デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.168-173(DK300010k) ページ画像

大正3年10月24日(1914年)

是ヨリ先、当院板橋分院竣工シ、是日開院式ヲ行フ。栄一当院院長トシテ来賓ノ祝辞ニ対シ答辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK300010k-0001)
第30巻 p.168 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年    (渋沢子爵家所蔵)
一月十一日 晴 寒
○上略 内務省ニ抵リ井上友一氏ニ面会シテ ○中略 養育院ニ於テ肺病院建設ノ事ニ関シテ協議ス ○下略
   ○板橋分院ハ結核性患者及ビ癈疾者収容ノタメ新設セラレタリ。
   ○中略。
一月十三日 晴 寒
○上略 本院ニ抵リ安達・高畠・桜井・副医長・立花氏等ト種々ノ談話ヲ為シ、肺病患者病院別置ノ事 ○中略 等ニ付協議スル所アリ ○下略
   ○中略。
一月十五日 晴 寒
○上略 午後二時東京市ニ市長ヲ訪問シ、養育院ニ於テ肺病患者病院別置ノ事 ○中略 等ノ事ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
三月二日 曇 寒
○上略 安達憲忠氏来リ、養育院避病院新設ノ事ニ付土地買入ノ事ヲ談話ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正三年(DK300010k-0002)
第30巻 p.168 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 快晴 無風 寒威少シク減スルヲ覚フ
○上略 大塚本院ニ抵リ安達氏・高畠氏及丹羽医長ト院務ヲ協議ス、板橋地方ニ於テ買入ヘキ土地ノ坪数及位地等ヲ定ム ○下略

 - 第30巻 p.169 -ページ画像 

九恵 東京市養育院月報第一六四号・第三―一三頁 大正三年一〇月 板橋分院開院式(DK300010k-0003)
第30巻 p.169-172 ページ画像

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東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第三六―三八頁 大正一一年一一月刊(DK300010k-0004)
第30巻 p.172-173 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第三六―三八頁 大正一一年一一月刊
    十七 重病者の為めの板橋分院
 以上説き来つたやうな手続で、目下の大塚本院・井之頭学校・巣鴨分院・安房分院と云ふものが漸次に出来たのであるが、もう一つ余が多年心配をしたのは、肺結核の患者及び其他重病者の処置であつた、一体救済事業の上に於て肺結核患者の処置と云ふものは一の難問題であつて、第一に伝染の虞れがあるから特別の病室を作つて他の患者と
 - 第30巻 p.173 -ページ画像 
隔離して置かねばならず、第二には恢癒若くは死亡までの期間が他の患者よりも長いから、其結果は自然収容能力の減殺と云ふことになつて来る、故に営業的の病院は別として慈善病院又は施療院等では、肺結核患者又は癈疾者の収容を喜ばぬ傾きがある、之れは決して無慈悲から来るのではなく、該患者の在院期間が非常に長い為めに、他の幾多の患者の収容を不可能ならしむるを恐れるからであつて、強ち非難すべきことではないが、養育院では肺結核患者の収容を喜ぶも喜ばぬもない、苟も行旅病人として送院せらるゝ者は皆な之れを収容して居るから、其数は非常に多くなるので、収容患者の約二割は何れも該患者であると云ふ有様になつて来た、是に於て余は為めに特別なる一収容場舎を設くることの必要を認め、北豊島郡板橋町に地を択んで此所に建設することゝ定めた、而して敷地は前段に一寸述べた通り、院資増殖会が寄附金の残金三万三千円を投じて買入れたる土地六千六百余坪の寄附を受けた、之れが現在の板橋分院の敷地の一部である、建築は大正元年及同二年の二ケ年度で完成する筈であつたところ、或事情の為め工程が遅くれ、遂に大正三年十月に至つて九百四十余坪の建物が竣工し、同月開院式を行ふことゝなつた、工費総額は約三万四千五百円で其内市よりの繰入金一万円、他は寄附金其他本院一般歳入を以て支弁したのである、又た坪数の割合に工費の廉なるは建築材料の一部を 明治天皇御大葬の際の葬場殿用材の下付に仰いだ為めである、尚ほ此板橋分院の収容能力は百六十名であつて、肺結核患者収容を専門とする野方村の東京市療養所を除けば、都下に於て我板橋分院の如き多大の収容力を有する結核病院は他に一もないのである。



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第五三三―五三四頁 昭和八年三月刊(DK300010k-0005)
第30巻 p.173 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第五三三―五三四頁 昭和八年三月刊
 ○第六章 学校及分院
    第四節 板橋分院
 養育院の事業は叙上の如く、漸次分化して大に発展を示したるが、更に結核性病者を始め、固疾患者並に失禁即ち不治の病者を離隔してこれを別個に収容する場合の計画を立て、遂に板橋分院の開始を見るに至つた。その資源は本院の資金増殖を目的として設立されたる院資増殖会の寄附に仰いだ。同会寄附金の大部分は既に巣鴨分院の敷地及家屋の購入に充てたるも、尚募集勧誘中に属して余剰金ありし為め、大正元年(一九一二)八月三万余円を以て板橋町の西北に敷地総面積六千九百余坪を購入寄附せられた。依て大正三年(一九一四)六月病舎の建築を起工し、十月竣工を告げ、同月二十四日を以て開院式を挙行したのである。
 当分院は東京市に下賜せられたる 明治天皇御大葬儀御式場建造物の一部を用材とせる貴重なる記念建築にて、木造平家瓦葺の本館一棟診療室一棟・収容室三棟の外、附属舎十一棟にして、渡廊下を以てこれを連絡してある。この総建坪六百九十八坪余、その他の雑工事を合せ工費総額三万千六百三十二円を要した。
○下略