デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
3款 第三回米国行
■綱文

第33巻 p.35-51(DK330003k) ページ画像

大正4年11月8日(1915年)

是日栄一、サン・フランシスコニ上陸ス。十五日同地ヲ発シテ十六日シアトル着、十八日同地ヲ発シテポートランドヲ経テ二十二日シカゴ着、二十四日同地ヲ発シテ二十五日ピッツバーグ着、二十七日同地ヲ発シテ同日フィラディルフィア着、二十八日同地ヲ発シテニュー・ヨークヲ経テ二十九日ボストンニ着ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK330003k-0001)
第33巻 p.35-41 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月八日 曇
朝来風邪気ニテ入浴ヲ止メ午前七時起床、洗面シテ直ニ朝飧ス、畢テ髪ヲ理シ、又坂谷・中野・八十島ノ三氏ヘ書状ヲ裁シテ本日無事桑港《(着)》ノ事ヲ報道ス、午飧後船桑港ニ安着スルモ、潮水浅クシテ桟橋ニ達スルヲ得サルヲ以テ湾中ニ碇舶ス、山脇大博事務官長ヲ始メ、沼野総領事・牛島日本人会長、米人商業会議所会頭等六・七名ト共ニ小蒸気船ニテ来訪ス、此日雨降リ風烈シキモ、湾内ナレハ船中安静ナリ、沼野牛島氏等ト種々ノ談話ヲ為シ、午後七時頃ニ至リ上陸ヲ得ル、荷物ノ取扱ヲ横山・増田氏ニ委シテ、山脇氏先導ニテ上陸シ、直ニ自働車ニテ同氏ノ官舎ニ訪問シ、日本料理ノ饗宴アリ、食後燕林ノ講談アリ、随行一同久振ノ陸上宴会ニ歓ヲ尽シ、夜一時過ヘヤモンド《(ト)》・ホテルニ投宿ス
十一月九日 晴
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、シヤトル人ローマン氏ホテルニ訪問セラル、氏ハ実業団長トシテ渡米ノ時特ニ接待ニ尽力セシ人ナリ、又スホケン人来訪、久闊ノ情ヲ叙ス、其他来訪ノ内外人頗ル多シ十二時頃沼野領事来ル、共ニ会食シテ滞在中ノ日程ヲ協議ス、午後山脇事務官長来訪、一同誘ハレテ博覧会ニ抵リ、先ツ日本館ヨリ参観シ
 - 第33巻 p.36 -ページ画像 
美術館ヲ一覧ス、山脇・執行二氏案内シテ詳細ニ説明セラル、五時頃台湾喫茶店ニ休憩シ、夫ヨリ日本人倶楽部ニ抵リ、談話会ニ出席ス、牛島氏ノ挨拶ニ応シテ、日米問題ニ付詳細ノ意見ヲ述フ、七時過ヨリ食堂ニテ会食中種々ノ意見ヲ交換ス、食事畢リテ当地イキサミール《(ナ脱)》新聞社《(員脱)》ニ面会ス、夜十一時半散会、ホテルニ帰宿ス、帰宿後新聞紙ヲ一覧シ、十二時就寝
 シトニー・ギユリツク氏来話ス
十一月十日 晴
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、東部旅行日程ニ付、頭本氏ヲシテエブリー氏ト協議セシム、午前十時日曜学校ニ関スル米国委員数名来訪ス、牛島氏モ来訪ス、其他種々ノ来訪者多シ、午後一時沼野総領事シトニー・ギユリツク氏・鈴木・吉松二氏来会ス、労働大会出席ノ景況報告ノ為ナリ、共ニホテルニ於テ午飧シ、食事中種々ノ談話ヲ為ス午後三時頃一同散会ス、クロニクル新聞社員来リテ、余カ旭日大綬章拝受ノ事ヲ問ハル、是ヨリ先、沼野総領事ヨリ外務大臣ノ打電ヲ報知セラル、四時過髪ヲ理シテ後、新聞紙ヲ一覧シ、又日記ヲ編成ス、午後七時パレース・ホテルニ抵リ、沼野領事開催ノ正式晩飧会ニ出席ス桑港及附近ノ米人、邦人男女多ク会合ス、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、夜飧畢リテ夜会ヲ開キ、内外ノ士女多人数来集ス、舞踏アリ、夜十一時辞シテ旅宿ニ帰リ、当日到来セシ電報又ハ信書等ヲ処理シテ、十二時過就寝
十一月十一日 晴
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、後種々ノ来客ニ接ス、午前十一時沼野領事・頭本氏ト共ニ当市ノ商業会議所ニ抵リ、日米関係委員会設立ノ協議ヲ為ス、坐長開会ノ趣旨ヲ述ヘ、余ノ出席セシ理由ヲ出席員ニ告ケ、次テ余ハ一場ノ演説ヲ為ス、後各員意見ヲ披瀝シ、十二時半別室ニ於テ午飧ヲ共ニス、食後尚談話ヲ継続シ、午後三時散会ス、四時過ホテルニ帰リテ来客ニ接ス、午後五時沼野領事来リ夜飧ヲ共ニス八時当地ニ開催セラルヽ御大典遥拝会ニ出席ス、来会者三千余人ナリト云フ、一場ノ講演ヲ為シ、畢テ鈴木・吉松二氏ヲ同行シテホテルニ帰リ、両氏着桑以来ノ行動ヲ説明セラル、夜一時就寝
十一月十二日
午前七時起床、日々快晴ナリ、入浴後朝飧ス、後来客ニ接ス、午前博覧会場ニ抵リ日本館ニテ休憩ス、午後一時場内ニ開催セラルル総裁ムアー氏ノ宴会ニ出席ス、沼野総領事・山脇事務官長其他邦人多数来会ス、卓上ムアー氏及米人側ノ演説アリ、余モ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ場内二・三ノ館内ヲ巡覧ス、午後五時頃帰宿、七時衣服ヲ改メテ日本人設立ノ商業会議所主催ノ宴会ニ出席ス、日米ニ関スル問題ニ付テ各意見ヲ交換ス、牛島・安孫子氏等論弁アリ、沼野氏モ其意見ヲ陳述ス夜十二時散会帰宿ス、午前一時就寝
十一月十三日 晴
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後種々ノ日米人来訪ニ接ス、正午山脇事務官長ノ案内ニテ博覧会ニ抵リ場内ヲ巡覧ス、紐育館内ニアル料理店ニ於テ午飧ス、山脇氏ノ饗応ナリ、畢テ又各部ノ陳列品ヲ一
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覧ス、午後七時牛島氏主催ノパレース・ホテルニ開カルル宴会ニ出席ス、米国労働組合長ゴンパルス氏及シヤレンベルグ、鈴木・吉松氏等モ来会シ、食卓上ゴンハルス氏ト余ト一場ノ演説ヲ為ス、卓上労働上ノ談話ヲ交換ス、散宴後牛島・藤平・長島諸氏ト沼野総領事官舎ニ会シテ、博覧会協賛会社ノ跡始末ニ付種々ノ談話ヲ為ス、沼野氏・藤平氏等ヨリ爾来ノ経過ヲ説明セラレ、余ノ助力ヲ求メラル、夜一時頃帰宿就寝
 午飧後場内ニ於テ飛行機技師スミス氏ト会見シ、其飛行ヲ一覧ス、上下扶揺自在ニシテ、恰モ鳥ノ空中ヲ翔翺スルニ似タリ、氏ハ明年日本ニ旅行スルノ意アリト云フ、場内ニテ氏ト握手シツヽ撮影ス
十一月十四日 晴
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、後二・三ノ来客アリ、午前十時オークランドニ抵リ日曜学校ヲ参観ス、ブラオン氏其他種々接待セラル会場ニテ一場ノ演説ヲ為ス、午前十一時博覧会場ニ抵リ、茶業組合ノ出店ニ抵リ一行皆午飧ノ饗ヲ受ク、日本料理ナリ、畢リテ場内ヲ一覧ス、午後六時頃沼野領事ノ官舎ニ抵リテ夜飧ノ饗アリ、畢リテ博覧会場ノ夜景ヲ展望ス、此夜日曜日ナルヲ以テエルミネーシヨンノ光景目ヲ眩スル計ナリキ、沼野領事ト種々ノ要務ヲ談シ、十時大久保歯科医ニ抵リ治療ヲ受ク、堀越氏同行ス、夜十二時帰宿、明日当地ヲ発シテ東部ニ赴クヲ以テ旅装ヲ理ス、夜一時過就寝
十一月十五日 曇
午前六時半起床、入浴シテ直ニ歯科医大久保氏ヲ訪フ、堀越氏同行ス帰宿後旅装ヲ理シ、朝飧シテ来訪者ノ多人数ニ会話ス、沼野領事・山脇事務官長其他内外人多ク来リテ発足ヲ送ル、午前十一時汽船ニテオークランドニ抵リ汽車ニ搭ス、シヤトルニ向フナリ、一行中永野・渡辺二氏ハ桑港ニ止リ、牛島謹爾氏ハシヤトル迄随行ス、列車中ニテ午飧シ、一行頃日来ノ繁忙ヲ忘レテ、俄然車中無事ノ人トナレリ、談話尽キスシテ、夜飧後モ観覧車中ニ於テ会談ス、或ハ往時ヲ話シ、又ハ近況ヲ談ス、殊ニ牛島氏ヲ加ヘテ新生面ヲ開クノ感アリ、夜十一時過就寝
十一月十六日 曇
汽車中ニ在テ午前七時半起床、旅装ヲ理シテ朝飧ス、汽車終日北行スレトモ往路記スヘキ事ナシ、午飧後ポルトランド人クラーク氏汽車ニ来訪ス、且同地ニ一泊ノ事ヲ要求セラル、氏ハ先年渡米ノ時東道主人タリシ一人ナリ、午後三時ポルトランド市着、暫時下車シテ米人・邦人等ノ歓迎ヲ受ケ、クラルク氏ニハ十九日午前再ヒ来訪ノ事ヲ約シテ去ル、タコマ市停車場ニ抵レハ邦人来リ迎フ者アリ、車上ニ於テ一言ノ謝詞ヲ述フ、夜九時頃沙市到着ス、ローマン、グレエン、ツリートノ三氏、其他邦人・米人多数来リ迎フ、ワシントン・ホテルニ投宿ス九時半頃当地在勤ノ郵船会社支店長ノ案内ニテ、日本料理《(店脱)》ニ抵リ夜飧ス、種々ノ饗応アリ、夜十二時頃散会、帰宿就寝
十一月十七日 曇、時々小雨来ル
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ種々ノ来客ニ接ス、バーク氏ローマン氏等来話ス、新聞記者来ル、バーク氏ハ当地ノ商業会議所ヲ
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代表ス、又商人倶楽部ノ役員三名来訪ス、暫時談話シテ去ル、午前十一時商業会議所及商人倶楽部ヲ往訪ス、十二時日本人倶楽部ニ抵リ、会員多数来会シテ午飧ノ饗応アリ、又各職業ニ付テ感想ヲ演説セラル終リテ余ノ渡米理由ヲ詳細ニ説明ス、後邦語小学校ヲ一覧シ、夕方ヨリ港務局ニ抵リテ、埠頭ノ順序、倉庫ノ設備ヲ一覧ス、局長以下案内シテ詳細ニ説明アリ、畢リテ高橋領事官舎ニ催フセル晩飧会ニ出席ス日本料理ニテ一同飽食スルニ足レリ、十時半帰宿、十一時就寝
 桑港牛島氏ハ一行ト共ニ沙市ニ抵リシモ、急用生セシトテ此夕帰港ノ途ニ就ク
十一月十八日 雨
午前七時起床、入浴シテ後朝飧ス、畢テ高橋徹夫氏来訪ス、晩香坡ヨリ山崎氏来訪ス、其他種々ノ来客アリ、午前十時半ジヨーヂ・バーク及グレエン、ローマン氏等来訪ス、相伴フテ自働車ニテ市街ヲ散歩シブレエン、ツリート氏等ノ家ヲ往訪ス、零時半レイニヤ倶楽部ニ抵リテ午飧ス、バーク、ローマン、フレエン、ツリート氏ノ案内ナリ、食事畢リテ商業会議所ニ抵リ、定議員二十名余ノ集会席ニ於テ、今回ノ渡米ニ付テノ理由ヲ説明ス、バーク氏種々ノ附言アリ、畢リテボンマルセート称スル小売商店ヲ一覧ス、規模頗ル広大ナリ、四時ローマン氏ノ家ヲ訪フ、茶会アリ、地方各紳商ノ婦人来会ス、五時過ホテルニ帰ル、此ノ夜ホテルニ於テ商業会議所主催ノ饗宴アリ、食卓ニテ賓主各演説アリ、頗ル盛会ナリキ、夜十一時当地ヲ発ス
 此夜ノ演説ハ地方人士ノ賞賛ヲ博シタリ
十一月十九日
昨夜十一時半、シヤトル市ニ於テ開催セル宴会散シテ直ニ同地ノ停車場ニ抵リ、シカゴ行列車ニ搭ス、シヤトル市人多ク来リテ行ヲ送ル、発車後就寝、翌暁ホルトランド市附近ニテ起床、旅装ヲ理ス、七時半ホルトランド市ニ抵ル、クラルク氏来リ迎フ、相携テ旅亭ニ抵ル、同氏ハ地方人士数十名ヲ催フシテ一行ノ為歓迎会ヲ開ク、朝飧ノ宴会ナリ、主賓各食卓演説アリ、午前九時半頃散会、直ニ発車ス、熊崎領事来会シテ周旋ス、ホルトランド市ヲ発シテ、一行汽車中ノ人トナリ、鉄道川ニ沿フテ風景佳絶ナリ、瀑布ヲ処々ニ見ル、奇峰断崖随処ニ多シ、漸クシテ車行緩ナルヲ覚フ、蓋シ行ニ随テ高処ニ達スルナリ、午飧・夜飧モ車中ニ於テシ、一行観覧車中ニテ談話スル事多シ、夜十時過就寝
十一月廿日 曇
昨日来汽車漸ク高処ニ抵リテ、気候特ニ寒冷ヲ覚フ、午前七時半起床朝飧後観覧車ニ在テ談話ス、又列車中ノ一室ニテ書ヲ読ム、停車場ノ各地ニ同邦人ノ来リテ一行ヲ慰問シ、贈ルニ菊花ヲ以テス、中ニ婦人ノ小児ヲ伴フアリ、真情掬ス可キナリ、来訪者アル毎ニ車ヲ下リテ其厚意ヲ謝ス、ホルトランドヨリ市俄古ニ抵ル三日間ニ五回ノ訪問者ヲ見ル、列車中ノ一日ハ、三回ノ食事ト観覧車中一行ノ会話、又ハ旅客中ニアル外人トノ会話等ニテ、殊ニ記載スヘキモノナシ、朝ハ七時半ニ起床シ、夜ハ十時過ニ就寝スルヲ以テ、疲労ト云ハンヨリハ寧ロ精神ヲ保養スルニ足ルト思惟ス
 - 第33巻 p.39 -ページ画像 
十一月廿一日 晴
風ナケレトモ汽車ヲ出レハ寒気凛烈ナリ、午前八時起床、洗面畢リテ朝飧ヲ食シ、後米国ヨリ日本ヘト題スル一書、及朕カ作戦ト題スル書ヲ一読ス、停車場ニ抵リ日本人ノ来訪スルアリ、面会シテ懇篤ニ談話ヲ交換ス、終日汽車中ニ在テ特ニ記スヘキコトナシ、三食ノ外ハ読書ト観覧車ニ於テ一行中ノ会談アルノミナリ、夜十一時頃就寝
昨日来ノ汽車沿道ハ高山峻嶺ナシト云トモ荒漠タル原野漸ク高クシテ眺望頗ル寂寞ナリ
十一月廿二日 晴
午前七時起床、朝飧ヲ食シテ後読書ス、此日午前ニシカゴ市ニ到着スル筈ナレハ、鉄道ノ両側モ農村自ラ豊饒ノ態アリ、十一時半シカゴ市着、栗栖領事及米人数名来リテ停車場ニ迎フ、直ニ自働車ニテコングレス・ホテルニ投宿ス、午後一時栗栖領事ノ案内ニテ一倶楽部ニ抵リ当地ニ於ケル有力ナル人々ヲ会シテ開ク処ノ午飧会ニ出席ス、席上一場ノ演説ヲ為シテ、渡米ノ理由ヲ説明ス、三時頃散会帰宿、二・三ノ新聞社員来訪シ、渡米ノ理由及欧洲戦争ニ関スル余ノ意見ヲ諮問セラル、畢リテ紐育、ホストン等ヨリ来レル書状ヲ一覧ス、午後六時栗栖領事ニ誘ハレテオージトリヨム・ホテルニ抵リ、在留日本人有志者ノ開催スル宴会ニ出席シ、夜飧後一場ノ演説ヲ為ス、後来会者各自ニ五分演説ヲナサシメ、一同歓ヲ尽シテ夜十時帰宿、後青年会島津氏来話ス、星野錫氏一行モ此地ニ会合シ、在留日本人会ノ宴会ニ同席ス
堀越氏ハ紐育ニ赴クトテ此地ニテ分袂ス、依テ高峰・今西・中村氏ヘ伝言ヲ托ス
十一月廿三日 晴
午前七時起床、入浴シテ後朝飧ヲ食ス、午前十時頭本・野口・脇田ノ諸氏ト共ニ当地ノ第一国立銀行ニ抵リ副頭取アノルド氏ニ会見シテ聯合準備銀行新創ニ付テノ得失ヲ諮詢ス、種々ノ実験談アリ、後頭取ホルガン氏ト会話ス、栗栖領事モ同行ス、去テ他ノ一銀行ヲ訪問ス、午後一時一倶楽部ニ抵リテ日曜学校関係ノ人士開催スル午飧会ニ出席ス食後来会数氏ノ演説アリ、余モ一場ノ挨拶ヲ為ス、宴散シテシカゴ大学総長ジヤツトソン氏ノ役宅ニ於テ催フサレタル接待会ニ出席ス、学校関係ノ男女ニシテ来会者多数ナリ、接見会畢リテ音楽ヲ聴キ、後栗栖領事ノ官舎ヲ訪ヒ更ニ青年会ニ抵ル、島津氏トノ約アルニヨル、到レハ一行来リ会シテ夜飧ノ饗アリ、食後来会者二三三百名《(衍カ)》ノ青年ニ向テ新旧日本ノ演題ヲ以テ一場ノ講演ヲ為シ、夜十時過帰宿喫茶後就寝
十一月廿四日 晴
午前七時起床、自ラ浴場ヲ整理シテ入浴シ、八時朝飧ヲ食ス、後来客ニ接ス、今日夕方ヨリ当地ヲ発シテピツツブルグニ向フ筈ナレハ、朝来旅装ヲ理ス、昨日当地第一国立銀行副頭取トノ約束ニ従ヒ、野口氏朝同行ニ抵リ本店ヨリノ内命ヲ照会ス、午後一時〔    〕《(原本欠字)》ホテルニ抵リテ、当市商業組合ノ開催セル午飧会ニ出席ス、栗栖領事・頭本氏同伴ス、食後司会者及前会頭タリシスキンナ氏ノ演説アリ、余ハ之ニ答ヘテ謝詞ヲ述フ、畢テホテルニ帰リ、旅装ヲ整理シ、午後五時半シカゴヲ発シテ、ピツツブルグニ向フ、夜行ノ汽車ナルモ進行迅速ナリ
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七時車中ニテ夜飧シ、後車中ニ読書ス、夜十一時就寝、翌暁汽車ピツツブルグニ達ス
十一月廿五日 晴
午前六時半汽車ピツツブルグニ着ス、七時起床、洗面旅装ヲ理ス、八時当市ニ有名ナルハエンズ氏及其二男、日曜学校関係ノ諸友人多数停車場ニ来リ迎フ、一同車ヲ下リ自働車ニテ〔    〕《(原本欠字)》ホテルニ抵ル、ハエンズ及其友人等一行ヲ誘引シテ、各其自働車ニテホテルニ抵リ、直ニ朝飧ノ饗アリ、午前十時半ヨリ当市ノカーネギー美術館及博物館ヲ一覧ス、館員案内シテ周密ニ説明セラル、畢テホテルニ抵リ午飧ス日曜学校関係ノ人士十数名来会ス、食卓上主賓各一場ノ演説アリ、午後二時半当市ノ大学生ト他ノ大学生トノフツトボールヲ一覧ス、場ノ構造壮大ナリ、特ニ一行ノ為メニ観覧場ヲ作リ頗ル優待セラル、楽隊ハ一行ノ為ニ奏楽シ、来会ノ人ハ拍手ス、午後四時半帰宿小憩ス
夜七時ハエンズ氏ノ晩飧会ニ出席ス、宴ハ其家ニ開カレテ饗応頗ル鄭重ナリ、来会者数名ノ演説アリ、余モ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ美術品ノ陳列ヲ一覧ス、夜十一時過帰宿ス
 此夜、ヒラトルヒヤ在住ノ判事又当地大学教師チヤーチ氏モ来会演説ス
十一月廿六日 曇
午前七起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ二・三ノ来人ニ接ス、十一時ウエスチングハウス工場ニ抵リ一覧ス、午飧後ハエンズ氏ノ家ニ抵リ日曜学校大会ニ関スル協議ヲ為ス、四時カニヤ氏ノ家ニ抵リ茶話会ニ出席ス、夫妻・令嬢共ニ能ク客ニ接ス、六時帰宿、衣服ヲ改テ当地商業クラブニ於テ開催スル商業会議所ノ宴会ニ出席ス、数名ノ演説アリ余モ一場ノ演説ヲ為ス、夜十一時散会帰宿ス、此夜武之助・正雄・野口・脇田・永野ノ諸氏ハ、ナイヤガラ瀑布一覧ノ為バツハローヘ向ツテ発足ス
十一月廿七日 曇
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、今日当地ヲ発シテヒラドルヒヤニ赴ク筈ナレハ、早朝一同旅装ヲ理ス、朝二・三ノ来客アリ、九時過ノ発車ニテ出立ス、車中無事、午後六時費府着、下車シテ直ニワナメーカー氏ノ商店ニ抵ル、当地第一ノデパルトメント・ストワニシテ、構造装飾共ニ壮大美麗ナリ、殊ニ当日余ノ訪問ヲ聞キテ来客多ク、店頭人ヲ以テ塡タサル、主人及店員等ノ案内ニテ店内各所ヲ巡覧ス、料理場・配膳場等マテ完全ナル準備アルヲ覚フ、店員教育ノ学校設備モ亦満足ナリ、巡視畢リテ七時過ホテルニ投宿シ、夜飧後休憩ス、此夜当地商業会議所ノ案内アリタレトモ、朝来少シク風邪気ナルニヨリテ謝絶シテ客舎内ニ休養ス、夜三浦氏夫妻来訪ス
 三浦氏ヨリ加洲問題ニ付テノ意見書ヲ内示セラル
十一月廿八日 晴
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、八時四十五分ワナメーカー氏ホテルニ来リ、日曜学校大会ヲ平和克復後日本ニ開催スルニ付、種々ノ協議ヲ為ス、且宗教上ノ哲理及後進者ノ薫陶等ニ付テ、各自ノ意見ヲ交換シテ、胸襟ヲ吐露スルニ付、談話愈々進テ感情愈厚キヲ覚フ、十
 - 第33巻 p.41 -ページ画像 
一時頃同氏去リテ二・三ノ来訪者アリ、午飧後再ヒワナメーカー氏来リテ当府ノ日曜学校ニ同行ス、来会者千数百名、儀式畢リテ余モ一場ノ講演ヲ為ス、更ニ聖書研究会男女両様ノ集会ニ臨ミ、同シク講話ヲ為ス、五時頃旅宿ニ帰リテ旅装ヲ整ヘ、六時発ノ汽車ニテ紐育ニ向ヘ八時過同地着、同地知人ノ案内ニテ日本人倶楽部ニ抵リ、堀越氏ノ饗宴ニテ日本料理ノ夜飧アリ、畢リテ十一時ホストン行ノ汽車ニ乗組ミ夜中列車ニテホストンニ赴ク
十一月廿九日 曇
午前七時頃汽車ボストン市ニ着ス、直ニ下車シテ服部博士・今岡氏其他邦人・米人多ク来リ迎フ、八時〔    〕《(原本欠字)》ホテルニ入リテ朝飧ヲ食ス、午前九時半小雨ヲ辞セスシテ当市ノ第一国立銀行ニ抵リ、総裁及次役ニ面会シテ、日本トノ取引ニ関シ種々ノ談話ヲナス、畢テ州庁及市役所ヲ訪問シ、午前十一時エリオツト博士ノ宅ニ抵リ、欧洲戦乱ニ関スル意見及支那ニ於ル事業ニ付、日米親善ノ事ヲ談ス、午後一時博士ノ接待会アリ、ハバート大学ノ教師連多ク来会ス、畢テ地方ノ豪族アンダーソン氏ノ家ヲ訪フ、家屋ノ構造壮大ニシテ美麗ナリ、夫人ト共ニ懇切ニ待遇セラレ、且茶菓ノ饗アリ、午後五時辞シテ旅宿ニ帰リ衣服ヲ改メテ当地在留邦人ノ開催セル歓迎会ニ出席ス、席上一場ノ訓示ヲ為シ、後ボストン商業会議所主催ノ晩飧会ニ出席ス、食卓上坐長其他数名ノ演説アリ、余モ一場ノ演説ヲ為シ、夜十一時旅宿ニ帰ル


竜門雑誌 第三三二号・第四〇―四三頁大正五年一月 ○青淵先生米国旅行記(一) 随行員増田明六記(DK330003k-0002)
第33巻 p.41-44 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・第四〇―四三頁大正五年一月
    ○青淵先生米国旅行記(一)
                 随行員 増田明六記
○上略
十一月八日 月曜 雨
午後六時アルオトワ島沖に碇泊、定規の検疫を受く、一等船客中一人の傷病者なし、検疫の終るを待ち、日米人各代表者三十余名青淵先生を来訪し、正式に歓迎の挨拶、先生の之に対する答辞あり、次きて日米両国新聞記者十数名先生を包囲して談話を迫る
午後七時半桑港に上陸、博覧会事務官長山脇春樹氏の招待に依り、青淵先生には同所より直に同氏官邸に赴き日本料理の饗を受け、十二時フヱアモント・ホテルに投宿せらる
十一月九日 火曜 晴
午前シヤトル市ローマン氏、スポケーン市グツトオール氏、桑港滞在中のギユリツク博士、其他日米人の来訪を受けられ、午食の後山脇春樹氏の案内にて博覧会を見物し、夜日本倶楽部に於ける桑港在留民各方面の代表者懇談会に出席せられたり
十一月十日 水曜 晴
終日絶間なき来客に応接せられ、夜パレス・ホテルに於ける沼野領事主催の御大典奉祝晩餐会並に夜食に出席せられたり
十一月十一日 木曜 晴
午前世界日曜学校大会開会の件に付き、オークランド市モルトン氏、同校書記ブラウン氏、加州日曜学校協会幹事ヒツシヤー氏、其他同校
 - 第33巻 p.42 -ページ画像 
関係の人々の来訪に接せられ、十一時より桑港商業会議所に於て開かれたる日米関係調査同志委員会に出席して、意見の交換をせられ、夜ハビリオン・リングに於て居留日本人の開催にかゝる御大典奉祝記念会に出席せられ、一場の演説を試みられたり
十一月十二日 金曜 晴
午前中を接客に費され、正午大博カリフオルニア州館に於て、同社長モーア氏主催の歓迎午餐会に出席、演説を試みられ、終りて博覧会見物を為し、夜は日本人商業会議所に於ける在留日本人の歓迎晩餐会に出席して、其従事する業務に関する談話を聴取し、最後に一場の演説を試みられたり
十一月十三日 土曜 晴
朝前国務次官ルーミス氏来訪、墨国に於ける土地問題に関し種々の談話あり、十一時より山脇氏の案内にて終日博覧会を見物せられ、夜はパレース・ホテルに於ける牛島謹爾氏主催の晩餐会に臨み、米国労働聯合会長ゴンパース氏、加州労働組合長シヤレンバーグ氏、ギユリツク博士等と会見し、種々意見を交換せられたり
十一月十四日 日曜 晴
午前間断無き来訪客に面接せられ、十一時オークランド市モルトン氏の案内にて同地日曜学校に出席、一場の演説を試み、直に桑港に帰還し、大博内に於ける日本茶業組合の催されたる午餐会に臨み、終りて山脇氏の案内にて前日来見残されたる博覧会の一部を見物、午後五時沼野領事官邸に赴き、日本人宣教師と会話、六時より同領事主催の晩餐会に臨み、同八時より在米日本人会及桑港日本人会主催の下に、スカツチユ・ライト・テンプルに於て開かれたる大演説会に臨み、大演説を試みられたるが、聴衆無慮数千と註せられ、真に近年に無き盛況なりしと云ふ
十一月十五日 月曜 晴
午前十時半ホテルを発し、サウザーン・パシフイツク鉄道停車場に至り、十一時多数日本人の見送を跡にして、シヤトル市に向て出発せらる、一行中の渡辺利三郎・永野護の両氏、此地にて別れたれば一行九人となれり
十一月十六日火曜 晴
午後一時五十分ポートランド市に到着、同市駐在の帝国領事熊崎恭氏及青淵先生と多年親懇の間柄なるクラーク氏、其他商業会議所議員及在留邦人等車中に来訪せられたり、停車二十分にして発車す、熊崎領事は特に同市在留日本人の状況を報告すべく同車に乗込み、途中駅まで先生と同車せられたり、汽車延着十時シヤトル市に到着す
シヤトル停車場にては、深夜なるにも拘はらず、青淵先生と別懇の間柄なるローマン、ブレイン及ヤンデールの諸氏より正式の歓迎を受け日本人側にては高橋轍夫《(高橋徹夫)》・奥田日本人会長・蛯子日本郵船出張員等多数の出迎人あり、先生は鄭重に謝辞を述べられ、一先づワシントン・ホテルに到り、更に姥子氏の案内にて日本料理亭まねぎに到り、日本料理の晩餐の饗を受け、十二時同ホテルに帰還せられたり
十一月十七日 水曜 晴
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朝来絶えざる来訪客に応接せられ、午前十時ホテルを出でゝ商業倶楽部及商業会議所を訪問、正午商業会議所会頭バーク氏主催の正式歓迎午餐会に臨まれ、同所より直ちに日本人懇談会に臨み、午後四時シヤトル港内巡覧、其途中日本人国語学校に立寄られ一先帰宿、夜は高橋領事の招待に依り、同官邸に於て催されたる歓迎晩餐会に出席せられたり
十一月十八日 木曜 雨
午前十時半自働車を駆つて市街見物を為し、ブレイン氏邸及高橋轍夫氏邸に於ける茶の招待に出席、零時半レイニイア・クラブに於て、会頭バーク及ローマン両氏に依りて催されたる午餐会に出席され、午後二時シヤトル商業会議所議員と会談、午後四時ローマン氏夫妻の茶に招かれ、七時ワシントン・ホテルに於てシヤトル商業会議所主催の晩餐会に臨席せられ、其夜十一時十五分オレゴン・ワシントン鉄道最急行列車に搭乗、シカゴ市に向て同市を出発せらる
十一月十九日 金曜 晴
午前六時四十五分ポートラント市に到着、早朝にも拘はらずクラーク氏・熊崎領事等多数日米人の出迎あり、クラーク氏は青淵先生と多年別懇の間柄にあり、先生を親らの自働車に誘ひ、其令息運転手となりてマルトノマー・ホテルに先生及一行を招待し、朝餐の饗を為す、陪賓としては日本人にては熊崎領事を始め同市代表的人物、又米人にては市長及商業会議所議員にして、孰れも日本に親交厚き人々なり、クラーク氏の歓迎挨拶に続きて青淵先生の答辞ありしが、蓋し早朝七時頃の饗応及演説の交換は世界を通じて今回のクラーク氏饗応が嚆矢にして、又最終ならんと思はれたり、午前十時厚き握手を以てクラーク氏等と別れ、再度汽車中の人となる、熊崎領事は再度便乗して先生を送り、ホード・リバーにて下車せらる
十一月廿日 土曜 晴
終日車中、午前十一時オレゴン州を通過してアイダホ州に入り、午後三時アイダホ州を通過してワイオミング州に入る
十一月廿一日 日曜 晴
終日車中
十一月廿二日 月曜 曇、夜降雪
午前六時アイオワ州に進み、十一時シカゴ市ノーザーン・ウエスターン停車場に到着す、栗栖領事等日本人多数の出迎あり、直ちにコングレス・ホテルに投宿
正午栗栖領事主催ユニバーシテー・クラブに於ける歓迎午餐会に出席せられ、午後六時半同市在留日本人実業団体主催のオーデトリアムに於ける晩餐会に臨み、一場の演説を試みらる
十一月廿三日 火曜 晴
午前十時シカゴ市第一国立銀行訪問、午後一時シカゴ日曜学校協会主催午餐会に出席せられ、一場の演説を試み、午後三時シカゴ大学総長ジヤドソン博士及同令夫人主催のレセプシヨンに出席せられ、午後六時半同市日本人基督青年会島津岬氏の案内にて日本晩餐の饗を受け、七時半より同会に来集したる在留邦人の為めに演説を試みられ、十二
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時帰宿
十一月廿四日 水曜 晴
朝来来客に応接せられ、正午商業協会の午餐会に出席、午後五時半ペンシルベニア停車場より、ピツツバーグ市に向て発車せられたり
                         (以下次号)


竜門雑誌 第三三三号・第六四―六六頁大正五年二月 ○青淵先生米国旅行記(二) 随行員増田明六記(DK330003k-0003)
第33巻 p.44-45 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第六四―六六頁大正五年二月
    ○青淵先生米国旅行記(二)
                随行員増田明六記
十一月廿五日 木曜日 晴
 青淵先生には午前八時十五分ピツツバーグ市停車場に到着す、ハインツ氏・同令息・商業会議所代表者等の出迎を受けられ、ハインツ氏の案内にて直にシイエンレー・ホテルに到りて朝餐の饗を受け、食後小憩の後、再度同氏父子の案内にてカーネギー寄附建物内の博物館を参観し、正午同氏の催されたる日曜学校関係者の午餐会に列し、午後ベースボールの競技を参観し、其夜同氏邸に於て催されたる歓迎晩餐会に臨み、来会者多数の演説に次ぎて一場の演説を試み、十二時半ホテルに帰還せられたり
十一月廿六日 金曜日 晴
 午前十時ハインツ氏を同氏邸に訪問、次回日曜学校世界大会開会に関し種々協議せられ、正午ウエステング・ハウスに於ける午餐会に臨み、午後再度ハインツ氏を訪問して午前の協議を継続せられ、四時キンニーア氏の招待に応じ同氏邸に於ける茶話会に臨み、七時商業会議所議員の催にかゝる晩餐会に出席、餐後演説を為し十二時帰宿せらる
 此夜、一行中の渋沢武之助氏・同正雄・野口弘毅・脇田勇・永野護(永野氏は桑港にて一行に外れたるが、廿二日シカゴ市に於て再度一行に会したるなり)の四氏は、ナイヤガラ瀑布見物の為め、青淵先生と外れてバツフアロー市に向て出発す。
 ピツツバーグ市滞在二日間は、予てハインツ氏より、青淵先生以下一行を自己の邸に迎へ賓客として待遇し度き希望の申込ありしも、先生は之を固辞せられたるを以て、同氏は其一日を自己の賓客として優待し、其一日を商業会議所議員の賓客として款待せしめられたるものなり。
十一月廿七日 土曜日 晴
 午前九時四十分ペンシルベニア・ステーシヨンを発車、午後五時三十分フイラデルフイヤ市に到着し、直にワナメーカー氏に招かれて同氏のデパートメント・ストーアを参観す、同氏は青淵先生を案内して其営業の状態を見せしむる為め、特に此日の営業時間を延長し、店員及来店の顧客と共に先生を迎へ、親しく手を取りて、店内各所を案内説明せられたり、午後八時参観を終り、ベルビユー・ストラツドフオード・ホテルに投宿せられたり。
 青淵先生には前夜より風邪に被冒、此日汽車中より頗る不快を感ぜられし様なりしが、ワナメーカー氏の熱誠なる歓迎を辞し難く、推して其ストアを参観せられしも、為之特に発熱等のあらざりしは真に大
 - 第33巻 p.45 -ページ画像 
幸といふべきなり。
 此日朝ピツツバーグ市出立に際し、ホテル会計係はハインツ氏の命なりとて、如何に談するも宿泊料を受取らず、止を得ず電話にて同氏に、之を受取るべき事を命ぜられんことを請ふて漸く支払を了したるが、同氏が始め先生外一行を自邸に招待せんとせし希望を固辞せられたるより、事の玆に至れる意味分明し、先生には同氏の至らざる無き款待を深く謝せられたり、去る廿二日シカゴ市に於て先生に外れ紐育に赴きたる堀越善重郎氏は、紐育支店長矢島俊吉氏同伴此地に来り、停車場に先生を迎はれたり。
十一月二十八日 日曜日 晴
 青淵先生の風邪少しく軽快、午前中ワナメーカー氏の来訪を受けられ、午後同氏の案内に依りて、同氏の五十七年間関係を有するプレスビテリアン会堂内の日曜学校に至り、一場の演説を試みられたる後、各校室に於て授業の状態を参覧し、午後六時ペンシルベニア停車場より乗車、ボストン市に向はる。
 午後八時紐育市に到着、此処に四時間停車するを以て、堀越氏の厚意を受け日本倶楽部に至り晩餐すき焼の饗を受け、午前一時再度乗車せられたり。
十一月廿九日 月曜日 雨
 午前八時ボストン府に到着、服部宇之吉氏・穂積重遠氏・今岡信一郎氏等の出迎を受け、直にツーレイン・ホテルに投宿、朝餐の後、服部博士の案内にて同市第一銀行総裁ダニエル・ジー・ウイング氏を始として、州知事ウオルシ氏・市長カーレー氏を訪問せられ、正午ハーバード大学名誉総長エリオツト博士の歓迎午餐会に臨み、午後は同大学総長ロウエル氏、及前駐日公使たりしアンダーソン氏の茶話会に臨み、夜同市在住日本人有志歓迎茶話会に出席、一場の演説を試みたる後、商業会議所主催公式晩餐会に出席、又演説し、午前一後帰宿せらる。
○下略


竜門雑誌 第三三一号・第九二頁大正四年一二月 △渋沢男一行着米(十一月八日桑港特電大阪朝日新聞社着電)(DK330003k-0004)
第33巻 p.45 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第九二頁大正四年一二月
△渋沢男一行着米(十一月八日桑港特電大阪朝日新聞社着電)渋沢男一行は八日安着、米人商業会議所議員及び多数の邦人に迎へられ午後七時上陸、直に山脇桑博事務長官の歓迎晩餐会に臨めり、男は同夜日米人の歓迎会に出席する筈なるが、十一日朝には日米関係改善相談会にて日米間の諸問題に関し協議する筈なり、十二日シヤトルを経て東行すべし。


大阪毎日新聞 第一一六〇三号大正四年一一月一一日 渋沢男着米(DK330003k-0005)
第33巻 p.45 ページ画像

大阪毎日新聞 第一一六〇三号大正四年一一月一一日
○渋沢男着米 渋沢男は八日午後六時半桑港に着せり(桑港特電八日発)
○渋沢男の用向(桑港電九日発)
渋沢男は、日本政府のためモルガン氏と公債の相談をなすべく来米せりと、ヱキザミナー紙は報ぜり
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東京日日新聞 第一四〇一七号大正四年一一月一一日 渋沢男一行桑港着(DK330003k-0006)
第33巻 p.46 ページ画像

東京日日新聞 第一四〇一七号大正四年一一月一一日
    ○渋沢男一行桑港着
〔桑港特電〕(八日特派員発)渋沢男一行は、八日午後六時半到着せり


東京朝日新聞 第一〇五三九号大正四年一一月一三日 日米親善を策す 十一日桑港特派員発(DK330003k-0007)
第33巻 p.46 ページ画像

東京朝日新聞 第一〇五三九号大正四年一一月一三日
△日米親善を策す 十一日桑港特派員発
商業会議所の発起にて学者・政治家・実業家等の代表的人士より成る日米関係委員会は、十一日渋沢男を午餐会に招待し、食後何れも胸襟を披きて熱心なる意見の交換を為せるが、最後に全員一致にて日米間の親善を阻害する一切の原因を排除し、且此種問題の根本的解決を為さん為め、相当なる資金を集め、行動を開始することを決議せり、尚同委員等は渋沢男に、日本に於ても同一の目的にて委員を設置せん事を希望せり、来会せる委員は何れも有力なる人士なれば、相当の効果を見るべしと期待さる


東京日日新聞 第一四〇一九号大正四年一一月一三日 高空より国旗を投下す 桑港の大礼祝賀盛況(DK330003k-0008)
第33巻 p.46 ページ画像

東京日日新聞 第一四〇一九号大正四年一一月一三日
    ○高空より国旗を投下す
      桑港の大礼祝賀盛況
〔桑港特電〕(十二日特派員発)沼野総領事代理の大礼祝賀会は、十日夜パレース・ホテルに開会、日米人千余名出席し、桑港市長・加州知事代理桑博副社長・加州大学総長・米国海軍少将フーラン氏及渋沢男等の祝辞あり、同胞一般はパブイリオン・リンクにて大祝賀会を開き、亜米利加飛行家スミス氏は三千尺の空中より日本国旗を投下し、之を合図に万歳を唱へ盛況を極む


大阪朝日新聞 第一二一四一号大正四年一一月一四日 桑港邦人奉祝会(DK330003k-0009)
第33巻 p.46 ページ画像

大阪朝日新聞 第一二一四一号大正四年一一月一四日
 ○桑港邦人奉祝会
桑港在留民主催の奉祝会は、桑港大会堂に於て開かれ、渋沢男・山脇事務官長・沼野領事等祝辞を述べ、五千余名の会衆誠意を以て盛典を奉祝したり。(桑港特電十二日発)


竜門雑誌 第三三一号・第九二―九三頁大正四年一二月 △排日紙エギザミナーの毒筆(十一月十三日桑港特電大阪朝日新聞社着電)(DK330003k-0010)
第33巻 p.46 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第九二―九三頁大正四年一二月
△排日紙エギザミナーの毒筆(十一月十三日桑港特電大阪朝日新聞社着電)
例の排日黄色紙エキザミナー紙は、目下滞米中の渋沢男に対し加州地方と日本の移民問題に関する各種の質問を発したるも、渋沢男が多忙を理由として其質問に応ぜざりし為、再び毒筆を弄して男を批難攻撃し、且曰く『日本人は濠洲・加奈陀・新西蘭に於て排斥せらるゝに拘はらず、日本は是に対して何等の抗議を申込まず、独り米国に対してのみ反抗するは、畢竟米国が強大なる海軍力を有せざるを見縊りてのことなり、又渋沢男渡米の目的は主に公債募集問題にあるべきが、米人は此際決して是に応ずべからずと飽迄毒付き居れり。


大阪毎日新聞 第一一六〇七号大正四年一一月一五日 度し難き黄色紙(桑港特電十三日発)(DK330003k-0011)
第33巻 p.46-47 ページ画像

大阪毎日新聞 第一一六〇七号大正四年一一月一五日
○度し難き黄色紙(桑港特電十三日発)
 - 第33巻 p.47 -ページ画像 
    渋沢男の渡米を呪ふ
桑港発行エキザミナー紙(ハースト派の黄色新聞)は「渋沢男の渡米は、当地方における排日運動に関する要件を帯ぶるものなり」と誣ひ其他種々に煽動的記事を掲載したり


東京日日新聞 第一四〇二一号大正四年一一月一五日 歓迎の曲乗飛行 渋沢男爵のため(DK330003k-0012)
第33巻 p.47 ページ画像

東京日日新聞 第一四〇二一号大正四年一一月一五日
    ○歓迎の曲乗飛行
      渋沢男爵のため
          ▽スミス氏煙を用いて
          ▽空中にバロンと描く
桑港に於て飛行大会あり、宙返り飛行家アート・スミス氏は、十二日特に滞米中の渋沢男爵のため特別飛行をなし、煙にて空中にバロンを描きて喝采を博したり(十三日着《(発カ)》 桑港特電)


東京朝日新聞 第一〇五四三号大正四年一一月一七日 渋沢男とゴ氏 日米問題にて懇談 十五日桑港特派員発(DK330003k-0013)
第33巻 p.47 ページ画像

東京朝日新聞 第一〇五四三号大正四年一一月一七日
    ○渋沢男とゴ氏
      ▽日米問題にて懇談
                    十五日桑港特派員発
渋沢男は十四日米国労働党首領ゴンパース氏と晩餐を共にし、日米問題に関し懇談せるに、ゴンパース氏は渋沢男に会見したるを機とし、日米問題解決に尽すべしと語れり、同夜八時より渋沢男歓迎演説会あり、聴衆千余、渋沢男は在留日本人に対し熱誠に訓戒的演説を為せり十五日男は日米人に見送られシヤトル経由東行の途に就く


大阪朝日新聞 第一二一四八号大正四年一一月二一日 沙市の渋沢男(DK330003k-0014)
第33巻 p.47 ページ画像

大阪朝日新聞 第一二一四八号大正四年一一月二一日
○沙市の渋沢男 渋沢男一行は十六日沙市に着してより、在留日本人及米人より盛大なる歓迎を受け、日米問題に関し各方面の人と懇談せり、殊にローマン、バーク等の男の旧知の米人等は、男の為に尽力せり、男は十八日夜東行せり(桑港特電十九日発)


中外商業新報 第一〇六三八号大正四年一一月二八日 ○渋沢男の消息(DK330003k-0015)
第33巻 p.47 ページ画像

中外商業新報 第一〇六三八号大正四年一一月二八日
    ○渋沢男の消息
先月下旬横浜解纜渡米の途に上れる渋沢男爵は、本月八日桑港着後、十六日にはシヤトルに、二十二日には市俄古に到着し、更に二十五日には米国製鉄事業の中心たるピツツバルグに無事到着せる旨、廿七日兜町渋沢事務所に電報ありたるが、男は更に東行して華盛頓・紐育等を訪ひたる後、西部に引返し帰路に着くべしと


中外商業新報 第一〇六四〇号大正四年一一月三〇日 ○渋沢男一行消息(DK330003k-0016)
第33巻 p.47 ページ画像

中外商業新報 第一〇六四〇号大正四年一一月三〇日
○渋沢男一行消息 米国漫遊中の渋沢男は、二十七日無事フイラデルフイヤに到着したる旨、渋沢事務所に入電ありたり


竜門雑誌 第三三一号・第九一頁大正四年一二月 ○米国に於ける青淵先生の消息(DK330003k-0017)
第33巻 p.47-48 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第九一頁大正四年一二月
    ○米国に於ける青淵先生の消息
 - 第33巻 p.48 -ページ画像 
去月十月二十三日横浜解纜の春洋丸に便乗せられ、渡米の途に上られたる青淵先生には、海上恙なく予定の如く十一月八日桑港に到着せられ、爾来各地を御旅行中にして、其経過は屡御留守邸へ宛電報ある由なるが、滞りなく御予定の日程を終了せられ、愈本月十八日桑港開帆の地洋丸に搭乗帰朝の途に上られたる由なれば、来年一月四日には吾人は目出度く先生の温容を横浜埠頭に迎ふることを得べし、尚ほ先生の御旅行日程は桑港御上陸後に至り決定せし由にて、即ち左の如くなりと。
      青淵先生御旅行日程
 △十一月 十五日(月曜日) 桑港発
 △同 月 十六日(火曜日) ポートランド着
 △同     日(同  ) 同地発
 △同     日(同  ) シヤトル着
 △同 月 十八日(木曜日) 同地発
 △同 月二十二日(月曜日) シカゴ着
 △同 月二十四日(水曜日) 同地発
 △同 月二十五日(木曜日) ピツツバーグ着
 △同 月二十七日(土曜日) 同地発
 △同     日(同  ) フヰラデルフヰア着
 △同 月二十八日(日曜日) 同地発
 △同     日(同  ) 紐育着
 △同     日(同  ) 同地発
 △同 月二十九日(月曜日) ボストン着
 △同 月 三十日(火曜日) 同地発
 △同     日(同  ) 紐育着
 △十二月  五日(日曜日) 同地発
 △同     日(同  ) ワシントン着
 △同 月  六日(月曜日) 同地発
 △同 月  八日(水曜日) ヒユウストン着
 △同 月  十日(金曜日) 同地発
 △同 月 十二日(日曜日) ロサンゼルス着
 △同 月 十三日(月曜日) 同地発
 △同 月 十四日(火曜日) 桑港着
 △同 月 十八日(土曜日) 同地発
 △大正五年一月四日(水曜日《(火)》) 横浜着


竜門雑誌 第三三二号・第二六―二七頁大正五年一月 ○青淵先生の日米親善論(DK330003k-0018)
第33巻 p.48-50 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・第二六―二七頁大正五年一月
    ○青淵先生の日米親善論
 本篇は一月六日のやまと新聞に掲載せるものなり(編者識)
                在シアトル 松田呑洲
 日米親善の使命を帯びて渡来せる男爵渋沢栄一氏は、十一月八日桑港着
 同十六日午後八時
  令息武之助・正雄両氏、及び堀越善重郎・脇田勇・野口弘毅・横
 - 第33巻 p.49 -ページ画像 
山徳次郎・頭本元貞・増田明六諸氏
 一行と共に当地着、ワシントン・ホテルに投宿、翌十七日午前十一時商業会議所会頭バーク氏の公式訪問を受け、夜は高橋領事主催の男爵一行の歓迎会に臨みしが、十八日は正午レニヤ倶楽部に於てローマン、バーク等諸氏主催の午餐会ありて後、懇談会に移り、午後四時ローマン夫人の招待同邸に於ける茶会、午後七時よりホテルに於る歓迎晩餐会に臨み、同十一時半当地出発ポートランドを経てチカゴに直行せり、男が商業会議所主催晩餐会に於て試みし演説の大要左の如し
      △青淵先生演説大要
予が今回渡米した動機は、桑博を見物し、併せて米国に於ける旧友に会ひ、日米親善の為めに共に努力せんとするにある、桑博の開かるゝ時、或一部の人は之れに参加するを躊躇したが、予等は日本も之れに参加するが善いと云ふ意見を発表したのであつた、然るに幸にして意外の成功を見たるは実に喜びに堪へない。今から六年以前に、予は実業団一行と共に渡来し、五日間滞在して種々の視察をなし、又米国の各都市を旅行して歓待を受けた、今に於て其の温情を忘れる事は出来ぬ、其の時予等一行が到る処に不自由なく旅行し、又丁寧なる世話をなされた沙市諸君の親切は、深く感謝する所である、今復びこの地に来て沙市の発展に驚くのである。今から六十年以前にペリーに長夜の夢を破られた日本は、日進月歩の大進歩を遂げた、そして沙市は六十年以前に始めて町の形をなした所である、是を思ひ彼を思へば、日本と沙港とは一種微妙の関係がある様に思ふ、一国の歴史から云へば六十年は若年である、年若き者は日々益々進歩する、世の中は三日見ぬ間の桜哉で、沙市は六年以前よりは余程進歩発達して来た。沙市の諸君は常に好意を以て日本人を待遇するを感謝する、併し加州の排日問題に就いて考ふる時は誠に悲むべき事である、予が今回老躯を提げて渡来したのは、若し従来の日米親善関係が排日のために破れる様な事ありてはと心配して、米国の識者諸君と提携し、双互の悪感情を取り去り、益々両国の親善を図りたいと希望したのである、吾等は米国に向ひ、無理にあゝせよ、かうせよと注文するものではない、願ふ所は歴史的に親善なる日米両国間の意思が疏通せん事である。儒教に『忠恕』の道と云ふ事がある、これは隣人と親み他人の利益をも図る事を意味する者である、又儒教にて『己の欲せざる所之を人に施す勿れ』と教へてある、これ亦隣国との親善を図るべきを教ふる者である。畢竟するに基督教に『己れ人にせられんと欲ふ事はまた其の如く人に行へ』とあると同じ意義である、西洋文明と東洋文明とは一見遠く離れて居る様に思はれるが、此の博愛と忠恕に於て一致点を発見することができる。今や欧洲は有史以来未曾有の大戦を惹き起し、悲絶惨絶を極めて居る、我等は欧洲が果して文明国であるや否やを疑ふ者である幸に米国は厳正中立を守り此戦渦に投じない、故に欧洲を平和の解決に至らしむる者は米国である、吾等は米国が此任に当らん事を希望する、日本も亦亜細亜全体の平和の為に力を尽さんことを希望する。日米両国は貿易上に大関係がある、今後吾等は益々日米貿易を熾ならし
 - 第33巻 p.50 -ページ画像 
めて其の関係を密接にし、相提携して世界の文明に貢献しなければならぬ。


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(大正四年)一一月八日(DK330003k-0019)
第33巻 p.50 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(大正四年)一一月八日 (八十島親義氏所蔵)
  尚々王子ヘも書状ハさし出不申候、三田も同様ニ候、呉々御伝声可被下候、敬三修学之都合時々穂積と御打合、御心添可被下候
過日布哇着之際ニ相発し候一書ハ、既ニ御落手と存候、当方其後無異今日ハ桑港到着之筈ニ御坐候、幸ニ一回之疾病もなく安寧に旅行いたし居候、御省念且留守宅及同族一同ヘ御通知可被下候
渡米理由書、船中ニて起草、頭本氏翻訳之上、今日上陸之際ニ各新聞ニ発表之積ニ候、其写ハ阪谷ニ相廻し候間、御一覧可被下候
出立之際申残し候諸株式売却之事ハ、都合能く御取運相成候哉、且其価格も予期之如く行届候哉、何卒別而御注意ニて手落無之様頼上候、生糸之相場も漸次引上候由、本年ハ製糸家も幾分之利益有之候事と存候、横浜商店之現況御聞合被下度候
留守中別ニ相替候事無之と存候、当方一同健全ニ御坐候
右桑港安着之一報如此ニ御坐候 拝具
  十一月八日
            太平洋中春洋丸船室ニ於て
                      渋沢栄一
    八十島親徳様
         梧下
  尚々事務所及留守宅之一同ニ宜敷御申通可被下候也
「東京日本橋区兜町渋沢事務処」 八十島親徳様 直披 渋沢栄一
(朱書) 「大正四年」 春洋丸ニ於て 十一月八日


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛大正四年一一月八日(DK330003k-0020)
第33巻 p.50-51 ページ画像

渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛大正四年一一月八日 (阪谷子爵家所蔵)
    (別筆)
    「御一覧ノ上ハ小生ヘ御戻ヲ乞
      八十島君       芳郎」
拝啓、航海中極而平安にて一回之船疾もなく、今日ハ桑港到着之筈にて、〓行中地方を認め候とて乗客甲板上ニ喧噪いたし候有様ニ候
貴方御渾家御清適、同族一同も無異消光と遥祝仕候
今回之渡米理由、桑港着之上、新聞社員之需ニ応して発表候方可然と頭本氏とも打合、別紙写之通り邦文にて老生起草、頭本氏翻訳いたし今日上陸早々各新聞ニ発表之都合ニ御坐候、此写ハ御覧済ニて穂積ニも御廻し被下、最終ニ八十島ヘ御示相成、竜門雑誌ニ記載いたし候様御取計可被下候
先状にも申上候神官奉賛会、米国各地方に於る献金勧募之事ハ、既ニ
 - 第33巻 p.51 -ページ画像 
布哇ニてハ有田領事及地方之富豪四五名会同ニて、詳細ニ説明致し候而、将来充分之尽力いたし呉候筈ニ引合申候、桑港其他米国之各都市ニても同様取扱可申ニ付、領事ある地方ハ、向後本会より前段之趣旨御含ニて、御書通被下度候
曾而御相談せし国際病院ヘ之寄附金取纏方、阪井ニ御申談被下、尚一段之御心配有之度候、又日曜学校大会之事も、中野氏と御協議被下候様頼上候
家事ニ付而ハ、特ニ申上候事無之候、武・正両人も無事、御省念可被下候、株式売却方ハ八十島ニ時々御注意之程頼上候、右平安之二字御報道まて、匆々如此御坐候 拝具
  大正四年十一月八日
                   春洋丸航海中之
                   船室ニ於て
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
  今回も穂積ヘ出状不仕候、御伝声可被下候、船中之乗客ニ邦人多く、日々雑談にて何等韵事等無之候、極而通俗的航海ニ御坐候也
「東京市小石川区原町」 阪谷芳郎様 平信親拆
渋沢栄一 十一月八日 春洋丸船中にて

   ○別紙ヲ欠ク。