デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

7章 実業界引退
■綱文

第29巻 p.593-608(DK290194k) ページ画像

明治42年6月6日(1909年)

栄一、古稀齢ニ躋リタルヲ期トシ、第一銀行及ビ東京貯蓄銀行ヲ除ク関係各会社ニ対シ、ソノ職任ヲ辞退セント欲シ、是日、東京瓦斯株式会社専務取締役高松豊吉外二十名ヲ兜町ノ事務所ニ招キテソノ意ヲ述ベ、関係六十一会社並ニ関係諸団体・学校等十七ニ対シ辞任書及ビ書状ヲ発送ス。


■資料

(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK290194k-0001)
第29巻 p.593 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
五月十一日 曇
○上略
昼頃兜町ニ出勤、昨日佐々木・日下・市原ノ三氏打揃兜町ニ男爵ヲ来訪シ、男爵今ヤ齢七十、天下実業百般ノ興起ニ力ヲ尽サレ、其効果実ニ可驚モノアリ、今ニ於テ宜シク一切ノ繋累ヲ後進ニ譲リ第一銀行ノミニ止メ、世務ニ対シテハ専ラ責任外ノ元老ノ地位ニ居リテ、来ルモノハ拒マス、何事ニ対シテ何人ニ向ツテ敢テ助言添心ヲ辞セヌノ方針ニ改メラレ、之ヲ以テ晩年公ニ報スルノ方法トナサレン事ヲ切望ストノ意味ヲ以テ、切ニ忠諫シ、添フルニ建言書一通ヲ以テセラレシニ、男爵ハ意大ニ動キ直ニ大ニ意ヲ得タルモノナリ、早速貴意ニ従フヘシト確答セラレ、三氏ハ感涙ニ咽ハレタリトノ事ナリシカ、本日男爵ハ穂積・阪谷両氏及若主人ヲ招カレ、此事ヲ詢ラレ、更ニ予等ニモ申渡アリタリ
○下略
   ○中略。
五月二十九日 晴
○上略 男爵ノ会社其他関係職任ヨリ引退(五月十一日記事参照)決意ノ件ニ関シ細目ニ渡リ、種々評議アリ、其時期・手続等協議決定アリ会社類ハ第一・東京貯蓄以外ハ関係ノ厚薄ニ拘ハラズ一切辞任、公共慈善等ノ部類ハ銀行集会所・養育院・慈恵会・高商校・日本女子大学虎之門女学館・埼玉学生誘掖会・喜賓会等ヲ除キテハ、一先矢張一切ヲ辞任スル事トナレリ
五月三十一日 晴
○上略 夕兜町ニテ男爵諸方辞任手続ニ付テノ書面、招集等ノ事指揮ヲ受ケ夫々立案ヲ着手ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK290194k-0002)
第29巻 p.593-594 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月六日 雨 冷
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ、諸関係会社ノ業務担当者ヲ会シテ、都テ其職務辞退ノ事ヲ懇話ス、来会者中種々ノ論説アリシモ、切ニ之
 - 第29巻 p.594 -ページ画像 
ヲ慰諭シ、一同ト共ニ午飧シ、後更ニ談話ヲ継続セシモ、一同ハ尚各会社将来ノ事ヲ懸念シテ止マサリキ、午後三時散会 ○下略


竜門雑誌 第二五三号・第四七―五〇頁 明治四二年六月 青淵先生の各種関係事業引退(DK290194k-0003)
第29巻 p.594-597 ページ画像

竜門雑誌  第二五三号・第四七―五〇頁 明治四二年六月
    ○青淵先生の各種関係事業引退
我青淵先生の関係せらるゝ事業は従来頗る多方面に亘り、去三十七年大患の後之を辞退せられたるもの少からざりしも、日露戦争後各種事業の劫興に際し四方の懇請黙止難くして、已を得ず其請を容れられたるもの多く、従て知らず識らず以前に倍蓰する繁忙の身となられしが如何に時勢の要求とは云へ、一人にして幾十の事業に関係する事先生元来の本意に非す、何時か本業たる銀行専営の地位に復せんとは年来の志たりしも、其機を得ずして今日に至れり、然るに今年は恰も七十の寿に躋られたると、一面には事業界の状勢次第に進歩し、各会社夫夫皆適任者を有し、之が経営に聊か懸念すべきものなきを以て、旁々決算期に近づける此機に於て、先生本来の事業たる第一銀行及之に附随せる東京貯蓄銀行を除くの外、総べての会社に対し一切其職任を辞退せらるゝことに決定せられ、本月六日従来関係の深かりし左の諸会社の諸氏を兜町の事務所に招き、其旨を発表して懇ろに趣意の在る所を説明せられ、尋で同日附を以て左記の如き辞任書及書状を発送せられたり
   東京瓦斯株式会社
           専務取締役   高松豊吉君
           常務取締役   久米良作君
   東京人造肥料株式会社
           専務取締役   犬丸鉄太郎君
           取締役     田中元三郎君
   東京石川島造船所
           専務取締役   梅浦精一君
   東京製綱株式会社
           専務取締役   山田昌邦君
   東京帽子株式会社
           専務取締役   早速鎮蔵君
           支配人     土肥脩策君
   磐城炭礦株式会社
           取締役     佐久間精一君
           取締役     岡部真吾君
   日本煉瓦製造株式会社
           専務取締役   諸井恒平君
   株式会社帝国ホテル
           会計部長    小林武次郎君
   帝国劇場株式会社
           専務取締役   西野恵之助君
   日韓瓦斯株式会社
           専務取締役   岡崎遠光君
 - 第29巻 p.595 -ページ画像 
   大日本麦酒株式会社
           常務取締役   植村澄三郎君
   品川白煉瓦株式会社
           専務取締役   郷隆三郎君
   木曾興業株式会社
           取締役会長   大川平三郎君
   中央製紙株式会社
           取締役     田中栄八郎君
   株式会社二十銀行
           頭役      佐々木慎思郎君
   東京毛織物株式会社
           常務取締役   鈴木純一郎君
   京釜鉄道株式会社清算事務所
           幹事      脇田勇君
    辞任書
 拙者儀頽齢に及び事務節約致度と存候間、貴社「何何役」辞任仕候此段申上候也
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一

    書状
 拝啓、時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及ひ候に付ては、関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間、事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共、向後とて従来の御交誼上、必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間、其辺御承知置被下度候、此段申添候 敬具
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
辞任せられたる各種事業の名称及ひ職任は左の如し
   東京瓦斯株式会社取締役会長
   株式会社東京石川島造船所同上
   東京人造肥料株式会社同上
   株式会社帝国ホテル同上
   東京製綱株式会社同上
   東京帽子株式会社同上
   日本煉瓦製造株式会社同上
   磐城炭礦株式会社同上
   三重紡績株式会社同上
   帝国劇場株式会社同上
   日韓瓦斯株式会社同上

   大日本麦酒株式会社取締役
   日本郵船株式会社同上
   東京海上保険株式会社同上
 - 第29巻 p.596 -ページ画像 
   株式会社高等演芸場同上
   日清汽船株式会社同上
   東明火災海上保険株式会社同上

   株式会社日本興業銀行監査役
   十勝開墾株式会社同上
   浅野「セメント」合資会社同上
   合資会社沖商会同上
   汽車製造合資会社同上

   京釜鉄道株式会社清算人
   日清火災保険株式会社創立委員長
   大船渡築港鉄道株式会社同上
   東武煉瓦株式会社同上

   日英水力電気株式会社創立委員
   韓国興業株式会社監督

   北越鉄道株式会社相談役
   大阪紡績株式会社同上
   浦賀船渠株式会社同上
   京都織物株式会社同上
   広島水力電気株式会社同上
   函館船渠株式会社同上
   日本醋酸製造株式会社同上
   小樽木材株式会社同上
   中央製紙株式会社同上
   東亜製粉株式会社同上
   株式会社日英銀行同上
   万歳生命保険株式会社同上
   名古屋瓦斯株式会社同上
   営口水道電気株式会社同上
   明治製糖株式会社同上
   京阪電気鉄道株式会社同上
   東海倉庫株式会社同上
   東京毛織物株式会社同上
   大日本塩業株式会社同上
   日清生命保険株式会社同上
   品川白煉瓦株式会社同上
   韓国倉庫株式会社同上
   日本皮革株式会社同上
   木曾興業株式会社同上
   帝国「ヘツト」株式会社同上
   株式会社二十銀行同上
 - 第29巻 p.597 -ページ画像 
   大日本遠洋漁業株式会社同上
   株式会社帝国商業銀行同上
   株式会社七十七銀行同上
   大日本製糖株式会社同上

   日本醤油株式会社顧問
   石狩石炭株式会社同上
   東洋硝子製造株式会社同上

   東京興信所評議員会々長
   東京交換所委員
   早稲田大学基金管理委員長
   高千穂学校資金保管主任
   暁星学校拡張評議委員兼会計監督
   大倉商業学校協議員
   専修学校商議員
   大日本海外教育会々計監督
   日本倶楽部副会長
   神武天皇御降誕紀念祭大会監事
   高野山興隆会評議員兼会計監督
   富岡八幡宮修補会々長
   愛国婦人会顧問
   帝国海事協会評議員
   忠勇顕彰会評議員
   福田会名誉顧問
   興風会顧問
世間或は之を評して、先生の実業界に於ける退隠と為すものあるも、是れ肯綮を得たる評にあらす、先生は今後専ら其本業たる第一銀行に其力を尽さるゝのみならす、従来関係の各種事業に就ても必要の際には喜んで其相談相手となるべしと自ら語らるゝ程なり、然りと雖も、先生の我経済社会に於ける関係は爰に一時機を劃せるものにして、先生の歴史よりいへば実に明治六年の退官に次ぎての大段落と謂ふべく従て大に世間の注意を喚起せり、今之に対する世評の重なるものを挙ぐれば左の如し
   ○以下、六月十日東京日日新聞「実業界に於ける渋沢男」、六月十日東京毎日新聞「渋沢男爵の勇退に就て」等ノ記事略ス。
   ○尚、栄一実業界引退ニ就イテノ地方新聞記事ハ「竜門雑誌」第二五四号(明治四二年七月)第四七―五二頁ニ掲載シアリ。


竜門雑誌 第二五四号・第一三―二二頁 明治四二年七月 ○告別の辞(DK290194k-0004)
第29巻 p.597-603 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第一三―二二頁 明治四二年七月
  ○告別の辞
 本篇は青淵先生が関係会社の責任の地位を辞するに付きて、六月六日兜町の自邸に於て其会社の重役諸氏に対し心事を披瀝したる告別演説なり
    ○各種事業関係の由来
 - 第29巻 p.598 -ページ画像 
突然にお集りを願ひまして、殊に今日の御集会は私からお願ひせねばならぬ事柄でございますのに、それに宅へお呼立て申して甚だ失礼でございます、加ふるに休日の所を誠に御苦労でございます。
予てお話をしてあつて申上げるといふことでない、御聴き下すつたならば一寸突飛の御感じをなさるか知れませぬけれども、一口に申上げると、私が是まで御列席の皆様の御関係の各事業に付ては、或は取締役会長・取締役、若くは相談役等の名を以て、別して厚く御懇親も致し、場合に依ては御指導も致して参つたのでありますけれども、もうさう深く御仲間に這入らないでも、各会社の事業に付て御心配に思召すことはなからう、自身に於てもそれまでに及ばぬやうに考へますと云ふのが一つと、又一つには私も段々年を取りまして、御承知の通七十にもなります、限りなく各種の事業に関係致すといふ訳にも参りませぬ、折もあつたら少し時間を造り得るやうに致したい、それには従来の関係も成るべくたけ絶ちたい、斯う考へ来つたのでございますがさて何時が宜しいといふ区切もなくして、自然と従来の惰力で今日まで経過致しましたが、段々熟慮致しますと、いつまで経つても限りもなくなりますし、元来余り各種の事業に関係しますことは宜いとは自分も思つて居りませぬ、それも若し己れが去つて此重なる会社に懸念といふやうな場合でもございますれば、仮令自分は老衰したにもせよ又考直しもせなければならぬかも知れませぬが、熟々爾来の有様を考へますと、私が別段好い思慮を持つて居る訳ではありませぬけれども皆様が押立てゝ首脳にして下さる為めに、或は虚位に立つ嫌もありませうけれども、先づ今日まで大なる瑕瑾もなく、多くは各会社の脳髄の地位にお置き下すつたのは実に感謝に堪えませぬのであります、殊に今日此処にお集りを請うた各会社との関係は、皆会社が成立つてから都合に依て株を持つたといふのではございませぬ、都て自分が企てたと申しても宜い、又は其企てに付て当初から相談に与り、若くは其組立は以前であつたけれども、或る有力の人から厚い委託を受けて、我物の如き関係を以て尽力したといふものもございます、例へば品川白煉瓦会社の如きそれであります、何れも皆深い関係を持つて御相談に与つて居る訳であります、まだ此外にも相談役・取締役・監査役等の関係を持つて居るものも数個ございますけれども、さういふ従来成立つた所へ都合に依てお仲間入をしたのは、殊更に斯るお話を致しませぬでも御免を蒙るといふことだけで事足ると思ひます、併し皆様に対してはそれでは何分私の心が許しませぬ、詰り申せば自分は其初めからの組立に与つた訳でありますが、事に依ると段々とお人が変つて今日は其創業の際とは全く別人になつて居るといふのもある位ですから、前に申す如く段々地位も進んで、最早皆様だけでお差支を見ない斯う思ひながらも先づ第一に篤とお話を申上げて置かぬと、何だか不人情に突然厭になつたから止すといふ如き御感情を受けてはならぬ、仮令御免を蒙ると申しても、旧来の御交誼は飽までも変らぬやうに存続したいと思ひます、而して私が此の如く皆様の御関係の会社に辞任を申すからといふて、未だ明日吃度死ぬと限つた訳ではない、又何も老衰して世の中の事理を解せぬから、社会を退くといふ趣意でもござ
 - 第29巻 p.599 -ページ画像 
いませぬ、元来此世の中に立て事業をするに付ては、成るべく専業が宜いといふことは、誰が言ふまでもなく解り切つた話で、世の進みに伴うて専業が強くなつて参ります、極く卑近な例を申せば、此処に一村落が出来る、人の集る所、必ず其処には自分から製作する人もありませう、又其製作物を買うて費消する人もありませう、此間に立て物を供給する人は、必ず其場所の繁昌に従て変化するといふことは免れぬ順序である、甚しきは呉服も売るが茶漬も売る、味噌も売るが草鞋も売る、俗に云ふ万屋といふものは、是は何の理由から生じて来たか一業一品では決して其生計を支へることが出来ない、経済が立たぬからして、自然の勢さういふ訳になるものと見える、併し其土地が段々繁昌して、種々なる需用供給が進んで参ると、其間に呉服屋は呉服ばかりになるし、種物屋は種物ばかりになる、現に東京の有様は今日の繁昌に至らぬ昔日でも、稍々分業法が成立つて来た、僅かな一都府に付てもそれ位の訳でございますから、世の中のことは総て推して知るべしと申しても宜からうと思ふ、欧米の趨勢を見ましても、人文の進歩、学理の向上に従て、益々分業が強く行はれるやうに思ひますから人としては成るべく一に専らなるが宜いといふことは論を竢たぬ、然らばそれ程道理のあることを、なぜ私が是まで各会社に関係したかといふことに付ては、自ら非難もありませうけれども、私自らは已むを得ざる事情があると弁解致したいのであります。
    ○守旧的風潮と新事業
忘れも致しませぬ、明治六年に銀行者になつて、銀行の経営も遣つて見ましたが、殆ど其総てが意の如く行かないで、失敗に終らうとしたことがナカナカ数多かつたのでございます、其初め勿論自分に経験があるではなし、銀行といふ学問をしたこともない、日本に銀行といふ事業がありませぬから見知つたことは一もなかつたけれども――度々皆様には何かの折に申上げたことがあると思ひますが、役人をして居る際に、静かに考へて見ると、どうも此明治の新政府は政治観念ばかりが強くつて、経済観念が甚だ乏しい、殆ど一技一能ある人が都会へ出て来ると、総て如何なる希望を持つかといふと、皆役人になるといふ考、甚しきは教育機関を造つて、其教育に依つてしかも役人では一生を満足に送り得られぬ如き技芸を学んで居る人さへも、尚ほ商売人となることを恥づるといふ念があつたので、さういふ時代に銀行者になるといふのですから、自分の意念では是非此実業方面から社会の傾きを引止めるやうな途がありはしないか、といふことが自分の期念であつた、同時に商売人の位地が甚だ低い、又学問観念が甚だ乏しい、従て道徳とか徳義とかいふやうな気風が甚だ少ない、丁度明治六年に第一銀行が起りましたが、其前に政府の勧誘に依つて為替会社・開墾会社・回漕会社といふやうなものが出来た、所謂官の干渉に依て成立したもので、三井とか小野とか或は島田とか、大阪でもそれそれ旧来の豪家から選まれて其仲間に這入て組立てましたが、実地を取扱ふ人は其中の番頭さんで、御役人は唯政治の権力を持つてそれに干渉するに止まるといふ姿であつた、それは明治初年のことで私は其辺のことは能く知りませぬけれども、明治二年の冬に大蔵省の役人になつて様
 - 第29巻 p.600 -ページ画像 
子を見ると、右等の会社は一年余りに見事遣り損つてしまつた、三十九年にワイワイといふ勢で成立つた会社が多く失敗した、それと是とは違ひますが謂はゞ似たやうな有様で、左様に政府が力を入れて組立つたものが皆失敗してしまつた、私が出た時分、僅かに為替会社が一つ残つて、是も余程損をしたけれども、僅かに維持して居つた、而して一般の商売人はどうかといふと、兎角役人は、政治上に付ては特殊の智恵がありもしたでありませうが、商売関係に付ては理窟を以て商売のことを云ふ、迚もそれで引合の着くものではないといふやうな思入で、古風の商家は今のやうな実例から、改進的の商売人をば、平たく申せば山師といふやうな観念を以て迎へて、もうお役所へ出入をする洋服を着、時計を持つ商売人ならば、油断すな、権利とか義務とかいふことを口にするやうな商売人は、まるで流義違ひの商売人であるといふやうに、伊勢町・伝馬町の商人からは押並べて見られたのであります、それでありますから、明治六年に銀行は立てましたけれども古風な商売人は、吾々共を今に潰れるのだといふやうな観念を以て待遇されましたから、どうしても新旧の調和が程能く運びませぬ、試に第一銀行の経営当時の事を調べて見ますと、大抵三井と小野が出金して、三井と小野が其金を借りて、悪く言へば鼬ゴツコみたやうな商売をして、新しい方面に得意を開くといふことは十にして一とも言へない位の有様であつた、加ふるに前に申す通り、偶々教育を受けた実業的人間が出来ても、是等は実業界に入るのを以て、野に降るとか、イヤ官吏の権利を得ることが出来ないとかいふて、同じ給金ならそんな所へ行くものかといふやうな考を持つて居る、現に明治十三年頃のことであります、其事に付て私は大学総理――男爵加藤弘之さんに向つて、(今のやうに総長とは言はぬ時分です)貴方が斯うして化学や理学を教へて生徒を造るけれども、生徒は教員と役人より外にならないといふ観念を持つて居るのは間違つて居る、現に斯ういふ実例がありますといふて、瓦斯局で頼んだ所谷英敏といふ人のことに付て、大に不足を言ふて行つたことがあります、詰り瓦斯は民業に移るのだ、行今けば役人の栄誉を得られぬ、同じ給金ならそんな所へ行く奴があるものかといふやうなことで、生徒仲間に煽動せられて、切角出来た相談を断りに来たといふから起つた論です――そこで私は、是は困つたものだ、新旧思想の戦ひだ、新旧の戦ひといふて相対して攻撃をするといふ訳ではないけれども、己れ達の事業を誠実に黽勉に遣つて打勝たなければ、到底是は守旧商人を改進せしむることは出来ない、だから身を以て当るの外はない、幸に新思想の事業が成立つて行つたならば遂には成程と始めて守旧家が此方へ見傚つて来るやうになるであらう争つて見た所が益もない、謂はゞ論より証拠で事実に待つ外ない、元来自分の持論は其頃からして、日本の商売人は力が薄い、個々別々に遣つて居てはどうしてもいけない、又此公共の事業を進めて行かうといふ方の考から申せば、己れ一身の富のみ増すといふことは自分等は余り好まない、況や其時の政策としても、相当な智恵のある人を其処に使はうとしても、細い資本では少い報酬しか出せぬといふことは、当然のことでありますから、どうしても合本法に依つて、相当の報酬
 - 第29巻 p.601 -ページ画像 
を出して、良い人、智恵のある人を得なければ、学問の利益を受けるといふことも出来ない、故に事業の発達は合本法を以て進めて行く外ないといふのが、私の唯一の目的であつた、若し之を私の政策と云ひ得べくんば、それを普及することに努めたのでありました、そこで此改進主義を以て守旧主義に打勝つといふには、どうしても銀行ばかりではいけなくなつて来た、各種の事業に対しても、勢ひ手を着けなければならぬ必要が生じて来た。
    ○先づ物質的事業に着手す
其頃から王子の製紙会社に――確か銀行に従事した翌年に関係をし始めた、是は外国人から聴いたか自分で考へたのか、紙といふものは文明と離れないものだ、真正の文明を進めやうとするには、日本の紙を改良しなければいけない、少し突飛な立論のやうではあるけれども、此紙の事業といふものが文明を進める一大要素である、新聞紙にしても書籍にしても、総て学問といふことに付ては紙が必要である、続いては印刷法といふものが簡便に且緻密に出来なければならぬから、印刷事業に力を入れるが宜からうといふことであつた、けれどもそれらの事は人文の進歩といふ方で、物質的事業の進歩といふ考でなかつたのですから、深く力も入れませなんだが、海陸運送――即ち鉄道・船舶といふものに付ては、特に力を入れざるを得ぬやうに考へた、尤も海運に付ては――明治七・八年頃から岩崎氏が大に力を入れて居つた其前に私が官に居るときに郵便蒸汽船会社といふものが出来て居つたが、是も前に申すやうな政府関係の事業で、担当者其人を得なかつた為めに、旨く行かない、岩崎氏の汽船会社に対して両立が出来ない、遂に此会社も三菱に合併してしまつた、そこで十三年頃には、唯三菱ばかりに海運事業を独占させるのは甚だ宜しくないといふので、種々なる方面から反対説が出て来て、遂に共同運輸会社といふものが成立しました、是等も私は銀行者として、力を添へざるを得ぬ為めに賛成の位置に立つた、それに付て当時、三菱攻撃は殆ど渋沢が発頭人であるとまで看做されたのでありますけれども、それらの事は後に段々解つて、明治十八年には其共同運輸会社と三菱とが合併した、其合併した後更に数年を経て、私も遂に日本郵船会社の取締役にならねばならぬやうに相成つて、今日まで其地位に居る次第でございます、又工業に関係したのは先づ紡績業です、是は明治十年からの事であります、いつも戦争があると事業が膨脹する、日露戦争は最も激しかつたのですが、彼の西南の役後、十一年十二年の頃も輸入の超過といふものはナカナカ激しかつた、今日から云へば其数字は少いが、其時の有様から見ますと異常に荷為替が殖えて来た、其時分には総ての輸入品が神戸に這入らずに横浜に這入つて来たので、私の銀行でも俄に商売が殖えて来たといふて訝かる位であつた、普通の商売は甚だ乏しいと思つて居つたけれども、戦争の為めに大に変化を惹起して同時に是は大変だと思つた、向後木綿物に付ては残らず日本人は外国の品物より外扱ふことは出来ぬやうになつてしまふに相違ない、どうかして之を内地で作ることが出来ないものであらうかといふのが、紡績事業に力を入れなければならぬ動機であつたのです、其他絹織物又は製麻、この事
 - 第29巻 p.602 -ページ画像 
業も多くは右に述へる理由によりて創立するに至りました、又瓦斯事業は其前からして、東京府の共有金の関係から私が担任して居りましたから、是も相当の時機に自分の主義の合本法に依つて、東京府の関係を離れて民間で経営するが宜からうと思つて居りましたが、遂に十八年に民業とすることになりました、さういふ訳でどうしても社会の物質的事業を勢ひ自ら拵へて、さうして此銀行事業と良いコンネクシヨンを造るより外ないと考へた、又それが実際急務であつた之が彼是と遂に多数の仕事の関係を殖した所以である、恰も前に申す草鞋も売らなければならず、味噌も売らなければならず、反物も売らなければならなかつたといふのは或は時代の要求と申して宜からうと思ふ。
    ○時代の要求と責任解除
が併し何時までもさういふ時代で居るものではなからう、既に其時代の要求は満足した、また多少不満足があるかは知りませぬけれども、追々に改むべきは改めなければならぬと、自分も思つて居りました、私に対して近頃余り各種の事業に関係が多いといふ非難もあるから、それで俄かに心を動かしたといふ訳でもありませぬ、年を取りましたから多少用を節したいといふのは、勿論重なる原因ではございますが併し全然老衰したから社会を御免蒙るといふ趣意でもございませぬ、併しながら前に申すやうな事情で、今日御集りの皆様の御関係の事業に付ては、殆ど己れが首脳の位置に立つて今日に至つたのであるが、熟々将来を考へて見ると、もう皆様で充分遣れるのである、私をお引止めなさらぬでも宜い、多少居つたのが宜いと思召すこともあるか知れませぬけれども、是非引止めなければならぬといふ程の必要もないであらう、さういつまでも各種の事業に関係するといふことは、勿論好ましいことではない、殊に大勢も今申上げた通であるとすれば、此辺を以て任を辞するといふは最も適当であらう、斯う考へまして、今日を以て第一に情合の厚い関係の深い皆様の各会社の任務を解いて戴きたい、而して任務を解いて戴くといふには、唯一片の辞表を以て御免を蒙るといふことでは、別して交誼の厚い皆様に対しては不親切の行動に相成ることを恐れまするので、失礼ではありますが、今日御集りを願つて私の衷情を申上げた訳でございます、さういふ訳なら仕方がない、自分等でどうか工風をして遣らう、併し行掛があるから多少の相談をしなければならぬと、斯ういふことでございましたら、仮令行掛がなうても、経済界を全く御免蒙るといふ訳ではない、御相談に応ずるといふことは辞さぬどころではない、或る場合には喜んで御相談に応じまする、併し死ぬまでも此多数の関係を継続するといふことは、余り智恵のない所作と心得ますから、玆に皆様の各会社に向て、是非今日の責任の位置をば解除して戴きたい、是は即ち今日お集りを請うて申上げる要点でございます。
    ○辞任後の衷情
御願のやうなことを御呼立して申上るは失礼でございますが、今述べた理由はいろいろ混淆して居りますから、事理明晰とは申されぬかも知れませぬ、約めて申すと、第一に年を取つたから、親戚も朋友も少し用を減すが宜いではないかと申されるけれども、一つ減し二つ減し
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といふことは、どうしても出来ない、それで辞するといふ以上は、総てを御免蒙らなければならぬ、其中には斯ういふ行掛があるから、此始末を付けないで引いては困るぢやないかと、斯う思召される方があらうと思ふ、例へば岡崎君の日韓瓦斯会社の如き、犬丸君の人造肥料会社の如き、西野君の帝国劇場会社の如き、お前に頼まれて遣つて居るのに、其頼んだ人が手を引いてしまつては、後の始末はどう附けるといふやうなお小言が必ず出るだらうと思ふ(お小言ではなからうけれども)さういふやうなことは、必ず行掛上御相談に応じて取纏りを附けねばなるまいと思ふ、小林さんのホテルに付ても同様であります梅浦君の石川島造船所にしても、己れは近頃這入つたのに出し抜いてしまふといふのは怪しからぬ、其の他にも多少さういふことはありませうけれども、それを一々考へて居りますと矢張元の通になつてしまふ、結局死ぬまで止めることは出来ぬといふことになる、或は今年に限つたことはないかも知れませぬが、七十の年が二度ある訳でないから、今年を以て期限とする外なからう、されば此機を以て御免を蒙るといふ考を起しまして、遂に其中の最も密接の関係を有し、最も御申訳をせねばならぬ皆様に今日御集りを請うて、衷情を吐露する次第でございます、もし非難論者から言ふたら、それはお前の己惚だ、余計なことだといふやうなこともありませうが、それは人の見やうで、言ふ人は言へ、知る人ぞ知る、敢て頓着はしませぬ、誹られたからどう讚められたからどうと、人言に依て動かうとは思ひませぬ、是まで既に兎角の批評を受けたのでありますから、止めるに付ても亦批評があるでありませう、孔子は四十而不惑、五十而知天命、六十而耳従、七十而従心所欲不踰矩、といふてあるが、私は今日矩を踰えるのか踰えぬのか判りませぬが、只人言に依つて心を動かしはせぬ積りであります、讚められたから遣る、誹られたから止めるといふ趣意ではない、唯折があつたらあつたらと考へて居りましたが、それからそれと種種の関係が生じて区切りが着かない、実は先年病気以後余程各種の関係を減省した積りでありましたが、人から言はれると何時でも余儀なくなるのです、併し其余儀ないといふ間には、自ら余儀なくしたといふ気味も無いではありますまいが、さういふことは既往のことですから、人に向つて苦情も言へず、又自らも唱へない、今日申上げた所を以て、どうぞ是非共御免を蒙りたい――何と仰せられても、斯う考を定めました以上は御承諾を願はねばなりませぬ、其為めにもしもお親みが薄くなるといふやうなことでは困る、私は皆様の会社に対しては何処までも株も維持して居ります、御相談があつたら何時でも応ずる積りである、併しもう事実に就てさう御相談相手にならぬでも、十分に行けるに相違ない、なれども此上は強いて御引留め下さるといふことは此まで必要のない上に、それでは私を愛する情が薄いといふものではないか、深いお交りであるからは左度《(マヽ)》の事は寧ろ喜んで下さるべき訳で、成程仕方がない、さういふ訳なら他日必要の時には相談に来ると、快然と斯う仰しやつて戴きたいと思ひます、甚だ長たらしく申上げて前後不揃でございますが、宜しく御諒承を願ひます。(完)
○下略
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(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK290194k-0005)
第29巻 p.604 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
六月六日 日曜 雨
本日午前十時ヨリ男爵ハ関係会社中最深キ関係アルモノヽ専務者二十二・三名ヲ兜町ニ招キ、最早老年ニ及ヒタル為、一切ノ兼業ヲ廃シ元ノ銀行専業ニ復シ、アトハ諸氏ノ経営ニ待タントス、将来トテモ従来ノ縁故上応分御相談ニハ応スヘシ、今日来会ノ諸氏ニハ玆ニ衷情ヲ懇談ス、願クハ了意アレトノ意ヲ披露セラル
 (欄外)
 予ハ一人一業論者也、予ノ兼業ハ時代ノ要求不得已為ナリシ、今ヤ諸事業発達シ最早予ノ兼業ヲ要セス、兼テ之ヲ廃スル事ヲ心ガケシカ今ヤ齢七十ニ及ブ、且後進諸君充分担任スルニ足ル、之レ今回辞任ヲ決セシ所以ナリ云々
何レモ突然ノ事ニシテ来会者一同意外ノ感ニ打タレ答ノ出ル所ヲ知ラズ、結局近日会合篤ト協議スヘキニツキ暫時猶予ヲ乞ヒタキ旨(梅浦氏代表)ノ申出アリシモ、男爵ハ熟考ノ上堅ク決意セシ上ノ事ニテ只御懇意上熟談ノ為御来車ヲ乞ヒシ事ナレハ此上再考ノ余地ハ無シ、中ニハ困却ヲ感セラルヽ向モアランカト想像スレトモ一ヲ棄テヽ一ヲ採ランニハ到底断行シ能ハス、御了察ヲ乞フ所以ナリト明答アリ、食後モ如此問答ノ末、一同ハ男爵ノ真意ハヨク了解シ三時頃退散
本日ノ来会者ハ久米・高松・犬丸・田中・梅浦・山田・諸井・西野・岡崎遠光・小林(ホテル)・脇田(京釜)・佐久間精一・岡部真五・早速土肥・郷隆三郎・佐々木慎思郎・植村澄三郎・大川平三郎・田中栄八郎等也、就中西野氏ノ如キハ約束上予ハ男爵ト進退ヲ共ニスナドヽ明言スルモノアリ、氏ハ予等ハ専業的人間也、男爵ナドハ当然大体達観指導的兼業的人物ニシテ死ニ至ルマテ数十百ノ事業ヲ視ルコソ本分ナレナドヽノ意見ヲ吐露セリ
六月八日 晴
○上略
藤村氏方ニ品川白煉瓦ノ重役会ニ臨ム、男爵ガ相談役辞任サレシニツイテノ相談也、致方モ無キ事ナルニツキ結局向後不相変陰ニ陽ニ御眷顧ヲ乞フノ外ナシトノ事ニ決ス、昼兜町ヘ出ツ
男爵引退ノ事今朝時事・報知ノ二新聞ニ出ヅ、依テ兼テ用意ノ諸方辞任書発送ス、新聞探訪員続々来訪ス、今日ハ慶喜公兜町ヘ来臨ノ上昔話アリ、御伝記編纂用ノ為也、予ハ夕帰宅


竜門雑誌 第二五四号・第二二―二六頁 明治四二年七月 青淵先生の二大決断(DK290194k-0006)
第29巻 p.604-607 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第二二―二六頁 明治四二年七月
    青淵先生の二大決断
 左の一篇は六月二十四日竜門社評議員会席上に於て、青淵先生が実業界勇退と渡米の二事に就て同社員に告白したる演説筆記なり
○退官と理想 此機会に於て一身上に関する二つの事を申上て置きたいと思ふのでございます、それは御承知の通、私は従来各種の事業に関係して居りました、即ち各種の会社の取締役若くは相談役・監査役として……其数はナカナカ少くなかつたのです、けれども熟々考へて
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見ますると、何時までもさう種々の事務に関係するのが相当とも思ひませぬ、尤も其の此に至つた所以を尋ねると已むを得ない事情があると私は思ふ、回顧すれば明治六年に私は第一銀行に入りました、此第一銀行に入りましたのは、自ら好んで入つたので、而して自ら入つたと云ふのは或は私経済の意味もあつたかも知れませぬが、より強い考は此商工業といふものを発達させなければならぬ、商工業の発達を謀るには合本法に依る外はない、自分は従来漢学も洋学も学び得た事もなし、亦熟練し得た事もない、何が我が才能に通ずるかといふことは甚だ選み兼ねたけれども、先づ銀行業などは是から先き丹誠して、一方には其学理をも研究し、実務も練磨して行つたならば、或は遣れはしまいかと思ひ、又一つには其時分の商工業者の一体の思入が甚だ卑屈であつて、一般の社会からは大に卑下されて居たといふことは、少し年を取つた御方の能く承知せらるゝ所である、斯の如き微力、斯の如き品格では、迚も国を富すことは出来ない、不肖ながら自分は幾らか他の模範にならうといふ理想を持つた、そこで第一銀行に入つたのである、ところがさて第一銀行の仕事を遣るに付て、とんと行支へたといふのは第一にお得意がない、詰り三井とか小野とかいふ株主が我金を出して銀行を組立て居るとは云ふものゝ又其人達が銀行の金を借りて行く、俗な言葉で言へば鼬ゴツコをするやうな有様で、新しい得意を容易に見出すことが出来ない、左様な有様で如何なる結果を来したかといふと、明治七年には小野組が破産した、小野組破産の結果第一銀行は創業早々大失敗に終らんかと掛念せられた、併し幸に貸金には担保品もありましたので破産の場合に至らずに済みましたけれども兎に角当時の情勢はさういふ姿であつた、詰り其頃の商売の中心は堀留とか伊勢町とか伝馬町とかの辺にあつた、今は少し其区域も動いて来したけれども――其中心地の有力なる商売人――其内には今でも有力の者もありますが先づ杉村とか、塚本とか、或は小林とか、丁治とかいふやうな重立つた商人は、成るべくたけ我々改進主義の商人をば遠けるやうに心懸けた、蓋し今に潰れるだらうといふ危みを以て待遇して居つた、此姿では迚も改進主義の商売人の範囲を拡めることは出来ない、如何にもして守旧主義に改進主義が打勝つといふ時代にならなければ、自分の理想を実行することは出来ない、と斯ういふ観念を惹起した
○富国的観念と各種事業 さういふ念を別して深く起したのは明治十年頃と思ひます、十年の戦争の変化から事業が進で来る、此辺時機ではないかといふ観念を強く起したことは今でも覚へて居ります、それから種々なる工業に力を入れなければならぬといふことを頻りに思ふた、其前に保険事業とか運送事業とかいふやうなものは是非なくてはならぬと思ひ、運送事業は私が政府に居る時分郵便汽船会社といふものを前島さんの力に依つて組立つた、併し是は段々衰へて、とうとう三菱と合併してしまひました、保険会社も其時分に組立てた、併し真に工業に力を入れたのは今申すやうに多分十一年頃から最も其念慮を強くしたやうに覚えて居ります、さて運送会社は段々三菱の手によつて成立つて来ましたけれども、保険会社は私が世話をして発達を謀つ
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た、併し運送業に付ては三菱のみでは如何あらうかと云ふ掛念から他に一の事業を起さうといふので共同運輸会社といふ三菱に対する競争会社を造つた、爾来五年七年と経つ間に追々株式組織の利益を人も知るやうに為り、従て人も力を入れるやうになつて来た、迚も其中の重なるもの即ち保険事業などは中々普通の商業資本では成立し難いもので、其時に武家華族十数名横浜鉄道の引受け方を勧誘した、所が日本鉄道が成立に付て横浜鉄道の引受が沙汰止みと為り、其払込んだ金が残て居りますので、頼む様にして保険と紡績業とに其資金を入れて貰つたといふことが、抑も其会社を起す主因と為り、従つて私が自然と種々の事業に手を出す原因になつたのであります、明治十八・九年頃からは独り大阪に於ける紡績事業のみならず其他にも手を着けた、製麻会社・織物会社・煉瓦会社・人造肥料会社等の創設に力を尽したのは大抵明治二十年頃から二十一・二年頃の間と思ふ、斯く種々の事業に関係する念慮の起つたのは、銀行業の得意を造らなければいかぬということを深く期したのが原因である、明治十一年頃と覚えて居るが銀行は何を得意にするか、預金者ばかりを得意とするものではない、同時に金を借りる人を得意に持たなければ銀行事業の発達する道理はない、恰も好し亜米利加のバンカースマガジンにも同様の事の書いてあつたのを見て、私が一の論文を書いたことがあります、それらが最も各種の事業に手を出す原因に相成つて其事柄が一年々々に進んで参つて、自分の力が一向強くなつた訳ではなかつたけれども、関係は年一年に殖えて来て、過日辞表を出して見ると、是ほどの事業に関係を持つたかと自分ながらも可笑いやうに感じました
○実業勇退の真意 元来どのやうな人でも左様に無限に多数の仕事に能力の届くものでないことは明かである、其初めの期念は今申上げるやうな事情であつて、自身と雖ども左まで間違つた料見ではない、当時に於ては実に已むを得ぬことであつたと思ふけれども、何時までも之を継続するといふことは適当でなからうと思ふ、さらばと申して私が明治六年に商人にならうといふ念慮を起したのは少しも誤つては居ないと考へますから、棺を蓋ふまで其主義をば立て通したいと思ひます、其間に時々自らは動いた積りはありませぬけれども、他より動かされたことは幾度もあります、併ながら幸に今日まで継続し来りましたから、矢張此実業界に身を置きて微力乍らも力を尽して行きたい積りでありますが、併し何時までも昔日の有様を継続すべきものではなからう、況や其時代から比較して見ると、申さば皆背丈が伸びて最早十分に独歩みが出来るやうになつたのでありますから、或る場合には私の居つた方が多少為めにならうかとも思ひますけれども、今日はもうお別れ申す時機であらう、と斯う思ひましたので、先日から其事を関係の向々に申出でた次第であります、併し第一銀行は其初私の商人となつた場所でありますから、経済界を全く退くといふ場合でない限りは――それも余り老衰したら職務を全うすることが出来ませぬから継続して居るのも宜くないと思ひますけども、未だ夫程に老衰したとは思ひませぬ、或はしたかも知れませぬけれども――それ故に第一銀行の事業に就てはもう少し微力を尽したい、皆様にさう嫌はれぬ以上
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は――そこで他の場所は丁度七十といふ時でもあり、此辺を機会として是非区切を附けたいといふ考で、本月の六日に其事を申述べるために此処へ御出を願つた人もございますが、未だ残らずは片附きませぬ或は拠所ないから同意したとか或は同意しないとかいふて未だ押問答をして居る分もございますけれども、私の期念は、たとへさういふ事を言はつしやる方があつても、一旦申出した以上は非を遂ぐるといふ訳ではないが、困るといふから又留るといふでは何時までも極りが着きませぬ、殊に情合は勿論変りませぬし、此先とても何か御相談を要することがあれば之に応ずる覚悟で、必ずしも一切拒絶するといふ趣味ではない、従来自分が多くは首脳の地位に立つた会社のことでありますから、仮令其会社の重役の位置を離れても己れ経済界を退かぬ限り其関係は従来と変らぬのである、況や私は相当の株主でもあるし、其株を今売つてしまふなどゝいふ意味では決してない、さすれば情態に於て少しも変るところはない、唯表面の職務を御免を蒙つたに過ぎないのであるから、そんなに力をお落し下さることはあるまいと申して、頻りに押問答の部分に対して同意を請うて居るといふ次第でございます、之が私の一身上に大に変化を来した点でありますから、竜門社の評議員諸君に一応申上げて置きます
○下略



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一四巻・第一〇八頁 昭和一一年六月刊(DK290194k-0007)
第29巻 p.607-608 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一四巻・第一〇八頁 昭和一一年六月刊
    財界の重鎮渋沢男=引退声明
〔六・九 ○明治四二年東朝〕 実業界の重鎮渋沢男爵は、当年古稀に達したるを機とし、第一銀行頭取・東京貯蓄銀行会長・銀行集会所会長・銀行倶楽部委員長を除き、他の数十会社の重役は、一切辞退する事に決心し、去る六日兜町の渋沢事務所に関係者二十余名を招きて其旨を開陳せり、右につき老男爵は、往訪の記者に語りて曰く、明治初年官命により為替会社・開墾会社抔、数種の会社設立せられた、其事業は新式なるも其経営者は旧思想にして、資本と事業とが連絡を欠きたるため為替会社以外は間もなく閉鎖の悲境に陥りたり、余は明治二年大蔵省に入りたるが、越えて四年、今の伊藤公が米国より帰朝して銀行設立の急務をとかれたり、余は平素より文明の基礎は富にありと信じたるに、其当時人才は競ふて政界に群がりたり、されば余は此時伊藤公の説に賛して、自ら其衝に当らんと欲したり、然るに時の大蔵卿たりし今の井上侯は、頻りに余を引とめられ、余も亦太くその知遇に感じたればつゞいて執務せる折柄、井上侯は政府と相容れざる身となりて、六年五月三日突然辞表を提出せられたり、是に於て余も官を辞したり其時予の関係せるは即ち第一銀行なり、当時我財界に於て新旧二種の潮流あり、その旧派は堀留より伝馬町辺の大問屋にして、明治初年の諸会社が失敗せるをみて、何れも新事業を嫌忌して容易に銀行と取引せず、仍て差向き資本の不足に苦しむ銀行の為めに、多数の顧客を造るの必要もあり、又遠大の希望としては、如何にもして新事業を発達せしめ、之を中心として富国の実を挙げんと欲したり、余は元来実業一元主義を抱き、一事業に専任すべき方針なりしに、事志と反し、新
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旧両潮流の間に立ち、此二種の必要条件として保険・紡績・織物といふ順序にて、却て今日まで数十の会社に、やむなく関係する身とはなれり、然るに今日に於ては、其内二・三の会社を除きては、いよいよ完成して鞏固なる基礎の下に相当なる利益をあげつゝあり、而して其経営者又は其使用人は何れも学識・人格まづ整ひて、余が最初財界に身を投じたる二大必要条件は既に完備せり、されば今日余が此等の諸会社と直接の関係をたつも、何等の心配なき次第となれり、余は心身共に尚壮健なりと雖も、一人にて万事に精通する能はざるを以て、折をみて退隠せんとは、常に余が胸中に描きたる希望なりき、恰も当年七十歳となりたれば、之を句切として愈々財界より退隠する事に決したり、尤も第一銀行は余が財界の人となれる最初の紀念なるを以て、臨終の際までは其事務に鞅掌する積りにして、東京貯蓄銀行・銀行集会所・銀行倶楽部には、第一銀行の関係上従来通に留職する考へなり余は今後之まで重役を務めたる諸会社とは直接関係を絶つと雖も、多数の株を所持する事とて、利害関係は依然たると共に、徳義上相談に預る事に吝ならざるべく、特に目下整理中にある二・三の会社に対しては、之が終結を告ぐるまで其職責をつくす決心なり、但し東京市養育院・東京高等商業学校・早稲田大学・日本女子大学の如き教育又は慈善的事業とは、決して絶縁せざる考へなり云々。