公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第31巻 p.584-594(DK310095k) ページ画像
昭和6年12月12日(1931年)
是年十一月十一日栄一歿スルヤ、当会、東京市・中央社会事業協会・国際聯盟協会ト共同主催ノ下ニ、日比谷公会堂ニ追悼講演会ヲ開催ス。席上当会ヲ代表シテ副会長床次竹二郎、「渋沢翁と労働問題」ト題スル追悼演説ヲナス。
竜門雑誌 第五一九号・第一一八―一二〇頁 昭和六年一二月 社会事業団体催故渋沢子爵追悼講演会(DK310095k-0001)
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竜門雑誌 第五一九号・第一一八―一二〇頁 昭和六年一二月
社会事業団体催故渋沢子爵追悼講演会
(十二月十二日午後一時より東京市公会堂に於て)
「開会正二時」と書かれた掲示が出た頃から、参集の人々が公会堂へ列をつくつては入つて来た。今までまばらであつた座席が、見る間に一つぱいになる。階下は案内状の持参者、階上は一般の追悼者である、参会者は壮青年の男子が大半で、他は老いた婦人、若い婦人また老人の男子もかなりある、さすがに子供は一人も居ない、二階の正面と真横には写真機が置かれた。人々は静かに、この巨人の追悼式の開会を待つて居る。
やがて、正面の幕が左右に開かれると、香煙が舞台一面に立ち上つて、霞をへだてゝ見るやうに、何となく夢幻の境に引入れられた、と香の香りが鼻をうつて故人を偲ばす。次第に香煙が無散し行くにつれ
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て赤黒なバックの前、正面真白い花に囲まれた青淵先生の大写真が現れる、まことに在りし日のまゝの面影である、翠と白との花のうてなに今にも微笑だされさうに、温容を会集に向けて居られる。しばらくは舞台に人なくて、たゞ青淵先生の御影に相対するを得せしめたのは主催者の心やりであつたらう。
御遺族たる青淵先生令夫人・渋沢敬三子・同篤二氏・同武之助氏・同令夫人・同正雄氏・同令夫人・同秀雄氏・穂積重遠男・渋沢敬三子令夫人がしづしづと現れて上手の椅子につく、下手の椅子には若槻礼次郎男・徳川家達公・清浦奎吾伯・安達謙蔵氏・床次竹二郎氏・桜内幸雄氏・窪田静太郎氏・新渡戸稲造氏・永田秀次郎氏・鎌田栄吉氏其他が、それぞれ着席された。
追悼式の司会者原泰一氏が、開会の旨を告げると、一堂人満ちて人無き静粛さに、声が場の隅々にまで徹つて行く。即ちその順序書に示された処は次の通りである。
○下略
故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 巻首 昭和七年四月刊 【はしがき】(DK310095k-0002)
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故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 巻首 昭和七年四月刊
はしがき
子爵渋沢栄一翁が、忽焉として薨去せられましたことは、寔に痛惜措く能はざる次第であります。
子爵が、我が国の産業界・経済界に尽された功績の絶大なることは今更贅言を要しない処でありますが、又一面社会的・精神的事業の方
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面にも、献身的な努力を続けられたのでありまして、殊に大正五年七月実業界を引退せられて以後は、専ら力を教育・社会事業・労働問題国民外交、其の他各般の社会公共事業に傾注せられたのであります。
従て、翁が直接間接に関係せられた此の種の機関及団体といふものは、頗る多方面、多種類に亘つて居るのでありますが、就中東京市・並財団法人中央社会事業協会・社団法人国際聯盟協会及財団法人協調会は、特に深き関係がありましたので、前記四団体が共同主催の下に昭和六年十二月十二日に、東京市日比谷公会堂に於て、追悼講演会を開催したのであります。
当日は正十二時に受付を開始したのでありますが、定刻迄には参会者一千七百余名に達したのであります。会場は正面に故子爵の近影が掲げられ、向つて右側には渋沢家御遺族、左側には来賓・講演者及主催団体幹部等着席、午後一時十五分、中央社会事業協会総務部長原泰一氏司会の下に此の意義深き追悼講演会は開会されたのであります。
かくて先づ協調会常務理事吉田茂氏開会の辞を述べ、直に追悼式に移り、永田東京市長・徳川協調会会長・窪田中央社会事業協会副会長新渡戸国際聯盟協会理事の順に、夫々主催団体を代表して、霊前に花籠を捧げ、次で主催者側を代表して、東京市助役斎藤守圀氏が、又来賓を代表して内閣総理大臣男爵若槻礼次郎氏が追悼の辞を述べ、御遺族子爵渋沢敬三氏の挨拶があつて、厳粛裡に式を終り、直に国際聯盟協会主事赤松祐之氏の司会にて、予定の講演が行はれ、些の支障なく午後四時三十分会を閉じたのであります。
玆に当日の講演を取纏め、故子爵渋沢栄一翁追悼講演録として出版し、関係各方面へ御頒ちすることに致した次第であります。
昭和七年四月
財団法人協調会
故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第一―三頁 昭和七年四月刊 【協調会常務理事 吉田茂】(DK310095k-0003)
第31巻 p.586-587 ページ画像
故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第一―三頁 昭和七年四月刊
協調会常務理事 吉田茂
一言簡単に開会の御挨拶を申述べたいと存じます。本日は御遺族方を始め各方面多数のお方々の御参会を得ましたことを、主催者として厚く御礼申し上げます。
子爵渋沢栄一翁薨去致されましてから約一ケ月となりますが、私共子爵を追慕するの情弥々深きを覚ゆるのであります。その為に故子爵の追悼会を催したいといふ希望が期せずして一致致しまして、玆に東京市・中央社会事業協会・国際聯盟協会並に協調会が主催となりまして、本日此の追悼講演会を開くことに至つた次第で御座います。
今更申上げる迄も無いことで御座いますが、故子爵は開国以来主として実業の振興に献身的努力を致されまして、寔に光輝ある功業を此の方面に建てられたのであります。而しながら子爵が、偉大なる足跡を残されましたのは、独り実業界に於てのみでは無いので御座いまして、或は社会事業の為に、或は労資問題の為に、或は教育の為に、或は社会教化の為に、将又国際平和の為に、実に大なる御貢献を遊ばされたのでありまして、其の一つを執つて見ましても、到底常人の企及
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しがたき業蹟をお残しになつたのであります。而して此等の公共的・精神的方面に於ける子爵の功業を顕彰するこそ、私共として子爵を追慕するに最も相応しくは無いかと存じまして、そういふ趣旨の下に、講演会といふ形式を執つて、追悼致すことゝ相成つた次第で御座います。素より子爵の如き不世出の巨人は、一遍の講演会に於て其の全貌を描き出すことは不可能であります。而し本日御講演下さる方々は、夫々の意味に於て何れも日本を代表さるゝ名士であります故、英雄よく英雄を知るとでも申しますか、之等、名士の御講演によりまして、吾々は必ずや此の偉人の俤を髣髴することが出来るであらうと思ふのであります。
最後に一言御断り申上げたいことは、表面に立ちました主催者は、唯今申上げました四団体でありますが、故子爵の浅からざる御世話になり、且最後迄御関係になりました団体は、公共的な団体だけでも約二百余に達するのでありますから、其等の団体は子爵に対する追慕の情に於て、何れも厚薄はないと存ずるのであります、然しながら、之等凡ての団体に御協議申上げることは不可能の事でありましたので、最初に申合はせの出来ました団体だけが主催者となつた次第で御座います。この点他の諸団体に於かれましても、亦参会者各位に於かれましても、御諒承を御願ひ申上げたいと存じます。
以上簡単に本日の催の趣旨を申述べて開会の辞と致します。
故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第三二―四四頁 昭和七年四月刊 【渋沢翁と労働問題 協調会副会長 床次竹二郎】(DK310095k-0004)
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故子爵渋沢栄一翁追悼講演録 協調会編 第三二―四四頁 昭和七年四月刊
渋沢翁と労働問題
協調会副会長 床次竹二郎
私も故渋沢子爵を極めて敬慕して居る一人でありまして、子爵を私は自分の親父の如く思つて、あの温和な円満な御容貌を拝し、さうして人間として死ぬまで仕事をして居られた、どうか出来るならばあの真似をして見たいものだと云ふ考を切に持つて居る一人である。私は今日は協調会の事業と子爵のことに就て申上げて見たいと思ふのでありますが、御承知の通り協調会は大正八年十二月の二十二日に創立されたのであります。玆に其の創立当時のことを回想致しまするに、協調会の生れましたのは必竟其時代がこれを孕んだものであると思ひますが、其の産婆役は子爵が務められたのであります。そればかりではない、それを今日迄に育て上げましたのも子爵であります。尤も玆に子爵のことを御話すると同時に、一人忘れてならぬ人がある。それは故和田豊治君でありますが、和田豊治君が当時子爵を助けて、此の事業遂行の上に、非常に御尽力になつて居る。此の事も思ひ起されるのであります。其の当時には、一般に未だ社会事業と云ふやうなことに就ては、理解が少なかつたやうに思ふ。社会事業と云ふものも、其の当時に於ては、或は慈善事業若くは救済事業とか申されて居つたのであります。役所でも特にこれを取扱うに課が出来たのは大正六年の八月に、初めて救護課と云ふものが出来た。さうして其翌七年の六月になつて救済事業調査会と云ふものが現はれたのであります。丁度其の時分は御承知の通り世界大戦の時でありまして、経済上にも社会上に
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も急激に変化を致した時であります。随つて社会的施設も段々起される必要な時に相成りました。今迄慈善事業若くは救済事業と申された事柄も、其の必要が起り、事業が増加するに従つて、自から其の名称の意義も改まるやうになりまして、玆に慈善救済事業は社会事業と唱へられるやうに相成り、意義も前には慈善的救護的と云ふ意味であつたのが、広く社会事業と改められるやうに相成つたと考へますが、大正八年の十一月には救護課は社会課となり、大正九年の八月には内務省内に今日の社会局が設けられたのであります。而してそれが社会事業の中央機関と相成つた。それでも今に覚へて居りますことは、其当時、地方官に対する訓示の中に、社会政策と云ふ字を使ほうとした時に、それはどうも何となく穏かならぬことに聞へるから、何とか改めたらどうかと云ふことで、社会の協調偕和と云ふことに書改められたことを、今に記憶して居ります。当時の思想から一例を申上げればさう云ふことがありました。
それから世界大戦の末期に当つて、皆さん御記憶が御有りなさらうと思ひますが、産業界には問題が起つて、世界中の産業が不安の状態に置かれたのであります。労働争議が盛んに起つた。我国に於ても最もストライキの盛んな時代でありました。あれは丁度大正八年か七年と今記憶致しますが、其の時に当つて最も大きな争議が起つたのであります。労働運動者或は社会主義者の連中が、盛んに資本家の攻撃を致し、宣伝ビラの散布若くは演説に仲々其の運動は烈しく、階級闘争の思想は猛然として頭をあげて来たのが、其の当時の事情でありました。必竟考へて見まするに、我国が明治の御維新の変革を経て、所謂手工業の時代から工場工業の時代と進んで参りました。産業上の組織に変化を来したのである。昔であれば主人・奉公人、或は温情主義を以て相対すると云ふやうなことで済んだのでありませうが、今申す通り社会の状態から思想の状態が変化して来ると、是等の道徳の基準が今迄通りで行けるかどうかと云ふことを考へさせられる。社会道徳が今迄通りの考へのみで行くか、或は斯う云ふ時代になつて来れば、単に英米の跡のみ真似てばかり居つて宜しいのか、東洋に於ては東洋流の一つ考へをして進むべきではないか、斯う云ふことを其の当時は考へられたのであります。さう考へますと、産業の進歩発達に就ては、労働と資本との対立に依り、所謂階級闘争の下に、之れから後も本当に産業の進歩発達が期して行けるものであるかどうか、労働は神聖なるものである、斯う考へて資本と相対して此の二つのものゝ相互の闘争と云ふことに依つて産業は果して進むのであるか、若くは之が相互協調提携して行く所に於て、始めて産業は進歩するのであらう、こゝの点を故子爵は余程御考へになつたものと思はれるのであります。
当時労資の問題も仲々面倒で議論がありましたが、必竟労働問題の解決は根本を此の辺から切出して行かなければなるまいかといふことを、故子爵は考へられたものと思ふのであります。個人主義若くは自由競争に依つて行くべきではない、労資協調と云ふ主義を今日の旗章として押立つて進むべき時期に臨んで居るのではないかと考へられたと思ふのであります。今日以後の産業は、競争ではない、闘争ではな
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い、各方面互に協調して進むのが真に進歩発達を期する所以である。斯く深く子爵は考へられたやうに思ひます。斯う云ふ間に大正七年の十二月でありましたか、前申上げた此の救済事業調査会に於ては資本家・労働者間の協同調和を計るにはどうする、玆に一の適切なる民間に機関を造つて進んで行くと云ふことが、最も宜いことであらうと云ふ旨を掲げた政府に向つての答申が出て来たのであります。玆に於て今日御列席下さつて居りまする、貴族院議長徳川公爵、其の当時枢密院の副議長をして居られました清浦伯爵、それに衆議院議長の大岡育造氏、それから故渋沢子爵、殊に此の渋沢子爵が熱心に御働きに相成りまして、遂に其の協調会の設立が発起せられたのであります。
其の当時渋沢子爵は斯う云ふことを申して居られました。「労働問題に対する私の意見は始終不変である。我国の労働問題も其の進歩に従つて紛糾錯雑することあるべきは、予想するに難くなかつたのである。そこで之を未だ雨降らざるに繆せんが為めに、第一に資本家の自覚を促さなければならぬと考へる。資本家の陥り易い偏見は、賃銀を与へれば主人であり、これを受ければ家来であると云ふやうな封建的の観念である。一体資本あつての事業、事業あつての労働であると同時に、労働あつての事業、事業あつての資本家である。資本と労働との共同活動が即ち産業である。更に適切に云へば、資本家と労働者の人格的共働、これが即ち産業である。労働者の癖に怠けるとか反抗するとか云ふ。詰り此の「癖」と云ふのが根本の誤りである。此の陋習の打破、即ち産業の自覚が第一と私は考へて居る。其の次には労働者自身の自覚である。労働の根本義は社会奉仕である。社会の必要とする物資を生産して社会に貢献する。これを為すには資本と労働と協力しなければならない。私は斯やうな考へを以て資本家・労働者双方の覚醒を促すことに努力を続け、大正五年に産業界を引退すると共に、今後生涯運動を此の方面に捧げる積りであつた」と申されました。如何にも達見洞察の明を以て率先して此の協調会の設立に御奮起になりまして、爾来一年の日子を経て、大正八年の八月二日に帝国ホテルで発起人会を催されました。其の当時徳川公爵が座長を致され、渋沢子爵自から設立の趣旨に就て所懐を熱心に述べられたのであります。其の際社会の変化、協調の必要に就て力説されて、斯う云ふこと迄申されて居ります。
「夕に死すとも朝に道を聞いて務と致さなければならぬことゝ考へます処から、自から奮つて所謂斃れて已むの所存を以て此の会を組織したいと企てた所以である」斯やうに申されました。斯やうな御考へを以て発起されまして、今申上げたやうに此の間一年も掛りましたが発起されてから、一番大事な点は申上ぐる迄もなく資金であります。此の資金の調達に就ては、子爵が自から、各方面に東奔西走されて、尤も其の時は社会の景気が好い時ではありましたが、遂に子爵の御尽力で集まつた金が、五百余万円になつた。政府から其の外に二百万円程補助があつたので、玆に八百万円以上の金が出来たと云ふ訳であります。
此の協調会と云ふ名前に就ては、初めての企てゞありますから、ど
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んな名前が宜いかと云ふことで、種々、説が出たのでありますけれども、之も子爵が労資の協同調和と云ふ精神からして、協調会と云ふ名が宜からうと云ふことで、之は子爵が命名されたものであります。幸にして発起人会は今申上ぐるやうな風に成立つた。さうして資金も斯く迄に募集が出来たのであります。
子爵はさやうにして、非常な御尽力を下され、玆に協調会が成立したのでありますが、仲々用意深い御方でありまして、会計のことに就ては極めて周到に御監督になつた。創立以来薨去になる迄一々細大洩さず監督をせられた。其の例を玆に一つ申上げますると、創立以来毎月一回は必ず収支の状況を子爵に報告しなければならない。さうして一々それに対して御尋ねになる。基金から財源に変へられて居る、どう云ふ風にそれが管理されて居るか、一々尋ねられる。それから支払に就ては、苟くも百円以上の支払は必ず子爵の判がなければ出されぬと云ふやうなことでありました。さうして今や五百万円は之を基金として、あとの残りは特別積立金として、さうして御承知の通り、あとは学校なり協調会館なりと云ふ財産を持つて居ると云ふやうなことであります。
元来本会は協調会と申しまする如く、協調主義の上に立つた会であります。即ち階級闘争を否認する。同時に階級の調和融合を計らんとする目的である。資本家の自省を促すと共に、他方に於て労働者の地位の向上、福利の増進を計ると云ふのが、協調会の最も重要な任務であります。それでありますから、其の組織に就ても極めて用心深く非常に注意を致された訳でありまして、申せば所謂円卓会議の方法で事業を遂行したが宜からうと云ふやうな心組から、役員選択なども行はれました。労資双方から出ることは勿論のこと、それに学者なり官吏なり、又中立第三者と云ふやうな方面の人々を網羅して出来て居ります。当時子爵は労働団体の最も大きな労働団体の方に向つても、協調会役員になるやうに懇切に勧説されたのであります。併し其の当時は斯う云ふ中間に立つた仕事と云ふものは、理解が仲々行届かぬのでありまして、労働団体からは、役員に加はることを拒みました。然るに近年に至つて段々此の理解が出来て、今迄協調会館を利用するものが多く、労働団体の人々は皆之を利用されて居ります。さうして諸般の調査なり研究なりと云ふものも、先づ協調会に頼つて来ると云ふ迄に相成つた。もう一つ申せば、此の頃は協調会は労働者側の肩を持つのではないかと、資本家側から見られると、聊か心配されやせぬかと思ふ迄に相成つたのであります。其の外政党関係でも、或は政友会に偏しやせぬか、民政党に偏しやせぬかと、能く話があるのでありますが此の間に立つて、遂に今日に至る迄進み来つたと云ふことは、全く子爵の円満なる其の御徳の御蔭であるのでありますが、斯の如くして協調会は我国に於きましては、民間に於ての唯一の斯る労資問題に関係する所の最も大なる機関として成立して居る訳であります。
其の当時は今申しますやうに、仲々其の協調会などと云ふものは、変なものだと言はれた位のこともあつたのでありますが、然るに御承知の通り、欧米に於ても産業の不安からして盛んに大なるストライキ
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が行はれた。其の結果は彼の地に於ても大に考へられる所があつた。産業の発達は両者相争う上にあるのでなくして、両者が互に円満なる刺戟を受けて、双方理解の下に進むことが一番産業を進める所以であると云ふことを理解されて、玆に協調機関が設けられるやうに相成つたと私は存じます。此の点に於ては、幸に欧米に先じて、我国は一歩を進めたものと申して、敢て差支へなからうと思ふのであります。
そこで此の機会に於て、今協調会で行ひつゝある事業を簡単に御紹介申上げますと、第一には調査研究、社会政策に関した調査研究をする、海外の産業関係・社会運動・労働運動・労働事情・労働争議・労働者教育・農村問題・小作争議、其の他諸般の社会制度施設等、夫々分担して調査研究をし、其の結果は会の機関たる社会政策時報なり、其の外の刊行物を以て世間へ出して居るのであります。
其の次には社会政策の普及、協調主義の宣伝と此の教化的方面の事業をやつて居るのでありますが、創立以来社会政策学院・東京工業専修学校・労働学院と云ふやうな学校経営をやり図書館も持つて居る。講習会・講演会と云ふものを全国到る所に開いて居る、此の社会政策学院を卒業した者が二千人以上もある。東京工業専修学校では卒業生が一万人以上になつて居る。会の講習を受けた人員は四万人以上であります。毎年講習会・講演会等の為めに講師を派遣して居りますが、これが年八十回以上に及ぶことがあります。随分相当な仕事をして居ると申して差支へなからうかと思ひますが、其の次には労働争議、小作争議の調停にも従事して居る。尤も申上ぐる如く協調の機関でありまして、争よりは未前にさう云ふ争議を防ぎたいと云ふのが此の会の趣旨であつて、此の争議調停に立つと云ふことは、会の趣旨でないのでありますけれども、事が起つた以上当事者から依頼を受ければ、其の調停に従事致すのでありまして、此の事も仲々多いのであります。最も大きな社会を震憾した幾多の大争議も、協調会の手に依つて調停されたものが少くないのであります。
以上申上げました如く、社会問題に関する政府に於ける社会局と、民間に於ける協調会と云ふものは、我国に於てのこれは労資に関した最も大きなる機関として立つて居る訳であります。随つて国際的にも外国から何かあれば協調会へ頼んで来る。又向うのことも協調会から問合せて調を取ると云ふやうなことで、海外との連絡も大いに今日は致して居るやうな次第であります。創立以来十二年になります。今申上げた通り基礎も先づ一通り、十分とは申上げ兼ねますけれども出来た。さうしてこれから愈々大に其の効果を挙げやうとする時に、玆に子爵の永眠を見るに至りましたことは、誠に遺憾なことでありますが此の間子爵が献身的に如何に此の問題に御努力下さつたかと云ふことは、今私が申上ぐる通りの次第であります。
大正八年八月本会創立の発起人会席上で、斯う云ふことを申されたことがあります。「私は最早甚だ老齢であるが、此の事業に就ては全く若い者の心になつて実務に従う所存であるから、老人だから何も出来ないと云ふやうな御軽侮を下さらずに、十分信任せられたい。」――平生の子爵がそつくり其の儘此の所に現はれて居るやうに感ぜられま
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して、誠に感激する次第でありますが、子爵の此の言葉の通り終始御実行に相成りまして、今申上げましたやうに此の会は発展して参りました。此の事を追憶致しまして、私共は深く子爵に感謝の意を表する次第でございます。
〔参考〕社会政策時報 第一三五号・第一四―一八頁 昭和六年一二月 副会長渋沢子爵の薨去を悼む(協調会常務理事吉田茂)(DK310095k-0005)
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社会政策時報 第一三五号・第一四―一八頁 昭和六年一二月
副会長渋沢子爵の薨去を悼む
(協調会常務理事 吉田茂)
今回、吾が協調会副会長として会の創立以来多年本会事業の為めに尽瘁せられた子爵渋沢栄一閣下が、忽焉として薨去せられたことは、寔に痛惜措く能はざる次第であります。
子爵が明治・大正・昭和の三時代を通じて、我国の産業・経済・教育・社会事業等の各方面に亘つて、其の開拓発展に献身的努力を続けられた其の功績の絶大なることは今更贅言を要しない所であります。
惟ふに渋沢子爵が社会の有らゆる方面から一世の儀表と仰がれた所以のものは、単に我国実業界の大先達として経済界の育成発展のために赫々たる偉功を樹てられたと云ふ点のみに止らず、広く教育問題・社会問題・労働問題等に関しても、常に至公至誠、明朗玉の如き全人格を捧げて、之が解決のために常に率先指導誘掖の任に当られたに因るものであると信ずる次第であります。
私は協調会理事に就任以来日尚ほ浅く、本会創立当時の事情に関しては、親しく承知せぬことも多いのでありますが、私の知る限りの貧弱な私見を以てしても、子爵と協調会との関係は、会の設立当時から子爵の薨去せられるまで終始最も緊密なものであり、本会にとつては子爵は実に生みの親、育ての親とも称ふべき大恩人たりしことは、疑を容れない事実であります。
今私は、実業界の元老としての一面に、亦労働問題の正しき理解者としての子爵が、如何なる決意と抱負とを以て本会設立の難事業に尽瘁せられ、又これを指導せられたかを回顧することによつて、此の大偉人の霊を弔ひたいと思ふのであります。
顧れば、本会設立の当時、即ち大正八年前後に於ては、我国の産業界は、欧洲大戦の結果として極めて急激な進展を遂げ、又一方大戦に伴ふ海外急進思想の影響と相俟つて、我国社会の各方面に種々の重大なる問題を惹起するに至り、就中、労資紛争の激化は朝野の有識者をして最も憂慮すべき事象なりと思惟せしめたのであります。之が為、当時の攻府に於ても、亦労資間の正しき調和に資する為の施設たる使命を果すべき基礎鞏固なる民間機関を設立するの必要を認め、これが当時の床次内務大臣の熱心なる勧説によつて、遂に徳川貴族院議長・清浦枢密院議長・大岡衆議院議長、並びに渋沢子爵等が奮起せられ、玆に協調会の設立を見るに至つた次第であります。が、就中資金醵集等に関する財務方面の仕事は、概ね子爵自ら進んで之を担当せられ、さなきだに御多忙の身を以て東奔西走、親しく各方面を説き廻られ、或は書き寄せて促さるゝ等、日夜会の成立の為渾身の努力を払はれたのであります。
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此の如く、本邦最初の試みであり、且つ最も困難な事業として見られてゐた労資の協調機関の設立の為に精進せられたことは、如何に子爵が社会問題・労働問題に対して、熱烈なる信念と深い決心とを持つて居られたかを物語るものでありまして、これは亦、子爵の労働問題に対する日常の御持論の上から考へても、極めて当然のことであつたと云へると思ふのであります。
子爵の協調会設立に関する卓抜なる御見識は、子爵の御言行の随所に窺はれるのでありますが、就中、大正九年九月一日発行の社会政策時報創刊号の巻頭文たる「労働問題解決の根本義」と題する一文の如きは、一面から云へば子爵の労働問題に関する識見を示したものであると同時に、協調会設立に関する子爵の真意、面目が躍如として現はれて居るものと存じます。試にその一節を援用すれば
『労働問題に対する私の意見は終始不変である。……我国労働問題も其の進歩に随つて紛糾錯雑することあるべきは予想するに難くなかつたのである。そこでこれを未雨に綢繆せんがためには、第一に資本家の自覚を促さねばならぬと考へた。……資本家の陥り易い偏見は、賃銀を与へれば主人であり、之を受ければ家来であると云ふやうな封建的の観念である。……資本あつての事業、事業あつての労働であると同時に、労働あつての事業、事業あつての資本である。資本と労働との共同活動が即ち産業である。更に適切に云へば、資本家と労働者との人格的共働が即ち産業である。労働者の癖に怠けるとか、反抗するとか、つまり此「癖」と云ふのが根本の誤りである。……此の陋習の打破、即ち産業家の自覚が第一だと私は考へたのである。』
『第二は、労働者自身の自覚である。労働の根本義は社会奉仕である。社会の必要とする物資を生産して社会に貢献する。之をなすには資本と労働と協力しなければならない。』
『私は斯やうな考へを以て、資本家・労働者双方の覚醒を促すことに努力を続け、大正五年に事業界を隠退すると共に、今後の生涯の一部を此方面に捧げる積りであつた。
時恰も床次内務大臣の主唱にて、朝野同憂の諸名士及工業倶楽部の諸君も其相談に与かつて、協調会創立の議が持上つた。資本・労働双方の覚醒を促して、切に両者階級闘争の謬見を正し、其間の協同調和を保つて行くには、両者の孰れにも偏せずして公正不偏の立場にある機関を組織して、其の誠実なる活動に俟つのは最も適切な方策である……社会共同の福祉を離れては、資本も労働も其用をなさぬ、此立場からして両者の専恣を戒め、其の当に趨くべきところを指示せねばならぬ。斯う云ふ主義を以て本会創立の議が起つたので、……そこで一身を此事業に投じた次第である。』
此の一文によつても、如何に子爵が、熱烈なる希望と真摯公正なる態度とを以て我が協調会の事業に当られたかゞ明瞭であると思ひます子爵が、一面に於て本邦経済界の元勲としての地位に立たれて、同時に右の如き透徹せる労働問題への深き理解を具有せられ、労資協調が産業発展の第一義であり、社会福祉を増進するの要諦であると云ふ確固たる信念の下に、国家産業の健全なる発達の為め全余生を献げられ
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たことは、我国経済界に於ける子爵の赫々たる偉勲をして、更に光彩あらしむるものであると確信する次第であります。
現時、我国の産業経済界が未曾有の難局に当面し、社会の物情亦騒然として、子爵の如き偉人の力に俟たねばならぬ事愈々切なるものある秋に当り、不幸にして長逝せられしことは、単に協調会のみならず国家社会のため不測の大損失であります。私は協調会就任以来、日浅く、会の事業について親しく子爵の御指教を受ける期間の甚だ短かつたことを憾むものでありますが、併し、今後とも、子爵の本会創立の精神を体して、専ら之が発揚に微力を捧げ、子爵の遺志を不滅のものとして、我が協調会の進むべき目標に致したいと云ふことを、深く心に期する次第であります。玆に、協調会職員一同を代表し、謹んで衷心より哀悼の意を披瀝するものであります。
〔参考〕社会政策時報 第一三五号・第一三五―一三六頁 昭和六年一二月 社会事業家としての渋沢翁(沢田謙)(DK310095k-0006)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。
〔参考〕集会日時通知表 昭和六年(DK310095k-0007)
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集会日時通知表 昭和六年 (渋沢子爵家所蔵)
九月十一日(金) 午前九時半 協調会吉田氏来約(飛鳥山邸)