デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

2章 労資協調及ビ融和事業
1節 労資協調
1款 友愛会
■綱文

第31巻 p.440-450(DK310070k) ページ画像

大正8年8月31日(1919年)

是ヨリ先栄一、協調会設立ニ際シ労働団体ノ代表ヲモ其発起人中ニ加ヘントシ、当会会長鈴木文治ト種々折衝セシガ、是日当会七周年大会ノ開カルルニ際シ鈴木文治協調会入会ヲ拒絶ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK310070k-0001)
第31巻 p.440 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 厳寒
○上略 北沢氏、松村氏ト同行シテ、友愛会鈴木文治氏ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
五月十六日 朝 軽暖
○上略 北沢新次郎氏リ友愛会ノ事ヲ談ス
○下略
   ○中略。
六月八日 曇 暑
○上略 四時過ヨリ事務所ニ抵リ、北沢新次郎氏ノ来訪アリ、労働問題ヲ談シ、鈴木文治氏ノ身上及友愛会ノ近状ヲ談ス、鈴木氏ヨリノ書状ヲ貸与ス
○下略


集会日時通知表 大正八年(DK310070k-0002)
第31巻 p.440 ページ画像

集会日時通知表  大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
八月三十日(土) 午後五時 鈴木文治氏兜町ニ来約


日本労働年鑑 大正九年版 大原社会問題研究所編 第四六五頁 大正九年五月刊 鈴木友愛会長協調会に参加するを拒む(DK310070k-0003)
第31巻 p.440 ページ画像

日本労働年鑑 大正九年版  大原社会問題研究所編
                       第四六五頁 大正九年五月刊
    鈴木友愛会長協調会に参加するを拒む
 七月二十二日協調会発起人に加へられんとした鈴木友愛会長は、協調会の趣意・組織に反対の旨を発表し、渋沢男に対して六ケ条の反対意見を提出し反省を求めた。


竜門雑誌 第三八〇号・第二二―二五頁 大正九年一月 ○協調会の設置に就て(青淵先生)(DK310070k-0004)
第31巻 p.440-441 ページ画像

竜門雑誌  第三八〇号・第二二―二五頁 大正九年一月
    ○協調会の設置に就て (青淵先生)
 本篇は青淵先生の談話として「実業公論」八月号に掲載せるものな
 - 第31巻 p.441 -ページ画像 
り(編者識)。
○上略
△鈴木文治君との対話干係 友愛会長鈴木文治君が、余等に対して六ケ条の事項を列挙し、協調会脱退を勧告したなど新聞には書いてあつたが、之れも新聞の虚報である、唯だ余は鈴木君の来訪に対して、協調会は内務大臣から吾々への相談で、吾々四人は進んで発起計画したので、協会の事業の目的は資本と労働の中間に立つて双方を善導し、広く社会政策に立ち入つて、仮令政府の為すべき範囲のことも、民間で出来ることは努めて之を行ひ、身体・精神の続く限り国家と社会の為めに貢献する積りである、只斃れて後止まんのみだと云ふた所が、鈴木君は、労働問題に御忠実なること寔に敬服の外ありません、自分等も幸に誘掖保護せられんことを喜ぶものであります、乍併労働組合なるものは、政府に於ても相当なる方法で認めるのが至当であると考へます、同時に政府は、今猶ほ治安警察法第十七条をも撤廃しないから、労働者は相変らず圧迫を受けるものとして、憂へるのは当然である、だから若し協調会が出来て、反つて労働組合を排斥する道具に使はるゝものとすれば、それは実に卑怯な遣り方である、協調会が徒らに政府側の鼻息を窺つて事を処理するものとすれば、労働者側の為めに採らざる所であるが、御説の如き趣旨で設置さるゝとすれば洵に結構なことでありますとて大に賛成をして居つた。
 然るに不思議にも新聞を見ると、鈴木氏は六ケ条の項目を提げて渋沢男の脱退を勧告したなどゝ書いてあつた、早速鈴木君を招いて其理由を正した、即ち我が協調会なるものは勿論政府とも相談はするが、君等とも実業家とも大に相談して、意の在る所を交換し、偏せず党せず、最も公平なる見地に立つて資本と労働の問題を解決せんと策するものである、然るに新聞紙の伝ふるが如きは、政府を見るも極端で、吾々を見るにも失敬ではないか、況んや君と僕との間の話も事実甚相違し、奇々怪々の言を挟んで居る、君は新聞側に対してそんな話しでもしたのであるか何うかと尋ねて見た。すると鈴木君の答は、いやそれは私しも全く意外ですと云ふことであつた、其日和田豊治君や武藤山治君などを始め、紡績聯合会の実業家の面々が六七名来て、協調会の話しを聞きたいとの事であつたが、丁度鈴木君も来て居ると謂へば孰れも一度鈴木氏に面会して置きたいとの事であつたから、六七人会合の席上で、君は大分反対の意見の様だが如何と問ひたるに、いやそんなことを申上げた積りはないがとの事であつた、如何にも然様であらう、君に二枚舌がある筈はないからと、些細な事ながら、数人会合の前で間違ひのないやうに繰り返した。
○下略


労働運動二十年 鈴木文治著 第一八六―一九八頁 昭和六年五月刊(DK310070k-0005)
第31巻 p.441-446 ページ画像

労働運動二十年 鈴木文治著  第一八六―一九八頁 昭和六年五月刊
    二 協調会の設立
 大正八年十二月、今の協調会の設立されたのは、私の見るところでは、米騒動の結果である。当時資本家は民衆の暴力の前に極度に脅えて居た。政府もこれが対策に頭を悩まして居た。かくて騒動直後に、
 - 第31巻 p.442 -ページ画像 
民情視察に派遣せられたのは当時内務省警保局書記官、後の社会局労働部長、其又後の台湾総督府民政長官の河原田稼吉君である。
 河原田君は静岡・名古屋あたりを振出しに、関西・中国・九州と暴動の迹を観て歩いた。そして、帰任して「復命書」なるものを提出した。彼れは其結論に於て、労資関係の急なるものあるを述べ、これが対策を講ずることの喫緊の要務なることを論じた。此報告書を先づ読み、又その報告を直接に聴いたのは当時の警保局長、後の台湾総督川村竹治氏であり、次に此報告書の伝達を受けたのは時の内務大臣床次竹二郎氏である。
○中略
 そこで、そんなら何うしたらよいかといふ具体的協議に移つた。ああでもない、かうでもないといふ種々な意見が闘はされたやうであるが、結局、一種の労資協調機関を作らうといふことに纏まつたのである。会名の如きも、会の目的や事業について幾変遷も経たやうに、これ又種々な意見が出たやうである。労働保護会とか、労働者後援会とか、信愛協会とか、労資協調会とかいふやうなものである。かくて労資協調会と一旦会名が決定されて世間にも発表されたのであつたが、最後に「労資」の二字を除いて、単に協調会とされたのである。
 兎に角、其目的は米騒動の善後策である。民衆の自覚は年一年高まつて来る、労働者の組合運動は、如何に之を弾圧しても根だやしにすることは出来ない、何とか一つ此労働者の社会的、集団的慾望を満足させつゝ、しかも資本家に反抗するといふやうな危険性のない運動形体を纏めることは出来ないのだらうか。かくて千思万考の末、でつち上げたものは協調会の最初の案なのである。
 私は当時政府に此計劃あるを聞き、一つは情報を得るために、一つは当局と意見の交換を行はんがために、何回となく足を警保局に運んで、川村警保局長と会談したものである。川村氏は人の好い正直な人である。或日得意然として私に語るやう――
 「政府の此度の計劃といふのは、先づ民間から約一千万円の金を集めるのだ。それに政府もいくらか出す。これを基金として、全国の各工場に一種の労資協調の団体を作る、そして此工場毎の組合の地方聯合会を組織し、其事務所を府県庁内に設ける、その全国的中央会を東京に置くことにする、各工場に於けるいろいろな問題は各工場内の委員会で決定し、地方的なものは年何回か開催する府県聯合会と協議決定し、全国的なものは中央会の大会で決定する、さうすれば君、所謂労働問題なるものゝ大半は、此やり方で解決が出来るよ、いくら労働組合が蠢動したつて、活躍の余地はないよ、友愛会の如きは鎧袖一触サ」
といふのである。「友愛会の如きは鎧袖一触サ」此言葉は堅く脳裏に刻みつけられて今でも忘れない、私は此結末の一句にグツと来た。私は答へた。
 「フム、官製の労働組合といふわけですかね、緩々お手並拝見致しませう、それが所謂国情に立脚したやり方といふのですね。併しそんな方法で労働組合は潰れませんぞ、協調会て奴で友愛会が容易く
 - 第31巻 p.443 -ページ画像 
潰せるなら潰して御覧なさい、友愛会が先きに潰れるか、協調会が先きに潰れるか、一つ力くらべをして見ませうかな、金の力が強いか、人間の力が強いか、試して見るのも面白いでせう、一寸の虫にも五分の魂があるといふことを忘れなさんな」
と捨せりふを残して、癪にさわるまゝ、警保局長室(震災前の旧内務省)のドアを靴の先で蹶放して帰つたことがある。爾来十有二年、友愛会は潰れない、むしろ総同盟となつて其基礎を鞏固にしてゐる、協調会も潰れない、むしろ鉄筋コンクリートの堂々たる大建築となつて高く聳えて居る。併し計劃当初の精神はどこへ行つたやら。
 大正八年八月であつたと思ふ、私は巴里の平和会議より帰朝後間もない頃であつた。渋沢事務所より電話があつて、子爵(当時はまだ男爵)が是非お会ひしたいからといふことであつた。私は直ぐ同事務所(当時は日本橋区兜町にあり、明治初年に出来た瀟洒たる洋館建であつた)に行つて見ると、渋沢氏は例によつて極めて慇懃叮寧な挨拶であつて、「実は床次さんから頼まれて、協調会の設立について奔走してゐる、学者側や実業家側の顔は揃つたが、労働者の方が一向揃はない労働者側は誰れに相談すればよいのか、見当もつかない次第であるから、貴君に是非発起人の中に入り、出来れば将来、理事なり評議員なりの列に加はつて、一骨折つて頂きたいがどうでせう」といふ相談である、私はこれに対して――
 「折角の御話で御座いますから、早速お引受するのが本来で御座いますが、私はどうもこれ許りはオイソレと御返事が出来兼ねます。一体今時協調会のやうなものを作ることは、寧ろ有害無益と申してもよろしいのです。何故かと申しますと、労働組合の発達は産業の発展に伴ふ必然の現象であつて、何者の力と雖も、これを抑へることの出来るものではありません、それに今時労働組合の代用機関を作らうなどとは……」
と論じかけると、渋沢氏は周章てゝ私の話を遮り止め
 「イヤ待つて下さい、そのお話ならもう疾うに沙汰止みになつてゐます、私も最初床次さんから御頼みを受けた時、今時そんなことの出来るものでないと言つて反対しました、そこで話が変つて労資の協調機関となつたのです、労働問題もたゞ喧嘩腰でばかりで解決しやうといふのも、あまり感心した話でありませんから、何とか私共の方で幾分なりとも力添えをしやうといふので……」
と言つて、協調会の趣意書・目論見書・規則といふやうなものを見せて呉れた。
 私はこれに対して次の条件を持ち出した。
 第一、協調会が、労働組合に対する態度を明確にし、治警第十七条の撤廃と、労働組合法の制定を必要とすることを、協調会の意見として社会に提唱すること。
 第二、協調会と政府との関係を明瞭にし、協調会が純然たる独立の機関にして、何等政府の為めに操縦せらるゝものにあらざることを明かにすること。
 第三、協調会の理事者中に、第三者は暫くこれを別とし、少くとも
 - 第31巻 p.444 -ページ画像 
資本家側と同数の労働者の代表を列すること。
 第四、協調会は其事業として数へ上げて居るものゝ中、到底実行不可能なる労資間の調停・仲裁等の項目を除き、単に労働問題の調査・研究・教育等に関する事項のみを取扱ふこと。
 第五、協調会の名目は頗る世間の誤解を招いて居るから、此名称を廃して「社会政策協会」と改称すること。
 外一ケ条、合計六ケ条の条件を容れて下さるなれば、私はよし如何様なる世間の非難を被むらうとも、進んで協調会に入り、一臂の力を尽しませうと答へたのである。渋沢氏は沈吟之を久しうして、さて言はるゝやう――
 「私一個人であれば、貴君のお話の治警十七条の廃止も、労働組合の公認も、組合法の発布提唱にも、凡て賛成致します。それなら直ぐにでも声明しませう。其他のお話も大抵御同意が出来ます、併し協調会としてとなると、内部に種々な違つた意見を持つて居る人がありますから、とても纏りさうにはありません」
といふお話である。私は「渋沢氏個人の御意見ならば改めて伺はずとも分つて居る、問題は協調会としての意見でなければ役に立たない」旨を述べ、若し此条件を容れて呉れなければ、遺憾ながら御断りする外はないと述べた。尚私は、余人でない男爵からの御依頼であるから或は一儀に及ばずして御引受けするのは世間普通の礼儀かも知れないが、私は己れの信ぜざる所のものに従ふことは、却つて其友の為めに忠なる所以でないと信ずるから、寧ろ明白に御断りするのが、私のなすべき義務なりと信ずる旨を述べた。私は此意味に於て渋沢氏の提言を拒絶するのみならず、進んで真に同氏が日本の労働階級の為に計るに忠ならば、寧ろ此際私の意見を取つて政府に進言し、聴かざれば断然斡旋役から手を引かれたらよろしからう、若し然らざれば、却つて多くの日本の労働者から怨まれるであらうと述べたのである。
 私があまり無遠慮に言ひ過ぎた為めであらう、流石温厚なる渋沢氏も稍々色を作して申さるゝには――
 「協調会として纏めよと申されても、それは出来ません、又そんなら止めろと申されても、私も床次さんから頼まれて一旦お引受した以上、今更後へ退かれるものではありません。鈴木さん、斯くなる上は致方ありませんからかうしませう、貴君は貴君の途をお歩みなさい、私は私の途を歩みませう、そして長年折角御懇意には願ひましたが、かうも公の問題で意見が違ふ以上は、公の交際は今日限りとお考へを願ひます、併し私の交際は別ですから、これは従前通りに御願致します」
とのことである。私も言下に答へた。
 「結構で御座います、私も長年御厄介になりまして、今更御分れするのは情に於て忍びませんが、義に於ては、止むを得ないと存じます、此機会に於て長年の御恩顧を深謝致します、私の御交誼の点は何分よろしく」
と挨拶をした。即ち協調会問題については、私は渋沢氏から絶交の申渡を受けたのである。併し同氏は尚玄関まで出て来られて私の帰りを
 - 第31巻 p.445 -ページ画像 
見送られた。私的交際は従前通りと言つて見たところで、元来公の問題で親しくなつた間柄であるから、公の問題で手切れになれば、私的の交際も同様である。其後、大正十三年、私がはじめて日本労働代表としてゼネバに赴く際、添田寿一氏の口添えによつて、久しぶりに渋沢氏に会ふまで、前後約五年の間は、事実上全く交際断絶の姿で過した。此時分には渋沢氏も当時私の言つたことの意味を、相当諒解されて居たやうで、快く会はれたのである。
 私は斯くも渋沢氏の提言を拒絶すると共に、同年九月一日発行の友愛会機関誌「労働及産業」巻頭に「労資協調会を評す」といふ一文を掲げ、私の協調会に対する立場を明かにした。
 私は先づ劈頭の一項に於て、「設立の趣意と綱領」とを述べ、次にこれを批評して曰ふ――
 第一、協調といふ時には、相手方が共に対等の実力あることを前提とする。資本家が殆んど労働者の人格を認めず、これを隷属視しつゝある現状に於て、如何にして真の協調が成立すべき。協調を言ふ前に、協調の出来るやうな実力の養成が先決問題である。そのためには労働組合法の制定が急務である。協調会なるものが、此急務をよそにして、如何に協調主義を振廻しても、その実が挙げられるものでない。
 第二、協調会の基金は皆富豪資本家の醵出するところである。協調会は飽くまでも公平無私の態度を以て、労資の問題に臨むといふけれとも、基金を資本家に仰いで、果して真の公平性が保持さるるものかどうか。殊に出資者の労働者を見ること貧民に等しいものがある。果して然らば、これ労働問題と慈善救済の問題とを混同するものである。
 第三、協調会は其創立の動機に於て、労働組合の代用機関たらんとしたものである。即ち温情主義的な救済団体を組織せんとしたものである。発企人は頻りに労働組合に対して圧迫するものでないと弁明するけれども信ずるに足らぬ。現に労働組合公認問題の如きについても、毫も之に触れんとはせずして、全然雲煙過眼に附してゐるではないか。
 第四、本会の成立に就て、内務省当局が最初より尽力してゐたことは明かな事実である。寧ろ計劃それ自体が警保局案なりといふを妨げない。其なさんとする事業の性質を見れば、当然政府が自己の責任を以てなすべきことである。自ら責任の衝に立つべき者が責任を取らず、他人の力によつてこれが実現を期するが如きは、其態度を陋なりとせざるを得ない。
 第五、これを国際関係について顧慮するも、寧ろ我国の文明に対する疑惑を増さしめ、列国の侮蔑嘲笑を買ふ所以である。労働問題を権利の問題とせず、主従間の温情といふが如き道徳関係を以て律せんとするを以て、世間の識者は冷笑してゐる。外には労働問題が国際的に審議せられんとしつゝある際なるに、労資の問題を道徳観念によつて処理せんとするは、時代錯誤も甚しいと言はなければならぬ。
 - 第31巻 p.446 -ページ画像 
 第六、本会が成立しても、何人を以て其局に当らしむるかは大問題である。労働問題の取扱には十分その人を選ばなければならぬ。如何に巨万の黄金を擁しても其人を得ざれば、仏作つて魂入れずといふ結果になる。徒らに官等の高きを以て官吏の古手の如きを選ばゞ、或は海員掖済会の如く、海員から相手にされないやうな結果を招来する虞れがある。
 要するに大正の今日、協調会の如きものゝ誕生は時代後れの甚しいものである。今日労働問題の解決に、立法的手段を避けて道徳的説法を以てせんとするは、あまり人を愚にした話であるといふのが、その大体の骨子である。
 協調会も其後種々変遷を重ねた、定款も変更した、理事者も変更した、事業其ものも、亦一方内務省に社会局が設けられて、職業紹介や争議調停や、労働調査を行ふやうになつてから、殆んど其大半を失つたやうな観がある。今日では先づ労働事情の調査と「社会政策時報」の発行と、社会政策学院の経営と、即ち先に大正八年私が渋沢氏に進言したるが如く、主として労働問題の調査・研究と教育とを行ひ、傍ら争議調停に乗出して行つて居るやうな有様である。労働争議調停も近年財界の不況甚しく、労働者は常に受身になるやうになつて、漸く其存在の意義を発揮して来た。但し労働組合もよく協調会の職能と事業とを理解して、最早往年の如く敵視せず、其会館講堂の如きは、最もよく利用するところとなつた。これは協調会のためにも、労働組合のためにも、喜ぶべきことゝ思ふ。


友愛会の組織と其内情 東京日日新聞社編 第四―五頁 大正一〇年三月刊(DK310070k-0006)
第31巻 p.446-447 ページ画像

友愛会の組織と其内情 東京日日新聞社編  第四―五頁 大正一〇年三月刊
    一 青踏社の如く
○上略
同会は八週年を迎へるが、顧みれば昨年 ○大正八年の七週年大会ほど友愛会に取つて重大なものはなかつた。大会の初日の昼の休憩中、私共は本部事務室で弁当の馳走になつて居ると、渋沢男爵からお電話ですと給仕が呼びに来た。私と同じやうに堺利彦氏は注意を惹いた相であるが、此電話を後で聞けば、協調会の発企人に鈴木氏を推薦したいが、と云ふ男爵の申込に対し、鈴木氏が返事を留保中であつたのを、男爵が催促したのであつた。鈴木氏は此電話に於て、発企人たることを拒絶したのであると云ふ。堺氏は其時の(電話呼出しの)感想として斯麼事を書いた。「鈴木君と渋沢男との関係が鈴木君及友愛会に対する久しい以前からの世間の疑惑であつたのだから、此電話の知らせは、チヨト私の注意を惹いた。(中略)私(堺氏)は先年来友愛会の批評をし来つた。友愛会の機関雑誌『産業及労働』の大正六年正月号に、当時の友愛会員坂本正雄君が『我が友愛会は決して渋沢男一派の資本家の傭兵に非ざることを言明し「渋沢男を其総裁に戴かざるべからざるほどに爾く本末を謬り、且良心が麻痺して居ない」と断言し、渋沢男は昨年、其秘書役鈴木法学士を従へて渡米し――帰朝の暁には大日本労働党を組織し、男爵自ら之が総裁となるべき旨の某新聞記事に対し「マサカ、火の無いところに煙は立つまい。真に咄々大怪事と謂ふべ
 - 第31巻 p.447 -ページ画像 
き」だと云ふ事を憤慨して居ることを紹介し、斯う云ふ『内部に於ける強硬分子の手に依り、真に資本階級と対抗するに足るべき有力なる戦闘団体とならんことを切望した事もある――。』
 堺氏の此感想記は、其当時(大正六年頃)山川均氏が友愛会の為に書いた批評『要するに友愛会は未知数である。吾々の眼に映じた友愛会の中には極めて進歩した分子と、極めて保守的な分子とが雑然として並存する。其中には坂本君の如き分子があるとともに、喜んで渋沢男を総裁にも仕兼ね間じき空気がある。友愛会の将来は、日本に於ける労働者の有力なる階級的戦闘団体となるかも知れないが、或はゴンパアースに率ゐられる資本家の傭兵となつて終るかも知れない。友愛会の未来は、其中にある健全なる分子が、漸次勢力を得て全体を率ゐるに到るか何うか。其中にある階級的戦闘的思想の萌芽が、終に資本労働の調和てふ外殻を内部から打毀す程に成長するかどうかに依つて決定する。」――を引証して居る。山川均氏が此論をした頃が、即ち青踏社と比較された頃の友愛会である。堺氏の頭に端しなくも此頃が思ひ出された。それは今昔の感のためではなかつたらしい。夫ほど友愛会は永い間微温的な態度を持して居たし、又昨年の夏頃まで転機が明瞭にされて居なかつた。



〔参考〕明治大正史 野依秀一編 第三巻(国勢篇)・第三八三―三八四頁 昭和四年四月刊(DK310070k-0007)
第31巻 p.447-448 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕日本労働年鑑 大正九年版 大原社会問題研究所編 第四六九―四七一頁 大正九年五月刊 友愛会の七週年大会(DK310070k-0008)
第31巻 p.448-449 ページ画像

日本労働年鑑 大正九年版 大原社会問題研究所編
                      第四六九―四七一頁 大正九年五月刊
    友愛会の七週年大会
 友愛会七週年大会は、七年八幡に開催の予定であつたが、時局重大との意より東京に開かれる事となつて、八月三十一日先づ代議員歓迎会を以つて幕は開かれた。午後協議会に移り、会長より議案の説明があつた。
 一、会名変更の件、二、会則修正の件、三、支部本部組織変更の件四、会費値上げの件、五、顧問の廃止、評議員大改正の件、六、機関雑誌制度改革の件、七、宣言及政綱発表の件、八、国際労働大会に対するの件
夫より各種委員を選任し、代議員資格審査委員は直ちに信任状審査を行つた結果、百四十三名の代議員が皆完全に資格を有する事を確め、松岡主事の過去一ケ年の会務報告あり、更に会計報告ありて後、議案討議に入つて会名を『大日本労働総同盟友愛会』とし、組織を改め、本部内の事務上の変更と支部を地方別より職業別と改むるの原案を可決し、議事を打ち切りて、九段富士見軒に歓迎懇親会を催した。堺枯川・生田長江氏も加はつてテーブルスピーチを賑はした。八月三十一日本部裏宗光寺に協議会第二日を開き、本部会費を一人に就き十五銭とする事、其他を可決し、次いで賀川豊彦・三木次郎、其他の代議員より次の建議案が提出されて可決した
 一、支部の労働争議を他の支部が応援した為めに検挙せられたるものゝ解放を政府に要求して、全国的組合を妨げんとする政府の真意を訊すの件、其他
午後席を換へて、雑誌を会報とし別に雑誌を発行する事、関西労働同盟会承認の件等を可決し、次いで各聯合会より提出された次の如き
 婦人部独立の件(関西労働同盟提案)
 婦人機関雑誌改良の件(江東聯合会及千住支部)
 脳力労働者の入会を許す件(神戸聯合会)
 他の労働団体と提携する事(神戸聯合会)
 財産規定変更の件(関西労働同盟)
議案を審議し、婦人部及財産規定に関する部分を除いて、大体承認した。
九月一日本部にて開会、劈頭婦人部に関する委員会案を否決し、次いで再各支部提案の議案を大体に於いて可決した。
 会館建設の件(江東聯合会)
 鉱山部を設くる事(多賀・磐城・日立各聯合会)
 満洲に出張所を設置の件(沙河口支部)
 九州出張所設置の件(八幡・後藤寺各支部)
 海員部改正の件(海員部)
其他国際労働会議に代表者選出に関しては、政府の意思如何に拘らず一名以上を派遣する事を可決し、会則改正に関しては合議制理事組織
 - 第31巻 p.449 -ページ画像 
とし、夫より会長選挙を行つて満場一致、鈴木文治氏再任となる。而して大会終了後大講演会に移つた。此大会に於いて発したる宣言並に主張は次の如くである。
      宣言
  人間は、その本然に於て自由である。故に我等労働者は如斯宣言す。労働者は人格である。彼はたゞ賃銀相場によつて売買せしむる可きものでは無い、彼はまた組合の自由を獲得せねばならぬ、資本が集中せられて、労働力を掠奪し、凡ての人間性を物質化せんとする時に、労働者は、その団結力を以て社会秩序の支持はたゞ黄金にあるのでは無く、そは全く生産者の人間性に待つものであることを資本家に教へねばならぬ。
  特に機械文化が謬れる方向に、我等を導き去つて以来、資本主義の害毒は世界を浸潤し、生産過剰と恐慌は交々至る。生産者は其工場より追はれ、然らざるも、彼は一個の機械の附属品として、その生理的補給を繋ぎ得る程度の賃銀に、甘んぜねばならぬことゝなつた。故に我等生産者は如斯宣言す。我等は決して機械で無いと。我等は個性の発達と社会の人格化の為めに、生産者が完全に教養を受け得る、社会組織と生活の安定と自己の境遇に対する支配権を要求す。
  顧みて、わが日本の産業界を見るに、女子は紡績会社にうめき、幼年工は勤労の長きに疲れ、地の底より女坑夫の叫び立ち上る。嗚呼今は解放の時である。又労働者の死亡率を増加し、その生活の不安の為めに嬰児の死亡と、死産・流産は著しく増加し、労働者の顔に死の蔭のさゝぬ時が無い。物価は騰貴し、罷工は相継ぎ、組合の自由は認められず、労働者は全く自由民としての権利を否定せられてゐる。今は日本の生産者の嘆きの時である。
  世界は産れ変る。そして日本をのみ残して前へ前へと進む。故に我等日本の生産者は世界に向つて如斯宣言す。日本の労働者も国際聯盟とその労働規約の精神に生き、地球が凡て、平和と自由と平等の支配する所で有る為めには、我等も殉教的奮闘を辞するものでは無いと。
      主張
 一、労働非商品の原則、二、労働組合の自由、三、幼年労働の廃止(十四歳未満)、四、最低賃銀制度の確立、五、同質労働に対する男女平等賃銀制の確立、六、日曜日休日(一週一日の休養)、七、八時間労働一週四十八時間制度、八、夜業廃止、九、婦人労働監督官を設くる事、十、労働保険法の発布、十一、争議仲裁法の発布、十二失業防止、十三、内外労働者の同一待遇、十四、労働者住宅を公営にて改良を計る事、十五、労働賠償制度確立、十六、内職労働の改善、十七、契約労働の廃止、十八、普通選挙、十九、治安警察法の改正、二十、教育制度の民本化(以上)



〔参考〕日本労働運動発達史 赤松克麿著 社会問題叢書第三輯・第九九―一〇一頁 大正一四年三月刊(DK310070k-0009)
第31巻 p.449-450 ページ画像

日本労働運動発達史 赤松克麿著
              社会問題叢書第三輯・第九九―一〇一頁 大正一四年三月刊
 - 第31巻 p.450 -ページ画像 
○上略
 労働争議の頻発と労働組合の簇生とを見る一方に於て、労働組合は其の思想及び組織の上に、著しい変化を見るに至つた。就中、友愛会は其の態度方針を一変した。八月卅一日○大正八年より開かれた友愛会第七週年大会は、同会の組識を改革し、従来鈴木会長の独裁制であつたのを理事制の合議体とし、また雑然たる地方支部の集合であるのを、漸次地方別より職業別に改めることにした。会名は大日本労働総同盟友愛会と改称した。今日まで協調主義を奉ずるものと一般から目せられた友愛会は、此の大会によつて、左傾的色彩を現はし、改良的組合より戦闘的組合への推移を示した。大会宣言は、資本主義の害毒を攻撃し、賃銀奴隷の解放を叫び「我等は個性の発達と社会の人格化の為めに、生産者が完全に教養を受け得る社会組織と生活の安定と自己の境遇に対する支配権を要求す」と説き、更に大会は主張として左の二十項を掲げた。
   一、労働非商品の原則
   二、労働組合の自由
   三、幼年労働の廃止
   四、最低賃銀制度の確立
   五、同質労働に対する男女平等賃銀制の確立
   六、日曜日休日(一週一日の休養)
   七、八時間労働及一週四十八時間制度
   八、夜業禁止
   九、婦人労働監督官を設くること
   十、労働保険法の実施
  十一、争議仲裁法の実施
  十二、失業防止
  十三、内外労働者の同一待遇
  十四、労働者住宅を公営にして改良を計ること
  十五、労働賠償制度の確立
  十六、内職労働の改善
  十七、契約労働の廃止
  十八、普通選挙
  十九、治安警察法の改正
  二十、教育制度の民本化