デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
4款 東京市施療病院
■綱文

第31巻 p.93-95(DK310013k) ページ画像

明治44年6月(1911年)

是月栄一、東京市施療病院ノ評議員ニ就任ス。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁 昭和六年一二月刊(DK310013k-0001)
第31巻 p.93 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調  竜門社編
               竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁 昭和六年一二月刊
    明治年代
 年  月
四四  六 ―東京市施療病院評議員―


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK310013k-0002)
第31巻 p.93 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
七月十二日 晴 暑
○上略 四時築地東京市施療病院ニ抵ル、其評議員ニ列スルヲ以テナリ、要件ヲ議了シ、後ニ院内ヲ一覧シ、各病室其他一切ノ設備ヲ見テ、午後六時半王子ニ帰宿 ○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK310013k-0003)
第31巻 p.93 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
一東京市施療病院評議員 四十四年六月



〔参考〕東京市会史 東京市会事務局編 第三巻・第七〇七―七〇八頁 昭和八年三月刊(DK310013k-0004)
第31巻 p.93-94 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第三巻・第七〇七―七〇八頁 昭和八年三月刊
 ○明治年間 第七章 明治四十四年
    第五節 東京市施療院規則設定ノ件
三月八日ノ会議ニ、左ノ議案提出セラレタリ。
  第二十四号
                  (右側《(原注)》ノ○印ハ本会ノ修正
     東京市施療病院規則設定ノ件
                   左側ノ―印ハ原文ノ削除)
  東京市施療病院規則左ノ通設定スルモノトス
    東京市施療病院規則
  第一条 本院ハ、東京市住民ニシテ医療ヲ得ル資力ナキ傷病者ヲ施療スル所トス
  第二条 患者ハ外来・入院ノ二種トシ、学術研究ノ用ニ供スルコトアルヘシ
  第三条 入院ヲ請フ者ハ、願書ニ左ノ事項ヲ記載シ、所轄区長ノ証明ヲ得テ本院ニ差出スヘシ
    一、本人又ハ扶養義務者ノ、族籍・住所・職業・氏名・年齢
    二、生活情況
    症状ニ依リ前項ノ手続ヲ経ル暇ナシト認ムル場合ハ、之ヲ猶予スルコトアルヘシ
  第四条 入院ノ許可ヲ受ケタル時ハ、入院証及剖検願書ヲ差出スヘシ
  第五条 施療日数ハ三週間以内トス、但症状ニ依リ伸長スルコトアルヘシ
 - 第31巻 p.94 -ページ画像 
  第六条 入院患者十歳未満、又ハ症状ニ依リ必要ト認ムル場合ノ外、附添看護ヲ許サス
  第七条 死体ヲ剖検ニ附シタルトキハ、遺族若クハ身元引受人ニ祭粢料ヲ給与ス、但本院ノ費用ヲ以テ埋葬スル場合ハ此限ニ在ラス
  第八条 本院ノ規定ヲ遵守セサルトキ、又ハ患者其定限ヲ超ユルトキハ、治療之ヲ拒絶スルコトアルヘシ
本案ハ、初メ同時ニ提出セラレタル四十四年度予算案及ビ其関係議案ト共ニ、一括議題ニ供セラレタルガ、左ニ記述スル経緯ニ由リ、此等諸案ト分離シテ単独ニ審議スルコトト為リ、結局上記ノ修正ヲ以テ即決セラレタリ。
○下略



〔参考〕東京市養育院月報 第一二二号・第一三頁 明治四四年四月 東京市施療病院の開始(DK310013k-0005)
第31巻 p.94 ページ画像

東京市養育院月報  第一二二号・第一三頁 明治四四年四月
○東京市施療病院の開始 築地海軍大学校用地内に建設中なりし市立施療病院は、此程全く竣工し、内部の設備も亦た整ひたりしかば、三月二十八日午前十時開院式を行なひ、四月五日より愈々実地施療を開くこととなりたり、開設後未だ日浅きを以て、被施療者の数は未だ甚だ多からずと雖ども、其診療手続は頗る簡易を旨とし、細民にしあれば何人にても住所氏名を申出づるのみにて、診察を受け得らるゝ筈にて、三週間以上に亘る場合は、区長の証明を得て更に通院若くは収容治療を受くべきことゝし、患者の為めには最も懇篤親切を極めつゝありと云ふ、尚ほ同院の受付時間は、新来者午前七時半より同八時半まで、再来者午前八時半より同九時半までにて、各科の診療日割は当分左の如く定めらる。
   内科        毎日
   外科        毎日
   皮膚及泌尿器科   月・水・金
   眼科        毎日
   歯科        毎日
   耳鼻咽喉科     月・水・金
   婦人科       火・木・土



〔参考〕東京府史 東京府編 行政篇第六巻・第七八四―七八六頁 昭和一二年五月刊(DK310013k-0006)
第31巻 p.94-95 ページ画像

東京府史 東京府編  行政篇第六巻・第七八四―七八六頁 昭和一二年五月刊
 ○第二 第五章 病院
    八 東京市立病院
○上略
 東京市立築地病院 位置 京橋区築地五丁目
 市立施療病院設置の議は、明治三十二・三年の頃より度々市参事会の議に上つたが、経費の関係上容易にこれが実現を見るに至らなかつた。然るに同三十五年十一月、三井家の総代男爵三井八郎右衛門氏より施療病院基本金として金十万円の寄附を得て、病院建設の議が遽かに決し、専ら敷地の物色中、偶々海軍省より病院開設後に於ける患者の治療を、海軍軍医学校教職員をして担当せしめたき条件の下に、海
 - 第31巻 p.95 -ページ画像 
軍軍医学校に接続せる海軍省用地約千坪を無償貸与すべき旨の交渉があつたので、大に便宜を得て相互協議を進め、同四十年九月、内務・海軍両大臣に対し敷地借用方を出願してその許可を得たので、直に敷地の整理に着手した。即ち内堀の埋立、護岸の改修及び橋梁の架設等をなし、明治四十三年五月建築工事に着手し、同四十四年三月二十八日開院式を行ひ、同年四月五日を以て開院した。
 その後再三敷地の増借を為し、建築を行つたが、大正十二年に至り大震火災に遭遇し、建物全部を烏有に帰したので、震災復旧費予算百二十八万千円を以て改築することとなり、昭和三年十一月二十七日工事に着手し、昭和五年三月三十一日竣功した。
 右改築の議起ると共に、敷地は昭和三年十二月十二日海軍大臣官房第三千八百九十八号ノ三を以て、新に京橋区築地四丁目海軍省用地二千四百八坪一合三勺の無償使用の承認を得た。
 その後昭和五年九月一日渡廊下建設の為、地坪三十坪七合七勺の無償増使用の承認を得て現在に至つてゐる。
 新築建物は耐火構造鉄筋混凝土造、二・三・四階並平家建地下室付で、総建坪三千百二十五坪九合九勺六才、収容定員二百五十名で、昭和五年二月第一期工事(延二千二百七十四坪五勺二才)完了と共に旧建物から移転し、昭和六年三月三十一日竣功し現在に至つてゐる。
 尚本院は、昭和三年二月十一日東京市告示第四十七号を以て、施療病院の名称を築地病院と改称し、院長は海軍軍医学校長にこれを委嘱し、副院長以下の医員も全部海軍軍医学校の職員に委嘱してゐる。
 本院は東京市住民で医薬を得る資力のない傷病者を施療する所で、入院・外来の二種とし、入院を請ふ者は、規定の願書に所轄区長の証明書を添へて提出することになつてゐる。震災以前に在つては百二十の病床と、一日平均四百人の外来患者を診療する設備であつたが、受療患者日を逐ふて増加するに鑑み、漸次病舎その他の拡張を図り、現在に於いては一日平均入院患者二百三十人、外来患者六百五十人を診療してゐる。
○下略