デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

9章 雑資料
3節 自動車乗用
■綱文

第29巻 p.635-637(DK290203k) ページ画像

明治42年6月30日(1909年)

是ヨリ先、明治四十一年十月ヨリ栄一自動車ヲ乗用トス。

是日大磯ニ伊藤博文ヲ訪問ノ帰途、自動車事故ニヨリテ負傷ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK290203k-0001)
第29巻 p.635 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 晴 軽暖             起床七時三十分 就蓐十一時三十分
○上略 午後一時過日比谷公園ニ抵リ、自動車試運転ヲ見ル、自分モ乗試シノ為メ霞ケ関辺ヲ通過ス、運転自在、頗ル快ヲ覚フ ○下略


竜門雑誌 第二二四号・第四三頁 明治四〇年一月 青淵先生自働車に試乗せらる(DK290203k-0002)
第29巻 p.635 ページ画像

竜門雑誌  第二二四号・第四三頁 明治四〇年一月
○青淵先生自働車に試乗せらる 青淵先生が今回創立委員長となられたる日本自働車株式会社発起人は、本月八日午後一時日谷比公園にて乗合車試乗を行ひ、当日は許多の紳士を招待せられしが、先生には同日特に国府津より出京して、同公園より霊南阪方面まで試乗往復せられたり


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK290203k-0003)
第29巻 p.635 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年   (八十島親義氏所蔵)
一月八日 晴 暖
○上略 午後男爵ニ従ヒ日比谷公園ニ至リ、自働車会社発起人ノ招ニカヽル試乗会ニ臨ム、乗合自働車ノ見本ニシテ、車中二十人乗、屋上二十人〆四十人乗ノモノ也、進退動止、左右転動自由自在ニシテ、松本楼前ヨリ公園ヲ出テ、霞ケ関ヲ上リ、蔵相官邸前ヨリ青山行街鉄線ヲ三宅坂ニ下リ、順路公園ニ帰ルニ十五分間、乗リ心地ヨク、且緩急自在故危険モ少キ事ト信シタリ ○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK290203k-0004)
第29巻 p.635 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
十月二十五日 晴 冷
○上略
此夕始テ自働車出来シテ試乗ス
   ○中略。
十二月二十日 晴 寒
○上略 吉田真太郎氏来リ自働車ノ事ヲ話ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK290203k-0005)
第29巻 p.635-636 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月五日 曇 冷
○上略 午前九時小松原文部大臣官舎ヲ訪問スル為メ、自働車馬場先ニ抵リテ自転車ト衝突ス、幸ニ瑣少破損ニテ双方ノ人ニ負傷ナカリキ、依
 - 第29巻 p.636 -ページ画像 
テ人車ヲ雇フテ文部大臣邸ニ抵リ、中野武営氏ト共ニ高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略
六月三十日 晴 冷
○上略 午飧後自働車ニテ大磯ニ抵リ、伊藤公爵ヲ訪ヒ韓国行ヲ送リ要務ヲ談ス、帰路平塚ニ抵リ自働車顛覆シテ行路ヲ継続スル能ハス、依テ平塚ヨリ汽車ニテ帰京ス ○下略
七月一日 曇 冷
午前七時起床、昨日負フタル疵所ノ為メ入浴スルヲ得ス、洗面シテ後朝飧ヲ食ス、今井清彦氏来話ス、堀井医師来診ス ○下略
七月二日 雨 冷
午前六時起床、疵所アルカ為メ入浴ヲ廃シ、洗面シテ後日記ヲ編成ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK290203k-0006)
第29巻 p.636 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
六月三十日 晴夕ヨリ雨
○上略
男爵本日午後自働車ニテ大磯ヘ伊藤公(新統監引継ノ為、本日韓国ヘ出発)ヲ訪問セラレ、帰途平塚付近ニテ道傍老人《(ノ脱)》ヲヨケル為、老人ニ少々頭部ニ裂傷ヲ与ヘ、自働車ハ速力ヲ緩メツヽ片輪道ヲフミハズシ田畦ヘ横ニ倒レ、男爵ハ右手三本ノ指ニ擦過傷ヲ負ハレシ椿事アリ、夕刻電信力ヽリシトキ頗驚愕セシガ、左程ノ事モナク先ツ先ツ仕合ナリシ、堀井氏夜兜町ヘ来車、早速治療ニ従事、自働車ハ夜半王子ヘ帰ル


竜門雑誌 第二五四号・第五八頁 明治四二年七月 ○青淵先生の負傷癒ゆ(DK290203k-0007)
第29巻 p.636 ページ画像

竜門雑誌 第二五四号・第五八頁 明治四二年七月
○青淵先生の負傷癒ゆ 青淵先生は、伊藤公爵が大磯を立ち韓国に行かるゝ前に是非とも会談を要する要務ありしかど、世務多事、容易に緩談の機会を得る能はず、六月三十日今日こそはと正午銀行集会所の要務を済まし、午後六時兜町事務所に於ける要務の間合を計り、午後一時自働車を駆つて大磯に赴きぬ、頓て会見を遂げて午後四時頃帰途に就き、平塚の手前に差掛りしとき、行途に当り老人と若衆の余念なく連立ち行くあり、怪我させてはならしと、俄に速力を緩めて頻に笛を鳴らし、注意を喚びしかど、老人は頓と知らざるものゝ如く、兎角する中に車の近けるに気付きけん、慌てゝ右に避け左に惑ひ、車上の柁手も亦左に右に柁を転じつゝある一刹那、右側の道端に踏外づして車体は田圃の畦道に横倒れと為りぬ、幸に先生は右指三本に擦過傷を帯びたるのみにて、格別のこともなく、直ちに汽車に乗りて、午後七時半無事帰邸し、自働車は村人の手を仮りて畦道より引起し、夜半に兜町の事務所へ駆せ付きぬ、帰邸後先生は指に繃帯を施し居りしのみならず、新聞紙が此事を聞伝へて仰山に書立てしものから、諸方より見舞を受けて一方ならず迷惑せしかど、素と擦過傷の事とて、十日許りにて颯ぱりと癒へたれば、社員諸君は安心あれ

 - 第29巻 p.637 -ページ画像 

雨夜譚会談話筆記 下・第七一二―七一四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月(DK290203k-0008)
第29巻 p.637 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七一二―七一四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十五回 昭和四年十月十五日 於丸之内事務所
    四、先生が常用となされた種々の御乗物に就て
先生「○中略
 駕には乗らなかつた。
 馬車は先刻も云つた通り、早くから乗つた。其時の馭者は、何とか云つたヨ。八木安五郎も別当だつたが、これは走る方だつた。八木はグラント将軍が来た頃から使つて居た。
 自動車になつたのは、明治四十年からだと思ふ。吉田新太郎が乗れ乗れと頻りに薦めるので、乗る様になつた。何でもあの頃のは、ヘツドライトは一つだつたヨ」
敬 「お祖父様がお買ひになる前、明治三十九年に、私は吉田新太郎氏に誘はれて乗りました。将を得んとせば、先づ馬を射よで、お祖父様に薦めるために、私達を誘つたものでせう。今から考へますとあの時のは恰度トラツクに乗つてゐるやうな心地でございました。運転手の前に硝子がありませんでした。車体はウーズレーから、デムラーになり、これを十年ばかりお用ひになりました。それからハドソン、次にウーズレーになつて、その時はウーズレーは二台ありました。そして今のリンカーンになりました」
先生「人力車は早くから用ひたヨ。人力車が始めて出来た頃から乗つた。その時の人力車は、何でも蒔絵の附いたものだつた。あれは何処で造つたのだつたかネ」
敬 「人力車は明治九年頃から、流行つたそうでございます。恰度お祖父様の小川町時代でございましたでせう。あの頃、福島橋(深川福住町の辺に在つた橋)の向ふのアイキで製造して居りました」
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。

渋沢栄一伝記資料 第二十九巻 終