デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

2章 労資協調及ビ融和事業
1節 労資協調
2款 財団法人協調会
■綱文

第31巻 p.559-571(DK310093k) ページ画像

大正15年7月2日(1926年)

是ヨリ先当会内部ニ関シ種々ノ世評ヲ招ク。栄一之ヲ廓清セントシ、副会長床次竹二郎等ト謀リ、
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理事永井亨辞任ヲ機トシ、是日、理事会ニ於テ事務分掌規定ヲ改メ、爾後社会問題ノ調査研究ニ主力ヲ注グ事ニ定ム。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一五年(DK310093k-0001)
第31巻 p.560 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年     (渋沢子爵家所蔵)
二月五日 晴 寒
○上略 大橋新太郎氏来訪、本月十五日ヲ以テ予定ノ協調会ニ関スル意見交換会ヲ開催ノ事ヲ約ス ○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 協調会中村英雄氏来リ、同会ニ関スル近状ヲ談話ス ○下略
   ○中略。
二月十五日 晴 寒
○上略 午前十時半銀行倶楽部ニ抵リ ○中略 畢テ協調会ノ将来ニ関シ、意見ノ交換ヲ要シテ実業家十名許ト会話ス、談話中午飧ヲ共ニシ、午後二時散会ス ○下略
   ○中略。
二月二十七日 晴 寒
○上略 午前十時床次氏ヲ其邸ニ訪ヘ、協調会ノ事ヲ談話ス、十一時過事務所ニ抵リ ○中略 午飧後中島久万吉氏来話ス、協調会ノ事ヲ談ス、三月十日頃更ニ会談ノ事ヲ約ス ○下略
   ○中略。
三月十四日 半晴半陰 軽寒
○上略 九時過添田敬一郎氏来話、協調会ノ事ニ関シ客月中旬実業界諸氏ト会談ノ顛末ヲ詳話ス○下略


招客書類(二) 【大正十五年二月十五日午前十一時於銀行倶楽部 協調会ノ件ニツキ懇談会】(DK310093k-0002)
第31巻 p.560 ページ画像

招客書類(二)             (渋沢子爵家所蔵)
大正十五年二月十五日午前十一時於銀行倶楽部
  協調会ノ件ニツキ懇談会
                   ○井上準之助
                   ○大橋新太郎
                   欠門野重九郎
                   ○団琢磨
                 ○男 中島久万吉
                   ○内藤久寛
                   欠昆田文次郎
                 ○男 郷誠之助
                   ○木村久寿弥太
                 ○男 森村開作
                   ○服部金太郎

                   ○主人
   以上〆十二人
         出席十人
       内
         欠席二人
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読売新聞 第一七五六八号 大正一五年二月七日 徳川会長辞任を声明し協調会めちやめちや 床次・渋沢両副会長以下幹部もやめる 使ひ道を知らぬ七百万円(DK310093k-0003)
第31巻 p.561-562 ページ画像

読売新聞  第一七五六八号 大正一五年二月七日
  徳川会長辞任を声明し協調会めちやめちや
    床次・渋沢両副会長以下幹部もやめる
      使ひ道を知らぬ七百万円
欧洲大戦後の我国産業界は、労資関係が複雑となつて来たので、当時の原首相及床次内相は徳川・大岡の貴衆両院議長及清浦・渋沢の両子と相諮つて、資本と労働との協調を図り、我産業の健実な発達をなさしむる事を目的として、大正八年の十一月に資本家を勧誘して財団法人協調会を作つたのであるが、其後当事者に其人を得ない結果、この設立の主旨を没却して、協調どころか寧ろ煽動的な言動をなす事が多いために、之に対する非難の声喧しく、責任者も放任して置く訳には行かず、目下寄々其対策を協議してゐることは既報したが、愈々議会明けともなれば、徳川会長の手もすくので、断乎たる処置に出づることゝなつた模様である、聞く所によれば、同会は設立当時九十名の寄附人から総額六百八十二万五千円の寄附申込みがあつて、之を五ケ年賦として受入れてゐるのであるが、同会の理事者が設立の目的である労資の協調偕和に就て、何等の活動もなさないばかりか、俗潮に媚びて左傾派の傀儡となつてゐる様な事が多い為め、最初の寄附申込者中にも、其挙措を不満として申込寄附金の納入を拒むものさへ生じて、現在納入されたものは六百八十二万五千円の申し込に対し、四百四十三万八千五百円に過ぎず、約三分の一に該当する金は未だ払込まれて居ない模様で、これ等は明かに理事者の不信任を物語つてゐるものである。
  無能に呆れて寄附払込拒絶
    古手官吏の収容所で
      ◇…設立の主旨に添はず解散か
更に事業としては何をやつてゐるかと云ふと、前記四百四十三万八千五百円の払込に、政府補助の二百万円(九年九月)を合せて六百四十三万余円の資金を擁し、大正十年には八十一万余円、十一年には一百〇九万余円、十二年には六十四万余円と云ふ尨大な費用を費つて、糊とハサミで外国雑誌の切抜きをやつてゐる。「社会政策時報」「人と人」とか云ふ二つの雑誌を発行してゐるばかりで、其他には申訳的に時々講習会を開いて見たり、図書館や産業能率研究所などと云ふ何をやつてゐるのか訳のわからない仕事を、形ばかりやつてゐるのみで、此の尨大な費用が一体何に費はれるものか、甚だ不可解と見られてゐる、これも古手官吏を高給で買込み、この常務者は勝手に選挙運動に狂奔したりするので、可成り非難が多く、責任者たる徳川会長、床次・渋沢両副会長も設立者の意志である労資協調の実を挙げず、遂には寄附金の払込拒絶者さへも生じてゐる有様に鑑みて、其責任を痛感し辞職する旨を声言したので、従つて添田・永井の両常務が引責すべきは勿論、幹部の大更迭を行つて大改造が行はれるものと観られてゐるが、関係者の中には過日来の寄々協議の席上で、斯様なものは寧ろ無用であるから、解散して仕舞ふ方がよいとの硬論を唱へた人も相当に多い
 - 第31巻 p.562 -ページ画像 
そうであるから、議会終了と共に今月中にはこの問題は具体化して、改造か解散かいづれかに決定されるものと観られてゐる。


集会日時通知表 大正一五年(DK310093k-0004)
第31巻 p.562 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年      (渋沢子爵家所蔵)
参月十四日(日) 午時   添田敬一郎氏来約
   ○中略。
五月一日(土)  午后参時 協調会ノ件ニ付徳川公・床次竹二郎両氏ト御会見ノ約(貴族院議長官舎)
   ○中略。
五月五日(水)  午前十時 床次竹二郎氏邸御訪問


読売新聞 第一七六七二号 大正一五年五月二二日 此際幹部 総辞職は 無責任だとて 協調会は小康状態 徳川・床次正副会長の意見に関せず 渋沢子の自重論で(DK310093k-0005)
第31巻 p.562 ページ画像

読売新聞  第一七六七二号 大正一五年五月二二日
  此際幹部 総辞職は 無責任だとて
    協調会は小康状態
      徳川・床次正副会長の意見に関せず
        渋沢子の自重論で
財団法人協調会が、創立以来協調らしい仕事をしないと云ふので、出資者側の反感を買つて寄附金なども第一回の払込丈けして未納者が多く、非難が多いので、徳川会長が辞意を決し、床次副会長も亦之れに同意してゐるが、渋沢子爵丈けが、此際辞任する事は不信任を意味され、創立者及其後の役員たる責任を果さない結果と見られるので、此際遽かに辞任することには賛成出来ないと云ふてゐる為めに、議会終了後には当然総辞職を予期されたのだが、右の事情で小康状態を保つてゐる模様である


集会日時通知表 大正一五年(DK310093k-0006)
第31巻 p.562 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月廿七日(木) 午前十時 床次竹二郎氏ト御会見(協調会)


東京朝日新聞 第一四三七七号 大正一五年六月一日 協調会の改革いよいよ実現か 渋沢・床次両氏動く 近く評議員会を招集(DK310093k-0007)
第31巻 p.562-563 ページ画像

東京朝日新聞  第一四三七七号 大正一五年六月一日
  協調会の改革いよいよ実現か
    渋沢・床次両氏動く
      近く評議員会を招集
幾度か改革を行はれてゐたが、未だ各種の情実てん綿され、改革の一歩さへも実現するに至らない財団法人協調会は、大正八年設立以来今日までに事績の見るべきものがなく、同会の首脳者である理事長添田敬一郎氏は政党人としての色彩があり、専務理事の永井亨氏は昨年十二月以来病気引こもり中に成績あがらず、評議員および理事においても幾度か今日まで
 改革 私案が起つたが実現するに至らなかつたが、昨今に至つては社会から蒙る種々の非難はこの際打棄て置くわけに行かぬので、いよいよ何とかせねばならぬ機運に際会して来た、それがため数日前床次副会長は飛鳥山に渋沢副会長を訪問し、協調会現状につき秘密に
 談合 するところあり、その結果、渋沢子は近く団琢磨氏と会見の上、評議員会を招集し善後策を講ずる事となつたが、渋沢・床次両副
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会長の意志では、この際事業を縮小し、経費の節約を計り、全然政党色彩を超越したる人物を主脳者に推薦する意向で、多年実現するに至らなかつた改革も、今度はある程度までの実現を見ることとなるであらうと


集会日時通知表 大正一五年(DK310093k-0008)
第31巻 p.563 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
六月廿一日(月) 午后四時 協調会ノ件ニ付徳川貴族院議長及床次氏ト御会見(貴族院議長官舎)
   ○中略。
六月廿五日(金) 午后弐時 床次氏来約(事務所)
六月廿六日(土) 午后弐時 徳川公爵御訪問(同公爵邸)
         午后四時 床次竹二郎氏御訪問(同氏邸)
   ○中略。
六月廿八日(月) 午后壱時 協調会ヘ御出向ノ件(同会)


東京朝日新聞 第一四四〇五号 大正一五年六月二九日 体のいゝ詰腹を切らされた永井博士 辞職の背後に資本家の手(DK310093k-0009)
第31巻 p.563 ページ画像

東京朝日新聞  第一四四〇五号 大正一五年六月二九日
    体のいゝ詰腹を切らされた永井博士
      辞職の背後に資本家の手
 既報の如く協調会常務理事第一部長永井亨博士は廿八日突然同会を辞したが、これを機会に同会は添田敬一郎氏の一頭政治にすると共に、今までの方針を変更し
 全くの方向転換を行ひ、会内の緊縮を行ふ積りらしい
永井博士が辞任するまでには、協調会に対する外部からの猛烈な策動があつたが、最近に至り、策動家連は一せいに攻撃の矢を永井博士や会内の某課長に向くるに至つたので、病気保養を望んでゐた永井博士は『これでは仕事が出来ない』と断然辞任する事とし、添田理事も
 辞任を 申出たが許されず、遂に永井博士だけ退く事になつたのである
 二十八日渋沢・床次両副会長は、同会内で添田理事と長時間の協議を凝した結果、協調会の今までやつて来た調査研究並に労働政策を今後は専ら名の示す通りの労資の協調に努力する事にして、実業方面の
 反感を 緩和する事になつたが、そんな仕事が果してどの程度まで可能性があるか、各方面から注意をもつて見られてゐる


竜門雑誌 第四五五号・第七一頁 大正一五年八月 青淵先生動静大要(DK310093k-0010)
第31巻 p.563 ページ画像

竜門雑誌  第四五五号・第七一頁 大正一五年八月
    青淵先生動静大要
      七月中
二日 協調会理事会(同会) ○下略


集会日時通知表 大正一五年(DK310093k-0011)
第31巻 p.563 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
七月弐日(金) 午后弐時 協調会理事会(同会)


協調会書類 【拝啓、来ル七月二日(金曜日)午後二時ヨリ…】(DK310093k-0012)
第31巻 p.563-564 ページ画像

協調会書類                (渋沢子爵家所蔵)
 - 第31巻 p.564 -ページ画像 
拝啓、来ル七月二日(金曜日)午後二時ヨリ本会事務所ニ於テ、本会事務分掌改正等ノ件ニ付、理事会相開キ候間、御繰合セ御出席被成下度、此段得貴意候 敬具
  大正十五年六月三十日
                        協調会
    子爵 渋沢栄一殿


協調会書類 【大正十五年七月二日協調会理事会開催、出席者如左…】(DK310093k-0013)
第31巻 p.564 ページ画像

協調会書類                (渋沢子爵家所蔵)
大正十五年七月二日協調会理事会開催、出席者如左
                  公 徳川家達
                  子 渋沢栄一
                    床次竹二郎
                    添田敬一郎
                  男 松岡均平
                    気賀勘重
                    田子一民
                    田沢義鋪
                    谷口留五郎
                    神戸正雄
会長の開会辞に続き渋沢副会長より、本会の義に付種々考慮中なりしが、頃日永井理事病気の故を以て辞任を申出、之を承認したるに付ては、従来添田・永井両氏に於て分担したる本会事務を一人にて所置することに改正することゝなり、依て職制変更の必要を生じ、本日の理事会を開催したる次第なりと、大体の趣旨を陳述したるが、出席者一同沈黙し、敢て反対するものなかりしを以て、承認したるものと認めたる由(大正十五年七月三日、渋沢子爵より承る。白石憶記)

    分課規程中左ノ如ク改ム
 第一条中「情報課」ヲ「労働課」ニ改メ「一、労務課」及「一、社会課」ヲ削ル
 第二条中「一、寄附ニ関スル事項」ノ次ニ「一、図書館ニ関スル事項」ヲ加ヘ「情報課」ヲ「労働課」ニ改ム
 第三条中各課ノ二字及「一、図書館ニ関スル事項」並ニ「労務課」ヲ削ル
 第四条中各課ノ二字及「社会課」ヲ削ル


東京朝日新聞 第一四四一三号 大正一五年七月七日 理事を補充せず、専ら調査研究に 新たに社会科学部も創設 協調会の新陣立(DK310093k-0014)
第31巻 p.564-565 ページ画像

東京朝日新聞  第一四四一三号 大正一五年七月七日
  理事を補充せず、専ら調査研究に
    新たに社会科学部も創設
      協調会の新陣立
永井亨博士の辞任後の協調会には、その後任としてあるひは松岡均平男が入会するとか、あるひは大川周明氏に決定した等とうはさされてゐるが、この事については永井博士が辞任するや、直に渋沢子・床次竹二郎両氏が協議した結果、後任をいれないで添田敬一郎氏の一頭政
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治で押進める事になつた、同会はこれを機会に、会内の緊縮整理を行ふと共に、今後は労働立法・労働政策の調査研究、労働事情の調査、教育運動等に主力を注ぐ事になつた、教育運動では大正九年から開始した社会事業家の養成機関たる社会政策学院の拡張、労務者講習会の増設等の外に、更に社会科学研究講習会を開いて、社会技師(同会で創称する)を養成すると


集会日時通知表 大正一五年(DK310093k-0015)
第31巻 p.565 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年      (渋沢子爵家所蔵)
 七月廿日(火) 午后弐時  協調会中村氏会務ニ付面謁(永楽町事務所)
   ○中略。
 十月六日(水) 午后弐時  協調会ヘ御出向(同会ヨリ徳川公ト同道、添田理事案内ニテ三ノ橋工業専修学校参観ノ約)
   ○中略。
十一月二日(火) 午后弐時  添田敬一郎氏来約(事務所)
   ○中略。
十一月卅日(火) 午前九時  添田寿一・鈴木文治両氏来約(飛鳥山)
   ○中略。
十二月一日(水) 午前十一時 添田敬一郎氏来約(飛鳥山)


雨夜譚会談話筆記 下・第五一九―五二六頁 昭和二年一一月―五年七月(DK310093k-0016)
第31巻 p.565-566 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五一九―五二六頁 昭和二年一一月―五年七月(渋沢子爵家所蔵)
  第十八回 昭和二年十二月廿日 於丸之内事務所
    一、労資問題に対する御感想に就て
先生「労資問題に就ては感想どころではない。何うしてよいか今も尚困つて居る。私は意見は云へるが是非は云へない。両者の争も今の処絶えるとは一寸考へられない。瓦斯会社の同志会は一時的の仕事で深い意味があつたとは思はない。福島が斯んな事が好な人だつたからやつたものと思ふ」
増田「現在瓦斯会社にある輔仁会と云ふのが此同志会の後かと思ひます」
敬 「小石川の大曲から明石さんの御宅へ行く途中の坂に、立派な看板が懸つて輔仁会と書いてあるのがそれでせう」
先生「労資問題は仲々種々な方面から論ぜられて来た。亜米利加の某氏が来て労資の関係を説いて聞かせた事がある。協調会は大正八年に創られたもので、床次内務大臣が計画したものである。労働組合法は現在未だ発布されてゐないが、其頃から組合法論が労働者間に論ぜられて居たと思ふ」
敬 「高野岩三郎の兄さんが、初めて労働組合法案を提唱したと申した」
先生「瓦斯会社の同志会は労資問題とは関係がない。社内の人々の接触を図る社交機関だつた。当時は、今日の様に面倒な労働問題はなく、私等も労資間の融和も斯んな事で済されると思つた。併し後になつて愈々複雑となり、私が其調停について、法律が必要だと感じ
 - 第31巻 p.566 -ページ画像 
たのは大正七、八年である。床次さんは法規とか制度の上からばかりせず、半分は温情主義で両者の協調をする事は不可能でないと頻りに唱へた。斯うなつて見ると之れは私等の仕事の領分と思つて尽力しやうと考へて、現在迄協調会の副会長の職にある次第である。此協調会の事より以前に、労資関係の事に顔を出した事が度々ある大正四年桑港の博覧会にシドニー・ギユーリツクが労働代表を出してはと薦めた事がある。併し此時は労資問題からでなく、亜米利加に於て日本移民が嫌はれて居るから、之が緩和の一助にもなるからとの理由からであつた。その時鈴木文治氏が友愛会を始めて居たので、同人を出張させた。協調会の計画は其後になる。今の処では協調会の効果は労資の協調と迄行かず、寄附金を集めたものを使つて調査する位に止まつてゐる。私が今少し若かつたら大いに此方面に力を致して見度いのであるが、斯んな事は水臭いから誰にも云つた事はない。唯々会としての効果の挙らないのは、丹精の足りない結果である。実際現在では、資本家からも労働者からも嫌はれ、其上世間からは協調会は何をしてゐると非難されてゐる始末である。併し丸切り何もしてゐない事もない。年々四、五十万の金を費して、八ツ位の係りを設けて色々な調査をしてゐる。何ちらからも好かれない事は、何ちらにも片よらぬからであるとも云へないではないが年費五十万円も出してやつてゐる仕事としては、効果が挙らなさ過ぎる。年十三万円位でやつてゐる養育院の事業は、あんなによく捗つてゐるのである」
渡辺「養育院と協調会は全然事業の性質が違つて居ります。養育院だつたら成る可く多数を収容すれば早速効果が挙るので、事業の性質が簡単で御座いますけれども、協調会は利害全く相反する者の間に在つて、其和合を旨く保つて行くのですから、養育院と之れとを比較する事は無理で御座いませう」
増田「協調会では目下調査のみをやつてをるので御座いますが、争が起つた時、両者の仲に立入つて行く訳には行きませんで御座いませうか」
先生「それは偏しない様に立入る事をした方がよいが、今は控えてゐるのだらう」
渡辺「東京の資本家は特に協調会を非難して、労働者の肩を持つといつて居ります」
先生「中島(久万吉男爵)なんかは大変非難してゐる様だね」
篤 「現在の協調会は、法律のない裁判所見た様なもので御座いませう」
渡辺「協調会の事業は寄附金ばかりで行けますか」
先生「そうです」
増田「先生の御事業が種々ある中で、協調会は最も設立の趣旨に添はないもので御座いませう」
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・増田明六・渡辺得男・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。

 - 第31巻 p.567 -ページ画像 


〔参考〕諸意見書(二) 【十月一日《(別筆)》 ○大正一五年 諸意見にて綴込事 労資協調会解散の提唱と私の主張 (一)】(DK310093k-0017)
第31巻 p.567-568 ページ画像

諸意見書(二)              (渋沢子爵家所蔵)
         十月一日《(別筆)》 ○大正一五年   諸意見にて綴込事
  労資協調会解散の提唱と私の主張 (一)
    魔道に入つた理事者
      会創立の真趣旨を没却して
        資本家攻撃の態度は奇怪
            王子製紙社長 藤原銀次郎氏談
私が労資協調会の解散を主張するのは、同会が創立の趣旨を穿き違ひして、マルクス主義に傾いたが為めである、協調会は人も知る如く、当時内閣の主班であつた原首相が、床次内相と共に充分研究を遂げた結果、時局に処する対策として、且つ産業開発の目的から、労資は協調して行くべきものであると云ふ信念の上に立脚して、その設立を提唱され、多数有力者の協力を俟つて設立を見たのである
    ◇
創立当時の理事者は、会の趣旨を厚く奉じて、労資協調の機運を助成することに努めてゐたが、その後数次理事者の更迭を見てゐる間に、協調主義の色彩は漸次稀薄となり、遂にマルクス主義に変色して、労資は対立すべきものである、対立の結果闘争は免れぬものであると云ふ、所謂翻訳思想にかぶれて了つた結果、会創立の趣旨を没却して、協調主義即ち温情主義を攻撃するの態度に出たのみでなく、やゝもすれば労働ブローカーに接近して、彼等の声を労働者の声と誤認し、敢て資本家攻撃の態度をさへ見せるに至つた、問題は即ち玆に出発する
    ◇
そもそも労資の関係は、之を二様に解釈することが出来る、一つは階級闘争主義――労資は飽迄対立して、プロレタリアの団結の力でブルジヨアを打破するとなすものと、協調主義――労資は相互に温情に繋がれて、飽迄協力して行くべきものであると見るものとあるが、我国の如き国体下にあつては、階級闘争を為さんにも、差別すべき階級なく、優秀なる労働者は、やがて資本家になり得る国柄にあつては、階級闘争主義を容認する余地を見ないのである、又我経済界の現状から見ても、闘争主義を是認することは不可能である、仮に実際問題として此労資関係を見ても、両者の関係の緊密を図り福利を増進せしむる方法から云つても、温情主義に俟たねばならぬ
    ◇
賃銀の低下に悩む労働者をして、その苦痛を除去せしむるには、資本家が賃銀を潤沢にして、熟練を積ませ、能率を発揮せしめ、優良品を製作せしめねばならぬ、斯くすれば自然に原料品が安くなる結果となり、延いて一国工業の好順を来すことゝなる、然れども、これは労資互に反目して行ひ得るものではない、協調主義の必要乃至原理は玆にある
    ◇
今日の物価に比較して、労働賃銀は余りに安い、これでは辛うじて最低の生活を維持するに止まり、些かも教育方面・娯楽方面に用ふる余
 - 第31巻 p.568 -ページ画像 
力を止めない、此の悲惨な生活状態を改善して、之等の人間としての希求を満足せしむるには、相当の賃銀を与へねばならぬ、労働者の利益の第一義は玆にある、然るに現在の協調会の当事者は、此重大なる労働者の生活問題を顧みず、徒らに資本家に対抗するが為めに、労働ブローカーと気脈を通じて、労働組合を作ることに専念し、且つ思想団体と組合を混同して、革命的思想の鼓吹に日もこれ足らざる有様である
    ◇
斯くの如く、協調会が会創立の趣旨を忘れて、労働ブローカーの利益を策し、或は労働ブローカーと真の労働者を混同して、種々の画策を敢てする以上、資本家の憤激が次第に昂じ、反対的態度を醸成するに至つたのは、自然の帰結と云はねばならぬ(つゞく)
   ○諸意見書ハ渋沢家ニ所蔵サルル綴込ノ一ツニシテ、右ハソノ(二)ニ収メラレタル新聞切抜ナリ。新聞名不明。


〔参考〕諸意見書(二) 【十月二日《(別筆)》 ○大正一五年 諸意見にて綴込事 労資協調会解散の提唱と私の主張 (二)】(DK310093k-0018)
第31巻 p.568-569 ページ画像

十月二日《(別筆)》 ○大正一五年
  労資協調会解散の提唱と私の主張 (二)
    協調に帰つた英国
      坑夫罷業は労資闘争の総勘定であつた
            王子製紙社長 藤原銀次郎氏談
資本家側が、会理事者に反対の態度を執るや、理事者等は驚くべき大胆さをもつて、協調会設立当時の動機に論及し、協調会は資本家が私利を図るため、労働者懐柔の機関として設立されたものであつて、吾人はその不純な動機を匡正すべく、敢て資本家の意嚮に副はざる方針を執つてゐるのであると云ひ、自分達の誤解錯覚に就ては何等の反省を試みない
    ◇
暫らく沈黙を以て理事者の反省を待つてゐた資本家側も、理事者の此の暴虐なる態度を見るに及んで、遂に起つべく余儀なくされたのである、彼等は温情主義に反対する理由として、口に英国の労資関係を口にするが、英国の実情は彼等の云ふが如きものではない、勿論最近までは労資の階級的争闘が熾烈ではあつて、一時は労働階級の勢力資本家を屈服し、自己の手に天下を掌握したこともあつた、日本の労働者や思想家は、此の一時的な出来事に対して、それが如何にも歴史的必然の経路なりと見做し、やがて日本にも同様の社会的現象を実現するものと、確信してゐる
    ◇
我協調会の理事者も、之等の学者や思想家と同様、此の哀れむべき誤信を抱いて、資本家に反抗的態度を執るに至つたのである、然るに彼等の憧れの的である英国は、大戦後国内の事情急転直下し、経済界の不況甚だしく、失業者は百五十万、二百万と数へられ、殆ど国家の維持にさへ困難を感ずるに至り、その総勘定が例の坑夫ストライキとなつて現はれたが、此ストライキの失敗したる所以こそ、英国民が深い眠りから醒めた著しい証左なのである
 - 第31巻 p.569 -ページ画像 
    ◇
即ち国家の疲弊は、労資の争闘反目の結果で、之れを将来に続くる時は、国家の安危にかゝわる、吾人英国民は醒めなければなるまい、昔年の感情を一掃して、労資互に協調を結び、国家の難局を救ひ、進んで国運の進展を図らなければならない、国民は斯く唱へて奮起したのであつた


〔参考〕諸意見書(二) 【十月三日《(別筆)》 ○大正一五年 諸意見にて綴込事 労資協調会解散の提唱と私の主張 (三)】(DK310093k-0019)
第31巻 p.569-570 ページ画像

十月三日《(別筆)》 ○大正一五年
  労資協調会の解散提唱と私の主張 (三)
    協調へ急ぐ英国民
      協調の温室に冷たい風を入れて
      殊更病を求むる協調会の人々
            王子製紙社長 藤原銀次郎氏談
かくて階級闘争の悪夢から醒めて英国民は何をなしたか、実に協調への復帰運動であつた、先づ輿論の代表と見らるゝ、デリーメール紙では、選抜した労働者八名を米国に派遣して、同国の労資状況を詳さに視察せしめたのである、さうして得た所の情報――即ち米国には階級闘争の事実なく、又労働組合の力乏しく、労資は一家の如く協調して円満に産業発達の為めに努力してゐる――と云ふことを闘争に疲弊してゐる全英国民の前に提供して、更にその協調の好果をも充分に伝へることを怠らなかつた、――即ち米国の労働者の賃銀は、英国に二三倍してゐる、と同時に能率も三四倍を挙げてゐる、製品は優秀品である、畢竟する所、米国の労働者は高き賃銀を得て、産業奉仕にいそしんでゐるから、その国家の富が、世界を圧するまでに延びたのである――此結論が如何に全国民を動かしたか
    ◇
国論は忽ちに湧いた、吾々は労資争闘の暇つぶしをしてゐる時機でない、米国民の如く互ひに協調して産業立国の実を挙げねばならぬ――此声は燎原の火の如く、又一波万波に及ぼす如く、完全に英国の輿論を形成するに至つたのである、国論の帰向を察した保守党政府も流石に黙してゐなかつた、公に労資の代表を米国に派遣して、研究資料の蒐集に尽すことになり、其代表者達は、目下米国各地を行脚して、与へられた重大な任務の遂行を急いでゐる、通信によれば彼等の任務は今年一杯を以て完了すると云ふから、来年早々には、米国に於ける協調の威力が、デリーメール紙の報告を雄弁に裏書して、闘争の夢から醒めた英国民を、協調の団欒に導くであらう
    ◇
我国の思想家や労働ブローカー、又は彼等の後塵をなめてゐる協調会の人達が、マルクス主義の総本山のやうに、畏敬してゐる英国の近況は、右に述べた如く、争闘に禍ひせられた産業界の萎縮に鞭打つて、協調への対策に国を挙げてゐるではないか、虎穴に入らざれば虎児を得ずと雖も、敢て危険を侵す必要はない、此英国民の体験した労資争闘の無惨な失敗の跡を、吾等は他山の石として、我玉である国体の宣揚に向つて努力するこそ、臣節を全うする所以に外ならない
 - 第31巻 p.570 -ページ画像 
    ◇
架空の事実を肯定して、其処から輝かしい真理を掴み出さうとしてゐるのが、協調会の人達である、労働と云ひ資本と云ふ階級の存在してゐない日本に於て、階級闘争のあり得る筈がない、産業上の立場から云へば、日本は米国のやうな国である、協調の国である、古き深傷に喘ぐ英国を学んで、態々不必要な階級意識とかいふ闘争生分を、我国の善良な労働者の頭に植つけやうとしてゐる協調会の人達は、これ実に禍ひの人ではあるまいか、徒らに労働ブローカーに迎合するの態度を執り、自分達の住んでゐる協調の温室に冷凍した風をいれて、やがて病に斃るゝことを悟らないのである、真に哀れむべき限りである



〔参考〕渋沢栄一 日記 昭和二年(DK310093k-0020)
第31巻 p.570 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和二年      (渋沢子爵家所蔵)
三月十二日 晴 寒気日々減ス
○上略 鈴木文治氏来リ、過日来依頼セラルル件ニ付、添田協調会理事会見ノ事ヲ談ス ○下略



〔参考〕集会日時通知表 昭和二年(DK310093k-0021)
第31巻 p.570 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年       (渋沢子爵家所蔵)
 参月十八日(金) 午后壱時  添田敬一郎氏来約(飛鳥山)
   ○中略。
 参月廿九日(火) 午后壱時  商工従業者表彰式(商工奨励館)
   ○中略。
 六月廿一日(火) 午后弐時  協調会講演会(同会事務所)
   ○中略。
 八月四日(木)  午后弐時  柳田毅三氏来約(事務所)
   ○中略。
 十月三日(月)  午后壱時  協調会中村氏来約(永楽町事務所)
          午后弐時  協調会理事会(同会)
          午后零時半 添田敬一郎氏来約
   ○中略。
 十月五日(水)  午后参時  協調会主催実業界中堅青年懇談会(同会)
   ○中略。
十一月一日(火)  午前九時  添田敬一郎氏来約(飛鳥山)
   ○中略。
十一月廿参日(水) 午前九時  鈴木文治氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
十二月廿日(火)  午后壱時  添田敬一郎氏来約(永楽町事務所)



〔参考〕渋沢栄一 日記 昭和三年(DK310093k-0022)
第31巻 p.570-571 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和三年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 曇 寒気強シ
○上略 浅野総一郎氏来訪、協調会ノ改革案ニ付種々ノ意見ヲ陳述セラル
○下略
   ○中略。
一月十九日 晴 寒気平常
 - 第31巻 p.571 -ページ画像 
○上略 浅野総一郎氏来訪シテ、協調会ノ事ヲ談ス、近日添田氏ヲ紹介スヘキ旨ヲ約ス ○下略
   ○中略。
一月二十二日 晴 寒気平常
○上略 浅野総一郎氏来リ、例ノ協調会ノ改革ニ関シ、種々ノ意見ヲ陳述ス ○下略
   ○中略。
二月二十三日 晴 寒気強カラズ
○上略
(欄外記事)
午後二時添田協調会常務理事来訪ス、曾テ浅野総一郎氏ヨリ提案ノ意見ヲ内話シ、且其書類ヲ交付ス



〔参考〕(高木浅之助) 書翰 渋沢栄一宛 昭和六年三月二日(DK310093k-0023)
第31巻 p.571 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。