デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.168-173(DK300010k) ページ画像

大正3年10月24日(1914年)

是ヨリ先、当院板橋分院竣工シ、是日開院式ヲ行フ。栄一当院院長トシテ来賓ノ祝辞ニ対シ答辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK300010k-0001)
第30巻 p.168 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年    (渋沢子爵家所蔵)
一月十一日 晴 寒
○上略 内務省ニ抵リ井上友一氏ニ面会シテ ○中略 養育院ニ於テ肺病院建設ノ事ニ関シテ協議ス ○下略
   ○板橋分院ハ結核性患者及ビ癈疾者収容ノタメ新設セラレタリ。
   ○中略。
一月十三日 晴 寒
○上略 本院ニ抵リ安達・高畠・桜井・副医長・立花氏等ト種々ノ談話ヲ為シ、肺病患者病院別置ノ事 ○中略 等ニ付協議スル所アリ ○下略
   ○中略。
一月十五日 晴 寒
○上略 午後二時東京市ニ市長ヲ訪問シ、養育院ニ於テ肺病患者病院別置ノ事 ○中略 等ノ事ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
三月二日 曇 寒
○上略 安達憲忠氏来リ、養育院避病院新設ノ事ニ付土地買入ノ事ヲ談話ス ○下略


渋沢栄一 日記 大正三年(DK300010k-0002)
第30巻 p.168 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 快晴 無風 寒威少シク減スルヲ覚フ
○上略 大塚本院ニ抵リ安達氏・高畠氏及丹羽医長ト院務ヲ協議ス、板橋地方ニ於テ買入ヘキ土地ノ坪数及位地等ヲ定ム ○下略

 - 第30巻 p.169 -ページ画像 

九恵 東京市養育院月報第一六四号・第三―一三頁 大正三年一〇月 板橋分院開院式(DK300010k-0003)
第30巻 p.169-172 ページ画像

九恵  東京市養育院月報第一六四号・第三―一三頁 大正三年一〇月
    板橋分院開院式
 清秋闌にして野趣一段の風光に誇れる十月廿四日午後二時卅分、分院内大広間に於て開院式を挙行せり
 当日来会せられし朝野の名士無慮二百余名を算し、正午より三々伍伍事務員に東道せられて院内各室を巡観し、了て一同式場へ着席するや、本院幹事安達憲忠司会者にて、先づ田島営繕課長工事報告をし、次に東京市長阪谷男爵式辞を述べられ、次に渡辺内務地方局長、次に久保田東京府知事、次に大野北豊島郡長、次に中野市会議長、次に伊藤本院委員長、次に宮本板橋町長と順次に祝辞の朗読あり、最後に本院長渋沢男爵は答辞を述べられ、これにて一先づ式を終り、同四時三十分一同食堂に会して晩餐を喫し、清談時移りて五時四十分散会せり
○中略
  式辞           (東京市長 阪谷芳郎)
 閣下、諸君、本日板橋分院の落成式を挙げますに付きまして、松平枢密顧問官・東京府知事、其他諸閣下、及び諸君の御来臨を得ましたのは、非常なる光栄と存じまする、本職は此機会に於きまして、式辞を述べることを得ますのは、是亦無上の光栄と致しますことでございます。
 此養育院の分院の出来ますに付きましての経過は、唯今東京市の営繕課長より詳しく申上げました通りでございまして、総て滞りなく完備致しましたのであります、殊に此営繕課長より申上げました通りに当院の建物が、先帝陛下の御懿徳を偲び奉るの紀念と相成りましたと云ふことは、一面に於きまして 先帝陛下を失ひましたことを悲むと同時に、又当院の歴史の上に於て、又将来斯る事業を経営致しますに付ては、実に非常なる 陛下の御懿徳が助け得ると考へるのであります。
 凡そ人間の貴きは即ち人道あるに存す、其人道の中でも慈善、即ち人類の落伍者と云ふものを助けると云ふ高尚なる念が、人道中最も貴いのでございます、此養育院に収容される人々は、或は病気に罹り、或は不慮の炎害に罹り、自分で立つことの出来ない、人類中最も不幸なる境遇に陥つた所の、所謂落伍者である、之を捨てゝ顧みないと云ふことは、人類として最も恥づべきことであります、此養育院は、即ち東京市内に生じたる是等の落伍者は、各満堂諸君の如き慈善家の扱ひに依て、其一生を院内に於て終らしむることの出来るのでございます、人道中最も高尚なる事業を致して居るのでございます、で本院の其創りは、明治の初めに東京に乞食が沢山居る、此乞食は外国の来賓に見られては恥しいと云ふ所から起りました次第で、極く微々たるものが今日の如き盛大の域に達しましたるに付きましては、院長初め本院に職を尽されたる所の諸君、又名誉職諸君の賜として、東京市の一同に代りまして特に本職の喜びますのは、本院の本日の盛大に致しましたる歴史は全く慈善的に出来ましたのでありまして、是が政府の予算に依て定められたとか、政府の命令に依て出来たとか所謂官僚組織でないので、全く江戸の時代から遺つた歴史のあるものを今の院長が
 - 第30巻 p.170 -ページ画像 
丹精せられ、而して満堂の諸君が之を助けられた結果、今日の如き盛大になつたのであります、斯る歴史を有する慈善事業と云ふものは、其発育も将来に於て必ず有効であると考へるのであります、決して今日の養育院の事業が、東京市に於ける所謂社会の落伍者に対して十分満足を与へる程の事業にはまだ出来上つて居りませぬ、勿論此現在の院長、又将来の院長、又将来の名誉職員諸君の力、又市の慈善家諸君の力を得て完全の域に達したいのであります、私は此機会に於きまして、重ねて東京市民一同を代表して満場の諸君に御礼を申上げます、殊に此板橋の名誉職其他有力の諸君に対しましては、此土地を市へ得まするに付ての御尽力、又尚ほ此以上に此養育院を拡張するに付ての地所のことに付ては、一方ならぬ尽力を仰いで居ると云ふことを、玆に深く御礼を申上げるのであります、永く此養育院が存在するに付ては十分に事業の性質を御承知の上で、宜しく御援助を与へられむことを希望するのであります。
 玆に本日来会された閣下諸君に対して厚く御礼を申上げまして、之を式辞と致します。
○中略
  答辞          (本院長 男爵 渋沢栄一)
 臨場の閣下、諸君、今日当板橋分院の開院式に当りまして、斯く皆様に御臨場を戴き、而して玆に盛典を得ましたのは、院長と致しまして深く感謝致すのでございます、唯今此分院の建築の模様及び又玆に分院の出来ました理由は市長閣下、及び営繕課長より御聴きに達しまして、最早申上げます必要はございませぬ、皆様の祝辞を賜りました中には、不肖の私が《(微欠)》力ながら永年院長を勤めたと云ふことを賞讚されて、大分溢美になりはせぬかと思ふ御言葉も頂戴致して、却て恐縮に堪へませぬのでございます、玆に一言の御礼を申上げて、皆様の御示しの如く、是から先きも身体の続くだけ不肖ながら院長として努力すると云ふことを陳情致せば、それで事足りると思ひますけれども、更に一言を添へて、何故此処へ造つたか、是から先きどう云ふにして行くかと云ふことをば、自分の思ふて居りまする考へをば申添へて置きたうございまするで、暫時清聴を煩はします。
 養育院の今日に及びました沿革は、東京市長閣下より唯今申述べて下さいましてございます、嘗て私が昨年東京市会の諸君を大塚の本院へ御出を戴いて、最初からして斯る経過でございますと云ふことを陳情したことがございます、それは粗末な筆記になつてありまするで、多分今日差上げた書類の中に転載されて居るやうに思ひますから、若し御暇でもございましたなら御覧を戴くと、唯今市長さんから御述べになつた事柄は更に一層御了解せられやうと思ひます。
 唯今市長さんの仰しやる通り、此養育院は最初から斯くしやう斯う云ふにと云ふ深い理想なしに発端を開いたのでありますから、申さば少し不規則に発達したと云ふ嫌があるのであります、それをどうしても今日の文明的経済的に仕向けて行かうと云ふには、まだどれまでにして宜しいかは私にもハツキリ申上兼ねますが、唯私の考へは、多数の種類を一緒に置いてある、一時の病者もございまするし、老病癈疾
 - 第30巻 p.171 -ページ画像 
の種類もございまするし、貧困職を失つたと云ふ者もございます、失禁の病気に罹つたと云ふ者もございます、婦人もあり男子もあり、それから極く乳呑児もあり、棄児もあり、遺児もあり、迷児もあり、甚きは不良少年と云ふ者、殆ど落伍者の各種を皆共同して置いたのでございます、是は決して宜しきを得ないから、段々之を分類しつゝあるのであります、それで当分院には多く病者種類の一種類を置かうと云ふことに相成つて居るのであります、唯今の目的は総体が百六十人を収置致しまして、結核性の病者も其中三分の一ばかりございますが、結核性でございませぬ者、痼疾者、若くは甚だ尾籠のことを申すやふでございますが、失禁に陥つたも大分ございます、早く申せば不治の性でございます、是等の種類はどふしても即座に効は見へませぬで、一時の俄かの病気、又少年のちよつと煩つたと云ふ者と一つの病室に置くと云ふことは、即ち混淆で甚だ宜しきを得ませぬ、故にどうしても之を分けなければならぬ、又一方には追々病院が狭隘になつて、故に巨額を以て、更に昨年此処に分院を開くやうになつたのでございます、ちよつと唯今営繕課長から申上げましたが、六千六百幾坪と申すのは、丁度院資増殖会と云ふものがございまして、其増殖会で其資金の残りを以て買収致しまして、これが市に寄附されたのであります、其院資増殖会はどう云ふ性質かと申しますると、是は巣鴨の分院を造ります時に、市から支出をして戴くと云ふことはどうも難かしそうでございましたので、院資増殖会と云ふものを起て、数年の間此会で募集致しまして、而して場所を買ひます金は院に在る基本財産から支出して買入れまして、其基本財産に欠額を生じて、利息の不足をば市から補助して戴いて、其間に院資増殖会が頻りに募集致しまして、其募集致しました金額を以て、巣鴨分院を買ひました元金をば補塡しました、其補塡が余りましたから、其余つた金を以て即ち此地面を買ふてこれに丁度葬場殿の御不用の建物を下付されまして、それから院の金と市から補助して戴いた金と、双方三万幾らの金で是が出来たのでございます。
 而して此処に入れます種類は、前に陳情致しました通りでございます、偖て是は養育院の一部であつて、前にも申し上げる通り、各種類を一つに致しました中を、追々に分離するの一事業と申し上げなければならぬのです、また前に申し上げました子供なども、巣鴨分院に六百幾人居りますけれども、是等も余程類を分たねば完全なる養育は出来まいと思ひます、それから又婦人も本院の同じ患者の中に居りますので、どうぞ分けたいと云ふことを希望して居りますので、更にもう一つ申しますると、永い病者と一時の病者とどうしても分けなければならぬ、此百六十人は極く永いのを分けましたが、まだ本院の病室に居りました種類の中に二種類ばかり居ります、斯の如く分類致して見ますると、扱は誠に整頓致しますが、同時に却々費用が掛ると云ふことに困難するのであります、で爾来養育院の寄附を募りますことは、近頃開かれました済生会とか、或は慈恵会とか云ふやうな大業のことを致して、余り多数の金額を御迫り申すやうのことがあつては宜しくない、永久に継続するのでありますから、成べく人様の御迷惑になる
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やうなことは願はず、さうして多勢から面倒をして集めて、これで集めた其金額をば、力めて無駄のないように、厘毛の末まても必要に働かせると云ふことは、最も本院の趣意と致して経営して居るのであります、斯様な場合に何か己れの経営を自慢がましく御披露致すのは甚だ宜しきを得ぬのでありますが、本院の総ての経費と他の東京に於ける各種の慈善事業の費用を能くお見合せを下さいますると、如何に本院が費用の節約を図つて居ると云ふことが、或は御了承下されるであらうと思ひます。
 唯今市長閣下から御話もございます通り、大塚に在る本院は追々土地も狭くなりますし、どうしても必要を感じて居りますから、移転したいと云ふ望みを有つて居ります、それに付ては今板橋町の有志者の心配も願いつゝあるのであります、幸に其議が決定致しますると、此分院以外にもう一つ大きなものを御当地近辺に移転し得ることに立至りたいと希望致すのであります、此事は今申上るのは少し早計かも知れませぬけれども、折角計画中でございますので、斯る御集りの機会に左様の考へであると云ふことを陳情致すのも、決して無用でもなからうと思ひます。
 之を要するに、各所の慈善事業と云ふようなものを一つに集めて比較し、又他の文明国の感化救済、富と経済とに適応して、諸国でやつて居ります振合を見て、其宜しきを採り其無用を節約して、成べく、此東京市の段々増大して行つて富の増すと共に貧富の懸隔を生ずる、貧富の懸隔を生ずれば即ち落伍者を生ずる、此落伍者はどうしても多数の側から救つてやるのが人道であらう、此人道を完ふするには斯る事業であらうと云ふ考へから、市に於て頻りに心配を下すつて居る、私共職を院長に奉じて、何でも其方法は唯其厚い趣意のある所を遵奉致して其職を尽すに過ぎぬのでございます、永年経営致して居ります為に不肖私の力がそこに幾らか致したる如く諸君に御看傚しを預りまして、唯今御出席の中に私の身に及んだる御朗読等を拝承致しましたことは、実に身に余る光栄と存じます。
 今日までの養育院の有様は上来概略陳情した通りであります、是から先きは飽まで精励其職を尽し、私一個人ばかりでなく職員多数申合せて、必ず斯の如き皆様の御同情に酬ゆる積りでございますから、左様御了承を願います、呉れ呉れも今日は斯の如き皆様の臨場を仰ぎまして玆に此分院の開院式を挙げ得たのを深く感謝致します、一同に代りまして厚く御礼を申し上げます。
○下略


東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第三六―三八頁 大正一一年一一月刊(DK300010k-0004)
第30巻 p.172-173 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第三六―三八頁 大正一一年一一月刊
    十七 重病者の為めの板橋分院
 以上説き来つたやうな手続で、目下の大塚本院・井之頭学校・巣鴨分院・安房分院と云ふものが漸次に出来たのであるが、もう一つ余が多年心配をしたのは、肺結核の患者及び其他重病者の処置であつた、一体救済事業の上に於て肺結核患者の処置と云ふものは一の難問題であつて、第一に伝染の虞れがあるから特別の病室を作つて他の患者と
 - 第30巻 p.173 -ページ画像 
隔離して置かねばならず、第二には恢癒若くは死亡までの期間が他の患者よりも長いから、其結果は自然収容能力の減殺と云ふことになつて来る、故に営業的の病院は別として慈善病院又は施療院等では、肺結核患者又は癈疾者の収容を喜ばぬ傾きがある、之れは決して無慈悲から来るのではなく、該患者の在院期間が非常に長い為めに、他の幾多の患者の収容を不可能ならしむるを恐れるからであつて、強ち非難すべきことではないが、養育院では肺結核患者の収容を喜ぶも喜ばぬもない、苟も行旅病人として送院せらるゝ者は皆な之れを収容して居るから、其数は非常に多くなるので、収容患者の約二割は何れも該患者であると云ふ有様になつて来た、是に於て余は為めに特別なる一収容場舎を設くることの必要を認め、北豊島郡板橋町に地を択んで此所に建設することゝ定めた、而して敷地は前段に一寸述べた通り、院資増殖会が寄附金の残金三万三千円を投じて買入れたる土地六千六百余坪の寄附を受けた、之れが現在の板橋分院の敷地の一部である、建築は大正元年及同二年の二ケ年度で完成する筈であつたところ、或事情の為め工程が遅くれ、遂に大正三年十月に至つて九百四十余坪の建物が竣工し、同月開院式を行ふことゝなつた、工費総額は約三万四千五百円で其内市よりの繰入金一万円、他は寄附金其他本院一般歳入を以て支弁したのである、又た坪数の割合に工費の廉なるは建築材料の一部を 明治天皇御大葬の際の葬場殿用材の下付に仰いだ為めである、尚ほ此板橋分院の収容能力は百六十名であつて、肺結核患者収容を専門とする野方村の東京市療養所を除けば、都下に於て我板橋分院の如き多大の収容力を有する結核病院は他に一もないのである。



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第五三三―五三四頁 昭和八年三月刊(DK300010k-0005)
第30巻 p.173 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第五三三―五三四頁 昭和八年三月刊
 ○第六章 学校及分院
    第四節 板橋分院
 養育院の事業は叙上の如く、漸次分化して大に発展を示したるが、更に結核性病者を始め、固疾患者並に失禁即ち不治の病者を離隔してこれを別個に収容する場合の計画を立て、遂に板橋分院の開始を見るに至つた。その資源は本院の資金増殖を目的として設立されたる院資増殖会の寄附に仰いだ。同会寄附金の大部分は既に巣鴨分院の敷地及家屋の購入に充てたるも、尚募集勧誘中に属して余剰金ありし為め、大正元年(一九一二)八月三万余円を以て板橋町の西北に敷地総面積六千九百余坪を購入寄附せられた。依て大正三年(一九一四)六月病舎の建築を起工し、十月竣工を告げ、同月二十四日を以て開院式を挙行したのである。
 当分院は東京市に下賜せられたる 明治天皇御大葬儀御式場建造物の一部を用材とせる貴重なる記念建築にて、木造平家瓦葺の本館一棟診療室一棟・収容室三棟の外、附属舎十一棟にして、渡廊下を以てこれを連絡してある。この総建坪六百九十八坪余、その他の雑工事を合せ工費総額三万千六百三十二円を要した。
○下略