デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.374-396(DK320014k) ページ画像

明治42年11月30日(1909年)

是日栄一等渡米実業団一行、サン・フランシスコヲ発シテ帰航ノ途ニ就クニ当リ、接伴委員、カリフォルニア州知事及ビ同地在留ノ日本人等ヲ船中ニ招キテ留別ノ宴ヲ開ク。十二月六日ホノルルヲ訪ヒ、同日横浜ニ向ツテ発ス。


■資料

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四四三―四五八頁明治四三年一〇月刊(DK320014k-0001)
第32巻 p.374-380 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四四三―四五八頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第九章 帰航日誌
    第一節 船中の上
十一月三十日 (火) 雨
 午前八時一同ホテルを辞し地洋丸に搭ず。同九時より船中食堂にて留別朝餐会あり。米国接伴委員一同、及桑港日本人有志者百余名列席す。席上渋沢男の挨拶、加州知事代理ピッピー氏・桑港商業会議所会頭マクナッブ氏、及接伴委員長ローマン氏の送別の辞等あり、十一時
 - 第32巻 p.375 -ページ画像 
頃散会。
      ローマン氏の演説
   (一行の接伴委員長として、太平洋沿岸聯合商業会議所会頭の資格を以て、終始随伴したるローマン氏は、如何なる場合に於ても、公会の席に於ては演説をなすことを肯んぜず、常に沈黙を守りたるが、本団が桑港出発に際し、地洋丸に於て留別のために朝餐会を開き、主人側の米国男女を招待したる席上に於て左の演説を朗読し、以て送別の意を表したり、此演説は、太平洋沿岸聯合商業会議所の送別の辞と見るを得べきを以て玆に訳載す。)
  渋沢男爵及紳士淑女諸君、我等が袂を分つの時は、既に今朝に迫まりたるを以て、予は諸君の知らるゝ如く、演説の才を有せず、又甚だ好まざる所なるに拘らず、玆に一言を呈せんとす。
  三個月以前諸君はシヤトルより米国に入り、爾来吾人は毎日寧ろ毎時間の伴侶たりしなり、最初二週間は、太平洋岸に於ける聯合商業会議所の属する北部の都市を訪問し、後ち米国を縦横に旅行して、到る処款待優遇を受けたり。実業団を組織する諸君の性格と、諸君の渡米の目的及其重要なる結果を齎すべきことが、漸次汎知せらるゝに及んでは、吾人の中、西部及東部諸州に於ける旅行も亦到る処最も慇懃なる待遇を受け、又友誼及交情の誠実なる表示を見たり。ニユーイングランドの製造地方に突貫し、転じてペンシルベニア州の鉄・石炭工業の堅塁を訪ひ、到る処熱誠なる歓迎を受けたり。ボストン・紐育・費府・華府の如き大都会は、諸君を歓迎せんが為めに、殆んど競争の状態にありたり。ボルチモーアは同情に富みたる注意を以て、其プログラムの最も重要なる部分を撤回し、諸君と共に、日本の最も著名なる政治家故伊藤公爵を弔ふの悲哀を分ちたり。而も吾人のボルチモーア滞在の日は、恰も葬儀の当日なりしを以て、其哀雲悲霧は、只に日本全島を蔽ふのみならず、海陸数千哩を隔てゝ、我一行をして悲嘆の情に堪へざらしめたり。
  西の方、否吾人の多数に取りては、故国の方に進んでロツキー山脈の高原より下りて、自然が其母たる土壌をして、長期の眠りに入らんとて、本年初めて白き毛布(雪)を蔽たる辺より、更に下つて春風カリフォルニアの裾野に吹きたる境に入りては、一行の笑顔には、諸君の主人たる(聯合商業会議所属地方)地方に再び入るを喜べるの色を見るべく、又諸君が此麗しき地洋丸に搭乗して諸君の愛する郷国に帰り、諸君の安全なる帰朝を歓喜を以て迎ふべき国民に会すべく、纜を解くの日の指呼の間に迫まれるを喜ぶの色を禁ぜざりし。
  過去三個月斯く親密なる伴侶として旅行したる間に於て、吾人は相互の間の如何に眤近なるものやを知覚したり。人種・宗教及古来の慣習及伝説の相異に因りて、相互の間に大いなる差異あるに拘はらず、人類の大団欒に於て、吾人は総て同胞にして、同一の目的、同一の希望、同一の慾望を有することを悟れり(今回の旅
 - 第32巻 p.376 -ページ画像 
行中屡々言はれたる如く)吾人相互間に於ける最大の障害物は、洋の東西を分つが故にあらずして、相互に関する知識の欠乏に存することを知覚したり。吾人も亦諸君が吾人を従前よりも能く知得せんことを求め、太平洋岸の人士諸君を招いで、此国に来らしめ、以て諸君に我国民的生活の各方面を示さんと試みたり。吾人は諸君を我家庭に伴ひ、諸君に寺院を示し、慈善事業を示し、教育機関・工業及工場を参観せしめたり。吾人は諸君の注意を市民的生活の進歩に誘ひ、諸君が見聞を広めたり。然れども是等は尚ほ物質的のものたるを免かれず、吾人は更に進んで諸君に亜米利加人の誠意真情を示し、以て諸君をして米人の心胆は、日本人民に対する友誼及親切の感情を以て、鼓動しつゝあることを看取せしめんと試みたるなり。若し吾人にして之を諸君に示すことに成功したるべくんば、吾人は諸君が日米両国間に於ける国際的平和及友誼の使命として、又両国間の渝らざる友情及協同に対する熱心なる願望の表彰として、諸君の感得したる処を、諸君の同胞に齎し帰られんことを希望す。予は過去十二個月の間の交情に依りて創始されたる同情と理解とは、偉大にして且つ永遠に渉るべき結果を産出せんことを希望す。日米両国が友誼及相互共通の利益てふ、鞏固なる連鎖によりて結付けられ、以て太平洋の平和を保障し得んことを希望して已まず。
  実業団員諸君 予は終りに臨んで諸君に向ひ、諸君が今回の旅行を通じて、予に対して表されたる、渝らざる好意尊敬に対して、深く感謝の意を表せんとす。
  勿論吾人米国人の風俗慣習の中、諸君に奇異及不審に見えたるもの尠からざるべし。然れども諸君は変らざるの礼譲を以て、刻々起り来たる新境涯に、諸君自身を同化せしめ、以て予に対して満腔の援助を与へたり。今や諸君と東西相別るゝの時来れり。而かも吾人は「おさらば」と言はざるべし、何となれば、諸君の多数は再び此米国を来訪すべく、又吾人の中の或者も、疑もなく諸君を日本に訪問すべくあるにより、寧ろ此際諸君に対して旅行の無事と「更に再見を祈る」と云はしめよ。
  予は諸君と共に、諸君の健康幸福及無事御帰朝を祈る為めに、乾杯せんことを求む。
午後一時、数千の日米人桟橋に雲集して、勇壮なる奏楽に和し、万歳を連唱せる裡に、我が地洋丸は、纜を解き、悠々として金門港湾を出づ。団長時に詩あり、曰く、
  逢着先喜風骨真。  分襟更覚客愁新。
  風波従是三千里。  船出金門無故人。
こは牛島日本人会長送別の詩に答へしものなるも、亦以て各自の新知己に対せる、一行の心事を代吟せるものと云ふべし。
桑港商業会議所を代表して、我等一行と数ケ月の旅行を共にしたるストールマン氏は、他の数名と共に、税関小蒸汽船アラブ号に便乗し、沖合遥かに細雨を犯して見送り来れり。
又団員中、堀越・頭本・高石・田辺の四氏、及高梨嬢は、事情ありて
 - 第32巻 p.377 -ページ画像 
米国に止まる事と成りし故、是亦桟橋に我等一行を見送りつゝ、別愁に耐へざるものゝ如し。更に船中を見れば、紐育支店より本店に栄転せる、三井物産会社常務取締役福井菊三郎氏の家族を伴へるあり、倫敦より帰朝せる三井銀行大阪支店長市川高策氏あり。又欧米巡回の帰途にある、内務省土木局技師工学博士青木元五郎氏の一行あり。加ふるに往航には未だ団員に加はらざりし、水野総領事以下一家族の在るあり、然なきだに一行の賑はしきに、船は我が東洋汽船会社の尤物にして、船員に亦同胞多く、船客に対して特に懇切を尽せば、一同已に我家に帰れるの感ありて、其愉快云ふべからず。
桑港解纜の後大洋波静づかにして、気候微温、泰平の瑞徴を呈し、過去四ケ月の労苦を忘れしむ。船内喫煙室には碁・将棋・骨牌等の遊技漸く盛んならんとせり。
十二月一日 (水) 雨
 無事
同二日 (木) 曇
 桑港商業会議所より無線電信を以て、左の祝電を寄せ来る。
    地洋丸渋沢男爵宛
      十二月二日無線電信       桑港商業会議所
 日米間を聯結する太平洋は其の名の如く、又実に於て貴下御一行の安全なる帰途なると同時に、併せて両国間の社交通商上に於ける関係の不渝親交なることを祈る。御機嫌よう。
同上渋沢男爵の返電
    桑港商業会議所宛
      十二月三日地洋丸        男爵渋沢
 貴電拝承、今現に愉快なる航海を為しつゝ在り、御安神を請ふ。貴地滞在中の御厚意を深謝す。
十二月三日 (金) 晴
 乗客一同の競技会を催すこゝなり、一行中よりは名取・正岡・加藤の三氏、米国人側よりゲリー、ニックル、ハーリングの三氏、他の日本人乗客中より加福力太郎氏を選びて委員とし、日々の競技番組を定め、中甲板に於て今日より開始す。夜に入り更に演芸会の催あり。団員等漸く海路に馴れ、終日囲碁・将棋に耽ること、往航船中に於けるが如し。
十二月四日 (土) 晴
 本日試に団員一同の体量を計る、往航よりは寧ろ増加せる者多し。
今之が対照表を掲ぐれば

      往航    復航        往航    復航
        磅     磅         磅     磅
 渋沢男 一、五〇  一、五四  渡瀬  一、三二  一、三九
 中野  一、四九  一、五九  南博士 一、三五  一、二一
 日比谷 一、一二  一、一五  高辻  一、〇九  一、一五
 佐竹  一、三二  一、三八  熊谷  一、一六  一、二二
 根津  一、二〇  一、二〇  巌谷  一、二三  一、二五
 岩原  一、五七  一、五七  大谷  一、四〇  一、四七
 原     九四  一、〇三  左右田 一、四四  一、四二
 - 第32巻 p.378 -ページ画像 
 町田  一、一八  一、一六  原博士 一、二一  一、一八
 小池  一、三五  一、四一  西村  一、〇七  一、一四
 神田男 一、四五  一、四七  西池  一、一三  一、一一
 藤江  一、四四  一、四三  上遠野 一、五七  一、五三
 土居  一、六七  一、七六  名取  一、〇八  一、一一
 大井  一、二七  一、三一  飯田  一、三六  一、四〇
 石橋  一、六四  一、五九  飯利  一、〇六  一、〇九
 阪口  一、五〇  一、四六  増田  一、二三  一、二八
 松方  一、六〇  一、六五  加藤  一、一七  一、二三
 多木  一、六五  一、六六  上田  一、二〇  一、一七
 田村  一、七七  一、七九  亀田  一、〇八  一、一一
 伊藤  一、一五  一、一二  神野  一、五九  一、五四

十二月五日 (日) 晴
 左舷遥かに某汽船を見る、然るに二・三日来我船の無線電信機損じて之れと通信する能はず、空しく之を望むのみ。今朝来暖気頗る加はり夏服に改むる者多し。午後喫煙室に総会を開き、横浜着港の際の、荷揚に付ての打合を為す。
    第二節 ホノルヽ市
十二月六日 (月) 曇
 今暁右舷に、ダイヤモンド岬を見つゝ、徐々としてホノルヽ港に入る。午前八時検疫の後ち、ホノルヽ商業会議所代表者数名、並にホノルヽ総領事上野専一氏・同杉本書記生、其他日米の有志者十数名の歓迎を受く。已にして桟橋に着けば、布哇土人を以て編成せる楽隊は、嚠喨として君が代を奏し、在留日本人多数の出迎あり。一行は此等に挨拶の後ち、用意の自働車にて停車場に向ひ、夫れより特別列車にて二十哩を隔てたるワヒヤワ地方にバナヽ・砂糖・パインナツプルの栽培地を巡覧し、帰途エワに立寄り、製糖工場を視、而して十二時ホノルヽ市に帰る。直ちにヤング・ホテルに入り、屋上庭園を見、同所にて略式午餐を饗せらる。
 午後は更に自働車を列ねて、パリーの絶景を見る。此地は約百余年前の古戦場にして、眺望頗る佳なり。夫れより又市内に帰り、更に公園地水族館を見る。収集せる魚類には、色彩の美、形状の珍、本邦にては見難き物多し。
夫れより海岸のホテル・モアナに入り、食堂にて茶菓を饗せらる。此間渋沢団長は、一行を代表して知事を訪問せり。
 午後五時船に帰り、直に解纜す。元来当地の有志者は、一行の寄港を機として今夕盛んなる歓迎宴を張る筈なりしも、横浜着の時日に予定あれば、遂に之を辞するの止むを得ざるに至れり。
 ホノルヽ市にて、専ら一行の歓迎に尽力せるは当市商業会議所関係者及び有志者の諸氏にて、同胞にては拝田・井田・本重・三田村・本川・中村・曾我・時技・高桑・米倉・山村等の諸氏とす。
此日奉天領事小池張造氏に宛て、左の如き電報を発す。氏は先年米国に在りて、本団渡米の事に付ては、実に其動機を作れるの人たり。
    奉天小池総領事宛        ホノルヽ 渋沢栄一
 - 第32巻 p.379 -ページ画像 
 渡米実業団首尾能く任務を了へ、今帰朝の途にあり、昨年貴官御配慮の日米交歓は一段の効果を収め得たりと信ず、当年を追想し、遥かに御健康を祝す。
    第三節 船中の下
十二月七日 (火) 晴
 昨日来暑気を感ず、本日無線電信機修繕成る。ホノルヽ商業会議所及上野総領事より来電あり。
    地洋丸渋沢男爵宛       ホノルヽ商業会議所発
 安全なる御航海を祈る。
    渋沢男爵宛         ホノルヽ 上野総領事発
 貴団の安全なる御航海を祝し、併せて御一行の健康を祈る。
右に対し直に渋沢男爵より返電を発す。
    ホノルヽ上野総領事宛      地洋丸 男爵渋沢
 貴地滞在中の御高配を深謝す、居留民諸君へ宜敷。
十二月八日 (水) 晴
 今日より船客競技会を行ふ、甲板にて体力を競ふもの、喫煙室にて智嚢を搾るもの等、随意随所に在りて徒然を忘る。折柄天洋丸の航路に近けるを以て、直に之に打電し、乗組の新任米国大使男爵内田康哉氏に祝意を表す。
    天洋丸内田大使宛           地洋丸 渋沢
 三ケ月間米国官民の厚情を受けたる我渡米実業団は、遥に閣下及男爵夫人に敬意を表し、御任務の成功を祈る。
直ちに内田大使より返電あり
    地洋丸渋沢男爵宛           天洋丸 内田
 御好意多謝、御成功を祝し、御一行の万福を祈る。
夜に入り乗組外人側にて舞踏会の催あり。水野・福井両夫人、並に令嬢等招かれて之に列す。
十二月九日 (木) 晴
 風波稍激し、船暈を感ずる者あり。
(十二月十日)
 往航に反して帰路は玆に一日を失ふことゝなる。
十二月十一日 (土) 晴
 無事
十二月十二日 (日) 晴
 船体動揺尚止まず、渋沢団長微恙、他に食堂に出でざるもの二・三あり。
十二月十三日 (月) 晴
 荷物を取調べ、チェツキと引合せを為す、午後常議員会を図書室に開き、解団後の団務整理の件を打合す。夜に入り中甲板に船員等の柔道・角力等あり。角力三番勝負に賞を懸けしに、血気の若者熱衷に過ぎて、為めに負傷せる者あるに至る。
十二月十四日 (火) 晴
 浪高く船動揺せり。午前より午後に至る迄、引続き常議員会を開き残務整理に対する各団員の出金額を定む。此日東京商業会議所より電
 - 第32巻 p.380 -ページ画像 
報を以て、十七日の歓迎式順序を通知し来る。
十二月十五日 (水) 曇
 本日総会を開く筈なりしも、船体動揺甚しく、為めに流会となる。
十二月十六日 (木) 曇
 午後三時食堂に総会を開く、団長は尚臥床中にて欠席、中野氏より諸般の報告あり、残務整理の件等に付協議す。夜に入り喫煙室に競技会の賞品授与式を行ふ。此際第二回演芸会を行ふ筈なりしも、船体動揺の為め中止す。熊谷医学士に就きて旅行中団員の診察を受けたる者を調べたるに、左の如き統計を得たり。
扁桃腺炎  二 気管支炎         二 肋膜炎    一 腎臓炎  一
胆石症   一 胃痙攣          二 胃潰瘍(?) 一 神経衰弱 七
消化不良  三 外傷 自動車 三 列車扉 三 腸加答児   五 便秘   五
ヒステリー 二 感冒           七 腫物     三 頑癬   二
歯痛 三
明日は満四ケ月目を以て、郷国の土を踏み得るが故に、一同の元気頗る昂り、乗船以来船室にのみ閉居せしものも、遂に船暈を忘れて、嘻嘻として甲板を逍遥するに至る。十四日以来我等一行に対する来電頻頻たり、其主なるもの左の如し。
 常盤華壇俣野・三越呉服店日比翁助・小樽新聞社・東京基督教青年会・南満洲鉄道会社・大日本平和協会・交詢社・神戸新聞社・中外新報山崎・米友協会金子子爵・日本電報通信社・銚子商業学校・安藤重兵衛・東洋汽船会社・六聯合商業会議所小野金六・横浜貿易新報・山下亀三郎・時事新報・横浜毎朝新聞・中外新報社長野崎広太・札幌東北大学長佐藤博士・札幌商業会議所対馬嘉三郎・小樽商業会議所藤山要吉・大津商業会議所藤沢弥三郎・万朝報社
十二月十七日 (金) 快晴
 今暁船は已に東京湾口にあり。天晴れ、気清く、富岳皚々として中天に聳へ、又我等を迎ふるものゝ如し。


(ジエームス・ディー・ローマン) 演説原稿 於地洋丸朝餐会 一九〇九年一一月三〇日(DK320014k-0002)
第32巻 p.380-382 ページ画像

(ジエームス・ディー・ローマン) 演説原稿  於地洋丸朝餐会 一九〇九年一一月三〇日
           (ジェームス・ディー・ローマン氏所蔵)
   Copy of J. D. Lowman's speech at San Francisco on "Chiyo Maru" at breakfast December 1《(Nov. 30)》, 1909.
Baron Shibusawa, Ladies and Gentlemen :
  As the time of our parting is now here, I wish to say a few words to you, though it is with diffidence that I do so, as you all know I have not the gift of speechmaking.
  Three months ago you landed on American soil at Seattle, and since then we have been in daily and almost hourly companionship. Following the first two weeks, which were spent in visiting the cities which compose the northern membership of our Associated Chambers of Commerce of the Pacific Coast, you have traveled the length and breadth of the land and have been everywhere received and hospitably entertained. As the
 - 第32巻 p.381 -ページ画像 
character of the men who compose the commission and the objects and importance of your mission became better known, our progress through the middle west and eastern states was attended with continued entertainment of lavish description and by a sincere display of friendship and goodwill.
  Penetrating to the very heart of the manufacturing districts of New England and to the stronghold of the iron and coal industries of Pennsylvania, the same enthusiasm attended your steps, while the great cities of Boston, New York, Philadelphia, and Washington vied with each other in making you welcome. Baltimore, prompted by sympathetic hearts, omitted the most important part of its program and joined with you in mourning the death of your country's most able statesman, the lamented Prince Ito, whose funeral that day cast a gloom, whose shadow covered not only Japan, but travelled the thousands of miles of sea and land and touched the hearts of this entire company.
  Turning our faces westward, and, to many of us, homeward, descending from the high plateaus of the Rocky Mountain Divide where Nature had already wrapped Mother Earth in her first white blanket for her long winter's sleep, down into the warm, bright sunshine of golden California, we all saw reflected in the smiling faces of the party the realization that you were back once more in the home land of your hosts, and that the hours were numbered when you should embark upon this beautiful Chiyo Maru to return to your loved ones, to home and to the nation which will greet with joy and gladness your safe return.
  In these three months of close companionship we have grown to realize how near we are to one another, and that notwithstanding the wide differences between us by reason of race and faith and through ancient customs and traditions, in the great parliament of man we are all brothers with like aims and hopes and aspirations, and that, as has been so often said, the greatest barrier between us has not been that of East and West, but that of lack of knowledge of each other. We, too, have wanted you to know us better and so we men of the Pacific Coast invited you to visit us and have tried to show you every phase of our national life. We have taken you into our homes, we have shown you our churches and charities, our educational institutions, our industries, and our workshops ; we have called your attention to our civic advancement, but more than all these, which are material things, we have tried to show you the hearts of the American people, and to let you see they beat with friendship and kindly feeling for the people of Japan. If we have succeeded in showing this to you we ask you to take
 - 第32巻 p.382 -ページ画像 
the knowledge back to your people as a message of international peace and goodwill, an earnest wish for continued friendship and co-operation between us. I hope that the sympathy and better understanding which have been created by the intercourse of the last twelve months may be productive of good and far-reaching results, and that with Japan and America joined by the strong bonds of friendship and mutual interests the peace of the Pacific Ocean may be assured.
  Gentlemen of the commission, before I close I wish to thank you one and all for the uniform consideration you have shown me during the period of our travel together. Doubtless many of our customs have seemed strange and unusual to you, but with unfailing courtesy you have adapted yourselves to each new situation and have given me your whole-hearted support, and now when the time has come for us to part let us say, not goodbye, for many of you will come again to visit this country and some of us doubtless will see you once more in Japan, but rather let us say God speed and au revoir.


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第六一八―六二二頁明治四三年一〇月刊(DK320014k-0003)
第32巻 p.382-383 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第六一八―六二二頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 第九章 雑件
    第五節 帝国政府より米国政府へ謝意申入れの件
十二月一日、一行が将に地洋丸に乗組まんとするに際し、渋沢男は桂総理大臣・小村外務大臣に宛て左の電報を発したり
 我実業団は本日桑港より乗船、帰朝の途に上ぼらんとす
  陛下の御盛徳と国威の余光とに依り、到る処予想以上の歓待を享け、寧ろ平素に優るの健康を以て、三ケ月の米国内地の旅行を終へたるは、一行の欣幸とする所、若し夫れ意志の疏通に裨益し、国民的外交に一歩を進めたりと言ひ得べくんば、更に望外の幸なり。
 団員を代表して謹んで報告す。再余
右の電報は(時間の差に依り同日午前六時東京に到着したり)。然るに曩きに実業団が米国の招待に応じ、渡米の事決定せるに際し、在米国大使は本国政府の訓電に基づき、右応招に決定の趣を聞き、欣喜に堪へざる旨を我外務大臣に申入れたる次第もあり、旁帝国政府は渋沢団長より右の電報に接するや、米国政府に対して、帝国政府の謝意を表彰することを必要なりと認め、在米松井臨時代理大使に訓令して、帝国政府の謝意を米国政府に申入れしめ、松井臨時代理大使は、十二月二日右の訓令に接したり。
之れより先き、在華盛頓帝国大使館に於ては、渋沢男爵が桑港より発したる「三ケ月の旅程到る所望外の好遇を享け、愈十一月三十日を以て帰朝の途に就くべし。」との電報に接し、同日恰も国務卿接見の例日なりしを以て、国務卿に面会の際、渋沢男の電報に接したる旨を告げ一行は頗る米国官民の待遇に満足し、無事任務を果して本国に出発したるは欣喜に堪へざる旨を述べ置きたるが、右外務大臣よりの訓令に
 - 第32巻 p.383 -ページ画像 
接するや、更に公文を以て左の通り国務卿フィランダー・シー・ノックス氏に申入れたり。
 以書簡啓上致候、陳ば本代理大使は我 陛下の外務大臣小村伯の訓令に基き、左の事を開陳するの光栄を有し候。
 帝国政府は、去る火曜日、桑港より出発帰朝の途に着きたる日本実業家の一隊が、今回合衆国内を訪問中、終始到る処に、非常なる好遇と、無限の歓待を受け、尚ほ到る所に、合衆国政府の官吏より、一行に対して、表されたる厚情と懇切に対し、誠に感謝に堪へざるなり。
 渡米実業団は、其使命たる両国民の利益を一層密接に、且融和せんとする任務を果し得たるは、一に米国官民の好意に帰すべきものとなせり。而して帝国政府は之れに加ふるに、右成功の結果は、両国間に存在する友情及善隣の連鎖をして、一層緊密ならしむべきを確信し、誠に欣喜に堪へず。
 以上の趣意を以て、小村伯は閣下に対し、今回実業団の待遇に対し合衆国政府及人民が表されたる懇篤なる助力及賛助に対し、帝国政府の深厚なる謝意を閣下に表すべき旨を訓令せり。玆に重ねて敬意を表し候 敬具
   千九百九年十二月三日
             在華盛頓帝国日本大使館に於て
                      松井慶次郎
    国務卿フィランダー・シー・ノックス閣下
右に対して国務卿ノックス氏は、左の回答を寄せたり。
 以書簡啓上致候、陳ば当国に来遊せられたる日本実業家一行に対して表したる歓迎に関し、日本帝国政府の謝意を御申入相成りたる、本月三日付の貴簡、正に欣領致候。合衆国政府は今回の御来訪は、両国間に既に存在せる友誼及善隣の連鎖を、更に鞏固ならしむる結果を生ずべしと確信することに於て、日本政府と全然見解を同うするものに有之候趣き、貴下に対して言明致し度候。玆に重ねて敬意を表し候 敬具
   千九百九年十二月八日
               華盛頓国務省にて
                   ピー・シー・ノックス
    日本臨時代理大使松井慶次郎殿


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五五五―五五六頁明治四三年一〇月刊(DK320014k-0004)
第32巻 p.383-384 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第五五五―五五六頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 第三章 感謝の決議
    第四 往復汽船に対する決議
○上略
      乙 地洋丸に関する感謝の決議(原文英語)
千九百九年十二月十五日
 東洋汽船会社地洋丸船長ダブリュー・ダブリュー・グリーン殿
 拝啓、陳者下名は日本渡米実業団員に代りたる決議を、貴下に通告するの愉快を有し候。
 - 第32巻 p.384 -ページ画像 
    決議文
 「日本渡米実業団員は、合衆国内三個月の旅行の後ち、汽船地洋丸に搭乗し、該船々長ダブリュー・ダブリュー・グリーン氏、航行中吾人に表されたる優遇に対し、認識及び感謝の意を表し、併せて船中に於ける秩序及乗組員の職務に熱心なることに対し、賞讚の意を表す。蓋し此等の事実は、今回の旅行を愉快ならしむるに多大の効力ありしものなり。」
 右得貴意候 敬具
          日本渡米実業団長 男爵渋沢栄一
      丙 東洋汽船会社代表者
千九百九年十二月十五日
 東洋汽船会社代表者ダブリュー・エッチ・エベリー殿(原文英語)
 拝啓、下名は日本渡米実業団員に代り、貴会社が我実業団に対し、特に優待の意を表されたること、及今回の航海中貴下が我一行の愉快と安寧の為めに、絶えず行届きたる注意と配慮とを惜まれざりしことに対し、深く感謝の意を表し候。尚ほ団員は汽船地洋丸内の規律及乗組員執務の有効周到なることに関し、賞讚の意を表し候。
 右得貴意候 敬具
           日本渡米実業団長 男爵渋沢栄一
○下略


東京日日新聞 第一一八五三号明治四二年一二月八日 ○実業団布哇着(DK320014k-0005)
第32巻 p.384 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

東京経済雑誌 第六〇巻第一五二〇号・第一一〇二頁明治四二年一二月一一日 ○渡米実業団帰途に着く(DK320014k-0006)
第32巻 p.384-385 ページ画像

東京経済雑誌  第六〇巻第一五二〇号・第一一〇二頁明治四二年一二月一一日
    ○渡米実業団帰途に着く
去月十四日オマハに於てブライアン氏に邂逅したる我渡米実業団一行は、其夜デンバーに着、是より中野・加藤・南・渡瀬・野田・本田の諸氏は分遣隊としてカリフオルニアに向ひ、本団は汽車に乗じて、十五・十六の両日を汽車内にてロツキー山の絶景を賞し、十七日午前ソルトレーキに着、玆に全く太平洋面の人となれり、同地にてモルモン宗本山の歓迎を受け、有名なる管長スミス氏に会見し、夫よりデンバーを経て十八日午後ベルモントに着、更にローサンゼルスに向ひ、十九日午後同地着、諸処を観覧し、且つ中野氏等の分遣隊に合す、夫よりサンヂイゴ、リバーサイド、レツドランドを経て、二十四日アリゾ
 - 第32巻 p.385 -ページ画像 
ナ州のグランドキーン(大渓谷)を賞し、二十六日汽車に搭じてオークランドに向ひ、二十七日午前同地に着、三ケ月間何等の故障なく寝食せしハルマン式の特別列車に別を告げ、同日遂に桑港に入り、フェーヤモンド・ホテルに投じ、二十八日は日本人会の歓迎、二十九日は市より公式の歓迎を受けたるが、別に臨める両者の感情は特に切実なるものありき、斯くて実業団は、三十日朝各地商業会議所代表者及桑港の重なる実業家三十余名を地洋丸に招待して留別朝餐会を開き、彼我代表者の痛切なる告別送別の演説あり、午後一時無事解纜す、見送りの日本人は埠頭に充満し万歳の声盛んに起る、尚紐育以来宿題となれる日米両国商業会議所間の連絡を通じて、相互通商の便宜を計る件は、桑落着以来数回の協議を経て、二十九日夜左の決議をなすに至れり、即ち
 第一、双方の聯合商業会議所は協同して日米貿易の増進を計る事、
 第二、右の目的を達せん為め、特に双方に於て各自常設委員又は役員を置きて相互の連絡を執る事、
尚一行は途中布哇に立寄り、来る十七日朝横浜に帰着する筈なり



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第四五九―四七二頁明治四三年一〇月刊(DK320014k-0007)
第32巻 p.385-390 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  第四五九―四七二頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第九章 帰航日誌
    第四節 布哇及びホノルヽ概況
布哇は東経百五十五度・北緯二十度の附近に散在する群島の総称にして、ホノルヽは其首府なり。桑港を距る二千八十九哩、横浜を距る三千四百哩の所に在りて、熱帯に位す。
五百余の島嶼は、各一箇所以上の船舶碇泊に適する港湾を有するを以て、島嶼間の連絡は勿論、各島嶼に於ける鉄道の布設最も重要なり。
布哇本島に於ける鉄道線路の延長は、本線百哩にして、三呎のゲージ四十五磅の亜米利加式レールを使用せる支線七十哩余。千九百八年に於ける鉄道乗客の数は四十九万四千九百八十七人にして、前年より増加せしこと四万八千百六十九人、貨物運搬の噸数四十一万六千噸余にして、之を前年に比すれば二万九千六百十二噸の増加を示せり。
其他鉄道の主もなるものは、クーロー鉄道会社にして、本線僅に十一哩にして、尚ほ三呎のゲージを有せり。
水運を分つて三となす、一は各島嶼間を交通する線路、二は布哇群島と米本土との間を交通する航路、三は太平洋を横断して布哇に寄航する航路なり。第一に属する会社はインター・アイランド・スチーム・ネビゲーション会社にして、汽船総数十五隻、其汽船は最小二百六十噸より、最大一千五百六十六噸、平均九百六十四噸なり。此会社の汽船中最大なるものは、長五百二十二呎、幅十八呎にして、一等船客百五十三人、二等船客三百人を収容するに足る。此会社に属する多くの汽船は最新式の構造にして、総ての点に於て完全せり。此等の汽船は各島嶼の重もなる港を順次に廻航し、最遠距離は二百五十浬に及ぶと云ふ。一千九百年に於ける乗客の数五万五千三百六十五人にして、貨物運搬の数量三万六千八百九十五噸に達せり。
第二の布哇米本土間を交通する会社は数多あり。其内アメリカン布哇
 - 第32巻 p.386 -ページ画像 
汽船会社は、本店を紐育に有し、支店を太平洋沿岸及布哇本島に置けり。此会社は専ら貨物運搬を目的とし、現在一万二千五百噸の汽船八隻、二千噸より八千噸の汽船十一隻を有す。尚ほ八千余噸の最新式運送船の建造中なり、之は桑港及香港の間を往復し、冷蔵庫を有して、新鮮なる魚類・果物の運搬に最も適せる構造にして、乗客は主たる目的にあらざるも尚ほ三十六人乃至五十人を収容するに足ると云ふ。
之れに次ぐ有力なる汽船会社は、ゼー・マトソン・ネビゲーション会社にして、汽船四隻を有し、千九百八年には本島より七万五千噸の砂糖を運搬し、其内三隻は乗客運送用に供することを得、他の一隻は専ら貨物運搬に使用され、桑港ホノルヽ間を四週毎に往復す、上等船客七十人、下等船客三十人を搭乗せしむることを得と云ふ。
次にゼー・オセアニック汽船会社は、僅一隻の汽船を以て、桑港及ホノルヽ間を三週毎に往復す。之は専ら乗客を目的とし、一等船客百三十人、二等船客四百五十人を収容するに足る。
次にユニオン汽船会社は、九隻のタンク用汽船を有し、加州及本島間の原油運搬に従事す、此会社は漸次盛大に赴きつゝありて、毎年殆んど二隻の新汽船を増加するの勢なり。
次にアソシエーテット・オイル会社は、二隻の汽船を有し、前会社と同様原油の運搬に従事す。
以上の二汽船会社は、毎年百二十五万バーレルの原油を運搬し、多く加州地方に産出する原油を本島に運搬し来りて、之れが原料に供す。
其他米本国と本島との間を往復する、不定期船種々あり。
第三に属する会社中パシフヒック・メール汽船会社は、六隻の最新式にして、且つ大なる汽船を有し、何れも一等船客百三十五人乃至二百七十五人を搭乗せしむるに足る。
東西洋汽船会社は、二隻の乗客用汽船を有し、布哇を経由して、米国及東洋諸国と交通す。
我国の東洋汽船会社も、亦前会社と同様の航路を取つて本島に帰航す其汽船は本島に寄港する船舶中最大なるものにして、何れの点に於ても他の船舶に優れり。
次に加奈陀濠洲汽船会社は、四隻の汽船を有し、晩香坡・シヤトル等の北米合衆国西北部沿岸より本島に来り、更に東洋に向ふものにして是等の汽船は、冷蔵の設備完全せるを以て、新鮮なる魚類・果物を運搬するに適せり。而して之れは、主として貨物を目的とするが故に、乗客に対する設備なし。
次にメキシカン・オリエンタル汽船会社は、墨其哥と東洋との間を交通するものにして、僅に一隻の汽船を有す。
其他濠洲或は南亜米利加より来る不定期船多し。
本島の内五大島は各無線電信局を有して通信の便を図り、カハクにある無線電信局は専ら海上汽船間の通信をなし、而して其通信の有効距離は一千五百哩に及ぶ。(十五キロワットの電力を有す。)
海底電線は桑港を経て横浜に至る線路、本島を横切り、桑港へは一語三十五仙の割合を以て通信す。
主なる島嶼には電話の設備ありて、且つ島嶼間は電話に由つて連結さ
 - 第32巻 p.387 -ページ画像 
る、而してホノルヽに於ける電話料は一箇月二弗五十仙なり。
最も精密なる人口調査は、米国商務労働省の手にて、九年前に統計せられしのみにて、其後正確なる調査なきを以て、精密に知る能はずと雖も、現在の人口は殆んど十七万五千と称す、其内重なるもの日本人七万五千、支那人一万八千、朝鮮人五千、羅甸人二万七千、葡萄牙人二千二百、西班牙人二千、ポートリカ二千、亜米利加・英吉利・独逸及諾威人種に属するもの二万余なり。
日本人は日露戦争間は本島を去るもの甚だ多かりしが、戦争後は漸次増加し、而して婦人の来島者最も多く、一昨年度に於ける割合は数年前に比して五割の増加を来せり。而して本島に於て生れし日本人甚だ多く、本島に於ける就学児童千九百年には一千三百五十二人なりしも千九百九年には六千四百十五人に達せり。
支那人は漸次減少を来し、著しく増加しつゝある人種は葡萄牙人にして、就学児童の数四千六百九十六人なり、純粋の布哇人は徐々として減少し、雑種は驚くべき速度を以て増加せり、現今雑種の就学児童は八千二百八十九人に達すと云ふ。
諸外国より輸入する商品の重もなるものは、袋其額五十九万五千五百五十六弗、セメント一万六千八百九十六弗、化学薬品八十八万千七百九十九弗、石炭二十一万四千百八十二弗、木綿九万九百十八弗、人造肥料十三万二千四百九十七弗、食料品百三十七万二千九百二十四弗、鉄及鋼鉄五万五千九百二十四弗、酒精二十万五十六弗、其他雑貨四十六万四千七百二十二弗、総計四百三万三千五百七十四弗に及べり。
袋は最も重要なる輸入品にして、多く印度より来る、化学薬品は英吉利及独逸より、石炭は濠洲及日本より、人造肥料は重に智利より、食料品は日本及濠洲より来るもの多し。
本島より輸出する重もなるものは砂糖・米・珈琲・パインアップル・皮革・羊毛、其他にして、砂糖は精製糖百二十一万二千九百七十二弗粗製糖三千八百六十万三千百三十八弗、珈琲十七万四千二百十六弗、米十四万七百七十三弗、果実八十万三千三百七十六弗、蜜三万八千二十二弗、皮革八万七千五百九十九弗、羊毛五万八千百三十三弗、其他雑貨一百六万四千九百九十四弗、総計四千二百十八万三千二百二十三弗。
布哇は農業国なるが故に、工業に就いては殆んど見るべきものなし、唯僅に農業に関する工業、即ち砂糖製造・煙草・珈琲・パインアップル等の工業にして、此中製糖業は、布哇に於ける最も重要なる工業なり、千九百三年砂糖の生産高四十三万七千九百九十一噸なりしも、漸次増加して千九百八年に至りては五十二万一千一百二十三噸に達せり布哇全島の内にて砂糖耕作に用ひらるゝ土地は二十一万三千エーカーにして、之れが為に投ぜられたる資本は既に七千万弗に及べり。
米作は主として支那人及び日本人に依つて耕作せらる、其面積一万一千エーカーにして、年二回の収穫なり、これらの土地より生産する収穫は二百五十万弗に及び、本島より輸出する米は二十五万五千三百十八噸に及ぶと云ふ、然るに本島在住の日本人は比較的日本より輸入する米を好む。
 - 第32巻 p.388 -ページ画像 
珈琲製造は本島に於ける最古の業の一にして、以前は米国の資本家に依つて非常に大規模に計画されしも、現在に於ては余り盛大ならず、千九百八年に本島より輸出せし珈琲の高は、二十三万八千弗余にして生産高の大半は本島内に於いて消費さる、品質頗る良好にして、四千五百エーカーの土地此れが栽培の為めに使用さる、一エーカーに就き六百ポンド乃至七百ポンドの生産なり。
護謨業は頗る有望なる事業なれども、今尚ほ試験時代に属し、肥料の改良等に苦心しつゝあり、一千六百エーカーの土地は之れが為に使用せらる。
パインアップル業は、砂糖に次いで盛大なる工業にして、且つ最も有望なるものなり、他の業は何れの外国人にも適すれども、本業は特に本国の移住者に最も良く適したるものにして、米国政府が保護政策を執りしより以来、此事業は頗る盛大となり、現在に於ては毎年七百五十噸の生パインアップルを輸出す、缶詰にせるものは千九百一年に於ては僅に二千箱の輸出に過ぎざりしも、千九百九年には四十一万一千箱の多きに上れり、此パインアップル栽培の為に用ひらるゝ土地は、五千五百エーカーに及び、毎年一千エーカー宛の増加を見るに至れり此業の関係者は輸出販売の方法に付いて非常に苦心し、一昨年は十万弗の資金を投じて之れが広告及び地方売捌人の費用に宛てたり、パインアップルの輸出は(生及び缶詰共)千九百八年の調に依れば、百四十五万七千六百四十四弗に及べり。
尚ほ将来望みあるべきものは煙草及び木綿の生産なり、目下之れが奨励の為めに少なからざる資金を投じつゝあり、煙草製造会社二ありて千九百八年には七百五十俵を産出せり、棉花栽培は会社の数五、目下三千エーカーの土地を之れに使用し、千九百八年には百噸の産出を見るに至り、千九百十年には三百噸の収穫予想なりと云ふ。
家畜は牛・馬・羊・豚・養鶏等になり、全島の内牧場に適する地は一千六十五万エーカーにして、家畜の総数二十三万頭、其価格一百八十万弗に及ぶ、羊毛の輸出三十三万六千九百磅にして、価格五万二千四百弗に及ぶ、豚は未だ国内の需要を充たすに足らず、目下米国より種豚を輸入中にして、随つて豚肉の価一ポンド十一二仙なり。
布哇には大なる河川なきを以て、淡水に住む魚は殆んど見るを得ざるも、塩水に住む魚は其種類頗る多く、而も此漁業は重もに日本人に依つて営まれ、其魚も又日本人・支那人・布哇土人等に依つて食用に供せらる、千九百八年に日本人に依つて一の漁業会社設立され、且つ養魚場の設立を見るに至れり、前述の如く布哇は農業国なるを以て、製造業の見るべきものなしと雖も、布哇ホノルヽ鉄工所は、本島に於ける最も古き工場にして、砂糖製造機械の製作を以て名あり、此所に於て製作せられたる機械は日本・瓜哇・墨其哥等の諸国に輸出さる、支店は米国紐育にあり、此他に鉄道貨車製造所一、人造肥料会社二、石鹸製造会社一、麦酒醸造会社一、日本酒製造所一、石灰製造会社一、製革会社一、製氷会社数多あり、電灯電力会社一、瓦斯会社一、無線電信器製造所一、日本醤油製造会社数多、其他靴・衣類・家具の製造所多数なり、日用品は多く本島に於て製作さる、パインアップル缶詰
 - 第32巻 p.389 -ページ画像 
会社十、製糖所・珈琲製造所・精米所数多あり。
本島に於ける森林の数は二十箇所あり、其面積五十四万五千七百四十六エーカーに達す、其内三十五万七千百八十エーカー即ち総面積の六割五分は政府の所有にして、其他は私有林なり、本島民は年々保護林の数を増加し珍奇なる布哇特有の植物を保護することに尽力せり。
千九百九年の調によれば、公立小学校百五十三、教員の数四百九十三人、学生の数一万九千五百人、之れが為に毎年支出する金額四十六万六千八百三十二弗、同年に於ける新建築費八万九千六百七十五弗、総計学校の為に要したる費用五十三万二千九百八弗にして、小学児童一人に付き教育費の割合二十七弗三十一仙に当る。
農工専門学校一ありて、学校評議員十二人、学生僅に百二人、目下之れ以上の学校は他になしと雖も、漸次必要に応じて増設するの見込なりと云ふ。
千九百八年本島に於ける銀行の数十、内商業銀行二、貯蓄銀行一、商業貯蓄銀行七、其他横浜正金銀行支店あり、預金高商業銀行六百二十七万九百十一弗十六仙、貯蓄銀行三百三十二万二千八百二十七弗、合計九百五十九万三千七百三十八弗九十五仙の増加なり、単に商業銀行として其業を営めり。
本島に在住する日本人・支那人・布哇土人其他の人種の預金の割合は日本人二・五二、支那人五・二一、布哇土人六・〇三、其他の人種が八六・二四なり。
保険会社は、千九百八年の調査に依れば火災保険会社四十六、海上保険会社十三、火災海上保険会社三、生命保険会社十、生命危険健康保険会社一、危険健康保険会社三、危険健康使用者に対する保険会社一、板ガラス保険会社二十、雇人責任保険会社二、保証保険会社四、合計保険会社の数本島に本店を有するもの、並に各保険会社の支店出張所を合して八十五あり。
是等の保険会社の千九百七年に於ける情況は、保険高五千六百八十三万三千九百四十三弗三十八仙、之れに支払ひし保険料七十万九千四百八十一弗八十八仙、これらの会社が被保険者に対する保険高は、同年度の調査によれば十三万八千五百十弗二十仙、其内海上保険三千七百五十九万四百二十二弗六十八仙、生命保険百四十二万九千九百四十八弗なり。
千九百九年六月三十日に於ける調査に依れば、輸出入額六千百九十四万六干四百八十四弗に及び、前年度に比較すれば二十七万七千六百九十五弗の減少を来せり、本土へ輸入する額は、同年度の調によれば二千百四十二万四千九百八十弗にして、前年度に比較して百四十三万九千二百五十六弗の増加を見、本土より輸入せし額は一千七百三十九万千四百六弗にして、前年度に比し二百八万八百八十一弗の増加を見、其他の外国よりは四百三万三千五百七十四弗にして、前年度より六十四万八千八百二十五弗の減少を来せり、本島より輸出せし額は四千五十二万一千五百四弗にして、前年より百六十六万六千九百五十弗の減少を来たし、合衆国本土に輸出せし額は四千四十三万七千三百五十二弗にして、一百二十万三千四百六十三弗の減少を来たし、其他諸外国
 - 第32巻 p.390 -ページ画像 
へ輸出せし額は僅に八万四千百五十二弗にして、前年より五十一万三千四百八十八弗の減少を来せり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 附録・第六五―七九頁明治四三年一〇月刊(DK320014k-0008)
第32巻 p.390-396 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  附録・第六五―七九頁明治四三年一〇月刊
    墨西哥遊記 高石真五郎
  団員高石真五郎氏は、十一月三十日桑港に於て本団と別れ、墨西哥地方を視察し、越て四十三年三月帰朝せられたり、本編は氏の墨西哥談の大要なりとす
      △墨西哥の歴史と民族
墨西哥の歴史は書物を見れば分る事であるが、序だから概略を述べて見やう、知れて居る墨西哥の歴史は比較的簡単である、何となれば古代に属することは殆ど分つて居らぬからである、墨西哥といふ国が欧羅巴に知られたのは、尚言ひ換ふれば外界に其存在を知らるゝに至つたのは、僅に今より三百九十一年前、紀元千五百十九年に西班牙が遠征軍を此国に送つてからのことである
此以前の墨西哥といふものは、所謂土人が住んで居たので、明に史蹟の徴すべきものがない、併し伝へる所に依ると、七世紀頃に北方からトルテツクといふ人種が入つて来て、今のメキシコ市の附近に都を建てた、此人種は慥かに当時の土族の内では最も開けて居たものに相違ない、其時代の古跡が今尚残つて居るが、建築技術に於て中々秀でゝ居たことを示して居る、然るに夫れより四百年許り経て、此トルテツク人種は其入国の何方よりせるかゞ分らなかつたと同じく、何処に去つたとも分らず此国より消えて終つた、此辺が史蹟の甚だ不備な証拠だ、夫から百年許経つて之も北方からチヽメツクスといふ種族が入つて来た、之に次で又北方からアズテツクスといふ種族が入つて来た
而して紀元千五百十九年に、西班牙の遠征軍が此国に上陸し、行軍して今のメキシコ市を陥れた時に、此附近で発見したのが此アズテツクス族である、さればアズテツクス族は、前民族のトルテツクスのやうに消えて仕舞はずに栄えて居たのである
但し之はメキシコ市附近に住せる民族の歴史なので、墨西哥全国は今のやうに統一しては居ないで各地異つた民族に依つて住まはれて居たのである、唯アズテツクス族が此等の上に覇を称して居たのである
墨西哥の歴史を見ると、其民族は何れも、北方より来れりと書いてある、即ち今の米国の方から来て居る、之は何うしても事実であらう、墨西哥の土人中、或種族と米国の土人とを比べると、其の相貌に於て甚だ善く似て居る、唯メキシコの土人は米国の土人のやうに其顔色に赤味を帯びて居ない、それから一体のエキスプレツシヨンが米土人のそれのやうに獰猛でない、併し大体の骨相よりいへば、此族と米国の土人との間には最も密接の関係のあることは疑を要さない、夫れから土人の中で色こそ黒いが、其他の点が全然亜細亜人種そつくりのがある、歴史には前に云つた北方から来たといふチヽメツクス族は其実支那人だらうと書いてある、今でも此種族は墨西哥の最南端に住んで居る、で此族を支那人の一種であると唱へて居るものは、其証拠として此種族の発音中にはRの音がなくてL許であるのと、今移住して来る
 - 第32巻 p.391 -ページ画像 
支那人が此種族の言語を容易に習得する事実とを挙げて居る
要するに米国の土人が亜細亜から来たと信ぜらるゝ如く、墨西哥の土人も何れも北方より来たといふ点より考ふれば、矢張米国を通過して来た亜細亜人種かも知れない、伝説に依るとアズテツクス族が北方から墨西哥に漂泊して来て、今のメキシコ市の在る処で、仙人掌の枝の上に蛇を咥へて居る鷹を見付けて、此処に住居を定めたとある、之は彼等の中の予言者が「汝等は蛇を咥へて居る鷹の仙人掌の上に棲まれるを見なば、此処こそ汝等の都として神の示し賜へる所なりと思ふべし」と教へたからだと伝へられて居る、デ今でも此の鷹が蛇を咥へて仙人掌の枝上に棲まつて居る形象は、墨西哥の国章となつて居て、貨幣にも印紙にも用ゐてある
      △西班牙の植民地となる
アズテツクス族は、かくてメキシコの湖畔に都を打建てゝ、墨西哥全国に覇を称して居たが、憂てや欲深き西人の発見する所となつて、千五百十九年に西班牙の将軍コーテツズ、大軍を率ゐて墨西哥南部に上陸し、行く行く各民族を征伏して、終に首府メキシコを陥れた、併し此遠征は決して容易には行はれなかつた、何となれば首府メキシコ市の陥落したのは、実にコーテツズ将軍上陸後三年後の事であつた、それ許ではない、西軍は幾度か危地に陥つたこともある、又メキシコ市の籠城は三ケ月に亘つて、包囲軍は少からざる苦戦をした
アズテックス族は決して弱くはなかつた、併し西班牙の遠征軍を率ゐて居つたコーテツズが非凡の戦将であつたのだ、彼は南方の一地点に上陸して後、遥々本国から遠征軍を載せて来た船舶を悉く破壊して仕舞つた、かくして彼は実に背水の陣を張つたのである、それから彼は巧に各地の土族を操縦して、アズテツクスに服せざる族を其爪牙に使つたのである、コーテツズは正に世界の遠征軍将中の優なるものである
      △墨西哥の独立と其後
征伏された墨西哥は、之より三百年間西班牙の支配の下に成長した、西班牙人の植民の手際は世人の知つて居る所である、墨西哥も其例に漏れぬ、此三百年間に墨西哥には寺院の数は殖えたけれども、殖産は進まなかつた、国は依然として未開の境を脱せなかつた
此時欧羅巴では、奈翁一世が勝誇つた軍を率ゐて西班牙に侵入し、帝位を覆へしたより少し前に、亜米利加合衆国が、英国に背いて独立した、此二つの事実は、西班牙の虐政に苦める墨西哥人に大なる刺戟を与へて、此頃から独立運動が盛になり出した、千八百十年より二十一年に至る迄、国内は内乱の連発があつて、最後に革命軍は首尾よく西軍を破つて、玆に独立の一国となつたのである
最後の独立軍の大将であつた《(の脱カ)》が、イテユービーデといふ軍人で、独立後彼は選まれて皇帝の位に即いた、此時墨西哥の版図は、南は今のガーテマラ国より北は現今の合衆国のテキサス、アリゾナ、ニユーメキシコ、カリフオルニア各州を包容して、其面積遥に当時の合衆国を凌駕し、世界中に於ても露西亜・支那を除いては最も大なる国であつたのである、若し墨西哥人にして治国興産の器があつたならば、此版図
 - 第32巻 p.392 -ページ画像 
は容易に之を維持し、又開発することが出来て、優に世界の強国として数へらるゝに至つたのであらうけれども、惜しいかな墨西哥人は富強の国民たる素を有せずして、終に此大領土も其後廿五年と経たぬ内に二分されて終つたのである、墨西哥人の志ある者には必ずや今でも涙の種であらう
独立後の墨西哥は国事多難であつた、千八百四十六年には墨西哥より独立せるテキサス共和国(当時テキサスの人口は重に米国の移民であつた、其結果千八百三十六年に彼等は叛旗を翻がへして、首尾よく墨西哥より独立して、此処に一共和国を打建てた)が、亜米利加合衆国に加入したといふのを怒つて米国と戦を構へた、噫併し之は墨国に取つては末代迄も忘るべからざる誤であつた、何となれば此戦争に於て墨西哥は敗を取つたのみならず、其平和条約にはアリゾナ、ニューメキシコ、カリフオルニヤといふ広大なる領土を熨斗を付けて米国に献上したのである、かくて実に今世界の宝庫ともいはるゝカリフオルニヤ州の沃土は、墨西哥人の手より奪はれて、米人の手に移つたのである、又今日本人の排斥されて居るカリフオルニヤ州の前身も、洗つて見ればコーいふ次第なのである、実に歴史は微細の原因より大なる変化を起すものであると、有為転変の情に禁じ難いのである
墨西哥は其後も平穏ではなかつた、千八百六十二年には僅少の事から那翁三世の野心を煽動して英・仏・西聯合軍の侵入を招き、墺太利のマキシミリアン公を墨国の皇帝と奉つらなければならぬ様になつた、併し五年後に此不幸なる皇帝は、革命軍のために断頭台上の露と消えた、マキシミリアン帝所刑後、始めて墨西哥の共和国が永久に成立した、夫れから今日迄初の間こそ国内に小紛擾はあつたが、今の大統領デアツズの下に平和の発達を継続しつゝあるのである
      △風土と其国民
墨西哥は其地位の熱帯に近いところから、概していへば熱い処である併し、墨西哥全土の大部は一大高原で、南北に走つてる高山が少くない、多くの都会は此高原に在る、首府メキシコ市は実に海抜七千五百呎の高地に在る、富士山の七八合目位の処にある訳であるから、メキシコ市の気候は熱いどころではない、日中は日本の五月末頃の気温で夜になると寒い位である、之は冬のことだが、夏も大差はなく、非常に涼しいとのことで、鉄道会社は米国に近い処の内で最好の避暑地として客を呼んで居る、南方の平原は、暑気が強いとの事であるけれども、墨西哥全体からいへば気候は寧ろ良好で、居住に適して居るといはなければならぬ
墨西哥国の全人口は一千五百万と計上されて居る、此中一割五分が白人、四割が混血、残りが純粋の土人である、されば純粋の土人が六百万許り居る訳である、此土人といふ奴が余程劣等の人種と見える、歴史にはトルテツク族やアステツクス族には文明があつたと記して居るけれども、その子孫である今の土人には文明といふ面影は少しも認められぬ、彼等は第一脳力に於て劣つて居る、純粋の土人の中には、無論文学者もなければ技術家もない、商売らしき商売をして居る者もない、サレば彼等の活動し得る範囲は勢労働界に過ぎぬ、此労働も単に
 - 第32巻 p.393 -ページ画像 
労働するといふのに過ぎないで、多少でも智能を要する仕事は彼等には荷に過ぎるとのことである、土人の生活は、メキシコ市の附近で容易に見られる、彼等の居所は上に屋根を置いたので、床もなければ梁もない、土間の上に起臥して居るのである
此土人は墨西哥の国力を進捗する点に於ては殆ど勘定に取れぬ、デ今墨西哥を背負つて立て居る国民は前に書いた混血種である、温血はいふまでもなく、西班牙人と土人とのそれである、純粋の西班牙人の子孫も居るけれども、之はその数に於て頗る僅である、今の大統領のデアツズも此混血である、夫れから政府の枢要の地に在る者、軍人・吏員等は、此混血種に非ざれば、西班牙人種である、純粋の土人は居ない、混血種の人口は凡そ六百万あるさうである、西班牙人は墨西哥が其植民地である間に、盛に土人と結婚したものと見える
      △墨西哥人の気質
墨西哥人といふのは、昔から墨西哥に住んで居た、前に屡々云つた土人ではない、今言つた西班牙人種と土人との混血種が夫れである、西班牙人種の血の方が強いものと見えて、此混血種には西班牙人種の特色の方が余計に発輝して居る、彼等の血には羅典人種の熱血性が生々として居る、彼等の言語は云ふ迄もなく西班牙語であるが、彼等の会話の態度まで西班牙人其儘である、彼等の社交的生活は西班牙のそれと大差がない、西班牙で有名な闘牛迄も輸入されて墨西哥人の間に栄えて居る
本国の西班牙人が凋落した如く、今の墨西哥人は、廿世紀の生存競争場裡に余り重要なる分子を成す素を有して居ない、西班牙人は有名な懶惰の国民で、活溌進取の気に乏しい、墨西哥人が余計なことに此特性を継いで居る、外人の墨西哥人を評する者、懶惰の一言の下に彼等を排して仕舞ふ、如何も不当の侮辱ではないやうである、彼等の国は鉱業の点よりいふも、農業の点よりもいふも、世界に珍らしき富国である、然るに此開発は何人に依つて経営されて居るかといふと、多くは欧米人の手に在る、成程墨西哥人の中に大地主はある、併し進んで土地を開発したり、大きな事業を行つて居る者は多くは外人である、真実に惜しいものだ
墨西哥の富源の開発は、欧米人の手に依つて行はれて居る、尚適切にいへば最も多く米人の手に在る、米国は一は隣国でもあるからであるが、之と同時に米人は新地の開発には何処の国民よりも勝れて居るものと見える、米人の仕事は着々成功して外国人中最も繁昌して居る
今外人が墨西哥で為て居る仕事は、多くは鉱山業である、墨西哥の富は今玆に数字を以て示すことは難いが、銀の産地としては世界に有名なものである、上海や香港へ行くとメキシカンダラーが通貨になつて居る、西班牙の政治の下に在る間でも、採掘術が幼稚であつたに拘はらず、此国より輸出した銀の額は三十億弗以上の額に達して居るといふ、此外金の産出額も世界で三番目である、銅も五六千万円出る、其他水銀もあれば石炭もあれば鉄山もある、史家は墨西哥を呼んで「世界の鉱物庫」と云つて居る、然るに専門家の踏査に依ると、墨西哥鉱山は尚四分の三しか開かれて居らぬといふ、サレバ墨西哥か其全部の
 - 第32巻 p.394 -ページ画像 
鉱山の採掘に取り懸かつた時は、正に鉱物の産地として世界の有数の国になる事は疑を要さない
土地は如何かといふ、是亦大部分は非常に豊饒である、殊に天恵ともいふべきは、国内に高原が多いから、温帯・熱帯の両植物を植うることが出来る、近来棉を植ゑ出した、灌漑さへ施せば棉作に適当の地が全国至る処に拡がつて居る、今トレオンといふ附近に米人が土人を使用して棉を作つて居る、土人は尚棉の耕作に慣れぬけれども、それでも一英加一梱以上の収穫がある、之を米国の一英加四分の三梱に比ぶれば其土地の棉作に適当な事が能く分る
米人は今盛に政府から土地を買入れて棉作を試みやうとして居る、若し将来潤沢の労働があれば、墨西哥は正に世界の棉産国となるだらうと思ふ
墨西哥が其富源に豊で、外資に対して、強き誘導力を有して居ることは、今同国に放下されて居る外資の類を見れば直ぐ了解することが出来る、最近の統計に依ると、墨西哥にある外国資金は十五億弗の巨額に達して居る、此内米国が七億五千万弗、英国が五億弗、独・仏が其残りを持つて居る
併し墨西哥に在る外資は、墨西哥人の使用して居るのではなく、外人が経営して居る事業の資金になつて居る、従つて墨西哥の富は、年々此十五億弗の資金に対する利益だけ外国に持ち去らるゝ訳である、庇を貸して母家を取られるといふ事があるが、墨西哥のは母家も何も開け拡げて外人の利殖に任かせて居る、気の毒なほど惜しい次第である
      △政府の外人・外資歓迎
吾々から見れば惜しい様であるが、トいつて外人に許さなければ、墨西哥人には十分富源を開拓することが出来ぬ、墨西哥が内乱時代を過ぎて平和を楽む様になつてから、政府は殖産興業に頗る腐心したとの事であるが、墨西哥人には資力が薄いのと、其国人が邁進の気象に乏しく利殖の道に暗いために、如何しても富源が開かれぬ、是に於て政府は已むを得ず外資・外人を歓迎して、他人の手で其国を開く方針を取ることにしたらしい、鉱山の採掘に於ても政府の外人を待遇することは其国人に異らぬ、僅少の鉱山税を収めれば何処でも採掘させる
夫れから尚一つ外人歓迎の証拠は、近来外国の植民者には政府から一英加に就いて幾何と保護金を下すことである、一定の家族を連れて来て、出稼の方針ではなく、土地に永住して殖産を為やうとする者には政府から保護金を呉れる、移民を拒むといふ米国の如な国があるかと思ふと、移植民に保護金を呉れるとは、之は又甚しく寛大のことゝいはねばならぬ、近来米国に近い境には大分米国の移住民が入つて来たとの事である、土人は智識に乏しく、国民の骨を成して居る混血族は尚ほ僅に六百万の人口に過ぎぬのであるから、政府が外人・外資を歓迎して国富の開拓に鋭意して居るのは、無理もないと同情を表さぬばならぬ
併し外人・外資の歓迎に依つて墨西哥の富は殖えて、商工の業は繁昌するかも知れないが、国としての強力は此方針に依つて増す事が出来るか、之は固より即断は下し難いが、少くとも大なる疑問であるだら
 - 第32巻 p.395 -ページ画像 
うと思ふ
      △労働欠乏
外人・外資歓迎の一方に、墨西哥で事業を営んで居るものが苦んで居るのは労働の欠乏である、日本の六七倍もある国に人口僅に千五百余万といふのは、既に数の上からいつても、労働の潤沢でないことが分る、況んや其四割の人口を占めて居る土人は、勤勉なる労働者でない玆に於て墨西哥に在る事業家は眼を東洋に向けて支那人・日本人を呼び入れたがつて居る、現に米人で之から百万英加(一英加我四反余)許の土地を政府から買つて、玆に棉作を為やうとして居る者が、一日僕を訪問して労働難を説いた末、日本から移住民を呼ぶ道はないかと相談に来た、彼等は日本人の勤勉な事を知つて居る、殊に日本人が農業に経験の深いことも知つて居る、米国に在る地主が日本人を歓迎して居ると同じく、此国に在る米人は農地の経営に就いては日本人を忘るゝ事が出来ぬ
墨西哥の政府は、誰でも勤勉な外人を歓迎しやうとして居る、米人は日本人を入れたいと思つて居る、機敏なる米人は既に墨国政府に掛合つて、日本人を歓迎するかと念を推しに行つた者がある、之は僕の知つている米人なので、移民局長から頗る満足の返事を得て来たと喜んで僕に報告をして居る、僕をして言はしむれば、労働者も労働者であるが、こんな外人の開拓に明けツ広げてある国に、太平洋を超ゆれば隣国である日本の勢力が、何等の部面にも見えぬのは残念の事だといふ、宜しく日本の資金と脳力と労働とを送つて、玆に日本人の利権を打建つることは、識者の心懸けねばならぬ事だらうと思ふ、先づ差当り棉の大消費国たる日本は、玆に吾が資金と労働とを送つて棉作に従事する如きは、最も機の宜しきものであらう
      △日本移民の状態
現今墨西哥に居る日本移民の数は、米国における日本移民のやうに統計の機関がないから、判然した事は分らぬ、併し同地日本公使館へ在外証明書を請求して来る者抔の数を参考として調べて見ると、約二千人許は居る様である
さて今居る二千人許の日本人は何をして居るかといふと、重に鉱山・農業・家内労働に従事して居る、家内労働といふ中には園丁をも含んで居る、日本人は庭作りには何処へ行つても最好のレピユーテーシヨンを持つて居る、此等の賃銀は同一ではない、金山に働いて居る者の中には一日五六円取つて居る者もあるが、一日一円二十五銭位で耕地で働いて居る者もある、家内労働では食住を給されて月十五円位から二十五円位貰つて居る、之を米国に比べると恰も半額であるけれども日本に比べれば、手芸を要せぬ労働としては十分の報酬といはねばならぬ
併し墨西哥の日本労働者が外務省に喜ばれぬ理由が一つある、それは墨西哥に在る日本移民が、時々米国へ密入して米国の官憲を煩はすといふ事である、墨西哥と米国は、玆に記す迄もなく地続きになつて居る、デ一足国境を超えて米領に入ると賃銀が二倍である、此に於て初め墨西哥へ渡つて来た労働者の中には、密に米国へ入つた者、入らう
 - 第32巻 p.396 -ページ画像 
とした者が大分あつた、米国では日本からの移民を禁止して居る、然るに墨西哥から入つて来られては、表門を閉ぢて裏門を開けて置くやうなもので何にもならない、されば米国の移民官は厳重に国境を警戒して、墨国に在る日本移民の入国を防いで居る、併し之があるからと云つて、墨国に居る日本移民は窮状に在ると断ずるのは誤つて居る、誰にしても賃銀の多いのを欲するのは無理のない事で、唯米国が墨国よりは有利であるといふに過ぎぬ、墨国が悪いといふのではない