デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.246-253(DK300026k) ページ画像

昭和2年4月29日(1927年)

是ヨリ先三月、当院巣鴨分院改築工事完了シ、是日改築落成披露会ヲ行フ。栄一之ニ出席シ式辞ヲ述ブ。


■資料

東京市養育院月報 第三一〇号・第一九―二〇頁 昭和二年五月 ○巣鴨分院改築落成披露会(DK300026k-0001)
第30巻 p.246-247 ページ画像

東京市養育院月報  第三一〇号・第一九―二〇頁 昭和二年五月
○巣鴨分院改築落成披露会 我養育院巣鴨分院の改築工事が二十四万四千余円の工費を以て、昨大正十五年十月以来土木建築業者芝江初五郎に下命著手中なりしは、当時既に本誌上に於て報道したる所なるが爾来工期百六十五日を閲みしたる本年三月三十日を以て、一千百九十四坪の新築及び六百六十四坪の改修建物、並に門墻・給水鉄管・点灯設備等の附帯工事全く完成し、其他別に著手中なりし植樹造園の工も同時に成るを告げしかば、去る四月二十九日昭和第一の天長節の佳辰を卜して、市名誉職員・本院関係官公吏・養育院婦人慈善会員・寄附者・新聞記者・地元関係者等数百名を招待の上、午前十時半より同分院に於て、盛大なる改築落成披露会を挙行せり、而して当日は晩春の薫風若葉にそよぐ絶好の天長節日和にて、定刻前より来賓は或は自動車に、或は徒歩に、陸続として参著せられたり
 斯くて定刻に到れば、来賓を予て設らへたる新築の雨天体操場なる式場に誘導し、其著席を竢ちて、当日の司会者田中養育院幹事先づ開会の辞に併せて工事の報告を為し、次で渋沢院長は式辞を述べられ、右終るや鈴木内務大臣(安河内内務次官代読)平塚東京府知事・西久保東京市長の丁重なる祝辞の朗読あり、最後に小俣養育院常設委員長の謝辞ありて、田中幹事閉会辞を述べ、之れにて滞りなく式を終り、直に来賓各位に院内諸施設の巡覧を乞ひ、正午食堂を開きて午餐を饗応し、和気靄々裡に散会せしは午後一時過ぎなりき、因に当日の来賓は安河内内務次官・平塚東京府知事・西久保東京市長・大倉喜八郎氏服部金太郎氏・植村俊平氏・塩原又策氏等朝野の名士二百余名に達したるが、今其主なる芳名を録すれば左の如し(順序不同)
 安河内麻吉氏   平塚広義氏    西久保弘道氏
 大倉喜八郎氏   小俣政一氏    森脇源三郎氏
 服部金太郎氏   植村俊平氏    塩原又策氏
 瀬川光行氏    守屋栄夫氏    富田愛次郎氏
 中川重政氏    池田清秋氏    福田又一氏
 橋本直一氏    高橋秀臣氏    新居友三郎氏
 秋庭伊兵衛氏   方山正隆氏    伊東美代松氏
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 八太茂氏     中塚栄次郎氏   高橋義次氏
 山本繁吉氏    岡蕃氏      小栗富五郎氏
 高崎高次郎氏   立川太郎氏    大崎清作氏
 松崎権四郎氏   小島亀蔵氏    倉田金三郎氏
 高橋俊太氏    原伊三郎氏    井上万吉氏
 相田良雄氏    今井小市氏    酒井辰弥氏
 岸理一氏     中原啓造氏    大谷善次郎氏
 鈴木繁氏     村田佐吉氏    山田政太郎氏
 岩本徳次郎氏   小林正金氏    豊原又男氏
 見山正賀氏    野村陸三氏    石崎次三郎氏
 石坂義太郎氏   金子勝治氏    岸寿喜恵氏
 足立俊夫氏    菅原宗光氏    石原市三郎氏
 竹内秀次郎氏   中島美充氏    吉田金之助氏
 馬場密蔵氏    御厨規三氏    佐藤伝四郎氏
 川口寛三氏    大橋勇氏     大堀佐内氏
 阿部努氏     牟田寅次氏    小野基樹氏
 牧彦七氏     永井松次郎氏   田村与吉氏
 内藤義演氏    高橋俊吉氏    藤井庄一郎氏
 長沢伝六氏    矢田部美佐保氏  小島武人氏
 小泉乾夫氏    池田正信氏    村高幹博氏
 山崎平吉氏    荒木浅雄氏    宮沢忠治氏
 木村芳雄氏    松下泰介氏    鈴木八郎氏
 高川宅次氏    新海金太郎氏   松崎章太郎氏
 井東寅蔵氏    益田貫一氏    藤田義治氏
 宮野駿一氏    杉田安静氏    森岡保喜氏
 飛田円哲氏    塚元三吾氏    野崎広助氏
 井田善之助氏   小畑久五郎氏   酒巻幾三郎氏
 安達憲忠氏    北島亘氏     坪谷善四郎氏
 四谷炳鏘氏    寺見武次郎氏   小川弘氏
 山本博氏     秋尾廉氏     篠田穣氏
 篠原由太郎氏   川合清一氏    茂木耕三氏
 岡田彦七郎氏   安吉英夫氏    土田恭治氏
 村松竹太郎氏   松山巍氏     佐々木貞七氏
 近藤幸助氏    三好与七郎氏   三保谷麟城氏
 宇治楽文氏    桑沢松吉氏    花井源兵衛氏
 斎藤北涯氏    尾辻政雄氏    近藤栄助氏
 藤木徳次郎氏   芝江初五郎氏   玉野治助氏
 山口荘吉氏    斎藤まき子氏   高木謙氏
 高津伊兵衛氏   上野勝造氏    猪俣吉平氏
 永井キヨウ子氏  的場覚蔵氏    蛯原万吉氏
 加藤平次郎氏   今井又治郎氏   江草重忠氏
 小林高亮氏    藤田政輔氏    宮島家栄一氏
 株式会社松坂屋代表

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東京市養育院月報 第三一〇号・第七―一〇頁 昭和二年五月 ○巣鴨分院改築落成披露会式辞(昭和二年四月二十九日)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300026k-0002)
第30巻 p.248-250 ページ画像

東京市養育院月報  第三一〇号・第七―一〇頁 昭和二年五月
    ○巣鴨分院改築落成披露会式辞(昭和二年四月二十九日)
                 (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 閣下並に諸君、本日特に此催ほしを致しましたることは、田中幹事より申述べました通りの次第で御座います、御多忙の際にも拘らず幸ひに斯く皆様の御臨場を賜りましたことを有難く御礼申上げます
 養育院の沿革等に就きましては先刻田中幹事より詳しく申上げましたので、今更ら改めて蛇足を添へる必要は御座いません、兎に角本院の今日に至りましたことは、一に皆様方の御後援の賚に外ならぬので誠に感謝に堪へぬ次第で御座いますが、唯だ事業経営上幾多の事柄に就て、院長として深く考慮致したと云ふ程ではありませんが、斯くしたいと思ひながらも未だ其儘になつてゐる点の数多く御座いますのを残念に存じます
 却説我養育院は病者及非病者たる大人収容者の為めに板橋本院を、又特殊の病者即ち結核及痼疾患者の為めに板橋分院を、学齢児童の為めに巣鴨分院を、虚弱児童の転地療養所として安房分院を、不良児の為めの匡正教育機関として井之頭学校を有して居りまして、窮民・行旅病人・棄児・遺児・迷児の救護、並感化生の教育を行ひつゝあり、其等の設備は孰れも相当のものとは相成りましたが、経費の関係よりして未だ満足と申す程度には参りませぬ、当巣鴨分院設置の如きも、当時入院者が逐年増加致しまする結果、在来の収容場舎のみでは漸次狭隘を感ずる様になり、一方児童と大人収容者とを同一場所に収容しました為め、仮令居室の区別はありましたが、其間種々面白からぬ結果を招き、此儘放置することは誠に憂慮に堪へぬ有様なので、之れを別置致し度いと考へまして、本日御来会の当時の安達幹事等と協議の上、明治四十二年に当所を選定の上、児童収容所として開設致したのであります、而して私は其以前米国に参りましたる際、彼の有名なる『ジヱラード・カレツヂ』を参観致し、何卒養育院収容の児童等も斯くの如き設備の下に養育致したいと云ふ考へを持ちましたが、何分にも莫大なる設備費を要しまするのと、仮令それは弁じ得たとしても、将来之れが維持を行ひますには年々少なからぬ経費を必要と致します関係上、遺憾ながら普通の国民教育を授くるの程度に止め、義務教育を修了したる児童は其性能に応じ夫れ夫れ適当の職業を見習はしめ、将来独立の素養を与ふべく、之れを院外に委託するの方法を講じたのであります、然かしどうも其成績が思はしくありませんので、院内に職業教育機関を設置し、本院の手で一通りの職業教育を施こした上、成るべく自活の出来る素養を与へたいと存じました結果、一両年前より特に実業補習科なるものを新設し、兎に角児童の向上に資するの緒に就いたのであります
 又た以前は本院入院者中に癩病患者が可成りありましたので、何とかして之れが別置の為めに特別の収容所を設けたいと思ひまして、市の方へ相談を致しました処、養育院内に癩収容所を拵へることは東京市に全国の同患者を誘致するが如き結果となるから、遽かに斯かることは実行すべきでないと云ふ至極御尤もなる反対を受け、遂に之れは
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成立致しませんでしたが、之れが動機となり、現在東京府北多摩郡東村山村に在る全生病院を始めとし、他の癩療所も設立せらるゝことゝなつたので、唯今では組合府県立の癩療養所が全国に五箇所程設置されるに至つたのであります
 更に現在の養育院安房分院の如きも、本院収容児童中には、腺病質或は発育不良等の病弱者が少からず御座いますので、之れが健康恢復の一手段として、当時養育院の医長をして居られた入沢達吉博士の主唱に依り、比較的経費の掛らぬ海気療養所を設くることゝなり、先づ土地の選定を行ひ、明治三十三年中に房州勝山町に一保養所を設けました、之れが船形海岸に在る現在の安房分院の前身で、収容児童を転地致させました結果甚だ成績が宜ろしいので、更に永久的の施設として一分院の設立を企てましたが、幸ひにも養育院婦人慈善会の後援を得、同会より土地・建物、其他附帯設備の寄附を受け、明治四十二年四月に今の安房分院を開設したのであります、爾来引続き巣鴨分院収容中の病弱児を転地保養せしめて居りましたが、彼の大正十二年九月の大震災で不幸にも全潰致したのであります、然かし之れ亦幸ひに本院基本金の一部流用及大震災善後会よりの寄附金等を以て、従前の設備に比し敢て遜色なき程度の復興を為し得たので御座います
 次に大人収容者中の肺結核患者の為めに、特別の療養所を設くる為め、現在台湾総督をして居られる上山満之進君の農商務次官時代に其御骨折りで、千葉県君津郡長浦村所在の官有原野二万七千坪の無償下附を受けましたが、其後結核予防法が施行せらるゝと共に、東京市に於ても結核療養所を設くることゝなりましたので、本院の此計画は不必要となり其儘となつて居ります、尚ほ序に井之頭学校設置の大要を申上げますと、それは丁度明治二十七・八年日清戦役前後に亘りて東京市内に不良児が沢山出来ました、之れが又本院に少なからず収容せらるゝやうになり、此種の少年が入院して来て従来より収容中の孤児等と接触致しまする結果、善良なる児童も間々悪化の傾きを生ずる事実を認めましたので、何とかして此不良少年の感化教育を特別に行ひたいと存じまして、元大審院長をして居られた、故三好退蔵君を養育院の顧問に御願ひして、感化部の創設を行ふことゝなり、明治三十年一月 英照皇太后陛下の崩御に際し、全国各府県に御下賜に相成りました、慈恵救済資金と感化部設置の為めに勧募致しました寄附金等に依つて、明治三十二年に小石川大塚の本院内に感化部の建物を建築し前記不良児の感化教育を開始致しましたが之れは不幸にして失敗に終りました、と申しますのは、他の種類の収容者と此不良少年とを仮令居室は区別するも、同一構内に収容致しました為め相互に接触の機会が生じ、却つて普通児童が悪化の影響を被むると云ふ状態を生じたので、遂に感化部を他の適当の場所に移転させなければならぬと云ふ訳になり、適当の候補地を近郊に物色致しました末、東京府北多摩郡武蔵野村なる井之頭の御料地を発見し、之れを宮内省より拝借の上、明治三十七年十一月此地に建築を起こし、翌三十八年二月竣工、同年九月より従来小石川本院内に収容中の感化生全部を之れに移し、名称も養育院感化部井之頭学校と改め事業を開始いたしました、而して明治
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三十九年四月よりは東京府知事より府の代用感化院に指定せられ、目下相当の成績を収めつゝあるので御座います
 以上は我養育院に於ける特殊なる施設の二・三に就き簡単に申述べましたので御座いますが、是等のことを申しますると如何にも養育院は充実して居るやうで御座いますが、稍々型だけが出来た位で、之れが理想的の経営を致しまするには、尚ほ多額の経費を要する為め、遺憾ながら未だ十分と申す程度には至らぬので御座います、而して養育院が幾多の変遷を経て今日に至りましたる所以は、全く天下同情家諸氏の御後援に依るもので、此点に就きましては深く御礼を申述べるのであります、終りに臨み本日此会を挙げまするに当り、玆に尊来を辱けなうしたる閣下並に諸君の前に、以上の数言を申上げて式辞と致します(拍手)



〔参考〕東京市養育院月報 第三〇三号・第一三頁 大正一五年一〇月 ○巣鴨分院改築工事(DK300026k-0003)
第30巻 p.250 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇三号・第一三頁 大正一五年一〇月
○巣鴨分院改築工事 巣鴨分院寮舎其他の建物は腐朽甚しく、之が改築を行ふ為め五月二十八日市会の議決を経、爾来施工準備中の処此程工費二十三万九千余円を以て建築業芝江組の請負ふ所となり、十月初旬より愈々起工に着手し、大正十六年三月中竣工の予定なり、因に今回改築に係る主なる建物を示せば、二階建寮舎二棟、平家建寮舎四棟幼童舎及軽病舎・食堂・雨天体操場・浴場及洗濯場・事務所・合宿所倉庫各一棟、其他付属建物等、延坪千百九十一坪に及ぶものなり



〔参考〕東京市養育院月報 第三〇九号・第一―四頁 昭和二年四月 巣鴨分院の改築成る(DK300026k-0004)
第30巻 p.250-253 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇九号・第一―四頁 昭和二年四月
    巣鴨分院の改築成る
 我養育院巣鴨分院の改築工事が二十四万四千余円の工費を以て、昨大正十五年十月以来土木建築業者芝江初五郎に下命著手中なりしは当時既に本誌上に報道したる所なるが、爾来工期百六十五日を閲みしたる本年三月三十日を以て、一千百九十四坪の新築及び六百六十四坪の改修建物、並に門墻・給水鉄管・点灯設備等の附帯工事全く完成し、其他別に著手中なりし植樹造園の工も同時に成るを告げしかば、来る四月二十九日天長節の佳辰を卜して同分院改築落成披露会を挙行し、広く江湖各位に院内施設の一覧を乞ふことゝなりしは、洵に本院の欣幸とする所にして、平素養育院の為に後援の労を厭はれざる読者諸彦に対しては、特に此機会を以て満腔の謝意を表すると同時に、聊か本院事業の沿革と、今次巣鴨分院に行ひたる改築工事の顛末を略叙して其の瀏覧に供せんとす
     一、養育院の沿革略
 養育院の創立は遠く明治五年十月のことに属し、本郷なる旧加州藩邸内に一収容場を設け市内に徘徊する浮浪乞丐の徒を収容し東京府養育院と称したるに濫觴す、而して其の所管は、始め営繕会議所なりしが、同九年に至り営繕会議所が其の事務を東京府に引き継ぎたる為め府知事の直轄に帰し以て数年を経過せり、然るに明治十七年に至り東京府会の決議に依り養育院は同年度限り廃止せられたり、而して其理
 - 第30巻 p.251 -ページ画像 
由は救済機関の存在が却つて惰民発生の因を為すと云ふに存したりしも、然かも当時院長たりし渋沢子爵は寧ろ反対の意見を有し、将来救済事業の必要益々其大を加へ来たるべきを察し、乃ち同志と胥謀り私営として従来の養育院事業を継承するの方法を立て、名称を東京養育院と改め私財及有志寄附金を財源として之れを経営せり、超えて同二十二年四月東京に市制の施行せらるゝや、其全事業と全財産とを東京市に提供し市営の下に経営せられむことを申請し、翌二十三年一月以降市の所轄となり東京市養育院と改称せられ以て今日に至れるも、然かも其の経営に要する費用は自給自足を以て原則とせり
 今ま翻て本院事業の変遷を見るに創立当初は単に浮浪乞丐の徒を収容するに止まりしが、漸次市内居住の救民救助をも行ふことゝなり、尋で明治十六年一月よりは事業を拡張して東京府下の行旅病人をも併せ救療し、同十九年三月に至りては更に東京府下の棄児、遺児、迷児の類をも救育し、同三十三年七月には新に感化部を附設して市内浮浪児の収容匡化の事業をも開始するに至り、事業の範囲著しく拡張せられたり、従て収容場舎の狭隘を告げたる結果其の所在を転ぜしこと実に前後五回に亘れり、現在は市外板橋町なる本院の外、巣鴨・安房・板橋の三分院並に井之頭学校を所属とす、又た現院長渋沢子爵の院長の職に就かれたるは本院創立後間もなき明治七年のことにして、其の経営主体が府たりし時代も、市となりし今日も、将た又た中間の私営時代に於ても終始一貫其の職に在ることは、本院の沿革と共に洵に意義深きことゝ云ふべし
     二、巣鴨分院設置の由来
 巣鴨分院の開設は明治四十二年三月のことにして、其の目的たるや収容者中の少年を大人と別置せんとするに在り、蓋し明治五年創立の当時は言ふ迄もなく、同二十九年小石川区大塚辻町へ移転後に於ても年令に由る収容者の別異は殆んと行はれざりし為め、仮令居室に於ては之れを区別せりと雖も、畢意老者も、壮者も、棄児・遺児・迷児も等しく同一家屋内に起臥するの状態なりき、然るに大人収容者の多数は孰れも心身の頽廃者にして彼等日常の言語動作は直ちに模倣性に富める幼少年者に悪影響を及ぼすこと鮮少ならざりしを以て、本院に於てはいたく之れを憂ひ彼等を別置するの必要を痛感すること切なると共に、他方逐年入院者の増加するに従い、収容場舎の関係上益々其の実行の急務なるを認むるに至れり、然れども他面之れが実行に要する費用に充当すべき資源の調達に就ては多大の困難を有したりしも、明治三十九年之れが資源は、到底市経済の負担に竢つこと能はざるを知るや、遂に寄附金を以て之れを支弁するの策を樹て、先づ敷地の選定に著手せり、然かるに時恰も好し市外西巣鴨町所在の宏文学院(加納治五郎氏の支那学生教育所)の敷地及建物は当時東本願寺の所有に係かり、所有者に於て売却の意あるを聞知し一応実地視察の結果土地は約一万坪に近く、建物も学校と寄宿舎とに別れ、其の価格合計十二・三万円にして大体に於て適当のものと認めたるを以て乃ち明治四十一年十二月中、土地九千三百二十坪及建物千二百九十五坪を価格十二万三千余円にて購入し、玆に始めて多年の希望を達するを得たり、斯く
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て明治四十二年三月に至り大塚辻町なる本院収容中の児童を悉く此所に移して巣鴨分院と名づけ以て今日に至れり
 院内に於ては学齢児に対し義務教育を授くる為めの小学校並に学齢未満の幼児の為め幼稚園を附設するの外、尋常小学卒業の男女児に職業教育を授くる為め実業補習科を置き、以て将来独立生計を為し得るの素養を与へつゝあり、而して本年三月三十一日現在に於ける収容児童は男二百十人、女九十八人、合計三百八人なり
     三、巣鴨分院の敷地と建物
 巣鴨分院は市外西巣鴨町に所在し市電大塚終点より北へ約二町にして、敷地の西方は今や王子電気軌道会社の線路に接し交通至便の地たり、又た右敷地は分院開設後更に隣接地を購入したると、他方に於て王子電気軌道敷の為め或は府道及町道敷拡築等の為め公益上已むなく其の一部を譲渡したる為めとにより若干増減を来たし、昭和二年三月末現在に於ける面積は八千九百六坪を算し、建物は今回寮舎其の他を改築したるの結果二千二百六十二坪となれり、今之れを分類して示せば寮舎九百九坪、食堂及炊事場百二十四坪、浴場及洗濯場二十九坪、事務所八十九坪、校舎五百十九坪、雨天体操場四十八坪、講堂百九坪渡廊下百六十九坪、公舎百三十二坪、其他附属建物百三十四坪、合計二千二百六十二坪なりとす
     四、巣鴨分院の寮舎其他の改築
 今回の改築施行前に於ける巣鴨分院建物中、最近の建築に係かる年長男子寮舎・同女子寮舎の二棟を除けば、他は同分院開設の際既設建物を買収したるものにして、是等建物中特に寮舎の如きは近年著しく腐朽を加へ来たり、殊に大震災後に於ては稍や危険を感ずるの程度に至りしかば、遂に大正十五年度に於て之が改築を行ふことゝなり、資源を本院所有地売却代の一部及び関係収入に需め、臨時営繕費二十六万六千百十五円の追加予算を編成して市会の協賛を経、客年十月より土木建築業者芝江初五郎をして工事を請負はしめ、半歳を経過したる昭和二年三月末を以て竣工を告げたり、而して右改築工事中、全然新築に係かるものは寮舎二階建二棟(階段室共)三百二十三坪・同平家建五棟三百三十七坪・食堂一棟八十四坪・炊事場一棟四十坪・浴場及洗濯場一棟二十九坪・事務所一棟八十九坪・雨天体操場一棟四十八坪倉庫一棟十八坪・雑役人合宿所一棟三十四坪・便所三棟十四坪・水道喞筒室及『タンク』室四棟十九坪・総羽目渡廊下百十四間百五十九坪合計二十一棟(廊下百十四間)一千百九十四坪にして、外に亜鉛塀四百四十間、煉瓦塀二十九間及び正門一箇所の新設あり、之れに対し改修に属する分は附属学校五百六坪及講堂百九坪を始めとして、門衛所納屋・公舎等を併せ合計六百六十四坪を算す、又た新築建物は煉瓦造の『タンク』室及び木造亜鉛張の渡廊下以外総て木造『ラス』張り『モルタル』塗りとし、以て防火の効と外観の美とを兼ねしむ、尚ほ前記の外特に記すべきことは今回の改築と同時に、構内に自家用水道の設備を整へたると、造園に若干の施設を加へたるの二点なりとす、要するに這般工事の設計は一に養育院収容の少年少女の為めには其の住宅たり又た学校たる巣鴨分院をして、成るべく家庭的情味に富める便利
 - 第30巻 p.253 -ページ画像 
にして、且つ感じよき建物となし、以て彼等少年少女をして『居は気を移す』の効を挙げしめんが為めに作られたるものとす