デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
5節 災害救恤
3款 東北九州災害救済会
■綱文

第31巻 p.289-305(DK310049k) ページ画像

大正3年1月31日(1914年)

是日栄一、当会副総裁トシテ、寄附金勧誘ノ目的ヲ以テ東京ヲ発シ、途中井上馨ヲ興津ニ訪ヒ、大阪・京都・神戸並ニ名古屋ヲ巡回ノ上、二月八日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK310049k-0001)
第31巻 p.289-291 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年      (渋沢子爵家所蔵)
一月三十一日 快晴 微風寒薄シ夜ニ入リテ風強ク寒気増スヲ覚フ
午前六時半起床、静坐シテ半身浴ヲ為シ、後朝飧ヲ食ス、今日救済会ノ為京阪地勧誘員トシテ先ツ大阪ニ赴クニ付、午前八時家ヲ発シ、新橋停車場ニ抵リテ多数ノ送行者アリ、三十八分発ノ汽車ニテ野崎広太氏ト共ニ啓行ス、増田明六外一人随行ス、午後二時四十分興津ニ抵リ
 - 第31巻 p.290 -ページ画像 
下車シ、井上侯爵ヲ其別荘ニ訪フ、野崎氏同伴ス、着後庭園ヲ散歩シ後侯爵ト本会創立ニ関スル沿革ヲ詳話ス、且向後侯ノ援助ヲ乞フ、更ニ支那ニ関スル経済上ノ措置、及米国・墨国等ニ付テノ施設ヲ談話ス夜飧後侯爵邸ヲ辞シ、静岡ニ抵リ、大阪行寝台列車ヲ待合ハス為メ下車シ、大東館ニ休憩ス、午後十時頃寝台列車ニ搭ス、清水百太郎氏来リ迎ス、前原厳太郎氏来リ会ス、汽車中十一時頃就寝、浜松駅ニテ永田準之助氏来訪ス、払暁汽車京都ヲ通過ス
二月一日
午前六時過汽車京都ヲ通過ス、中川京都支店長来訪セラル、明日京都ニ於テ集会ノ事ヲ談シ、其周旋ヲ托ス、七時過車中ニテ朝飧ヲ食シ、直ニ大阪着、来リ迎フル者多シ、馬車ニテ松塚旅宿ニ入ル、大久保知事・池上市長・今西商業会議所議員等来リ、本日大阪ホテルニ於ル地方人士集会ノ手続ヲ告ケラル、午前九時頃野崎氏ハ藤田・村山氏等ヘ野口氏ハ住友・小山氏等ヘ余ノ来阪ヲ報シ、且本日ノ出席ヲ勧誘ス、午前十時過大阪ホテルニ抵リ会場ニ臨ム、来会者七八十名、先ツ府知事ヨリ紹介演説アリ、尋テ余ノ本会設立ニ関スル沿革ト本会ノ企望トニ付詳細ニ演説アリ、後内務参事官潮氏・河原田氏ヨリ東北九州惨害ノ実況ヲ報告セラル、畢テ一同午飧ヲ共ニシ、卓上野崎氏ヨリ東京ニ於ル寄附金ノ現況ヲ報告ス、畢テ岩本氏公会堂建設工事ヲ一覧ス、後旅宿ニ帰リテ来人ニ接ス、午後五時野崎氏ト共ニ灘万楼ニ抵リ、大阪商業会議所ノ招宴ニ臨ム、知事・市長及地方富豪来会シテ、寄附金募集ニ関スル手続ヲ協議ス、宴散シテ帰宿後東京ヘ電報ヲ発ス
二月二日 曇 寒威凛烈ナリ
○上略 野崎氏今日須磨ニ武藤氏ヲ訪ヒ夜汽車ニテ帰京ノ筈ニ付、東京ナル本会幹部諸氏ヘ要務ヲ伝言ス ○中略 十時三十六分梅田発ノ汽車ニテ西京ニ赴ク、大久保知事・池上市長其他来リテ行ヲ送ル、十二時頃京都着玉川楼ニ投宿ス、知人多ク来リ迎フ、午飧後大森知事来訪ス、今日市役所ニ於テ集会ノ順序ヲ談ス、午後三時相携ヘテ議事堂ニ抵リ、市助役加藤氏ノ周旋ニテ会場ニ於テ知事ヨリ紹介アリテ後、一場ノ勧誘演説ヲ為ス、後内務官吏ノ実況報告アリ、四時半終了○中略
 此日京都市庁議事堂《(欄外)》ニ参集スル者百五六十人許リニテ、知事其他地方有力者皆来会ス
二月三日 朝来小雪 寒気強シ
○上略 両本願寺寄附金ノ勧誘ハ中川氏ニ代理往訪ヲ托ス ○中略 昨夜東京ヘ電報ヲ以テ京都市ニ於テ勧誘ノ情況ヲ通知ス、午前九時中川氏ヲ代理トシテ両本願寺ニ抵リ救済会ニ寄附金ノ事ヲ依頼ス ○中略 三時後神戸ニ抵ル、但一時二十分京都発ノ汽車ニ搭スルナリ ○中略 四時半ミカトホテルニ抵リ、服部知事・鹿島市長・松方商業会議所会頭等ノ斡旋ニテ、救済会ニ関スル地方人士ノ集会ヲ開キ、一場ノ演説ヲ為ス、畢テ来会者ト共ニ夜飧シ、夜八時二十分神戸発ノ汽車ニテ大阪ニ赴ク、知事・市長多人数送別ス、九時半大阪着松塚ニ投宿ス ○中略
 神戸来会者約六十人《(欄外)》、畢テ本部ヘ電報ヲ発ス
二月四日 晴 寒威強シ
○上略 午前十一時大阪ヲ発シ ○中略 六時名古屋着、知事・市長其他多人数
 - 第31巻 p.291 -ページ画像 
来リ迎フ ○中略 知事・市長等ト救済会ニ関スル手続ヲ談話ス ○下略
二月五日 晴 寒威厳ナラス
○上略 松井知事官舎ニ抵リ、地方人士有力ノ者二十名余会合シテ救済会ノ趣旨ヲ演説ス、畢テ知事ヨリ午飧ヲ饗応アリ、午後二時過市会議事堂ニ於テ地方多数ノ人集合シテ救済会ノ趣旨ヲ演説ス、後知事・市長ヨリモ寄附金勧誘ノ言アリ、四時過散会ス ○下略
二月六日 半晴 寒気甚カラス
○上略 午前八時阪本市長来ル、共ニ自働車ニテ停車場ニ抵ル、松井知事ヲ始トシテ地方人士数十名来リテ余ノ行ヲ送ル、八時三十分名古屋発 ○中略 午後六時国府津着下車、国府津館ニ投宿ス ○中略 随行ノ増田明六ハ夜八時国府津発汽車ニテ先ニ帰京ス ○下略
二月七日 快晴 寒気厳ナラス
○上略 明日七時発ノ汽車ヲ以テ帰京ノ事ヲ、電話ニテ兜町事務所ニ通シ九時ニ新橋停車場ヘ自働車ヲ差越ス旨ヲ命ス ○下略
   ○二月八日ヨリ同十七日ニ至ル記事ヲ欠ク。


渋沢栄一書翰 中川知一宛 (大正三年)二月一七日(DK310049k-0002)
第31巻 p.291 ページ画像

渋沢栄一書翰  中川知一宛 (大正三年)二月一七日    (中川欽作氏所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然者過般貴地巡回之節ハ種々御奔走且御厚配被成下忝奉存候、其後貴翰も被下候得共、爾来日々多忙、御礼状も執筆之寸暇無之延引仕候、御海恕可被下候、偖救済会寄附金之義、貴地ハ別而人気あしきとの趣、致方無之候、生憎田中・浜岡両氏ニも面会を得す、市役所之心配も充分と難申哉、夫是違却之事共のミニ御坐候乍去今日ハ大森知事へ一書差出し、其添心相願候ニ付、此上加藤助役又ハ中井氏抔と御打合之上、多数之人々へ御通知相成候向々へ更ニ書状又ハ使にても差出し催促之御工夫被成下度と存候、右等何卒知事及市之人々と御協議之上、幾分にても相増候御取計被成下度候、右御礼旁一書可得貴意 匆々拝具
  二月十七日
                      渋沢栄一
    中川賢兄坐下
「京都市第一銀行京都支店」
   中川知一様    渋沢栄一
          親展
封  二月十七日


竜門雑誌 第三一〇号・第八四―九三頁 大正三年三月 ○青淵先生京阪地方旅行(DK310049k-0003)
第31巻 p.291-298 ページ画像

竜門雑誌  第三一〇号・第八四―九三頁 大正三年三月
○青淵先生京阪地方旅行 青淵先生には東北九州災害救済会副総裁の資格を以て、義捐金募集の為め同会幹事の一人野崎広太氏同伴、秘書役増田明六君を随ひ、去一月卅一日午前八時卅八分新橋を発し、大阪京都・神戸・名古屋の各市を巡回して、二月八日帰京せられたり、爰
 - 第31巻 p.292 -ページ画像 
に旅程の梗概を録すれは左の如し
又内務省参事官潮恵之輔・同書記官河原田稼吉の両氏も、同会の依嘱に依り東北及桜島災害の視察報告を為す為め、同日午後新橋を発して先生の一行に加はりたり
一月三十一日(晴)午前八時三十八分新橋を発して、午後二時四十分興津に下車、井上侯爵を訪問、同七時四十分同地を発して静岡に至り此処に待合はされたる第一銀行名古屋支店長清水百太郎氏及稷山鉱業会社取締役前原厳太郎氏と会し、大東館に入りて小憩後、午後九時半最急行列車に搭し、潮・河原田両氏と会し、名古屋に於て第一銀行支店永田甚之助氏其他店員諸氏の迎送を受け、且清水氏に別れて当夜を車中に送られたり
二月一日(晴)午前八時大阪に着、知事大久保利武氏・市長池上四郎氏・第一銀行取締役熊谷辰太郎氏・同支店長野口弥三氏、其他同店員諸氏等の出迎を受け、三越呉服店より特に廻されたる自働車に乗して旅館に充てられたる松塚登代方に到り、小憩の後大阪ホテルに於て会 に臨まれたり
大阪に於ける災害救済協議会は、大阪府知事・同市長及同商業会議所会頭の聯合発起に係り、午前十一時半開会、先づ大久保府知事より開会の趣旨を述べ、次て青淵先生より救済会設立の趣旨及経過を報告して、救済の意の存す処を詳説し、当市諸氏の後援と同情とを仰ぎ度き旨の挨拶ありたる後、潮参事官は東北地方災害の実地視察談を、又河原田書記官は桜島爆発当時の実況視察談を述べ、夫れより来会者一同別室にて午餐を共にし、席上野崎広太氏より已に本部に到達したる寄附金及慰問袋に関する報告及希望を述べられ、午後三時散会したるが重なる者尚居残りて協議の上、同市に於ては東京の救済会より離れて別に救済の機関を設くることに決し、之が発起人として松方侯爵・青淵先生・大久保府知事・池上市長・土居商業会議所会頭・村山大阪朝日新聞社長・本山大阪毎日新聞社長を挙げ、義捐金募集の方法としては新聞紙の広告に依るの外、更に有力なる各方面に依頼状を発し、府庁・市役所・各区役所に於て之か取扱を為すに決定せられたり
大阪に於ける義捐金募集広告は左の如し
 東北九州災害救済義捐金募集広告
 天何ぞ殃ひを下すの酷だしき、東北の凶作未だ救はれざるに、更に西南の変災を以てせり、抑東北の地たる元来天恵の薄きに加ふるに頻年の災害を以てし、疲弊困憊を極むに際して、復又今回の大凶作に遭遇す、或は木実を拾ひ或は草根を掘り、辛くも飢餓を凌ぎしもの、今や積雪山野に満ちて採るに食なく、得るに業なし、我々坐視するに忍びず、有志胥謀り其饑寒を救済するの計画を為すに当り、突如として桜島大噴火の飛報に接せり、熔岩に埋められ、熱灰に焦がされ、骨肉相救ふに遑なく、親子一朝にして相失ふ、惨禍之より急なるは無し、東北の窮困、西南の災害併せ共に済はざる可らず、乃ち洽く天下の同情者に訴へ、義捐金を募集して、以て此不幸なる南北同胞救済の資に供せんと欲す、大方の篤志家諸君、冀くば本会の趣旨を諒し、奮て此挙を賛助せられんことを
 - 第31巻 p.293 -ページ画像 
  大正三年二月一日
        侯爵 松方正義  男爵 渋沢栄一
           大久保利武    池上四郎
           土居通夫     村山竜平
           本山彦一
 一義捐金は金壱円以上の事
 一寄附者は分配すべき地方を指定することを得
 一義捐金募集締切は三月三十日限りとす
 一義捐金は左記へ御払込被成下度候
  大阪府庁   大阪市役所   東区役所
  西区役所   南区役所    北区役所
右協議会後、青淵先生には岩本栄之助・植村俊平・栗山寛一三氏の先導にて、岩本氏の寄贈建築に係る大阪市公会堂建築基礎工事を参観、種々説明を聴取して午後四時旅宿に帰り、小憩せられたる後、午後五時より同市灘万に於ける大阪商業会議所副会頭今西林三郎氏主催の義捐金打合せ会を兼ねたる晩餐会に臨まる、招待を受けたる来会者は先生の外、大久保知事・池上市長・藤田男爵・鴻池男爵代理蘆田順三郎氏・住友男爵代理湯川寛吉氏・小山健三氏・本山彦一氏、及先生に同行したる野崎広太・潮恵之輔・河原田稼吉・増田明六の諸氏にして、席上住友男爵より金三万円、藤田男爵より二万円、鴻池男爵より一万円の義捐金を申込まれたり
二日二日(晴)午前九時旅館出発、汽車製造会社専務取締役長谷川正五氏の案内にて、安治川口なる同会社に到り、増資に依りて竣工したる新工場を一覧し、十時三十六分大阪発汽車にて十一時四十分京都に着す、第一銀行支店長中川知一氏・中井三郎兵衛氏・永坂八郎氏等の出迎を受け、木屋町玉川楼に到り小憩の後、市会議事堂に於ける協議会に臨まれたり、此日同行の野崎広太氏は延引すべからざる用向を有せる由にて、大阪に於て先生に別れ帰京せられたり
京都に於ける協議会は、京都府知事・同市長及同商業会議所の発起に係り、午後三時半開会、大森京都府知事より開会の趣旨を述へ、次て青淵先生の演説及潮・河原田両氏の報告演説あり、最後に加藤市助役の挨拶ありて午後六時散会したるが、右終了後更に別室に於て寄附金募集に関する会合あり、青淵先生も参加せられ、結局大森知事に於て井上市長の病気快癒、上京中の浜岡商業会議所会頭の帰京とを待ち、篤と協議の上其方法を決定する事となれり
夜先生には第一銀行京都支店中川知一氏・片野滋穂氏・宇野甚太郎氏伏見支店小林秀明氏等と同席、談笑しつゝ晩餐を取られたり
此夜河原田書記官は内務省よりの急電に接し、急行列車に乗して一行に別れ帰京せられたり
二月三日(曇)午後一時十五分京都発列車に投し、二時半神戸三の宮に着し、第一銀行支店長杉田富氏等の出迎を受け、先つ同支店に至り先づ営業の景況を聴取し、後店員一同を会して一条の訓諭を与へられ午後五時よりミカドホテルに於ける協議会に臨まれたり、神戸に於ける協議会は、兵庫県知事・神戸市長、及同商業会議所会頭の聯合発起
 - 第31巻 p.294 -ページ画像 
に係り、五時半開会、先づ服部知事より開会の趣旨を述べ、次て青淵先生より救済会設立の経過を詳述して同情救援を促し、次て潮氏より東北地方及桜島の災害の状況を述べ、次て服部知事再度起ちて、始め当市に於て救済会支部を設置すべき計画なりしも、協議の上東京の同会とは別個の組織となし、本県有志者の救済機関を設くる事としたり此施行方法に就きては鹿島市長・松方会頭と共に協議して諸君に報告する処あるべしと述べ、鹿島市長は東京及大阪に於ては災害地へ対し慰問袋寄贈行はれあるを以て、当地にても義捐金募集の外慰問袋の寄贈を企画したしと希望を述べ、六時半別室に於て来会者一同晩餐を共にし八時散会したり、夫れより青淵先生には八時卅五分三の宮発汽車に搭じ、九時半大阪に到着し、野口弥三氏等の出迎を受け、松塚登代方に投宿せられたり
二月四日(晴)青淵先生には野口弥三氏の案内にて先づ第一銀行南区支店を巡視す、副支配人飯塚八平氏より同店設置以来の営業成績に就き説明ありたる後、先生より店員一同に対し訓諭せらるゝ処あり、夫れより東区支店に到り、熊谷取締役及野口氏より又同店営業状態に関する談話あり、後先生より店員一同に対する訓諭ありて、午前十一時四十四分同地梅田停車場発汽車に搭乗して名古屋に向ひ、午後六時五分到着、知事松井茂・市長阪本釤之助・清水百太郎諸氏の出迎を受けられ、直に市庁より廻付の自働車に松井知事・阪本市長と同乗して丸文旅館に到り、暫時休憩し、午後七時より阪本市長の主催にて、銀行集会所に開会せられたる晩餐会に臨まれたり
来会者は知事・市長を始めとして、市の重なる紳士紳商を網羅したるが、宴酣なる頃、阪本市長及松井知事の歓迎辞あり、次て青淵先生は起ちて謝辞を述べ、且大要左の演説を為せり
 我国民が兎角感情に激し易きは惜しむべし、先年我国状視察の為め来朝して約半年の間停留したる紐育アウトルツク記者メビー氏の如きも、帰国に際し置土産として最も露骨に此事を論述せしが、其内の一説に、米国の政党は決して日本の夫の如く甚しく感情に趨る事なしと云ひしを記憶せるが、更に彼の地方的感情に至つては、最も考慮を請はざるを得ざるが、別して我国の代表的都市たる此名古屋市在住の諸君に対しては、特に之を望まざるを得ず、若し夫れ各自個々の感情にのみ左右せらるゝものとせは、折角大都市を形成すると称するも、其実何等の価値無きものたるを免れす、又忌弾なく云へは当市は公共的人物に欠乏せり、立派なる商人は数多ありと雖ども、世界の大勢を察し当市をして其向ふ処を知らしむる公的生活に充分誠意を以て奔走する人物に至つては、乍遺憾殆と無と云ふを得べし云々
右終りて更に松井知事の挨拶あり、午後十時散会したり
二月五日(晴)午前九時阪本市長より供用せられたる自働車に搭し、第一銀行名古屋支店に到り、清水・水田両氏より営業上の報告を聴取し、後店員一同を集めて一場の訓諭を与へられ、同十時伊藤守松氏の案内にて名古屋国技館を一覧したり、同館は名古屋土地会社の設立にして、其所有土地の繁栄を図らんとの計画に出てたるなりと云ふ、十
 - 第31巻 p.295 -ページ画像 
一時知事官舎に於て催ふされたる午餐会に臨まる、来会者は何れも当市有数の代表的人物なり(金原明善翁は青淵先生と旧交あり、偶々当日松井知事を訪問し、爰に列席せられたり)午餐を共にし寄附金に関する懇談ありたる後、午後三時十分名古屋市会議事堂に於て開会の協議会に臨まれたり
名古屋の協議会は、松井知事・阪本市長及鈴木商業会議所会頭の発起に係るものにして、来会者百余名あり、阪本市長開会の辞を述へ、次て青淵先生の演説、潮氏の東北及桜島に於ける災害地実況の報告あり尚松井知事の右災害に対する所感並に希望、又阪本市長より桜島の地形及災害地に関する談話ありて、散会したるは五時なりし
名古屋に於ける義捐金は、知事・市長・会頭の三氏中心となりて、先づ市の重立ちたる人より醵出を受け順次勧誘する事と決し、而して其取扱所は県庁・市役所及各区役所・商業会議所と定められたり
右終りて一と先旅宿に帰り、小憩の後魚半に到りて、第一銀行清水氏以下支店員及四日市支店川島良太郎氏及三重紡績会社伊藤伝七及斎藤恒三氏と会食し、午後九時帰宿せられたり
二月六日(晴)午前七時半名古屋を発車、途中無恙午後七時国府津に到着、国府津館に投宿せられたり
二月七日国府津に於て静養せられたり
二月八日午前九時新橋に無事帰着せられたり
青淵先生の右旅行中、大阪・京都・神戸・名古屋の各地に於て孰れも演説せられたるが、其趣意は略同一なるを以て、爰に名古屋に於て為されたるものを掲け、他は省略する事とせり
    青淵先生演説
 私が渋沢であります、臨時に参上致しましたに拘らず、斯く多数御集り下されて、齎し来た旨趣を御聞き下さるのは、誠に光栄とするところであります
 私の玆に申述べますことは、既に阪本市長さんより、其一端を御話し下さいました救済会の沿革と其趣意とに就きまして御話を致したいと思ひます、災害地方の実際の状況に関しては私も審に知悉致しませぬから、東北の実況を視察したる内務省の潮参事官、又西南の実状を視察したる、同省の河原田書記官より御報告をして戴く為めに、両君と同行致しましたが、一昨日河原田君は急に内務省に用が出来た為めに、帰ることになりましたから、東北の実況を御話し下さる潮君より、西南の実況も河原田君に代りて申上げますから、私は其実況の御話は止めまして、今度の救済会を組織した次第を申述ます、五年前関東の一府十三県が大水害を被むりし際、矢張り臨時の救済会を起しまして、私が義捐金募集の使命を帯びて、御当地へ来り諸君に非常なる御力添へを受けたるは、今尚能く記憶して居ります、或る地方に災害のありし場合に、他の地方の人々の同情を以て其罹災者を救済することは、人の勤めとして当然為すべきことゝ信じます、災害は、事実何時生ずるや計るべからざるものにて、御互に日に増し家業に勤めて居れば、一歩々々進み行くに相違ありませんけれども、併し此間に我人共に、如何なる臨時の災害が湧起す
 - 第31巻 p.296 -ページ画像 
るや期することは出来ません、而して社会は一人々々で進歩せしめて往くことは出来ないもので、必ず共同に因るものであります、生れる時は一人であるから、何事でも一人で何うかなるだらうと云ふのは、個人主義から論じて居る「イギリス」の「マンチエスター」派などの論ではあるかも知れませぬが、人の生存は相寄り、相援けて発達するものであつて、一人一人であつたならば、第一国家を為すことが出来ないのであります、斯う思ふと実に国民の相援け相俟つて往くと云ふことは頗る必要なことゝ考へます、勧化に参つて人生の根本を論ずるやうになつて、講演らしく相成るのは失礼になりますが、常にさう云ふことを考へて居りますから、つい斯う云ふ御話になりました、此度の災害に付きては、奥羽に知つた人が沢山あるとか、薩摩に親戚があると云ふ訳ではございませぬが、所謂正義人道の上より、相当の方法に依つて援けを与へたいと存じ、人にも勧める訳であります、私共の此会を起しましたのは、最初からして甚だ必要として企てた訳では無かつたのであります、昨年東北の凶作と云ふものが知れ渡りましたが、秋内には左程の不作じや無からうと思ひました、併し段々秋が済んで、愈々苅取ると云ふ場合になると、甚だ稔りが悪いと云ふことになりました、次いて鎌を入れて見ると、半減になつて終ひ、苅取つて見ると粃か愈々多くなり、北海道の如きは例年作百分の五の収穫にもならぬやうな有様であり、青森県も亦二割八分の収穫と云ふのでありました、但前申しますのは多くは田作に就てゞありますが、畑作も亦非常に悪かつたと云ふことです、此等のことは新聞にも現れたけれども、東京に於ては余り大きな声では無かつたのですが、然るに丁度私共が昨年秋頃から奥羽六県に対して、同地方の発達が他の地方に対して甚だ遅れて居る為めに、之を発展させる道はありはしまいかと云ふわけで、乃ち一般に東北を振ひ起すと云ふ趣意に依つて、東北振興会と云ふものを作りました、蓋し奥羽の地は気候・地味・地形・港湾等の関係、及政治上・経済上乃至住民の勤怠等の関係より、折角天然の富を有し如此広大の土地を擁しながら、総ての発展が、他の府県に較べると、甚だ鈍い、依て其等の県に対しては、例へば国としては斯う云ふ補助を与へるとか、地方団体は斯う云ふ補助をせねばならぬとか個人としては何うとか、各方面に渉つて研究したり、又は該地の研究に従事する人々の主意を聴取しましたが、昨年十一月農商務省陸羽支場長中川庄司博士の講話を聞きしに、東北地方の人民は一般に怠惰なりとの評にして、又昨年の凶作は迷信が大に手伝へたりとの事なり、即丑年は由来炎天続きのものなればとて、農夫は一般に奥手を植付け、可成労力を省かんとしたる為め、尚一層の不作を招くに至りしとの事なりし、続て奥羽から出身の議会に御出になるところの代議士諸君が昨年の末になりまして、前に申述べた凶作の段々日に増して甚だしく、且困憊が日に進んで参る有様を見るに見兼ねて、是非私共に何か力添をして呉れと云ふ申出がありました、其処で十二月二十六日前申しました振興会の会合を開きまして、代議士諸君に来て貰つて、実地の御話を聞きました、但しこれは実際を調
 - 第31巻 p.297 -ページ画像 
べたのでは無くして、聞いて来た話であつたのです、併しながら青森・北海道等に於ては其人の話でも、惨憺たる有様に聞こゑましたので、東京の振興会の方と地方の有志者と相合して、一つ会を興さうと云ふ相談を進めました、それから二十八日に打寄つて会合し、是非作ると云ふことになつたのであります、人道として人の困難を救ふと云ふことは、最も必要であるが、其方法に付ては充分慎重に講究せねばならぬ、例へば政党の勢力を張りたい為めに、或は地方に勢力を殖やしたいためにすると云ふ様な意味を以てはならず、又人道を口実にするやうなことや、救助からして惰民を養成するやうな事ではならぬから、其方法を如何にしたら宜からうと云ふので種種講究の末、前の水害の救済会の方法が良かつたやうでありますから、大体は其方法に拠り、且災害が大きいから可成資金を増したいと云ふ事に決定しましました、それで水害の時には侯爵松方正義閣下を総裁に仰いたのでありましたが、今度も集つた人の意見はそれに一致しました、併し是より先に政府の意志を確と慥めねばならぬ政府の施政の方針が右の決議と若しも齟齬するやうでは宜しくないから、総理大臣及内務大臣に屡々面会して、民間に於ても救済したいが政府の方針は如何でせうと云ふことを、御相談致しましたが、政府に於ても相当な補助方法が立つて居る、先づ第一にすることは土木を起すと云ふことで、それに付ては来年の議会に六百万円の予算を提出して、それを治水其他の土木工事に使用する積りで、尚其他には低利資金や預金を振向けると云ふことで、これも弐百何拾万と云ふことでありました、政府に於ては左様な特種の工事を起すとか云ふやうなことは出来ますが、直接の救助を与へることは出来ない、今饑渇に迫ると云ふやうなものには直接救助が必要であるから之に対して救済会を起すのは政府としては大に必要とするから、是非遣つて呉れと云ふことでありました、又松方老侯に御相談致しましたら、老侯は聞取られて、此場合其任に当らねばならぬと思ふが何うも凶作の有様が、世間に余り伝はつて居らぬ、新聞でも事々しうは書き立てて居らぬが、遠くは姑く措き、直接東京市内の富豪が相率ひて此主義に応じて相当義捐金を出して呉れるだらうか、若し出して呉れぬ事になると労して効なきのみならず、世間の物笑ひとなることも、甚だ心苦しいから、其等の辺を能く今一応講究する様に、との頗る親切なる御注意でありますから、更に再び私共は実際の有様を研究し、又一般に如何なる程度に応ずるであらうかを、考察するのに両三日費やしました、丁度折柄玆に御同行して居る、潮内務参事官が昨年の年末に、凶災地方を御視察になつて、御演説を請ふたのであります、此時迄は地方の有様を切れ切れに聞いて居りましたが、同君が御職掌として御踏査せられたのでありますから、之を聞いて更に詳密に判明しました、同時に東京に於ける富豪の人人、三井家・岩崎家、若くは日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船会社・南満洲鉄道と云ふやうな大きな法人には、応援して呉れるか何うか、内談を致しましたら、何とか為ねばならぬと云ふ内意を受けましたから、更に一月七日に松方侯爵を訪ひまして、玆に始めて主
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唱者が出来ました、松方侯爵と不肖ながら私と大岡衆議院議長と此三人が主唱者となりまして、一月十日に東京の新聞社の諸君を御招きして、惨状を聞いて貰ひましたが、来会の記者諸君には其事実を承知せられ、それでは前には新聞社が寄附金を勧めたけれども、さう云ふ慥かな会が成れば何処迄も我々が新聞の方は引受けて、広告等は只でやると云ふことになり、又一方には記者団を組織して凶作地を巡回して其窮状を社会に紹介しようと云ふ事になりました、超えて一月十三日発起人等相会して会の組織に付て協議したるか、其前日朝桜島に突発したる噴火の災害に対しても、均しく救済の必要ありとの議に一決して、東北九州災害救済会玆に成立して、総裁として松方侯を戴き、大岡議長と私とが副総裁となり、其他評議員・幹事等も定まり、続いて十九日・二十五日両回に東京に於て、重立ちました会社又は個人でも多数義捐金でもして呉れると云ふ富豪の方々に来て頂きました、二十五日は休日であつたが、総理・内務両大臣にも御出席を頂きまして、総理大臣より政府でも本会の必要を認め充分助力する積なれば諸君も可成御力添へを乞ふと云ふ一場の挨拶が有りました
 東京に於ける寄附金は、三十日迄の分が調べられて諸君の手に差上てありますが、御覧を願ひます、以上申述べたることが、東京に於ける本会成立の梗概でありますが、斯かる事柄は、東京のみに限らず地方有力なる方の同情を以て、相憐んで頂きたいと云ふ事になり御当地と云ひ、大阪・京都・神戸等、誰か相当なる者が出て事情を御話して、御力添へを願ふが宜からうと云ふので、私が其の使命を帯びて参上したのであります、昨日来知事閣下並に市長閣下、商業会議所の方々、其他平素御懇命を頂いて居る人々に御目に懸つて御願をして置きました、続いて本日は此処に多数集合して下さいました席に於て、其顛末を陳情して諸君の助力を乞ひますことは、此上もなき次第と存じます、何れ前申しました諸君に於て御協議を下さいまして、御力添へ下さると思ひますが、此処に御集りの諸君に於ても、充分御同情を添へられんことを希望致します、又此処に御出席なき諸君に於ても、相知ると云ふ間柄で夫々御伝へ下さつて、皆様の多数の御同情を以て、此憐むべき或は凶歳或は噴火と云ふ種々なる罹災者を救ひたいと思ひます、玆に一場の顛末を叙して、諸君の御同情を乞ふ次第であります、何うぞ宜しく御聞取りの程を願ひます


東北九州災害救済会報告書 同会編 第三五―四一頁 大正三年一二月刊(DK310049k-0004)
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東北九州災害救済会報告書 同会編  第三五―四一頁 大正三年一二月刊
 ○第二章 本会の経過
    八 京阪地方及名古屋の遊説
京都・大阪・神戸及名古屋に於ける寄附勧誘の為、渋沢副総裁は常務委員野崎広太氏同伴、一月三十一日出発二月八日帰京せらる、潮内務省参事官及河原田内務書記官は、該地に於ける募金勧誘の協議会に於て、災害地視察報告の為め、特に同副総裁等と同行せられたり、当時の各地に於ける状況を略叙せんに
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大阪に於ては大阪市並大阪商業会議所の聯合発起を以て、二月一日東北九州災害救済協議会を大阪ホテルに開く、出席者大久保府知事・池上大阪市長・藤田男等を始め五十余名なり、大久保府知事先づ開会の趣旨を述べ、渋沢副総裁は義金募集に付、諸君の同情を乞はんが為、本部より使命を帯びて来会したる次第なりと前提し、本会成立の趣旨並経過を報告して、救済の目的の存する処を詳述し、潮内務省参事官及河原田内務書記官は東北及九州災害地視察談を述べ、了て食堂を開き、席上野崎委員より本会現況の報告あり、次で協議の結果、大久保府知事・池上大阪市長・土居大阪商業会議所会頭・村山大阪朝日新聞社長・本山大阪毎日新聞社長を世話役に挙げ、右五氏と松方総裁・渋沢副総裁の名を以て一般に義金募集の依頼状を発して募集に着手し、府庁・市役所及各区役所に於て之れが取扱を為すことに決定せり、当日参集者氏名左の如し
 二月一日於大阪ホテル午餐会出席者
    大久保知事     池上市長 男爵 藤田平太郎
 今西会議所副会頭     植村俊平     小山健三
    蘆田順三郎    尼崎伊三郎     湯川寛吉
     本山彦一    中橋徳五郎     山辺丈夫
     村山竜平   土岐内務部長     浮田桂造
    久原房之助     増田源平    益田信三郎
     越野嘉助    阪上新治郎   佐渡島伊兵衛
    岸本五兵衛    北村正治郎    石井勝次郎
     磯野良吉      井上周    浜田甚兵衛
      西松喬    大林芳五郎     奥村英夫
     川澄末吉     上領純一      大谷勇
     金沢利助    津田勝五郎     中山太一
     永田仁助    酒井猪太郎    新田長次郎
    岩井勝次郎     森田茂吉     野口弥三
    岩本栄之助     渋谷史春
 二月二日京都市会議事堂演説会に於ける重なる出席者
     大森鐘一     塚本清治    加藤小太郎
    大森吉五郎   中井三郎兵衛     大沢善助
    柴田弥兵衛     大野盛郁     飯田新七
     伊藤平三     鈴鹿弥惣吉   宮川峰之助
京都に於ては二日京都市議事堂に開会し、出席者大森府知事・井上京都市長・浜岡京都商業会議所会頭・柴田京都市会議長・中井三郎兵衛大沢善助氏を始め百余名、大森府知事の紹介に依り、渋沢副総裁本会組織の顛末及経過を演説し、潮内務省参事官・河原田内務書記官の災害地視察談あり、次て加藤市助役より、京都に於ても知事・市長・商業会議所会頭等発企の下に募金を為す筈なれば、尽力を乞ふ旨を陳述せり
神戸に於ては二月三日みかどホテルに於て開会、出席者服部県知事・鹿島神戸市長・伊藤長次郎・松方幸次郎氏等を始め六十余名、服部県知事の挨拶あり、渋沢副総裁本会組織の顛末・経過及募金に関し演説
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を為し、潮内務省参事官東北凶作地に関する詳細なる視察談を為し、尚河原田内務書記官に代り、桜島被害の状況を語り、了て食卓を開けり、尚義金募集の件に関して協議の末、服部県知事・鹿島市長及松方幸次郎氏に於て協議の上着手することに決定せり
 二月三日於神戸ミカドホテル晩餐会出席者
  服部一三    鹿島房次郎       松方幸次郎
  伊藤長次郎   杉田富         今村恭太郎
  乾長次郎    杉谷安一        新田喬雄
  小野喜六    大阪毎日新聞神戸支局  奥村敬太郎
  金子直吉    神戸又新日報社     神田兵右衛門
  神戸新聞社   金塚仙四郎       上村喜平
  武田豊太    滝川弁三        坪田十郎
  中村寿夫    長濃貞夫        村田平左衛門
  村上関蔵    魚澄惣一郎       宇川雄太郎
  山下芳太郎   谷井保         大阪新報神戸支局
  丸山継男    大阪日報神戸支局    二見松太郎
  小島源三郎   遠藤大三郎       粟田駒吉
  菊地幹太郎   北沢文太郎       大阪朝日新聞神戸支局
  宮崎丹弥    設楽貞雄        柴田友蔵
  重永壮輔    渋谷米太郎       森野左近
  物集伴次郎   森本六兵衛       専崎弥五平
  角藤鉄吉
名古屋に於ては二月五日渋沢副総裁一行は、松井県知事・石原内務部長・岩田警察部長・阪本名古屋市長、及市内の有力者伊藤治郎左衛門岡谷惣助・神野金之助・上遠野富之助・伊藤伝七・滝定助・斎藤恒三の諸氏と共に、知事官邸に於て午餐を兼て義金募集に関する懇談を遂げ、終て名古屋市議事堂に於て更に協議会を開きたり、出席者松井県知事・阪本市長以下左記百余名、阪本市長開会の辞を述べ、渋沢副総裁本会設立の趣意を演述し、潮内務省参事官神戸に於けるが如く、東北及九州の災害状況を述べ、次で阪本市長桜島の模様を説明し、最後に松井知事右災害に関する所感及希望を述べらる、協議の結果、義捐金は県庁・市役所・各区役所・商業会議所に於て取扱ふことに決定せ

 二月四日於名古屋銀行集会所晩餐会出席者
  松井茂      阪本釤之助      伊藤治郎左衛門
  伊藤伝七     岡谷惣助       神野金之助
  滝定助      斎藤恒三       伊藤守松
  市村芳樹     磯貝浩        石原磊三
  岩田衛      原田勘七       服部俊一
  富田彦三     小栗小七       渡辺義郎
  蒲原久四郎    河野有邦       川原林順次郎
  春日井丈太郎   上遠野富之助     改田武馬
  田村観助     祖父江重兵衛     恒川小三郎
  角田正喬     永田甚之助      中井巳治郎
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  中西万蔵     八木保三       矢田績
  小山禎三     児玉一造       近藤徳次郎
  跡田直一     青木文次郎      桜井善吉
  小川乙次郎    三重紡績株式会社   水野専之助
  塩川三四郎    下出民義       新愛知新聞社
  清水百太郎    柴田才一郎      肥後源次郎
  平岡鉚作     尾三農工銀行     鈴木兼吉
  須永達      鈴木清節
以上の三市に於ては何れも本会の趣旨に賛同せられたり、而して其募集方法は支部設置の方法に依らずして、各市とも大阪市の如く世話役を定め、県庁・市役所・各区役所・商業会議所に於て之を取扱ひ、一方には所在各新聞社の援助を藉り、一方には個人・団体・銀行・会社等に就き、或は直接に或は書柬を以て熱心なる勧誘を試みられ、募集義金は之を本会に転送して其処分を託せられたり


中外商業新報 第九九七五号 大正三年二月一日 ○災害救済彙報(DK310049k-0005)
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中外商業新報  第九九七五号 大正三年二月一日
    ○災害救済彙報
△渋沢男西下 東北九州災害救済会副総裁渋沢栄一男・同会常務委員野崎広太氏等は、義金募集の為三十一日午前八時卅分新橋発、途中興津に井上侯を訪問し、夫れより京都・大阪・神戸を巡歴し・名古屋を経て五・六日頃帰京の筈


中外商業新報 第九九七九号 大正三年二月五日 ○義金募集と大阪 予定額は三十万円(DK310049k-0006)
第31巻 p.301 ページ画像

中外商業新報  第九九七九号 大正三年二月五日
    ○義金募集と大阪
      予定額は三十万円
東北九州災害義金募集に関し、救済会本部より渋沢男・野崎常務委員来阪の上、大阪各方面有力者と打合せを為せし事情は特電既報の如くなるが、大阪に於ては大久保知事・池上市長・土居商業会議所会頭並に村山・本山の五氏と、之れに松方侯及び渋沢男の名を加へて、各方面に勧誘状を発することとなり、府県・市役所・区役所に於いて之れを取扱ふ筈にて、既に小口義捐者は続々現はれたるが、大口に於いても住友家は三万円(外に慰問袋五千袋)藤田家は二万円(外に慰問袋五千袋)鴻池家は一万円と、三男爵家丈けは決定し、其他久原家も一万円に内定したるを初めとし、和田・芝川・阿部・広海・尼崎・山口(吉)・山口(玄)・広岡、其他の資産家は、近々内定すべき摸様にして、各銀行方面は小山健三氏、紡績会社方面は山辺丈夫氏等専ら斡旋の労を執る予定にて、近く其振合を決すべく、大阪に於ける関係者は、大阪全部の予定額を三十万円と做し居れりと云えば、何れ好成績を以て締切る可しと察せらる


中外商業新報 第九九八三号 大正三年二月九日 ○渋沢男一行帰京(DK310049k-0007)
第31巻 p.301 ページ画像

中外商業新報  第九九八三号 大正三年二月九日
○渋沢男一行帰京 東北飢饉九州災害救済会寄附勧誘の為め、静岡・名古屋及び京阪地方へ出張中なりし渋沢栄一男の一行は、八日午前九時新橋着汽車にて帰京せり
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竜門雑誌 第三一〇号・第三〇―三四頁 大正三年三月 ○東北九州の災害と救済(青淵先生)(DK310049k-0008)
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竜門雑誌  第三一〇号・第三〇―三四頁 大正三年三月
    ○東北九州の災害と救済 (青淵先生)
 本篇も亦た雑誌「向上」記者が青淵先生の談話を聞きて三月発行の同誌上に掲載せるものなり(編者識)
△東北の不振問題 東北不振の声を耳にするは久敷以前からのことであつて、東北の六県、即ち福島・宮城・岩手・青森・山形・秋田の各地方は、同じ我が日本に有りながら、人文の発達・物質の進歩等、総べての点に於て遅れ勝ちで、人口は尠なく・生産物は乏しく、租税は少額であると言ふ如に、万事が其面積に比して、他府県より劣つて居る、蓋し其原因は天恵の薄いと言ふ点もあらうが、地方の人の努力が不足して居た事も其一と思はれるので、此の点に就ては東北一般の有志者の大に覚悟を要すべき事である、勿論発展の方法としては、政治経済・教育等の各方面より考究して矯正せねばならぬので、簡単なる問題では無いが、我が版図中殊に本土に於て斯る地方の有ると言ふ事は国民としても憂ふべく、同胞としても気の毒に堪へぬ事で、何時までも等閑に附して置けぬのである。
 斯様な事情に促されて、昨年より東北振興会と言ふものが起り、種種なる方面より考察研究を致して居るが、第一政治上より見て他地方との関係は如何、又各国団体の内容は如何、或は経済上生産物の情況及び其他の事実は如何、と言ふ如く周到綿密な調査の上で、其内容を詳にし、他府県との比較を為し、病弊の原因を明瞭にしてかからねば完全なる治療は施し難い事である、振興会は先づ此等の方面より着々進行する筈であるが、農事・蚕業・鉱山・運輸・交通と言ふ如に、数へ来れば非常に複雑多端な方面に岐れる事とて、容易に目的を達し難いので今後益々研究を尽さねばならぬ、夫れ故参考とする為めに時々学者・実業家等を招待して、種々なる意見を聴取して居るのであるが今回の天災の如きも、其の人々の談話に依つて次第に其の悲惨な内容を詳にする如になつた訳である。
△東北九州災害救済会の成立 内容を詳くするに従つて益々捨てゝ置けぬ事となつた、元来平常に於てさへ文化に遅れ物質上の不足を感じて居る上に、凶作に襲はれた事であるから、其の惨状は想像の外であつた、是は何とか適当の手段を講ぜねばならぬと思つて居るうちに、昨年の暮に東北出身の代議士中二・三の人々が来訪せられて、東北地方の困難の情況を語り、此の儘捨てゝ置く時は続々饑渇に苦しむ者も出来るに違いないと憂慮せらるゝので、愈黙視する事も出来ず、急に振興会の臨時集会を催ほし東北選出の代議士も出席せられて、地方の状況を説明し、是非とも東京其他各地方の経済界の重なる人々をも広く勧誘せねばならぬと言ふので、益田孝・大倉喜八郎・大橋新太郎・根津嘉一郎の諸氏、其他来会の人々と協議し、種々実状を調査して見ると今回の凶作は余程甚敷かつたので、其影響は意想外である、凶作と言つても他地方とは違つて、一時に惨害を及ぼすよりも、隠微の間度を加へて来るので、実に恐るべきものである、例へば秋冷の気候より来る凶作は、初は左程とも見へず、相当に草生も良く、一見普通の
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作毛の如くにして、其の実は案外な有様で、刈り上げて見ると更に不成績である、之を籾にすると著しく減少し、又玄米とすると驚く可き粗悪であると言ふ如く、次第に災害の大なるを発見するのである、斯かる事情が自然と地方長官の注意を促し、追々に中央政府に報告して来る如になつたから、初は其の声も左程では無かつた、又一方各地方代議士へは其選挙区よりの報告が盛となり、各町村長等の手紙が頻々と訴へて来ると言ふ如になつたので、各代議士に於てもいよいよ捨てて置けぬことゝなつて、前に述べたる如く吾々へ協議せられて、玆に救済会を起す事と為つたのである。
△朝野有志の活動 偖いよいよ救済会を起す事と為たが、斯かる事は兎もすれば政党の人気取とか、又何か為めにする事があらうといふ世の誤解を招く如な事が有つては、救済の目的を達する上に少からぬ障碍を生ずると思つたので、吾々は深く此点に注意した、元来に慈の心なきは人に非ず、惻隠の心は仁の端也、と孟子が言はれた如くに、同胞の急を聴いて傍観する人の有るべき筈は無いのであるから、上下が一と為つて救済に努むべきものである。
 されば此事柄は頗る重大であるから、小さい範囲の活動では行き届かぬ。其規模を大にして相当なる寄附金を集めたい。就ては自分等のみでは足らぬ、更に名声高き人々と協力せねばならぬと言ふので、終に松方侯を総裁に推す事とした、勿論直ちに実行する訳にはならぬので、まづ初めに相当なる調査を為し、再三発起人の会合を催ほし、一月六日には内務省参事官にして凶作地方を視察せし人の出席を乞ひ、其の意見をも聴取し、尚ほ総理大臣・内務大臣等をも訪問して、爾来の手続を具申せしに、当局に於ても是非本会の設立を企望せらるゝより、いよいよ現在の救済会が成立したのである。
 就ては実行の第一歩として詳細なる情況を天下に発表せねばならぬので、各新聞記者達の尽力を乞ふ事となり、一月十日夜帝国ホテルに招待会を催し、大岡衆議院議長も出席せられて、共に是迄の経過を説明し、一同の賛成を得て記者団を東北視察として派遣する事と成た、是より東北の惨状が、日に日に詳かに東京始め各地の新聞紙上に連載されて、一般の同情が集つて来たのである。
△九州の救済と事業の進捗 然るに十二日より、突然鹿児島県の桜島が大爆発を始めて天下を驚倒したので、満都の新聞は筆を尽して其の惨状を報導した。
 斯かる惨状を耳にする以上は、東北の救済のみにする訳に行かぬ、是非とも東北・九州を併せて救済せねばならぬと云ふ説が、一月十三日夜帝国ホテルに於ける救済会の発起人会にて、阪谷東京市長等から持出されたが、其夜の会合の主旨は東北凶作救済会と言ふ事に為つて居るので、先づ今夕は此会を成立せしめ、直に評議員を指名し、不日其評議員会に図つて賛成を得、東北九州災害救済会と言ふ事にして、松方侯を総裁、大岡議長と私とが副総裁に推され、幹部の組織が出来たので、十五日より趣意書を発表し、規定に依つて寄附金の募集に着手したのである。
 然るにまづ第一に、皇室より多額の御下賜金を下賜せらる光栄に浴
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したので、各方面の富豪が響の声に応ずる如くに寄附を申込み、東京のみにても、現在(二月十八日)に於て既に九十万に近い資金が集つて居る、是より先きに大阪・京都・名古屋・神戸等の富豪をも勧誘せねばならぬと云ふので、私が其方面の派出員に選ばれ、一月末から二月初まで関西に旅行して帰つたが、益田氏は九州の炭鉱主の人々に知人が多いので、夫れ等の富豪を勧誘することに努められ、斯様にして只今の所では略百万円の資金は集つて居る。願くば三月末日の締切迄には百五十万円も集めて、東北六県・北海道・九州の各地方に、相当の救済法が行き届く如に仕度いと思ふて居る。
△救済の効果 然しながら前にも申した如く、何分災害の度が激しいので、果して何処まで救済が行き届くかは予想が出来ぬ、東北地方の如きは平常から衰微して居る上に、重ね重ねの惨害を蒙つた事とて、困窮の極一家饑に瀕し、遂には離散するものすら続々出来て居る様子で、実に酸鼻を極て居る、北海道は多少海産物の収獲が有るので、幾分困難を薄くして居る如であるが、海岸から離れて居る土地の窮乏は矢張り甚敷い、又桜島方面に於ても、一時的の災害とは言つても、二万人に近い人々が家を失ひ業務に離れて居るので、現在では各所に分宿せしめて保護して居ると言ふ状態故、其の救済方法は容易でないのみならず、其の他の地方にしても、降灰等の害を蒙つた処は随分困難して居る、大隅の国の肝属郡の如きは降灰五尺に及んで、家屋も耕作地も全滅同様の惨状を呈して居るさうである、斯くあつては其の処置も非常な手数を要し、他に移住せしむるに就ても、種々方法を施さねばなるまいと思ふ。以上の情況に徴しても、東北・九州の災害が幾何の程度にあるかと言ふ事を確知するのは甚だ困難で、場合によつては二三百万円の資金を集めたとしても、九牛の一毛にも及ばぬ如な事になるかも知れぬ、故に吾人に於ては何処までも同胞を愛する情を以て出来る丈の救済を努めねばならぬが、災害地に於ける同胞も亦此の際大に覚悟して、自奮自治を心掛けぬと、何時迄経つても根本的の回復は出来ぬ訳である。
△救済方針 又救済と言つても、余程慎重なる注意を以て適当の方法を採らぬと却つて本旨を誤る事になる、勿論轍にあぎとふ鮒の如しと言ふ状態にある人々を、何時迄も放擲しては置けぬので、応急の策として猶予なく資金を分配し、物品を輸送してこれを保護せねばならぬが、全体の寄附金の分配は余程厳密な調査を為し、努めて災害の程度に適応したる比例を以て、公平無私にせねばならぬ、これがなかなかの困難である、若しも事実の調査を誤り、例へば十の災害に五のものを与へ、五の災害に十のものを与へると言ふ如くになつては、却つて各地方に不平を生じて、折角の救済も其効を見ざるに至らぬとも言へぬから、呉々も慎重の注意を要する。
 次に大に注意すべきは、救済の方法を誤る為めに依頼心を長ぜしむるとか、又は卑屈の情を起さしめるとか言ふ如な弊害を生じてはならぬ、現に救済に尽力する人、寄附金を為す人は、皆惻隠の心より同胞の急を見殺にする事が出来ぬので、我を忘れて之に応ずるのである、又受くる方に於ても、此の志の存する処を察して感謝せねばならぬ、
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苟も貪慾の心より救済者の慈愛心に悖りて、道理に背きたる行動に出でるとか、又は徒らに他人にのみ依頼する浅間しい心を起す如き事が有つてはならぬ。
 此の点は殊に直接地方政治教育の任にある人々の大に配慮すべき事で、真に人情を味つて同胞の同情を受け、今回の苦痛に覚醒して、大に流汗の真味を感じ、労働の神聖を信じて努力する精神を養ひ、奮つて実践躬行するの習慣を一般に普及せしめ度いものである。是の点は此際、各地の郡長・村長・小学校職員、其他の指導経営者に望むので幸に此の精神を誤らぬで理想を追ふて行く時は、決して悲観する事なく、却つて東北振興の気運を作る事と為るであらう、斯く為れば、地方の人々が救済者に対する感謝の情は到れるもので、救済者の方に於ては此上もなき幸慶とする処である。
△天災よりも恐るべき政界の災害 以上申述べた大要が東北九州救済の趣旨であるが、此各地方の困難なる場合に於て、中央の政界にも一大災害が発生した、此の災害は人の心より発生したので、なかなか天災の比では無い、天災も人力を以て免る可らざる事とは言へ、善後策其当を得ると、これに当る人々の決心によりて禍を転じて福と為す事も出来るが、人心の腐敗は如何とも為し難い、況んや草莽卑賤の者でなく、金殿王楼に桂を焚き玉を炊ぐと言ふ地位に居る人々の間に発生した災害は、其及ぶ処測り知れぬので、実に憂ふべきの極である、而して是が救済は果して如何にすべきかは、容易の問題でない、吾人力微なりと雖も、天災に対しては其救済に尽力し、相当の方法を講ずる事も出来るが、人心の腐敗より生ずる災害の救済に到つては、単に吾人惻隠の心慈善の情のみでは、到底真成の救済は出来ぬ事と言はねばならぬ、さりとて斯かる大問題を一日も等閑に附して置く事は、国家の隆替に関するから、及ばずながら能ふ限りの苦心を為して、善後策に遺憾なからしめ度いものである。