デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.14

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.5-47(DK320001k) ページ画像

明治42年6月21日(1909年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国シアトル、スポカン、タコーマ、ポートランドノ四商業会議所、前年東京・大阪・京都・横浜・神戸ノ五商業会議所ガ其代表者ヲ招待セシ懇遇ニ酬インガ為メ、右五商業会議所ニ対シ、其代表者三十名ヲアメリカ合衆国ニ招待シテ友情ヲ温メ、且ツ、貿易ノ発達ヲ図ランコトヲ提議シ来ル。我方之ニ応ジテ実業団ノ派遣ヲ計画シ、是日栄一、参加渡米ヲ承諾ス。後、サン・フランシスコ、オークランド、ロス・アンジェルス、サン・ディエゴノ四商業会議所モ招待者ニ加ハリ、八月十日「太平洋沿岸聯合商業会議所」ノ名ヲ以テ正式招待状到着ス。同日派遣団ノ名称「渡米実業団」ト決定、翌十一日栄一団長ニ推サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK320001k-0001)
第32巻 p.5-6 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年 (渋沢子爵家所蔵)
六月二十一日 雨 冷
○上略正午第一銀行ニ抵リテ午飧シ、食後佐々木氏ト要務ヲ談ス、午後千家・高橋・中野三氏来リテ、米国行ノ事ニ関シ勧誘セラル、依テ同意ノ事ヲ確答ス○下略
   ○中略。
七月二十二日 晴 大暑
○上略午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、中野氏其他ト米国行ノ事ヲ談ス、外務省萩原守一氏及阪井徳太郎氏等来会ス○下略
   ○中略。
七月三十日 晴 大暑
○上略午前十一時外務省ニ抵リ、萩原通商局長ニ面会シテ米国行ニ付行程ノ順序改正ノ事ヲ談ス、岩原謙三氏来会ス、○中略午後兜町事務所ニ抵リ○中略堀越善重郎氏来リ、米国行ノ事ヲ談ス○下略
七月三十一日 晴 大暑
○上略二時兜町事務所ニ抵リ、同族会ヲ開キ○中略米国行ニ関スル件及留守中ノ要務ヲ談ス、午後六時日本橋倶楽部ニ抵リ、留別ノ為メ親戚ヲ会シ晩飧ヲ共ニス、食卓上一場ノ留別演説ヲ為ス、食事畢テ活動写真
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アリ、夜十一時散会帰宿ス
   ○中略。
八月二日 晴 暑
○上略午飧後商業会議所ニ抵リ米国行ノ人々ト会シテ打合会ヲ開ク○下略
   ○中略。
八月十一日 晴 暑
○上略午飧後東京商業会議所ニ抵リ、渡米団ノ打合会ヲ開キ、衆望ニヨリテ団長ニ推サル○中略午後五時亀清楼ニ抵リ、渡米実業団ノ懇親会ヲ開ク、外務・農商務・文部三省ノ次官其他ノ来賓アリ、席上一場ノ挨拶ヲ為シ岡田次官ノ答辞アリ、酒間種々ノ余興アリ夜十時散会帰宿ス


竜門雑誌 第二五四号・第五五―五六頁明治四二年七月 ○青淵先生の渡米始末(DK320001k-0002)
第32巻 p.6 ページ画像

竜門雑誌 第二五四号・第五五―五六頁明治四二年七月
    ○青淵先生の渡米始末
米国太平洋沿岸諸州の商業会議所員諸氏は、曩に日本商業会議所の招待に応じ、朝野各団体の慇懃なる款待に接し、彼我の意思を疏通すると同時に、商工業上の視察を遂げて、大いに益する所ありしものゝ如く、帰国以来各州の商業会議所と協議の上、日本に於ける重なる実業家を招待して、一は其厚意に酬ひ、一は益々相互事情の疏通を図りて国際的友誼を温め、以て彼我貿易の発展に資する所あらんとの趣意に出でしものなるべく、田中領事を介し、東京商業会議所に向けて懇篤なる招待状を寄せられたるは、夙に世人の周知する所なるべし、左れば渡米者の人選は最も慎重の詮議を要する次第にて、民間の当業者は勿論、其筋にても少からず注意を払ひたるものゝ如く、一行の代表者としては青淵先生こそ然るべけれとて、内々先生に交渉する所ありし由なるが、当時先生は尚ほ世務の身辺に纏綿するものあり、且つ差当り心身の健康上何等気遣はしき事あるに非ざれども、何分にも七十歳の老齢、親類縁者扨は門下生等の婆心亦棄て難きものあるのみか、一行の代表者として相応しき若手の乏しきにも非ざるべければと、口にこそ言はね左る意向もありて、其筋の幾度かの下話に確答を与へざりしものゝ如く、兎角する中に期愈々迫りて人尚ほ定まらす、或日(去六月廿一日)実業家の重なる人々商業会議所に寄り集ひて鳩首凝議の結果、一行の代表者としては気の毒ながら青淵先生を煩す外に適当の人も見当り申さずとて、高橋是清・千家尊福・中野武営の三氏委員と為り、先生を兜町の事務所に訪ひて慇懃に其意を述べぬ、先生霎時熟考の後、今回の米国行予は実は迷惑を感ぜざるにも非ず、然れども太平洋沿岸諸州各商業会議所の今回の招待は、尋常一様義理一遍の友誼に出でしものに非ずして、将来の国際上に影響を及ぼすこと尠からざる節もありぬべく、且つ日本に於ける実業界の代表者とも云ふべき諸君が、熟議の上是非とも予に諾ひ呉れとの懇談、無下に断はらんも心なき業なり、最早や猶予すべきに非ず、老躯を提げて諸君の望みに副はんのみと、玆に渡米を確定するに至りし次第なりと云ふ


竜門雑誌 第二五四号・第二二―二七頁明治四二年七月 青淵先生の二大決断(DK320001k-0003)
第32巻 p.6-8 ページ画像

竜門雑誌 第二五四号・第二二―二七頁明治四二年七月
    青淵先生の二大決断
 - 第32巻 p.7 -ページ画像 
 左の一篇は、六月二十四日竜門社評議員会に於て、青淵先生が実業界勇退と渡米の二事に就て、同社員に告白したる演説筆記なり
○中略
○男爵の渡米と国際関係 それから更に一つ申上るのは、昨年亜米利加から実業界の人々が、日本の各商業会議所からの誘引に依つて、本邦へ視察といふか、観風といふか、来られた、それに付て、私は商業会議所に以前長く会頭をして居つた縁故もあり、而して此事は唯商業会議所といふ関係ばかりではない、自ら国際の関係を持つて居る事柄でございまして、外務大臣も、成るべく貴下が個人として一の招宴を開いて呉れたら、大に来客に対して好い感情を持たせるであらうといふ、内々お誘ひ言葉もありました、左なきだにと思つた折柄でありますから、一日の歓迎会を開きまして、大層都合好く、日本滞在中諸方の歓迎も行届いた、折柄丁度米国艦隊は来られる、それに対する歓迎も頗る盛であつて、旁々以て、多少両国間の情意を融和したと思ひます、其続きで、今度は米国から来て呉れと言ふて来られたさうです、其初めはシヤトル、タコマ辺の四箇所の会議所の申合せてある、昨年は十一会議所残らず挙げて来た、今度は其会議所が残らず聯合して言うて来た訳ではないが、外務大臣が昨年の継続の事柄であるから、之を機会として、成るたけ日本でも彼等の満足するやうな顔振の出張を煩したい、況や米国の方では、尚更どういふ顔振が出て来るかといふことを注視して居る際でもあり、唯慰みの旅行とは達ふといふやうなことで、種々考へて居られた、尤も商業会議所が首脳ではあるけれども、是非貴下に行つて欲しいと云ふことを、嘗て外務大臣から内意がございまして、続いて次官からも会ふ度毎勧められました、又東京商業会議所は、中野武営氏が昨年の行掛から自分も行きたいと思ふ、さりながら自身が一行代表者の位置に立つやうな訳になると、日本の貫目を軽くする慮があるから、出来るならば貴下を煩したいと云ふ懇篤な話もありました、私は何も勿体を附ける積りもありませぬけれども第一には言葉も出来ませぬし、又船は弱いし、年は取つて居る、何れの点から考へても、容易く承知しましたと申兼ねて、其都度に何れ考へてと、殆ど二三月経過して居りましたが、丁度此処に御列席の中にも、一二其御協議に与つた御方もありますが、此間実業家達の会合で諸井君なども、其御一人の仲間でございました、商業会議所へ寄られたときに、いつまでも頭立つ人が極まらぬで居つては甚だ困る、而して渋沢に大分諸方から嘱目して居るやうであるけれども、未だ判然と立つといふことを明言せぬ、従て他の向々も差定まらぬ、時期も迫つて来るし、殊に北部ばかりでなしに、桑港以南も皆一致して遣るといふことになつて、領事からの電報も来て居る、旁々以て早く極めなければ困る、吾々の職分といふ訳ではないが、実業家の打寄だから、実業界の代表の考で協議して、是非早く定めて貰ふやうにしたら宜からうといふ種々相談の結果、千家男・高橋男・中野氏三人が当日会同仲間の総代として、是非私に一行の代表者に為つて呉れといふ相談を受けました、玆に至て御断りする訳にも参らず、殊に平素親しくして居る人々から斯くまで勧められるのは、誠に迷惑と思ひましたけれども
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辞す訳には行くまい、判然国家の関係と云へるかどうか、知りませぬが、所謂老後の御用納の覚悟を以て御引受けしませうといふことを三人に答へました、続いて其翌日及び翌々日、外務省の人々、大蔵省の人々などとも打合せを致しましたが、未だ其手続はどうするといふまでに運びませぬ、続いて桂侯爵・井上侯爵抔も、これに付てはどういふ振合にして遣たら宜いか、どういふ顔振を選んだら宜からうかと申すことを、蔭ながら力を添へられるやうな訳で、昨日も桂侯を尋ね、今日も他の用で井上侯を尋ねました所、愈々立つさうだが、それに付ては余計なお世話か知らぬが、兎に角個人とは云ふものゝ、自ら一国の商売社会を背負つて行くやうな訳になる、誰が見てもさう見えるから、君が行くならば、政府の事は己は知らぬでは困る、さればと云つて役人でないから、さう細いことは知らぬでも宜いが、財政の事は一通心得て行つて呉れぬでは困るといふやう話で、段々注文が重なりさうでございますが、勿論そんな事を聴いて行つて、亜米利加でそれを役に立てるといふことは出来まいと思ひますけれども、愈々私が出掛けると云ふに付て、多少老人連が同情して、心配をして呉れるといふやうな訳でありますが、私に取つては、存外責任の重き旅行をせねばならぬ場合になつたので、只其決意を致しましたといふことをお話申して置きます。(完)


竜門雑誌 第二六〇号・第一八―一九頁明治四三年一月 ○青淵先生渡米紀行 随行員増田明六記(DK320001k-0004)
第32巻 p.8-9 ページ画像

竜門雑誌 第二六〇号・第一八―一九頁明治四三年一月
    ○青淵先生渡米紀行
                随行員増田明六記
玆に本紀行を起すに先ち、青淵先生が今回渡米するに至られし由来を簡単に述べんとす
明治四十一年の秋、東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所が相連合し、米国太平洋沿岸の商業会議所に照会して同地実業家を招待し、日本商工業の状態を親敷視察せしめ、且歓迎会を催ふして彼我意志の疏通を計られたりしが、恰も当時、米国太平洋艦隊も来航せられたれば、又均しく其歓迎会を東京其他の各地に於て開かれたるを以て是等が相侯つて米国官民に不尠感動を与へた結果、之れが応酬として昨年春米国シヤトル商業会議所が発意し、スポーケーン、タコマ、ポートランドの商業会議所が之に加はりて発起者と為り、次いて桑港、オークランド、ロスアンゼルス、サンデヱゴの商業会議所も相参加して、我外務省に向て実業家の派遣を申込まれたり、此時其筋より是非先生に起たんことを勧められ、尚一昨年来遊したるシヤトル商業会議所会頭ローマン氏(此度我実業団を招待したる米国太平洋沿岸連合商業会議所委員長)及同地実業家ブレイン氏よりも電報を以て、是非先生に団長として渡米する様にと勧誘ありしかど、先生は高齢でもあり又身体も左程健康にもあらず、其上英語を解せぬから到底其器にあらずと切に辞退せられたりしが、超へて六月、先生と交情の親密なる東京の実業家が会合した折り、決議の上、其中より千家男爵・高橋男爵及中野東京商業会議所会頭の三名を総代として先生の許に遣はされ、是非団長として一行に加はる様にと勧誘せられた、於是先生は此上辞
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退して渡米実業家の人選が遅延するときは、折角招待し呉れたる米国の人々をして失望せしむる如き結果を来す事なきや、然る時は年々親善を加へつゝある日米間の情意に、或は蹉跌を来す事なきやの懸念より、断然一身を国家に捧げて此の任に当らんことを快諾せられたり、夫れより屡々会合が開かれて、東京は勿論、大阪・京都・横浜・神戸名古屋の実業家及び専門家と、之に政府より任命せられたる人々と、遂に一行の人数が成立して、玆に実業団が組織せられ、先生を団長に戴きて渡米するに至りしなり
○下略


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一―一三頁明治四三年一〇月刊(DK320001k-0005)
第32巻 p.9-13 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一―一三頁明治四三年一〇月刊
  緒言
    渡米実業団の由来
                  男爵 渋沢栄一述
諺に蒔かぬ種は生へぬと云ふ事がありますが、蓋し結果には必ず原因があるものと云ふことを意味したのであらうと思ふ。此渡米実業団の成立したのも、決して偶然に出来たものではなく、遠く其由来を詮索すると、随分久しい以前から、其原因が胚胎されて居つたものと云ひ得らるゝだらうと思ひます。
元来日本の開国は、自然の機運もあつたのであらうけれども、五十六年前の米国の大統領が東洋に於ける鎖国的の国柄を、是非世の中に引出したいと云ふことから「コンモドル・ペリー」と云ふ人を日本に寄越したのは、決して一朝一夕の考へではなかつた様である。歴史に拠ると、其前の大統領、若くは其前々の大統領から、頻りに其計画があつて、遂に「ミラルド・フヰルモーア」と云ふ大統領の時に、始めて決行せられた様に思はれます。寛政年間にも漂流者を送つて長崎に来たことがある、併し其時には逐ひ返されて仕舞つた様に書いてある。夫から弘化年度にも軍艦を送つたことがある。夫は長崎ではなくて、東京湾だと亜米利加の人は云つて居るけれども、能く調べて見なければ何れの地方か分らぬが、今度の旅行中ボストン市に於て「ルース」と云ふ老将軍が、私の旅宿に来て、自分は其時軍艦に乗つて日本へ来た一人であると話された。其軍艦は帆前船であつたと云うて、其絵図までも示され、種々懐旧談を聴かされて大に面白かつた。其時にも国禁を主張して、薪水と食糧とを与へられた丈けで、其儘帰つたに過ぎなかつたのです。斯くの如く屡々開国の事を誘導したが、嘉永六年「コンモドル・ペリー」の来る時には、尋常一様では行かぬと見て、軍艦四隻舳艫相銜んで遣つて来た。其時は徳川幕府の末路であつたからして、政治上の紀綱も弛んで居るし、総ての役人が怯弱であつたからして、只だ大に驚て、成る可く事なかれ主義により、真正なる開国意見もなく、勿論鎖港も出来ず、止を得ず持つて来た国書を受取つて、一時逭れに、又来年来た時、挨拶しやうと云ふことであつた。夫れが同六年の夏のことである。次で翌年一月再び来られて、遂に修交条約を結ぶと云ふことに至つたのだから、当時の日本の修交は双方が同意で締結したのでは無くして、露骨に言へば、彼の威力に畏れ、若し拒絶
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したならば、如何なる禍害が起るか知れぬと云ふ処から、先づ内に兵備を整へるまで、海外に事を起さぬ様にと云ふ、優柔策に出た様に思はれる。併し引続いて貿易上の条約を締結するに就ては、其時の亜米利加の公使たる「タウンセンド・ハリス」と云ふ人は、実に忠実懇篤なる人で、自分の本分をも充分竭くして、さうして日本の為めに親切なる愛情を以て、此貿易上の規約を、日本の為に教授的に逐条評議をして呉れたのである。已に亜米利加と通商条約を結ぶと、引続いて露英仏独等の国も続々と来られて、遂に一国と結べば、又他の一国とも結ばねばならぬ様になつたのである。さりながら亜米利加との条約が第一番に出来てあつたから、日本が大に好都合を得たのである。畢竟亜米利加との通商条約が善かつた為めであると云ふ事は、其時の歴史に就いて見ても明瞭である。其後明治維新の変革があつて、百般の制度が改良され、外交のことも今度は完全なる開国主義となつて、漸次海外の長所を採り、我が制度の短を補ふと云ふ様になつたから、玆に始めて外国との交際が、相互的に開かるゝ事になつて来た。
其の後明治四年に成つてから、日本政府が岩倉公以下大勢の人々を派出して、海外各国との条約に付いて評議討論した時も、矢張亜米利加を第一番にした。先づ亜米利加に到りて、種々協議の末に、当初の方針に修正を加へたと云ふこともあつた様に聞及んで居る。爾来両国間に公使を駐在せしめ、修交に貿易に、年一年に進んで来つたが、多くは政治上の関係丈で、民間の意志を通ずる等の事は、未だ其頃には看ることが出来なかつた。其後明治十二年に「ゼネラル・グラント」と云ふ人が、大統領を罷めて世界漫遊を企て、第一に日本へ来られた。
其時に東京市民は、従来亜米利加を頗る徳として居り、殊に「グラント」と云ふ人が、文勲にも武功にも、世界に於て赫々たる名誉ある人であり、且其性質も至て真摯朴訥で、思ふたことは言ふ、言つたことは必ず行ふと云ふ気風に聴いて居つたから、其高風を慕うて、大に之を歓迎しやうと云ふ計画を起した。其時に斯く云ふ私も、歓迎委員の一人で、特に委員長に推されて万事斡旋した事である。先づ新橋に着すると、其処に委員中の数名が打揃つて迎へる。引続いて政府の工部大学校を拝借して夜会を開き、新富座に於て特に同氏の為めに演劇を仕組んで、観劇の宴を開き、又個人の宴会としては、其時私の飛鳥山の別荘へ、同氏を始めとして、随行の米国人其他三四十人の人を招いて、撃剣や柔術等を観せて、昼餐を饗応しました。更に大なる計画は上野公園に大会を開いて、日本の古武術を見せると云ふので、幌曳とか流鏑馬とか云ふ、種々の芸術を演ずることにして、殊に当日は是非 陛下の御親臨を請うて、共に御覧ある様にと云ふことを、歓迎会の有志者から御願して御許可を蒙つて居つた処が、其頃に東京市内に少しく流行病があつた為めに、或は出御為被在まいかと云ふことを、開会の間際になつて宮内省より内沙汰があつたので、委員の一同は大に憂慮して、百方奔走尽力し、恐れ多いことながら、強願的に懇請して遂に御許可になつた。酷暑の時分であつたが 陛下は勉めて出御あらせられ、為めに当日は実に満都湧き立つばかりの大歓迎が開かれた。其時「グラント」氏に対しては、余興の前に特に会員が相集つて、歓
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迎文を私が朗読したことを覚へて居る。
是等は一時只だ貴賓を迎へるに過ぎぬのであるから、申さば夫れ限りの事ではあるが、聞く処によれば、同氏は日本の各種の接待にはその意を得られた様子で、特に畏れ多くも 陛下が屡々御会見になつて、種々政治上の事の御談話もあつたし、頗る懇親の情を以て、御別れを告げたと云ふことである。彼是以て日本に於ける旅行の時日を、最も愉快に紀念されて、サンフランシスコに帰られた時に、同地の人々から催された歓迎会に於て、日本に滞留中深く感ぜられた事柄を、詳しく述べられたと云ふことを、今度彼の地に於て聞いたのである。爾来漸次日本の商工業者夫れ自身からも、海外に向つて大に交情を通じ、意志を交換することを努めねばならぬと云つて、商業会議所等の力に依り、追々努めつゝあつた。但し日米の貿易を拡張し、両国の通商を進めることは勿論であるが、単に夫れ計りでなく、元来風俗人情を異にし、文字を異にし、宗教を異にするから、兎角齟齬の生し易き恐れがある故に、勉めて相互の意志の疏通を図るは、単に政治家にのみ頼んで置かれぬと云ふ事を知つて来たのである。夫れで明治三十五年の春私は欧米漫遊を企てた。其時は東京商業会議所の会頭の位置に居つたが、恰も当時全国各地の商業会議所が集つて、東京に聯合会を開かれて居つた。其聯合会に於て、一の建議が出て、従来日本の商工業者は欧米の同業者に対して、意志を通じて商売の繁栄を計るのみならず両国の間に誤解のない様にすると云ふことを経営して居るが、未だ完全なる方法もなく、又別に何等の規則立つた仕組が成立つて居る訳でないから、思ふ如くには徹底せぬ虞れがある。幸に東京商業会議所会頭の渋沢が、欧米に行かれるのは好い機会である。聯合会の決議を以て、日本の商工業者の意志を、充分疏通することを、特に依頼したら宜からう。即ち意志疏通を委託すると云ふことを決議され、私は其の覚書を携へて、漫遊の傍ら、欧米各地に其事を通ずることに勉めたが其時の旅行も、第一が亜米利加であつて、三十五年の五月十五日に東京を出立して、三十一日にサンフランシスコに着し、同市及シカゴ、ニユーヨルク、ボストン、フヰラデルヒヤ等の商業会議所、若くは商業団体に対して、日本に於ける聯合会の決議の趣意を通じた。さうして相当の力ある人に面会して、其理由を説明した。ニユーヨークに於ては、特に同地の商業会議所が、私の為めに歓迎会を開いて、此方の決議文を充分了諾したと云ふことを、其時の副会頭から答へられた事がある、又明治三十八年と四十年とに、米国現大統領タフト氏の日本に来遊せられたときも、東京の商工業者は大に之を歓迎した。是等が日米間の商工業者の意志を通ずるに付ての、沿革と云うても宜からうと思ふが、適切なる近因は昨年起つて来たのである。昨年の春、日本に於ける東京及其他各地の商業会議所に於て、米国太平洋沿岸の商業会議所の人を招いて、日本の商工業の実状を視せ、又日本の商工業者の意志を示し、一方には饗応をして懇親を厚うし、一方には各種の事物を叮嚀に披瀝して其観察に資したならば、従来の情意を更に進めることが出来るであらうと云ふことであつた。其頃私は辞退して、商業会議所の議員ではなかつたからして、其の招待状を発することには関
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係せなんだが、前陳の事が決せられて、愈々亜米利加の客が来ると云ふことになつたに就て、東京商業会議所の中野会頭から相談を受け、米国の賓客が来たならば、共に力を添へて相当なる接待を致す様にと云ふ依頼があつた。前に云つた通り、三十五年の事は勿論、折に触れ事に当つて、屡々米国より渡来の人を歓迎しつゝあつたから、此東京商業会議所会頭の依頼は、自分も喜んで同意して、其処で昨年其人々が来られた時にも手狭なる王子の拙宅に招いて、相応の款待は致した積りであつたが、東京に於けることは左迄ではなかつたかも知らぬが各地の歓迎に就いて誠に宜しきを得、中にも学校のある場所では、大勢の生徒が熱心に歓迎したのは、別して来客の感情を惹いて、大層心地快く悦んで帰られた様であつた。恰も此時、太平洋艦隊が日本へ訪問することになつたので、其歓迎会も東京に開かれ、他の各地にても開かれた。而して何れの地方でも随分手を竭くして、美事なる歓迎を致されたが、相俟つて米国官民の情意を深く感ぜしめたと見えて、太平洋沿岸からの来賓は、別して喜んで帰国の途に就かれたのである。其頃からして、来年は日本の実業家を招いて、米国の各地を巡遊して貰ひたいと云ふことが予期してあつた様に思はれた。さう云ふ計画で私が来遊人に告別の為めに、帝国ホテルに訪問した時、或る人から洩されたことすらあつたが、果して太平洋沿岸の商業会議所の評議が一決して、当年の秋を期して、日本の実業家を招くと云ふことになり、領事の手を経て、我外務省に通ぜられた。夫れから遂に渡米実業家に相当の人を定め様と云ふ評議が起つたのである。
元来私は高齢でもあり、且つ身体も左まで健全だと云ふことも申兼るし、殊に言語は通ぜず、又船にも弱い。左様に種々なる困難の廉が多いに因て、各方面から御勧告を受けたれども、どうも其器にあらずと考へて、切に御辞退を申して居つたのである。処が段々日が迫つて来るし、其人が定らぬと遂に手筈も聞違ひ、折角招いて呉れる米国の人人をして、大に失望させる様なことがあつて、是迄段々進んで来た情緒に、蹉跌を惹き起す様なことになつては、甚だ残念千万である。誰れか立派な人々を見出したいと、自分も多少憂慮して居る際に、東京の実業家中で私と交情の親密なる人々が、二三十名相会したことがあつて、(私は其日は出席はせなんだが)其会に於て、渡米実業家の品定めをしやうと云ふ評議が起つて、遂に私を是非其一人に加へると云ふことに決して、其連中から三名の委員が出来て、私に対して是非共同意して呉れと云ふことを申し出られた。夫れは六月二十一日のことであつて、其委員は千家男爵・高橋男爵・中野東京商業会議所会頭であつた。既に前以て其筋から再三誘導を蒙り、其他朋友からも勧められて居つた上に、切なる委員の勧告であるから、最早諾否を確答せんければならぬ時機に立至つた。其処で自問自答、種々考へて見たが、其日に打寄つた人々は、何れも実業家中錚々たる人だから、自ら揮つて行つて呉れたら宜からうと思つたが、何分種々なる事情があつて行けないと云ふ事から、遂に私を推すと云ふことになつたのであるとのことで、斯様に各自辞退して居つては仕方がないから宜しい、屍を馬革に包むと云ふ決心にて引受けた。引続いて屡々会合が開かれて、東京
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は勿論、大阪・京都・横浜・神戸・名古屋等の実業家・専門家と、遂に一行の人数が成立つたのである。扠其人が定つて見ると、亜米利加からの申越されたには、教育家も学者も企望の由であるが、是等の人人は民間では得難いと云ふ処から、政府に向つて其派出を御願した。さうして医師もなければならぬと云ふ処から、是も政府から人選して貰ふと云ふことになつて、玆に始めて一行の人数が定つて、渡米実業団と云ふものが組織されて、此旅行を始める場合に至つたのである。即ち前に申す通り、渡米実業団の成立は明治四十二年六月頃で在ると云うて宜しいが、其原因を論ずれば決して明治四十二年六月に起つたのでなくして、遠く数年若しくは十数年以前から、原因して居つたものと云ひ得らるゝのである。即ち蒔いた種が生へたのであると云ふことが出来る、偖斯様に種が生へたが、是から此種に花が咲き、実が結ばれるのは現在の実業団員の力計りでは、到底充分には行届かぬと思ふ。勉めて之を培養して、美い花を咲かせ、良い果実を結ばせると云ふことは、日本実業家の責任と云うても過言ではなからう。
先づ渡米実業団の由来に就て、私の記憶する処は、大概前陳の通りである。但し此他にも種々なる原因があらうが、人は只我方面に詳かなるものであるから、自然自己の関係のみに就いて言ふ嫌は免かれぬことである、故に此所には只私の知悉して居る事を遠慮なく申述べたに過ぎぬ。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一四―七二頁明治四三年一〇月刊(DK320001k-0006)
第32巻 p.13-33 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一四―七二頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編第一章出発前
    第一節 正式招待状及之に関する往復公文
明治四十二年五月十日、左の正式招待状、外務省を経て我五商業会議所に達せり。
 拝啓、陳者日本国並に日本国民に対し、友情好意を表明せんが為め且つは日米間に於ける貿易の発達と、意志の疏通を図り、以て貴我両国間の商工業をして益々繁栄ならしめんが為に、左記四商業会議所は東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所に対し、本年九月を期し、日本の重なる実業家三十名を御選択の上、合衆国を来訪相成る様致度、玆に御招待申上げ候。
 右幸に御承諾相成候上は、スポケーン、タコマ、ポートランド及シヤトルの商業会議所は、来訪諸氏の滞在及び旅行を愉快且つ有益ならしむるに於て寸毫の遺漏なきを期し、以て聊か昨年貴商業会議所の招待に応じ、貴国を訪問したる我商業会議所の代表者に対し表されたる厚遇配慮に酬ひ度き存意に有之、以書面此段得貴意候 敬具
   一九〇九年三月二十六日
           スポケーン商業会議所会頭
                 エフ・イー・グットオール
           タコマ商業会議所会頭
                 イー・ジー・グリッグス
           ポートランド商業会議所会頭
                 ウヰリヤム・マクマスター
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           シヤトル商業会議所会頭
                 ジョン・エッチ・マックグロー
    東京商業会議所
    大阪商業会議所
    京都商業会議所  御中(各通)
    横浜商業会議所
    神戸商業会議所
右に対し、東京・大阪・京都・横浜及神戸の五商業会議所は、左の通り回答して承諾の意を表したり。
 以書翰致啓上候、陳者東京・大阪・京都・横浜及神戸の五商業会議所の会頭たる下名等は、三月廿六日附の貴簡を拝承し、其所属商業会議所に代り、玆にスポケーン、タコマ、ポートランド、シヤトル四商業会議所の寵招に対し、深厚なる謝意を表し、併せて欣然応諾の旨を申上度候。
 今回御計画の我実業家米国訪問の儀は、著しく両国間の友誼及び交情を増進し、由つて以て両国民間の商工業の関係に、新刺戟を与ふるものなることは、下名等の確信疑はざる所に有之候。
 就ては下名等五商業会議所は、近き将来に於て、適当なる代表的実業家三十名を選定すべく、此等の実業家は貴会議所の招待に応じ、貴国の各都市を訪問するの幸栄を有すべく候。而して右の人名其他詳細の儀は、追々御通知に及ぶべく候。
 玆に不取敢下名等の友誼及び敬意を表し候 敬具
   一九〇九年六月二十二日
           東京商業会議所会頭
                中野武営
           大阪商業会議所会頭
                土居通夫
           京都商業会議所会頭
                西村治兵衛
           横浜商業会議所会頭
                大谷嘉兵衛
           神戸商業会議所会頭
                松方幸次郎
    スポケーン商業会議所
    タコマ商業会議所     御中(各通)
    ポートランド商業会議所
    シヤトル商業会議所
越えて六月十六日東京商業会議所は、左の桑港発電報を受領したり。
 左記の商業会議所は東京・大阪・京都・横浜・神戸各商業会議所が聯合して、三十名の卓越したる実業家、及び貿易専門家を選定し、本年九月に於て合衆国を訪問せしめられ度く、玆に招待す。尚ほ聯合商業会議所の正式招待状は直ちに郵送すべし。
           桑港商業会議所会頭
                ゼームス・マクナブ
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           オークランド商業会議所会頭
                ゼー・エッチ・クレー
           ロスアンゲレス商業会議所会頭
                ウヰルス・エッチ・ブース
           サンディアゴ商業会議所会頭
                ジー・エー・デビットソン
六月十一日に至り、在本邦米国大使トーマス・ジェー・オブライアン氏は同日附を以て、外務大臣小村伯へ宛て左の公文を寄せたり。
 以書簡致啓上候、陳者本使は合衆国政府が、日本の商業会議所を代表する日本の名士の一団が、本年夏期中米国を訪問すべき招待を承諾相成候趣聞及び、欣喜に堪へざる旨を閣下に開陳致すべき様電訓に接し候。
 尚ほ右招待状に関し一言説明致度は、シヤトル、タコマ、スポケーン、ポートランド四商業会議所の署名に係る当初の招待状は、今や桑港、ロスアンゲレス等の商業会議所を包含する、太平洋沿岸聯合商業会議所の名に於てする招待状に引換へらるべく候。而して此等追加の商業会議所は、今回日本実業家の来訪に就ては、深厚なる欣喜を以て之を待受け、尚ほ日本商業会議所の代表者諸君に対し、最も鄭重なる歓迎と誠実なる接待を致すべき希望に於て、他の商業会議所と一致いたすことに候。玆に本使は閣下に対し敬意を表し候
                           敬具
   一九〇九年六月十一日
           在東京米国大使館に於て
                トーマス・ゼー・オブライアン
    外務大臣小村伯爵閣下
右に対し小村外務大臣は、六月十八日附を以て、在本邦米国大使に対し左の公文を寄せたり。
 以書簡啓上致候、陳者帝国商業会議所代表者が、貴国商業会議所の招待に応じたるに付、貴国政府は満足の意を表せらるゝ趣、並に今般ロスアンゲレス及桑港等も、シヤトル、タコマ、スポケーン、ポートランド四商業会議所と聯合の上、太平洋沿岸聯合商業会議所の名義を以て招待することと相成、且つ各商業会議所は何れも熱誠を以て、帝国商業会議所代表者を歓迎すべき一致の希望に有之趣、本月十一日貴柬を以て御申越相成欣承仕候、右御来示の要領は、直ちに之れを各関係商業会議所に通知致置候。
 貴我商業会議所代表者の会合は、両国通商の発展を直接間接に幇助すべきは勿論、両国親交上多大の裨益あるべきは疑ひなき所なるを以て、帝国政府に於ても、右の計画に対し、貴国政府と其喜びを共にする次第に有之候。右回答旁、本大臣は玆に閣下に向つて敬意をし表候 敬具
   明治四十三年《(明治四十二年)》六月十八日
               外務大臣伯爵小村寿太郎
     在本邦米国大使閣下
    第二節 前年の下相談
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是より先き明治四十一年の秋、米国太平洋沿岸聯合商業会議所の代表者等の、本邦滞在中即ち十月廿八日、京都、都ホテルに於て重立ちたる米賓及我五商業会議所(東京・大阪・京都・横浜・神戸)会頭・副会頭、小池総領事等との会合の席上、シヤトル商業会議所代表者ブレーン氏の提案にして、米賓一同の協賛を経たる日本商業会議所代表者招待に関するもの左の如し。
此提案は実行に際しては、無論数多の変更ありたるも、渡米実業団の基礎となりしものなれば、玆に採録す。
 一、日本よりの来賓は三十名とし、内十五名は著名なる実業家にして、財政家・鉱業家・輸出業者・輸入業者、其他の企業家等を含み、之れを正賓となし、他の十五名は各種の工業、或は特殊の事業に関する専門家にして、特に日米貿易に関する専門的智識経験を有する人を選むこと。
 二、一行は英文にて「オノラリー・コンマーシャル・コンミショナース・オブ・ジャパン・ツー・ゼ・ユーナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)の名称を用ふること。
 三、行程は明治四十二年六月中、シヤトル博覧会開会中にシヤトルに着し、一行の到着と同時に、加州代表者二名・オレゴン州一名ワシントン州一名、計四名の代表者は、シヤトルに会合して庶務に従事し、日本賓客一行の為めに斡旋の労を執るべし。
  一行がシヤトル、ポートランド等視察後、東部及西部に於て視察すべき都市左の如し。
  東部はビユート、セントポール、ミネヤポリス、ミルウヲーキー市俄古、紐育、ボストン
  西部は聖路易、キヤンサス市、ロスアンゲレス、桑港、ホノルル
 四、合衆国の有数なる工業地は成るべく之を視察し、而して此等工業地の商業会議所は一行を歓待して、工業視察上の便宜を与ふべきこと。
 五、主なる都市の商業会議所、及主なる製造組合は、日米両国の産出品の交易に資する為め、各種専門家を選出して、一行中の専門家と協議せしむること。
 六、此等の専門家中より十五名を選びて、日本専門家の報告を訂正し、若くは確認する為めに、更に翌年日本に派遣すること。尚ほ進んで必要ある場合には、国際的に日米両国間の商業仲裁所を設置し、之れを両国に一個所宛置き、売買者間の紛議を処決せしむること。
 七、国際興信所を双方に設け、売主をして貨物発送前、買主の信用程度を知るの便宜を図ること。
 八、日本来賓の夫人をも招待せらるゝこと。
      以上
ブレーン氏は此案に就き、右は只差当り思ひ付きたるものを列挙したるに過ぎず、決して熟慮の末に成りたる提案に非ることを諒知せられたく、実行前には大いに訂正を加ふべき余地ある旨を申添へたり。
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    第三節 シヤトル商業会議所の決議
明治四十二年一月十九日、シヤトル商業会議所は、其総会に於て、イー・エフ・ブレーン氏の提議に依り、左の通り決議せり。
     決議文
 亜米利加合衆国太平洋沿岸各州の商業会議所を代表せる日本の商業視察員は、日米両国間の貿易を尚ほ大に拡張発達せしむる余地あることを報告したるに因り、
 太平洋沿岸諸州の商業会議所は、日本紳士三十名の一隊、即ち著名なる実業家十五名、及び日本の産物及需用に関して専門的智識を有す専門家十五名を、本年中に合衆国へ招待し、以て両国間の貿易の発展し得べき余地あるやを研究せしめんとするの決議を通過したるるに因り、
 合衆国の専門家の一隊をして、日本の専門家と相協議し、共に両国間の貿易発展の余地を攻究せしめ、尚ほ引続き日本帝国を訪問し、両国人民の需要を調査し、産物を交換し、商工業の利便開発を図ることを希望するに因り、
 玆に左のことを決議す。
 第一、前述の米国専門家委員の費用を支弁する為めに、五万弗の支出案を提議し、若くは其案を賛成し、尚ほ右専門家は、米国商業団体の意見を徴して、合衆国大統領に之れを指命すべきことを提議、若くは賛成することを、米国議会に在るワシントン州選出議員に請求する事。
 第二、太平洋沿岸聯合商業会議所は、太平洋沿岸の各商業会議所と協力し、本年中に米国を訪問すべき招待状を、日本商業会議所に発すること。
 第三、当シヤトル商業会議所会頭は、日本渡米団接待及歓迎に関する準備を為すべく、特別委員を指名すること。
    第四節 彼我双方に於ける準備
三月廿八日在シヤトル田中領事より、
 「昨年、日本より招待されたる返礼旁、本年九月初旬を期して日本実業家を米国に招待するの件に関し、シヤトル、タコマ、ポートランド、スポケーン四商業会議所の代表者、昨日シヤトルにて会議したる所、一同異議なく決定したり、招待状は右四商業会議所の名を以て、シヤトル商業会議所に於て調製の上、帝国領事を経て不日発送の筈なり」云々と来電あり。
同日田中領事より、今回の旅行はシヤトルに始まり、シカゴ、紐育等米国の大部分を通過する筈なるを以て二・三個月を要すべく、費用負担は先年本邦に招待されたる米国実業団と同様なれども、鉄道運賃の大部分は米国側にて負担することゝなるべき旨来電あり。
三月三十日、シヤトル発電報を以て、田中領事は小村外務大臣に対しシヤトル商業会議所に於ては、米国内諸鉄道会社と交渉を開始し、東部に交渉委員を派遣するの必要あるを以て、日本に於ては、今回の招待を承諾さるゝものと仮定して、差支なきや否やを承知したき旨、電問し越したるにより、小村外務大臣は、翌卅一日付を以て、同領事に
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対し、右は本邦商業会議所に対して交渉中なるも、商業会議所法改正等の理由より、未だ決定するに至らざるも、成るべく速に諾否を決せしめ、一方に於ては有力なる実業家を勧誘して招待に応ぜしむる様、努むべき旨を電報したり。
四月二日に至り、シヤトルより招待さるべき実業家は、正賓十五名及各専門家十五名合計三十名にして、尚ほ成るべく夫人同伴せられたく且つ書記三・四名同行差支なく、兎に角主人側にては五十名分の用意を為すべき旨来電あり。
事態如斯、本邦に於ても渡米人員撰択の必要切迫したるにより、四月十二日、小村外務大臣は本件に関し、渋沢男爵・三井男爵・岩崎男爵(久弥)・松尾男爵・高橋男爵(是清)・豊川良平・池田謙三・早川千吉郎・浅野総一郎・添田寿一・大倉喜八郎・森村市左衛門・高橋新吉・小野光景・大谷嘉兵衛・左右田金作・来栖壮兵衛・渡辺福三郎・若尾幾造・村井吉兵衛・中野武営・大橋新太郎・日比谷平左衛門・近藤廉平の諸氏を官邸に招待し、打合せ会を催したる結果、渋沢・高橋・中野の三氏を委員に推選し、必要なる準備を為し、勧誘人選等に着手せしむることを決定せり。
外務大臣は十五日を以て、大阪・京都・兵庫・愛知の各府県知事に公文を発し、成るべく其地方に於て重立ちたる実業家と協議し、米国希望の招待に応ずるやう、勧誘方を訓令したり。
而して、其当時人員の割当て方は、正賓十五名、内東京四名、大阪三名、横浜・京都・神戸・名古屋各二名と予定し、尤も多少の増加差支なく、尚ほ米国側の註文も敢て、切詰めたる定員にあらざる旨を通知したり。
一方米国側にては、シヤトル商業会議所を中心として、西北沿岸商業会議所、即ちシヤトル、タコマ、スポケーン、ポートランド四商業会議所は、着々準備を進め、シカゴ以東に於ける諸設備打合せの為め、玆に鉄道会社と交渉の目的を以て、シヤトル商業会議所ローマン氏及ブレーン氏、スポケーン商業会議所グットオール氏、ポートランド商業会議所ガーリンジャー氏は、何れも所属商業会議所を代表して、米国東部に出張し、四月十二日紐育に於て、北太平洋鉄道会社々長エリオット氏に会談し、其後重要なる諸都市を歴訪する為め出発したる旨の報告に接せり。
    第五節 加州諸商業会議所加入の件
記事是に至つて、今回の招待に関する桑港商業会議所の態度を記述すべき必要に迫れり。抑も日本実業家渡米の件は、前年米賓の日本滞在中、略相談纏まりたるも、其後、桑港商業会議所は国庫補助金支出の事成立せざるが為めに、本件を中止するの意向ある旨新聞紙に記載され、尚ほ桑港商業会議所員ヘール氏(前年本邦へ渡来せし一人)より太平洋西北岸諸会議所準備委員長ブレーン氏にて宛、三月十一日附を以て、
 「当商業会議所評議員の所感は、此際日本の商業視察員を招待の儀を企つるの意無しと云ふの外無之候。
 右は当商業会議所の会頭と相談の上申上ぐる次第に有之候。当初右
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招待を賛成する旨評議員会に於て決議したるは、政府が之れに助力を与ふる事を推定し、仮に条件としたる次第に有之候処、今我州選出の上院議員ハイルス氏の通知に因れば、同氏は此目的に対しては如何なる形様の予算にも反対する意向なる由にて、斯る招待は、沿岸に於て日本排斥運動の盛んなる際、甚だ思慮なき処置と思はるゝに付、右招待の為めにする金員の支出には、全然反対する旨申越し候。加之我州選出の下院議員も、上院議員と同様の意見を有し居り候。さすれば現状の下に於いては、加州は止むを得ず此招待を無期延期するか、若くは全然廃止となすかの外無之候云々」
と申越し、尚ほシヤトル商業会議所書記長ヤンデル氏が、桑港に出張し、同商業会議所会頭に面会したる際も、同様の挨拶を受け、其後数回本件に関し、文書を往復したるも、遂に満足なる回答を得ざるを以て、西北岸の四市は、桑港地方の向背を条件とするときは、当分本件成立の見込なしと認め、遂にシヤトルを中心として、西北沿岸の商業会議所のみにて、断然之れを実行せんと決定したる次第なり。然るに其後五月四日に至り、在シヤトル帝国領事の来電によれば、シヤトル其他の商業会議所代表者、東部諸州訪問の結果、各鉄道会社は勿論、通過すべき各都市よりも、熱心なる賛成を得、万事好都合に運びたるのみならず、尚ほ桑港も国務卿及び其他の有力者の意見と斡旋とに因り遂に此招待に加盟することゝなるべき形勢となりたる由なり。而かも曩きにシヤトル、ポートランド、タコマ、スポケーン四商業会議所より発送したる、東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所宛三月二十六日付の招待状は、五月七日、已に本邦に着したるにより、十日を以て各名宛商業会議所に配付し、之れに対し取敢へず応諾の回答をなしたり。
越えて六月五日着在桑港永井領事より小村外務大臣宛ての電報に曰く
 『桑港商業会議所其他加州の諸商業会議所は、米国政府の斡旋に因り、太平洋西北沿岸四商業会議所と聯合し、「太平洋聯合商業会議所」の名を以て、更に我実業家に招待状を送ることに決定し、桑港の委員はシヤトルに赴きて打合せを為すべく、新招待状は太平洋聯合商業会議所の名を以て、在本邦米国大使を経て外務大臣に交付し以て既発西北のみの分と引換へる筈なり』云々
    第六節 米国準備委員東部巡回遊説の件
かくてシヤトル外三会議所が、如何にして此の尨大なる接待の企計を遂行せしやは、大に研究し記臆し置くの必要あり。左の特別準備委員東部出張報告は、最も其要を悉すものなれば、特に全文を訳載す。
 太平洋沿岸聯合商業会議所御中
 ポートランド、スポケーン、タコマ、及シヤトル四商業会議所の選出に係る準備委員たる下名等は、米国中西部及東部各地を歴訪し、本年秋米国に来訪すべき日本実業家の為めに、旅程を打合すべき使命を帯び、今其旅行を了り玆に左の報告を掟出す。
 下名等委員は四月十二日紐育に於いて、北太平洋鉄道会社々長ハワード・エリオット氏に会見し、同氏と同行して大北鉄道会社取締役会長ゼームス・ジェー・ヒル氏に面会したり、ヒル氏は委員の訪問
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前、既に今回の計画を承知し居りたるを以て、委員の同氏に会見するや、直に「之れに優る高尚なる計画あるべしとも思はれず」との讃辞を発し、尚ほ斯る企は非常なる耐忍、及多大の労力を要すべきことをも、予め覚悟せざるべからざる旨を注意されたり。
 尚ほヒル氏は日本との友情を開拓し、之れを維持することは、米国民の常に努めざるべからざる所なり、日本は実に驚くべき国民にして、其進歩は、将来三十年間に於て、過去三十年間に於けると同様若くは之れに優るものあるべきやも計らざる旨を告げ、同氏の主宰する鉄道会社は、日本実業家及之に関聯する人々を歓待し、及運輸することに関しては、全力を尽して其負担を為すべく、尚ほ同氏は近々華盛頓府に赴くべき都合なるを以て、我等委員の希望は勿論、此計画に就き米国大統領に相談すべきことをも承諾したり。
 右の翌日、エリオット氏に伴はれて、委員等は紐育中央鉄道会社の社長ブラオン氏を訪問したり。委員がブラオン氏に此計画を説明するや、同氏は直に商業上の事態如何なるべくとも、日本人を招待することは極めて必要なることにして、氏の信ずる所によれば、米国人民が日本に対して相当の歓待を為さんが為めに費用を支出し、彼等をして米国人民が日本に対して抱ける真正の感情を知らしむることは、太平洋を横断して米国の大戦艦を送る為めに石炭を燃焼し多大の金銭を費すよりも遥かに有益なりと確信する旨を述べたり。
 同日委員は更にハリマン氏に会したる所、同氏はヒル氏又はブラオン氏の如く熱心ならざりしも、而も尚ほハリマン氏の管轄に属する鉄道は其費用の分担を欣諾すべく、尚ほハリマン氏は市俄古に駐在せる副社長スタッブ氏へ書面を以て申送る所あるべきにより委員はスタッブ氏と委細の相談すべしと告げられたり。(後ち委員は市俄古に到着したる際取調べたる所に依れば、ハリマシ氏がスタッブ氏に寄せたる訓令は、委員等がハリマン氏に面会の節、同氏が表したるよりも更に積極的の性質を帯びたるものなりしことを発見したり)紐育滞在中「バアリントン」線路の法律顧問長たるキャロール氏に会し、同氏が不日費府に趣き、ペンシルベニア鉄道会社の社長マックロー氏に会合すべき予定なる旨を承知したり。同氏がマックロー氏に会したる結果、マックロー氏はヒル氏・エリオット氏・キャロール氏及び委員の為めに、委員が華盛頓より帰路、費府を通過の際午餐会を催すの用意を為したることを承知せり。
 華盛頓滞在中、委員は内務卿バァリンジャー氏を訪問し、同卿の紹介を以て大統領に謁見したるに依り、其際大統領に我計画を述べたり。大統領は既に大体の計画はヒル氏より承知したる旨を述べ、此企は大統領の熱心賛助する所にして、吾人が日米間の友誼を維持する為めに、斯る活溌熱誠なる態度を執ることを賞讃されたり。
 而して大統領は本件を国務省に移牒したるに因り、我等は国務卿を国務省に訪問し、第三国務次官フィリップ氏に面会したり。(同氏は東洋事務の主管なり)而して同氏に我計画の大要を述べ、及鉄道会社より特別列車を一行の為めに供する都合なる所、斯る寄附は州際通商条例の明文に、何等牴触する所あるまじきやとの儀を質問した
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る結果、本件は州際通商委員の議に付せられ、該委員会のレーン氏は、検事総長に向つて一書を宛て、遂に委員会に於ては実業家の一行及之に関係する者が、一団体を組織する限りに於ては、何れの鉄道会社も該一行に対し、漫遊隊の賃率を適用し得べき意見なる旨を通知したり。
 委員は華盛頓を去つて費府に赴き、マックロー氏用意の午餐会に列し、此席に於てペンシルベニア鉄道会社の重役及費府の著名なる人士に会するの機会を得たり。玆に於て吾人は我計画の大要を述べ、ヒル氏は有力なる演説を為して、此計画に賛助する旨を述べ、又マックロー氏も尚ほ此計画を極力賛助すべき旨の簡単なる演説を為しペンシルベニア鉄道は他の鉄道と共に、日本実業家一行の為に、無賃乗車の準備を為すべき旨を言明したり。
 委員は右午餐の終りたる後ち、費府製造家倶楽部の会合に列し、其席上に於て倶楽部会員に向つて詳細なる説明を為し、ヒル氏亦一場の演説をなしたり。其結果日本人の一行を費府に招待すべく、尚ほ接待員を該倶楽部会頭より指名すべき旨の動議提出せられ、可決したり。
 先是、我委員が華盛頓に向つて紐育を出発せんとする前に当り、エリオツト氏及ヒル氏等に伴はれ、ゼー・ピー・モルガン商社のパーキンス氏を訪問したる結果、同氏は米国鋼鉄会社・スタンダード石油会社・ゼネラル電気会社・国際バベスター会社等の有力者と、我委員との集会を準備し居れり。此等の実業家は、日本実業家が米国を訪問することは、必らず非常なる良結果を生ずべきことを信する旨を言明したり。
 紐育滞在中委員は同地駐在日本総領事水野氏に会したるに、同氏は一行の為めに午餐を饗し席上紐育市の多数の名士に紹介されたり。是等の名士は何れも此計画に就いて熱心なる賛成を表したり。
 尚、紐育市に於ては「ウォールズ・ウォルク」雑誌社の社長ヲルター・ェッチ・ページ氏に紹介され、同氏も熱誠此計画に賛成する旨を述べたり。
 委員は紐育市を去つてボストンに赴き、ジョン・エス・バートレット氏に依りて、商人協会々頭ストロー氏に紹介されたるに、ストロー氏は委員に向つて、恰も唯今マッサチュセッツ州議会より、ボストン商人協会とボストン商業会議所と合併に関する許可の指令を受けたる旨を告げ、此新団体は、日本より来訪すべき実業家を、歓待するの任務を負担すべき旨を告げたり。ストロー氏はボストンの倶楽部に於て、委員の為め午餐会を催し、其席に於て、同市の名士会合し、ボストンは日本実業家の一行を充分歓待すべく、尚ほ日本の実業家と、ボストン市内及附近の商業家が、直接交際する機会を得るやう、取計らふべき旨の保障を得たり。
 更に紐育に帰りて、チェース国立銀行のヘボン氏に会したり、同氏は紐育商業会議所書記長及貿易協会書記長と、我委員との会合を取計ひ、其席上に於て、是等の書記長よりは、何れも紐育は日本実業家の接待に就て、充分の負担を為すことに、何等の議論なき旨をも
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承知したり。
 紐育市の或る有力なる財政家より、若し日本実業家が、日本帝国の有力なる教育家の一両名を同伴すべくんば、同氏は日本の教育家と米国の教育家とを紐育に会合せしめて、一宴会を催すの意ある旨を告げたり。
 委員等は再び華盛頓に入り、内務卿バァリンジャー氏・商工務卿ネーゲル氏・国務卿ノックス氏、及一九一七年東京博覧会米国事務官長ルーミス氏等にも会したり。此等諸氏は日本実業家の訪問に対し深厚なる賛成を表し、内閣会議に於ても此計画を賛成する旨を決定し、尚ほ日本実業家が華盛頓滞在中、然るべき接待及歓待を催す旨を決定したり。
 委員は更に日本大使高平男爵を訪問し、鄭重なる接待を受けたり。同男爵は日本実業家の米国訪問に就き、非常なる趣味を有し居るも翌日 日本天皇陛下より、ハーバード大学総長エリオット博士に授けられたる勲章授与の為めに、ボントンに赴く必要ありとて、大使館書記官埴原氏は、主人役となり、メトロポリタン倶楽部に於て、委員に午餐を饗したり。
 委員が華盛頓を去るに臨んで、大統領に一書を寄せ、商工務省及其他大統領に於て適当と認むる官庁より、五名の専門家を指名し、之れを以て合衆国選出十五名の専門家の中に加算し、以て日本実業家に随伴し、国内を旅行すべきこと、及博覧会事務官長ルーミス氏をして、日本実業家と米国内を同行せしむることの、最も然るべき旨及日本一行の到着に際して、税関及移民の官吏は、普通国際間に行はるゝ優待を示すべきこと等を稟請し置きたり。
 委員は東部滞在中、該地方に於ける重立ちたる土地の商業会議所に通信し、委員中の一両名は、必らず右の都市を訪問すべきことを告げ、我計画の大要を予告し置きたり。此通信に対し、大部分は夫々回答を得たるが、何れも該都市が、日本実業家の旅程中に包含されんことを希望する旨を申越したり。
 東部諸市に於て到る所斯くの如く、鄭重且つ熱心なる賛成を得たる為めに、自然大に時日を費したるを以て、委員は玆に分担の必要を認め、グットオール氏は北部の都市、ブレーン氏は西部の都市、ローマン氏は南部の都市を訪問することゝなりたり。又、プロビデンス、シラキュース、ロチェスター、バッファーロー、クリーブランド、ピッツバーク、シンシンナティー、インデアナポリス、デトロイド、サウスベンド、シカゴ、ミルウォキー、セントポール、ミネアポリス、聖路易、キャンサス市、デンバー等に於ては、日本実業団の旅程に包合され度旨希望を表示したり。
 尚ほ紐育滞在中、コロネル大学総長シユルマン博士・イサカ市長及同市の商業会議所会頭より、イサカを旅程中に是非繰込む旨を要求せるの電報を受取り、尚ほ引続き右三氏よりの書面を以て「コロネル大学は米国の他の大学よりも、日本学生を教育したること多く、イサカ市は特に日本に密接の関係を有するを以て、一行がコロネル大学及イサカ市を訪問することは、公平なることなるべし」との旨
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を申越したるにより、委員は欣然イサカ市を訪問の旅程中に加ふべき旨を回答したり。
 亜米利加機関車会社も、日本実業家一行がダンカーク市に立寄り、工場を見物されたき希望を申越し、又ゼネラル電気会社々長コフィン氏も、我委員に対し、紐育市にある同氏の事務所に訪問せんことを求めたる上、スケネクタデー市(即ち該本社の在る所にして、大工場あり)を訪問せんことを要求したり。
 デトロイド市の製薬会社パアク・デビス商会も、日本実業家が同市に於て同社の賓客となるべきこと、又ワナメーカー製煉会社々長ライマン氏も同様の希望を、又トレード機械会社も実業団の同市に立寄らんことを要求する旨書信を寄せたり。
 紐育商業会議所は、日本実業家が十月十四日に紐育市に滞在せんことを希望せり。蓋し当日は商業会議所の年会なればなり。聖路易は又、日本実業団が、十月三日より始まる聖路易百年祭に参列せんことを要求し、尚ほ十月六日同市のコリシヤム宴会に参列せんことを要求せり。右の宴会には大統領其他米国の貴顕列席する筈なり。
 我委員は各市の商業会議所より、絶へず日本の実業団来訪に関し、種々の問合せ及要求を受けつゝあり。
 市俄古・ミルウォーキー間の鉄道に付ては、委員の一人たるグットオール氏は、市俄古ミルウォーキー線のセントポール鉄道会社長アービングス氏と会合したるに由り、我計画の大要をアービングス氏に述べたる所、アービングス氏は同氏の鉄道会社も、亦他の鉄道会社と同様に、本件を賛成するに由り、日本人一行に対して、十分なる歓待を尽すの機会を与へられんことを希望せる旨を述べ、尚ほグッドオール氏を伴うてミルヲーキーに於ける会社の重役とも会合せしめ、氏をして我計画を陳述するの機会を得せしめたり。其後委員ヒル氏と会談の際承知したる所に依れば、鉄道会社は前に述べたる漫遊賃率を以て、日本実業家無賃旅行の便宜を与ふることは、将来法律上の面倒を惹起さずとも限らざるに依り、寧ろ各社共に一の特別列車を仕立て、且つ運転する為めに必要なる資金を、按分醵出せんとする旨を承知したり。
 委員等は、北太平洋鉄道会社々長エリオット氏より書面に接したるが、其文面に依れば、同氏はデンバー、ライオ・グランド鉄道会社の社長に此企を説明したる所、同社長はエリオット氏に対し、グールド線は喜んで日本実業家の旅行に供すべく、其条件等は、北太平洋・大北・聯合太平洋・紐育中央・ペンシルベニア鉄道等と同様にて異存なしとの旨を述べ、尚ほ日本実業家の一行が、デンバーよりロスアンゲレス迄は同社線、即ちライオ・グランド線に便乗する方面白かるべしとの意見を申越したる趣きなり。尚ほ我委員はエリオット氏及サンタ・フェー線とも交渉し、都合に依りては日本人一行をデンバーよりライオ・グランド線にて、サンディアゴより加州に入らしめ、夫れより南太平洋線に因りて、北の方桑港に至らしむる方然るべしと思料し居れり。(以下略)
 右報告候也
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               委員 イー・エフ・ブレーン
               委員 ゼー・ディー・ローマン
               委員 エフ・イー・グッドオール
    第七節 米国側準備特別委員会
我一行渡米の期近づくにより、米国側にては着々準備を進行し、太平洋沿岸聯合商業会議所特別委員会を、一九〇九年六月九日、華州シヤトル市に於て開会せり。出席者左の如し。
 桑港商業会議所代表者       ウヰリヤム・エム・バンカー
 ポートランド商業会議所代表者   オー・エム・クラーク
 ロス・アンゲレス商業会議所代表者 フランク・ウィギンス
 スポケーン商業会議所代表者    エフ・イー・グッドオール
 シヤトル商業会議所代表者     ゼー・ディー・ローマン
 同                イー・エフ・ブレーン
 バンカー氏はブレーン氏を座長に推す事を発議し、ウィギンス氏の賛成あり、議題となり、可決。
 クラーク氏はバンカー氏の賛成を得て、本委員会は此際日本実業家の旅費及接待費として五万弗より尠からざる醵金(其金額は其他の雑費をも支払ふべきことゝす)を求むべきことを提議し、可決。
 グットオール氏はバンカー氏の賛成を得て、本委員会はエリオット氏(北太平洋鉄道会社長)を訪問し、特別列車及時間表調製の儀を相談すべきことを提議し、是亦可決。
 ウィギンス氏はグットオール氏の賛成を得て、此委員会にて今後用ゆべき文書には、「太平洋沿岸聯合商業会議所」の名を用ゆべく、尚ほ日米両国の親和を意味する印章を調製し、今後通信には、右の書簡紙及状袋等も、皆聯合商業会議所の名義を以て、右の記章を有するものを用ゆべきことを提議し、可決。
 グットオール氏は、バンカー氏の賛成を得て、日本実業家の訪問する太平洋岸の各市は、其訪問中、日米両国の国旗を以て、潤沢に装飾するやう必要なる打合せ、及準備を為すこと、又日本来賓が滞在せずとも、途中通過すべき都市に於ても、然るべく日米の国旗を飾立つるやう取計らうこと、尚ほ日本来賓は、九月三日ミネソタ号にてシヤトルに着すべきにより、委員は一行が十一月三十日地洋丸にて、桑港を出発帰国し得るやう、旅程表を調製すべく提議あり、可決。
 バンカー氏は、クラーク氏の賛成を得て、旅程表をエリオット氏に提出すべきことを発議し、是亦決したり。
    第八節 実業団に対する米国側の期待
七月十四日、米国側特別準備委員会は、本邦実業家が経由すべき米国各都市の商業会議所に宛て、左の通牒を発したり。右は能く我実業家の渡米に関する、米国側の準備と期待せる所とを表示するものにして且つ如何に米国実業家が、日米の親交を熱心希望せるやを証するに足るべき、有力なる文字なれば、玆に之を訳載す。
  接伴準備委員長ブレーン氏より、各地商業団体に宛てたる回文
 各位
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 拝啓、陳者将さに来らんとする日本実業家の団体が、我国に大旅行をなすに当つて、其時間を名所見物・晩餐・饗応・款待等のみに費す事も、勿論多少良好なる効果を生ずべしと雖も、斯くては我太平洋沿岸の各市が期待する所、又遂行せんとする所の、十が一にも当らず。
 抑も国際の貿易は平和の保障にして、吾人の大いに考慮する所のものは、日米間の貿易の増進に外ならず。日本実業団は今回十五人の貿易専門家を同行すべし。日本帝国の貿易専門家は、世界何れの国の同業者に比しても、優るとも劣る所なき人士なり。
 蓋し日本は、多年其優秀なる青年を、商業視察の為めに海外に派遣し、此等の人士は真正の意味に於て、貿易専門家となりたり。今回日本の著名なる実業家と同行せんとする専門家なるものは、恐らく此種の人士なるべし。若し此等の専門家がシヤトル市着の際、米国の専門家に会合し、大陸旅行中相互に懇親を結び、智識を交換するの機会を与へらるゝに於ては、米国の国産及製品に開し、有力なる研究を遂げんこと疑ひあるべからず。其結果は日本貿易の増進に帰すべし。
 日本の実業専門家十五名に対し、米国側に於ても同数の専門家を選択せんとするには、勢ひ多少の困難なきを得ず。接伴準備委員は玆に慮る所あり、大統領タフト氏に対し、政府の諸官庁より五名の専門家を指命せしめんことを求めたれば、大統領は多分その五名を任命すべく、爾余の十名は左の通り選出するを得べし。
 桑港、オークランド、ロスアンゲレス、サンディアゴ            一名
 ポートランド、タコマ、スポケーン、シヤトル               一名
 ミネアポリス、ドゥルース、セントポール、ミルウォーキー         一名
 市俄古、デモアン、オマハ                        一名
 インディアナポリス、グランドラピット、サウスベンド、デトロイト     一名
 クリーブランド、シンシンナテー、コロンバス               一名
 費府、ピッツバーグ、ボルチモァーア                   一名
 紐育、バッファロー、ロチェスター、シラキュース、ニュワーク、パターソン 一名
 ボストン、スプリングフヰルド、ホールリバー、プロビデンス        一名
 聖路易、カンサス市、デンバー                      一名
右の選定を為すに当り、大都市及人口稠密なる中心に在る商業団体が、自然勢力を有することは当然のことなれども、各地方的利害及製造地区の関係等も、十分考慮の中に加へて、以て日本専門家と相提携するに、適当なる人士を選出せんことを期せざるべからず。
一行シヤトル市に着せば、専門家連中は、直に分類部署を定め、各地の産物にして、日本の貿易に用ゆるに足るべき資料と思考さるゝものを、日本専門家に充分に説明し、価額其他必要なる資料を供給することを務め、尚ほ日本専門家が観察せんと希望する地方を案内する等の事は、努めて之を為さゞるべからず。例へば、シヤトル市
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到着前、商業会議所は先づワシントン州の物産中、日本貿易市場に上るべき物品に関する、必要なる項目を調査し置き、成るべく秩序的に之を日本専門家に示すの手段を講じ、努めて日本の実業家をして、米国の空論家又は虚業家の為めに、無用なる時間を費すことなからしめざるべからず。
我委員部は、今回実業家の来訪を以て、米国製機械を日本に輸入するの好時機と思慮す。殊に専門に属する諸機械の如きは、一度日本に入り始むるに於ては、引続き使用さるべく、尚ほ日本を通じて清国に売拡めらるべき機会も十分に存するなり。
米国の製造都市中、粘土器械に著明なるものあり、ガスリン器械に著名なるものあり。或は又製材器械・製粉機械・軌道機械・蒸汽鍬に秀でたるものあり。其他地方に依り、特殊の産物及誇るべき機械類を産出する所、甚だ多きに付き、日本専門家が其地方に至りたるときには、該地方の特殊の産物、及製作機械に付き十分なる説明を与へ、其利便を会得せしめざるべからず。米国の製造家は、日本専門家が視察攻究する所は、必ず実用に供されるものなることを忘るべからず。日本実業家が帰国の後、引続き米国の専門家を日本に派し、日本品にして米国に輸出するに足るべきものを購求せしむることも、亦極めて必要なるべし。又商業仲裁裁判所、或は国際興信所を設置し、商業道徳の欠乏云々に関する相互の非難批評を、永久に除去する必要あることは、委員の已に感得せる所にして、日本専門家亦同感なるべしと信ず。接待委員に於ては、日本実業家が合衆国を旅行するに当りて、各地に到着の際、該地の接待委員に、日本実業家及随行せる米国委員を引受け、之れに当該地方相当の接待を為すは勿論、訪問を受けたる各都市は、日本との貿易品たるべき希望ある物品産物に関し、日本実業家及専門家に、充分研究の便宜と余地とを与ふるを義務とせざるべからず。前にシヤトル市に於ける準備を概述したりしも、右は各地に於ける事情によりて、更に改良斟酌されんことを希望す。
各鉄道会社及諸個人の任侠及好意に由り、太平洋沿岸聯合商業会議所は一行の旅行の為めに、特別列車を備付け運転するを得べきに由り、我来賓に同行すべき米国専門家の費用も、随つて大いに軽減さるゝ次第なり。日本実業家の一団は、特別列車にて旅行する次第なれば、各地共に予定の時間を厳格に守ることは絶対に必要なり。故に各地の接待委員に於ては、予定のプログラムを予定の範囲内に於て規定し、之れに多少の余裕を存せんことを希望す。近々の内、日本実業家の人名表、及略伝写真等を送付するを得べしと思はるゝに付き、各地の接待準備に関し多大の便宜あるべし。日本実業家中夫人同伴の者多少あるべきにより、各地の婦人は相当の接待を準備されんことを望む。昨年我太平洋沿岸聯合商業会議所代表者が、日本を訪問したる際には、原則として婦人は男子と同様に接待を受けたるも、今回の場合には、各市の委員が日本婦人の接待に関し、最良と思慮する方法に一任するの外なし。
一行が各市に着する前に、一行を指導する米国委員の手元迄、特に
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訪問せんとする都市の接待順序を送付されんことを希望す。我接待委員は、日本の実業家に、米国の物産に関して、充分なる智識を与へんが為めに、米国の委員の方面よりも助言若くは意見を歓迎す。尚ほ必要の場合(又は求めらるるに於ては)各都市に対し、助言又は意見を提出するに躊躇せず。
前述の各都市は、日本専門家と会合すべき各地の専門家の代表者を早急に指名せんことは、極めて望ましきことなり。
我委員の承知する所にては、日本実業家は、渋沢男爵の統御の下に渡米すべしとのことなり。一行の団長としては、渋沢男爵に優る人物ありとも思はれず。蓋し同男爵は数年前米国を訪問し、商業団体に就き親しく研究する所あり、日本の商業会議所の設立を見るに至りたるは、主として同男の勢力に依るやにも聞及べり。
尚ほ玆に一言加ふべきは、日本の商業会議所は、米国の商業会議所よりも、有力有効なるものにして、米国の商業会議所に比し、政府と密接の関係を有するが故に、立法上に於ける商業会議所の勢力は遥かに大なるものなりとす。是れ又吾人の注意に値す。
目下鉄道会社は、日本実業家一行の為に特別時間表を調製しつゝあるに由り、右出来の上は之を各市に配布し、予め発着の時間を通知するを得べし。 敬具
   一九〇九年七月十四日 シヤトルに於て
              接伴準備委員長ブレイン
    第九節 彼我双方に於ける準備(其二)
シヤトル駐在帝国領事は、五月七日付電報を以て、米国政府は内閣会議に於て、我実業家招待の件を極力賛助のことに決定し、並に諸鉄道会社との交渉は総て満足なる結果を得、及び実業家一行は各地巡覧の上、十一月三十日桑港出帆帰朝すべき予定なる旨を報ぜり。
六月八日、田中領事の電報は、米国側に於ては我実業家の一行が、成るべく米国々旗の下に太平洋を横断するを望み、即ち八月十九日横浜出帆、九月二日シヤトル着の汽船ミネソタ号に搭乗せんことを希望する旨、及び六月十一日には、米国側に於ける接待準備著々進行せる旨を報じ、更に我実業家は、米国内到る所にて十分の歓迎を受け、各種の便利を与へらるべきこと、最早疑ふの余地なきこと、及び本件が日米両国の国交通商上に及ぼす利益の極めて大なることを信ずるにより渡米者の人選に十分の注意ありたく、殊に一行の団長たるべきものは経歴名望兼ね備はる人たるべく、而して太平洋沿岸商業会議所は、一般に渋沢男爵が其任に当らんこと、及び渡米実業家は、事情の許す限り、夫人を同伴されんことを、希望し居れる旨を電報し越したり。越えて数日、渋沢男爵は、一行の団長として渡米のことを、中野東京商業会議所会頭亦た渡米のことを承諾し、漸次渡米者の人選決定に至れり。
こゝに困難なる一事は帰朝の時日にして、米国側に於ては我一行をして十一月三十日桑港発帰途に就かしむるの予定なる所、招待に応じて渡米すべき我実業家は、何れも年末取引の都合上、遅くも十一月中に本邦に帰着せざるべからざる都合あるに付、外務大臣は太平洋岸の帝
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国領事に対し、右の事情を関係米国側に説明して、プログラムの変更を要求すべき旨を訓令したるにより、在シヤトル帝国領事は、種々米国側と協議の上、辛うじて一便を繰上げ、十一月二十三日桑港出帆、十二月十日、横浜着のマンチュリヤ号にて帰朝のことに相談を纏めたり。(此日取は一行シヤトル着後の総会にて再変して、当初予定の通り十一月三十日桑港発の事に決定したり、詳細別項に記載する如し)
七月七日、米国側にては、我実業家一行が、日本第一流の教育家一両名を同行することを希望する旨、シヤトル領事より来電あり。
右に対し外務大臣は、七月八日を以て、本邦側に於ては、教育家派遣に対しては、大体に於て之れを承諾し、尚ほ当方の希望として、十分の資格ある新聞経営者一両名を加へたき旨申込ましめたり。
七月九日に至り、田中領事より外務大臣宛七月九日付報告到達す。右に因れば、米国政府に於ても、我実業家一行に、相当なる国務省の官吏と、其他の各省より選抜したる専門家五名を同行せしむべく、尚ほ主人側たる太平洋岸商業会議所より、各一名、即ち総計八名の代表者を選出し、相交代して一行に随伴し、種々斡旋せしむることゝ決定したるを報じ、米国主人側にては、渡米実業家が成るべく夫人を同行することを希望し、而して夫人は必らずしも洋装を要せず、寧ろ和服の方一般に気受け宜しかるべく、随行者は数名を限り差支なき事、尚ほ米国政府より相当の官吏を同行せしむるに就いては、本邦よりも、外務省若くは農商務省より、相当の官吏一両名同行し、諸事を斡旋処理せしむることゝなしたしとの、先方の希望を述べ、尚ほ渡米実業家の小伝、予め送付方を稟請し来れり。
七月十五日に至り、小村外務大臣はシヤトル田中領事を経て、先きに渡米したる東洋通報社の頭本元貞氏に対し、一行がシヤトル到着の時を見計らひ、一行に加はりて、公式演説の起草及び通訳を担当すること、及び同氏は一行中の一人として正賓の待遇を受くる筈なる旨電報したり。前述の通り、一行帰朝の期日に関し、田中領事と外務省との間に、数回の往復を重ねたるも、未だ双方の希望を充たすに足らず。
要するに一行は、十二月に入りては多忙の者多きに付、十一月末までに本邦に帰着するやう、旅程を繰上ぐること、又一行中には紐育に留まり、又は欧洲へ渡航するものあるに付き、正式の接待は紐育を以て結了すべく、又たシヤトル到着の上は、同地より先づ太平洋沿岸を歴遊して、其後東部に向ふやう、日程変更の儀を希望したるも、先方にては既に各地に交渉済みのことなれば、今更之れを変更する事、非常なる困難なるのみならず、尚ほ既に米国に到着したる上は、紐育にて解散することは、種々差支へる事情を申越し、未だ決定に至らざるにより、七月二十三日に至り更に小村外務大臣は、一行の希望として又た最後の要求として、一行中には老人婦人も少なからざれば、数千哩の旅行と日々の歓迎には堪へられざる事情もあるに付、主人側に交渉し、成るべく其旅程を短縮すべき旨、又歴訪各地の商業貿易関係等に就いて参考とすべきことは、各地方管轄帝国領事に於て、予め之れを取調べ置き、一行が各地到着前に、之れを一読し得るやうに手配し置くべき旨、各領事に訓令したり。
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之れに対し、田中領事よりは種々交渉を重ねたるも、若し当方の希望に従へば、沿岸都市中第一に通過するは西北部にして、ロスアンゲレスより直ちに東に向ふことゝなり、ヒル氏の鉄道を経過せざることゝなるべし。然るに今回の計画に最も多大の援助を与へたる者は、ヒル氏及び北太平洋鉄道会社長エリオットの両氏にして、其尽力にてハリマン系統の諸鉄道、及び東部諸鉄道にも交渉を纏め得たるものなれば他の線路は兎も角も、右二線の鉄道を除外する能はず。さりとて、ロスアンゲレスより再び北行して、右の線路を通過し、更に下りてハリマン線に入り、再び北上してシカゴに赴き、更に諸線路を経て紐育に入るが如きは、所謂ジクザク(鋸歯式)の旅行となり、却つて時日を徒費するのみならず、線路の設備も悪きに因り、矢張り予定の通り、西より東に紐育に赴き、更に東より西して、桑港に着するを以て、最も宜しきを得て便利なる行程とす。又た是非とも、此変更をなさんとする時は、更に諸方に交渉するの必要もあり、多大の時日を要し、間に合はざるの虞あるに因つて、途中の道程は凡て他より之れを変更すべからず、若し濫りに之れを省略する時は、米国は地方的観念と、都市的競争の盛んなる国柄とて、甚だ面白からざる結果を生ずべく、殊に米国の真価値は東部に在りて、寧ろ太平洋岸にあらざるを以て、東部を棄て他を観察するとも、実際に於ける効果少なかるべし。因て是非予定線路に由るの外、今日に於ては致方なし。尤も歓迎省略の如き先方に於ても十分に心得居る故、賓客を疲労迷惑せしめざるやうには十分に注意すべきに付き、其辺は安心あるべく、又た医者・従者其他旅行の愉快便利に必要なるものは、出来る丈け便宜随行せしめて差支なき旨を返答し来たれり。此一行に学術的専門家を随行せしむることは、極めて必要にして、又た利益あるべきは、何人も認むる所なるに因り、種々協議の結果、七月二十七日に至り、小村外務大臣は、小松原文部大臣に対し、今回の計画は実に空前の挙にして、我実業家に於ても、此行に因りて、米国実業界に関する精確なる知識を得、且つ日米貿易の増進に裨益する所あるべきは勿論、間接には彼我両国民相互の誤解を解き、国交上にも多大の利益あるべし。明治四十一年以来、米国人民の帝国に対する態度の、著しく良好に赴きたるは、同年中に米国大西洋艦隊が本邦を訪問したる外、尚ほ米国実業家の来朝したる等、預つて力ありと認めらるゝに就いては、米国中央政府が、今回の招待に関し、直接間接に助力を与へ居る事情に鑑み、帝国政府に於ても、今回の実業家渡米を以て、私人の交歓と看做さず、特別の庇護を与へたき希望なる所、米国側に於ては、此機会を利用して、我有力なる実業家の外、特に農業家・教育家各一名を加ふることを懇請し来れり。此請求に応ずるは、啻に先方の希望を満足するのみならず、帝国の為に、有益なる調査を遂ぐる上にも、実に得難きの好機会なりと認む。第一農学者に取つては、米国は世界比類なき農国にして、農業に関する諸般の経営設備、其他之れに関する調査を為すの、大に有益なるは疑なき所なるのみならず、専門家をして米国より本邦に輸出せる綿・小麦に関する調査、並に本邦人が、現に彼の地に於て経営し居るテキサス地方の米作、加州方面の園芸に対して、実地の調査を為さし
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め、今後の発展方法を講ずるは、最も必要なる事とす。而して米国側に於ても、今回は一行の為めに、一切門戸を開放して、叮嚀親切に案内視察を為さしむる計画なれば、平素視察し能はざる方面個所をも、十分に視察研究する事を得べく、一行が社交上に力を尽せる其間に於て、農学者は一行に加はり、十分の研究を遂ぐる事は、最も必要なる事なり。第二教育家に関しては、帝国の国民教育・高等教育、各種の専門教育の過去及び現状を、米国に紹介するは最も必要なることにして、帝国の文明進歩の現状、及其基因する所とを、十分に米国民に周知せしむるに、斯の如き好機会は多かるまじと信ず。尚ほ米国には本邦人の子弟其数少なからず、是等学齢者を如何に教育すべきや、我国民の教育をも実地に攻究して解決を下すべきや言を俟たず。又今回の一行は多数なるを以て、教育家及び農業者各一名の外、専門医師の一行に加はるの必要あるのみならず、帝国の医学を先方に紹介し、且つ米国に於て有益なる調査を為すの便利なるが故に、医学者一名をも派遣せんことを希望する旨、七月二十五日を以て、文部大臣に照会したるに、文部大臣は之に賛成し、其結果東北大学教授農学博士南鷹次郎学習院教授兼東京高等商業学校教授男爵神田乃武及び東京帝国大学医科大学助教授医学士熊谷岱蔵の三氏、派遣を命ぜられたり。
七月二十七日に至り、小村外務大臣は紐育駐在水野総領事に対し、今回渡米する実業家を指導し、各地歓迎交歓に対し、主客双方を満足せしむる為め、同行を命ずるに因り、九月初旬実業家のシヤトル着を待受け、終始同伴旅行すべく、尚ほ一行中には夫人の数少なく、米国側の希望に副ひ難き事情あるに因り、水野夫人をも同伴すべき旨訓令したり。
一行の到着に際し、移民及税関簡易通過の儀は、既に先年米国実業家来朝の際に、我政府に於ても、好意を以て其取計ひをなしたることなれば、今回の一行に対しても、米国側が同様の好意を表し、之れに酬ゆる所あるべきは、相当のことなりと雖も、念の為めに交渉せしめたる所、田中領事より、七月三十日付を以て、右は其筋に於て疾くに承知し居り、適当なる時機に於て、地方官憲に訓示すべく、又右一行の旅行中に於ける汽車中の食事、其他の費用は、総て米国側に於て負担すべく、唯大都会等に於て汽車を去つてホテルに入る時のみ、ホテルの費用其他は、日本実業家側に於て負担することゝ、承知せられたき旨、報告ありたり。
八月八日、小村外務大臣は、在米帝国大使・総領事・領事に宛て、今回の招待は、米国実業家が、昨年来朝の際の歓迎に対する、答礼の趣旨に基づけるものなりと雖も、其本意は、相互通商関係を増進するの途を講ずると共に、日米両国の親交を益々円満にせんとの趣旨に出でたるは疑なき所なれば、我政府此の趣旨を以て民間有力者の渡米を勧誘し、民間に於ても其趣旨を体して応招したる次第なるが故に、在米帝国官吏は、此趣旨を体して、一行の為に便宜斡旋すべき旨を訓令し尚ほ同様趣意を以て、ボストン、聖路易、フィラデルヒア駐在の名誉領事にも訓令を発したり。
八月七日、小村外務大臣は、田中シヤトル領事に対し、水野総領事夫
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妻の実業団に加はる旨を、米国側に公然通知すべく訓令したり。
八月十日、加州の桑港、ロスアンゲレス、オークランド及サンディアゴ四商業会議所の招待状、及び曩きにシヤトル、タコマ、スポケーンポートランド四商業会議所より送り越したる招待状とを合併して、之れに引換ふべき「太平洋沿岸聯合商業会議所」の名を以てせる本招待状東京商業会議所に到着したり。(其成行及び本文は別項に記するが如し)
新聞経営者として一行に加はるべき頭本元貞氏の外に、巌谷季雄氏は我実業家に対する報告・記事、歓迎の模様等を、日々本邦に電報し、東京独立通信社は、此電報を本邦の各新聞及び団員の留守宅に通知すべき準備成る。蓋し我実業団に対する、米国側の熱心なる歓迎模様を本邦に通知し、我新聞紙をして広く之を公衆に伝へ、以て米国の好意に対する我が称賛を、更に米国に反響せしむることは、表謝の方法として最も機宜に適することなるのみならず、其結果は両国民相互の交情を、益々融和円満にするの効能あるべきは疑なき所なるも、頭本氏のみにては、一行に於ける同氏の任務繁劇にして、自から之れを為す能ざるべきに因り、特に一行中の巌谷氏に嘱託し、電報起案の事務に当らしむることゝなれるなり。
    第十節 実業団の成立
団員に就いては、当初より種々の変遷を経て、既に推選の上承諾したる者も、事故の為に出発前辞退するあり、或は当初差支へたる者も事故を差繰りて、渡米することゝなりたる如き、幾多の変動を経たる末結局同行と確定したるもの左の如し。
    渡米実業団員氏名
  (東京)
 第一銀行頭取        男爵    渋沢栄一
                     同 兼子
               随行員   増田明六
               同     高梨タカ子
 東京商業会議所会頭
 東京株式取引所理事長    衆議院議員 中野武営
               随行員   加藤辰弥
 東京商業会議所副会頭
 鐘ケ淵紡績株式会社々長         日比谷平左衛門
               随行員   飯利来作
 東京商業会議所特別議員
 東京電灯株式会社々長    衆議院議員 佐竹作太郎
               随行員   名取和作
 三井物産株式会社取締役         岩原謙三
 東京商業会議所議員
 東武鉄道株式会社々長    衆議院議員 根津嘉一郎
               随行員   上田碩三
 輸出業者堀越商会主           堀越善重郎
                     同 科子
 東京商業会議所議員
 株式仲買商小池合資会社々長       小池国三
               随行員   飯田旗郎
 建築業清水組支配人           原林之助
               随行員   田辺淳吉
 - 第32巻 p.32 -ページ画像 
 東京商業会議所議員絹糸商        町田徳之助
 鐘淵紡績株式会社取締役         高辻奈良造
 東京興農園主              渡瀬寅次郎
 学習院教授兼東京高等商業学校教授 男爵 神田乃武
                     同 熊千代子
 東北帝国大学農科大学教授  農学博士  南鷹次郎
 博文館員早稲田大学講師         巌谷季雄
 東京帝国医科大学病院助手        熊谷岱蔵
  (大阪)
 大阪商業会議所会頭
 大阪電灯株式会社々長          土居通夫
 大阪商業会議所書記長          高石真五郎
 大阪商業会議所特別議員
 大阪商船株式会社々長          中橋徳五郎
               随行員   村田省蔵
 東京硫酸株式会社々長    衆議院議員 大井卜新
 大阪朝日新聞社々員     衆議院議員 石橋為之助
 株式仲買商               岩本栄之助
 大阪商業会議所特別議員   弁護士   松村敏夫
 製糸業                 坂口平兵衛
  (京都)
 京都商業会議所会頭
 商工貯蓄銀行頭取      衆議院議員 西村治兵衛
 京都商業会議所書記長
 洛北水力電気株式会社々長        西池成義
 市立京都陶磁器試験所長         藤江永孝
  (横浜)
 横浜商業会議所会頭
 日本製茶株式会社々長          大谷嘉兵衛
               随行員   亀田行蔵
 横浜商業会議所議員
 左右田銀行頭取             左右田金作
 横浜水道局工師長      工学博士  原竜太
 農商務省生糸検査所々長         紫藤章
  (神戸)
 神戸商業会議所会頭
 株式会社川崎造船所社長         松方幸次郎
 肥料製造業               多木粂次郎
                     同 うの子
 輸出商田村商会主            田村新吉
  (名古屋)
 名古屋商業会議所議員
 株式会社明治銀行頭取          神野金之助
 名古屋商業会議所副会頭
 日本車輛会社取締役           上遠野富之助
 株式会社伊藤銀行取締役         伊藤守松
是に於て東京商業会議所は、便宜上主人役と成り、出発前準備の相談会を其楼上に開き、団員を会合して協議数回を重ね、八月十日を以てまず本団の名称を渡米実業団と定む、こは米国側より命名せるものを本として、之を意訳せるものなり。
団称已に定まる、次で起れるは団の徽章問題なり。即ち其図案及び鋳造方を東京高等工業学校に依頼せしに、同校は恰も暑中休暇中なるに拘らず、某教授専ら之を担任して製作し、日米両国の親交を表して、
 - 第32巻 p.33 -ページ画像 
特別の徽章を製作し、出発の当日は団員悉く之れを佩用し、渡米の後も団員は勿論、米国の接伴委員、其他各地に於て歓迎せる米国官民の重なる者に贈与する事となせり。かくて一行の出発は、米国側の希望にまかせ、八月十九日、大北汽船会社汽船ミネソタ号に便乗して、横浜出発の事と定め、団員は一応東京に集合し、同時に出発する事となれるに付きては、多数の見送り人あるべきを以て、東京商業会議所は予め鉄道院に交渉し、当日は九時三十分新橋発、一二等六百余人を運搬するに足る特別列車を横浜まで運転することを依頼したるに、鉄道院は快く之れを容れたり。


東京商業会議所月報 第二巻第五号明治四二年五月 米国商業会議所の本邦五商業会議所議員招待(DK320001k-0007)
第32巻 p.33-34 ページ画像

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東京商業会議所月報 第二巻第六号明治四二年六月 米国商業会議所の本邦五商業会議所議員招待(DK320001k-0008)
第32巻 p.34-35 ページ画像

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東京商業会議所月報 第二巻第八号明治四二年八月 米国太平洋沿岸聯合商業会議所の招待状(DK320001k-0009)
第32巻 p.35-36 ページ画像

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東京商業会議所月報 第二巻第八号明治四二年八月 臨時総会(DK320001k-0010)
第32巻 p.36 ページ画像

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渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第六〇五―六一八頁明治四三年一〇月刊(DK320001k-0011)
第32巻 p.37-40 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第六〇五―六一八頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 第九章 雑件
    第一節 水野総領事同行の件
八月二十一日、小村外務大臣は在米国帝国領事に対し、水野総領事夫妻が特に一行と終始同伴するの外、各地領事も其管轄区域内を一行と同行、便宜を取計ふべき旨訓令したり。
然るに同総領事は、九月二十五日より一週間紐育に於て挙行さるべきハドソン・フルトン祭典、及び公然の御資格を以つて之れに御参列あるべき久邇宮邦彦王殿下に関する用向を以て、九月二十三日ミルヲーキーにて一行を去り、追つて右の公務結了後、再び一行に会すべき予定なりし所、シヤトルにて同官を一行の幹事長に依頼したる以来、種種の事務上に関係ある同官が一行を去ることは、非常の不便を来すべきに因り、九月二十日ミネアポリス滞在中、渋沢団長より小村外務大臣に宛て、「水野総領事は久邇宮御用の為め、一時帰任の必要ある由なるも、目下内外の関係上、同官の一行より離るゝことは甚だ差支へあるに因り、紐育の方は何人かに代らしめ、同官は終始一行に随伴するやう取計はれたし」と電請し、一方に於ては、委員長ローマン氏が祭典委員長ウードフォード将軍と、旧知の間柄なるを以て、同氏より同将軍に宛て、現在の事情を述べ、「我太平洋沿岸聯合商業会議所の招待に係る六十余名の日本実業団員は、水野総領事が引続き一行に随伴せんことを切望す。然るに同氏は、ハドソン祭典中、久邇宮殿下に御附き申上ぐることを貴下と約束せし由にて、未だ之れを承諾するに至らず、希くは予等の希望通り、同氏をして貴下に対する此約束の義務を免除せられんことを請ふ。」と電報したる所、二十二日に至り、在紐育ウードフォード将軍より、固より日本の利益とあらば、毫も異存なき旨返電し来たれり。小村外務大臣よりは、水野総領事に対し、「久邇宮殿下に対する任務は、松井代理大使其職に当るを以て、紐育に於ける外国人側に関する都合さへ差支なくば、引続き実業家一行に随伴すべきを望む。意見如何」と来電ありたるに因り、同官よりウードフォード氏の電報の趣とを回電し、遂に同官は一行と終始同行することゝなりたり。
    第二節 名古屋商業会議所代表者渡米の件
明治四十一年の秋米国実業家が渡来したる時は、東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所主人となり、之れが接待の任に当りたるを以て、今回太平洋沿岸聯合商業会議所よりの招待も、亦以上の五会議所に宛てたるなり、然るに名古屋商業会議所の代表者が、渡米するに至りたるに就いては、世間多少の疑惑を懐く者少なからざるが如きを以て、玆に其事情を録することは、長へに相互の誤解を防ぐ途たるべしと信ず。
初め米国よりの正式招待状到着せざる前、今回の招待の件に就いて、既に電報を以て通知を受けたる際、至急準備に取掛るの必要あり、四月十二日、外務大臣は官邸に於いて渋沢男爵・中野会頭、其他京浜間の実業家二十余名を招待し、渡米実業家十五名の振り分け方其他を議し、結局正賓十五名、内東京は四名を、大阪は三名を、横浜・京都・神
 - 第32巻 p.38 -ページ画像 
戸・名古屋は各二名を選出することに協議を纏めたる末、此趣意を以て各関係府県知事に訓令する所ありたり。随つて愛知県知事は、其管下より二名の正賓を選出するやう尽力し、候補者を内定し、其承諾を得て報告したるなり。
然るに其後到着せる正式招待状を見るに、前年米国側を招待したる我五商業会議所のみに宛てたるものにして、名古屋は之れに加はらざるを以て、外務大臣は在シヤトル領事を経て、米国接待委員長に対し、名古屋商業会議所を招待に追加することを交渉するの趣意を以て、渋沢団長及び中野委員長に協議を遂げ、其旨七月三十日を以て、田中領事に訓電したり。即ち最初米国よりの招待は、単に我著名なる実業家とのみありたるを以て、帝国政府は名古屋市にも二名の実業家選出を命じたるに、其後到著したる正式招待状には、名古屋をば加へざりしも、名古屋は三府に次ぐの大都市にして、殊に米国貿易には重大なる関係を有する地なれば、之を加ふるは必要なりとして、乃ち其交渉を為すべき旨を訓令し、且つ之を招待に加ふるが為めに、渡米人員の予定を超過するなかるべき旨を通告したり。
之れに対して田中シヤトル領事は、折返し七月三十一日附を以て、今回の招待状に名古屋を加へざりし米国側の趣旨は、昨年日本よりの招待に名古屋が加はり居らざりしが為めにして、右は形式上の問題に過ぎず。米国側の希望は、招待の区域を東京以下五商業会議所に限るの意味毛頭これなく、要は商業会議所の推選に因り、日本全国の有力なる代表的実業家三十名の渡米を望むに外ならざるを以て、名古屋の如き有力なる大都府より代表者を送らるゝことは、米国側に於ても切望する次第なるのみならず、若し名古屋以外に於ても帝国政府に於て適当と認むる都市あらば、是れ亦代表者を送られんことを希望する旨回答あり。結局形式を満足せしむる為め、名古屋商業会議所へも、更に特別招待状を米国側より発送すべきことに決定したるも、右は郵送の余日なきを以て、予じめ之れを準備し置き、実業家の一行がシヤトル著の際、名古屋選出の実業家に交附するやう協定済となれり。
○中略
    第四節 ローマン夫人に関する件
今回の旅行中、一行に附随すべき米国委員側に於ては、我一行の夫人の外一切夫人を同伴せざることに決定したるも、ローマン氏の如き終始三個月間一行と旅行すべく、而かも留守宅に別段の用事あるにあらず、又子供もなき人の夫人にとりては、甚しく苦痛なるべしと思はるる所、ローマン夫人はスポケーン辺迄も、一行の列車と別の列車にて一行の行先々々に来り居るを認めたるに因り、団員は深くローマン氏及同夫人の心中を察し、同夫人をして一行の夫人連の世話役たらしめ終始一行と同行せしめんことを案出し、団長よりローマン氏に談じたる所、米国委員夫人同伴拒絶は当初よりの決議に基くものにして、今更例外を設くる儀は到底承諾し難き旨、一応の返事ありたるを以て、シヤトル商業会議所書記長ヤンダル氏と相談の上、スポケーン滞在中九月十三日付を以て、渋沢団長よりローマン氏に対し、
 「我一行の日本婦人に代はり、ローマン夫人が終始実業団婦人と共
 - 第32巻 p.39 -ページ画像 
に旅行するやう勧誘されたし。其理由は、我婦人等は異境にありて未知の境に入り生面の人に接し、風俗・習慣等全然本国と異るを以て、此際若し亜米利加婦人にして助言者となり、朋友となりて助力するものあるは、尤も望ましき所にして、其結果我婦人は、更に十分なる観察を為し得べく、其旅行も亦一層有益なるべしと思はる。今日迄の経験に因るも、男子連が特別の予定に依り行動する間、婦人連は単独の行動を執らざるべからざる場合もありたるに付き、一層其必要を感ずるに至れり。ローマン夫人の如き、日本を訪問し、日本の事情に通じ、一行の婦人と旧知の関係を有する如き人は、此際最も重要なる助言者なりと認めらる。同夫人の仏語を解するは、予をして多大の便宜を感ぜしむ。尤も貴下及夫人の都合は、如何あるべきや承知せざるを以て、強ひて家族的御計画を齟齬せしむるが如きことを提議するの趣意には之れなきも、若し事情にして許し得べくんば、我一行男女の今回の旅行を、成るべく丈け有益に又愉快ならしむる為めには、必要なる手段を惜むべからざる儀と考へたるに因り、爰に此提議をなす次第なり。云々」
と申入れたる所、同日ローマン氏より、
 「御好意ある提議を深く感謝す。若し事情にして許し得べくんば、是非御来意に叶ひたき本意なるも、玆に二個の理由ありて其意を果たすを得ず。第一の理由は、荊妻の健康は、此際御一行の婦人連が列席さるゝ総ての儀式・接待等に参列する程に健全ならざること。第二の理由は、更に重要なるものにして、当初太平洋沿岸聯合商業会議所の一会員が、該商業会議所の代表者として、我一行と旅行するの選任を受けたる時、其の夫人をも同伴旅行したき旨を要求したれども、特別準備委員会は、種々考慮の末、之を拒絶したる結果、遂に該委員は、接待委員として一行と同行することを辞するに至りたる事実あり、旁以て今回の提議が、一行の日本側より出でたることは、余の深く感銘する所なるにも拘らず、未だ御提議を肯諾するに由なき次第なるは、甚だ遺憾とする所に有之候、云々」
と申越たり。因つて、即日更に渋沢男の名を以て、特別列車に乗組める太平洋岸聯合各商業会議所の代表者八名に宛てゝ一書を寄せ、本件に関し、ローマン氏と往復の始末を略述し、尚ほ
 「ローマン氏が本件に関し、斯る回答を為すに至りたる公平無私の観念は、極めて感佩に堪へざる所なれども、今一回愚見を貴下等に披陳し度候。即ちローマン氏が拒絶の第一の理由は、同夫人の健康は、未だ我婦人連と同様に種々の儀式・饗宴等に参列する能はずと云ふにあるも、一行の夫人中には、ローマン夫人よりも更に健康の勝れざる者もあり。ローマン夫人にして堪へざる程の繁劇なる社交の義務は、一行の夫人の到底之に堪ゆべくもあらざる次第に候。次にローマン氏の挙げたる第二の理由は、無論重もなるものに相違なきも、今回の提議と其前例(即ち某商業会議所の一員にして、夫人同伴を拒まれたる事例)との間には、甚大の差異あることを注意せざるべからず。ローマン氏の挙げたる事例は、該委員が其妻の為めになしたる要求なれども、今回はローマン氏若くはローマン夫人よ
 - 第32巻 p.40 -ページ画像 
り、何等の要求若くは希望を述べたるにあらず。下名は一行男女の利益の為めに一行に代つて、ローマン夫人の同伴を要求するものなれば、両者の間に非常なる相違あることを御注意あり度、就いては貴下等に於て、ローマン氏にして本件に対し、尚ほ再考せしむるやう勧誘あらんことを希望す。云々」
と申送りたる所、聯合商業会議所代表者(タコマのハイド氏、ロスアンゲレスのオスボーン氏、スポケーンのモーア氏、桑港のストールマン氏、ポートランドのクラーク氏)は即日列車内に会議を開きたる末当方よりの書翰に対し、我要求及提議の至極道理あることを認め、満場一致を以て次の如き一書をローマン氏に宛て、本件に対し賛成の意を述べたる旨、渋沢団長へ通知し越したり。
 「太平洋岸聯合商業会議所の代表者は、ローマン氏が其夫人の一行に随伴することを承諾せざる理由は、氏の謹慎正直なる面目を発輝するものにして、感服に堪へざる所なるも、渋沢男の提出したる理由は、之を弁駁するの余地なきものにして、現に一行中には六人の日本婦人あり、米国とは風俗を異にし、多数は英語をも解せざるものなれば、若し今回の日本よりの賓客をして、商工業以上に関する調査に対し、充分の便宜を得せしめんとせば、勢ひ教育あり識見あり、且つ日本婦人の生活状態及希望等を熟知せるローマン夫人の如き人をして、一行に随伴せしむることは、今回の大旅行の成功に対し必要なりと信ず。殊に希望が日本側より出でたる点を鑑み、太平洋岸聯合商業会議所代表者は、渋沢男及団員の希望に満腔の賛成を表し、ローマン夫人が一行に随伴せらるゝやう取計はれたく、ローマン氏が本件に関する異議を撤回せられんことを希望す。」
との旨を述べたり、本件は斯くの如くにして、遂にローマン氏の承諾を得たるも、ローマン夫人の方に家事の事情ありて、即時一行に随伴する能はず、一応シヤトルに引返し、家事整理の上デトロイドにて一行と会合し、ボストン迄随伴したるも、主人側委員中に何か複雑したる事情ありしと見へ、一行がボストン滞在中、ローマン夫人は又一行を辞し去りたり。



〔参考〕(八十島親徳)日録 明治四二年(DK320001k-0012)
第32巻 p.40-42 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治四二年 (八十島親義氏所蔵)
六月二十一日 雨
例刻出勤、今日男爵ノ実業上ノ功績表彰ノ計画ノ為協議会ニ出席シタル実業家十数名(但其企ハ男爵此度ノ事ハ兼職辞任ニ止マリ、全然タル実業界退隠ニハ非ルヲ以テ、未其時機ニ非ス、故ニ延期トス、但辞任セラレタル各会社ヨリ相当ノ謝礼ヲ表スル事ハ、別々ノ思案ニヨル事トスヘキ旨決セリト)ノ代表トシテ千家・高橋是清・中野三氏来診男爵老後《(訪)》ノ思出ニ是非此度ノ米国商業会議所ヨリノ招待ニ応シ、渡米隊ノ統率者タラン事ヲ希望スル旨申出ラレシ由ニテ、男爵ハ愈々之ヲ受諾セラレタリト
○下略
六月二十三日 曇雨
朝出勤ス、此度五商業会議所ニ対シ米国太平洋沿岸商業会所ヨリノ招
 - 第32巻 p.41 -ページ画像 
待アリタルニツイテ、渡米者人選容易ニ定マラズ、一昨廿一日市内重ナル実業家ガ帝国ホテルニ会シテ、男爵諸会社引退ニ付功労表彰ノ為大銅像又ハ紀念公会堂ノ類建設ノ相談会ヲ開カレシ際、右ハ男爵尚第一銀行頭取トシテ専任シ、老ヒタルモ尚有為ノ未来ヲ有セラルヽ事故此際カヽル計画ハ時機尚早也、引退各会社ハ宜シク銘々感謝ノ意ヲ表スヘキモノナリト決セシモ、此度ノ米国ノ招待ニ対シテハ、老体御迷惑乍ラ男爵ニ卒先応諾ヲ乞フ事ニ申合ハセアリ、直ニ右十数人ノ総代トシテ高橋男・千家男及中野会頭来訪、懇談アリシニツキ男爵ハ快諾セラレシ由、蓋従来モ外務省辺ヨリ勧誘アリシニ対シ、決答ヲ与ヘラレサリシガ、市内重ナル実業家一統ノ懇請トイウ点ニ重キヲ置カレシナランカ
○下略
六月廿四日 濛雨
○上略
夜竜門社評議員会ヲ開ク(兜町ニテ)○中略 青淵先生ヨリ○中略渡米決意ノ事ニ付一同ヘ披露ノ演説アリ○下略
   ○中略。
六月三十日 晴夕ヨリ雨
○上略夕兜町ニテ同族会開催○中略 男爵渡米決定ノ旨報告、又予随行ノ事モ改メテ申渡サル
○下略
   ○中略。
七月六日 曇
○上略
堀越善重郎氏夫妻モ、男爵ノ推薦ニ依リ、米国行ノ行ニ加ハル事ニ決ス○下略
   ○中略。
七月八日 雨
朝王子ニ至ル、堀越夫妻ト会シ、渡米着衣其他打合ノ為也、婦人ハスベテ盛装ノ場合ハ日本服着用、道中着ニノミ洋服ヲ用フル事ニ決ス
○下略
   ○中略。
七月廿四日 晴暑
○上略 出勤後、昼商業会議所ニ至リ、渡米団相談会ニ臨ム、予ハ実ニ渋男ノ随員ナルモ、中野・大橋両氏等ノ好意ニテ、表面上ハ特別調査委員ノ一員ニ加ハル事トナル
○下略
七月二十六日 晴 炎暑九十度
○上略 今朝橋本左武郎氏(佐藤氏ト相談ノ上)ヲ訪ヒ診察ヲ受ク○中略
偖胸部診察ノ結果、橋本氏ノ診断ハ如左
○中略
一右ノ次第ナル上ニ、胃弱ノ症状ヲ有スル身体ナレバ、此度ノ渡米ハ絶対ニ諫止スルモノナリ
○中略
 - 第32巻 p.42 -ページ画像 
種々ノ質問ヲ為セシガ○中略 医士トシテハ断乎トシテ渡米ニ反対也トノ事
○中略
正午内幸町ニ佐藤敏夫氏ヲ訪ヒ、一面親戚トシテ、一面医師トシテ、予ノ進退ヲ相談ス、橋本氏ヨリ已ニ電話ニテ話アリシ由、九分九厘已ニ決心シタル予ハ、愈十分ニ決意ヲ為セリ
○中略
篤二殿牛込訪問ヨリ帰邸ノ時刻ヲ聞キ合ハセ、午后十時過綱町邸ニ至リ、面会ノ上一部四什《(始終)》ヲ話シテ了察ヲ乞ヒ、渡米随行辞退ノ取成ヲ乞ヒタリシニ、流石ハ事理ニ通セラレシ人トテ、第一ニ予ノ身体ヲ憂ヒラレ、一モ二モナク呑ミ込ミテ、委細父上ニ取次ガン、必スヤ是又快諾アルベシ、何様大切ノ事故、十二分ニ保養肝腎也トテ大ニ同情ヲ寄セラル○下略
七月二十七日 晴 九十度
○上略
午後篤二殿ヨリ電話アリ、男爵ハ予ノ辞退、事情無拠モノト認メ快諾増田明六ヲ召連レラルヽ事ニ決スト、之ニテ一安心セリ○中略 必要ノ個処ヘハ慢性胃腸カタルノ為、医戒ニヨリ随行辞退ノ旨ヲ披露ス



〔参考〕東京日日新聞 第一一六四六号明治四二年五月一五日 渡米すべき実業家(DK320001k-0013)
第32巻 p.42 ページ画像

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〔参考〕中外商業新報 第八三一三号明治四二年六月二〇日 ○渋沢男と渡米 赤毛布師団は斥くべし(DK320001k-0014)
第32巻 p.42-43 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第一一六八四号明治四二年六月二二日 渋沢男爵功績彰表相談会 渡米実業家隊に就ての懇請(DK320001k-0015)
第32巻 p.43 ページ画像

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〔参考〕時事新報 第九二五七号明治四二年七月七日 実業家渡米期 八月十九日横浜出帆(DK320001k-0016)
第32巻 p.43-44 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第一一七一五号明治四二年七月二三日 渡米団打合会(DK320001k-0017)
第32巻 p.44 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第一一七一九号明治四二年七月二七日 京浜渡米実業家確定(DK320001k-0018)
第32巻 p.44 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第一一七三〇号明治四二年八月七日 渡米実業家決定 米国会議所へ通牒(DK320001k-0019)
第32巻 p.44-45 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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〔参考〕東京日日新聞 第一一七三五号明治四二年八月一二日 渡米団打合会(DK320001k-0020)
第32巻 p.45 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第一一七三五号明治四二年八月一二日 渡米団懇親会(DK320001k-0021)
第32巻 p.45-46 ページ画像

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〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第五五―五七頁昭和七年二月刊(DK320001k-0022)
第32巻 p.46-47 ページ画像

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