デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
2款 社会事業協会 = 財団法人中央社会事業協会
■綱文

第30巻 p.576-579(DK300074k) ページ画像

昭和2年7月15日(1927年)

是日、日本倶楽部ニ於テ当協会並ニ中央融和事業協会聯合主催ニヨリ、全国学務部長会議ノ為メ上京中ノ各府県学務部長ノ招待会開催セラル。栄一之ニ出席シ一場ノ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四六七号・第一一七号 昭和二年八月 青淵先生動静大要(DK300074k-0001)
第30巻 p.576 ページ画像

竜門雑誌  第四六七号・第一一七号 昭和二年八月
    青淵先生動静大要
      七月中
十五日 ○中略 中央社会事業協会・中央融和事業協会主催、学務部長諸氏招待会(日本倶楽部)


竜門雑誌 第四六七号・第一―六頁 昭和二年八月 近事三題(青淵先生)(DK300074k-0002)
第30巻 p.576-579 ページ画像

竜門雑誌  第四六七号・第一―六頁 昭和二年八月
    近事三題 (青淵先生)
      一
  七月十五日の夜、折柄上京中であつた各府県学務部長を、中央融和事業協会と私の会長たる中央社会事業協会との聯合で日本倶楽部に招待しましたが、其折中央融和事業協会々長たる平沼男爵の挨拶に次で、大要次のような話をしましたから、社会事業の変遷を偲ぶことも出来ようかと思ひ玆に話して置くのであります。
 各府県学務部長の諸君が、内務省の召集に応じて御上京になつたのを好機とし、融和事業協会並に中央社会事業協会に於て、かれこれ御協議致したいことがありましたので御案内申しました処、暑中にも拘らず斯く多数に御出席下さいましたのは、主人側として感謝に堪えませぬ。融和事業に関しては平沼男爵から御話がありましたし、又社会事業関係に就ては夫々専務の方から御打合せをする筈でありますから私は我国社会事業の変遷の次第を簡単に申上げて見たいと思ふのでございます。
 - 第30巻 p.577 -ページ画像 
 私は院長となつてゐる東京市養育院に毎月十三日に出勤することに致して居りますので、一昨日も参りまして、同院最近の月報を見まして、過去五十年の歳月を我身に触れて思ひ出し、如何にして斯くも変化したかの感想を惹起し、遂には昔と今と何れが果してよからうかとの疑問をさへ持ち、且つ世に必要な事業であると解つて居ても、時の変化はこうまで社会事業に対する感触を変へるものかと、真に無量の感慨が湧くのを覚えたのでございます。玆に諸君に此の事実を申上げるのは何かの御参考にもなるであらう、必ずしも無駄ではなからうと考へて、敢て御話する次第であります。
 一体失意の人を憐み社会の落伍者に同情し、此等の救護に努めることは、国民の為すべきことゝされて居りますが、此の考へも年と共に変化するので、一概には論ぜられないのであります。例を東京市養育院の過去五十年の変遷に見ましても歴々たるものがあります。養育院の最初は乞食を集めたのであります。西洋の乞食に就てのことは調べないからよく知りませんが、日本に於ては物貰ひは古くから居りました。私が知つてからでも乞食が家毎に米を貰つて歩くのが一般の風習であつて、其数も中々沢山居り、大店などへは常時二十人も三十人もつめかけて居る有様で、見た処頗る体裁が悪く、鬱陶しいものでありました。其処で明治五年であつたと思ひますが、外国から身分のある人が来遊されるに就て、乞食狩をして之を一ケ所に集めることになり此等を収容したのが養育院の起りであります。その時三百数十人を集めましたが、早速生活の方法を考へねばならなくなりました。そして斯く集める前には官許の非人頭として車善七と云ふ者があり、何かと乞食の世話をし生活出来るやうにして居ましたが、斯く一ケ所に集めて見ると、其の生活の料を与へる為めに相当の費用が必要でありますのに、此費用の出所に先づ困難したのであります。何分当時は新政府の成立後日尚ほ浅く、財政の如き頗る逼迫して居た時のことでありますから、乞食の収容に要する資金の出所がない。そこで種々苦心協議した結果、松平楽翁公が蓄積してあつた共有金が、政府のものでもなければ個人のものでもないので、差当りそれの内から支出することにしました。そして場所は初めには上野の護国院を充て、東京営繕会議所(後の東京会議所)と云ふものが世話をしたのであります。私が其仕事に携はるようになつたのは、当時の東京府知事大久保一翁氏に依頼せられたからであります。此人は静岡藩時代に私の先輩だつた関係から私が銀行者になつたに就て、其保管に係る共有金を基本として成立した東京営繕会議所の会長を委嘱されたのでありました。東京営繕会議所は後に東京会議所となり、多くは社会事業的の事柄を行ひ、乞食の世話の外、道路・橋梁のこと、墓地のこと、或は東京商科大学の濫觴たる商法講習所等の世話を主として行つて居たのであります。
 然しながら乞食の世話から始められた養育院は、単に共有金のみでは充分に其機能を発揮することが出来なくなり、明治十二年府会が開かれると同時に、府の方から経費の支出をすることに決したのであります。当時の府知事は楠本正隆氏で、私は議員にはならなかつたが、福沢諭吉氏・福地源一郎氏などは議員になりました。斯くて十二・三
 - 第30巻 p.578 -ページ画像 
年になると護国院は狭くなつて来たので、泉橋の藤堂屋敷に引移り、其後本所の長岡町へ、それから又大塚へ、更に近頃板橋へ転じました本院だけに就いても斯くの如く屡々移転した程でありますから、其間に自ら性質も変化して参りました。明治十五年であつたと思ひますが養育院の維持に関して強い反対論が起りました、それは当時府会議員であつた沼間守一氏などが「元来人たるものは他人から援助を受くべきでない、誰かどうかして呉れるであらうと云ふやうな考であつては自彊息まずでなく、やんでしもふ結果になる。此様なことではいかぬ救済されると云ふやうな考へを持つことのないやうにせねばならぬ、救済するから其様なつまらぬ考を出すのである、であるから救助などしてはならぬ、故に他人には冷酷でなければならぬ。」と主張し、此考へ方が一般を風靡しました。然し私はさうは思はず、救助しなければならぬ、又他人に冷酷であつてはいけないとして、大いに論じましたけれども力及ばず、遂に府の経費支出は中止せられることになつたのであります。但し沼間氏等とは反対の意見を持つて居たとは云へ、私交上には相変らず親しくしましたし、其の兄の須藤時一郎氏の如き第一銀行の重役であつて常に懇親でありました。
 斯くて府会から見離された養育院としては詮方なく、新たに収容することを中止し、自然に減少閉鎖する方針を執るに至つたのでありますが、私としては之を維持するのは頭の上にふりかゝつた責任であり職分であると考へて、大いに努力したのであります。即ち十八年に到り府の手から全然離れて独立し、其の経費は私が同志の者又は家内などに相談して組織した婦人慈善会などの寄附金によつて、二十二年まで五ケ年間維持しました。当時本院は本所の長岡町に在つたのであります。処が二十二年に地方制度が布かれ、東京市に自治制が採用せられましたが、其の間時世の変化が相当に激しいものがあり、養育院に対する一般の考も変り、沼間氏等の唱へた冷酷論は世の容れない所となり、反対に社会に於ける必要なものとして維持しなければならぬが将来をどうするかと云ふことが問題になつたのであります、処が市の方で、必要があり適当な施設であると思ふならば引受けてもよいと云ふ内務省令がありましたから、玆に養育院を東京市で引受けることに決定しました。此時の東京市制は特別市制で、其の市長は府知事が兼任して居りました。然し此等の制度は此処に詳しく論ずる要はありませんから省略致しますが、要するに養育院は個人経営から地方制度の実施と共に東京市に移され、爾来市設の事業として維持せられつゝあります。
 然るに其後に於ける社会事業の必要は愈々加はり、官庁や自治体に於ても其事務を取扱ふ為め、社会局を置くようになり、東京市にも設置せられましたが、養育院は古い歴史もあり、慣例もあり、且つ各方面の有力者から多額の寄附金があつて、総ての設備なども行はれて居るので、市に於ける他の社会事業と同一視して其監督下に置くのもどうかと云ふことで、特別なものとして、有名無実ではあるが、私が院長となつて経営して居るのであります。そして本院は板橋にありまして建物設備等も相当のもので、不具者や不具に近い所謂貧民の居る所
 - 第30巻 p.579 -ページ画像 
ではありますが、それ程汚くもなく、粗末でもありませず、衛生なども充分に気をつけて居り、目下千名からの収容者があります。又病院には不治の病者が二百人位居り、更に棄児・迷子等の為め巣鴨に分院があります、巣鴨分院に収容したものゝうち、嬰児は里に出して居りますが在院児童の数は三・四百人程度であります。又病弱な児童は房州の船形の分院で療養せしめて居りますが、此れは空気療法をさせるのがよいと云ふ医師の説に拠つたものであります。尚ほ明治三十三年頃東京市内に不良少年が三千人からあり、それ等の者を指導感化する必要があると云ふので、井の頭公園の傍に、不良少年感化所を経営し全体から見ると僅に一小部分ではあつたが百五十人ばかりを収容し、現に継続して居ります。此の地所は初め宮内省から拝借して居りましたが、宮内省から東京市に譲渡されたものゝ一部であります。
 斯様に私は東京市養育院と頗る古い関係にありますが、同院が年と共に発展して参つたのは、一般の人々が此種の社会事業を欠くべからざるものとして、寄附金其他後援に尽されたからであります。其の結果現今では基本金の内から日常の費用の支出さへ出来る有様であります。故に名は東京市養育院であつても、市の金で設置されたとか、府の税金の内から設備せられたと云ふのでありません。
 斯様に開院した当時の有様と今日の社会の状態とを比較して考へ、所謂社会事業なるものに対する人々の感触の相違を顧みますと、感慨無量であります。前にも述べました通り、沼間氏等の主張によつて、一時私の説が敗れた形であつたが、後に至つて、私の主張通りになり大に喜んだのでありますが、果して長きに亘つて満足であるかと云ふと決して満足であると申すのではなく、或は冷酷であつたならば、今頃は養育院の必要が無くなつて居たのではあるまいか、とさへ思ふことがあり、今猶何れがよいかと断定出来ぬ程であります。
 従つて此点は将来社会事業に携る人々に依つて深く考慮して戴きたいと存じまして、老人の回顧談になつて恐縮でしたが、敢て申上げた次第で御座います。



〔参考〕財団法人中央社会事業協会書類(三) 【昭和二年五月十七日…】(DK300074k-0003)
第30巻 p.579 ページ画像

財団法人中央社会事業協会書類(三)      (渋沢子爵家所蔵)
  昭和二年五月十七日
         財団法人中央社会事業協会
             会長 子爵 渋沢栄一財団法人中央社会事業協会会長之印
    子爵 渋沢栄一殿
謹啓、時下益々御清栄奉賀候、陳者貴下には従来当協会評議員として一方ならぬ御厚配を賜り候段誠に難有奉深謝候、就ては当協会役員任期は去る四月廿一日を以て満了と相成候処、貴下に於かせられては御多忙中乍御迷惑何卒重ねて御就任の上引続き当協会事業の発展の為め御尽力賜り度、此段御依願申上候
                          敬具