デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
1款 中央慈善協会
■綱文

第30巻 p.535-539(DK300062k) ページ画像

大正8年6月16日(1919年)

是日、日比谷公園ニ於テ当協会ノ役員タリシ故東京府知事井上友一ノ府葬執行セラル。栄一当協会ヲ代表シ弔辞ヲ読ム。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK300062k-0001)
第30巻 p.535 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 曇又雨 冷
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ、井上府知事ノ招宴ニ出席ス、夜九時過帰宅ス
此夜井上府知事、宴会席上ニ於テ発病、即夜帝国ホテル内ニ死去ス、但脳溢血症トノ事ナリ、人生ノ不可測真ニ夢ノ如キ感ナクンハアラザルナリ
   ○中略。
六月十六日 雨 冷気
○上略 斯文雑誌記者来リテ故井上友一氏ノ性行ヲ談話ス、午前九時半日比谷公園ニ抵リ井上東京府知事ノ府葬ニ列席ス、儀式盛大ナリ、会スル者千ヲ以テ数フベシ、十二時頃式畢リテ ○下略


斯民 第一四編第七号・第一一七―一二六頁 大正八年七月 井上知事府葬の記(DK300062k-0002)
第30巻 p.535-537 ページ画像

斯民  第一四編第七号・第一一七―一二六頁 大正八年七月
    井上知事府葬の記
      一
 大正八年六月十六日、故井上東京府知事の公葬、日比谷公園に於て営まる。愁雲垂れ罩めて、鳥声悲し。是れより先き十二日各新聞に依りて、知事薨去の報伝へらるるや、芝公園の官舎は自動車・人力車等にて弔問の客引きも切らず、府庁吏員又殆んど総出にて、葬儀の準備
 - 第30巻 p.536 -ページ画像 
に取り懸りたるが、同日午後一時より開会せらるべき予定なりし府参事会は、急遽各派の有力者を加へて、知事葬送の件に就き協議せる結果、翌十三日午後二時、臨時府会を開きて、弔慰の方法を附議するに決したりき。
 臨時府会は十三日午後一時十分開会、是に先ち、零時半より府参事会を開き、理事者提案の弔慰金三万円、府葬費二万円支出の件を決し次で府本会に移り、岩田内務部長より、臨時府会召集の理由を述べ、井上知事に就ては大要左の如き挨拶を為せり。
  井上知事の生存中に於ける功績は多々あれども、特に産業奨励・社会事業の徹底に尽力せられしは、普く世人の知れるところにして今回突如薨去せられたるは、東京府のみならず、広くは国家の一大損失と思惟す、府葬執行は地方に於ても曾て見ざる例にして、故知事に於かれてもさぞ満足せらるゝ所なるべし。
○中略
 正十時第一振鈴によりて葬儀開始せられ、三十余名の僧侶の読経に次で、副導師の引導、次で大導師の引導の事あり、それより左の順序によりて、弔辞捧げられぬ。
                        東京府知事代理内務部長 岩田衛
                             東京府会議長 酒井泰
                               内務大臣 床次竹二郎
                               警視総監 岡喜七郎
                        府県知事総代京都府知事 馬淵鋭太郎
                         東京市長法学博士子爵 田尻稲次郎
                          東京商業会議所会頭 藤山雷太
                        中央報徳会理事法学博士 一木喜徳郎
                       青年団中央部理事陸軍中将 田中義一
                         中央慈善協会会長男爵 渋沢栄一
         史蹟名勝天然物記念保存協会長徳川頼倫侯代理 法学博士 水野錬太郎
                         東京府慈善協会員総代 留岡幸助
                           加越能郷友会々長 早川千吉郎
                           日本大学々長男爵 松岡康毅
                               金沢市長 飯尾次郎三郎
○中略
      弔辞
○中略
 東京府知事従三位勲二等法学博士井上友一君、此月十二日夜卒然病ノ為薨去セラレ、嗚呼悼マシキ哉、君資性温厚、頭脳明敏、明治二十六年ヲ以テ東京帝国大学ヲ卒業スルヤ、直ニ職ヲ内務省ニ奉シ、爾来二十有余年自治民政並慈恵救済ニ関シテ研鑚劃策大ニ勉ムル所アリ、夙ニ斯界ニ於ケル一大権威トシテ、国家ノ為ニ貢献スル所多シ、大正四年ヲ以テ東京府知事ニ転スルヤ、至誠恪勤力ヲ各種ノ施設ニ致シ、殊ニ社会問題ノ解決ニ関シテハ最モ其ノ意ヲ用ヒテ着々実績ヲ挙ケ、府ノ面目為ニ一新シ、府民ノ信任敬慕日ニ加ハルニ至レリ、今ヤ大戦漸ク局ヲ結ハントシ、戦後経営ノ事業益々緊切ヲ加フルノ時、君ノ如
 - 第30巻 p.537 -ページ画像 
キ有為ノ人材ヲ失フハ寔ニ国家ノ一大損失タリ、君カ危篤ノ報天聴ニ達スルヤ、特ニ位階ヲ陞叙セラレ、東京府亦府葬ノ礼ヲ以テ君ヲ祭リ以テ感謝ノ摯情ヲ表ス、死シテ亦余栄アリト謂フヘシ、我カ中央慈善協会ノ今日ヲ致セルモノ亦君ノ力ニ負フ所尠カラス、君ハ実ニ本会カ永久ニ記念スヘキ設立者ノ一人ニシテ、爾来評議員並理事ノ重職ニ膺リ、終始一貫シテ本会ノ為ニ尽瘁セラレタルハ深ク感謝スル所ナリ、爾今本会ノ事業君カ力ヲ俟ツ愈々大ナルノ時ニ当リテ、俄ニ訃音ニ接ス、愛惜何ソ堪ヘム、玆ニ虔テ衷心ノ弔意ヲ表シ、恭シク英霊ヲ祭ル
            中央慈善協会長 男爵 渋沢栄一


斯民 第一四編第七号・第四六―四八頁 大正八年七月 井上博士と救済事業(男爵渋沢栄一)(DK300062k-0003)
第30巻 p.537-538 ページ画像

斯民  第一四編第七号・第四六―四八頁 大正八年七月
    井上博士と救済事業 (男爵 渋沢栄一)
 私は別に井上さんと一緒に事務を執つてゐたといふのではないが、極く親しい友人の一人であつた。そして救済事業などの関係で、屡々お会ひする機会はあつたが、私の観た井上さんは極めて明敏な、仕事好きの人であつたと思つてゐる。あれだけの教育があり、地位を持つて居られながら、よく人に接して其の意見を納れ、理解されるといふ風であつたから、決して人と衝突などされることはなかつた。慈善事業・社会事業には常に率先して其局に当られたが、公平で事務に長じて居られたから、何時も立派な成績を挙げられてゐる。殊に東京府知事となられてからは、一層此方面の事業に力を尽された結果、今や我が東京府が昔日に見優るやうになつたのは、世間の普く知つてゐることである。
 其の仕事に忠実なことは驚く許りで、如何に些細なことでも自分でやるといふ方であつた。其一例としては、何かの事業を起す為に寄附金を募られるやうな場合にも、以前の知事はよく係員などを寄越されたものであつたが、井上さんは決してそんなことはなく、朝早くから訪ねて来ては、諄々として道理を説いて勧めるといふ風であつたから自然其熱心に動かされて賛成する者が多かつたやうである。東京府慈善協会を起される時や、昨年の米騒動の時などは、藤山君と私とに御相談があつて、救済寄附金を集めて呉れとの事でしたが、例の廉売米のことなど速かに実行しようとして、一時は非常に努力されたもので終に公設市場の如き宜しきを得た機関も出来たのである。
 元来東京府といふ所は、昔から内職的工業が非常に多いのであるが漸次社会の進歩して行くに連れて、規模が大きくなり、動力などを使用して行ふものが増加して来た。此趨勢を察知された井上さんは、更に進歩したものにしたいと考へられて、商工奨励館の設立を思ひ立たれ、一方には工業的教育の普及を図ると同時に、又粗製濫造等の弊害を除きたいが、それにはお役所式のものではなく、会合所といふやうなものを設ける必要があるといふので、市内の実業家・富豪から百万円の寄附を募集したいからと、私に御相談があつた。私も至極賛成だつたので、早速醵金の世話係りを引き受けたやうな次第である。勿論私は微力で何等為すところもなかつたけれども、井上さんの拮据勉励された効があつて、今や略々其目的を達成してゐる。
 - 第30巻 p.538 -ページ画像 
 其後又程度の低い工業学校を建設したいからと、此時も私に先づ相談があり、一般富豪の方々に依頼して、之も最初の見込通りには行かなかつたけれども、兎に角東京に置かれることになつた。
 右の他商工業上に尽された井上さんの力といふものは、実に偉大なものであつて、其効果も漸次顕著になつて来てゐるが、畢竟するに六月十一日は、此等府の為に寄附した人々を集めて御礼の意味を含めた報告をされる筈であつたらしく、私にも是非出席してくれとのことであつたが、多少他の用事もあつた為に定刻より、約二十分許り遅れて出席したのであつた。所がホテルへ着くと直ぐに或る人が、一寸私に面会したいからといふので、別室で話して居つたが、其間井上さんから余り時間が後れるので、食堂を開きたいといふ注意があつて、七時少し前だつたと思ふ、私は井上さんと向ひ合つて座つたのであつた。恰度其時は何か変つた馳走が出たので、私は『大変気取つた料理ですね』などゝ笑つて話してゐましたが、其中に私の隣席に居つた三菱の桐島君が、何か大声で二・三回話しかけても、更に返事がなかつたので桐島君が先づ騒き出し、早速別室に連れ込んだのであるが、私は一寸の脳貧血位に思つて、余り心配もしなかつたし、内務部長の岩田君が早速井上さんに代つて、井上さんが詳細に説明される筈であつた寄附金の使途や、事業の成績を説明されたので、私も予定通り来賓に代つて、斯うして委細の御報告を聴くのは、寄附者として大変気持ちがよいといふ意味の御挨拶を述べたが、今にして考へて見れば、それが最後のお別れであつたのである。私としてこんな残り惜しいことはなく未だに残念でならない。井上さんの如きは実に死に至るまで公務に尽した人であつて、自己の体に行ひ遂げた人であると思ふ。


向上 第一三巻第七号・第四三―四四頁 大正八年七月 友人井上君を悼む(男爵渋沢栄一)(DK300062k-0004)
第30巻 p.538-539 ページ画像

向上  第一三巻第七号・第四三―四四頁 大正八年七月
    友人井上君を悼む (男爵 渋沢栄一)
 老少不定とは云ひながら、真に人事の変転ほど測られぬものはない六月十一日午後六時過、私は井上知事から招待されて帝国ホテルに参りまして、知事と私とは直ぐテーブル一つを隔てゝ向ひ合になつて食事してゐましたが、食事中ばに急に知事の顔色が変つて様子が妙になつたので、誰か早く知事を別室にお伴れしたらいゝだらう、見受けるところお具合が悪いやうだからと私が注意し、速崎技師が肩にかけるようにして別室に引取つたのであつたが、其後岩田内務部長が知事に代つて挨拶され、突然お騒がせして相済まなかつたが、知事は脳貧血のやうだから別段心配は要らぬ、少し静かにして居れば恢復すると思ふからとの事であつた。
 主客の挨拶も済んで、会が終る頃再び内務部長から家族の者の依頼で伝へるが、別段御心配をかけるほどのことでもなからうから安心してくれと言はれたので、私共も夫程大事にならうとは思はずに、安堵して帰りました。処が夜中二時頃に知事が亡くなられたといふことを新聞社から知らせて来たので非常に驚いたが、翌朝迄は或は新聞社の方で何か間違つたのではなからうかとさへ思つて居りました。然るに翌朝知事官舎に問ひ合せて、愈々事実であるのを確めて、実に愕き入
 - 第30巻 p.539 -ページ画像 
つた訳でありました。国家多難の際に当つて、知事の如き又と得難き人物を失つたことは、如何に惜しんでも足らない残念至極な次第であります。
 井上さんは、学校卒業後、内務省に入られ、長く官途に居られたが多く東京在住であられた為め、色々な方面で私との交りも可成り長い間のものであります。君と交はるに至つた最初の機会は何であつたか今は判然記憶しては居りませぬが、何でも君が内務省の神社局長であられた時代であつたかと思ふ。皇典講究所の会計問題で内務省と交渉した、其時井上さんが内務省側の人として交渉されたのが、井上さんとお交りした最初であつたと思ふ。
 其後明治神宮奉賛会のことで、屡々井上さんの御世話になるやうになつたが、至つて物事に親切で物分りのよいお方で、心に思うたことは遠慮なく話す、其点は私と稍相似た御性格であつた。社会政策事業や感化救済事業に余程興味を持つて研究をされ、蘊蓄も仲々深く此の方面に尽されたことは、寔に偉大なものでありました。中央慈善協会は私が会長ではあるが、井上さんや渡辺勝三郎氏・桑田熊蔵氏等が骨を折られて出来上つたもので、謂はゞ井上さんが作られたものであります。又東京府慈善協会といふのを一昨々年であつたか設けられて、着々実行を挙げて居られる。其他商工奨励館・廉売所・簡易食堂・公設市場など、色々の社会事業を計画されたが、なかなか計画も立ち実行力もあつて学者には珍らしい方であつた。
 今度政府の学制案が実施さるに付、東京府には高等工芸学校を建てることにし度い、それには建設費の一部として百万円余の寄附が必要だからといふので、井上知事は各方面に奔走されて、私にも先日其事を話され、何でも寄附と云へば持つて行くやうだがお世話にならねばならぬ、就ては今迄色々厄介になつた其の御礼旁々工芸学校の事に就て意見をも聞きたいから、十一日には是非帝国ホテルに来てくれと云はれたので、他の約束も断つて参つたのが、前に申上げたやうに今世の別れとなつたので、誠に夢のやうな気が致しまする。
 斯様な次第で長い間お交りをしてゐたが、事務に熱誠で計画が緻密で誠に万事行き届いた方であつた。斯の如き人を地方長官としても、私の社会事業のお友達としても、今失うたことは誠に残念至極であります。逝くものは帰らず、如何に思うても致方ないのであるが、甚だ遺憾に堪へませぬ。