デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
17款 財団法人癩予防協会
■綱文

第31巻 p.205-210(DK310039k) ページ画像

昭和6年5月12日(1931年)

是ヨリ先、皇太后陛下ヨリ当会ニ対シ御下賜金アリ、是日栄一、陛下ニ拝謁シテ当会ニツキ言上ス。


■資料

竜門雑誌 第五一二号・第一―七頁 昭和六年五月 皇太后陛下に拝謁して 青淵先生(DK310039k-0001)
第31巻 p.205-208 ページ画像

竜門雑誌  第五一二号・第一―七頁 昭和六年五月
    皇太后陛下に拝謁して        青淵先生
 昭和六年五月十二日は、私の経来つた九十二年の生涯中特筆すべき日となりました。その日私は皇太后陛下の御所に出頭して陛下に幾度目かの拝謁を賜つた上、いろいろ有難い御言葉に接したのでございます。予て昨年秋頃から、内々で謁を給ふとの御沙汰がありましたけれども、老人の私は病気勝のためお免を蒙つて居りましたが、此の頃では外出しても差支ないまでに快復しましたので、敬三が入江皇太后宮大夫と知合の間柄である処から、お様子を伺つていたゞくと、十二日の午前十一時頃と十九日の午後一時頃ならば、と云ふことでありましたから、十二日の午前十一時に参内したのでありまして、別に取りたてゝ、御話する程の事柄ではありませんが、私としては光栄此上ないことでありました。
 御承知の通り私は、年来癩病の絶滅に就て思ひを致し、現に癩予防協会の設立に尽し、その施設を為すべく、内務大臣の安達さんなどゝ相談して議を進めて居りますが、此の事が畏れ多くも皇太后陛下の御耳に入り、癩病の撲滅と云ふことは非常に大切なことで、外国でもいろいろ絶滅の方法を講じて居ると聞いて居る。然るに此の病気は日本にもあるさうである。渋沢などが大変心配して居るのは奇特の至りである。何れは費用も相当かゝるであらうから、内帑の節約を出来るだけして、その費用の内へ下賜金をしたい。そしてそれは一度には難しいから、毎年一万円程度を十ケ年位支出するやうにしたい故、基本金の内へ之を差加へることにしてもらひたい、と云ふ意味の御事を一木宮内大臣を通じて、安達内務大臣にまで御内意がありました。此事を安達さんが事務所へ御出で下すつてのお話なので、私は実に有難い思召に感泣した次第で、先の短い身ながら、出来得る限り、予防協会のために尽力せねばならぬと思ひました。実際斯様な事業は官民相共力して行ふべきでありまして、国家的にならねば完成は困難でありますが、其処へ皇太后陛下が斯くまでの御思召を下さるのでありますから私としては厚く御礼も申上げねばならぬと考へて居ました旁々、御所
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へ罷出で拝謁を賜つたのでありました。
 皇太后陛下に拝謁しましたことは数度で、一度は宮中、また一度は震災後協調会にて罹災者救護の方法を設けて居た時、行啓遊ばされ親しく御言葉を賜りました、それから今一度は慈恵会の病院が出た時、これを御覧のため同じく行啓になりました時でありまして、何れも当時は尚ほ皇后陛下であらせられました。
 従つて何かにつけて、陛下には畏れ多い申分でありますが、私の事業のことを御心にかけさせられまして、一昨日も、種々近況に就て御下問を受けましたので、予防協会の事を御答へ申上げました。すると私の老体のことを、御案じ下さいましたものと拝察されまして、癩患者の絶滅に対する施設に熱心であるのは結構であるが、無理をして身体を壊さぬやうに、身を大切にすることを忘れないやうにとの、もつたいない御言葉を頂戴いたしました。而もまた拝謁の折には椅子を賜り、腰を下して対話するがよいとの仰せでございましたけれども、私は聊かの時間を失礼に当つてはと存じまして、立つたまゝで奉答申上げました処、二度ばかりも、腰を下したらよからう、と老人を御労り下さる御様子に恐縮致しましたやうな訳でございます。そして予防協会への御下賜金のことは、別して有難く拝承いたしましたことや、協会の法だては、未だ着手までに進んで居りませぬから、効果の現れますのは後々のことで、申さば気の長いことでございますが、一時も抛擲して置くことの出来ぬ事であります、それを陛下には万事御慮り下さいます思召は、事に従ふ私共の光栄のみでございませぬ、旨を申上げ、且つ私としましては年齢が年齢であります故、その効果の見えるまで努力し得るかどうかは予断の限りでありませぬが、先づ癩病は直接伝染で空気伝染の惧れはないと云ふことに学者の意見も一致して居りますから、浮浪患者が約五千あると云ふ内で、千百人は東村山の全生病院で収容して居り、尚ほ千四、五百人を他の療養所で目下収容して居るから、残りが二千五、六百人あるのを収容隔離することを目的とするものであります。又自宅にあつて療養して居る者はかなりある見込であるが、これ等は現在の如き特殊の療養所に強制的に収容することは出来ないから、政府が隔離法を制定して、それに依らしめ伝染の憂のないやうにする、そして之が撲滅には相当の年限を要する上、癩患者と雖、人として生れて来た者でありますから、自然に死ぬまでは、此の隔離所で慰安の方法を講じ、楽しく老後まで生活出来るやうにすれば、凡そ四、五十年、少くとも三十年位の年月は見込んで、その後に於て此の病人が死絶える時、効果が現れると云ふことになつて居ります、米国の如き最も此点に力を入れて居るのであります、などと申上げ、御聴きに達したのでありました。
 陛下には尚ほ私が養育院に尽力して居ることを、よく御承知であらせられます、さきには大森さんが皇后太夫であられました時、陛下の仰せ付けであるとて、表立たないで養育院の参観に御出でになつたことがあります、その時に御内帑金を下されましたので、その御礼言上に参内いたしました処、計らずも拝謁を賜りましたことがあります。その時、私が養育院へ関係した抑もの初めから申上げ、御維新の当時
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でございましたから、既に五十年にも相成りますと申し上げました。すると陛下には怪訝な御様子で、渋沢は幾つになるか、との御尋でございました。私は恰度七十八歳の時でありましたから、その旨を御答へ申しますと、初めて成る程と御肯きの御模様に拝しましたが、丈夫さうだから尚ほ長年月経営が出来るであらう、との御言葉を賜りました。その後震災直後協調会へ行啓になりました折にも、私に対して、聞けば房州の養育院の分院が崩壊して、少年が十人ばかり圧死したさうであるが、お前はさぞ遺憾に思つて居るであらう、それで後の建築はどうするのか、との仰せでございましたから、只今震災善後会と云ふ会を徳川家達公などゝ相談して組織し寄附金を集め、救護のことに当つて居りますが、その方から養育院の方へ寄附を願ひ、五棟の建物は復旧することになつて居ります、と御答へ申上げたやうなこともありました。その後慈恵会へ行啓の時、養育院の船方の分院は復旧したさうで写真を見たがよく出来た、との御言葉を賜りました如く、誠に陛下には慈善事業に対して非常に御心を寄せ給ふて居られます。
 今度は癩病予防のため私が努力して居ることを嘉して下さいました上、何分老年であるからと云ふ御労りの御思召により、拝謁を賜つたので、特に御紋章入りの御杯と鶴の置物と、宮中で養蚕遊ばされた生糸で織つた反物、及び御菓子を頂戴いたしました。実に一般的な形式上の拝謁でなく、真においつくしみの御事でありますから、私は何と御礼の言葉もない次第で、只管養育院や癩予防に尽さねばならぬと、今更ながら覚悟したやうな訳であります。
 然しまた、私が癩病に同情するに到つたのには一つの原因があります、と云ふのは、私の故郷である血洗島の宅の隣に此の病気の人があつて、恰度私と同年位の子供があり、よく一しよに遊んで居りましたが、母が非常に此の一家に同情し、可哀想だから親切にしてやらねばならぬとて、人が嫌ふに拘らず、御自分では食物などをよく持つて行かれて居ました、そして此の私と同年位の子は廿歳ばかりで死にましたが、その母親は相当長生しました。さう云ふ風に私の母が彼等に親切にしてやつて居られましたのを見て居たので、その印象が強かつたのであります。それから後何時であつたか渡米して帰国の途中ハワイへ立寄つた時、そのモロカイと云ふ処に癩病の療養院があつたのを観て、文明国では斯く施設せねばならぬと感じ、注意すれば之を絶滅することが出来ると、その院長のヂィンと云ふ人から聞いて、これこそ国家として行はねばならぬことであると切実に思ひまして、帰国したのでありますが、養育院に収容して居る人の中には癩病が多かつた。今日はその病気の人は入院させぬことにして居りますが、当時は収容して居たのでありました。その数は養育院に三、四百人居た内二十幾人からに達して、その処置に困つて居りました。すると同院の医師で只今は国立癩療養所長になつて居る光田健輔と云ふ人が頻りに心配して、癩病に関する研究を為し、外国へも二度ばかり行つて来た末、それは直接伝染はするが空気伝染はしないから、隔離さへすれば予防出来る、又その以外に之を絶滅する方法はない、と云ふことに欧米の学説も一致して居ると云ふので、日本でも第一に此の病気の者で乞食と
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なつて居るのを、そのまゝとし門口に立たせて置くのは危険であるから、さしづめ之を始末しやうと云ふので、一府十一県の相談で、村山に全生病院を設置して、その収容を為したのでありまして、光田さんがその院長となつたのであります。然しこれは是非文明国として絶滅を図らねばならぬので、私等のやつて居る、中央社会事業協会で窪田静太郎氏や大久保利武侯など大に心配し、癩病患者を隔離すれば伝染の惧れがないから、その人達が病歿すれば自然病気もなくなると云ふ学説に従ひ、これが施設をするために予防協会を設け基金を二百万円ばかり募集しやうと云ふことになつて居るのであります。即ち此事が宮中へ聞え、皇太后陛下から、前にお話致しましたやうな厚い御思召を頂戴したのであります。またそれより先リデルさんが九州熊本で此の病気の療養院を設けるに就て相談がありました時、私も早くからそれが社会事業として為すべきことであると思つて居りましたので、相当の寄附金を集めてあげたことがありました。その後も相談に見えられたけれども、私も今では同様の仕事をして居るからと、寄附金を募ることは断りました。兎に角此の病気は全快は出来ないと云ふことであるから、隔離してその病人が無くなるのを待つより外に仕方がないと申すことであります。日本でも只今は全生病院の外、公の療養所も数ケ所に出来て居るのと、リデルさんとかその他仏蘭西人で御殿場へ療養所を設けて居る人など、私設のものも三ケ所ばかりあると聞いて居ります。従つて例のハワイのヂィンと云ふ人が日本へ見えた時に、私は氏を案内して、その村山の全生病院へ行きましたが、此の人はそれを非常に喜んで、さすがにお前だ、と私の手柄で此の病院が成つたように褒めてくれました。
 これ等は私と癩病との因縁話でありますが、要するに予防協会の隔離の方法のみでは、その施設は完全であると申せないので、どうしても国家の法律によつて、浮浪の人々のみでなく、家庭にある人達をも隔離して伝染を防ぎ、絶滅を期せねばならぬのであります。但し何処までも病人を慰安し、自暴自棄に陥らぬやう温く待遇し、また家族の人々も安心して病人を療養所に託することが出来るやうにせねばならぬのであります。


(光田健輔) 書翰 渋沢栄一宛 昭和六年五月二日(DK310039k-0002)
第31巻 p.208-209 ページ画像

(光田健輔) 書翰  渋沢栄一宛 昭和六年五月二日  (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、時下御清適奉珍重候、陳者小生今回国立癩療養所に転任致候ニ際し、四月廿七日特に送別の会を催し被下候事ハ、誠に難有肝銘仕候惟ふに養育院に於ける浮浪癩患者に対する閣下至仁博愛之御精神は、遂に府県聯合の五ケ所療養所の設立を促がし、漸く癩予防事業の端緒につき候次第にて、今日国家か療養所を設立致したるも、閣下陰に陽に此重大問題の解決に対し、刺戟を与へられたる結果に外ならず候、又近年
 皇太后陛下の癩に対する御軫念は誠に恐れ多き次第なるか、安達内務大臣も政党拡張よりも此重大なる問題に尽力致されたるも、閣下の御熱心に動かされ候事は申迄もなき事に候、此政府及民間の有志は団結して癩予防会を組織し、今迄撲滅不可能とせられたる癩病を本邦よ
 - 第31巻 p.209 -ページ画像 
り駆逐し得る事は過古三十年の実蹟(徴兵ノ癩ノ為メニ不合格トナリタルモノ年々六百人(千人ノ壮丁中一人半)、明治三十年前後、其後漸減シテ昭和三年百二十八人トナル(千人ノ壮丁中〇、二八ノ癩ヲ有ス)、死亡統計癩ニテ死スルモノ明治三十年前後年々千八百人アリタルモノ近年七百人トナリタル等)に徴し最早疑ふへからざる事実に相成、内務衛生当局も世界に向て誇り得る唯一の成績として公にせられ候、而して、文明国として英・米(三百人)・独・仏・伊等漸く数人の癩を有するに過ぎす候得共、日本は尚一万五十人《(千カ)》の癩を有する事に対しては、何卒今後閣下の御尽力を待つにあらざれば解決困難ニ有之候間、甚だ勝手の申分に候得共、益御尽力被下度伏而奉願上候 敬具
                  岡山県長島愛生園
  昭和六年                光田健輔
     五月二日
    渋沢子爵閣下


(光田健輔) 書翰 渋沢栄一宛 昭和六年六月二九日(DK310039k-0003)
第31巻 p.209 ページ画像

(光田健輔) 書翰  渋沢栄一宛 昭和六年六月二九日 (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、過日上京仕候節は、麗はしき尊顔を拝し難有奉存候、其節
 皇太后陛下に御拝謁難有き御奨励の御言葉を拝せられし事を承り及ひ、閣下か癩に対し多年御苦心被下候事天閽に達し、癩運動急速に進展致し、大臣以下嘗て予想し不能熱心を以て、法律の改正及癩予防会の事務当り居り候次第ニ有之候、此際
 陛下の御軫念遊はされ候通り、閣下益御健康に御注意遊ばされ、当局に向て御鞭韃相成度伏而奉願上候、別封数葉の写真供覧仕候、就中収容時未感染児童分離の必要に迫られ、島内一家屋を此の目的に使用致、其費用は差当り癩予防会より御支出被下候様、原総務高野理事へ願上置候 敬具
                     長島愛生園
  昭和六年                光田健輔
     六月二十九日認む
    渋沢子爵閣下
            侍史
   ○同封写真略ス。


癩予防協会書類 【(印刷物) 拝啓、秋気涼爽之候益御清適奉賀候、然ハ我邦に於ける癩患者並ニ…】(DK310039k-0004)
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癩予防協会書類              (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、秋気涼爽之候益御清適奉賀候、然ハ我邦に於ける癩患者並ニ其家族の状態ハ、真に悲惨を極め、同情に余りあるもの有之候のミならす、彼等が世人に指弾せられて、或は籠居し或ハ放浪し、随処に其恐るへき病毒を伝播致居候事は、実に寒心に堪へさるもの有之、人道上ハ固より社会防衛上忽諸に附すへからさる儀と存し、老生も年来其対策に就て聊か微力を致し来候処、幸ひ政府に於ても此に鑑る所ありて嚮に癩予防法を制定せられ、浮浪癩患者の収容治療に就てハ先つ其方途を講せられ候へとも、今尚各地に散在する患者ハ其数幾万に上り、之を国民保健の立場より見るも、将又国家の体面よりするも、到底打
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捨て置き難き所に有之、只々憂虞罷在候、然る処過般畏くも
皇太后陛下の難有思召を拝戴致候ニ付、此に政府当局と相謀りて官民合同の機関たる財団法人癩予防協会を設立し斯病の撲滅を期することと相成申候、而して老生ハ図らすも其会頭に推され、微力殊に老齢其任に堪へすと存候へとも、従来の関係上強て辞退致難く敢て重任を汚すことゝ相成申候、幸ひ当局其他同情ある諸賢の熱心なる御尽力に依り、準備著々相進み、既に先般来各地に於て夫々有力者諸氏に寄附金御出捐を拝願致す運ひと相成候、就てハ貴県下有力者諸賢へハ、既に県当局より御倚頼も有之候筈ニ御座候へとも、埼玉県ハ老生出身の地にも有之候ニ付、特に老生より親しく拝願仕る方然るへくと存し、玆に書面を以て右協会の事業に御賛同の上奮て御出捐被下候様拝願仕候次第ニ御座候、時節柄御迷惑の儀万々恐縮の至に候へとも、何卒微衷御諒察枉けて御聴納被下候ハヽ独り老生の喜のミに無之候 敬具
  昭和六年九月
                      渋沢栄一