デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
2款 社会事業協会 = 財団法人中央社会事業協会
■綱文

第30巻 p.564-567(DK300072k) ページ画像

大正15年2月25日(1926年)

是日栄一、当協会雑誌「社会事業」ノ求メニ応ジ児童救育ニ関スル経験談ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一五年(DK300072k-0001)
第30巻 p.564 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年     (渋沢子爵家所蔵)
二月二十五日 晴 寒
○上略 九時原秦一氏来《(原泰一氏)》リ、社会事業協会雑誌ノ為メ児童及少年ニ対スル予ノ経験談ヲ請ハル、依テ往年養育院ニ於テ実験シタル実際談ヲ為ス蓋シ其雑誌ニ記載スル為メナリ ○下略


社会事業 第九巻第一二号・第四―七頁 大正一五年三月 児童救育の回顧(中央社会事業協会会長子爵渋沢栄一)(DK300072k-0002)
第30巻 p.564-567 ページ画像

社会事業  第九巻第一二号・第四―七頁 大正一五年三月
    児童救育の回顧 (中央社会事業協会会長子爵 渋沢栄一)
 社会事業と云ふ広い範囲の問題に就ては、私はその方面の研鑽を積んだ身でもなく、又職掌上の体験を経て居ると云ふのでもないから、何事も語り得ないのであるが、児童保護事業に関しては多年の間関係して居る東京市養育院の事業の一部として、孤貧児・遺棄児等を収容保護して居るを以て、聊か知れる所もあり、且つ平常抱懐して居る意見もあるから、思ひ出づるまゝを玆に述べて見やう。
 人の一生中小児期より青年期に到る迄の間が、最も大切なる時期であることは周知の事柄である。此間に人の本性は善にも染み、悪にも傾むく。さればこれを如何に教へ導くかに就ては、其の精神東西洋共一致して、仏教にせよ、儒教にせよ、基督教にせよ、同様であることは申す迄もない。
 然してその注意は、家庭にて父母兄姉などの保護監督の下にある児童に対してばかりでなく、家庭もなく保護者もない無告の児童等に対しては、尚更大切なことであつて、済世の志ある者の深く考へなければならぬ所である。
 双葉の頃より培ひ育てる植木は、若木の時に枝を撓め、姿を正すならばいと容易に意の儘に扱ひ得、従つて見事な盆栽も仕立てられるが老木になつてからは中々思ふまゝにならず、強ひて枝を撓めんとせば折れてしもふ惧れがある、人の一生もその通りで、幼少年時代に受けた悪化はその人の一生を支配する重大なる地位を占むるものである。
 東京市養育院は明治五年に創設され、私は其の翌々年の明治七年から之に関して居る、中々古い話で、その間に幾変遷はして居るものゝ其処に収容せられる児童の教養方針としては、一貫したる一個の主張
 - 第30巻 p.565 -ページ画像 
があるのである。是について私は非常に深く印象づけられた事件があつた。
 明治八・九年頃のことであつたと思ふ。養育院が上野公園の護国院境内にあつて、東京府の名で経営して居た頃である。収容されて居た児童も四・五十名位であつたであらうと覚えて居る。その頃の世話係りであつた人々は何れも故人となつたが、中に飯田某と神保某と云ふ武士上りの人があつた。相当に文筆にも長じ、識見もある人であつたが、何しろ武士上りのことゝて厳格一点張りで、窮屈極まる取扱振りをし、児童等に対しては恰かも罪人を監視するが如き態度で世話をして居た。たとへば児童等が面白さに紛れて跣足で戸外に出たと云ふては罰を加へ、垣根の竹を抜いて戦争ごつこをしたと云つては、その竹を以て打つと云ふ具合であつたから、子供等は少しも世話係りの人々に愛情の籠つた依頼心を起さうとはせず、徒らに畏怖心が募り、顔色を窺つておどおどする許りであつた。監視としては注意が行き届いていゝやうに見えたが、子供等にのびのびとした風が見えず、遂に身体の発育に迄害を及ぼす惧れさへ感んじられた。私はこれではいかぬと思つたので、其の両人を呼んで注意したところ、両人口を揃へて「斯くしなければ彼等の悪戯が益々増長する計りである」と抗弁して譲らない。で私は「普通の家に生れた子供等を見よ。父母が夫程迄に厳密に監視せずとも、自ら善悪の区別を知つて行儀を覚えて行くではないか。のみならず子供等は自分の依頼し得る人を求めてその愛情を満足させ、其処に子供らしい我儘や、人間らしい柔和さを増し加へて行くものである。母の懐に泣く子は、悲しいからとてばかり泣くのでなくて、優しい母の腕に抱かれた悦しさに甘えて涙を流し叫びを立てるのである。されば君等の如く懐いて泣こうとする心をさへ押へて叱るのでは、さらでだに淋しい親無児の彼等は一層拗ねて了ふではないか。此道理が分らないとあれば直ちに職を辞めて貰ふより仕方がない」と諭したことがあつた。
 其のうち世話係の中から竹下某と云ふ者が現はれて、私の説に大に賛成して呉れ「私こそ彼等の父となり母となつて見守つて行こう」と云ひ出し、養育院内を普通の家庭のやうな組織として、爾来今に到る迄此主義を渝へることなしに子供等を育て哺みつゝあるのである。
 現在では板橋の本院、巣鴨と安房の分院、井の頭学校等に収容してゐる児童と、里子に出して居る者を加へて約一千名にも上るが、職員は皆前述のやうな心地を以て従事して居る。私は毎月十三日を院への訪問日と定めて、出来る限り出かける事にして居るが、その日は僅かばかり宛の菓子を子供等にお土産として持参するから、子供等もそれを楽しみに待つて居てくれるやうである。
 其後養育院に於ける児童の収容者が殖えて来るに従つて、彼等の教育を如何にすべきやと云ふことか段々と問題になつて来た。之等の者に完全な教育を与へることは理想としては望ましいことであるが、院の経済としては中々行はれることではないので、差当り普通の読み書きに差支へない程度の学問を授けるだけの設備は整へてある。然し之等の児童の将来を思ふて、文筆を以て世に処して行き得られる程には
 - 第30巻 p.566 -ページ画像 
修養せしめ得られるものではないから、院としては、寧ろ彼等の腕に職を授け、世に出て一本立となつて生計の出来る者としてやる計画を立てた。それで中には「雇ひ預け」と称して、各種の商店・小工業家の人達が、院児を徒弟として引受けて仕込んで呉れ好い具合に行つて居るものもあるが、中々全部の児童に迄は及はない。故に院では長年月の間何等か職業教育を実施すべく企てゝは見たが、切り詰めた経費を以ては容易に実行出来ずに悩んで居た。然るに一昨年頃或篤志家から此為めにとの指定寄附があつたのを基として、巣鴨に徒弟教育の施設を創めた。現在では百人位を収容し、普通小学校の学課の外に、女児には裁縫・洗濯、其の他の女芸を仕込み、男児には印刷・状袋張り建具屋の下職のやうな仕事を教へる仕組か出来た。私は隔月位に此処をも訪問して児童を集め、私及び院の幹事から奨励又は慰藉の言葉を与へてくることゝして居る。
 養育院の経営として府下井之頭公園に感化院井之頭学校があるが、此創立は三十年にも近き昔であつた。当時院の幹事であつた安達憲忠氏が、或時話の序に東京市にも不良少年が益々増加して来て、之を其の儘放任するに於ては、遂には掏摸・窃盗の類と化して了うから、何とか一ケ所に収容して、感化誘導してやり度いものであると云ひ出した。私共はそれに大に共鳴して、時恰かも英照皇太后の崩御あらせられた時で、全国の慈善事業に御下賜金があり、東京市へも一万七千円程の御下賜金があつたものを運動の結果頂戴し、之に約十万円位の寄附金を集めて、大塚にあつた旧養育院の一部に感化院を設立した。其の頃三好退蔵と云ふ方が同じ目的で私の所へ相談に見えられたので、其の人を容れて主任とし、又東京府の代用感化院として補助を受けることも出来たので、愈々明治三十三年に五十人計りを収容して見た。所が約半歳も過ぎた頃院内から大反対が起つて来た、それは院に収容してある幼小児に、不良少年等が甚だしい悪感化を及ぼし、彼等の白紙の如き心を汚すことが大きいので甚だ迷惑だと云ふのであつた。之には当事者も大に閉口して、感化院を他に移すことゝし、当時御料局に居られた岩村氏を介して井之頭御料地の一部を拝借して新たに起工し、明治三十七年に移転したのである。
 其の頃の調査には東京市内に五千人位の不良少年が居ると云はれたものだから、我等の予想では二千名位も収容出来るものを望んだのであつたが、愈々着手して見ると金と人手が中々要るので思ふに任せずいまだに漸く百五十人位より収容出来ない有様であるが、之とても無いよりは勝るであらうと自ら慰めて経営しつゝある。私は一年に二・三度位より訪れることが無いので、自ら世話するとは云ひ得ないが、実際に従事する人々がこの困難な事業をよく忍耐してやつて居らるゝことを深く感謝して居る。
 養育院などに収容される児童を観察して見ると、その通有性として「我」の強いことが見出される。即ち自己のみを知つて他を省みることを知らず、又権利の主張を知つて義務の履行を知らうとはしないのである。此児は夫程愚かでもないのにと思はれる位な児でも此点にかけては甚しく驚かされると云ふ例が乏しくない。
 - 第30巻 p.567 -ページ画像 
 之は、彼等が何れも宜しくない環境の下に置かれた事に起因するのであるが、又一方彼等には、慈愛に充てる父母又は保護者がない為めに、黙つて居ては、欲しいものは貰へず、与へられる可きものも忘れられると云ふ杞憂を抱いて、知らず知らずに権利を主張し、自然我が強くなるものと見られる。
 さればこそ、斯うした児童を扱ふものとしては、親と同じ愛の心を持つて彼等に接せなけれはならぬと云ふ事を深く感ずると共に、私は直接斯かる児童を教育する尊い事業に当らるゝ方に、切に斯る方面に対する深甚の注意を望むものである。