公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第31巻 p.415-417(DK310063k) ページ画像
明治43年8月(1910年)
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是月、埼玉県下ニ水災発生ス。栄一、同県大里郡八基村ニ対シ、救恤金トシテ金壱千円、避病院及ビ小学校復旧費トシテ金弐千円ヲ寄附ス。
渋沢栄一 日記 明治四三年(DK310063k-0001)
第31巻 p.416 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四三年 (渋沢子爵家所蔵)
八月十九日 曇 冷
○上略 元治氏八基村ニ罷越トテ来訪セラル、依テ水災ニ関スル救恤ノ事ヲ談ス ○下略
○中略。
八月二十二日 曇 暑
○上略 尾高次郎氏来リテ、埼玉県水災ノ実況ヲ談ス ○中略 夕方事務所ニ抵リテ事務ヲ処理シ、八基村ヘノ寄附金及書状ヲ作リ、明日増田ヲ派遣ノ事ヲ決ス ○下略
○中略。
八月二十九日 晴 暑
○上略 八基村市郎来リテ、水災ノ実況ヲ縷述シ、且寄附金分配ノ事ヲ談ス ○下略
○中略。
八月三十一日 曇 暑
○上略
午後五時ヨリ同族会ヲ開キ、水害ニ付八基村寄附金ノ事其他要件ヲ議決ス ○下略
(八十島親徳) 日録 明治四三年(DK310063k-0002)
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(八十島親徳) 日録 明治四三年 (八十島親義氏所蔵)
八月十五日 晴
○上略
血洗島方面モ去十日夜ヨリ十一日朝ニカケ出水、市郎氏宅床上六寸ニ及ヒ、古今未曾有也ト、今ハ大ニ退水セシモ、其報昨日入手ニ付汽車及徒渉等ノ便ニ依リ、明早朝石川其他一名見舞ノ為派遣ノ筈 ○下略
竜門雑誌 第二六八号・第六〇―六一頁 明治四三年九月 ○青淵先生の義捐金(DK310063k-0003)
第31巻 p.416 ページ画像
竜門雑誌 第二六八号・第六〇―六一頁 明治四三年九月
○青淵先生の義捐金 青淵先生には東京水災善後会及臨時水害救済会の趣意を賛し左の通、寄付せられたり。
一金弐千円 東京水災善後会へ
一金弐千円 臨時水害救済会へ
又郷里埼玉県大里郡八基村に於ける水災被害の甚大なる事を聞知せられ、左の通寄付せられたり。
一金壱千円 八基村罹災者救恤
一金弐千円 同村避病院及小学校復旧費
渋沢栄一 日記 明治四四年(DK310063k-0004)
第31巻 p.416 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 寒
○上略 午後八基村総代六名来リテ、昨年水害ノ際学校及病院ノ為寄附金セシヲ謝スル旨申来ル、渋沢市郎モ同伴ス ○下略
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〔参考〕埼玉県水害誌 埼玉県庁編 第四丁 大正元年一二月刊(DK310063k-0005)
第31巻 p.417 ページ画像
埼玉県水害誌 埼玉県庁編 第四丁 大正元年一二月刊
○第一編 第二章 水防の措置及応急工事の状況
第一節 利根川流域
○上略
一利根川筋大里郡八基村新会村間
八月六日以降暴風雨の為め利根川筋増水し、七日午前四時に至り中瀬村地内字向島設置水量標柱水位九尺を示し、尚ほ正午十二時に至りては十尺八寸五分となり、次で些少の減水を見るに至れるも、暴風雨尚ほ歇まず、九日午前五時より再び増水、正午十二時に至りては十三尺八寸となり、十日午前一時十三尺六寸にして増減なき模様なりしも亦漸次増水し、正午十二時には十六尺八寸、午後五時に至り十八尺六寸に達し、堤塘は殆んど全部越水を始むるに至り、透水箇所へは土俵・莚・畳等持込、縫竹を施し、崩所へは土俵を積立て村吏村民を督励し、種々の方法を以て之れが防禦に手を尽すと雖も人力尽き、加ふるに水位益々増嵩し、材料欠乏し、同夜午前二時より三時に亘り八基村大字横瀬地内丁杭47/30下堤長七間、同村大字下手計地先丁杭47/13上長三十三間、同村同大字地先十二号国道踏切長六間新会村大字新戒字飯玉地先三十間、同村大字高島地先丁杭46/20前後延長三十三間何れも破堤するに至りたり、其間最高水位に達せしは十一日午前三時二十二尺三寸にして、漸次減水を見るに至りたり
之れが応急工事として、右箇所に対し減水を待て材料を集め、村民男女百数十人を駆使し工事に着手せしは何れも八月二十九日にして土俵を外部に積立て縫竹をなし、内部へ土を塡充し七合水を防ぎ得る程度に仮締切を施し、九月七日全く工事の完成を見るに至れり
而して長七間切所に対しては、堤表へ長十七間、又長三十三間切所に対しては堤表へ長四十一間、又十二号国道路切箇所に対しては道路兼用なるを以て、之れが仮復旧工事を施し、新会村長三十間の箇所には堤中心に長二十八間、及高島切所延長三十三間の箇所へは堤表へ延長四十間の仮締切を施し、各箇所共其防備を了せり
○下略
〔参考〕八基村年表 第二頁(DK310063k-0006)
第31巻 p.417 ページ画像
八基村年表 第二頁 (渋沢子爵家所蔵)
明治四三年八月 利根川大洪水、本村流失家屋十戸、死者八名