デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

2章 労資協調及ビ融和事業
1節 労資協調
1款 友愛会
■綱文

第31巻 p.420-436(DK310066k) ページ画像

大正4年6月1日(1915年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国カリフォルニア州ニ排日問題起ルヤ、シドニー・エル・ギューリック等ノ請ニヨリ、米国労働大会ヘ代表ヲ派遣センガ為メ、栄一、安部磯雄・添田寿一ト謀リ、当会会長鈴木文治ヲシテ列席セシムベク尽力ス。是日当会主催全国労働大会ニ出席シ送別演説ヲナス。爾後当会並ニ鈴木文治ニ対シ絶エズ激励援助ヲ与フ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK310066k-0001)
第31巻 p.420-421 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
四月廿六日 曇
○上略 午飧後鈴木文治氏来話ス、米国労働界トノ往復ニ付種々ノ談話ヲ為ス ○下略
   ○中略。
五月十四日 晴
○上略 午後二時外務省ニ於テ松井次官ニ会見シ、米国労働者大会ヘ派出員ノ事ヲ内話ス ○下略
   ○中略。
五月廿七日 晴
○上略 鈴木文治・吉松貞弥二氏来訪ス、褥中引見シテ桑港行ニ関スル順序ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
五月卅一日 晴
○上略 十一時頃外務省ニ抵リ、松井氏ニ面会シテ鈴木文治氏米国行ノ事 ○中略 ヲ談話ス ○下略
六月一日 雨故寒冷ヲ覚フ
○上略 午後五時半青年会館ニ抵リ、鈴木・吉松二氏米国行送別ノ為メ開カレタル友愛会総会ニ出席シテ、一場ノ演説ヲ為ス(鈴木氏米国行ニ付テ) ○下略
六月二日 曇
○上略 原胤昭氏ノ来訪アリ、原氏ハ来ル十一日ヲ以テ鈴木文治氏米国行送別会ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十一日 雨
○上略 六時青年会館ニ抵リ、鈴木文治氏ノ米国行ヲ中央慈善協会々員ト共ニ送別ス、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、畢テ岡山孤児院ノ幻灯説明ア
 - 第31巻 p.421 -ページ画像 
リ、夜十時半散会 ○下略
   ○六月一日、同十一日ノ栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。
   ○本資料第三十巻所収「中央慈善協会」大正四年六月十一日ノ条参照。


労働運動二十年 鈴木文治著 第一〇九―一一五頁 昭和六年五月刊(DK310066k-0002)
第31巻 p.421-422 ページ画像

労働運動二十年 鈴木文治著  第一〇九―一一五頁 昭和六年五月刊
    五 排日問題と友愛会
○上略
 事の起因は米国に於ける排日問題との引つかゝりである。その頃頻りに米国殊に加州の排日問題は伝へられた。或は在留邦人の迫害問題となつて現はれた。
○中略 是に於て博士 ○シドニー・エル・ギューリックは奮起した。その紐育に帰着して米国基督教会聯合会の国際部長に就任するや、あらゆる工夫研究を凝らして日米の平和友好関係を促進することに努力された。博士はいろいろその原因を探究された結果、その深因の米国労働組合側にあることを発見し、加州に於ては加州労働同盟会主事パウル・シヤーレンベルグ氏、中央に於ては米国労働同盟会長サミユエル・ゴムパース氏と接触し、懇談を重ねた末、日本の労働者の代表的人物を連れ来つて、米国労働組合側と交遊せしむることの必ず多少の効果あるべきことを確信するに至つた。かくて博士は大正三年秋、当時のシカゴ大学総長マシウス博士と共に、基督教会聯合会の特使として日本に重ねて渡来せられたのである。かくて博士は其考ふる所を帰一協会の会合の席上に於て述べたのであつたが、博士の説に同感の意を表したのは、渋沢・阪谷・添田(寿一)の諸氏であつた。
○中略 安部磯雄氏はギ博士の相談に対して、直に私を指名された。日本に現在労働組合ともいふべきものは友愛会の外にない。鈴木さんはその代表者であるから適任といふべきであるとの話で、ギ博士に対して極力推薦されると同時に、私に対しても決心を促された。私は夢にも考へないことであつたので、一寸面喰つたが、いづれ一度世界の労働運動の様子も見度いものだと念願して居た矢先であつたので、各方面の同意が得られゝば、あまりに大任で力の及ばざることを恐れるけれども、最善を尽して当つて見てもよいと答へた。ギ博士は此安部氏の推薦と、私の決心とを聴いて、右の帰一協会の会合に臨まれたのである。
 真先に賛意を表されたのは添田寿一博士であつた。 ○中略 そこで添田氏は私を渋沢子(当時男爵)に紹介された。私が渋沢子爵と相知るに至つたのは、此時が全く初めてゞある。渋沢子には再三引見を受けた。人物試験を受けたやうな点もあつたことゝ思ふ。かくて渋沢子もよからうといふことになつたが、難関は外務省の承諾如何である。
 当時の外務省は、所謂米国の排日運動の根源を労働問題にありとは考へて居なかつた。一般的人種問題にありと観て居たやうである。只下等な労働者がガヤガヤ騒ぐので、五月蝿い位にしか考へて居なかつた。外務省の関係者中に、労働運動の理想と目的とを正解するものがなかつたと言つてもよい位であつた。時の外務大臣は加藤高明氏であつたが、同氏を促すために渋沢氏も一度訪問され、添田寿一氏に至つ
 - 第31巻 p.422 -ページ画像 
ては再三足を運ばれたのである。結局問題は阪田通商局長と当人の私との対談によつて決するといふことになつた。
○中略 結局阪田氏の意見は、日米関係の解決のために、外務省は決して君等のやうな労働者の助力を仰がうとは思はない。併し聞けば君は中中熱心に労働者の世話をして居るさうで、その点誠に奇特と思つて居る、よつて君の留学といつたやうな意味で、君の渡米を認めることにしやうといふのであつた。私は理由は何でもいゝ、いづれ解るときが来るであらう、兎も角早く旅券を下附して貰ひたいと言つて分れて来たのであつた。
 統一基督教弘道会の方は、会長の安部氏が推薦をして居られるので問題はなかつた。ミツシヨンのマコーレー博士は却つて非常に喜ばれて、何くれとなく世話された。序でにボストンのユニテリアン協会の本部をも訪問することに話を決めたのである。費用は往復四千円の予定であつたが、これは一部は会員有志で寄附金を募つてくれた、渋沢子の餞別もあつた、友人知己の餞別もあつた。船の方はこれも渋沢氏の尽力で東洋汽船の地洋丸として、船賃は特別割引して貰ふことになつた。友愛会は正式に協議会を開き、友愛会代表として私と共に吉松貞弥君を送ることに決定した。吉松君は最も古い幹部の一人であつたのみならず、兼て渡米の志望を抱き、旅費の用意もしてあつたのである。かくて一切の準備が整ふと、友愛会は我等の会長を始めて海外に送るのであるといつて、大喜びを以て我々のための盛大な送別会を開いてくれた。
 六月一日の夕である、友愛会主催の下に全国労働者大会といふことにして、神田の青年会館に開いた、会衆満堂の盛況であつた。渋沢男添田寿一博士・内ケ崎作三郎教授・秋保職工学校長・武田芳三郎評議員・マコーレー博士等の送別演説あり、十時半散会したが、会員の歓喜は絶頂に達し、得意は無限ともいふべき有様であつた。 ○下略


日本労働運動発達史 赤松克麿著 社会問題叢書第三輯・第八六―八七頁 大正一四年三月刊(DK310066k-0003)
第31巻 p.422-423 ページ画像

日本労働運動発達史 赤松克麿著
               社会問題叢書第三輯・第八六―八七頁 大正一四年三月刊
○上略
 大正四年は、東洋人排斥からして日米問題の紛糾した年であつた。此のとき、日本の有力者と親交あるマシウス、ギューリックの二博士は、日米親交の一助として、先づ日本労働団体の代表者を渡米せしむるの効果あることを日本の知友に告げた。そこで渋沢栄一・添田寿一安部磯雄氏等の如き日米問題に頭を悩しつゝあつた人々は、友愛会長たる鈴木文治氏に向つて渡米を勧める所があつた。玆に於て鈴木氏は大正四年五月十日を以て友愛会本部に緊急臨時協議会を召集し、協議の結果、満場一致を以て左の決議を得たのであつた。
 我が友愛会は今秋開かるべき米国労働大会に、鈴木文治・吉松貞弥の二君を我等の代表員として参列せしむべく之を選定す。
 更に六月一日、神田青年会館に於て、友愛会主催の下に全国労働大会が開催され、満場一人の異議なく鈴木・吉松の二氏を渡米せしむるに決し、渋沢栄一・内ケ崎作三郎・添田寿一氏の送別祝辞演説があつ
 - 第31巻 p.423 -ページ画像 
た。鈴木氏等は六月十九日横浜を出発し、米国加州に上陸し、将に労働大会に出席せんとするや、排日派の或者は、日本人をして神聖なる我組合の大会に出席せしむる勿れと絶叫し、其の着席問題は少からず紛糾したが、鈴木氏等は万難を排して、加州労働大会及び全米労働大会に出席し、自己の所信を発表した。鈴木氏の演説は米国の労働階級及び知識階級に感銘を与へ、日米両国の平和の上に、好結果をもたらしたのであつた。鈴木氏は無事使命を終つて帰路に就き(吉松氏は滞米に決す)大正五年一月四日に帰朝した。鈴木氏の渡米前は会員数が六千五百名であつたが、帰朝当時には一万百名に増加して居た。 ○下略


日米関係委員会雑綴(二)(DK310066k-0004)
第31巻 p.423 ページ画像

日米関係委員会雑綴(二)         (渋沢子爵家所蔵)
    日米関係に於ける労働の要素 (鈴木文治君)
○上略
 元来米国に於ける所謂排日問題なるものは、主として米国の労働団体より其叫び声が挙げられて居ると云ふことは、明瞭な事実であります。従て単に日米両国の識者が、此問題の解決の為に腐心するのみを以てしては足れりとせず、どうしても日米両国の労働階級相互の間の理解と親善の情を増すことが、真の解決のために必要不可欠と云ふことは、既に識者の間の一致したる観察であつたのであります。顧みれば今を去ること十五年前、多年日本に居られて日本の宗教及び教育の方面に多大の貢献をせられ、帰米後宗教方面に働いて居られるシドニー・ギューリック博士が此考を以て我国に来朝せられ、渋沢子爵を初め各方面の有力者に此事を語られた結果として、渋沢子爵・阪谷男爵故添田博士等の御配慮を蒙つて、私が一種の労働使節といつたやうな関係に於て米国に参りましたのは千九百十五年のことでありました。当時私は米国加州の労働同盟の大会並に米国全体の労働同盟の大会等に出席した外、大小種々の米国労働組合の会合に出席して、及ばずながら日本の労働事情・労働運動等のことに付て出来る限りの説明を試み、米国労働者の間に蟠つて居つた幾多の誤解偏見等を除去することに努めたのであります。爾来今日に至りますまで前後六回米国に参りまして、其中四回は加州の労働大会に、三回は全米労働大会に、二回は米国海員組合の大会に出席し、其他大小種々の会合に出席致しまして、米国の主なる労働団体の首領連中が、殆ど悉く私の友人であり、知己であり、同志であると云ふ関係にありますので、今年又重ねて米国を訪問し、旧交を温むると同時に、日米問題の解決促進の為に、労働の一側面より多少の接触を試みやうとしたのであります。
○下略
   ○右ハ昭和五年十一月十日丸ノ内東京銀行倶楽部ニ於ケル帰朝歓迎会ノ演説速記ナルベシ。


友愛会の組織と其内情 東京日日新聞社編 第六―一一頁 大正一〇年三月刊(DK310066k-0005)
第31巻 p.423-424 ページ画像

友愛会の組織と其内情 東京日日新聞社編  第六―一一頁 大正一〇年三月刊
    二 渋沢子と会長
 渋沢子爵と鈴木会長との関係は、疑雲として今日尚世人の頭を去つて居ない。両者の結び付きに就て、両者の性格を思はせる面白い物語
 - 第31巻 p.424 -ページ画像 
がある。数年前渋沢子が日米問題に関し米国識者と会談の用務を帯び訪米の帰途、鈴木会長が労働大会に列して帰途、大晦日の地洋丸食堂で、渋沢子は皆一緒に明日の初日出を仰ぎながら、大内山へ遥かに拝礼を捧げませうと提議した。皆異議はなかつたが、扨て暁の夢の甘さに初日の出の甲板に出る人はなかつた。老渋沢氏の気色は、人事ながら平かならず、朝靄の舷頭へ数歩した時、唯一人遥拝する紳士があつた。此紳士こそ鈴木会長で、老子爵は手を握つて頼母しがつた。「若いあなたが此朝起は感心だ」と、遥拝を終へて当時飛ぶ鳥落す実業界の巨頭は、青年労働運動者と人なき舷頭に将来の援助を約した。更に渋沢子は同氏に其明治の初年仏国より帰朝の途の船中の決心を語り、日本の労働運動のために、献身的努力をなさんことを説かれた。鈴木会長が帝大法科政治部を出て、東京朝日の社会部に籍を置き「ふみはる」の署名で、貧民窟物語を書いて若い感激に浸つて居た頃から、友愛会創立前後までには色々の物語があるが、玆には省略する。
 渋沢子は地洋丸の劇的握手の後、鈴木会長及友愛会に、直接間接、有形無形の助力を与へた。友愛会の総会や支部発会式などには、屡々渋沢子の講演があつた。青踏社の如く、或は青踏社よりも微温的に見られたのは無理のない話で、恐らく其頃の友愛会員の教科書は、唯物史観でなくて、ポケツト論語であり、青淵修養講話であつたらう。
○中略
    三 大の字問題
 北沢氏が鈴木会長の留守を代理し、麻生氏が主事となり、棚橋氏が幹部の椅子を占めると共に、旧幹部は友愛会を去つた。本部詰で居た平沢計七君が編輯部嘱托の空名を残して、操觚界に出でたる如き其一例であるが、渋沢子の友愛会に対する態度は少しも変らず、子爵が面倒を見た会社の世話を焼くやうな調子を続け、北沢留守会長に長文の手紙を寄せ、鈴木の行動に就て研究を頼んだことなど、鈴木氏即友愛会と見做したあらはな一例である。第一銀行即渋沢の流儀を移して、鈴木氏即友愛会としたところが、渋沢さんらしい。鈴木会長は巴里から帰朝した。会ではまだ新旧両派幹部の打合もついて居ない時に、八年度大会は開かれたが、果して理事会の席上、新幹部の理想主義と、旧幹部が新幹部を簒奪者視した罵倒と攻撃とが戦の渦を巻いて、結局新幹部の掌上に天下は渡された。
○下略


友愛会の組織と其内情 東京日日新聞社編 第五六頁 大正一〇年三月刊(DK310066k-0006)
第31巻 p.424 ページ画像

友愛会の組織と其内情 東京日日新聞社編  第五六頁 大正一〇年三月刊
    十 鈴木文治君
○上略
 渋沢子は、今尚昔日の如く友愛会に好意を持し、友愛会の発展を祈り、鈴木氏の意のまゝにならざる新幹部が、子爵に対して路傍の人なるが如き態度に「困つたものだ」と云ふ風に思つて居る。かく云へばとて、子爵は友愛会を利用するの意思を毫毛も有せるものではない。子の温情が昔年の関係を顧て、捨て難き感を子に抱かせて居るのである。
 - 第31巻 p.425 -ページ画像 



〔参考〕友愛会創立五週年史 坂本正雄編 第一―二七頁 大正六年四月刊(DK310066k-0007)
第31巻 p.425-436 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。