所へ出たのであります、けれども、是ハ今申上げるやうな「訳で」決して失奔した「の」ではない、両親に謀つて「出」たのです、どうも貴様のやうな「怠慢の者は」、迚も此村で百姓ハ出来ぬ、百姓を廃めて浪人になるとも、何になるとも、貴様の処存に委せると云ふので、「放蕩堕落して」家を駈落したと云ふ訳でハない是ハ十分に証明が出来るのであります。
前に申す通り、さう云ふ訳で家財一つ持つた訳で「もなく」、毛布一枚で飛出しまして、「偖家を出てから後に」考へました、「凡そ」人間と云ふものハ、「先づ」身「が立たねはならぬ身を立てるには心を治な」けれバならぬ、「心」を治めて家を「斉へ」、家「を斉ふて」一村に及「び」、『一郡を治め遂に天下を治む』「と」云ふことが大学にもあります、『君子道を求めんとせハ其「本を」努めよ』と云ふことがありまして、どうしても根本ハ自身にある、さうして一家を立て一村に及ぶのてある、「故に」第一番ハ家庭である、之を十分に整頓して、而して一村を治める、それから国に及ぶと云ふのが順序である、何を申すにも俄かに文明を「外国より」輸入した日本のことであるから、未だ何事も整頓して居らない、ソコで先づ是迄の一郷、一村のやり方でハ仕方がない、他の国の所謂文明国として、又列強国として人の唱導せらるる所の独逸――果して独逸ハ完全に整頓した国であるかどうかハ一つの疑問でありますけれども、まア直接考へて見て、英吉利とか、独逸とか云ふ国々の各地の制度、即ち自治の有様を比較して見ますと云ふと、日本のそれハ大に愧じねバならぬと云ふ有様でありました、それに自分ハ何を申すにも二十四歳の時に家を出て、其前慥か二十歳か、二十一歳の時であつたと思ふが、此大字血洗島の鎮守のことに就て、
 - 第29巻 p.579 -ページ画像 
若い者の一人として関係して居つて、どうも鎮守の社が余り大きな社でハない、近所の鎮守様ハ非常に立派なのがある、若い者として之を歎はしく思つて、皆んなに謀つて、其再建を思立つた、漸く建築に掛つて、拝殿丈けハ仕上つたが、其中に自分の身体に変化を来して家を去つて仕舞つた、例へバ前に申す通り親達に強いて家を去る程の事情でハ無かつたけれども、是ハ一身の覚悟から世の中に出て、骨を折つて見たい、それにハどうも血流島の百姓でハ仕方がないから、寧ろ都会に出て、不肖ながら国家の利益の多からんことを感じたからして自分からハ是ハ余義無い、或ハ余義なかつたと申し得られると存じます――、物好きと或ハ謗らるゝ点があるか知れませぬけれども、故に故郷のことは、始終心に懸つて居る、況や大切の鎮守の本殿の完成しなかつたことハ始終気に懸つて居りました、東京で政府の役人になつたのハ、最早四十年以前のことで御座いますけれども、未だ自分の考にハ副ハない、所謂世の中に出て、相当にやらうと云ふことでハなかつた、それから段々年を取つて、商業―、此銀行業をして、是非成功して見たいと云ふ観念を有つて、熱心に之れが経営をしたのである、其時分に於ても、どうか彼の鎮守様の再建ハ満足に仕上げてやりたいといろいろ村方へも相談をして、余り裕力の無い少部分ながら寄付をして、其時ハ満足に其通りにハ進み得なかつたが、大に之れが動機となつて、遂にハ其鎮守の再建と、それから此学校と云ふものにハ、私が御相談に与ると云ふやうなことに相成つたのであります、蓋し私が左様の関係を故郷に有つて居ると云ふことハ、即ち前に申す故郷を忘れ難いと云ふ丈けの情愛を、玆に一言申述べるので御座います、故に今日此学校に出て御話をしますに就て、是迄ハさう云ふことを申上げたことハ無かつたのであります、けれとも全く私ハ此村に生れて、二十四歳迄ハ此村で成長した者だと云ふことを、序ながら諸君に証明して置きます。
ソコで話を前に戻しまして、今日本の大国民たる各町村が、完全に制度が行ハれ、完全に自治の発達をして居るかと言ハれますと、私ハ大に疑問と言ハねバならぬと思ふ、何れ一国か左様に世界から誉れを受るに就てハ、誉れを受ける丈けの要素がなけれバならぬ、之を見て非常に歎はしいのである、渋沢が或ハ東京に居つても、或ハ其他に居つて、幾ら商工業者の中で、先づさきに指を折らるゝ人間であつても、常に心掛けて行かぬならぬのハ地方自治の進歩発達である、此地方自治の進歩発達がなけれハ、商業も工業も奮ハない、況や今日ハ海外に向つて大にやらなけれバならぬ時である、さう云ふやうな研究ハ、渋沢ハ殊に専業としてやるのであるから、或ハ之を軽蔑せらるゝにも、又誉めらるゝにも其原因がなくてハならぬ、果して然れバ日本国民、大強国民と言ハれる要素がなければならぬ、就てハ其誉れを何時迄も保つことハ、どうかと云ふに、イヤ強い国民、大国民だと思ふたが、案外根の弱い、各町村からして洵に薄弱であると言ハれませう、是ハ御互ハ余程考ねバならぬ、得た名誉を保存すると云ふに就てハ、大に心掛けねバならぬと云ふことハ極く必要の条件であると私ハ玆に申すのであります、デ然らバ何も一村をさう穿鑿するにも及ぶまい、お前
 - 第29巻 p.580 -ページ画像 
ハ東京の住民であるから、東京市ハ如何かと、斯ふ反問を受けるかも知れぬが、少し私ハ赤面せざるを得ぬです、如何となれバ東京市と云ふ団体ハ、果して此大国民たる、列強の師範たる、日本の東京市の市政が完備して居ると、私ハ御答するに苦しみます、又私の微力が、今の東京市をして、完全なる大国民、大丈夫たらしむることが、出来たからと云ふて、前に申す故郷忘じ難しで、決して之を忘却することハ出来ぬのであります、村の制度、一村の自治が大国民たる素であるから、之れを渋沢が希望すると云ふことハ申せぬぢやない、或ハ駁撃を受けても宜しい、一族を纏め長い間住つて居る東京より、今日の八ツ基村ハ感じて居ります、何れの国の進歩として、自分の見たる所でハ初めハ小にして、小から大に及ぶ、家から村に、村から郡に、それから国に行くと云ふ順序と存じて居る、先づ東京市――都会ハ第二で、第一ハ村に立派なる自治制度を行へ、親密に御互か力を合して、其ことに御尽力あるであらうと私ハ信じますので御座います。
デ昔も一村落の自治制度と云ふものハ、一大字とこそ限つて居らぬが相当する制裁ハありましたやうに思ひます、先づ名主と云ふがあつて其区域の総てを支配し、それから五人組、或ハ百姓代と云ふのがあつた、又一村果して公なる制度でハ無かつたが、若い者の組立てがあつて、其中にハ自然選挙と云ふ程でハ無かつたが、若者の頭と云ふものがあつて、何等かの制裁ハあつた、他村との関係とか、何とか云ふ時に、一層若物《(者)》の気風を代表すると云ふやうな方法でありました、是等を当時の外交政治とでも云ふやうなものに属して居りませう、又内にしてハ、冠婚葬祭と云ふことを尊んで、宗教的摸範として、此葬儀等のことに於てハなかなか稠密に執行して、其近隣の交誼と云ふものハ篤かつた、即ちあれが自治と云ふの一部分であつたので御座います、けれども其事業と学問とハ密着して居ない、又野蛮と申す言葉は余り過激でありませうが、先づ未開とでも言ひ得らるゝのである、殊に商工業、それ程でもありませぬが、農業ハ甚だ国を治むると云ふ種類の人から軽蔑せられて、極く下級に置かれた、旁々以て其自治制か、経済思想を進めるとか、社交的発達を為すと云ふことハ見得られぬ、況や一ツの理由ハ、幕府の時分ハ皆な御互に己れの領土が分れてあつて如何にも支配する所が小さく区域されて居つた、現に八基村などハ安部摂津の守の領分であつた、此八基の中でも、横瀬などハ安部様の領分でハ無かつたと思ひます、さう云ふ按排に支配区域が小さかつたからして、今言ふが如く、自治の制度と云ふものを進めやうが無かつたのであります、併し近隣の情愛と云ふものハ、御維新になつてからもさうであるが、御互昔から人間として、相当に有つて居つたと申して宜しい、併し其政治家が、海外の制度を段々摸倣して、先づ第一に国家をして、唯だ立憲独裁と云ふ、国の政治ハ天子様御一人である、又天子様の命する所の役人を以て行ハなくてハ、極く健全でない、多数を統一することハ出来ぬと云ふ所から、遂に憲法発布、国会の開設と相成つたのであります、それと同時に、国の枢要の議事ハ、上下両院に於て議決して進めて行く―、是か中央政治と云ふ、今一つは地方政治と云ふものが成立つて、地方の自治と云ふものを細かく分けた、英
 - 第29巻 p.581 -ページ画像 
吉利の政治方法に依つて、丁度二十四年に自治制度と云ふものが敷かれて、最早二十年経つて居る、二十年経つた後の今日ハ、各地共相当なる自治制を活用して居ませうかと云ふと、是ハ其大勢から云つて、どうも一つの疑問である、洵に自分ハ愧じる嫌ひがある、自治もそれ程効能が無いものかと言ひバ、イヤ決して効能が無いとか言ハれぬ、其扱振りに依つてハ、一地方の共同利益を進めて、殆ど其弊害と云ふものハ除き得られる、必らず無くてハならぬものである、デ左様に是迄も今後も必要であるならバ、二十年の歳月を経た今日、どうして進まなかつたのであるか、此人民の生活ハ、なかなか習慣と云ふものに制せられて居つて、其習慣の久しきに亘つて居るのを変更したものであるから、イヤ其間に種々なる弊害がある、唯た公共の意見、忠実の考ばかりで、社会のこと、自治の事務などにハ力を入れて無い、或場合にハ他の方面を厭《(マヽ)》して、例ヘバ自治制の効能あるやうに考へて居つたけれども、国家の政治、議員の選挙ハどう云ふものか、未だ未だ悪くすると、自治と云ふものハ、寧ろ弊害がある、単に弊害ばかりでハない、甚しきハ妨害の手段発達を十分ならしむるから可かぬ、それが今日の所、各地に亘つて此自治制が完全に行ハれて居るとハ、どうも申得られぬ有様であります、併しそれハ果して已を得ない事情があるか知れませぬが、甚だ宜しくない、既に宜しくないとしますれバ、私ハ玆で希望する、八基村の諸君ハ、此自治制を活用して、自治制の精神に依つて未来此村内の公共の利益の発達を図り、公共の弊害を排除し、社交上の進歩を為し、続いて御互の利益と云ふことに、もう一段効能の表ハれるやうにして願ひたい。
東京に自治協会と云ふのがありまして、其幹事を致して居る長沢徳彦と云ふ人が私ハ従来知合で、其人ハ各地の自治制度を詳細に取調べて其村の大いに進んで居るし、悪い町村ハさうでもありませぬが、能く取調べをして、或ハ書物に、或ハ雑誌に出して、今日の自治制を発達せしむるに努めて居ります、私も長沢から切りに請求されて、会員の仲間入りをして居ります、先頃何か其自治協会で集会があつた、私ハ差支があつて出席しなかつたのでありますけれども、全国で稍行ハれて居る地方自治の、先づ模範村と言ふべき人々、伊豆の稲取村と云ふ所、それから仙台の生出村、千葉県の源村、此三ケ村の村長・助役、若くハ小学校々長・教員などの人々を招いて、所謂摸範村と云ふことから其功労を表彰したことがあります、其表彰した事柄を一小冊子に組立て其一部を長沢から送つて呉れて、玆へ持参して居りますが、私ハ此一冊子を当村長さんに差上けて置きますからどうぞ御覧下さい、悉く皆様で御覧下さると云ふのも面倒ですから、何か機会がありましたら村長さんから種々斯う斯う云ふ有様だと云ふやうなことを、御話申す機会があらうと思ひますが、果して其三ケ村の、即ち自治制度の事柄ハ全部尽して居るものと思ハれる、さうするにハ先づ第一に村長が献身的に其村の害を除き、利を興すと云ふことに力を注ぎ、極く純朴にして村内の事務取扱、それから私交に至る迄綿密にすれバ、村内が洵に一致して、相鬩ぎ相争ふやうなことハ無い、供に利益を図つて行くものである、其三ケ村などハ、甚だ美しく見受けられる、即ち全
 - 第29巻 p.582 -ページ画像 
国の模範村と見得らるゝのである、故にさう云ふ善い風習ハ発達して行くやうに、さう云ふ点ハ成べく採つて利用するやうにありたいと思ひます、それからもう一つの冊子、是ハ各村の有様を記載した冊子で御座いますから、矢張り玆へ置いて参ります、更に其時に会合ハしませぬであつたが、芸州の比呂村と云ふ所、有名の海軍々港の呉から二里ばかり隔つた所で御座いますが、私ハ自治村の関係からハ一向に存じませなんだが、水力電気を芸州に起すと云ふことから、丁度比呂村に水利の大なる関係があるので、三十三年に実地を見て参りましたので御座います、もう至つて海浜で御座いますが、村長ハ藤田長夫と云ふ人で、水力電気のことで数々私ハ面会して知つて居りますが、議論も立つて弁舌もうまい、学問もなかなか出来る、従つて至つて篤実温厚の人だと見て居りましたが、果して此比呂村ハ自治制度の甚だ宜しい、模範村と言ひ得られる所で御座います、前に申した長沢と云ふ人ハ、特に比呂村迄出張して、実地の有様を見て、此藤田村長及助役と親しく面会をして、いろいろ自治制度の事柄に就て話して来たと云ふのである、是も或雑誌に記載してありまして、丁度持つて参つて居りますから、是等御参考迄に村長さんに差上げて置きますから、皆さんハ或時機があつたらバ、どう云ふことがあつたか、それを村長さんより御聴きなさる機会があらうと思ハれます。
是ハ先づ他方の美を御紹介するに過ぎぬが、果して自治と云ふものハ高く広い事柄であるとするならバ、唯今の芸州の比呂村、伊豆の稲取村、或ハ仙台の生出村、千葉県の源村などの例に倣つて、大に研究するの必要ハあります、真の自治制度と云ふ中でも、多くハ社交的に流れて、村内の平和を維持し、利益を供に興すと云ふ働きの上に、十分力を入れて居らないやうに思ハれる、此点に就てハ皆さんに御注意を請ひたいのである、当八基村などても、此自治制を若し拡張して行くと云ふにハ、もう一歩進めて、村内の公共利益を起すと云ふことに力を入れる工夫をするやうになれバ、面倒ハないと思ふ、と云ふのハ、此農業に就てハ、俄に利益を興さうとして、決して在られぬ訳でありますから、著しく同じ眼て見て、直ぐ変ると云ふことハ希望しませぬ併し世の中ハ変化がある、樹木にしても最初ハ小さかつたのが、段々大木となる、兎も角も昔ハ忘れられぬ、私が五十年あとの故郷を懐しく思ふのハ、是ハ人情であるが、更に此世の中の動いて行く、進運に伴ふて行かなけれバならぬ、如何に昔しが宜いと云つて、玆へ結髪で出たら可笑しいものでせう、矢張り髪ハ切らなけれバならぬ、今日昔の変つた衣服を着て出る訳にも行かぬ、世の進運に伴つて、事物の進歩と云ふことを考へなけれバならぬ、昔し夜になつて光線を取るのに種油、或ハ蝋燭に依らなけれバならなかつた、残念ながら昨夜の獅子舞などが、もう少し光線の工夫をしたなれバ宜く見られるのだつた、私共の年を老つた者にハ見えない、或ハ猫の眼でもなけれバ、何ぞ斯様の真暗でハ、あれが即ち光線の真の必要と云ふのである、深谷にハちやんと電灯が点いて居る、昔から油、蝋燭があるのに、電灯を用ゐるに及バないと云ふのハ、それハ極く頑固で、国の進歩を知らぬ者と謂ハなけれバならぬ、総ての事物、総ての方法がそれと同様に変化を
 - 第29巻 p.583 -ページ画像 
生じて来るものであります、一例を言ひますると、私の故郷の此地方でハ、総て藍作であつて、私共の居る時分にも、此藍が一番大切のものであつたと思ふ、父などが『藍田ハ家を興す』などゝ云つた、如何に此土地に藍作が関係したかを証拠立てゝ居る、又此土地が藍を作るのに、非常に適当の田地と思つて居つたのである、所が僅か三・四十年の間に、以前の摸様は少しもない、左様に望を属して居つた藍が、今日ハ大塚のあたりで一畝歩ない藍畑を一つ見たぎりである、深谷から此血洗島迄の間に、それを見たのである、匝《(上)》敷面《(免)》の煉化《(瓦)》会社の辺にも藍畑などハ殆ど見ぬ、皆な彼の印度のエンヂゴーの打撃を被むつたのである、所が其エンヂゴーが、他の鉱石の染料に大に撃れて、今日ハ印度のエンヂゴーハ尚且一掃されると云ふ有様である、丁度電気が盛んになつて、菜種油ハ要らない、菜種などを耕作してハ到底引合ハぬやうになつて来た、是から先き如何なる方法を講ずるかと云ふことハどうしても必要であると思ふ、又労力のことなども、此血洗島に大工場を興して、石炭をどしどし使つて、大なる馬力を以て、何か事業が興ると云ふことハ、私ハ覚束ないと思ふが、左様に進めませぬでも行末ハ或地方の水力を利用して、果して血洗島の、若し八基村に事業が興らぬ――、水力を利用する事業が無いと云ふことハ必らず無からうと思ふ、デさう云ふことハ矢張り事実の上から研究して行かなけれバならぬ、其研究ハ誰がする、人がある、其人ハ矢張り此地方の人が請求して行かなけれバならぬのであります。
元来私ハ、此議論と云ふものハ好まない、どうも維新の際にも、一体傾きがあつて、先づ第一に政治と云ふことに無暗に人間が傾いた、悪口に言いバ、猫も杓子も政治々々、イヤ英吉利の制度が宜いとか、イヤ亜米利加の政治が宜いとか、さう云ふやうな議論ばかりで、それで天下を治めると云ふのであるから、日本中が残らず之れになつて仕舞ふ、それで出る人ばかりであるから、農とか、商人とか、工業などゝ云ふことハ、からもう意気地のないこと、幕府が倒れて諸藩の士族が稽古をやつて働くのであるから、其幕府を倒した諸藩の中で、如何にも立身して働いた者が沢山ある、即ち元勲の伊藤・松方などゝ云ふのハ其種類の人である、斯く云ふ人が俄に発達して、政治程結構のものハ無い、一も二も政治、果して其理論が分つたかどうかハ疑問でありましたが、悉く政治に狂奔した時があつたが、憚りながら渋沢ハ政治を以て国が立つものでハ無いと思ひました、自分の力の及バなかつたのか知れませぬが、若し力が及んでも、是からハ寧ろ経済上の商工業に心掛けてやらうと、明治六年に官途を辞して仕舞つた、後ち三十四五年の間と云ふものハ、一足も政治に踏込んだことハない、ないばかりでなく、大に経済上に心掛けて、一体人間の人格と云ふものが低くつてハ、到底国の富を増す訳にハ行かない、其人格を増すにハ、是非此商工業でなけれバ出来ぬ、斯う確く信じて、己れ自身が信ずれハ、イヤ伊藤さん何かあらんだ、彼れハ政治を発達せしむべし、己れハ商工業を進めて、さうして国家を増進せしむると、斯く料見したのである、唯だそれ丈けの人間でなかつたかどうか、それハ疑問でありましたが、それから商工業に従事して、決して私の希望通りでハ無かつた
 - 第29巻 p.584 -ページ画像 
が、先づ之れが段々進め得られたのである、去りながら世に愧しい、貧困の身から、迚も人に信じられやうかと、心窃に心配をした、兎に角己れの信用を保つ丈けの思想を以てやらなけれバならぬと、先づ今日是迄に僅かながら保つて居られるのであります、併ながら明治六年の商工業と、今日の商工業とハ全然変化したものでありまして、矢張り其時の商工業者ハ、世の進運に伴ふて、大に其位置を進めて居るのである、人格も大変に進められてある、例へバ私の力がなくつても、左様数十年の間にハ、此商工業の発達ハ見得られたものでありませう去ながら前申す通り、政治界の規摸も数等進んだ、進んだと共に政治の仕方がどうしても中央集権が強いやうである、私共此点にハ余程考へねバならぬと思ふ、政治家の手腕を少しく気遣つて居る、丁度政治の傾いたのを累進して行つて………一寸斯う申すと分りにくいか知れませぬが、心の学問を先きにして、腕・身体の学問を後ちにしたから上面ばかりのものになる、又中央集権の制度と、地方分権の制度ハ全然反対の有様を為して居る、丁度人気合が、頭の方でばかり保つて居る、悪くすると脳病で、卒中になつて、死んで仕舞ふやうになるかも知れぬ、福助のやうな頭ばかり大きくつて、地方で少し学問でもある人ハ皆な都会に出て、商業をするとか、工業をするとか、地方ハまるでからです、即ち都会が首で、地方が身体で、身体の肉が瘠せて頭ばかり大いから、福助です、デ是等ハ決して地方自治の必要ばかりで申すんでハ無い、それでなくつても必要のものである、況や左様のことハ、将来も余程心掛ぬけれバならぬである、それ故に私ハ成丈け地方に、相当の事業を務めて興すことを心掛ねバならぬと云ふのである、前に申す、例へバ農事改良、工芸の進歩と、さう云ふことを地方に進めて行つて、健全体の国家を造らねバならぬと云ふのである、故に深く改良せぬでも宜い、又深く進歩発達を望むのでハないが、先づ此八基村で、既に引続いて居る地方に相当の設備をやつて戴きたい、是迄やつたことに、決して私の解釈ハ誤らぬ、鑑定ハ誤つてハ居ないと存じます、それであるから、先づ此八基村全般に弊害ありとすれバ、其方を矯めることに力を尽して戴きたい、言葉を換へて申しますれバ、即ち八基村の自治を拡張して、一方八基村に工業の興ると云ふことに諸君ハ一層御努めあらんことを希望して止まないのであります。
デそれを進めて行くに就てハ、今日一場の御話をした位でハ、迚も仕方がない、成程口にハさう云ふけれども、朝から畑へ出て、サクキリをして、夕に帰つて来て、どうしてそれが出来るものかと、併し私ハ必らず明日から実行して戴きたいと云ふのでハない、一ツ左様に形る工夫する途ハないか、又果して今日申上げたことが、実施せらるゝか否も分りませぬ、即ち諸君が若し此ことハ成程と御心付き下さいましたならバ、それこそ皆さんと図つて、左迄費用も掛けぬで、未来攻究あれかしと希望するのである、それハ第一に此学校に就て、先頃の話に基金が無いから可かぬ、兎角立派に保続して行けぬだらう、なかなか種々な災害等ハある、さう云ふ場合にハ之を維持するに、何を以てするか、基金が無い、故に今日の姿であると、先づ年々村費を以て之を維持して行ける場合ハ宜いとして、此先き不時の天災、水害等に遭
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遇するやうなことが無いとも限られぬ、一方で金を使つて、況ヤ年々教育費ハ相当に支出する、村費ハ多くなつて負担に堪へ得られぬと云ふ場合になつた時ハ、或ハ此学校ハ畢竟維持ハ兎も角も、事業蹉蹄ハ免れぬことである、其時に相当の基金が、少くも壱万円位の基金ハ無いと大に困る場合が生ずる、是非此位の基金ハ成立つやうに御尽力あらんことを願ひます、既に先達から多少御相談ハありましたが、更に今日ハ希望して置きます、先頃皆さんの御尽力で、一部の基金も立つやうになつて居りますさうで、洵に宜しいことである、併し此基金が満足に出来上れバ宜いがと、実ハ懸念して居りますけれども、唯だ学校さい宜けれバ、他のことハどうでも宜いと云ふのでハ無い、村内のものハ何事に付けても之を進めて行かなけれバならぬのであります、けれども兎に角必要の事項を攻究する上に就て、早く斯う云ふものが眼に着くものであるから、それから又どうしても、一の研究所のやうな、例ヘバ倶楽部か何か、どうしても無くてハならぬ、どうしても一人でハそれをやることハ出来ぬ、それ等ハ左迄費用を掛けないで、さう云ふ組立てハ出来んぢやないか、それで一つ問題を極めて、皆さんで議して下さる、其事柄と云ふのハ、先づ或農業肥料ハ耕作物に適当であるかどうか、例ヘバビールの原料になる大麦を作るにハ、どう云ふ肥料を撰ぶの宜い《(が脱)》か、能く出来さいすれバ普通より高く売れる、又麻ハ此地方で耕作してどんなものであるか、一例を挙げて言ふならバさう云ふやうな攻究をするので、矢張り農具のやうなもの迄、能く取調べて見なけれバ分りませぬが、是迄とても御互がさう云ふことなどを取質したことハあるまいと思ふ、唯だうつかり従来仕来りの仕事を其儘にやつて居ると云ふことでなく、是非取調べて見る必要があらう併しそれも消極的のことばかりでなく、もう一歩進んで積極的のこと唯今述べたやうなこと迄も能く御相談をして、さうして多少さう云ふことに力を入れて下さる方々を、村内で数人、若ハ数十人を挙げて、前申す通り講究費ハ左迄金を掛けずとも、是ハ御組立て得らるゝと思ふ、斯う私ハ希望するのであります。
それかハもう一つ《(らカ)》ハ、前に申した学校の基礎も立つやうでありますがそれに伴ふてどうしても学問を研究する場所が一つ必要である、それハ私が英吉利に参つて居りまして、英吉利の各地でハありませぬが、倫敦の直ぐ四・五里隔つた所の一村であります、其村にハ図書館がありまして、大変に華美にやつて居ります、或日向ふの人に連れられて彼の水城宮を見物に行く時に、其話を聞きまして、之れを見に行きましたが、向ふでハ総ての町村にあるとハ申しませぬが、少し篤志者の居る村とか、裕福の村にハ、学校若ハ学校の近所に図書館が設けてある、志ある場所を限つて、それにハ方法を定めて、いろいろの書物を集めて置いて、農事も、工業も、総て学理の攻究をすると云ふことである、是ハ文明の為めに力を尽す国ハ違つたものだと、深く私ハ感じたのであります、まア此八基村などハ大変に富んで居ります村で、皆さんが十分に御暮しなさると御誉め申て宜い、他の貧窮の村から申すと、耕作物も能く出来て、土地の産物も出来ます、先づ立派の村と申て宜しい、是ハ皆さんが能く御働きなさる結果で、尤も内部にも相当
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の費用ハ掛りませうけれども、故にもう一層皆さんが御注意したならバ、それこそ一般の村の資格を上げるのみならず、村内の富を増すと云ふことハ、必らず私ハ出来得らるゝものと思ふので、今の二つの希望を申上げたのであります、即ち今年すると云ふ訳でハないけれども是非玆へ図書館を、村として御設けになるやうに、又一つの倶楽部体のものを御設け下さるやう希望する。
それから商工業上のこと、自治制度を進めて行くと云ふことに就てハ丁度玆に各地の自治制度の雛形を、細かいものでハありませぬが、ほんの一小冊子でありますけれども、是等村長のやり方を見て、皆さんが御相談をして、それ等の形を移すなどハ、実に朝飯前のことだらう能く其形を移して、前申す如く、国家の魂を其所より入れてやりましたならバ、それこそ神聖なる大日本国民と言ひ得らるゝと思ふ、さうあつてこそ、私がたつて希望して居る村内に対する感情を、十分に尽し得るやうに思ふので御座います。
デ今日ハ決して演説を致す積りでハ無かつた、今申す御相談を試みやうと思つた、其ことハ寿太郎氏《(治太郎氏)》に話をした、併し私も一人に御話するより三人、三人に御話するより多数御集りの所が、皆さんの思召も承ハれる、又御相談にしても、一人でも、百人でも同じことでありますから、私共ハ差支ないと思つて、それで申上げたやうな次第であります、併し多数に我が意思を表白するにしても、演説会を開いてさう云ふ形をして、皆さんに御相談すると云ふことハ、蓋し私の本旨でハ無かつた、どうぞ玆で申上げた一場の御話が、若し六ケ敷いと思ふならバ、其ことは到底行ハれ得ないし、又行ハなくつても宜しい、唯だ詰り、私の希望を申上げるにハ、宜い機会でもあり、地方の感情に甚だ深く感じて居りますから、右の希望を申上げたのであります、其ことの行ひ得ると得ざるとハ、相当の御相談に依つて何れにでも宜しい、どうぞ左様の次第で、甚だ長くなりまして、御閑を潰しましたが、一番始めに申しました通り、私ハ同じ此土地で、同じ住ゐをして、同じに成長した者でありますから、決して変つた人間でも何でもありませぬ、唯だ華族とか何とか、此間名前を附けられて、皆さんから何とか思ハれるやうでありますけれども、決して違ハない人間でありますから、私の心ハさう云ふ位置にハ居らない積りでありますから、矢張り昔の――、昔ハ渋沢栄一郎と云ひました、さう云ふ心持で御相談下さる様に御願ひ申します。(拍手喝采)
  ○右の演説中括弧(「 」)内の文字は先生直筆の訂正加筆なり。
   ○本資料第二十六巻所収「諏訪神社」同日ノ条参照。