デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.47-53(DK320002k) ページ画像

明治42年8月4日(1909年)

是日、東京銀行集会所等四団体主催ノ渡米送別会、丸ノ内東京銀行集会所ニ催サル。総代豊川良平ノ送別ノ辞ニ対シテ栄一答辞ヲ述ブ。次イデ九日東京商業会議所主催送別会、日本銀行総裁松尾臣善主催送別会、十二日外務大臣小村寿太郎主催送別会、十四日大倉喜八郎他数人ノ発起ニヨル送別会、十五日日本貿易協会及ビ日本工業協会主催送別会、十六日内閣総理大臣桂太郎主催送別会開カレ、栄一之等ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK320002k-0001)
第32巻 p.47-48 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四二年 (渋沢子爵家所蔵)
八月四日 曇又雨 暑
○上略 午後六時銀行倶楽部ニ抵リテ、各団体ノ催ニ係ル送別会ニ出席ス豊川良平氏ヨリ挨拶アリタルニヨリ、一場ノ謝詞ヲ述ヘ、後立食ヲ共ニシ、食後種々ノ談話ヲ為シ、夜十時帰宿ス
   ○中略。
八月十二日 晴 暑
○上略 午後五時小村外務大臣官舎ニ抵リ、渡米実業団全体ノ送別会ニ臨席ス、大臣ヨリ政事・経済ニ関スル懇切ナル訓示演説アリ、後来賓ノ代表者トシテ一場ノ挨拶ヲ述ヘ、夫ヨリ洋食ノ夜飧アリ、夜九時過散会○下略
   ○中略。
八月十四日 晴 暑
○上略 午後五時日本橋倶楽部ニ抵リ、各実業界ノ親友ヨリ催サレタル送別会ニ出席ス、種々ノ余興アリ、食卓上大倉氏ヨリ送別ノ辞アリ、依テ其答辞ヲ述ヘ、夜十時宴散シテ帰宿ス、此夜兼子・愛子等モ同伴ス
八月十五日 曇 暑
○上略 午飧畢テ小石川大六天《(第)》ニ抵リ、徳川公爵○慶喜ニ謁シ渡米ノ告別ヲ為ス、又早稲田ニ大隈伯ヲ訪ヒ告別シ、且種々ノ談話ヲ為ス、又千駄ケ谷ニ徳川公爵○家達ヲ訪ヒ告別シ○中略午後五時ヨリ田町浅野氏ニ抵リ工業協会・貿易協会二団体ヨリノ送別会ニ出席ス、食卓上ニ金子・池
 - 第32巻 p.48 -ページ画像 
田氏等ノ演説アリ、依テ其答辞ヲ為シ、夜九時半散会ス○下略
八月十六日 晴 暑
○上略 十二時桂総理大臣官舎ニ抵リ午飧会ニ列ス、小村・大浦二氏参会ス、中野・土居・西村・大谷氏等来会ス、畢テ桂大臣・小村大臣等ヨリ種々ノ談話アリ○下略
   ○八月九日ノ日記ヲ欠ク。


銀行通信録 第四八巻第二八七号・第三四四―三四五頁明治四二年九月 渋沢・佐竹・園田三氏送迎会(DK320002k-0002)
第32巻 p.48 ページ画像

銀行通信録 第四八巻第二八七号・第三四四―三四五頁明治四二年九月
    ○渋沢・佐竹・園田三氏送迎会
東京銀行集会所・東京交換所・東京興信所及銀行倶楽部の四団体にては、八月四日午後六時より、今般北米合衆国太平洋沿岸商業会議所の招待に応じ同国へ渡航せらるべき渋沢男爵・佐竹作太郎両氏、並に過般欧洲より帰朝せられたる園田孝吉氏を東京銀行集会所に招待して、聯合送迎会を開きたり、然るに当日園田氏は折悪しく病気の為め出席なかりしも、渋沢・佐竹の両氏は繰合せ出席あり、其他主人側出席者八十余名にして、定刻に至り一同席定まるや、総代豊川良平氏起て送迎の辞を述べ、之に対し渋沢・佐竹両氏の答辞あり、夫より別室に於て立食に移り、宴酣なる頃会員千阪高雅氏の発声にて、渋沢・佐竹両氏の万歳を祝し、更に渋沢男爵の発声にて四団体の万歳を唱へ、斯くて一同歓談の上、午後九時散会せり


銀行通信録 第四八巻第二八七号・第三一七―三二二頁明治四二年九月 渋沢・佐竹・園田三氏送迎会演説(八月四日東京銀行集会所に於て)(DK320002k-0003)
第32巻 p.48-51 ページ画像

銀行通信録 第四八巻第二八七号・第三一七―三二二頁明治四二年九月
    ○渋沢・佐竹・園田三氏送迎会演説
             (八月四日東京銀行集会所に於て)
      ○豊川良平君の挨拶○略ス
      ○渋沢男爵の答辞
会長及会員諸君、今度私が亜米利加へ旅行を致すに付きまして、当集会所・手形交換所・銀行倶楽部・興信所等の諸団体が御申合せ下さいまして、御送別の宴を開かれましたのは感謝の至りに堪えませぬのでございます
只今皆様を御代表で、豊川君から至て御親切な、深く私を御察し下された御送別の言葉を下されましてございます、如何にもモウ七十の老年でございまして、殊に不幸にして英語は解しませぬし、斯る身で自ら図らず今般の旅行に、仮令強て勧められるとも、応ずるは頗る突飛な事柄と、自身も今尚躊躇致して居るのでございます、殊に従来は本業は銀行でございますけれども、併せて各種の事業にも関係して居りました、追々身体も弱つて参りまするし、何時までもさう限りない各種の雑務に関係致すまでもなからうと心附きまして、当年総ての事務を御断りして、唯最初経営しました銀行だけの一途に止めて、どうぞ過ち少なからんことを、孜々として心懸けて居ります際でございますから、斯様な旅行などは殆ど為し能はぬと思ひましたで、種々なる方面からの御勧め又は要求も受けましたれども、意を決し能はなかつたのであります、さりながら昨年米国の実業家を日本へ御招きしたといふことも、或は一時の出来心と云ふやうなこともあつたかも知れませ
 - 第32巻 p.49 -ページ画像 
ぬけれども、此太平洋を隔てゝ東西にある両国の間は、行末益々関係は深くなるであらう、関係が深くなると同時に、或点からは交情の阻隔を惹起さぬとも限らぬ、故に事を好む者は種々な揣摩臆測を為しつつある今日でございますから、五十年の昔、コンモドル・ペリーが我長夜の眠を覚して呉れたとか、閉してある桃源の戸を解いて呉れたとかいふことに付ては、我国民が押なべて同国の厚情を喜んで居る次第でありますけれども、唯それだけを以て、何時までも両国の交情を持続することは出来ぬ、此間に倍々交情を温めて行く必要は必ずあるでございませう、畢竟昨年米国商業会議所の人々を日本に御招きしたといふことも、聊か其意を含みましたことでありませう、又参られた米国の人々も其処らのことを意味して参られた、其結果は頗る好都合で先方も大に満足をされて、再び彼の地の企となつて、今度は日本の同位置に在る人を是非彼地へ招かふと云ふ場合に至つたといふことでございますれば、何れどの筋からか相当な顔触の御人々が罷越して、大なる働きを為し得られぬでも、向ふの厚い情に報ゆるだけのことは是非なければならぬと、自身等は深く感じましたのでございます、素より私などは事情にも通ぜず、言葉も解らず、果して其位置に立ち得るとは思ひませぬけれども、段々様子を拝見しますると、奮つて行くといふ御方が寧ろ少く、彼も行かず、是も厭やたといふやうな事態に見へまする為めに、遂に先々月でございましたか、平生御親みを厚うして居る数十の御方の御会合席で、誰ぞ年寄株を見出すやうにしたいと色々御相談のあつた結果、結局千家・高橋・中野の三君が其会合の総代として是非渋沢に此労を取ることにして貰ひたい、一同の希望はさう決したから、どうぞ厭やと言はぬで呉れといふことの御談じを蒙りまして、其以前から私は外務大臣・大蔵大臣あたりから、チヨツトお誘ひ言薬を頂戴しましたけれども、前に申す理由から実は御免を蒙る考で居りましたけれども、今申上げました如くに、極く親しい方々の御請求を受けて見ますと、実は反対にさう云ふ方々こそ適当な御顔触であるのに私だけを御責めなさるのは御無理のやうであると、斯う考へましたけれども、最早其席に於て相譲るといふことは既に晩しと考へましたから、モウさう云ふ訳なれば不肖ながら身体が続きましたら必らず御引受を致しませう、追々年も取りましたし、余り健康でもございませぬから、若し病気の為に果すことが出来なかつたら、是は平に御宥を願ひますると、御請をしました次第でございます、其以後段段向ふの招待の模様を聴きますると云ふと、思ふたより此の旅行は困難と存じまする、概略道順を申しますると、先づ十九日に出立として九月二日にシアトルへ着して、シアトルの近辺からポートランド、タコマ、スポーケン等を経て、それから段々東部へ行つて、紐育・費府華盛頓より、中央部を又西へ戻つて参りまして、最初の申込であると十一月三十日迄旅行の筈でありましたが、再応掛合つた結果少し日を繰上げて、十一月二十三日に桑港へ帰ることになつて居ります、それで廻ります場所が、四十六箇所ほどございまして、其日数が七十幾日多くは汽車生活をやれといふやうに見えまするのです、先づ遊山といふことでございますと、一汽車遅れても此方の都合でといふ所に楽が
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ある、昔風の旅でありますと、馬に任せて行くといふ筆法で、一向時を定めぬのが旅行の一番愉快なり便利とする所である、然るに今度の旅行は、最初からチヤンと割付られて、さうして其日の休息は汽車の中でする、勿論汽車の設備も日本より好いでありませう、或は特別の車を出して呉れるかも知れぬ、けれども併し如何に我々が自ら奉ずるの卑きにして見た所が、汽車の中で七十日旅をして、さうして各地を廻らなければならぬ、其上に出まする場所は、総て言葉の通ぜぬ、情意の通はぬ人に、唯々無暗に手を振つて、此方の産物は斯うだ、此機械は斯うなつて居るから見い、ヘイ畏りましたと云ふて、先づ順送りに廻つて歩きますのですから、卑い言葉で申すと、何だか興行師に猿芝居が買はれて宿次に打つて歩いて、十一月の三十日にならなければ年期が明かぬといふ位置に立つたと言はんならぬやうな有様でございます(笑)、幾らか此行程を変更しやうといふ事を考へて、数回外務省に打合せをして電報を掛けましたけれども、ナカナカシアトルが振出し元で、此企をしました亜米利加の委員長は先頃参りましたブレーン氏とドールマン氏、此二人ばかりであるか、或は其他の人も加つて居るか知らぬが、ナカナカ吾々の請求を容れない、どうも各地とも相当の引合をして段々評議の末斯の如く定つたのだから、動かすことは出来ない、何んでも斯でも此方の希望に応じて呉れ、其代り休日は息ませるからさう思へ(笑)、以て此の旅行は楽でないといふことの御察しを願ひたい(拍手)、左様に苦しんで七十余日を経過しましても、実に前申す如く事情を知らぬ、言葉の通ぜぬ私、決して自分としては大なる功能を其間に顕はすことは出来ないと考へます、併し我々一行は総計では四十六人ばかりでございます、但し従者も加へて――其中には実業家も大分ございます、是は決して私如き者でないので、私が左様に功能がないからと云ふて此一行が功能がないといふことは決して申されませぬ、此一行を押纏めて行つたならば、或は日本を代表し得るだけの力があると申上げられるかも知れぬ、どうか私の無能を以て一行が至て卑い、功能が無いものだといふ御解釈はないやうに致したい但し銀行として皆様が私を斯様に後押をして下さるのは、長い間の御同業の関係に因ることで、実に御好意辱けない、私は此諸君の後押に依つて、我行を盛にすることが出来、彼の地に参つて、今日日本の銀行は仮令中途より豹変して、より善くなつたと申しましても、又自分も善くなつたと思ひますけれども、其源を質せば亜米利加が根本でございます、明治五年八月何日でございましたか、亜米利加の制度に依つて銀行条例が発布されたのでございます、其先祖とも申すべき国の銀行状態を観察して参りますのは、多少趣味があらうと思ふ、況や此の如く多数の御方が、十分行つて調べて来い、手形の交換はどう云ふ有様か、興信所の仕組はどうなつて居るかといふやうな廉々を、相当な地方に付て十分観察して参れといふことは、仮令其御言葉がございませぬでも、出来るだけは調べて参る考でございます、私自身は功能が無いのは前述の通りでございますが、他の方面に於ては幸に、実地に精しい、教育にも、農業にも、或は工業にも相当な顔触の人が皆此一行に加はりますから、詰る所、どうぞ此団体に依て両国の交情を益
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益温め得るやうに、又一方には追々に情意の通ずるに依つて、事情の近くなる程、或場合には又利害の衝突を来さぬとも申されぬので、例へば支那に対する日本の希望と亜米利加の望みとは、必ず同じ道行を為すとしますれば、是等の事に付ても深く考へて、成るべく其間の衝突を避けるといふことは心懸けねばならぬと思ひます、是等の点に付ては心を用ゐて彼等の希望はどの辺である、之に対する吾々はどう覚悟して宜からう、といふことは、解せぬながらも一部の観察が出来ますれば、必ず帰朝の上諸君に申上げることは怠りませぬ所存でございます、詰り今度の旅行は前に申しまする通り、私一身としては殆どモウ之が老後の奉公仕舞ぐらゐに思ふので、私は此間から始終申して居るのは、丁度私は天保時代の生れですから、規則立つた教育も受けず兵役などゝいふことも、百姓ですから時々領主の夫役に使はれたと云ふことはありますけれども、一向国に対する義務などゝして勤めたことはなかつたので、今度七十になつて初めて徴兵に取られた(笑)、年限は三箇月、志願徴兵だから、歳月は甚だ短い、十二月になると隊を出て戻つて呉る《(マヽ)》、斯う云ふ訳で彼方に参る積りであります(笑)、一言御挨拶を申上げます(拍手)
      ○佐竹作太郎君の答辞 ○略ス


竜門雑誌 第二五五号・第四四―四七頁明治四二年八月 ○送別会彙報(DK320002k-0004)
第32巻 p.51-53 ページ画像

竜門雑誌 第二五五号・第四四―四七頁明治四二年八月
    ○送別会彙報
 青淵先生が八月四日以後各処の送別会に臨まれたる概要は左の如し
○銀行倶楽部送別会○前掲ニツキ略ス
○東京商業会議所の別宴 東京商業会議所会員諸君は、青淵先生一行の為め八月九日亀清楼に於て鄭重なる祖道の宴を開かれたり
○松尾男爵の送別 日本銀行総裁松尾男爵は、青淵先生の為めに、八月九日特に北新堀の日本銀行舎宅に於て鄭重なる送別の宴を催さる
○外務大臣の祝宴 外務大臣小村伯爵は、青淵先生一行の為め、十二日夜其官舎に於て送別会を催し、慇懃なる挨拶ありしよし
○日本橋倶楽部の送別会 日本橋倶楽部員大倉喜八郎・古河虎之助・浅野総一郎・佐々木勇之助・大橋新太郎・柿沼谷蔵・梅浦精一其他の諸君発起と為り、青淵先生並に令夫人を主賓とし、十四日午後六時より日本橋倶楽部に於て送別会を開きたり、主人側代表者大倉喜八郎氏の別辞に対する青淵先生の謝辞なりとて中外商業の報ずる所左の如し
      青淵先生の謝辞
 会長並に会員諸君、今夕予等今回米国に渡航するを祝し、斯かる盛大なる送別会を開かれたるは、一行に取り誠に恐縮の至なり、只今大倉君が諸君を代表して述べられたる御丁寧なる送別の辞に於て、殊に予の身に付き一言を添へ、頗る溢美を極められたるは、敢て当らざる所にして恐縮に堪へず、今回彼国の我々を迎ふる希望は、蓋し両国の懇親を厚うせんとするに在るは云ふ迄もなく、進んでは此太平洋の水をして、更に其巾を狭からしめんとの趣旨に出づるものの如し、米国が農に工に実に非常の力を以て進歩し居るは、屡々諸君と共に聞く所にして、同国は将来此偉大なる力をば、更に東洋に
 - 第32巻 p.52 -ページ画像 
発展せんと画策するものゝ如し、翻つて我帝国も維新前後より頗る長足の進歩を致せりとは、自らも思ひ人も許す所なれば、等しく東洋の事業をして進歩せしめんとせば、此両国が互に其情意を疏通し気脈を通ずべきは、吾人に於ても肝要とすると共に、彼れに於ても亦た必要視する所ならん、斯る事態より、吾人が将に招きに応じて彼土に渡らんとするは、其任務極めて大にして、吾人の微力果して能く其効果を収め得るや否や、頗る疑なき能はず、左れど此度決定したる渡米実業団一行は、幸に学識経験に富めるの士多ければ、予等微力と云へど、之れに従ひ一同誠心誠意、加ふるに一致の愛国心を以て、此の使命の十分の一たりとも遂行し得んと祈念して止まざる所也、今夕御招待下されたる諸君は、総て実業上而かも実地に力を尽されつゝあるの人士にして、殊に予が最も平素親密に説を戦はしたる人にして、其の経営せらるゝ事業は種々の方面に亘れり、而して前述の如く日米の関係は即ち実業にあり、而して其実業の根本は、此一堂の裡に存すと云ふも敢て不可なし、然らば斯る一種の実力の集れる所よりして、一行の行を壮ならしめんと斯る催しを得、玆に諸君の後援に依り、予自身の魯鈍を能く磨練して、或は希望の万分一に達し得るかと、只管諸君に対し感謝する次第なり、更らに此海外旅行も、事物の進歩と共に其様式亦変替すと思はる、大倉君が御演説に於て、其昔米国通商条約の初は咸臨丸云々と、四十九年前の事実を述べられたるが、其当時渡航せられたるは新見豊前守と云ひ、村垣淡路守と云ひ、小栗上野守と云ひ、共に皆政治家たり、而して維新前後より、引続き自らも送別を受け、又人を送れるは十指を屈するも尚ほ足らず、左れども其回を重ぬるに随ひ、又其様式の変ずるは頗る興味ある所にして、殊に今日の会合を見れば、恰も新見・村垣時代と互に合せ鏡と為り、頗る愉快に堪へず、今回予等の任務も全く政治と相離るゝ能はざらんも、其主とする所は実業にして、送らんとするものゝ観念も、行かんとするものも、要するに実業以外に出づることなし、試に其証左を挙げんか、此集会に列する者は、敢て辞令を受けて事業を為すものなく、此送別会は又全く官たらずして民業者の集合なり、而して其行かんとするものゝ職責も勿論民業たり、昔新見・村垣の当時に於ては、口を開けば即ち政治たりしも、今や実業が即ち国家の基本たり、元素なりと云ひ得るに至れり、於是乎送る者も送らるゝものも、自ら慰め又自ら重んぜざるべからずと信ずると共に、今日発起の各位諸君の趣旨、亦此に存すと、重ねて厚く感謝する所也、斯くして予は前述の如く、政治の関係よりは国家に対し微力到底充分なる報告を為し得ざるも、諸君の経営せらるゝ実業に対しては、彼国に於て敢て充分とは行かざるも、同国の状態を視察すれば、必ずや吾人をして更に奮起一番せしむべきものあるべしと思考せらるゝを以て、特に玆に注意し、以て他日土産として諸君に開陳し得べしと信ず、一言以て謝辞と為す
○両協会の送別会 日本貿易協会並に日本工業協会々員諸君は、十五日午後五時より青淵先生一行を芝田町浅野総一郎君の新邸に招待して送別会を開かれたり、出席者は百二十名にて、食後工業協会々頭金子
 - 第32巻 p.53 -ページ画像 
子爵の送別の辞に曰く「今回の渡米実業家一団の多人数なるは、恰も明治四年岩倉公一行約百五十名の洋行に比すべく、前者は官府的視察なりしも、後者は実業的視察にして、而かも国民的光彩の発揮なり、其任務の重大なるや固より言を俟たず、将来日米の交誼をして益々親密敦厚ならしめん為めに、願くは米国東海岸の実業家団の来朝を勧誘せられんことを」、次に池田謙三氏の挨拶あり、之れに対し青淵先生は「我々一行は甚だ微力にして、果して諸君の期待する如き、任務を果し得るや否や気遣ひなきに非ざれども、唯『忠君愛国』の至情に基く所の一致協同の言動により、聊か国家に貢献する所あらんを期するのみ」と述べ、一同挙盃来賓の健康を祝し、九時散会せりと
○桂首相午餐会 桂首相は、十六日午後一時永田町官邸に青淵先生其他の渡米実業家諸君を招待して午餐会を催されたり、主人側よりは桂首相・小村外相・大浦農相、石井・押川両次官、柴田書記官長の出席あり、首相は簡単に渡米諸君の健康を祈る旨の挨拶あり、之に対し青淵先生は「任務は異なれども愛国心に異なる所なし」との答辞を述べ食後別室に於て更に首相より渡米に関する一場の希望談あり、二時半退出したり