デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.235-279(DK320011k) ページ画像

明治42年10月22日(1909年)


 - 第32巻 p.236 -ページ画像 

是日栄一等渡米実業団一行、ニュー・ヨークヲ発シ、二十三日ボストンニ着シ、三日間滞在、其間二十四日ニハニューポートノペリノ墓ニ詣ヅ。二十六日ボストンヲ発シ、ウースター及ビスプリングフィールドヲ訪フ。二十八日フィラディルフィアニ入リ、三日間滞在ノ後同地ヲ発シ、十一月一日ワシントンニ着シ、三日間滞在ス。


■資料

竜門雑誌 第二七〇号・第五一―六五頁 明治四三年一一月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320011k-0001)
第32巻 p.236-246 ページ画像

竜門雑誌  第二七〇号・第五一―六五頁 明治四三年一一月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
○上略
十月廿二日 金曜日(晴)
午前一時ニユーヘブン市に向て発車す、午前四時同地着、朝餐の後八時半当市商業業会議処会頭ウルマン氏、市長マルチン氏、其他歓迎委員の出迎を受け、青淵先生以下一行自動車に分乗して、重なる工場会社に向たるも、此地に於ける時間僅少なりしを以て、単に訪問に止めて内部の参観を廃し、直にヱール大学に到り、総長ハドレイ氏に案内せられて講堂に到り、着席の後同氏は歓迎の辞を述べ、且同校創立二百年祭(即今より八年前)に調製したりと云ふ紀念章を青淵先生に贈られたり、此紀念章は日本に於ては伊藤公爵に一個贈りしのみなりと云ふ、青淵先生は一行を代表して歓迎に対する謝辞を述べ、且名誉の紀念章の贈与を厚謝するの意を述べられ、右畢りて午前十一時停車場に帰着し、直にプロビデンスに向て発車す
岩本栄之助氏は厳父の訃音に接し、此地にて一行に別れ、大西洋より西比利亜鉄道にて帰朝せり
午後一時プロビデンス市に到着、歓迎委員の案内にて青淵先生以下一行自動車にて市役所に到り、商業会議所会頭フィルド氏の歓迎の辞に対し、先生は一行を代表して答辞を述べられ、次てロードアイランド州庁に向ひ、知事と会見し、再度自動車に分乗して、工場・製造処・公園等を巡覧し、午後四時ゴールハム銀器製造会社に到り作業の状態を視察し、同社食堂にて茶菓子の饗を受け、且紀念銀牌を贈与せらる青淵先生は社長の歓迎の辞に属して一行を代表して答辞を述べらる、後一先づ列車に還り、一同服装替の上、特別電車にてスクアンタム倶楽部に到り、レセプシヨンの後盛大なる晩餐の饗を受く、商業会議所会頭ナイチンゲル氏起ちて歓迎の辞を述べ、且此ロードアイランド州の産業に付ては聊か誇る事を得べきも、実は吾々の誇る処は産業に付てに非ずして人間に在りとす、過刻ゴールハム会社々長は渋沢男爵の問に対し、同社の隆盛は資本にあらずして人間の知識にありと説明せらたれるが、真に我意を得たるものなりとす、日本実業団一行は日米両国に偉大なる関係を生ずる事は余の確信する処なるが、此関係は種種の方法に依りて密接ならしむる事、恰もブルクリン橋が種々の材料に依りて強く耐ゆるが如し云々、夫より州知事ポツサア氏・市長フツチヤー氏・ブラウン大学総長フオンス氏・法律家ベーカア氏交々起て
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演説を為す、青淵先生は一行を代表して大要左の如き演説を為す
 一行に対し工場其他を開放せられ、且今夕の饗応を受たるのみならず、懇切なる辞を受けたるは、一行の大に感謝に堪へざるなり
 日本の開国の端緒を開かれたるコンマンドル・ペリー氏の功績に付ては、諸君の言を俟たす吾々の大に感謝せんと欲したるものなり、否単に吾々のみならず、日本人の総てが其功績に付き深謝する者なり、七年前日本の久里浜に於て同氏の碑を建たるは、其功績を忘れざるが為にあらずして、之を忘るゝ事能はざるが為なりと解釈せられん事を望む
 ロードアイランド州を小なりと云はれたるは、少く謙遜の言なりと思はる、日本国は既に小なり、人又小なりと雖とも、小なりと云はるゝを厭ふものなり
 蛤の焼き方は日本人に於ては真似る事能はさるべしと市長は言はれたるも、日本人は総て何事も真似るものにあらず、現に吾々の洋服を着するも、是只便利上の事にして、洋服を着したりとて心まて真似るに非ず、蛤の焼き方に付ても、より良き材料を、其方法に依りてより良き料理を作らん事は、吾人の希望なり、国家の進運は知識の進歩に在りとブラウン大学総長の御演説に対して、予の深く首肯する処なり、諸君の厚意を十分感謝する意を、時間の少き為め玆に披瀝するを得ざるは、遺憾とする処なり云々
今夕の宴会には当地名産の蛤料理を始め、特に魚類を選みて饗し、又余興に花火を打揚げたるは、主人側の心尽さこそと感せられたり、午後十一時玆を辞し、再び電車にて停車場に至りて列車に搭乗す
廿三日 土曜日 (曇)
午前六時半ボストン市に向て発車、同八時到着、朝食の後一行は二隊に分れ、甲はフオーアリバー造船処参観、乙はウオルサム時計会社参観なり
青淵先生は甲を希望せられ、八時廿五分特別列車に搭乗して、クヰンシーに於けるフオーアリバー造船処に到り、折柄建造中のノースダコタ(米国軍艦二万噸廿一節)を観覧し、十一時同社にて略式午餐の饗を受け、社長バウルス氏の歓迎の辞に対し、青淵先生は一行を代表して謝意を述べ、建造中のノースダコタを見て一入悦びに堪へざるなり、蓋し軍艦は平和の保障なり、吾々一行は平和の使節なればなりと結び畢りて十二時半クヰンシー市を発してボストン市に帰着し、青淵先生は直に自動車にてナシヨナル・シヤームツト銀行頭取ウイリヤム・エーガストン氏の案内にて、同銀行の営業場・倉庫・損札引換所等を見夫れよりハーバード大学に到る(同大学はケンブリツヂ市に在りて、ボストン市と川を隔てゝ相対せり)玆にて乙の人々其他の一行と相会す、総長不在の為め書記官長グリーン氏(同行のロージヤー・グリーン氏の令兄)代理として一行を歓迎し、先づレセプシヨンあり、次で同氏の歓迎の辞、及新に本年より新設せられたる同校商科大学々長アボツト・ラウレンス・ローウヰル氏の同大学設置の必要なる演説あり青淵先生は一行を代表して簡単なる挨拶を為し、終りて教授室・食堂等を巡覧の後、一行校庭に於て撮影を為し、更に紀念室に到りて、同
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校創立以来の総長及同校出身者にして米国各地の戦争に参加して名誉の戦死を遂げたる人々の写真を見たり、夫れより同校運動場に出でて同校対ブラオン大学のフートボールの競技を見る、ブラオンの零に対し同校の十一点にて終了を告けたり
斯くて青淵先生は、午後五時ホテル・トレインに投宿せられ、午後七時半より、アルゴン・クイン倶楽部に於ける、商業会議所主催のレセプシヨン、及晩餐会に臨まる、席上ペリー提督の孫にて同会頭たるゼームス・ジヱー・スタロー氏は歓迎の辞を述べ、且此地はペリー提督出生の地なる事、人口稠密なる事、耕作地の少き事、天然の富源に乏しき事、気候の不順なる事を挙けて、日本に酷似したる点甚だ多くして、縁故特に深ければ、将来日本との親善は尤も期待する処なる旨を述べ、次きに州教育会議々長フイツシユ氏の演説、及日本美術品の蒐集を以て名あるモールス氏の、美術上より日本を賞揚したる演説ありしに対し、青淵先生は一行を代表して、此一行は日米両国の通商貿易の発達を計らんが為めに、国民より派遣せられたる者なり、此地に来りて驚嘆したるは、西部の天然の富を有する地方に比して、此地が学問と勉強とに依りて如斯発達したるに在りとす、之を樹木に譬へんか急に生長したる樹木は動もすれは倒れ易し、反之雪に耐へ風に忍びたる者は、健固なる状態を以て且其上に一層の雅致を添ゆるなり、此地は恰も風に忍び雪に耐へたる樹木の如し……吾々は帰国の上は、米国各地に於て受けたる歓迎及視察の状況は之を国民一般に知らしめ、両国の親善を厚ふせん事を期すべし、併し米国の富みし理由の根原は之を日本に移して応用すべきも、米国亦弊害なしと云ふべからされば、此点丈は応用せさる積なり云々と述べ、夫れより神田男爵の簡単なる英語演説あり、十二時畢りて帰宿せられたり
 本社会員浅野総一郎氏令息浅野良三氏、当地大学予科に在学、此日青淵先生を来訪して、始終各処に同行案内の労を取られたり
十月廿四日 日曜日 (雨)
此日青淵先生には中野・頭本・巌谷・ローマンの諸氏等と共に、午前八時出発、汽車にてロード・アイランド州ニユーポート市に在る、ペリー提督の墳墓に詣づ、同十時同地に着し、市長ボイル氏・助役ウイルラー氏等の出迎を受け、直に半哩程隔てたる共同墓地に到る、提督の墓は其中央なる二株の老柏の下にあり、青淵先生はボストンより携へたる花環を墓前に捧げ、礼拝の後墓前に紀念の撮影を為す、先生詩歌あり
    ニユーポートにペリー提督の墳墓を
    訪ひけるとき雨降りたれば
   たむくるはこゝろの花のひとたはに
    なみたの雨もそへてけるか那
    新港奠故彼理提督墓
  異洲早已記英名  来与幽魂訂旧盟
  日暮粛々風送雨  併将暗涙奠墳塋
墓参後、海軍練習所長フルラム大佐の官邸を訪はる、大佐、先生奠墓の好意を多とし款待至らざるなく、雨中自ら先導して所内名所を案内
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せられたり
四時ボストンに帰着、夫れより日本協会及浪速倶楽部合同開催に係るバンドム・ホテルのレセプションに臨まれ、午後七時半帰宿せらる
八時トレイン・ホテルに於て、青淵先生及同令夫人にはハーバード大学書記官長グリーン氏及一行と同行のグリーン氏及同地留学の益田信世氏(益田孝氏令息)浅野良三氏(浅野総一郎氏令息)新井氏(新井領一郎氏令息)堀越善重郎氏・増田明六等を招きて晩餐を共にせらる
先生は書記官長グリーン氏に向ひ、益田・浅野・新井三氏の父とは多年厚誼を厚うする者なれば、他人の子の如き思を為さす、願くは三氏の教育に就きては将来充分監督指導せられん事を望む旨述べられ、又三氏に対しては益奮励して必ず所期の目的を達し、父の名を傷けさる様と懇篤なる訓戒をせられたり、夫れより同大学商科設置に付き、先生と両グリーン氏間に種々有益なる談話を交換せられ、午後十時解散せらる
十月廿五日 月曜日 (曇)
此日は一行二隊に分れ、甲はゼネラル電気会社分工場・製靴会社を見物し、乙はローレンスに於ける紡績会社を見物する都合なりしが、青淵先生には乙に参加して、会社・工場を見物せられ、同社にて午餐の饗を受け、午後も各工場作業の状態を視察して、五時ボストン市に帰られ、同六時米国平和協会の晩餐会に招かれ、終りて一行と共にオリンピツク劇場に案内され、十一時特別列車に搭ず
十月廿六日 火曜日 (晴)
午前零時五分ボストン市を発し、八時ウースター市に到着す、青淵先生を始め一行案内自動車に乗じ、同市庁を訪ひ、市長代理ロガム氏の歓迎を受く、氏は市長の認められたる歓迎文を朗読したるに対し、青淵先生は一行を代表して、歓迎の厚意を謝し、一行の渡米の理由及日米両国貿易発展の希望を述べられ、終りて予て同市商業会議所に依りて定められたる日程により、青淵先生は先づ下水清浄処を参観せられたり
 同下水清浄処は百五十万円の建築費を要し、米国有数の清浄処にして、化学的沈澱及濾過的洗澡の二法を用ひ、毎日二百五十万石を排水すと云ふ、宏大なる装置にして、市中の汚水をポンプ作用にて此清浄処に吸収し、之を濾過池に流出する中間に於て石灰水を加へ、汚物は凡て沈澱せしめ水丈流出せしむる方法なり
 而して其流出する水は、幾個かの水田の如き濾過池を過ぎて溝渠に流出するときは、殆と清水の如くなれり、尚沈澱したる汚物は別にポンプ式に依りて一処に送致し、玆に圧搾器機に附して水を搾り固形肥料を製造せり
右畢りて先生には市有農園を参観せらる、之れは貧窮者の為めに労役を与へ、衣食の資を得せしむる処なり、現在収容者百七十人、園の広さ吾百五十町歩、田畝あり、山林あり、果樹林あり、家畜あり、運動場あり、噴水池ありて、流出して園を流る、収容者の寝室・病室・室内運動場・浴場等を参観せられたり、因に此に飼育する家畜は豚を最も多とす、此の飼料は市民の廃棄に属する物品を収集したるものなり
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と云ふ
夫れより州中第一と称せらるゝ癲狂院を参観せらる、其位置高燥にして、美麗なる公園の一部を占め、眼下にクインシガモンド湖を臨み、地積百二十余町、現在収容患者千三百人、其設備整頓して院内清潔なり、一行は身の病院に在るを覚えざる程なりしが、婦人患者の病室・寝室等を参観したる丈にて、男子患者に対する設備を見る事を得ざりしは、時間に余裕あらざりしが為めなり、右畢りて零時半列車に戻り即時発車してスプリングフイルド市に向ふ
午後二時スプリングフイルド市に到着、青淵先生以下一行直に出迎自動車に分乗して、合衆国兵器製造所に至り、所長ラント大佐の案内にて五連発小銃の製造所・銃剣製造所等を巡覧し、夫れより千二百町の地積ありと称せらるゝフオレスト・パークを過ぎ、午後五時半列車に帰着す
此夜ネイアセツト倶楽部に於けるレセプシヨン及晩餐会に招待を蒙りしも、此日伊藤公爵薨去の報に接したるを以て、弔意を表して之を辞し、米国側の委員諸君丈け之に臨み一行は車内に在りて謹慎したり
先是今朝午後六時頃スプリングフイルド市のデーリー・レパブリカン新聞社は、記者を列車に送り、青淵先生に面会を求て、伊藤公爵の薨去を報し、且つ同公爵に関する先生の感想を求む、先生は容易に公爵の薨去を信せられさりしが、此悲報を打消すべき反対の証拠なきを以て、若し之を事実と為す時は実に日本帝国の為め哀悼の至りに堪へずとて、公爵が多年始終一日の如く帝国の為め尽瘁せられたる功績を語られたるが、遂に悲哀の念に堪へすして涕泣せらるゝに至れり、記者も大に同情を寄せ、又別席の外人等何れも克く仰き見るものなかりし折柄下車の時刻に迫り、歓迎委員等押寄せたるを以て談話を中止せられたり、先生の此談話は翌日の同新聞に掲載せられたるが、已に本年二月の本誌に訳載せられたれば略之
次きて午後スプリングフイルドに於て、外務省より紐育総領事館に宛てたる左の公電に接す
 伊藤公爵は二十五日午前九時ハルピン着下車の際、韓人数名の為め拳銃にて狙撃され、川上総領事其他二名軽傷を蒙むれり、公爵は午前十一時終に薨去せられたり
青淵先生の信せさりし悲報は、不幸にして事実たりしなり、先生始め一同愕然只長大息するのみ、於是先生は直に常議員会を招集して、公爵の薨去を報し、且一行は謹て弔意を表する為め歓迎晩餐会を謝絶することを決議し、一行に対しては左の通り通達せられたり
 伊藤公爵昨廿五日ハルピンに於て韓人の為に狙撃せられ、遂に薨去せられたるの悲報、紐育総領事館より転送を受けたり、依て直に常議員会を開き、スプリングフイルドに於ける一行に関する正式晩餐会中止を要求する事とし、一行の同地滞在中は勉めて静粛を旨とし晩餐は列車内に於て為し、市中に於て飲食せさる事
斯くして晩食後臨時団員総会を開き、決議の上団長たる青淵先生の名を以て左の弔電を発したり
 桂総理大臣宛
 - 第32巻 p.241 -ページ画像 
 伊藤公爵薨去の報に接し、実業団一同痛恨悲嘆に堪へず、団員を代表し帝国政府に対し謹て弔意を表す
 宮内大臣宛
 渡米中の実業団は、伊藤公爵薨去の悲報に接し
 聖慮を拝察して恐懼に堪へず、団員を代表して謹て天機を伺ひ奉る
又別に青淵先生一個人として
 伊藤公爵令夫人宛
 公爵閣下薨去の悲報に接し哀悼の至に堪へず、謹て弔詞を奉る
 井上侯爵宛
 伊藤公爵薨去の悲報に接し痛恨に堪へず、御心中遥かに御察申す
十一時卅分ニユーワーク市に向て出発す
十月廿七日 水曜日 (晴)
午前九時ニユーワークに到着、青淵先生以下一行は直に歓迎自動車に分乗して、同市市庁に於ける市長ハースリング氏のレセプシヨンに臨み、市長の歓迎の辞、青淵先生の一行を代表したる答辞あり、畢りて市庁を失火点と仮定したる防火演習を見る(市庁に消防署の中心とも云ふ可き装置を為したる一室ありて、市内如何なる時如何なる場処に於ける出火も直に知り得ると共に、器械夫れ自身の自動に依りて消防署へ之を警報す、当市消防署の数は五百の分署と卅五の本署ありと云ふ)此仮設演習は、青淵先生が通行の際市庁の失火を認め急遽附近の街路に備付ある警報器を槌を以て一撃して警報したるに始まり、十五秒にして先づホースを満載したる六頭曳の馬車見え、次きて梯子蒸汽喞筒等の馬車到着して、一分を経るか経ざるに梯子は数十丈の窓に架せられ、十数筒のホースよりは数十丈の高処に水を注げり、消防隊員の勇壮活溌なる敏捷なる動作に付ては賞すべき言辞を知らさるなり
右観覧終りて青淵先生と市長を中心に、一行と歓迎委員相混して記念の撮影を為す
後一行は七組に分れて各方面の工場を視察したるが、青淵先生は金属型機械及工具製造会社なるジヨージエーオールと称する会社、銀細工を為すチフアニー会社、銅版印刷会社なるゼ・オスボーン会社を参観せられたり
午後一時七組に分れたる一行は、青淵先生を始め悉くクルーゲル・アウデトリアムに集合、レセプシヨンの後、同地貿易協会主催の午餐会に臨み、協会会頭ジー・エフ・リーブの歓迎の辞、市長ホウスリング氏の演説(商売は人種に依りて差違を生するものにあらす、日本人が当市に於て利益を得らるれは得らるゝ程当市民は利益を多く得らるべき筈なり、此市は米国第九番の工場地にはあれど、将来は必ず第一番の位置に進まん事を確信す云々)次ぎにニユージヤシー州副知事・上院議員の演説あり、最後に青淵先生は一行を代表して答辞を述べられたり、畢りて午後三時エーグル・ロツク公園を過ぎて、有名なるヱヂソン電気会社を訪ふ、七十一歳のヱヂソン氏は、耳こそ少し遠けれども、温厚なる君子然たる風貌を以て、令夫人及同社重役と共に一行を迎へ、先頭の青淵先生先づ握手挨拶を為し、引続き一同握手を交換して裡に入りしが、ヱヂソン氏の請に依りて、一行と同社重役と共に記
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念撮影を為し、畢りて別室に於ける最新式の明瞭なる活動写真を観覧し、尚ヱヂソン氏の発明に係る六時間にて建造すと云へるコンクリート製家屋を見る、此造家型は鉄製にして価格十万円なるも、之に依りて作りたる家屋一個の原価は二千四百円なりと云ふ、此型の家屋は主として中等生活を為すものの需用に充つるものなりとの事なり、尚諸作業場を案内せらるゝ筈なりしが、汽車の発車時刻に近寄りしを以て急ぎ停車場に到りたり
 因に此コンクリート家屋に就ては、一行中の建築家たる本社会員原林之助君は、特に技師に就き取調べられたるに付、詳細を知らんと欲せらるゝ御方は同君に御照会あらん事を希望す
五時廿八分サウス・マウント市に向ふ、午後九時レデング市に着、此市にはサウス・マウント市の見物を終り再度来訪の筈なりしかば、一行は乗車のまゝ歓迎を受けたるが、先是汽車の同地停車場に達するや楽隊は先づ君が代を吹奏し、之に続ける歓迎人は潮の如く車窓外に押し寄せ、列を作りて列車内に入り込み一行に握手を求む、依て青淵先生以下一行も亦列を作りて之を迎ふれば、間断なき握手希望者陸続として際限なく、老翁・少年・紳士・労働者等無慮千余名、中には一度握手を終りて外に出でたるも、再度来りて握手を求め、車中実に立錐の余地無く、一同立ちたるまゝにて動く事すら為し能はざるを以て、不得止一方の昇り口を閉鎖するに至れり
午後十二時発車、サウス・マウント市に向ふ
十月廿八日 木曜日 (曇)
午前八時サウス・マウント市に到着す、直に下車し、歓迎員の案内にてペンシルバニア州立狂癲病院を訪ふ、院長ウイリアム・ヒル氏歓迎の辞を述べ、青淵先生一行を代表して謝辞を述べ、夫れより各室を参観す、当院に収容する患者の資格は、州内各地病院に在りて一年以上治療したるも、到底全治の見込なしと云ふ所謂慢性患者に限られ、而して其費用は患者出身の郡に於て三分の一、其町村に於て三分の二を負担する由なり、現在入院患者男六百名、女二百名にして、建物の数合せて十二個、位置と云ひ設備と云ひ殆ど間然する処なし
午前九時列車に戻りレデング市に向ふ、一時間にして達す
此市に於ける歓迎は意外の盛況にて、前夜潮の如き歓迎人に握手を求められしが、果せる哉此日汽車の停車場に着するや、待構へたる歓迎人は黒山の如く蝟集して一行を迎ふ、青淵先生以下一行は自動車に迎へられ分乗す、三名の騎馬巡査先頭に、音楽隊を乗せる自動車、団長たる青淵先生を迎たる自動車以下、順次二十余台の自動車は、最先の行進の譜を奏せる自動車の跡を、実に清潔なる、砂塵だに認むる能はざる街路を駛る、小学校生徒を始め、市中の老若男女群を為して一行を迎ふ、一行は先づ鉄工場を参観す、百五十噸の蒸汽機関車を、エレベーターに依りて容易く一行の頭上を運搬する様を見たり、斯くて各室を参観の後シチー・パークを一周して秋色を賞で(此公園の入口に牢獄あるは文明国として如何哉と同行の外人に質問を発したるに、如何にも野蛮的なれは近々の内に他に移転する事に決定しありと云)中学校に到る、校長ウエチー氏の案内にて青淵先生外一同講堂に進む、
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堂内にて待ち受けたる男女生徒千余名は、起ちて校歌を唱うて一行を迎ふ、席定まるを待ちて市長は起ちて、此市の年少の男女に日本国の印象を与へんが為めに玆に一行を迎へたる者にて、新聞又は雑誌等に記録を存せんとする意趣にあらさるなり、此地の商工業はメリヤス製造・紡績・機械製造を以て、主とする者なれば、諸君の特に記憶せられ、他日再度来訪せらるゝ際に於て比較せられん事を望むと、簡単に歓迎の主意を述べたるに対し、神田男爵英語勅語を捧読して其一本を同校に寄贈せられたり、右畢りて午前十一時列車に帰乗し、午食しつつある間にベツレヘム市に到着す、時に初雪紛々として中空に舞ふ、午後二時同地製鋼会社構内に進入して停車す、青淵先生以下一行社員の案内に依りて各工場を視察し、二時間の後列車に帰着し、四時三十分フイラデルフイヤに向て発車す
午後六時半費府に到着、青淵先生以下一行直に出迎自動車に分乗してベルビユー・ストラツトフオード・ホテルに入る、往年幕府の使節一行も此ホテルに行李を解きたりと云ふ
午後七時半青淵先生には、水野総領事・頭本氏外三・四の同行員と共に同ホテルに設けられたる名誉領事マツクフアツデン氏の饗宴に招かれ金製名誉の鐘を送られたり、又同九時よりウイザー・スプーン会館に於て、米国政治社会学会の集会ありて、青淵先生以下一行之に招かれ、先生には頭本氏を通訳として一場の講話を試みられ、午後十二時帰宿せられたり
十月廿九日 金曜日 (晴)
午前九時三十分製造業者倶楽部に集合し、青淵先生以下一行同部に於て用意せられたる自動車に分乗して、各調査希望の方面に向て出発す青淵先生は先づ独立紀念会堂に到り、独立戦争に関する盟約文、之に署名したる名士の筆蹟及当時鋳造したりと云ふ鐘等を見て往時を追懐せられ、夫れより合衆国造幣局に到り、其美麗なる建築を一覧の後、銅貨鋳造の作業を巡覧せられたる後、鋳造部に至る、局長親ら案内の労を取り、軈て金塊一個を手にして出で、之を一行の面前に於て紀念牌に製造し、青淵先生に託して我
天皇陛下に献呈し度しとて、見る間に機械に掛けて表面にタフト大統領を表し、裏面に日英両文を以て日本実業家来米歓迎紀念章千九百九年秋と刻せる金牌を作りて、先生に其伝献を依頼せらる、先生は謹て之を受諾せられたるも、コハ局長より其意を華盛頓なる我大使に通じて之を送付し、大使より之を先生に托するの手続に依るこそ至当なりとて、一と先之を返却せられたり、米国人の無造作なる真に驚くに堪へたり
造幣局の参観終りて、先生にはペンシルバニア大学を参観せらる(同校在学の日本人は阪本陶一郎・上田良武(海軍大尉)・和田庄三郎・佐藤梅太郎・畑井某・国友信哉・高橋某の諸氏なり)正午学生倶楽部に於て午餐の饗を受け、夫れより学生寄宿舎(上田大尉の居室を見たるが、日本の夫れに比すれは天地の差あり)を見、又機関・電気等の実習室を見る、畢てジラード・カレーヂに到る、現在生徒千六百名、一堂に集合したるを見れば、何れも十歳乃至十六歳位の生徒制服にて静
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粛に座を占めたり、校長は起ちて青淵先生を生徒に紹介し、先生は起ちて訓戒的演説を試み、次ぎて神田男爵・大谷嘉兵衛氏の演説あり、畢りて生徒の分列式を参観して午後六時帰宿せらる
青淵先生と同校々長との談話を左に摘録す
 入学児童はペンシルバニヤ州の住民に限らるゝ哉
  ジラード氏の遺言に依り、先づ費府市の児童を収容し、次にペンシルバニヤ州、尚定員に余りある時は紐育及ニユーオルリヱンスの両州より収容す
 定員及年齢の制限は如何
  定員は千五百名、年齢は七・八歳より十八歳迄とす
 十八歳以上は児童の取扱は如何
  十八歳以上の児童には、夫迄に職業を習はしめ、実際に於て差支無き様に為す
 兵式体操に力を入るゝ様なるが、軍人を養成するの主意なるや
  否、稀に軍人と為るものあるのみ、兵式体操は体育上最も可なりと認めたれば、之を採用するなり
 当校総体の費用、財産より生ずる収入は幾干
  一年の費用は百万円、一人に付六百五十円を要す、財産は炭礦及市内所有土地(五千万円の価格)ありて、石炭より百十万円、土地より九十万円、合計二百万円の収入ありて、支出百万円を差引たる残金は翌年に繰越すこととせり
 宗教上の関係は如何
  宗教には何等の関係なし、故に入学児童の宗旨を問はず聖書は講義すれども日曜日には牧師又は先輩を招きて道徳上の講話を為す
 入学児童の資格は如何
  単に孤児(但父無く母丈のものも含む)に限る丈なり
右畢りて先生には一旦帰宿の後晩餐を認められて、午後八時半より製造倶楽部のレセプシヨンに臨まれ、午後十時帰宿せらる
十月三十日 土曜日 (晴)
午前九時青淵先生以下一行、市役所に於ける市長のレセプションに臨む、市役所より先生以下一行自動車を駆りてチエストナツト街の波止場に到り市長の厚意に依り一行に供用せられたる汽船スプリングフイルド号に搭乗して、デラウエア河を下り、沿岸に於ける各種工場を望見し、鋸を製造するヘンリー・デストン会社に到りて上陸し、支配人の案内にて一室一工場剰す処なく視察を遂ぐ、先生は日本文の製材家必携と題せる書物の寄贈を受けられたるが、如何に同社が其販路拡張に勉むるかは、其日本文の書物にて知るに足る、畢りて再度乗船、リーグ島の合衆国海軍造兵廠を一巡して、午後五時ホテルに帰宿す、午後六時青淵先生以下同ホテルに於て開かれたる製造業者倶楽部主催の晩餐会に臨む、此会場の四囲のボツクスには此の盛宴を見んとて、参集せる盛装の淑女花の如し、宴将に終らんとするや、例の如く演説始まれり、同部会頭フオルウエル氏は起ちて先づ歓迎の辞を述べ
 日本実業家の来遊は米国の為め非常の利益なり、当実業の関係さへ深ければ国交に何等碍妨を来たす事無きは明かなれば、両国の実業
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家は此意を以て益親交を厚くせざるべからず云々
次ぎに州知事スチユアート氏は
 日本実業団の最も尊重せらるゝ、伊藤公爵の死を悼むとて、公爵の為めに弔詞を述べ、転じて一行の来遊は日米両国親善の要楔なり、日本の進歩及成功は過る日露の戦争に於て顕著なるが、平和に於て得たる成功及進歩は夫れ以上なりとす、諸君が米国商工業に就て学ぶ処多ければ多き程、両国の為めに利益大なるものなれば、此上十分の視察を希望するものなり云々
次ぎは上院議員ペンロース氏
 余は日本に対し最も尊敬の意を表するものなり、東洋に於て最も若き日本人を玆に歓迎するは、衷心悦に堪へざる処なり、蓋し日米両国は天性互に親和すべき関係を有す、今後パナマ運河の開鑿せらるるときは尚一層親密の度を増加すべき事明かなりとす、政治上の使節は是迄来りたる事あれども平和の使節は今回諸君を迎ふを始めとす、此点に於て特に諸君を歓迎するものなり、世界の貿易は大西洋に限定せらるゝものにあらず、費府市の製造業者は、此若き新進の日本を華主とすることに勉めさるべからず云々
次ぎは青淵先生
 一行の当市に到着したるに付き、盛大なる歓迎を受けたるを深謝す昨日来一行は手を分ちて当市の有名なる工場を見物したるが、時日の僅かなると反対に工場の甚だ多き為めに、十分見物する事能はざるは頗る遺憾とする処なり、今は又玆に偉大なる饗宴に招かれ、花の如き美人に囲繞されつゝ演説を試むるは、余の特に光栄とする処なりと前提して、一行渡米の理由を陳述し、且日米両国貿易の発達は全くペリー提督の我日本を開かれたるに基くものにて、爾来両国の貿易は統計に依るも年々増進する事明かなれば、将来も尚益増進する事は疑を容れざる処なり
 米国が日本に輸出する物品少くして、反之日本より輸入する物品の多きは、米国に取り不利益なりとの説を称ふるものあれども、余は斯く信ぜざるなり、日本より米国に輸入する物品は原料品なるに付き、米国は更に之を精製して十分の利益を得らるゝ事明かなり、願はくは費府の実業家は各自の事業にのみ熱心せられずして、日本の事業にも注目せられ、吾々が多忙なる事業を放擲して当国に渡来したると均しく、日本に来遊して商工業を視察せられん事を望む
 費府は其字に於て兄弟に親密なりとの意味を有すと聞く、当地の諸君は兄弟御親しむの友義を、更に日本に迄及ばさん事を望む、四十余年前の日本の使節は当地に来り此ホテルに投宿したりと聞く、今又我々一行が平和の使節として、玆に投宿したるは奇なりと云ふ可し、云々
次ぎは市長レイバーン氏
 千八百六十年、余の幼少の折日本の使節の当府に来りたるを見たるが、玆に開かれる宴会は、当時の歓迎より尚一層勝れたるものなる事と信ず
 渋沢男爵の達識に付て大に感服したる辞あり、即ち同氏の談話に、
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秩序的に発達したる市は永久に衰ふる事無しとの言は、達識者の言なりと云ふべし、日本人は皆同氏の如く達識の士なり、将来の進歩発達期して待つべきなり云々
次ぎは神田男爵
次ぎは判事バアリントン氏
 米国の紳士は、内に在りて妻君の永き演説を聞かさるゝ為めに、公開の席に於ては其鬱憤を晴らさん為めに永き演説を為す、以之短き演説を為す人は無妻の人なる事を証明するものなりとて、滔々数千言何時尽くべしとも思はれざる程にて、熱心に日米両国の貿易発達を計り両国は益々親交を厚うせざる可からさる事を論じたり
次ぎに州知事スチユアート氏は起ちて
 七百万の本州の人民を代表して、玆に諸君を歓迎したるが、此市の独立閣は米国自由憲法の発現地にして、最も古き歴史を有するものにして、此地と日本との関係も亦最も深き事なれば、今回諸君の来米を機として、両国の関係を相互実業家の力に依つて結び付けん事を欲す云々
次ぎにワナメーカー氏の演説ありて、午後十二時半解会
十月三十一日 日曜日 (晴)
午前九時ペンシルバニヤ大学商科大学々長、ホテルに青淵先生を訪はれ、中野氏も相会して種々談話の後辞去せられたり
午後二時青淵先生には自動車を駆りて、フエアモント公園及市外の見物を為し、帰宿の後頭本氏の紹介にて同地新聞記者の問に応じて、米国観想談《(マヽ)》を試みられたり
夜は夕食の後、午後九時列車に搭乗、十二時三十分華盛頓府に向つて発車す


竜門雑誌 第二七一号・第二五―二九頁明治三四年一二月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320011k-0002)
第32巻 p.246-250 ページ画像

竜門雑誌  第二七一号・第二五―二九頁明治三四年一二月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
十一月一日 月曜日 (晴)
午前六時華盛頓府ユニオン停車場に到着す、此停車場の宏大にして建築の見事なる、啻に米国の常備軍が悉皆此内に容ると云ふ宏大なる点に於てのみならず、鉄及石材を以て組立てられたる美麗の建築と、鉄道線路三十一号が其第一号の端より第三十一号の端迄整然と建物に直角に接触したる光景は、全世界他に見る事を得ざるものならんと思はれたり
車中にて朝食の後、午前九時二十分青淵先生外一同歓迎委員の案内にて、停車場内の大統領室のレセプシヨンに臨み、市行政委員マツクフアランド氏の簡単なる歓迎の辞に対し、青淵先生一行を代表して答辞を述べ、夫れより自働車に分乗して国会議事堂・図書館・博物館等を過ぎて、華盛頓紀念塔に至りて府を観望し、又ポトマツク公園を見、動物園に入り、ロツク・クリーク公園に自然の風光を探り、夫れより癈兵院の構内を経て、十時十五分国務省を訪ふ、国務卿ノツクス氏は同次官ウヰルソン氏・東洋局長ミラー氏と共に、青淵先生以下一行を
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迎て簡単なる挨拶あり、青淵先生一行を代表して答辞を述べ畢りて一行は国務省を辞して他の視察に赴かれたるが、独り青淵先生は同省に留り、東洋局長ミラー氏の通訳に依りて国務卿ノツクス氏と会談せられたる後、待合せられたる頭本氏と共に陸軍省を訪ひ、次官に面会し夫れより大統領の官邸なる白堊館を訪ひ、応接室(青室)接見室(緑室)音楽室(赤室)家族の居間、各員外交官等を饗応する食堂等を順次見物して、ホテル・ニユーウイラードに投ぜらる
午後二時青淵先生以下一同自働車に乗じて、海軍鎮守府構内より、海軍省より供せられたる砲艦アパチエ号に乗じ、ポトマツク河を下り、十六哩を二時間にしてマウント・バーノンに着す、端艇に移乗して桟橋に昇り、鬱蒼たる樹間を躋る事二・三町にして古今の英雄ワシントン氏の墓前に着す、青淵先生は一行を代表して恭しく花環を捧げ、次で一同礼拝の後、墓前に記念の撮影を為し、夫れより同氏の旧邸に到る、邸は質素なる木造二階建なり、旧時の客室・書斎・食堂、又階上の寝室・臨終室等当年の遺物其儘存して、転た追懐の情に堪へざらしむ、庭園に出づれば蜿蜒たるポトマツク河を一眸に集めて風景絶雅なり、ワシントン氏及ラフワエツト氏手植の記念木は庭の一隅にあり、又桟橋より玆への途中道傍に伏見宮殿下御手植の紅葉あり
夕刻前路を取りて帰途に就き再度砲艦に乗じて午後六時帰宿せらる
午後八時青淵先生には、一行と共に自働車に乗じて国会附属の図書館を見物せらる、建築の宏壮にして美麗なる世界第一と称す、夫れより国家議事堂に至り各室を巡見し、終て商業倶楽部に於けるレセプシヨンに臨み、茶菓の饗を受け一時半帰宿せられたり
十一月二日 火曜日 (晴)
午前九時青淵先生には一同と自働車を連ねて軍用墓地アーリントン及び要塞フオートマイヤ等巡見の後、砲兵隊営庭の馬場に於て、騎兵の軽乗、馬術及砲兵の砲車運動を見(其馬匹砲車を運用するの妙なる曲馬を観るの観あり)畢りてホテルに帰り、衣を更めて再度一同と共に国務次官ウヰルソン氏の催されたる公式午餐会に臨む(此日は先きに国務卿ノツクス氏より案内を受けたりしが、同氏夫人の叔母が死去せられ、恰も本日其葬式に相当したりとて、次官代りて之を催されたるなり)ウヰルソン氏夫妻は曾て在日本米国大使館に一等書記官たりし事ありて、我が国情にも通じたれば、一行の待遇にも実に意を用ひられたり、食後ウヰルソン氏は起ちて一行に対し歓迎の辞を述べ、且費府造幣局にて製造せし金牌を 日本天皇陛下に伝献せんことを青淵先生に嘱せられ、尚ほ一行にも同型の銀牌を贈与せられたり、依て青淵先生は一行を代表して答辞を述べ、且 天皇陛下に金牌伝献の事を謹んで快諾せられ、尚一行に代りて銀牌の贈与を謝し、斯くて主客共に大統領閣下 天皇陛下の万歳を三唱して、君が代の奏楽中に散会す
夫れより一行は各処の名物見物に赴かれたるが、青淵先生にはホテルに帰りて休息せられ、夜は埴原書記官の招待に依り、メトロポリタン倶楽部の晩餐会に臨まれ、八時半よりコルコラン美術館のレセプションに出席せられ、同館見物の後帰宿せられたり
十一月三日 水曜日 (晴)
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午前十一時青淵先生には一同と共に帝国大使館に至り、松井大使代理以下館員と共に、両 陛下御真影の下に遥拝式を行ひ、三鞭酒の杯を挙げて 聖寿万歳を三唱す、式終りて帰宿せらる
午後七時青淵先生には一行と共にホテルの大食堂に於て開かれたる臨時代理大使松井慶四郎氏主催の天長節祝賀会に列席せらる、国務卿ノツクス氏・内務卿バリンジヤー氏・国務次官ウヰルソン氏以下、米国朝野の紳士百数十名列席す、席上松井代理大使は先タフト大統領の健康を祝すれば、国務卿ノツクス氏は 天皇陛下の万歳を祝し、尚大要左の如き演説を為す
 予は合衆国の政府を代表して、当市に諸君を歓迎するの光栄を得たるを喜ぶ、諸君は米国に於て十分の愉快と利益とを得て、美しき故国に帰航せられん事を希望す、我国の代表者が貴国を見舞ひし以来両国親善の年々増大しつゝあるは、予の深く喜ぶ処なり、此間日本が米国より学びし処多かりしと均しく、米国が日本より学びし処亦大なるを信ず、日本の歴史に就て見るに、日本人の品性の高きは全く彼の武士道の為めなりとす、西洋の武士道は日本の武士道より学ぶべき点多し、日米両国民の交情親密なる以上は、喜憂を共にすべきは当然の事なるが、世界の大政治家たりし日本の伊藤公爵の薨去は、吾々の深く悲しむ処にして、従来親交ある大統領タフト氏の哀悼は亦一層ならんと察せらる、玆に諸君の為めに恭しく哀悼の意を表す
 両国の商工業益発達拡張すると共に、玆に商業上激敷競争の起るは免れざる結果なるべし、然れども此競争にして正義に基かは、却て平和の楔たる事を得べし、而して此競争の弊害を除く為には仲裁々判に依るの外無かるべし、合衆国は世界の平和に同情を有するものなり、仲裁々判を拡張せん事を希望するものなり、蓋し是れ日本の必ず同意する処ならん、日米両国間に之を成立して、互に親善し、善意を以て凡ての問題を解決せば、世界に好模範を示すと共に、好影響を来す事予の疑はざる処なり云々
次に松井大使は答辞を述べ、且太平洋聯合商業会議所の厚意を謝し、同時に米国民の友情に厚く、我実業団に対しても種々の利益を与へらるゝを感謝する意を述べられたり
次に内務卿バアリンジヤー氏は、大要如左演説を為す
 日本実業家諸君の米国の門戸たるシヤトル市に上陸せられ、爾来各地の商工業を視察したる諸君を、本日玆に迎へたるを悦ぶ、元来米国人は自国の事のみに汲々として、他国の事に注目するの余暇を有せざるが、日本実業家諸君が繁忙なる事業の余暇を以て渡米せられ親敷米国実業上の状態を研究せらるゝは敬服する処なり
 予と郷里を同ふするローマン氏は、日米両国の親善は両国間の貿易を発達するの最善策なりとの持論なり、予は同君と同様の意見を有する米国人の多からん事を切望するものなり
 太平洋は世界の貿易船舶に対し、十分の広さを有す、日米両国の実業家は以て縦横に交通する事を得べし、我合衆国の実業家の内には日本の如き互に提携すべき国ありし事を知らざるものありしならん
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爾今互に相提携して、両国貿易の繁盛を期せざるべからず、云々
次に青淵先生は起ちて大要左の演説を為す
 吾々一行が当府に来着したるを期として、此佳節を卜して国務卿・内務卿、其他当府の紳士と、玆に会見するの光栄を有したるを深謝す
 只今国務卿及内務卿の御懇篤なる御言葉は、難有拝承せり、私共一行の来米したるは、昨年太平洋沿岸聯合商業会議所実業家の日本に来遊せられたるに因し、吾々が招致に応じたるが故なり
 吾々一行は先々月シヤトル市に到着以来、四十に近き都市を巡廻して当府に到着したるが、到る処款待を受け、農業に、林業に、礦業に、商業に、総ての方面に目を驚かしつゝ当府に来れり、当府の面目は又予等をして驚愕せしめたり、之を例ふれば当府は中央の大原動力にして、依之全米国が活動しつゝあるが如し、以之短日の見聞ながら、当府に於て益する処甚大也、両閣下より日本の進歩に対し賞讃せられたるを深謝す、蓋し日本が政治に経済に米国に負ふ処多大なると同時に、米国も亦日本より得る処大なりと云はれたるは、私共の却て赤面する処なり
 日米両国実業家の相互の往来は、両国を益親善ならしむる要訣なり然るに米国の実業家は自家の仕事の大なる為め、他国を顧みるに遑あらざるを以て、其他国との貿易は却て外国人に依りて経営せらるるを見る、是れ予の甚だ遺憾とする処なり、現に米国の工場は外国人に依りて経営せらるゝ処大なるにあらずや、吾々の来遊は単に自国の富のみを計るにあらず、又勉めて購買力を増さんと欲するが為なり
 日米両国事物の進歩に連れ、競争の起るは自然の結果也、乍併此競争は正義に依て為さんとの、国務卿の御演説は頗る同感也、仲裁々判に依りて競争を解決せんとの御主意は、至極適当なれ共、吾々は其裁判に附する前に、徳義上の制裁を以て結了せんことを欲す、吾吾一行の旅行は、大なる好果を収むる事を得られざる可けれど、到る処米国人が胸襟を開きて吾々を歓迎せられたるは、深く記憶する処にして、不日日本に帰国の上は、之を我同胞に告げて、日本国民と共に貴国の厚意を記憶せんとするものなり
 伊藤公爵の薨去に対する国務卿の弔詞は、吾々の深く感謝する処なり、吾々は旅行中に此凶音を聞知して驚愕したる処なるが、同公の始終一貫日本帝国の為めに尽され、遂に身を損するに至られしは、啻に吾々一行の痛惜するのみならず、日本全国民の悲痛に堪へざる処なりとす、国務卿は吉田松陰の事に付て話されたるが、同氏が五十四年前米国に渡航せんとして旧政府に捕はれたるが、其門下たる伊藤公爵が亦国事に尽瘁せられ、遂に薨去せられたるは誠に涙の外無き次第なり、云々
次ぎに行政委員長マツクフアーランド氏、大要左の演説を為す
 コンマンドル・ペリーが日本を往訪したる以来、両国の関係は連続闕如したる事なし、同氏は此市に於て日本に赴くべき訓令を受けられたり、日本の代表者も此市に滞在せり、日本国民は由来外賓に対
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し親切を尽すに有名なり、米国人も亦如此ならん事を予は希望するものなり
 太平洋は日米両国間に横はり、両国民の心と心とを結付る無線電信なり、云々
午後十二時宴を終り、青淵先生には即時特別列車に帰乗せらる
○下略


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二八二―第三三〇頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0003)
第32巻 p.250-258 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第二八二―第三三〇頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第四節 ニユーヘブン及プロビデンス
十月二十二日 (金) 曇
 午前四時ニユーヘブンに着、八時半当市の商業会議所会頭ウルマン市長マルチン、其他歓迎委員諸氏、及エール大学諸教授の出迎を受け、一同は出迎の自働車に分乗し、まづ市内見物に向ふ。此際予定の時間僅少なるを以て、工場会社を訪ふも内に入らず、只来意を告ぐるに留む。而も各所の歓待熱誠にして、門前に我が国旗を掲げ、一々記念品を贈らる。正午前エール大学に達し、一同総長室に至り総長ハドレイ氏に面会す。総長歓迎の辞を述べ、紀念章を団長に贈る。此紀念章は八年前同校創立二百年祭の際之を製し、伊藤公に一個を贈れるものなりと云ふ。一行中松方・西池二氏は、曾て当校に在学せし関係あるなり。
 午前十一時プロビデンスより出迎の商業会議所会頭フィルド氏、及役員等と同乗、ニユーヘブンを発し、午後一時五十分プロビデンス市に着す。時に在留日本人より珍らしき花籠の寄贈あり。
 下車後直ちに商業会議所員、及官民一同の案内にて、市役所を訪ひ商業会議所会頭フィルド氏の歓迎の辞を受け、次でロードアイランド州庁に向ひ、知事ポッサア氏と接見し、後、庁内各室を参観し、再び自働車に分乗して、工場・製造所・大学・師範学校・公園等を巡覧す。午後四時頃ゴールハム銀器製造所を訪ひ、各分工場を視察す。同会社食堂にて、茶果の饗応あり、又た銀製紀念章を贈らる。
 当年ペリー提督日本と条約を結んで帰りし時、同一行の贈られし紀念章も、当会社にて製造せしものなりと云ふ。後一とまづ列車に帰り、更に特別電車にて、三哩を隔てたる勝景の地、スクアンタム倶楽部に到る。まづ階上にて接見会あり。後大食堂にて晩餐の饗応を受く。会頭ホラティーオー・アール・ナイチンゲル氏、州知事ポッサア氏、法律家ベーカア氏、市長フムッチャー氏、ブラウン大学総長、フォーンス博士等、代る代る起つて歓迎の辞を述べ、渋沢団長答辞を述ぶ。当州は恰かもペリー提督出身の地の事とて、主客の談屡々之れに及び、当時を追懐せしむる者多し。又今夕の宴会には当地特産の貝料理を初め、専ら魚鰕の類を選み、余興に花火を打揚ぐるなど、従来他に見ざる所なりとす。午後十一時同倶楽部を辞して再び電車にてユニオン停車場に送られ、翌二十三日午前六時半ボストン市に向つて発す。
 是より先、大阪の岩本氏は紐育出発の間、親父の訃に接し、勿皇行
 - 第32巻 p.251 -ページ画像 
李を整へニューヘブンにて一行と別れ、直に帰朝の途に上りしは、頗る同情に耐へざる所とす。
 婦人の部 午後プロビデンス婦人倶楽部の接見会に臨む。
    第五節 ニューヘブン及プロビデンス概況○後掲ニツキ略ス
    第六節 ボストン市
十月二十三日 (土) 曇
 午前八時ボストン停車場に着、同八時廿五分歓迎委員の案内を受け全団を二隊に分ちて、直ちに見物に向ふ。第一隊は午前八時半、商業会議所特別仕立の列車に乗換へ、クヰンシーに向ふ。同所に「フォーア・リバー」造船所を巡覧すること約二時間、同十一時半、同所内に於て午餐を饗せられ、十二時ボストン市に向て帰り、零時三十分ハーバート大学に向ひ、第二隊に会す。第二隊は八時半出迎の自働車にて、ウォールサム時計製造会社に向ひ、正午迄見物、同会社に午餐の饗応を受け、零時半同じくハーバート大学にて第一隊に合す。第一隊・第二隊及び婦人側の三隊は、ハーバート大学内に合し、総長代理書記官長グリーン氏・商科大学長ゲイ氏の歓迎の辞を受け、後紀念館前庭に撮影を為し、大学構内、及ケンブリッチの各地を自働車にて見物、二時五十分、ハーバード遊戯場に至り、同大学対ブラオン大学のフートボール試合を見物し、終りてホテルに帰る。午後七時アルゴン・クイン倶楽部に至り、接見会の後、商業会議所主催の晩餐会に臨む。席上ペリー提督の孫にして、現に当市商業会議所会頭なるスタロー氏・州学務委員フィツシュ氏・モールス教授等の歓迎の辞あり、渋沢・神田両男答辞を述ぶ。散会夜半に及べり。
 婦人の部 午前八時廿五分出迎の自働車にてチュレーン・ホテルに入り、午前十時半自働車にてケンブリッチに向ふ。午前十一時同地に於けるロングフェロー詩伯の遺邸を訪ひ、同氏の息女ダナ及スロープ夫人より饗応を享く、正午十二時コロニアル倶楽部にて午餐を饗せられ、同午後一時十分ハーバード大学校内に向ひ、同所にて男子連と会し、其後は共に行動す。
十月二十四日 (日) 雨
 午前は休息(但し数名の団員は教会に赴けり)午後二時一行の一分隊は、新築中の美術館を見物す。此美術館は白耳義・羅馬・印度・支那・朝鮮等諸国の新古美術品を蒐集せり。殊に日本部には、意匠を凝らせる日本室の別室を設け、日本の陶磁器・書画類の美術品を陳列せり。之れ即ち故フェネロサ教授及モールス博士の丹精に由るものなりと云ふ。此美術館は新築後整理中にて、未だ一般公衆の入場を許さゞるも、モールス博士の尽力によりて、特に開館せられたるは一行の頗る光栄とする処なり。帰途有名なる図書館を見物す。
 設備完全驚くの外なし。午後五時よりホテル・ベンドームに於て、日本協会及浪速倶楽部主催の接見会あり、茶菓及び立食の饗応を受く。
 此日渋沢男・中野・頭本・巌谷・加藤の諸氏、接伴委員長ローマン氏等ペリー提督の墳墓に詣づる為め、汽車にてロードアイランド州
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ニューポートに向ふ。午前十時ニューポート着、市長ボイル氏・助役ウィルラー氏等の出迎を受け、直ちに半哩程を隔てたる共同墓地に至る。提督の墓は其中央なる二株の老柏の下にあり。渋沢男はボストンより携へたる花環を墓前に捧げ、順次礼拝の後、墓前にて紀念の撮影を為す。時に秋雨霖々として客衣を打ち、感慨殊に深し。
    新港奠故彼理提督墓 渋沢青淵
  異洲早已記英名。  来与幽魂訂旧盟。
  日暮粛々風送雨。  併将暗涙奠墳塋。
    ○             同
  おくつきに手向くる花の一束に
        涙の雨も添へてけるかな
    ○             中野随郷
  碑に涙ぬぐふや初時雨
 墓参後、最寄なる海軍練習所長フルラム大佐の官邸を訪ひしに、大佐又一行奠墓の好意を多とし、款待至らざる無く、雨中自ら先導して、所内各部を示せり。かくて正午を過ぎたれば此所を辞し、旗亭に中食を認め、後富豪の別荘地などを巡覧して、再び汽車に投じ、夕景ボストン市に帰り、日本協会及び浪速会の接見会に臨む。
十月二十五日 (月) 曇
 午前八時四十五分、歓迎委員嚮導の下に自働車に分乗し、二隊に分れて各所を見物す。第一隊はブラオン氏の案内にて、先づ「ゼネラル」電気会社分工場に至り、同所場を巡覧す(但しスケネクタデイの本社にて見ざる処のものなり)次て製靴会社を見物し、正午自働車にてビーバリーに向ふ。(同地にはタフト氏の夏期別荘あり)製靴機械会社にて午餐の饗応を受け、其工場を見物し、それより海岸景勝の地を見物して、夕刻ホテルに帰る。第二隊はロックウード氏の案内にて、先づローレンスに於ける紡績会社を見物し、同社にて午餐を饗せらる。午後も各工場各所等を視察し、四時五十分特別列車にてボストン市に帰る。今夜は米国平和協会主人となりて、日本平和協会員として、若くは平和事業に貢献ある渋沢男・中野氏・佐竹氏・渡瀬氏・神田男・頭本氏等を招待し、ホテル内に小晩餐会を開く。尚今夕は一同オリンピック劇場に案内され、後列車に帰る。委員オスボーン氏、本日午後二時ロスアンゲルスに向つて帰る。
 婦人の部 午前十時半出迎の自働車にて、シンモンス大学を訪ひ、零時半ウェルレスレー女子大学に於て午餐を饗せられ、終りて同大学を参観し、午後四時同ホテルに帰る。
    第七節 ボストン市概況○後掲ニツキ略ス
    第八節 ウースター及スプリングフィールド
十月二十六日 (火) 晴
 午前八時ウースター市に着、一同市役所を訪ひ行政部室に於て市長代理ロガム氏の歓迎を受け、左の五隊に分れて各工場を視察す
 第一隊下水清浄所・農園・癩狂院。第二隊、クラーク大学・ウースター工科大学・ウースター中学。第三隊、ウースター工科大学・封筒製造所・金剛砂石製造所・磨器械製造所。第四隊、針金製造所・諸農具
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製造会社。第五隊、紡績会社・コルセット会社・絨純製造会社。
 十二時半特別列車に帰着、直ちにスプリングフィールドに向ふ。午後二時、同停車場に着、直ちに二十数台の自働車に分乗し、米国兵器製造所に至り、所長ラント大佐の案内にて、宏大なる各工場を参観し、帰途三百二十英加ありと称せる、市の公園内を過ぎ、五時半頃一同特別列車に帰る、今夕ネイアセット倶楽部に於て、接見会及晩餐会を催さるゝ筈なりしも、本団は今日伊藤公薨去の報に接したるが故に、弔意を表して一同之を辞し、只米国側の接待委員諸氏のみ之に臨む事と成れり。斯くて一同車内に謹慎の意を表し、深更ニユーワークに向つて発す。
 是より先き、今朝我が特別列車のウースター停車場に着するや、報ずるものあり、伊藤公哈爾賓に於て、韓人数名の為めに暗殺されたりと。一同頗る危惧の念を以て、事の真否を知らんことを望む。已にして午後スプリングフイールドに於て、外務省より紐育総領事館に宛てたる公電に接す。原文下の如し。
  ○前掲ニツキ略ス。
 嗟呼兇報は不幸にして真なりき。一同驚愕相顧みて太息するのみ。
 即ち車内に晩餐後、臨時総会を開き、下の弔電を発す。
  ○総理大臣・宮内大臣・井上侯爵宛電文、前掲ニツキ略ス。
 而して各地商業会議所等より、続々弔電に接す。又スプリングフィールド市の「デーリー・レパブリカン」新聞は、今朝直に記者を列車に送り越し、慇懃に悼詞を陳べ、尚ほ団長の之に対する感慨を叩いて去りしが、帰後其紙上に左の一文を掲げたり。以て米国人側に於ても、如何に同情を寄せしかを知るべし。
   △日本実業団の哀悼
     (実業団ウースターに於て伊藤公爵暗殺の報を聞く)
 昨朝ボストン市よりウースター市に来れる名誉ある日本実業団は、伊藤公爵薨去の報に接し、半信半疑を以て、只管公爵の政治上に於ける功績を賞揚せしが、其よりスプリングフィールドに到着し、又此日本の政治家が暗殺せられたるの報が不幸にして正確なることを聞くや、実業団の団長にして、日本に於て最も卓越したる財政家渋沢男爵は、暫時深き感動に打たれ痛く流涕せられたり。而して団員は、何れも新日本の創設者、伊藤公爵の功績を賛称して、止まざりし。
 団長渋沢男爵先づ口を開き語つて曰く、
  「伊藤公爵暗殺の報は甚だ突然にして余は之を信ずるを躊躇する程なり。然れども今や之を疑ふの余地なきが如し。果して事実となりとせば我国の損失は之に超るものなし。公爵は個人として甚だ寛大に、且つ仁愛の人なり。故に公爵に接近する人は、皆公爵を敬愛せり。然れども公爵は新日本第一の創設者たるを以て、其五十年間に於ける政治生涯中には、暗殺の危険に遭遇せられたること一再にして止まらず。然れども天恵に依り常に強壮の健康を保ち、尚ほ将来に於ても、日本の為めに多く尽さるゝ所あるべしと期待せられたるなり。
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  公爵政治上の活動は多方面に渉れるが、殊に最も顕著なるものは憲法の制定是なり。憲法は 天皇陛下之を与へ賜へり。而して之れ我日本の政治上に於ける偉大なる変遷にして、此偉大の変遷は大に伊藤公爵先見の明に基くものなり。我国民は殆ど一斉に、伊藤公爵は 陛下の御信任最も深き元勲にして、公爵の薨去は 陛下の一大損失なるべきを認めん。
  公爵は、如何なる困難に遭遇するも屈せずして進める、最も忠節の臣なりし。五回総理大臣となり、公務の繁忙なる中に、多少動乱の状態に在る朝鮮の国務を整理することを考へ、之を以て公爵が国家の為めに尽す最上の途なりとし、政友の熱心なる忠告あるにも拘らず、進んで之れに赴き、其余生を之に捧げんとせられたり。
  朝鮮に関する公爵の政策は、朝鮮国王及其人民を指導して、日本に対する信頼を深くし、且つ極端なる暴挙に出で、徒らに其国運を危険に陥らしめざらんことを期せしに在りしなり。
  公爵の採れる朝鮮政策に対しては、外国に於て烈しく批難するものもありき。就中朝鮮の事務を処理する上に於て、余りに穏和的なりとの批評少からざりき、然れども公爵の政策は 陛下に於て日本及朝鮮に取り、最良のものと御信認あらせられたるなり。
  余が公爵との友情は、千八百六十九年、余が大蔵省の大丞にして公爵は其時一の「ミストル伊藤」なりし時に始まれり。其後公爵は同省の大輔となり(余の長官なり)爾来四十年間は、余の最も親密なる友人なりき。余は公爵の朝鮮政策を以て、最良のものと信す。又何人も公爵の個人的温情に富める人なることを知る。殊に公爵が 陛下に忠節なるは、天下挙って賞揚する所なり。日本人は誰にても 陛下に忠を尽さんことを願ふ。而も伊藤公爵の如きは、最も忠節の臣と云ふべし。故に 陛下と国の為めに其生命を擲つは、公爵の満足する所ならんも、余は今や国人と共に深く公爵の死を痛惜す」云々。
 此処に至り、渋沢男爵は悲哀の感極まり、哀哭して又一語を発する能はざりき。

 婦人の部 午前八時半ウースター婦人倶楽部員の出迎あり、自働車にて市中を観覧し、後婦人倶楽部を訪ふ。零時十五分頃、列車に帰る。午後二時スプリングフイールド婦人倶楽部員の出迎あり、自働車にてスミス大学を訪ひ、同所にて略式接見会あり、午後五時三十分頃列車に帰る。
    第九節 ウースター及スプリングフィールド概況○後掲ニツキ略ス
    第十節 ニューワーク市及レッヂング
十月二十七日 (水) 晴
 午前九時ニュージャーシイ州ニューワーク市に着、直に同市の歓迎委員に案内せられて、一同市役所を訪問し、市長フウスリング氏の歓迎を受け、又消防演習を見る。其完備せる米国第一と称す。後一行七組に別れて、各方面の工場を視察し、午後一時ベルモント街な
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るクルーゲル・アウヂトリアムに参集し、接見会の後、市長・商業会議所会頭・大小銀行頭取・鉄道会社々長・州両院議員・米国両院議員等出席し、ニュージャーシー州副知事・州会上院議長など、ペリーの事蹟に付き説く所あり。次に当州上院議員ケーン氏は、曾て伊藤公に面接せしことありとて、深く弔詞を述べ、渋沢団長之に答ふ。食後、一同エヂソン電気会社を訪ふ。エヂソン氏夫妻を始め、諸重役の出迎あり、一同接見し、六時間内に建造すと云へる、コンクリート家屋の模型を見る。一同紀念撮影の後、最新式にて明瞭なる活動写真を見、五時過ぎ一同列車に帰り、同五時二十八分同市を辞して、ペンシルベニア州レッヂング市に向ふ。
 九時頃レッヂング停車場に着。下車は明朝に譲り、一同車内に在りしに、市の歓迎者は、楽を奏しつゝ已に車窓外に押し寄せ、群集亦雑踏を極む。故に一行は観覧車に集りて、臨時の接見会を開きしに握手を求めて闖入するもの引も切らず。老翁あり、少年あり、紳士あり、労働者あり、中には引返して再び来るものなどあり。殆んど際限なきにより、委員等遂に之を見兼ね、警官の手を煩はして、中途より之を謝絶するに至れり。
 婦人の部 午前は商業会議所員夫人連と、自働車にて四十哩程廻走し、正午リーブ夫人方にて饗応を受く。
  附記、初めに定めたる順序に依れば、今夜は当地に一泊し、明朝パターソンに立寄る予定なりしも、都合により順序を変更し、即夜レッヂングに向ひ、明日午前を同地に過ごし、午後はベツレヘムに過すことゝなれり。
十月二十八日 (木) 曇
 午前八時レッヂング停車場を発し、十哩を隔てたる、サウス・マウンテンに在る州立癲狂病院を訪ふ。院長ウィリアム・ヒル氏歓迎の辞に次で、当院の組織の大要を述ぶ。当院はペンシルバニヤ州立にて、多く慢性患者を収容し、其諸費用は州に於て三分の二、当郡に於て三分の一を負担する由なり。夫れより院内を参観し、各病室を見る。本院は頗る閑雅の地を占め、設備亦殆ど遺憾なきが如し。
 午前九時癲狂病院前より再び列車に搭じレッヂングに帰り、更に自働車に分乗するに、二名の騎馬巡査及び四名の音楽師を乗せたる自働車、其先導となりて市中を趨る。小学生徒を始め、市中の老若男女の街頭に歓迎する者頗る多し。軈てペンシルベニヤ及レッヂング製鑵会社を参観し、公園を経て十一時半レッヂング中学校を訪ひ、大講堂内の歓迎式に臨む。男女生徒約千名已に堂内に充てり。校長ウェナー氏の司会にて、市長の歓迎辞あり。神田男之に答へ、更に英訳勅語を朗読し、其一本を同校に寄贈す。十一時三十分列車に帰り、直にベツレヘムに向ふ。時に初雪の霏々たるを見る。
 午後一時ベツレヘムに着、列車は同製鋼所構内に停る。当所は鋼鉄板、其他武器の製造を特別として、合衆国鋼鉄ツラストの一部に在り。社員の案内にて各工場を見る。流石に米国屈指の大製鋼所の事とて、規模頗る大に、只通覧せしのみにても約二時間を費せり。午後四時三十分、一同列車に帰り、フィラデルフィヤに向ふ。
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 午後六時半、フィラデルフィヤに着、官民の歓迎者多し。直に出迎の自働車に分乗し、ホテル・ベルビュー・ストラットフォードに入る。往年幕府の使節一行も、此旅館に行李を解きたりと云ふ。奇縁と云ふべし。当夜名誉領事マクファーデン氏、団長・各会頭及日比谷氏等を招待して盛宴を張る。九時よりウィザースブーン会館に於て米国政治社会学会の集会あり。一同招待を受く。席上渋沢男(頭本氏英訳)神田男・水野総領事等の講話あり。聴衆二千余名。
    第十一節 ニューワーク及レッヂング概況○後掲ニツキ略ス
    第十二節 フィラデルフィヤ市
十月二十九日 (金) 晴
 午前九時半、一同ホテルの隣家なる製造家倶楽部に参集、自働車に分乗し、十時同所を発し、まづ独立閣に向ひ、堂内を見物す。独立宣言書を作成したる紀念堂には、机・椅子・インキ壷・燭台等、当時の什器猶ほ存せり。階下の中央には自由の鐘あり。今は硝子箱に蔵めて安置す。階上の広間は其当時食堂に用ひしものゝ由にて、ペンシルバニヤ州創建者、ウィリアム・ペン氏の肖像画あり。又一隅にはワシントンの使用せられしと云ふ、粗末なる一脚の安楽椅子あり。頗る当年を偲ばしむ。
 十時四十五分造幣局に達し、各部を参観す。恰も我が一行歓迎紀念章を製造し居れり。其中純金を以つて製せるものあり。同所長より 天皇陛下に捧呈したき由にて、一面に大統領の肖像を打出だし、他面に「日本実業団来米歓迎紀念」を、日英両文にて刻せり。次に商業博物館に向ふ。同館は州市合同経営にして、物品陳列の方法頗る教育的なるは、館長ウィルソン博士の苦心する処にして、蓋し米国一の名に恥ぢず。各地巡覧の後、図書室にて祝杯を挙げ、紀念撮影等あり。十二時一同々館を辞す。それより各自希望により、各方面の視察に向ふ。大学病院、ステットン帽子製造所、ワナメエカーデパートメント・ストーア、絹会社、ペンキ会社、メーソニック寺院、カーペンター会堂、動物園、美術院等、其主なるものとす。午後八時三十分より十時まで、製造業者倶楽部に接見会あり。一同出席す。
 婦人の部 午前九時三十分男子側と共に独立閣・造幣局・商業博物館等を見物し、午後二時三十分、再び自働車にて、ヂラート大学の孤児院に赴き、夜は観劇に招待さる。
  附記 今日当費府駐在、帝国名誉領事、マク・ファーデン氏より正賓専門家へ、時計飾金鐘一個宛贈らる。独立紀念鐘を模せる物なり。
十月三十日 (土) 晴
 午前九時半、自働車にてチェストナット街の波止場に至り、市長の厚意によりて用意されたる汽船スプリング・フィールド号に搭乗しデラウェア川を上下して、附近の港湾、ヘンテーデ・イーストン鋸製造所、水道貯水所、海兵団等を訪ひ、河岸の勝景を探り、再びチェストナット街に上陸し、市役所を訪ひ、市長レイバーン氏以下に接見しホテルに帰る。午後六時よりホテル内に晩餐会あり。席上製
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造家倶楽部会頭フォルウェル氏・上院議員ペンローズ氏・市長レイバーン氏・州知事スチュアート氏・判事バァリントン氏、及ワナメエカー氏等の歓迎演説あり、渋沢・神田両男之に答ふ。深夜散会。
 晩餐会はホテルの大食堂に於て開催せられ、其室内の美麗なるのみならず、装飾亦善美を尽せり。
 婦人の部 午後四時ニューセンチュリー倶楽部にて、茶菓の饗応あり。夜はホテル別室にて歓迎婦人側の招待を受く。
十月三十一日 (日) 晴
 午前は各自随意に見物し、午後二時より歓迎委員より廻されたる自働車にて、フェイアモント公園、及び市外のチェストナット・ヒル勝景の地を見物す。公園中一道の自働車通過を許さゞるものありしも、特に一行の為めに禁を解きて、週遊を擅にせしめしは、大に多とせざる可からず。夕方一同帰館、夜は各自随時列車に帰る。
    第十三節 フィラデルフィヤ市概況○後掲ニツキ略ス
    第十四節 華盛頓府
十一月一日 (月) 晴
 午前九時二十分ワシントン府に着す。停車場内の大統領室にて市行政委員マクファランド氏の簡単なる歓迎の辞あり。後ち自働車に分乗し国会議事堂・同図書館・国務省・博物館等を過ぎ、華盛頓紀念碑を廻つてポトマック河畔公園を見、セネカ・アベニュー橋を渡りて動物園に入り、少時してロック・クリーク公園に自然の勝景を探り、更に転じて廃兵院の構内を経て再び市街地に入り、十時十五分国務省を訪ふ。国務卿ノックス氏・同次官ウィルソン氏等玆に一行を迎へて簡単なる挨拶を為す。後一同は陸軍省を訪ひ各大臣室に至りて次官に面会し、次に大統領の役邸なる白堊館を訪ひ応接室・青室・緑室・赤室等を見物し、終りてホテル・ニューウィラードに投ず。但し渋沢男は独り国務省に留りミラー氏の通訳を以て国務卿ノックス氏と少時会談する所ありたり。午後二時一同は自働車にてホテルを出で、鎮守府構内より小蒸汽船に搭じて国父ワシントンの墓所マウント・バーノンに向ふ。ポトマック河を下る事十六哩、二時間ばかりにしてマウント・バーノンに着、ワシントンの墳墓を拝し花環を捧げ墓前に紀念の撮影を為し、更に旧邸を訪ひて客室・書斎・食堂より階上の寝室・臨終室等を参観する事少時、薄暮再び小蒸汽に送られて帰る。夜は一同自働車にて先づ国会図書館を見物す。蔵書二百余万冊に及び結構亦世界第一と称せらる。転じて国会議事堂に至り上下両院議場・高等法院法廷等を見て、午後九時商業倶楽部に到り有志の接見会に臨む、茶菓の饗応あり。十時半頃一同帰館。
十一月二日 (火) 晴
 午前九時一同自働車にて、軍用墓地アーリントン、及び要塞フォート・マイヤ等巡覧の後、野戦砲兵隊営内の馬場にて、其の馬術演習を見物す。帰館後衣を更めて、一同国務次官ウィルソン氏の公式午餐会に臨む。元来今日は国務卿ノックス氏主人となりて、我が一行を招待する筈なりしも、氏の姻戚に不幸ありしが為に、俄に次官之に代れるなり。主人夫妻は曾て在東京米国大使館に一等書記官たり
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しことあり、我が国語にも通じ居れば、一行の応接にも亦頗る意を用ひたるを認む。食後ウィルソン氏の歓迎の辞に次で、費府造幣局にて製造せる金牌を、渋沢男を通じて 陛下に捧呈せんことを依嘱し、尚ほ一行にも同型の銀牌を贈らる。かくて 天皇陛下・大統領の万歳を唱へ、君が代の奏楽中に散会す。
 午後は一同国立博物館、及市庁を見物し、随意ホテルに帰りて休息す。今夕は埴原一等書記官の招待にて、団員中の十数人はメトロポリタン倶楽部に晩餐を饗せられ、基督教に関係ある者数人は青年会館を訪問す。午後八時半よりコルコラン美術館に接見会あり。一同出席。終りて同館内を見物して帰宿す。
十一月三日 (水) 天長節 晴
 本日午前アンナポリス兵学校見物の筈なりしも、時間切迫の為め中止し、午前十一時より一同帝国大使館に参集し、両 陛下御真影の下に、遥拝式を行ひ三鞭の杯を挙げて、万歳を三唱す。午後は各自随意に見物に向ふ。午後七時より、松井臨時代理大使主催天長節祝賀会をホテルの大食堂に開かれ、団員一同之に列す。国務卿ノックス氏・内務卿バァリンジャー氏・国務次官ウィルソン氏以下、米国側の紳士百余名あり。席上松井代理大使は、先づ大統領タフト氏の健康を祈り、次に国務卿ノツクス氏は 天皇陛下の万歳を祝し、更に立つて述べて曰く。
  ○演説前掲ニツキ略ス。
 次に松井臨時代理大使は一応の答辞を述べて、太平洋聯合商業会議所の厚意を謝し、同時に米国民の友情に富み、我が実業団員に対して種々の利益を与へらるゝを、深く感謝する旨を述べたり。
 次に内務卿(シヤトル出身の)バァリンジヤー氏は述て曰く
  ○演説前掲ニツキ略ス。
 最後に渋沢団長は立つて「日本は未だ米国と並立して提携するに足らざるも、勉めて之に企及するに躊躇せず。昨年来相互に一層親善を計らんとせるは皆之が為のみ。而かも只自分の富のみを期して、他を省みざるは我が本意に非ず。漸次商工業の進むによつて、競争の起らんは避くべからざるも、而かも、正道を失はぬものたるを要す。故に仲裁々判も亦た可なるに相違なきが、余は寧ろ進んで先づ相互の道義心に訴へて、円滑なる交誼を結ばれん事を希望す。終に臨んで、我が伊藤公薨去に対する国務卿の弔詞に対して、深く厚意を感謝す云々」と述ぶ。宴後一同特別列車にて帰る。
 華盛頓府滞在中は、三日間共快晴にして、頗る温暖なりき。こは当地の所謂「インデアン・サンマー」(印度人の夏)なる残暑にして、恰も我が国の小六月と云へるが如し。松方・岩原の二氏は先に紐育に留り、当市に来りて一同と会合せしが、今夜再び別れて紐育に帰る。松村氏は此日此地にて一行に別れ、独り欧洲に向ふ。
 婦人の部 夜松井臨時大使官舎にて晩餐を饗せらる。


渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(明治四二年)一一月三日(DK320011k-0004)
第32巻 p.258-259 ページ画像

渋沢栄一書翰  佐々木勇之助宛(明治四二年)一一月三日 (佐々木勇之助氏所蔵)
                  (ゴム印)     (佐々木)
                   十一月廿九日 
 - 第32巻 p.259 -ページ画像 
益御清適奉賀候、其後毎々尊書被下候得共、当方実ニ多忙執筆之暇を得す、乍思御疎情申上候、御海容可被下候
旅程も追々相進ミ、今日ハ当華盛頓も相済ミ、夜半より又汽車ニ乗込候都合ニ御座候、余す処尚弐拾ケ所も有之候得共、兎も角も本月三十日ニハ桑港まて相済、帰途ニ就き候筈ニて、最早三分二を経過せし訳ニ御座候
紐克ニてハ当方よりも相当之饗宴を開き、地方人士を相招き申候、又例之シフ氏抔頗る親切ニ午飧会相開き、府内有力之大家のミ二十有余名参列し、有益なる一会有之候、但此宴ハ特ニ小生之為ニシフ氏之開かれたるにて、一行ニ関しても商業団体等種々之宴会数回に及申候、又ボストン、フイラドルフイヤ等も先以好都合ニて、充分之歓迎を受申候、当華盛頓府ハ中央政府之地として諸事他地方と異り、政府之優待ニ出て昨日ハ国務卿ニ於て開宴之筈なりしも、親戚ニ病死者有之候ニ付、其次官ウユルソン氏宅ニて午飧会相開き申候、又其朝ハ陸軍練習所ニ於て、騎兵・砲兵等之演習を為し、一行ニ一覧為致候抔、各地方ニてハ見るを得ざる事多々有之候
韓国中央銀行設立ニ関し、過日詳細之来示拝承仕候、素より其辺之成行と想像候ニ付、別ニ意外ニも無之候、只々伊公之凶変等より経済界ニ何か異状等不相生様、切ニ御注意之程祈上候、市原其他之人々も主任と相成候ニ付而ハ、当方之事のミ相考候様ニも相成兼可申、此上ハ精々双方共ニ忠恕之道を取失はさる事専一と、呉々も斯念仕候、御領意之上市原氏其外へも御伝声可被下候
伊藤公之事ハ、実ニ千歳之恨事申上候様も無之候、韓国ニ対する我邦之政策ハ、別ニ動揺無之筈と夫のミ祈上候事ニ候
本店・各支店とも別ニ相替候義無之と遥頌仕候、定而百事御高配、別而御繁忙と察上候、年末ニハ老生も帰京御手伝可申ニ付、何卒御耐忍被下度候
東洋汽船会社之事も、来示ニて拝承、帰途桑港ニて概略ニても聞合可申と存候
紐克ニてシフ氏との取引ニ付而ハ、期日ニ相済候由を、正金銀行今西氏より伝承し聊安心仕候○中略右等来示之御答旁、匆忙中取交可得貴意如此御座候 不備
  十一月三日当賀             渋沢栄一
    佐々木勇之助様
          梧下
尚々日下・市原、其他之諸君へ、呉々も御伝声頼上候也
佐々木勇之助様 親展 渋沢栄一
十一月三日

 - 第32巻 p.260 -ページ画像 

竜門雑誌 第二五八号・第四三―四六頁 明治四二年一一月 △ペルリ紀念祭(ボストン十月二十三日発電)(DK320011k-0005)
第32巻 p.260-263 ページ画像

竜門雑誌  第二五八号・第四三―四六頁 明治四二年一一月
△ペルリ紀念祭(ボストン十月二十三日発電)
 我渡米実業家一行は二十二日朝ニユーヘブンに到着し、各工場を歴訪したる後、エール大学に赴く、大学に於て総長ハツドレー氏一行歓迎の辞を述べ、大学創立二百年祭当日の紀念杯を渋沢男に送り、渋沢団長答辞を述べ、午後更にプロヴイデンスに到着したるが、此地はペルリ提督出身の地とて熱心に歓迎し、市役所及び州庁にて市長及び知事の歓迎式あり、各方面を巡覧したる後ゴーハム・シルバー・スミツス会社を参観せしに、同社はペルリ提督日本に渡航の当時紀念の銀杯を製造せし縁故ありとて、一行に銀製紀念杯を贈られしが、渋沢団長には特製の大銀杯を贈呈せり、夜はジユアンタム倶楽部に晩餐会あり、席上市長・知事・商業会議所会頭・倶楽部会頭・大学総長等の熱心なる歓迎の辞に対し、渋沢団長及び水野総領事の答辞あり、今朝ボストンに到着、直ちにフオアー・リバー造船所及びウオルサム時計会社を参観し、午後はハーバード大学を訪ひ、夜はアルゴンジユム倶楽部に晩餐会ある筈
△工場・学校の参観(ボストン十月二十四日発電)
 我実業家一行は二十三日午前二隊に分れ、ウオルサム時計製造所及びフオール・リバー造船所を参観し、午後は一同ハーバート大学を訪ひ、総長代理書記官グリーン氏・商科大学長ゲー氏の歓迎の辞、並に渋沢団長の答辞交換あり、後同大学対ブラウン大学のフツトボール試合を観たり、夜はアルゴシユイル倶楽部の晩餐会に招かれ、席上ペルリ提督の令孫にて商業会義所会頭なるストラウ氏・州学務委員フヰッシユ氏・モーセー教授及び渋沢団長・神田男等の演説ありて夜半散会せり
△ペルリ提督の墓に詣づ(ボストン十月二十五日発電)
 我実業家一行は二十四日(二十五日?)午後雨天なりしも、雨を侵して渋沢団長を始め、中野・頭本・巌谷・加藤・ローマンの六氏ニユーポートに赴き、ペルリ提督の墓に詣で、親しく花環を捧げたるが、市長及び助役等は深く之に感動し非常に歓待せり、其より最寄りの海兵団に案内され、フリユーム大佐の案内にて各兵舎を参観し午餐を供せられ、夕刻ボストンに帰れり、其他の諸氏は近日公開さるゝ筈なる新築博物館に案内せられ、帰途図書館を見物し、直にヴエンドン・ホテルに於ける日本人のレセプシヨンに向へり
△別報(ボストン十月二十五日発電)
 渋沢男外数名は、ニユーポートなるペルリ提督の墓に詣でし為め、米人等は大満足なり、新聞紙亦大いに之を賞揚せり、南・原両氏及び其他数名は加奈陀に行きて、官民より予想外の大歓迎を受けて帰着、当市にて一行に合したり、一行は今朝附近の工場を巡覧し、今夜は組合教会・平和協会の晩餐会を受けたる後、直ちにウオースターに向つて出発の筈なり
△兵器製造所参観(スプリングフヰールド十月二十六日発電)
 ウオルセスターに今朝来着、直ちに市役所の歓迎式に臨み、夫れよ
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り二大学・病院・下水用具製造所・養育院・癲狂院・農具・絨氈製造所・紡績会社等を参観し、即刻スプリングフヰールドに向ふ、午後同市の合衆国兵器製造所に於ける小銃製造の実況を参観せり
△伊藤公凶変と一行の哀悼(スプリングフヰールド十月二十六日発電)
 今日伊藤公爵凶変の報を耳にし、一行は当初之れを疑ひしも、次で其事実確かめらるゝに至つて何れも驚倒せり、依つて一行は深き弔意を表すべく、今夕招待され居りし晩餐会を辞退し、何れも謹慎する事とせり、尚右に就き一行は当国各商業会議所より続々弔意弔電を受け、各新聞紙は深く哀悼の意を表せられ居るを見る
△伊藤公凶変に就て(ニューヨーク十月二十七日発電)
 渋沢男は伊藤公凶変に関し、紐育に於て訪問記者に対し、公の暗殺は日本の対韓政策を変ぜしめざる可し、公は文明の為めに殉したるものなりと語りたり
△弔旗を掲げて迎ふ(リーデイング十月二十七日発電)
 今朝ニユーアークに着、直ちに市役所の歓迎会に臨み、夫れより各方面の工場を参観し、午後はクリユーゲル・オーデトリユームに午餐会あり、席上上院議員・市長等の友情に富める演説あり、散会後一同はエデイソン氏の電気試験所に赴く、同氏夫婦は特に一行を歓待し、新式活動写真を一行の観覧に供したるが、当日同市が到る所日本国旗に黒布を纏ひて、伊藤公爵薨去の弔意を表されありし事は他境にある一行をして最も深甚なる感を懐かしめたり
△費府の歓迎(フイラデルフヰヤ十月二十九日発電)
 我実業家一行は二十七日夜リーデイングに着せしに、市長・商業会議所会頭を始め、有志の老若男女音楽を奏しつゝ熱心に歓迎し、握手の為め車中に押入る者数百名に及べり、二十八日には先づ精神病院を参観し、再び帰つてリーデイング鉄道会社の工場を見、夫より高等学校の歓迎式に臨み、市長並に神田男の演説あり、次てベスレハムに至り各工場を見、午後六時三十分フイラデルフイヤに到着、渋沢男及び各会長は名誉領事マツクフアダン氏の招待にて晩餐を饗せられ、更に米国政治社会に臨めり
△独立閣を観る(フイラデルフヰヤ十月三十日発電)
 二十九日午前は有名なる独立閣を観、夫れより造幣局・商業博物館等を見物し、午餐は七組に分れて各種工場に於て饗せられ、食後は各工場を見物す、夜はマニユフアクチユリング倶楽部に於てレセプシヨンありたり
△海兵団を観る(フイラデルフヰヤ三十一日発電)
 三十日は市長の好意を以て、別仕立の汽船をデラウエア河に浮べ、先づ上流に遡りて鋸製造所・水道・貯水池等を参観し、更らに下流リーフ岳に於ける海兵団を見舞ひ、午後五時市長のレセプションに臨む、夜は盛大なる晩餐会あり、席上マニユフアクチユア倶楽部会長ホウルタヱル氏司会、上院議員、ペンロス市長、レイバーン州知事、スチユーアート判事、ビルリングトン、ワナメーカー諸氏の演説あり、渋沢団長・神田男等の答辞例の如く、今日午後は一同フエヤモント公園其他市内の見物等をなし、今夜ワシントンに向ふ
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△華盛頓に着す(ワシントン十一月一日発電)
 今朝華盛頓に到着し、直に自働車にて市内各官衙・華盛頓紀念塔・廃兵院等を見物し、次に国務省の接見室にて、国務卿ノツクス氏及ウヰリヤム次官に面会す、渋沢団長は特に一室にノツクス卿と談話を交換す、一同は陸海軍省・大蔵省に於て各次官に面会し、白堊館を見物し、正午ニユー・ウヰルラード・ホテルに入る、午後は特別仕立の汽船にてメトヴアノンに赴き華盛頓の墳墓に詣で、渋沢団長は花環を墓前に捧げ、一同紀念の撮影をなし、同宅を訪ひ、夕景旅館に帰る、夜は世界第一の図書館を見物し、上下両院を参観し、終りて商業倶楽部のレセプシヨンに臨むべし
△華盛頓の紀念金牌(華盛頓十一月二日発電)
 我実業家一行は、二日朝アーリントン兵営に招かれて騎兵及び砲兵の操練を観、午後一時国務卿ノツクス氏の代理として、国務次官ウイルソン氏の私邸に催せる午餐会に臨む、ノツクス氏は親族に不幸ありたるなり、席上ウイルソン氏は一同に対しフイラデルフイヤ造幣局にて製作せる日本実業団来米紀念銀牌を贈り、尚ほ特に純金を以て製せる同一紀念牌を渋沢団長を経て我天皇陛下に贈進せんことを依頼せり、夜に入りて当地の基教青年会を訪ひ、更にチーコランガラリーに於けるレセプシヨンに臨めり
△別報(紐育十一月二日発電)
 米国々務卿は絶大の名誉を与へて日本実業家一行を引見せり、一行はワシントンに於て多大の熱狂を以て迎へらる
△国務卿の弔ひ演説(バルチモア十一月四日発電五日午後着電)
 昨日は天長の佳節に当るを以て、午前十一時一同は華盛頓大使館に参集、謹んで遥拝の式を行ひ、夜に入りてはニユー・ウイラード・ホテルに於ける松井代理大使主催の祝賀会に招かる、ノツクス国務卿・バレンジヤー内務卿以下臨席の米国紳士百余名、席上松井代理大使の発声にて先づ大統領の健康を祝したるに対し、ノツクス国務卿は我天皇陛下の万歳を発声して、会衆之れに唱和し、続いて国務卿起立「日米両国間の友情深厚なる歴史より説き起して、日本の米国に学びしより米国の日本に学べる事のヨリ多きを述べ、殊に武士道の如きは正に大に学ばざるべからざる所なりと賞讃し、更らに此の深き友情より推せば、日本の哀悼は即ち米国の哀悼なりとて、伊藤公の薨去に対し深く同情を表せる一場の弔辞演説を試み、尚進んで将来日米両国間に起るべき商業上の競争に就ては、公平にして同情ある商業上の仲裁裁判を組織し、以て世界の平和を保持する好個の新例を示さん事を望む」と結びて席に復するや、次で起てる内務卿バレンジヤー氏は「米国人は自国の事にのみ逐はれて、他国の事を研究するに暇あらず、然るに昨年太平洋沿岸より日本に商業視察の為め友人ローマン君渡航せし以来、日米両国の通商をして、愈々親密の度を進ましめざるべからざる事を一層深く感ぜしめたる事は大に予の意を得たり、乃ち日本が米国に対し利益ある隣人なるが如く、同時に米国も亦日本の有益なる隣人たるべし」と説き、之に対し渋沢団長は「日本は未だ米国と併立して提携するに足らず、然れ
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ども努めて之れに及ばん事を期す、昨年来相互に一層の親善を尽さんと努めつゝあるは、皆之れが為めなり、而かも啻に自国の富をのみ期して他を顧みざるにあらず、商工業の進むに伴れて競争的傾向を生ずるは元より避くべからざるも、常に正道を離るべからず、即ち仲裁裁判も必要なれども、夫れ以前に於て道義心に基く円滑なる交誼の結ばれん事を、切に希望するものなり、猶国務卿の伊藤公爵に対する弔辞に対しては深く感謝の意を表す」旨を述て、最後に行政委員長マクハーランド氏は、日本人は頗る深切なり、米国は是非之れを学ばざるべからず、太平洋は日米両国間の連鎖にして、恰かも心と心の無線電信なり云々と、巧妙なる演説を試み、頗る盛会を極めたるが、一行は直ちにワシントンを去り、今朝バルチモアに到着せり(完)


東京経済雑誌 第六〇巻第一五一六号・第九一七―九一八頁明治四二年一一月一三日 ○渡米実業団消息(DK320011k-0006)
第32巻 p.263-264 ページ画像

東京経済雑誌  第六〇巻第一五一六号・第九一七―九一八頁明治四二年一一月一三日
    ○渡米実業団消息
去月十二日紐育に入りたる我渡米実業団一行は、同地滞在十日にして二十一日夜ボストンに向け出発し、同地滞在中二十二日ニユーヘブンに抵り、エール大学の歓迎会に臨み、後更にプロビデンスに着したるが、此地は我邦の開国者たるペルリ提督の出身地なるを以て、歓迎一層熱誠を表はせり、廿四日ローマン氏の案内にて、渋沢団長以下数氏ニユーポートに赴きペルリ提督の墓に詣で、親しく花環を捧げたり、伊藤公の兇報は二十七日朝スプリングフヰールドにて耳にしたるが、当初之を疑ひしも、其の確実となるに至り一同驚倒し、深き弔意を表す可く其夕招待されし晩餐会を辞退し謹慎したるが、同国各商業会議所より一行に宛て続々弔意弔電を受けたり、夫よりニユーアーク、リーデイングを経て、二十八日ヒラデルヒヤに到着、翌二十九日は有名なる独立閣を観、造幣局・商業博物館を見物し、又海兵団を訪ひ、十一月一日夜を以て遂に華盛頓府に向ひ、二日朝同地に乗込み、直ちに自働車にて市内各官衙・華盛頓記念塔・廃兵院等を瞥見し、次で国務省の接見室にて国務卿ノツクス氏及ウヰリヤム次官に面会す、渋沢団長は特に一室にノツクス卿と談話を交換す、一同は陸海軍省・大蔵省に於て各次官に面会、白堊館を見物、正午ニユー・ウヰルラード・ホテルに入る、午後は特別仕立の汽船にてマウント・ヴアノンにワシントンの墳墓及び旧宅を訪ひ、渋沢団長は花環を墓前に捧け、一同記念の撮影をなし夕景旅館に帰る、夜は世界第一の図書館・上下両院を参観し、商業倶楽部のレセプシヨンに臨めり、三日は天長の佳節に当るを以て午前十一時一同は華盛頓大使館に参集、謹んで遥拝の式を行ひ夜に入りてはニユー・ウヰルラード・ホテルに於ける松井代理大使主催の祝賀会に招かる、ノツクス国務卿・バレンジヤー内務卿以下臨席の米国紳士百余名、国務卿立ちて日米両国間の友情深厚なる歴史より説き起して、日本の米国に学びしよりは、米国の日本に学べる事のより多きを述べ、殊に武士道の如きは正に大に学ばざるべからざる所なりと賞賛し、更らに此の深き友情より推せば、日本の哀悼は即ち米国の哀悼なりとて、伊藤公の薨去に対し深く同情を表せる一場の弔辞演
 - 第32巻 p.264 -ページ画像 
説を試み、尚進んで将来日米両国間に起るべき商業上の競争に就ては公平にして同情ある商業上の仲裁裁判を組織し、以て世界の平和を保持する好個の新例を示さん事を望むと結びて席に復するや、次で内務卿バレンジヤー氏の演説あり、之に対して渋沢団長は答辞を述べ、猶ほ国務卿の伊藤公爵に対する弔辞に対しては、深く感謝の意を表する旨を述べ、頗る盛会を極めたるが、一行は直ちにワシントンを去り、四日朝バルチモアに到着す、一同は同夕各所に於ける招待を謝絶し、静粛に旅舎に在りて遥かに伊藤公の葬送に対して弔意を表せり、七日シンシナチーに着、熱心なる歓迎あり、華盛頓着以来各地共数名の巡査を護衛として附するなど、歓待頗る周到を極む、同地は大統領タフト氏の郷里なれば、特に好遇の度厚きを見たり、次で八日夜インデアナポリスに入れりと云ふ


太陽 第一六巻第一号・第一九七―二〇〇頁明治四三年一月 ニユーポートの雨の一日(ペリー提督の墓を訪ふの記) 巌谷小波(DK320011k-0007)
第32巻 p.264-267 ページ画像

太陽  第一六巻第一号・第一九七―二〇〇頁明治四三年一月
    ニユーポートの雨の一日
      (ペリー提督の墓を訪ふの記)
                      巌谷小波
千九百〇九年十月廿四日は、恰も安息日であつた。即ち永へに天国に安息しつゝある、我が日東洲開国の恩人たる提督ペリーの墓を弔ふべく、否、寧ろ其霊に謝恩すべく、我が渡米実業団の団長、即ち所謂る平和軍の総司令官、渋沢栄一君は、ボストン滞在の一日を割いて、特に之に赴いたのである。之に随ふ者、曰く参謀長中野武営君・司令官附高級副官頭本元貞君・中野君副官加藤辰弥君、及び軍記編纂係、かく云ふ拙者小波、これに米国の接伴委員長ローマン氏・ボストン商業会議所委員某氏を加へて、同行都合七人であった。此日朝から秋雨は蕭々として客衣を湿ほす、けれども墓参には却つて恰好と、何れも停車場に勢揃ひをして、貸切列車に揺られながら出たのは、午前正九時である。提督の墓は、此所より汽車路二時間を隔てた大西洋岸の海軍要港、ニユーポートと云ふ所にあるが、蓋し地は提督の誕生の地にして、而も往生の地なのである。
已にしてボストン市の郊外を過ぎ、道はロードアイランド州に入って入江に沿ふて行く程に、折からの秋の錦は、雨の為めに一層の美観を添へて、昨夜の晩餐会に寝足らぬ眼にさへ、遂に居眠る間を与へなかつた。十一時計りに、ニユーポートの停車場に着くと、其所に市長ボイル氏は、これも先には軍人であつたと云ふ助役ヰーラア氏を伴うて出迎へ、待ち受けの自動車を駆つて、程近い墓所へと案内した。
     ○
墓所と云ふのは、即ち合同墓地であるが、只見る、その中央に径三丈計りを円く囲って、低い常磐木の生垣を繞らし、一面に芝を敷いて、所々に花壇を設け、入口に古い柏の木を二本、恰も門の柱の如く植ゑた中に、さして立派ならぬ白大理の石棺の据ゑてあるのが、即ち我等の目ざすそれで、左の側には夫人の名を刻み、右の方に提督の名を彫りつけてあるが、余所の墓石に見る様な、特別の辞句は見ゑず、只その名の上に牝鹿の頭を現はした、楯形の紋の刻りつけてあるのが、一
 - 第32巻 p.265 -ページ画像 
寸目を惹く計りである。
団長はやがて帽を取って、尚も降りしきる秋雨の下に、携へて来た大花輪を捧げて、石棺に向つて礼拝をする。蓋し団長は、提督が渡来の当時、已に青年の身を以て、国事に心を砕いて居たのであるから、爾来五十余年の今日、平和の大使たる重任を負うて、此所に此墓を訪ふ胸には、正に万感の溢るものがあらう。さればこそ取りあへず、
  △おくつきに手向くる花の一束に
            涙の雨も添へてけるかな 栄一
と出来た。
次いで中野君、進んで慇懃に首を垂れ、
  △碑に目鏡ぬぐふや初時雨          随郷
を手向ける。引つゞき各々礼拝する中に、拙者も一句無かる可らず。
  △動けとや石打つ秋の雨しとゞ        小波
但し此時此際の涙は、決して哀悼の涙ではあるまい。むしろ感慨の涙である。さればこそ地下の提督も、此日比踵の参詣を受けて、必ず莞爾たるものがあったらう。それかあらぬか棺辺の花輪は雨にますます色を増して、一脈の芳香、さながら故人の意を伝ふるかと聞えた。
     ○
一ト通り参拝が済むと、先刻から待ち構へて居たカメラは、更に一行を墓辺に立たせて、幾度かそのシヤッタアを働かせた。何事も器械国而も尚かゝる折に、故人の霊をも共に写し得ぬのは、時に取つての遺憾ではあるまいか。
写真が済むと、墓番の老翁は、直ぐ側の一堂に案内した。見れば百人とは入れぬ程のさゝやかな物であるが、其半ば蔦に包まれ、中には結構を尽した祭壇が由ありげに飾られて居る。これがペリー提督の愛孫で、富豪ベルホント家に生まれた娘の紀念の堂であると聞いては、更に床しさを感ぜぬには居られぬ。
     ○
かくして一行は、思ひのまゝに墓参を遂げて、積日の宿意も全く達せられたが、さて帰りの汽車の時間には、まだ二時間も余裕がある。
於是乎、その時間を利用すべく市長は我等を案内して、この地の海兵団へと赴き、まづその司令官フラム大佐の家を訪ふた。
然るに大佐は、その不意の訪問を、却つて大に喜んで、ヰスキーソーダを出すやら、煙草をすゝめるやら、ある年日本へ渡航した事から、我が海軍の有力者に同窓生のある事など、写真の数々を示して語り出し、果は細君も其座に出て来て、種々の談話に時を移したが、中に最も珍らしく、我等の心を動かしたのは、その食堂の一隅に掛けてある古びた一面の銅版画であつた。
これはコロンバス・ビンツエナスと云つて、ペリー提督の渡来に先だち、即ち六十三年前はるばる我が邦を訪づれて、時節未だ到来せず、すげなくも追ひ帰された所を、当時刷物にしたものである。
思ふに我が邦でも、其頃は例の河原版か、或は錦画で伝へたもので、或は残つて居らぬとも限らぬ、然し兎に角珍とすべく、又、貴ぶべきものであると、頭本君は主人に托して、更に此種の物を得るべく求め
 - 第32巻 p.266 -ページ画像 
た。
又此際助役ヰーラア氏は、曾て日本近海を航海中、図らず日本の漂流人を助け、これを神戸に送り届けて、大いに歓待されたと云ふ、昔話に花を咲かせて、主客時の移るを知らず、互ひの心に通ふ温気は、只にストーフの薪の力や、ヰスキーの効計りでは無かつた。
     ○
其中にフラム大佐は、序に海兵の養成法をも見て行つてくれと云ふ。それ又望む所と、漸く家を辞して、大佐の案内するがまゝに、構内の海兵養成所を見た。
此所には五百人程より居らぬと云ふ事だが、それが数棟に別れた一種の寄宿舎の中に、規律的の生活をする有様は、生憎日曜日であつた為に、十分は見る事出来なかつた。兎に角も大佐の自慢する丈の事は、偶々道に会ふ程の生徒の、如何にも頼もしげな態度にも知られた。
     ○
殊に驚いたのは、その年齢の頗る若い事で、聞けば十七歳以上の者は皆志願し得る規則だと云ふ。その外感心に値するのは、例ながら運動場の完備と、炊事場の整頓とである。当所の営舎には、つひこの間、久邇宮殿下も特に御来観があつたと云ふ。
思へば今日はペリー提督の墓に詣で、その帰途の道草には、頗る恰好の海兵団を見た。この数百の紅顔児の中には、今後また幾多の提督を出す事か。などゝ感嘆して居る中に、漸く中食の時刻に迫つた。
即ち大佐の好意を謝し、その東洋艦隊司令官として、必ず我邦に迎ふべきを約して、別を告げて食事に就いたのは、市内と云へ辺鄙な土地柄、一寸見は只のシモタ屋より見えぬ、但し名計りは天晴れ見事に、ベレビユー・レストランと云ふのであつた。
然し料理は棄てたものに非ず、而も三鞭まで抜いたので、市長は頗る恐悦の余り、三鞭を三杯以上傾けた結果が、玉山将に崩れんとする上機嫌に、果は頭本高級副官さへその通訳に少からず耳を悩ました。
     ○
食後はむしろ運動の為めとあつて、市長は自働車のシヨーフハーに、海岸通りを廻るべく命じた。
海岸通りとは、大西洋に面した丘の上で、蓋し有名な別荘区域で、紐育に於ける富豪の多数は、毎年夏期を此地に暮らして、驕奢の限を尽くすのだといふ。
さればその邸宅の結構は、正に王侯を凌ぐ計り、堂々たる鉄門もあれば、好事な築垣もあり。松・槙・樅の緑の間に、槭楓の紅葉をあしらひ、それに芝の青、蔦の赤、草の花の黄紫など、天然の美を集め得たのも、人為の富の至る所と思へば、流石に金力万能の国と、今更ながら感ぜざる得ず、中にもバンダヒールドの別荘の如きは、毎年の夏の初に於て、その窓蓋を取り払ひ、硝子を磨く丈の工手間が、三千弗に及ぶと云ふ。
市長はさも我物顔に、此等の贅沢地を示した後、更に又市街へ出て、遂に一行を停車場に送り届けた。
その途中、とある小遊園の中に、海軍々人の銅像を見た。定めて提督
 - 第32巻 p.267 -ページ画像 
のであらうと聞いたが、これはおなじペリーでも提督の兄に当る人だと云ふ。然しその遊園の前の今は小さな劇場に成つて居る所が、元とペリーの家のあつた所と、市長は流石に土地に委しい。
     ○
かくて午後三時、絵葉書を買ふ暇も無く、急いで列車に乗り込むと、そのまゝ進行を初めたが、往きとちがつて還りには車中に暖気が通つて居るので、忽ち三鞭の酔が蒸し返へされ、云ひ合はさねど其所此所に首を垂れての楽寝の競争。
夢は五十年前の国史を漁さる中に、車は又一時間を走つて、再びボストンの都に帰つた。
雨はまだ降りやまず、はや暮れたアスパルトの大路には、家毎の電灯の影を映して、此所にも夜の錦をさらして居る。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五四二―五四六頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0008)
第32巻 p.267-269 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第五四二―五四六頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
    第二章 電信雑輯
○上略
マサチュセッツ州スプリングフィルド市滞在中、疑惧の間にありし一行は、十月二十六日在紐育山崎総領事代理より
  「伊藤公は十月廿五日午前九時哈爾賓着、韓人数名の為めに狙撃せられ、川上総領事其他二名軽傷を被むり、公爵は午前十時終に薨去せらる云々」
の公報に接したり。
紐育財政家ジヤコフ・エフ・シッフ氏より、渋沢団長に宛てたる弔電
(十月廿六日ニユーワーク鉄道停車場にて接受)
  「予は辱知の栄を有せし伊藤公爵暗殺の報に接し恐愕に堪へず、此不幸は日本国のみならず世界の損失たり。此悪むべき出来事に対し、諸君の悲嘆の如何に大なるやは推知するに難からず、小生は深厚なる同情を以て、閣下及団員諸君に弔辞を申上ぐ」
右に対し十一月二十九日レッディング市より、渋沢団長は同氏に対し
  「同情深き貴電に対し満腔の謝意を表す、此大政治家の薨去は、単に日本国の損害のみならず、東西両洋共に斯る先見の明あり、且つ達識の士を要すること極めて切なる今日に当つて、実に世界の損失なりと信ず」
と返電せり。
十月二十六日、ボストン日本協会及浪花倶楽部よりの弔電は、スプリング市に於て接受し、之れに対して
  「日本実業団は我本国の不幸に対し、親切なる弔電を賜はりたる日本協会及浪花倶楽部に感謝す」
との謝電を発せり。
市俄古商業協会会頭エドワード・スキンナー氏より
  「当会議所は、伊藤公の如き著名なる公人の薨去に因りて、日本及世界一般の被むりたる損失に対し、深厚なる哀悼の意を表す。何人か公の後継者として適当なる人士起ちて、以て貴国民を指導
 - 第32巻 p.268 -ページ画像 
し、万国の福祉を増進せんことを切望す」
との来電あり、之れに対し渋沢団長は
  「貴下の弔辞に対し深謝す。我団も日本の一大損失に対して悲哀の情に堪へず、右貴商業会議所会員各位に然るべく伝達を請ふ」
と返電せり。
デトロイト商業会議所会頭より、水野総領事に宛て、十月二十七日ニューワークにて接受したる弔電
  「著名なる愛国者にして、又政治家なる伊藤博文公爵の死を聞いて、一同驚愕に堪へず、当商業会議所の深厚なる同情と哀悼の意を、渋沢団長及実業団員に伝へられんことを請ふ」
右に対して水野総領事は一行に代り
  「同情ある弔電に対し、渋沢団長始め、実業団員一同は深謝し居れり、世界が刻下斯の如き先見達識の士を要すること、最も切なる時に際し、此大政治家を失ひしことは、啻に日本の損失のみならず、全世界の為めに悲むべきことなりと信ず」
十月二十七日、紐育絹業協会ホーマー氏より、実業団渋沢団長に宛て
  「日本随一の政治家にして愛国者、而かも予の相識の人たる伊藤公爵の暗殺に関し、貴国民及貴下に対し、痛切なる哀悼の意を表す」
右に対して渋沢団長は、同日
  「伊藤公薨去に関する貴下の親切なる電報に対し、団員一同深謝す、予は最も深き悲しみに沈めり」
と返電せり。
十一月一日華盛頓滞在中、カンサス市商業倶楽部会頭ブランド氏より左の電報に接したり。
  「米国人は大に兇徒の銃声に驚かされたり、而も其不幸の大なることを悲むこと切なり。故に吾人の涙を以て諸君の涙と合せ、日本の著名なる愛国者にして大政治家たる伊藤公の死に因りて、日本が遭遇したる不幸に対し、実業団及日本国民に弔意を表す」
右に対し、即日同情に対し感謝に堪へざる旨を返電せり。
○下略
Commercial Club  p. 4. Dec. 9, 1909.
  During the session of the delegation on the Grey Eagle on Oct. 31st, the assassination of Prince Ito of Japan was called to the attention of the delegation by J. A. Runyan, and in anticipation of the coming visit of the Honorary Commercial Commissioners of Japan to Kansas City, he suggested that a telegram of condolence be sent the Commission, which was ordered done and the following telegrams were sent and received en route :
  J. D. Lowman, in charge of Honorary Commercial Commissioners of Japan,
                 Washington, D. C.
 - 第32巻 p.269 -ページ画像 
    The American people have thrice been prostrated in grief by the assassin's bullet and we know what it is to mourn, therefore, we mingle our tears with you and your people over the great calamity which has fallen on Japan in the death of her distinguished patriot and statesman, Prince Ito.
            W. T. BLAND, President,
           "The Commercial Club, Kansas City.
              "Washington D. C.
W. T. Bland, President, Commercial Club,
     "Kansas City, Mo.:
    Please accept our best thanks for your touching sympathy for our grief at the tragic removal of Prince Ito.
           BARON SHIBUSAWA, Chairman,
              "Honorary Com.Com."


(ジェームス・ディー・ローマン外七名) 書翰控 渋沢栄一宛一九〇九年一〇月三〇日(DK320011k-0009)
第32巻 p.269-270 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一書翰 ジェームス・ディー・ローマン宛一九〇九年一一月一〇日(DK320011k-0010)
第32巻 p.270 ページ画像

渋沢栄一書翰  ジェームス・ディー・ローマン宛一九〇九年一一月一〇日
          (ジェームス・ディー・ローマン氏所蔵)
            (COPY)
          St. Louis, Missouri, Nov. 10, 1909.
Mr. J. D. Lowman,
  President, Associated Chambers of Commerce of the Pacific Coast.
Dear Sir:-
  On behalf of the Honorary Commercial Commission of Japan, I beg to acknowledge receipt of the communication signed by you and other American delegates traveling with us, recording your heartfelt sympathy with us in our national sorrow for the tragic death of Prince Ito.
  Please accept our sincere thanks for this graceful act on your part. Nothing strengthens the feeling of common brotherhood of mankind more effectively than participation in each other's grief and sorrow. In this sense, as much as for the sake of the memory of the great statesman just taken from us, we are sincerely gratified to receive in the moment of national mourning expressions of sympathy from so many influential citizens of the United States.
  I need hardly assure you that none has been more gratifying than that from you and the other gentlemen to whom we owe so much and with whom it has been our good fortune to form such close ties of friendship.
            I remain,
               Yours very truly,
               (signed) E. Shibusawa
                        Chairman



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二八五―二八七頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0011)
第32巻 p.270-271 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第二八五―二八七頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第五節 ニユーヘブン及プロビデンス概況
  (上)ニユーヘブン
ニユーヘブンはコンネクチカット州の一大都市にして、千六百三十八年に創設せられ、千八百年に於ける人口は漸く四千人に過ぎざりしも
 - 第32巻 p.271 -ページ画像 
最近千九百八年の調査によれば、十五万人以上に達すと云ふ。此地は四方山岳を負ひロングアイランド・サウンドの湾頭に位せり。
此市の重なる製造工業は、銃器・時計・護謨・コルセット等にして、千九百五年の調査によれば、其産額四千百万弗に達すと云ふ。
此市は有名なるエール大学の所在地として知らる。元とエール大学はコンネクチカット州の数人の牧師によりて、千七百年キングウォースに建設せられ、後ち千七百十七年、此地に移されたるものにして、ニューヘブンの一市民にして、米国中有名なる政治家なりしドグラス及イースト・インディヤ会社の監督者たる、イリュー・エール氏の名を冠し、エール大学と称するに至れり。現在四百人の教授によりて、三千八百人の学生を有す。附属図書館は五十万余巻の書籍を蔵せり。
  (下)プロビデンス市
日本に泰西の文明を紹介したるペリー提督は、千七百九十四年四月十日、此州ニューポート市に生まる。故に此地の人士の日本に対する感情、他の地方に比して大いに優れるものあり。日本の成功発展等を見るに当つて、非常に愉快と同情とを以つて歓迎す。
プロビデンスの不動産価格(課税の標準)二億四千六十一万八百弗にして、土地の価格一億七千七百九十万五百二十弗とす。
課税率(学校税及州税を含む)毎一人一弗六十五仙なり。
銀行の総数十九、ホテル三十九、病院十、寺院百五十二、公園三十一、小学校百六、私立学校二十六、劇場九、図書館十四、消防夫三百三十人、巡査三百十八人、製造場九百個所、製造品価格一年九千五百万弗。
毛織物・毛糸編物類・紡績類・食品等の製造に秀で、消防器・消火器・靴・レース等の工業は市民の大に誇る処なり。
絹綿の織物業は、此地を中心として附近に発達せり。
千九百九年の学校用人口統計表に拠れば、人口は市中に於て二十三万二千八百五十六人、之れに臨時拡張したる地区を合すれば、四十万三千三百六十九人なりと云ふ。
美術的なる建築に富み、美術館・博物館等の数多く、教育の普及殆んど他に其比を見ず。
東部の諸州中に於て、進歩の最も速かなるものにして、人口の増加、製造の繁栄、銀行預金額の増加、教育の向上、其他の点に於ては、之れを付近の他の市に比して、大に優るところあり。殊に熟練したる職工の、生活状態の優等なること、品性の高きことに於て最も優れるを見る。
一言以て此市の住民の言ふ所を蔽へば、彼等は曰く「此市の光栄ある歴史を誇り、現在の繁昌を喜び、将来の隆盛を信ず」と。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二九三―二九五頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0012)
第32巻 p.271-272 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第二九三―二九五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第七節 ボストン市概況
ボストン市は千六百三十年以来、英国の殖民によりて、漸次開発せられ、米国中最も英国趣味に富みたる処にして、且つ学芸美術上の中心たると同時に、マサチュセット州の首府にして、米国中最も古き歴史
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を有する市街なり。マサチュセット湾頭に位し、六大停車場を有する重なる鉄道は、何れも此地を聯絡し、地下鉄道の布設と相俟つて、水陸共に交通は四通八達、些の遺憾なき迄に完備せり。千九百五年の調査によれば、人口五十九万五千三百余人にして、此市は人口の割合に比し、最も富裕なる市街にして、千九百七年の調査によれば、市の富力は十三億千三百四十七万五百五十六弗を有すと云ふ。
市内に著名なるホテル三十三、劇場十五、寺院六十、並に二十五個の公園を有す。市街は学芸上の中心なるが故に、殊の外静粛なり。其他美術館・図書館・銅像等は頗る壮大完美なるもの在り。
当市の商工業も亦盛大なるものにして、千九百七年に於ける手形交換高は八十五億四千八百八十二万二千二百二十七弗、同八年に於ては七十億九千六百四十一万二千三百五十一弗なり。其他製造工業は皮革・靴・金物類・器械・砂糖・木綿・穀物・家畜・食料品・麻・魚類・羊毛・化学用品等にして、之等貨物の輸出さるゝもの、千九百六年に於ては一億四百六十一万千八十九弗にして、又輸入貨物の価額は、一億二千三百四十一万一千百六十九弗に達すと云ふ。
ハーバード大学附近のウォールサムには、有名なるウォールサム時計製造会社あり。其他ホールリバー造船所も有名なるものにして、嘗て我国の軍艦を製造せしことあり。
当市は木綿の製造盛んにして、千九百四年の調査によれば、四千三百七万千五百三十弗に達し、又羊毛の市場としては、倫敦に次ぐの盛況を呈し、毎年一百万俵以上の羊毛を取扱ふと云ふ。
ハーバード大学はボストンを距る郊外三哩半ケンブリッヂに在り。此大学は千六百三十六年ジョン・ハーバードなる英国人によりて創立せられ、其後マサチュセット州の監督の下に維持せられつゝ在り。現在五百五十名の教授・教員によりて、六千余の学生を有せり。
ハーバード大学の附属図書館は、六十万七千余冊の書籍を蔵し、其他附属の博物館を有す。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三〇一―三〇五頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0013)
第32巻 p.272-273 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三〇一―三〇五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第九節 ウースター及スプリングフィールド概況
  (上)ウースター市
此市は当州第二の町にして、ボストンに次ぐ大都会なり。千六百三十七年の創始に係り、千九百五年に於ける人口十二万八千百卅五人、河畔に在る高地一帯を占む。
試に一行の訪問したる箇処に就て多少の説明を加ふれば左の如し。
此下水は建築費七十五万弗にして、化学的清浄法と、沙地濾過法とを並用し、米国に於ける最も整頓したる設備と云ふべく、而して一日に千五百万ガロンの不浄汚水を処分し得べし。
農園は市の設備に係り、鰥寡孤独の輩を給養するを以て其目的とし、現に所属の農園、三百七十五エーカーを有し、貧民百七十名を収容せり。此農園の特色は豚を飼育する事にあり。吾人の見たる際には、其飼養数三千頭の多きに上り、而して市内の塵芥を此農園に集め、之を
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豚の飼養料とす、此制度は極めて良好なる結果を見つゝありと云ふ。
癲狂院は州立にして、各州に比て最も大規模に、且つ整頓したるものなり。州内各地の医院及警察より送り来れるものを収容す。現在の入院患者千三百人あり、病院所有地の面積は、三百エーカーにして、眺望絶佳なり。
クラーク大学は千八百八十七年の創立に係り、比較的新しきものなりと雖も、設備の整頓せるを以て名あり。日本人の大学生徒も、尠からず。ウースターの工部大学は、寧ろ手芸学校とも称すべきものにして此種の教育機関中最も秀たるものゝ一なりと云ふべし。其他中学校・専門学校等も亦尠からず。此地に於ける主なる製造工業は、紡績・針金・器械・封筒等にして、封筒製造所は国内第一と称す。一日に産出する封筒の総数は三百万、使用せる職工八百人にして、其資本金は四百五十万弗を有す。
「ノルトン」金剛砂砥輪製造会社は、資本金四十五万弗にして、使用せる職工五百人を有す。
針金製造会社は合衆国中針金細工製造に於て著名なるものなり。此会社の製出商品は凡そ四千五百余種に上り、何れも針金によりて作製せらる。其資本金は十二万五千弗にして使用職工二百五十人を有せり。
「クロムプトン」紡績会社も、亦米国中の大会社にして、資本金二百万弗を有し、二千四百人の職工を使用せり。
コルセット会社は資本金四十万弗にして使用職工八百五十人を有するものあり。其他「ホイッタル」絨段会社、「リチャードソン」草苅器械「エームス」氏鋤製造会社等あり。何れも特種の器械製造に従事す。
  (下)スプリングフィールド
此市はコンネクチカット河畔に在り。其創立は千六百三十六年、米国の都市中最も古きものにして、小銃の製造に於て名あり。千九百五年に於ける人口は七万三千五百四人。
此地に在る合衆国砲兵工廠は、千三百人の職工を使用し、一ケ年間に製作する小銃は、十二万挺に達すと云ふ。尚ほ別に兵器工廠ありて、小銃二十二万五千挺を造出し、南北戦争の際には、此兵器廠に於て、八十万挺の小銃を製作したりと伝へらる。
此市の工業中主要なるもの左の如し。
 広告器械・義手・義足・運動器械・自働車及附属器械・オーニング及天幕・銀行小切手及文房具・自転車・機関車・真鍮諸器械・煉瓦車輛・車輪・絨段・馬車・葉巻煙草・釦・カラ・カフス・菓子製造器械・コルセット・綿布類・刃物類・電気自転車・昇降機・状袋・銃器・玩具・瓦斯器械・宝石・製造用諸器械・帽子・洋灯・芝蒔器械・草苅・オルガン・紙類・運搬し得べき家・護謨類・捻・ミシン器械・烏賊幟・石鹸・タクシメトル付自転車・糸類・家具・肌着・ウェブストル辞書・鞭等なり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三〇九―三一一頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0014)
第32巻 p.273-274 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三〇九―三一一頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第十一節 ニユーワーク及レッヂング概況
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  (上) ニユーワーク市
ニユーヂヤーシー州中最も繁栄なる市にして人口二十八万三千八十九人、寺院其他公共の設備多く、市庁の宏大なる附近に其比を見ず。
此土地の工業中最も盛んなるは紡績・金銀類製造業・鉄器・セルロイド・アルミニユーム等にして、千九百年に於ける之等工業の産出額は一億二千七百万弗に達せり。
此市の近郊に有名なる発明家の大家エヂソン氏住居せり。氏の発明に係る器具・器械、及び最近式の鉄骨コンクリート建築(即ち六時間にして一定の模型内に於て一家族の住居に適すべき一家屋を建築し得る設備)等は、大に一行の目を驚かせし処なり。
  (下) レッヂング市
戸数三千百八十、人口十万、電気鉄道に依り接続せる近郊に住するものを合すれば十三万余。市の内外に於ける電気鉄道の延長、四十三哩近郊連絡鉄道百九哩。
千九百八年中に、電気鉄道により、運搬されたる旅客の総数千七百五十八万九百二十四人。
下水の延長 百二十哩、上水大鉄管の延長百八哩、山ノ手の公園大通(ブールバート)三哩半。水道は市有にして、一日の消費量千二百万瓦倫を要す。寺院の数八十八、銀行及びトラスト・コンパニー十四、千九百八年十二月卅一日現在銀行の預金総額は千四百万弗。
課税の為めにせる市内財産の評価額、五千二百七十二万四千六百弗なり。
公開図書館は千八百八年創立され、貯蔵せる書籍二万六千部。小学校の総数三百二十六校にして、就学児童の数一万二千百五十人。
此地方には「レッヂング・エンド・ペンシルバニヤ」と称する、有力なる大鉄道ありて、鉄鋼・鉄等の機械、其他石炭等の産物を運搬するに至大の便あり。
レッヂング市に於ける商工業に関して最も活動せるものは、「レッヂング・ボールド・オブ・ツレード」(貿易協会)とす。
此市は米国中に於て鉄・石炭に関して、工業の最も進歩したるペンシルバニヤ州中更に最も進歩したる市街の一に数へらる。此市を中心とする、二十五哩の半径圏内の人口三十万人なり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三一四―三二四頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0015)
第32巻 p.274-278 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三一四―三二四頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の下
    第十三節 フィラデルフィヤ市概況
フィラデルフィヤ(費府)は千六百八十三年の建設に係り、米国自由の発祥地なり。独立宣言書は此処に記草され、合衆国の憲法も亦た此所に記案さる。又合衆国の造幣局は、初めて此地に設立され、最初の郵便局も亦此地に設置せられたり。
費府は常に米国政府の中枢にして、独立戦争の際、ロバート・モリスは独立軍の軍用金を調達し、千八百十二年の戦に於てはスチーブン・ジラードは、全然空虚にありたる国庫を充実したり。墨西哥の戦争に於ては、クラーク能く政府の軍需を充たし、南北戦争の際は、ゼーク
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ツク陸軍を支ふるに足る軍費を調進したり。
費府は救恤慈善事業に関する団体千四百を有す。費府二大学の学生総数八千人以上、其他各種の学校に教育する児童二十五万人に上る。
費府は、合衆国医事教育の中心にして、世界に著名なる学校六個を有し、寺院総数八百四十六、病院及養育院・避病院等、総計三百三十四、小学校三百十一、公園及小公園総計五十七にして、内最も大なる公園は、世界に冠たるものにして、其総面積三千四百エーカー(我四百八万坪)の土地を有す。市内道路の総延長千八百哩なり。
費府は世界最優等の高圧消防機関を有す。二十吋径の大鉄管を以て、デラウェヤ川より直接に河水を引き、之を十二吋及十六吋の鉄管を以て、商業区域に配付す。消防に用る特別の機関は、何時にても運転し得べく、其排水量一分間に一万ガロンに達し、高圧力は直径二吋の水流を、直接二百三十呎の高さに上ぐることを得。
費府の製造場総数は一万六千ケ所、使用する労働者は二十五万人、毎年需要する粗製品若くは原料品の価格四億弗に達し、産出の製造品価格は七億弗に及ぶ。
費府は過去五十二年間に、一億三千五百万弗の市債を起し、内七千二百万弗を償還し、尚債務に属するもの六千三百万弗ありと雖も、現に市が有する不動産総価格は二億七千七百万弗に達す。
費府の人口は千九百八年に於て、百五十五万ありと云ふ。
費府は熟練したる労働者の最大数を一市内に有する事に於て世界に誇るに足る。世界の大石炭礦を距る僅々数時間の汽車程にあり、而も鉱山より工場まで下り勾配なるは、多大の利便にして、東部諸州二千五百万の人口に対し、貨物の集散地点たり。費府の工業中特に米国の他の土地よりも秀でたるものは、汽鑵車・段通・敷物・皮革・莫大小・毛織物・市街鉄道・車輛用の鉄及鋼各機械・造船業・フエルト・帽・鋸及油布等なり。
費府は左の諸工業に於ては、合衆国中第二位を占む。
 鉄工機械・製糖・精油・毛綿交織・化学製材業・染物原料・織物仕上・肥料・綱並に縄。
費府に於ける肌着類製造額は年々二百万打に上り、「ペンシルベニヤ」全州の各人口に対し、襯衣及ズボン下二個宛を供給し得る割合なり。
綿織物は毎年一億八千万碼を製造し、合衆国内の各家族に、敷布(シーツ)一対宛を供給し得べし、又毛織物は一年に二千八百万ヤードを製造し、欧洲各国陸軍現役兵全部の正服を供給し得べし。
費府は毎日(日曜日を除き)汽鑵車八台、即ち一年に二千六百六十三台を製造し、此汽鑵車の総数は平面の軌道に於て、毎車五十噸の容積を有する貨車十六万八千輛を曳くに足る。
費府は毎年段通四千五百万ヤードを製造し、之れを延長すれば、費府より発して世界を一週して費府に至り、尚ほ其余分はシンシンナタ市に達すべし。
費府は毎年毛綿交織品三千四百万ヤードを製造して、今現に新英蘭各州、及び東北太平洋沿岸に住する十九歳以上の男子に、洋服一着づゝを供給し得べし。
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費府は毎年一千二百万打の靴下、及び長靴下を製造し、合衆国内の各男子・婦人及子供等に二足づゝを供給し得べし。
費府は毎年四百八十万個の帽子を製造す、試みに帽子のバンドを接続すれば、費府よりデンバー市に達するの長さあり。
費府は鋸の製造所を有するを誇りとす。其工場の面積は五十エーカーにして、三千五百余の職工を使用し毎年約六百万の鋸を製造す。其鋸は最大より最小に至る各種に亘り、試みに之を順次に置くときは一千四百八十四万五千五百呎の長さに達す。換言すれば桑港より費府に達し得べき三千哩の長さを有する、一の巨大なる鋸を製造し得べし。
重なる織物類製出年額左の如し。
 綿織物        四億五千四十六万七千七百四弗
 毛糸細工及毛綿交織品 一億六千五百七十四万五千五十二弗
 毛織物        一億四千二百十九万六千六百五十八弗
 莫大小及編物類    一億三千六百五十五万八千百三十九弗
 絹及製製品      一億三千三百二十八万八千七十二弗
 絨氈段通       六千百五十八万六千四百三十三弗
費府は毎年三億三千五百万の煉瓦石を製造す。之を連続すれば費府より日本横浜まで幅二呎の道路を造るを得べし。
費府は過去百二十五年に亘りて、造船業の中心となり、今日デラウェヤ河畔にて築造し居る鋼鉄船の総噸数は、合衆国内の他地方に於けるものゝ総体を合算したるよりも大なりと称す。
費府は二大河の間に横はり、而も三十英尺の深さを有する水路によりて海に聯絡し利用し得べき河川の沿岸三十哩を有す。
費府は沿岸及遠洋航路に対して多大の利便を有す、三大鉄道線路に依り、何れの地方にも便利なる聯絡を有す。
費府の外国貿易輸出入総計は、一年一億七千五百万弗、
費府は卸売業に従事する店舗及会社約一千を有す、
費府は毎日(日曜日を除く)十五台の電車を製造す。
費府は高架線・地下線、及平面線を合して、電気鉄道の延長六百五十哩を有す。
費府は国立銀行「トラスト・コンパニー」及貯蓄銀行百五行を有し、其資本及積立金は、一億七千万弗、預金総額、五億八千七百万弗に達す。
費府は六百の建物会社を有す、其積立金五千八百万弗。
費府に於ける不動産評価額は、過去五年間に一億六千万弗を増加したり。而して該五年間に建築したる住宅の総数は三万に達す。費府は千九百八年の一年間に、六千二百七十五の家屋を新築し、其価格は一千四百五十一万三千四百七十五弗。其内訳左の如し。
 二階建 五千四百五   価格 一千三十八万四百五十弗
 三階建 八百七     価格 三百八十万六千百二十五弗
 四階建 十八      価格 二十六万弗
費府は孤児教育の為めに、最も多額の義捐金を費すものにして、ジラード学校の如きは、一千五百十八人の孤児(男子)を救養す。之に要する建物は、大理石造のみにても十七棟に達し、最も繁華なる市中の
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要区に於て面積四十エーカーを占め、利子を得るべき寄附基本金(即ち土地家屋備付品等総て固定したるものを除きて)のみにても、総額二千五百万弗に達す。
費府の家屋総数三十五万戸、内三十二万戸は住宅にして、右住宅の内八割五分は、唯一家族のみ之に住居す。尚右総住宅の内二割は過去十年間に建築されたるものなり。
費府の濾水事業は二千五百万弗に値し、世界に於て最も整備し、且つ経済的に築造されたるものなりと云ふ。其大濾過池は九十六、小濾過池は百四十にして、総容積三億〇四百万ガロンなり。
費府は上下の鉄管延長一千五百八十八哩を有す、之れを一直線に置くときは此所より玖巴島のハバナ市に達すべし。
費府の人口は合衆国の総人口の六十分の一に相当するのみなれども、其産出する所のものは、合衆国総製造業の二十分の一に当る。
千九百八年の十月一日より、千九百九年九月三十日に至る、一年間に於ける費府の新築家屋は、一万二百六十六棟にして、其価格は四千二百二万四千五百弗に当る。
費府に於ける労働者の数、及各商工業者の資本を平均する時は、紐育又はシカゴよりも大にして、五百人以上を使用せる会社商店の数は、世界中費府に優るものなかるべし。
費府に於ける製造工業は、年を追うて隆盛に赴き、その産額見る可きものあり。今仮りに千九百五年に於ける生産価額を験するに、総計五億九千百三十八万八千七十八弗の多額に上ぼれるを見る。而して重なる製造品は左の如し。
 諸機械類    精糖      織布
 印刷及出版   毛糸類     精油
 絨氈類     皮革      汽鑵車
 莫大小及編物類 綿類      屠殺及肉類鑵詰
 酒類及もやし  羊毛類     鉄製造船
 化学工業    葉巻及紙巻煙草 銅鉄器及展轆
 帽子及氈帽   石鹸      菓子
 襯衣      家具類     塗料
 靴       電気機械    絹物類
 薬種類     蒸汽車用車輛  油布
 染付織布    市街鉄道用車輛 縄索
 鋳銅      家庭用器具   袋物
 紙箱      鋸       紙及パルプ
 男子向用品   肥料      食料品
 珈琲及香料飲料 脂肪類     傘及杖
 皮革製品    室内製飾品   製本
 真鍮製品    大理石製品   女向小間物及レース
 特別薬品    各種模造品   木箱
 馬車及荷車   製粉      建築用鉄骨
 綿製品     鉄器類     暖炉
 瓦斯用器具   膠       煉瓦類
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 桶類      屑綿      ワニス
 玻璃製品    鉄及鋼鉄釘   壁紙
 懐中時計類   石版及製版   遊戯器具
 玻璃類     鑪       製氷
 紙製品     瓦斯機械    ゴム
 溶解薬材    蒸汽用品    錫器
 行李及鞄



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第三三〇―三三四頁明治四三年一〇月刊(DK320011k-0016)
第32巻 p.278-279 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第三三〇―三三四頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第六章 回覧日誌 東部の上
    第十五節 華盛頓市概況
米国の首府にして、コロンビア区ポトマック河畔に在り。其面積十哩に及び、米国中最も完備せる市街とす。此市は千七百十三年に基礎工事を起し、漸次市街を形成するに至り、千七百九十年合衆国の首府たることを決定し、千八百年合衆国政事上の諸機関を、費府より移すに至れり。千八百十年に於ける人口は、僅に八千二百人なりしも、最近正確なる人口統計によれば、二十七万千八百余人に達するの盛況を見るに至れり。此市は政治上の中心なるが故に、市の美観、並に公共的設備に対しては、毫も費用を惜まず、全力を尽して画策せらるゝが故に、道路・公園等は最も完美なりと雖も、商工業は比較的盛大なりと云ふことを得ず。
有名なる国会議事堂は市の中央に位す。千七百九十三年、大統領ワシントンによりて、起工式を行ひ、千八百八十三年全部竣工せるものなり。建坪三エーカー半、建物の長さ七百五十呎、凹字形をなせる両側の巾は三百廿四呎、中央部は百二十一呎、左右は上下両院の議場に充てられ、中央部は各種の委員室に充てらる。之れが建築材料は、サンドストーン及大理石を用ひ、建築費千六百万弗を要したり。此議事堂に附属して世界第一と称する図書館あり。千八百八十八年の起工に係り、六百十八万弗を費し、千八百九十七年竣工せり。其建築は伊太利ルネザンス式にして、長さ四百七十呎、幅三百四十呎を有する花崗石の美しき建築なり。此図書館には四百五十万冊の書籍、並に十万の原稿、十万の地図を蔵し、其他各国の有名なる美術画等を蒐集せり。
合衆国大統領官舎は、国会議事堂に隣接してペンシルベニヤ・アベニューに在り。千七百九十二年十月十三日、大統領ワシントン定礎式を行ひたるものにして、千八百十四年、英軍の為めに焼尽されたるも、後ち再び建築せらるゝに当りて、其外部を白色のペンキを以て塗りしは、兵燹を防ぐの意に出づ、白堊宮の称此時より起れり。其建築は長さ百七十呎、奥行八十六呎にして、室の東隅は公衆の参観を許さるゝも、其他は猥りに之を許さず。其屋内の前部は青室、後部は緑室にして、音楽室に充てらる。赤室は大統領家族の居間に用ひ、或は夫人の接見室に用ゐらる。食堂は儀式的宴会の場合に於て使用せらる、各室共敢て非常なる美観を有せずと雖も、著名なる画家の手に成りたる油画若くは写真を以て飾らる。
陸海軍省は白堊宮の西に在りて、長さ五百六十七呎、巾三百四十呎の
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一大建築なり。其東部は海軍省にして、事務室の外、各種船艦の模型及び写真参考品等を蒐集せり。同省図書部は三階にありて、二十五万冊の書冊を蔵す。陸軍省は西北隅にありて、事務室の外、各種参考品並に図書館の設けあり。南部の一隅は外務省に使用せられ、有名なる国際上の外賓接待室此内に在り。
大蔵省は陸海軍省に並んで建築せられ、石造にして長さ四百五十呎、幅二百五十呎あり。其建築は壮観ならざれども、日々の現金取扱は非常の盛観を極め、多数の兵士之を護衛す。又其一室は十億の銀貨を貯蔵し、金庫の扉は六噸の重量を有せり。
国立博物館は、三百廿五呎四方の煉瓦建築にして、諸種の科学的及歴史的参考品を蒐む。
農務省は政府印刷局の附近に在り。農務に関する事務を扱ふの外、各種の農産植物の参考品を蒐集せり。其他有名なるものは、恩給局・司法省・測候局・測量部・漁業局・郵政局・印刷局・特許局・海軍測候局・植物園・動物園・ワシントン紀念碑・兵器廠・廃兵院・公園等にして、各大統領紀念碑・銅像等多数あり。
中央大停車場は、合衆国に於ける停車場中最も結構善美を尽せるものにして、バンハム氏の設計によりて千九百八年を以て完成せり。之が建設に要せし、費用は四百二十万弗なりと云ふ。石館は白花崗石を以て造られ、長さ六百三十呎、幅二百十呎、待合室間口は二百二十呎にして、奥行百八十呎あり、集会所は間口七百六十呎、奥行百三十呎を有す。マツサチユセット街・デラウェア街の交叉点に在りて、国会議事堂を距る千分《(マヽ)》の一哩の処にあり。