デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.583-598(DK320028k) ページ画像

大正3年6月5日(1914年)

是日栄一、下関ヲ発シ戸畑・門司・別府・大分・耶馬渓・中津ヲ巡歴シテ、十日下関ニ帰リ、十一日同地出発、広島・神戸・大阪・京都・名古屋ヲ経テ十五日帰京ス。


■資料

渋沢栄一日記 大正三年(DK320028k-0001)
第32巻 p.583-585 ページ画像

渋沢栄一日記  大正三年   (渋沢子爵家所蔵)
 - 第32巻 p.584 -ページ画像 
六月五日 晴 風ナク気候人ニ可ナリ
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後来人ニ接ス、此日ハ曾テ安川敬一郎氏ヨリ案内セラレタル明治専門学校一覧ノ為メ、八時過馬関ヲ発シ小汽船ニテ門司ニ抵リ、夫ヨリ電車ニ搭シテ戸畑村ニ抵リ、停車場ニテ自働車ニ移リ、安川父子ノ案内ニテ学校ニ抵ル、明石・西条二氏モ同行ス、校内各室ヲ詳細ニ一覧シ、参考品陳列所・図書館等マテ巡覧シテ、午後一時安川氏居宅ニ抵リテ午飧会アリ、畢テ又寄宿舎・浴室・娯楽所等ヲモ一覧シ、三時頃ヨリ講堂ニ於テ一場ノ講演ヲ為ス後安川氏宅ニ於テ晩飧会アリ、一同会食ス、専門学校ハ数年前安川氏独力創設ノ校舎ニシテ、工学・採鉱・冶金等総テ実用的ノ学科練習ノ所トス、其大体ハ山川博士参画セシモノニシテ、現校長ハ的場博士担任ス、其趣旨実着ニシテ敢テ浮華ノ風ナシ、真ニ理想的ノ修学タリト云フヲ得ヘキナリ、夜食後種々談話シテ十一時就寝
六月六日 晴 風強クシテ暑気モ稍増加スルヲ覚フ
六月七日 晴 風ナクシテ暑気強カラス、夕方ヨリ雨ヲ催スニ似タリ
六月八日 曇 正午頃ヨリ雨降リ、午後益強ク暑気少ク減スルヲ覚フ
六月九日 晴 風ナクシテ暑気昨日ヨリ増加セリ
午前六時起床入浴シテ○以下欠
六月十日 晴 風少ク暑気モ酷ナラス
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、此日ハ当地ヲ出立シテ馬関ニ赴クノ予定ニシテ、且途中中津町ニ於テ下車、町内有志者ノ企望ニ応シテ一場ノ支那視察《(談脱)》ヲ為ス筈ニテ、午前七時過別府発ノ汽車ニテ出発ス来リテ行ヲ送ル人多シ、九時過中津着下車、歓迎ノ人ニ案内セラレテ大雅堂ノ書画アル一寺ヲ訪ヒ、又故福沢翁ノ旧宅ヲ一覧ス、町ノ保存スル所ナリ、後一料理亭ニ於テ午飧ス、食後学校ニ於テ、町民ノ企望ニ応シ一場ノ演説ヲ為ス、来会者数百名頗ル盛会ナリ、畢テ午後二時過兼子ノ来着ヲ待テ共ニ発車シ、午後四時過馬関着、春帆楼ニ投宿ス休憩後地方経済会ノ請求ニ応シテ一場ノ演説ヲ為ス、夜食後此地ニ有名ナル小門ノ夜焚ヲ一覧ス、夜十時帰宿ス
六月十一日 晴 風少ク気候漸ク暑熱ヲ覚フ
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、日本銀行支店長及地方有志者等数名来訪ス、八時過小汽船ニテ春帆楼ヲ発シ湾内ヲ一覧ス、各地巡覧ノ後汽車聯絡ノ地ニ抵リ発車ス、午後三時広島ニ抵リ、兼子等ト分レテ下車ス、停車場ニ来リ迎フ者頗ル多シ、早速・保田・松本氏等ノ案内ニシテ先ツ泉邸ニ抵ル、邸ハ浅野侯ノ別野《(墅)》ナリ、庭園ノ設備完全ナルノミナラス、同家所蔵ノ古美術品ノ陳列所アリ、一覧後吉川旅宿ニ休憩シ、午後六時公会堂ニ抵ル、来会者千余人アリテ、満堂立錐ノ地ナキ有様ナリ、壇上ニテ一場ノ支那視察ニ関スル演説ヲ為シ、畢テ歓迎会席上ニ抵リ、更ニ謝詞ヲ述ヘ、十時席ヲ避ケ吉川旅宿ニ於テ小憩ス、此夜十二時過発ノ寝台列車ニテ大坂ニ赴ク、広島停車場ニ来リ送ル者数十人アリ、保田・松下・海塚ノ三氏ハ汽車中ニ来リテ分袂ス、夜一時過就寝
(欄外記事)
 [汽車中ノ為安眠スルヲ得ス、播州路ニ抵リテ日出ヲ見ル
 - 第32巻 p.585 -ページ画像 
六月十二日 朝来小雨、午後ヨリ半晴
午前六時頃姫路駅ニ於テ起床、汽車中ノ洗面所ニ於テ支度ヲ整フ、七時過神戸着、杉田支店長来リ迎フ、其他来訪者多シ、下車シテ後自働車ニテ諏訪山常盤楼ニ抵リテ小憩ス、入浴後朝飧ヲ為ス、夜来汽車中ニ於ル疲労頓ニ医スルノ想アリ、十時過第一銀行支店ニ抵リ、店員ニ一場ノ訓示ヲ為ス、十二時ミカド・ホテルニ抵リ、神戸有志者ノ催フセル歓迎会ニ出席シ午飧ス、食後一場ノ支那視察ニ関スル演説ヲ為ス後此地各船主ノ開催スル歓迎会ニ臨ミ、一場ノ講演ヲ為ス、午後三時過神戸発汽車ニテ大坂ニ抵ル、停車場ニ多数ノ歓迎者アリ、先ツ松塚旅宿ニ休憩シ、午後六時大坂ホテルニ於テ開催セル経済会ニ出席シ、食後支那視察ニ付一場ノ講演ヲ為ス、来会者凡百名余、頗ル盛会ナリ大久保知事・池上市長・村山・本山、其他有力者来会ス、夜十時散会松塚ニ投宿ス
六月十三日 曇時々晴又小雨、夜ニ入リテ雨頻リニ至ル 気候軽暑
午前六時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、池上市長・日本銀行支店長・第一銀行支店長・前原氏等ノ来訪アリ、九時過ノ大阪発汽車ニ搭シテ西京ニ赴ク、停車場ニ送別スル人多シ、午前十一時西京着、中井・中川其他諸氏ノ出迎アリ、先ツ玉川楼ニ抵リ小憩ス、午飧後同志社ニ抵リ、原田校長ノ依頼ニ応シテ生徒一同ノ為ニ一場ノ支那視察談、及修身上ノ訓示ヲ為ス、畢テ同社女学部ノ教室ニテ茶菓ノ饗アリ、午後四時頃第一銀行支店ニ抵リ、店員一同ヘ訓示ヲ為ス、五時過帰寓ス、暫時休息ノ後此地銀行者共同ノ請求ニ応シテ、中村楼ニ抵リ招宴ニ出席シ、開宴前支那旅行ニ付テノ観察及日支実業聯絡ノ必要ニ関シ詳細ノ説明講話ヲ為ス、畢テ開宴、種々ノ余興アリ、夜十時散会帰宿ス
六月十四日 晴 風ナクシテ暑気昨日ニ比シテ少ク加フルヲ覚フ
朝来少シク風邪気アルニヨリ晏起、八時洗面ヲナス、後六孫王宮ノ神官又ハ同志社員安藤氏等来訪ス、十時大阪支店長野口・神戸杉田・名古屋清水及西京支店長中川、其他小林・片野・前原等ノ諸氏ヲ伴ヒ、嵐山ニ抵リ三軒屋ニテ午飧シ、船ヲ浮ヘテ大江川《(井)》ヲ遡ル、船中囲碁ノ興アリ、嵐山ノ緑葉少シク繁茂ニ過ルモ、両岸ニハ山花咲乱レテ頗ル風致アリ、午後四時過玉川楼ニ帰宿ス、今朝尾崎司法大臣ノ秘書黒田氏来ル、又林和太郎氏(桂氏ノ父)来話ス、午前十時ヨリ各支店主任ト共ニ嵐山ニ抵リ、三軒屋ニテ午飧ス、後大江川ニ船ヲ浮ヘ午後四時帰宿ス、後玉川楼ニ於テ晩飧会ヲ開ク、種々ノ余興アリ、夜十時散会ス、中井三郎兵衛氏モ来会ス
  ○六月十五日以後ノ日記ヲ欠ク。
  ○大正三年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩ヲ記ス。左ハソノ中ノ二首ナリ。
    支那漫遊偶成
未必機心委死灰 此行何啻水雲媒 笑吾論語算盤説 慫慂中華企業来
 大正甲寅六月、余支那漫遊帰途、宿馬関春帆楼、偶須永登三郎子、携来一幅画、請余題辞、蓋其亡父伝蔵君之肖像而其歿後既経過十年云、余今対此画、不堪今昔之感也、因慨然賦一絶、書以還之
温容可掬義可親 主一奉公三十春 畢竟多能常敗事 欽君無適却全真

 - 第32巻 p.586 -ページ画像 

竜門雑誌 第三一四号・第四八―五〇頁 大正三年七月 ○青淵先生支那旅行梗概 増田明六(DK320028k-0002)
第32巻 p.586-588 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第四八―五〇頁 大正三年七月
    ○青淵先生支那旅行梗概
                     増田明六
○上略
  六月五日 金曜日 晴
 青淵先生は令夫人と共に、明石氏・増田及西条・辻両氏を伴ひ、安川敬一郎氏の案内にて午前戸畑に赴き、同氏の独力創立に係る明治専門学校を参観し、午後職員及学生の為に一場の講演を試み、夜同氏宅に於て晩餐の饗を受け且一泊す。
辻氏は、夕刻先生に別れて門司に帰る。
  六月六日 土曜日 晴
 青淵先生は令夫人と共に、午前七時安川氏の案内にて明治専門学校学生の野外演習参観の後、朝餉を為し、再度同氏の案内にて若松築港の現況を視察し、又製鉄所を参観して、同所にて午餐の饗を受け、後安川氏宅に帰還し、旅装を整へて小倉より汽車に搭乗し、別府に赴き不老町油屋熊八方に投宿す。
此日小倉駅に於て明石・西条の両氏、先生に別れを告ぐ。
  六月七日 日曜日 晴
 午前先着の馬越氏の誘引に依り、青淵先生には令夫人と共に、油屋主人の案内にて海岸の砂湯を試み、午後先生は二十三銀行小林師善・小倉光之助両氏の案内にて大分に到り、同行を参観の後、県会議事堂に於て演説を為し、帰路大分紡績会社工場を一覧し夕帰宿。
  六月八日 月曜日 雨
 早朝青淵先生は、令夫人と共に別府駅より汽車に搭乗して耶馬渓探勝に赴く、中津駅より二十三銀行中津支店酒井万氏案内役として同行午前十一時耶馬渓洞門に達す、大雨を冒し岩国川の中流に舟を浮べて競秀峰の絶景を賞し、後舟を捨てゝ耶馬橋畔の岩国屋に入り午餐を執り、再度出でゝ旧羅漢寺の雨景を望見して帰途に就き、夕別府に帰着す。
  六月九日 火曜日 晴
 前日の降雨に引換て、今日は又意外の好天気なり、午前先生には令夫人等同伴、湯元の一なる海の地獄見物に赴き、村吏員の接待を受け午後は別府町民の為めに小学校に於て講演を試みたり。
  六月十日 水曜日 晴
 青淵先生には、二十三銀行小林師善氏の案内にて午前七時別府駅を発し、九時中津に着し、友貞同銀行支店長・同町長其他の出迎を受け忘言亭にて小憩の後、中津公園に於て故福沢翁の紀念碑を観、又同翁の旧住宅を訪ひ、折柄生徒の音楽会開会中なりし高等女学校を参観して再度忘言亭に帰還し、二十三銀行支店の午餐の饗を受け、終りて数葉の揮毫を為し、夫れより中津尋常高等小学校に於ける講演会場に臨み、一場の講演を試みられ、多数の見送を受けつゝ午後二時三十分同地発列車に搭乗し、別府より来れる令夫人と会し、四時門司に着す、第一銀行西条氏、浅野セメント辻・須永の両氏等停車場に待受けられ直に小蒸汽にて下ノ関に到り、春帆楼に投宿す。
 - 第32巻 p.587 -ページ画像 
夜関門銀行家及実業家有志合同の催にかゝる山陽ホテルの歓迎会に臨み、一場の演説の後小門に到りて夜景を賞し、十一時帰宿。
広島市有志者総代として松本清助氏、先生の出迎として同夜到着す。
  六月十一日 木曜日 晴
 前夜広島より出迎の為め出張したる松本清助氏と共に、青淵先生には令夫人及随行員を伴ひ、午前九時下関発最大急行列車に便乗し、午後四時頃広島市に着下車(令夫人には従者と共に此日大阪に先着して先生を待たるゝ事に決し、此地にて分袂せらる)官民多数の出迎を受け、早速整爾・松本清助両氏等の案内にて直に浅野侯別邸の観古会を参観し、吉川旅館に入りて小憩の後、四時市公会堂に於ける講演会場に到り、早速氏の先生紹介演説に続きて約二時間に亘る講演を試みられ、同七時より同所楼上に於て催されたる歓迎会に臨み再度一場の演説を試み、十時旅館に戻り休憩の後、十二時発急行列車にて神戸に向ふ、松本清助・海塚新八・安田大吉の三氏糸崎迄同車見送られたり。
  六月十二日 金曜日 晴
 午前七時神戸駅に着す、第一銀行杉田氏等の出迎を受け、西常盤に入りて朝餉を為し、来客に応接の後、同氏等の依頼に応じて数葉の揮毫を試み、十一時第一銀行支店に到りて一場の訓諭を為し、正午ミカド・ホテルに於ける神戸経済会主催の歓迎午餐会に臨みて、支那視察談を為し、三時よりオリエンタル・ホテルに於ける阪神海漕業者大会に臨み、又視察談を為し、四時三の宮より汽車に乗じ大阪に赴き、第一銀行熊谷・野口両氏等の出迎を受け、停車場より直に第一銀行支店に到り、店員に一場の訓示を為し、六時より同地経済会及銀行家聯合招待晩餐会に臨み、又視察談を試み、十一時始めて旅宿松塚登代方に投宿す。
  六月十三日 土曜日 晴
 青淵先生には令夫人及随行員と共に、午前九時四十七分大阪発汽車にて十一時京都に到着、玉川楼に入り午食の後、同志社大学長原田助氏の懇請に依り、同校講堂に於て学生の為めに支那視察談を為し、附属女学部参観の後、第一銀行京都支店に到り店員一同に対し訓示を為し、一と先帰宿、午後六時より同地銀行家及京都織物会社聯合開催の中村楼に於ける歓迎晩餐会に出席し、二時間余に亘り支那視察及現時の経済界に対する講話を試みられ、十一時帰宿す。
  六月十四日 日曜日 晴
 青淵先生には予て今日は名古屋に到り一泊せらるゝ予定なりしが、同地は両陛下の御駐輦あらせらるゝありて旅宿充満の報に接したれば、予定を変更し、京都に滞在して嵐山に一遊を試むる事に決し、前夜大阪の野口弥三氏、神戸の杉田富氏、名古屋の清水百太郎氏に電話したるが、午前九時孰れも到着したれば、当地の中川知一・片野滋穂の両氏及伏見の小林秀明氏を伴ひ、令夫人と共に午前十時出発、終日嵐山の風光に清遊せられたり。
夜中川知一氏より青淵先生・同令夫人始め前記一同に対し饗宴あり。
  六月十五日 月曜日 晴
 午前九時二十四分京都発最急行列車にて帰京の途に就かる、十二時
 - 第32巻 p.588 -ページ画像 
四十一分名古屋駅に着す、大連にて分袂したる一行の渋沢武之助・尾高次郎・辻友親の三氏此処に先着しありて同車す、二時四十四分浜松に着す、倉知鉄吉氏下ノ関にて分袂したる野口次郎氏を同伴して先生を出迎へ同車す、四時十六分静岡に着す、一行中の堀江伝三郎氏乗車す六時五十六分国府津に着す、下ノ関にて分袂したる馬越恭平・明石照男・大沢正道・堀井宗一・仲田慶三郎の諸氏等此処に先生を出迎へ乗車す、即青淵先生以下一行十二名打揃ふて新橋に帰着したるは、午後八時二十五分なり。(終)

竜門雑誌 第三一四号・第六九頁 大正三年七月 ○青淵先生の帰京(DK320028k-0003)
第32巻 p.588 ページ画像

竜門雑誌 第三一四号・第六九頁 大正三年七月
○青淵先生の帰京 五月二日、支那漫遊の途に上られたる青淵先生には、前号所報の如く門司まで出迎へられたる令夫人及び随行員一同と与に、六月十五日午後八時二十八分無事帰京せられたり


竜門雑誌 第三一四号・第一三―一八頁 大正三年七月 ○支那視察談 青淵先生(DK320028k-0004)
第32巻 p.588-592 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第一三―一八頁 大正三年七月
    ○支那視察談
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が支那漫遊より帰京の途次、六月十一日広島市公会堂に於て講演せられたるものにて、同地発行の芸備日々新聞に掲載せるものなり、但し青淵先生の検閲を経たるものに非ず。
                          (編者識)
△見聞談は余の義務 満堂の諸君、余は只今当商業会議所会頭早速整爾氏より紹介を得たる渋沢栄一なり、御覧の如く既に老衰せることゝて十分に声が立たざるのみならず、満堂に声の徹底せざるため談話が聴き取り兼ぬるやも図られず、其辺は悪からず御了知あらんことを、予じめお断り致し置くべし、今回余が当地へ立寄ることゝなりたるに際し、早速会頭より懇篤なる紹介を得たるのみならず、余に対し多大の讃辞を以てせられたるは、敢て余の当る所にあらず、寧ろ余の方より進んで諸君に対して支那漫遊談を試むるべきが至当なりと思はるゝなり、否素人が下手な浄瑠璃を語らんが為に多くの人々を集め聴いて貰ふと一般にして、余が自から進んで諸君に対し談話をなし、之を聴いて貰ふと云ふ考へなれば、定めて御聞苦しかるべし、而も我々が見聞したる事柄を談話するは、実業界に従事せる我々の義務なるべし、支那より帰朝の途次別府に静養中、早速・保田・松本の三氏、其他寺田本県知事よりも特に電報を以て当地に立寄り方に付、再応打合せありたるに依り、今回玆に諸君と共に相会することを得たる次第なり。
△支那漫遊と余の立場 由来我国と支那との関係は、今更事新しく申上げずとも諸君の既に熟知せらるゝ所にして、特に支那に於ける実業界の我国に重大なる関係を有する事は、政治上の関係より寧ろ重大なるべしと余は確信し居るなり、余の支那漫遊談は帰朝後一二ケ所の講演に於て述べ置きたれば、或ひは諸君中には既に地方の新聞に依りて御承知の方あるやも知らざれども、玆に重複を厭はず語ることゝせん元来余は幼少より支那の学問に趣味を有し、聊か之を以て修身上及び処世上の用に供したり、而も漢学の中詩文の方より経書の方に趣味を
 - 第32巻 p.589 -ページ画像 
有したれば、経書に関するものは比較的渉猟したる積りなり、然れども浅薄の譏りは免れず、孔子の教へは修身斉家治国平天下の道を説き即ち修身上処世上の道理を懇切に説述したるものにして、就中余等の最も参考に資するに足るべきものを撰択すれば論語なり、論語は孔子の遺書にして、二十篇に分れ、門弟子との問答、王侯に対する応答等を録したるものなれども、概して孔夫子の意見甚だ多きを占むるが如し、即ち這は随見随録に過ぎざれども、余等の修身上処世上に取りては、実に金科玉条として座右に備ふべきものと謂はざるべからず、余は微力なりと雖も、今日此世に処し修身上敢て格段なる過失なく、安心立命を得たるは、全く支那の学問より修得したる結果にして、先づ論語の賜なりと信ずるなり、此等の関係より、予て支那には一遊を試みたしと考へ居りたるも、未だ其の機会なかりし処、先般漸く閑を得て彼地に漫遊し、親しく其文物に接触したるのみならず、我国と支那との実業上の関係は益々重大なることを知得したる次第なり。
△支那名所古蹟の探賞 余は詩文にも多少の趣味を有せるより、古文真宝・唐宋八家文・四書五経、其他白楽天・張継・李白・杜牧の詩文等を読過したることあり、故に名所古蹟を探訪することは余の最も楽しみとする所なり、然れば余の上海に上陸するや、先づ詩歌の風韻に富める杭州に遊び、西湖に行きて山水の景を賞し、尚洞庭湖畔に屈原を弔ひ、蘇州に抵りて「月落烏啼霜満天」……即ち彼楓橋夜泊の詩に因りて其名の顕はれたる寒山寺に詣でたるに、聞きしにまさる否寂寞たる其光景には実に一驚を喫したり、併し二千年の旧都たる南京に行きては、興亡の歴史幾変遷を思ひ出して、転た感慨を禁ずること能はざるものありき、而して廬山の風光を眺めては、真に李白が吾人を欺かざることを知り、甚賞讃に価するものありたり、更に道を転じて北行すれば又名所旧蹟は到る処にありて、猶探賞するに余りあるなり、然れば余は全く俗界を離れて優遊自適、単純なる旅行ならばこれ寔に愉快の至りなりしならんも、余が今回の旅行たるや全然俗界と絶ち難き事情の存するものあり、即ち余は漫遊の傍ら、半ば余の関係せる中日興業会社の事業に着手する期日の切迫したるより、各方面に於て一層双方の意志の疏通を図らん必要より渡支したる次第也。
△中日興業会社の組織 余は平素実業上に関係せるより、目下隣国支那に於ける実業界の風雲益々急なるを目撃しては、黙視し難き事情あるなり、何となれば支那実業界の風雲は、我帝国実業界に対し甚大の影響を与ふるのみならず、列国は何れも支那の実業界に向つて猛烈に猿臂を伸ばし来らんとしつゝある模様なればなり、顧ふに帝国四十余年間に於ける実業界の発達は、実に見るべきものなしとせず、然し乍ら今後我帝国に於ける実業の興廃は、隣国なる支那実業界の盛衰如何に依りて運命を共にするものなれば、経世家たる者は深く留意する所なかるべからず、故に余は先年日支間に於ける確実なる実業勃興の機関となるべきものゝ必要を感じ、先づ経済上の提携の目的を以て中日興業会社を組織したるなり、此会社の目的は、直ちに彼国の鉱山や鉄道を経営するにあらずして、両国の利益となるべき事業に対し有望と認むるものに金融の仲介をなすと云ふに過ぎざるなり、而して此会社
 - 第32巻 p.590 -ページ画像 
の株主は日支両国民に限り居れり、是より先偶支那に革命運動起り、遂に革命派の勝利を得て兎にも角にも中華民国なるもの建設せられ、我国官民は挙つて民国の将来如何と注目せる折柄、民国建設の首領孫逸仙が得意となりて来朝したるより、余は孫氏に対し、支那も徒らに政争を事とするの時機にあらず、一刻も早く官民一致し、実業方面に着眼して大いに活動すべき必要ある事を警告したり、孫氏も之を諒として首肯する所あり、直ちに之が案を示されたしとのことなるより、余は数日後案を作り、日支両国民の株主に依りて組織せられたる者が即ち前述の此中日興業会社なり、支那側の満株に達せざるものに対しては、会社より金を出して株式を引受けしめ、追て孫を総裁とする腹案もありしに、同氏帰国の後間もなく南北戦争起りたる次第なるが、是より先北京側に於ては中日興業会社に対し猜疑の眼を放ち、袁世凱は此会社の内意を探らしめたり、余等の眼中には北方もなく、南方もなく、全く政治的意味を離れたる両国民の実業的提携に依りて、支那の物資開発に努めんとするにあるのみ。
△実業的方面の意思疏通 斯て袁世凱の内命を奉じ、中日興業会社の内部を探らんため来朝したる孫宝琦・李盛鐸の両氏は、不得要領の儘に経過する其内、自国に戦乱起りしかば急遽帰国の途に就きたり、其後熊総理より中日興業会社其他の要件に関し、日支間に於ける実業的方面の意思疏通を図るため、純然たる日本の代表的実業家渋沢栄一氏の来訪ありたき旨、山座公使を経て我外務省に依頼し来りたるより、余に取りては渡りに船とする所なれば、早速之を請合ひたるも、生憎病気に罹り居りたれば、倉知鉄吉氏を余の代理として彼国に派遣し、一面孫逸仙に対し、目下の事情を以てせば氏を会社の中心とすること能はざる所以を陳べしめたる処、孫氏も大いに之を諒とし、夫より倉知氏の奔走に依りて袁政府との意思全く疏通し、袁総統の一幕僚たる楊士琦を会社に入社せしめたる次第なり、而して愈我帝国が彼地に於て事業に着手せんとすれば、各国及支那に於ける各方面の有力者は、直ちに猜疑の眼を以て之を見るのみならず、中には悪声を放つ者あるより、是等の人々に対し更に意志の疏通を図るの必要を生じたるため前述の如く余が老躯を提げて渡支したる次第なり。
△支那に於ける実業界 元来隣国支那に於ける実業界の事業は、個々別々に企画せられ居る傾向あり、這は決して宜しきことにあらず、即ち個々別々に事業を企つる時は、其個人の利益の為に公道に背戻することあるに至るものなり、一例を挙ぐれば戦争の場合に当り、奸商輩が出没して不当の利益を占むるが如き、所謂火事場泥坊を働くが如きものなり、而も斯る事には列国にも大いに注意し居れば、個々別々に事業を起すと云ふことは深く警戒する所なかるべからず、余が談話する所は、何か自分の功績を誇るかの様に聴取せられては甚だ迷惑千万なり、今より十数年前我国の朝鮮に対する経験は如何と云ふに、種々なる人々が種々なる事業を朝鮮に起しかけたるも、多くは忽ちにして雲散霧消の有様となりしなり、我々は明治二十九年京仁鉄道を設け、更に明治三十七年より三十九年迄に政府の援助を受けて京釜鉄道を敷設し、何れも之を竣成せしめたり、又余の関係せる第一銀行も、早く
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より京城に支店を出し置きし処、之が今日にては既に独立したる銀行となり、朝鮮銀行と改名さるゝに至れり。
△事業は何処迄も統一 総て国家に直接の関係ある事業は、個々別々になすべきものにあらず、此の風雲急にして列国監視の下に在る支那に於ける事業は、殊に個々別々になさしむべからず、宜しく何処迄も統一することに努めるの必要あるなり、我々が中日興業会社を設立したるも、蓋し此意義に外ならざるなり、英独露米の各国は、各其及ぶ限りの力を揮つて支那に手を延ばしつゝあることは前述したる通りなるが、今尚十分の余地ありとなせり、即ち東洋の発展は、支那に於てするより他に求むべからずとの観念より、各国は支那に対し実業方面より各種の事業を起し居れるのみならず、其進歩せる速度は実に驚くの外なく、恰も我国が維新以来長足の進歩をなせるより、ヨリ以上なるべし、要するに東洋に於ける政治界・実業界に於て最も注目すべき価値あるは支那にして、其事業の豊富なること今更事新らしく云ふ迄もなく、支那は実に実業界に於て総ての要素を備へ居れると云ふも敢て過言にあらざるなり。
△川の中に槎村あり 支那の蘇州地方は養蚕の盛んなる所にして、生糸は光沢好く、我国に於ける第一等の生糸と称するものに比し、優るとも決して遜色なかるべし、南京は前述の如く二千年の歴史を有する旧都なるも、最近に於ける第一・第二の革命戦争の為に、市街の要部は殆んど兵燹に罹り、満目荒涼、惨憺たる光景なり、然れど此地は長江に臨み、鉄道は各方面に通じて交通便利なり、而も揚子江の如き大河に至りては幅二浬もありて、濁水の流れつゝある光景は実に形容するに適当なる辞を見出すこと能はず、一度び水の増す時は深さ九十尺もありと伝へらる、其壮大なること推して知るべし、東坡が後赤壁賦に水落石出づ抔と形容し居れども、這は彼の所謂白髪三千丈式の詩人の空言にして、其水流の深くして且広大なる、到底石抔をば見るべからず、其渺茫たる有様は実に海の如き観あるなり、尚蜀の人が木を切り槎を作り、即ち川の中に槎村ありて槎の上に野菜を作り、甚だしきに至りては家を作り子供を育て居るもあり、而して一年有余を費して漸く下流に達し、其槎に作れる材木を売りて金となすなり、其槎に乗る人の気も悠々として、亦以て如何に宏大なる国柄なるかを知るに足るべきなり。
△大冶鉄山の無尽蔵 余等の更に驚きたる一事は、大冶鉄山の豊富なること是なり、余が数十日に亘りて其内地を跋渉し、随分旅行したりと思料するも、地図を展べ見れば其旅行したる所は寔に一小部分に過ぎず、此広大なる地積は多くの遺利を以て満され、殊に大冶は鉄鉱を以て世界第一の称あり、其鉱石の無尽蔵なる実に垂涎三千丈ならずんばあらず、米国に於けるビユーテの鉄鉱と雖も、到底大冶の鉄鉱の豊富なるには及ぶ可くもあらず、兎に角全山悉く鉄鉱なれば、切り崩して直ちに運搬すれば可なり、決して他鉱山の如く坑を設けて採掘するにあらず、恰も鉄道線路の切取工事の如く、山腹の何処よりにても切取り採集することを得る次第なれば、之を実見せざるものは到底信を措き難き程なりき、大冶鉄山の附近に大なる二・三の突兀せる丘陵あ
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り、這は唐太宗時代に採掘したる鉄屑の堆積したるものにして、此鉄屑よりも充分の鉄を得べし、然れども今日は之を顧みるの必要なきなり、尚四百余州の中原を貫通せる長江の一帯には、到る処鉄山を見るべく、兎に角支那に於ける鉄鉱の無限なる富源には、実に驚くの外なきなり。
△北京中心人物と会談 併し大冶鉄山の設備費は今日の処約四百万円なりといふも、十余哩の鉄路と、不完全なる採掘場と、二・三の護岸工事あるのみ、近く同所に熔鉄炉を設置すべしとのことなるも、其実行期は未定なり、又明の十三陵と万里の長城とは、共に古き支那の歴史と文物を語る唯一の材料なれども、惜しいかな今や頗る荒廃に帰しつゝあるを見たり、夫より余等の一行は北京に抵りたるが、北京は申す迄もなく政府のある所なれば、道路は立派にして交通は便利なれども、所謂紅塵万丈なる点は決して誣言にあらざるなり、北京にては袁世凱と親しく胸襟を披きて談話したるのみならず、中日興業会社の事業に就ても、双方の意思全く疏通したるなり、而も袁世凱は余に向つて、君は実業上の経験家なれば十分努力されたしなど唱へ、非常に歓迎し呉れたり、尚楊士琦其他北京政府の中心人物とも会談したりき。
△支那旅行の目的を達す 余が今回の旅行に付ては、前述の如く二個の目的を有したるものにて、即ち一は多年憧憬し居れる彼地の風景を探賞するにあり、他の一は例の中日興業会社に関して支那の中心人物と相会して、其経営上の事を談合せんとするに在りたりき、征旅僅に三十数日間、極めて短時日の遊びに過ぎざりしも、而も余に取りては無用の旅行にあらざりし事を喜ぶものなり、其行程は上海上陸以来長江を溯り、南京・漢口・蘇州・杭州・大冶・北京、其の他重なる土地は概ね視察し、到る処歓迎を受けたるが、天津に於て微恙に罹り聊か発熱したる所に、水野参事官・山座公使の逝去を聞きたるを以て、同行の馬越君等の注意に依り、遂に旅程を変更し、俄かに天津より大連に渡り、旅順等を視察して帰朝したる次第なり、要するに支那の視察は概略なりしも、日支両国に関係する重要事業の視察を了り、一と通り其希望の目的を達したり。
△経済界に関する意見 余は以上にて支那視察談は終了したるが○下略


竜門雑誌 第三一四号・第二〇―二一頁 大正三年七月 ○大阪ホテルに於て 青淵先生(DK320028k-0005)
第32巻 p.592-594 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第二〇―二一頁 大正三年七月
    ○大阪ホテルに於て
                      青淵先生
  本篇は、青淵先生が六月十二日大阪経済会の催しに係る歓迎会に臨みて演説せられたる支那視察談にして、広島に於ける演説と重複の廉なきに非ざるも、亦た其の趣意を異にする所あるを以て、参考の為め併せて掲載することゝせり。(編者識)
△支那の利権回収熱 欧米各国は支那内地に於て随分我儘なる振舞をなしつゝあり、然るに我日本の行為に対し彼等より非難さるゝのみならず、支那新聞紙上にも日本は既に満洲において完全優越なる権利を掌握しながら更に手を揚子江沿岸に伸さんとす、其野心の程度図るべからずと称し、何事に拘はらず我行為に付き兎角の非難あるは悲しむ
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べき事なり、されば今回支那及我実業家によりて組織せられたる中日実業公司の事業遂行に就ても、支那官民の誤解を解かざれば、今後如何なる障碍の起る無きを保せず、此故に予は至る処の総督・民政長官又は商務総会等において、特に此点につき熱心に弁じ置きたり、元来中日実業会社組織の目的は、事全く実業の振興にあり、其間何等の政治的意味を有せず、然るに昨今支那新聞紙の筆法によれば、例へば某国が某実業上の権利を得んか、彼は直に之を以て利権の獲得となし、何か重大なる政治的権利を剥奪せらるゝが如く伝へ、依つて以て其国民間の利権回収熱を鼓吹しつゝあり。
△実業は戦争に非ず 成程利権獲得と云へば、一見彼の国民を圧迫するか強制するかの如く聞ゆるも、実際は決して然らず、予は実業上の利権獲得なるものは、経済の原理に基く有無相通ずるものに外ならずと信ず、何となれば今日の支那には遺利頗る多し、然れども彼国民現在の程度にては、自ら之を経営し、其利益を挙げ、己を益し、世を利するの力なし、左れば我と彼と共同し、彼の及ばざる点は、我之を補ひ、彼此共に利益を得んとするに外ならず、実業を以て平和の戦争と云ふも、予は之を信ぜず、抑も戦争に於ては、勝者は偉大なる利益を得、敗者は甚しき創痍と損害とを受く、然れども商売は此の如きものにあらず、売買双方とも是に依り相当の利益を得るを本旨とするが故に、戦争と同一視して此間兎角の邪推を挟むべきものにあらず。
△彼等も納得す 殊に今回の中日実業公司の如き、我は我法律に則りて組織し、支那は支那の法制に遵ひて成り、特に事業は彼地に於て経営し、天恵に富む彼の遺利を拾はんとす、彼に於て不充分なる人材及資金を我より給し、双方共に其利益を享受せんとするを目的とす、徒らに猜疑心を以て之を迎へ、政治的利権の獲得なるが如く中傷せんとするは、予の怪訝に堪へざる処なり、万一支那人にして此の如き迷夢より覚めざる以上、貴国は到底発達の見込なしとて、予は熱誠を以て同国の有志を説きたり、彼等も其後大に悟りたるものゝ如し。
△豊富なる大冶鉄山 予は数十日に亘つて其内地を跋渉し、随分旅行したる考へなるも、地図を展き見るに、旅行の跡は真に其一小部分のみ、此広大なる地積は多くの遺利を以て満され、大冶鉄山の如き、其鉱石の豊富なる実に驚く許りにて、全山悉く鉄鉱なり、而かも他鉱山の如く坑を設けて採掘するにあらず、鉱石の採取は恰かも鉄道線路の切取工事の如く、山腹の何処よりにても切取り採取する訳にて、実見せざるものは到底信を措き難き程なり、大冶鉱山の附近に大なる丘二三あり、コハ唐時代鉱石より鋳鉄を取りたる、残滓を積上たるものにて、此滓よりも充分の鉄を得べし、然れども今日は是等を顧みる必要なし。
△鉄山の設備 大冶鉄山の設備費は、今日の処約四百万円なりといふも、十余哩の鉄路と、不完全なる採掘場と、二・三の護岸工事あるのみ、近く同所に熔鉱炉を設くべしとの事なるも、実行期は未定なり。
△政治的観念の欠乏 一般支那の人民は、利己心の外国家及地方的観念は極めて薄弱なり、政治的観念の如き、又甚しく欠如せり、此の如きは畢竟積年弊政の致せし処、貧富の懸隔亦甚し、コハ独り支那のみ
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ならず、我国民も亦深く戒心の要あらん。
△将来の支那 此広大なる土地及無限の富を蔵せる支那の民情以上の如し、而して列国の之に対する態度は、実に爪を磨ぎて臨むの概あり将来の支那が果して如何に成行くかは、予の予言するを欲せざる処なるも、此天恵に富み人材に乏しき大国は、帝国の隣国にあり、帝国にして万一此儘放任せんか、蓋し前途憂ふべき事件の続発するなきかを虞る、予は中日実業公司組織の実に機宜に適したるを信ず。
○下略


竜門雑誌 第三一四号・第二二―二五頁 大正三年七月 ○京都同志社大学に於て 青淵先生(DK320028k-0006)
第32巻 p.594-596 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第二二―二五頁 大正三年七月
    ○京都同志社大学に於て
                      青淵先生
  本篇も亦青淵先生が支那漫遊より帰京の途次、京都同志社大学校長原田助氏の懇請を容れ、六月十三日同大学講堂に於て講演せられたる筆記なり。
○上略
 余が今次の支那行は真の漫遊に過ぎずして、唯々彼国政界及び実業界数名の人士と会見して互に意見を交換し、又は名所旧跡を探索するの外、何等の用務使命無し、抑々少壮の頃余が受けたる孔孟の教は、実に当時唯一の教育経典なりしかば、其道により陶冶せられたる余は自然、孔子廟参拝の宿志を果し度く、且つ近時漸く儒教頽廃の徴候表はれんとするを憂ふる余は、之が原因も亦多少研究に価すと思惟せし事我が目的の一なり。
 次に我国今日の隆盛を致すに当て、明治維新後政治軍事及び教育の力与て大なりしは勿論なりと雖も、今や富の力が武力に随伴する時代は漸く過ぎ去り、弱肉強食、討伐侵略は、暴戻野蛮の弊風として排斥せらるゝに至りしを以て、吾人は専ら強固なる意志と、深き道理に則り、正当なる手段方法を用ゐて国富の増加を計ることを務め、兼ぬるに武力を以てし、以て国光を発揮し国威を高めざる可らず。
 翻て思ふに、隣国支那は版図広大にして、天恵亦頗る豊富なるに、人工未だ殆ど揚らず、依て英米独仏其他の強国争て視線を此国に集め今や夫々大に画策する所あらんとす。然るに阿部仲麿、伝教・慈覚両大師以来、千有余年の親交を重ねし同文同種の我日本は、彼と恰も唇歯輔車の関係にあり乍ら、援助の効果微々として甚だ振はず、之れ豈に遺憾の至りならずや。夫れ国力の発展は、実業の力に依らざる可らず、而して実業の隆盛は専ら広大なる範囲に依らずんば得て望む可らずとせば、日支貿易の必要なる、敢て贅言の要なかるべし。然るに我国対支貿易の状況を考察するに、海産物雑貨等多少の輸出なきに非ざるも、惜い哉、未だ其大動脈には毫も力を入るゝ能はざりき。於是か昨年孫逸仙氏の渡日に際し、余等同志相謀りて中日実業公司なる企業会社設立し、合弁組織によりて鉄道其他の事業経営に従事せん事を約したり。余等の真意は蓋し実業上彼我相愛の理想を実現せんとするに外ならず。
 さて従来商業を名けて「平和の戦争」と称し、商業を戦争に比した
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りしと雖も、思ふに平和の戦争なるもの固より存在するの理なし、夫れ戦争に当ては常に勝者の利する丈け敗者は損するものなれども、元来商業は互に有無相通じ、自他共に利するを以て原則と為す故、どこ迄も仁義道徳を実行するを得るものにして、余は今日まで人を倒し人を損せしめし事なく、常に他を利しつゝ同時に己が財を作りしなり。
されば吾人の対支企業亦常に此の如き抱負を以て画策せられ、資本金の如きも五百万円を折半して両者平分に出資する事となり居れり。然るに不幸第二革命の勃発に際し、右の計画一時挫折の止む無きに至りしを以て、此度親しく支那北方の当局者に面会熟議の必要を生じたれば、此方面の用務を弁ぜんと欲したる事は、此の行第二の主要なる目的たりしなり。
 以上二ケの使命を果さん為め、約一ケ月の旅程を以て先月二日東京を発したりしが、不幸中途病を得て孔廟参拝の機を失ひ、遺憾乍ら僅かに第二の使命に関する活動を為せしに止るも、各地に会見を重ねし人士とは、互に胸襟を披瀝してよく理解和合の実を挙げたれば、今後活動の地盤のみは充分に造り得たる事と信ず。
 今行程の順路を辿り、之等短日月の間に、瞥見したる大要を語らむか。
 上海は盛大なる外国商館櫛比し、泰西的組織の下に活動せる東洋の一大要港たり。今や其殷賑神戸にも優るが如き観を呈し、過去三十年間に、よくも斯くまで長足の進歩を遂げ得たるものかなと、感歎せざる能はざりき。
 蘇州は地味肥沃、農産亦甚だ豊富なれども、一般人民の生活状態頗る賤しく、道路も狭隘にして、又著しく不潔なり。
 西湖には西湖十二景及び岳飛廟等ありて、風景絶佳なり。蘇州寒山寺は今や頗る荒廃して殆ど見る蔭も無く、支那詩人の誇張徒らに行人を失望せしむるのみ。
 南京に至て先づ感じたるは、支那の城壁に就てなり。凡て我国各地の城塞は、主として一人一城主を保護せしに反し、彼国の城壁は専ら住民全般の保護に任ず、而して其最大なるものを彼の有名なる万里長城なりとす。当市の城壁は周囲九十里、五代当時の造営に係り、後明の太祖此地に都して以来、今も猶其の遺業所々に散在す。若し余をして支那人たらしめば、是等旧跡の保存には、蓋し一大頭痛を惹起せしめらるべきか。
 大冶鉄山は最も天恵に富み、我若松製鉄所に於て一年三十万噸の鉄を製作するうち、其大半は材料を此地に仰ぐと云ふ。唯鍬を以て山の表面を掘るのみにても、優に六十パーセントの含有量を有する良鉄鉱を得べく、而も僅に十八哩の鉄道によりて船積するを得。唐の大宗の時其採鉱の残滓を堆積せし小山、現今付近に塁々たり。是すら猶五十パーセントの鉄を含むと云ふに至ては、其天恵真に驚くに堪へたり。
 長江筋の長くして洋々たること、亦聞きしに優るものあり。現今の支那にては、東坡の所謂「水落石出」の趣ある処殆ど存せず。上海より六百哩を遡るも猶幅員一哩に及ぶ、其壮大思ふ可し。
 漢口より去て北京に赴きしが、此地は城壁幅広く、壁上にて小児の
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遊戯、大人の散策すら為し得るが如し、滞都中は来往繁く多忙なりしを以て、旧離宮一ケ所を観覧せしのみ。
 明の十三陵は世祖以後二・三代の霊を祠り、陵数十三を算す。主陵参拝の道に並列して、巨大なる石象・石馬・石人等あり。其規模頗る宏大にして、殊に石材は悉く四川省より運搬せられしと聞きては、只驚くの外なく、其保存施設亦蓋し頭痛ものなるべし。
 天津に至りし後、不幸病を得て専ら引籠り勝ちなりしかば、特に云ふべきものなし。依て無止旅程を変更し、孔廟参拝は遺憾乍ら自然中止するの外なかりき。
 要するに支那にては一般の文化猶甚だ低く、農工業頗る幼稚にして官民の間柄も我国とは実に雲泥の差異あり。概して云へば各人の個性はよく発達せるが如きも、国家観念に至つては甚だ貧弱なるが如し。殊に積年弊政の結果、富む者は愈々富み、貧者益々乏しきを加へ、一人の富を致すが為には、万人貧に陥るの弊なしとせず。吾等は如此貧富の隔絶甚しきを見るに付けても、人のふり見て我ふり直す所あらざる可らず。
 今や我国は物質的文明著しく進歩せしと雖も、精神上の修養に至ては猶未だ満足の域に達せず、智徳並進の不完全なる結果は、軈て己れさへ富めば他は顧るに及ばずとて、自然道徳破壊の端を発し、人格向上無くして富力智識のみ徒らに増進せば、却て落伍者続出して、隣国の覆轍を踏むの虞なしとせず。動もすれば貨殖の道と道徳の離反せんとする実業界に於ては、此心懸け殊に肝要なり。故に余は此度四百余州到る所に此の一事を注意して吹き廻りしを以て、支那にて説きし所を反覆し、聊か諸君の参考に供せんとせしに過ぎず。


中央新聞 第一五六五号 大正三年六月一六日 渋沢男視察談(DK320028k-0007)
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