デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
3款 第三回米国行
■綱文

第33巻 p.65-78(DK330005k) ページ画像

大正4年12月18日(1915年)

是日栄一、サン・フランシスコヨリ乗船シテ帰途ニ就キ、二十四日ホノルルニ入港上陸シ即日出帆、大正五年一月四日横浜港ニ帰着ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK330005k-0001)
第33巻 p.65-67 ページ画像

渋沢栄一日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
十二月十八日 晴
午前七時起床、入浴シテ後朝飧ヲ食ス、今日当地ヲ発シテ地洋丸ニ搭シ帰国スル筈ナレハ、朝来一行旅装ヲ整理ス、余ハ新聞社員其他各種ノ送別者ニ接見シ、且珍田大使、中村・栗栖・大山等ノ各領事、高峰博士等ヘノ書状ヲ認ム、又外国人ヘノ謝状ハ頭本氏ノ起草ニヨリテ署名出状ス、飛行技師スミス氏来ル、沼野領事来訪ス、午飧畢リテ直ニ自働車ニテ本船ニ抵ル、来リテ本船ニ送別スル内外人極メテ多数ナリ午後三時出帆ス、金門ヲ出レハ風アリテ船動揺ス、是ヨリ舟中ノ旅客トナリテ、頃日来ノ匆忙ニ似ス船窓中殊ニ閑静ヲ覚フ、七時過夜飧シ後喫煙室ニテ談話ス、夜十二時就寝
十二月十九日 曇
午前七時半起床、入浴シテ甲板上ヲ散歩ス、八時朝飧シテ後、昨日諸方ヨリ寄贈シ来リタル書類ヲ閲了ス、此日風寒クシテ海面波浪アレトモ、〓行平穏ナリ、午後一時午飧シ、喫煙室ニ在テ談話ス、時々他人ノ囲碁又ハ遊戯ヲ見ル、又船室ニ於テ日記ヲ編成シ、頃日来諸方ヨリ落手セシ書類ヲ閲了ス、夜飧後ハ喫煙室ニ於テ遊戯ヲ試ム、夜十二時就寝ス
十二月二十日 曇又晴
朝来歯痛強ク、且少シク熱気アルヲ以テ入浴ヲ止メ、室内ニ於テ朝飧ヲ食ス、後歯痛ノ治療ニ付テ種々ノ注意ヲ受ク、午前読書室ニ於テ絶句類選ヲ読ム、午飧後歯痛稍減シテ、喫煙室ニ抵リテ談話ス、夜飧後ハ遊戯ニ閑ヲ消ス、十二時就寝ス
 - 第33巻 p.66 -ページ画像 
十二月廿一日 晴
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後甲板上ヲ散歩ス、昨日ヨリ風静ニシテ船ノ動揺少シト云ヘトモ、波濤ノウネリ大ニシテ、時々船ノ傾斜スルヲ見ル、午飧後船室ニ於テ日記ヲ編成ス、又絶句類選ヲ読ミ小詩数首ヲ作ル、夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス、夜十二時就寝
十二月廿二日 半晴
午前七時半起床、入浴シテ船室内ニ在テ日本料理ノ朝飧ヲ食ス、後甲板上ヲ散歩シ、十一時脇田氏ノ気合術按摩ヲ受ク、午飧後船室内ニテ白石著ノ牛ノ涎ヲ読ム、又扇面・色紙等ノ揮毫ヲ為ス、夜飧後船中ニ活動写真ノ余興アリテ一覧ス、後船室内ニテ遊戯ニ閑ヲ消ス、十二時就寝
十二月廿三日 晴
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食シ、後甲板上ニテ談話ス、十時過脇田氏ノ気合術ニテ全身按摩セラル、畢テ桑港其他ノ米国ニ於テ世話セラレタル諸友ニ書状ヲ裁シテ、布哇着船後発状ノ準備ヲ為ス、沼野牛島二氏、及紐育ニ在ル今西氏、沙市ニ於ル高橋領事・高橋徹夫ノ五氏ニ送ルヘキ礼状ナリ、午飧後ハ喫煙室ニ於テ遊戯ニ消閑ス、夜十二時就寝ス
十二月廿四日 時々小雨
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、午前八時布哇島ニ着ス、滞船中検疫ノ事アリ、畢リテ上陸シ、ヤング・ホテルニ入リ、本邦在留人ノ案内ニテ自働車運動ヲ試ム、山岳険岨ナル眺望所ニ到ル、帰途本邦人経営ノ醸酒会社ヲ一覧シ、又公園ヲ一巡シテ、十二時ヨング・ホテルニ抵ル、零時半同旅館ニ開催セラレタル、日米人共同ニテ主催セル歓迎会ニ出席ス、来会者五・六十人許リナリ、司会者ノ挨拶ニ続テ、米人側・本邦人側ノ演説アリ、最後ニ余ノ謝詞ニ兼ネタル米国視察談、及日米親善ニ関スル目下ノ注意ハ、支那開発ニ付、両国人士ノ協同力ニ待タサルヘカラサルノ趣旨ヲ以テ《(ス脱カ)》、右畢テ散会後、米倉氏其他ノ諸氏ト共ニ望月倶楽部ニ抵リ、日本食ノ饗ヲ受ク、三時帰船、六時頃出帆ス
夜飧後喫煙室ニ於テ遊戯ニ閑ヲ消ス、十二時就寝
十二月廿五日
昨日来天気穏カナラス、且風ヲ加ヘテ船動揺ス、午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後昨日ホノルヽ市ニテ落手セシ郷書数通ヲ熟覧ス午前ハ書類ノ点検ニ努ム、午飧後喫煙室ニ於テ雑談ス、夜飧畢リテ遊戯ニ閑ヲ消ス、夜ニ入リテ天気ハ益々険悪トナリ、風怒号シテ船ノ動揺甚タシ、十二時就寝
十二月廿六日 曇
午前七時半起床、風強クシテ船頗ル動揺ス、時々風濤甲板上ヲ洗フコトアリ、故ニ入浴ヲ止メ、強テ船室ヲ離レテ食堂ニ出席ス、卓上ノ食器船体ノ傾斜ニヨリテ墜落破潰スルアリ、終日風怒号シテ物色凄然タリ、此日勉テ三回ノ食卓ニ列スルヲ得タルハ、往時ニ比シテ余ハ船疾ニ脳《(悩)》ム事幾分ノ軽減ヲ得タルヲ喜ブ、夜食後読書室ニ於テ遊戯ス、十二時過就寝
 - 第33巻 p.67 -ページ画像 
十二月廿七日 半晴
午前七時半起床、船ノ動揺昨日ト同様ナレハ入浴ヲ止メ、洗面衣服ヲ改メテ朝飧ス、後喫煙室ニ抵リテ雑談ス、終日船ノ傾斜強クシテ時々食卓ノ器具顛覆スルアリ、且ツ船室ノ扉ノ開閉等ニハ、風ノ為メニ烈シク煽動セラレテ頗ル危険ヲ感スル事アリ、然レトモ幸ニ船疾ニ脳マサレスシテ、午飧・晩食共ニ食堂ニ列スルヲ得タリ、夜喫煙室ニ於テ遊戯ス、午前一時就寝
十二月廿八日
此日ハ経度ノ西漸ニ付テ全ク消滅ス、蓋シ十月二十九日ヲ東行ノ為メニ重複セシニヨリ、今西ニ還ルニ際シテ一日ヲ失フハ当然ノ事ナレハナリ
十二月廿九日 晴
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食シ、後理髪ス、又日記ヲ編成シ、演説筆記ノ原稿ヲ修正ス、午後喫煙室ニ於テ談話ス、夜飧後甲板上ニ相撲ノ競技アリ、多クハ水夫ノ所作ナリトス、角力数番アリテ、終リニ一同相会シテ相撲甚句ヲ歌フテ舞踏ス、畢リテ船室内ニ於テ読書ス、夜十一時過就寝
十二月三十日 半晴
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後喫煙室ニ於テ雑談ス、十時過船室ニテ雑誌類ヲ一覧ス(実業ノ世界其他ノ二・三ヲ閲読ス)午後一時午飧、畢テ又喫煙室ニ抵リ談話ス、朝来風アリテ船少シク動揺ス故ニ筆記ノ修正ニ着手スルヲ得ス、僅ニ読書ニ閑ヲ消ス、夜飧後甲板上ニ活動写真アリ、一覧後喫煙室ニテ遊戯ス、夜十二時就寝
十二月卅一日 曇
午前七時起床、入浴シテ甲板上ヲ散歩シ、八時朝飧ヲ食ス、頭本氏ト其経営事業ニ関シテ意見ヲ交換ス、後喫煙室ニ於テ雑談ス、午飧後演説筆記ノ修正ニ努ム、夜飧後ハ喫煙室ニ抵リ遊戯ヲ見ル、活動写真ノ余興アリ、風少クシテ〓行平静ナリ、夜十二時就寝


渋沢栄一 日記 大正五年(DK330005k-0002)
第33巻 p.67-68 ページ画像

渋沢栄一日記 大正五年         (渋沢子爵家所蔵)
大正五年一月一日 半晴
風少クシテ〓行適順ナリ、午前七時起床、甲板上テ於テ旭日ノ雲間ニ昇天スルヲ見ル、頗ル壮観ナリ、入浴後一同船室ニ会シテ新年ヲ賀シ祝盃ヲ挙テ万歳ヲ三唱ス、畢テ屠蘇雑煮ノ儀式アリ、朝飧後船室内ニテ筆記ノ修正ヲ勉ム、午飧後喫煙室ニ於テ雑話ス、夜飧後変装ノ夜会アリテ、食後舞踏ヲ為ス、後其品評委員トシテ優等者数名ニ賞品ヲ授与ス、十時過キ散会、十二時就寝
一月二日 曇、風アリテ船動揺ス
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ喫煙室ニ抵リテ雑談ス、十時船室ニ於テ演説筆記ノ修正ヲ為ス、午飧後モ同シク継続ス、二時過ヨリ舟人ノ依頼ニヨリテ揮毫ス、十数枚ニ至ル、畢テ甲板上ヲ散歩ス夜ニ入リテ風強ク船ノ動揺甚タシ、但船疾ヲ催スニ至ラス、夜飧後室内ニテ遊戯ス、十二時過就寝
朝来東京ヨリ数通ノ無線電報ニテ旅行ノ平安ヲ祝シ来ル、一々之ニ回
 - 第33巻 p.68 -ページ画像 
電ヲ発ス
一月三日 曇又雨、風強ク船ノ動揺昨日ニ同シ
午前七時起床、入浴シテ後甲板上ヲ散歩ス、八時朝飧ヲ食シ、後、日記ヲ編成シ、又演説筆記ヲ修正ス、明朝ハ横浜着港ノ筈ニテ、東京行汽車ノ時刻ニ付、八十島ト無線電信ノ往復ヲナス
   ○大正五年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩ヲ記ス。左ハソノ中ノ一首ナリ。
  書感
無復覊愁傷客心 江山到処皆知音 雖無逸興豪華事 還較曾遊感更深


竜門雑誌 第三三三号・第六九―七〇頁 大正五年二月 ○青淵先生米国旅行記(二) 随行員増田明六記(DK330005k-0003)
第33巻 p.68-69 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第六九―七〇頁 大正五年二月
    ○青淵先生米国旅行記(二)
                 随行員 増田明六記
○上略
十二月十八日 土曜日 晴
 午前中来客応接に暇なく午食の後午後二時天洋丸《(地)》に乗込まれたり。
十二月十九日 日曜日 晴
 海上平穏なり、青淵先生歯痛を感ぜられしも甚しからず。
十二月二十日 月曜日 晴
 海上平穏
十二月二十一日 火曜日 曇
 多少風波あり。
十二月二十二日 水曜日 曇
 多少風浪あり、青淵先生歯痛殆ど全快せらる。
十二月二十三日 木曜日 曇
 多少風浪あり。
十二月二十四日 金曜日 曇
 午前八時布哇に入港、青淵先生には青木正金支店長・米倉団三郎両氏等の案内にて、同地の景勝の地を巡覧し、又日本人経営の酒造会社日本人市街等を見物せられ、正午ヤング・ホテルに於て、同地在留邦人等に依りて催されたる午餐会に出席し、午後三時望月倶楽部に至りて茶漬を試みられ、夕刻帰船、午後五時同地出帆。
十二月二十五日 土曜日 曇
 風浪高かりしも、青淵先生には異常なし。
 此日はクリスマス祭なるを以て、夜食堂頗る賑かなり。
十二月二十六日 日曜日 曇
 風強く浪高し。
十二月二十七日 月曜日 曇
 前日と同様風強く浪高し。
十二月二十九日 火曜日《(水)》 晴
 二十八日朝六時四十六分、西半球を過ぎて東半球に入る、往航一日を利益したる代り、帰航には一日を損し、二十七日より直に二十九日に移れり。
十二月三十日 水曜日《(木)》 曇
 風強く浪高かりしが、青淵先生には異状無く元気旺盛なり。
 - 第33巻 p.69 -ページ画像 
 本日始めて日本より青淵先生宛無線電信到達す。
十二月三十一日 木曜日《(金)》 曇
 風あり浪高し
 本日は除夜なれば、夜の食堂甚だ賑はし、喫煙室にては、遊戯に夜を更かし、元日の旭日を迎へたるもの多し。
大正五年一月一日 金曜日《(土)》 晴
 風あり波相当に高し。
 午前七時日本人一等船客一同ドラウイング・ルームに集合し、船長以下重なる船員を招待し、青淵先生の主宰の下に一同シヤンペンの杯を挙げて新年を祝し、洋上遥々聖寿の万歳を三唱す、夫れより食堂に移り、屠蘇・雑煮の饗を取る。
一月二日 土曜日《(日)》 晴
 海上稍静なり。
一月三日 日曜日《(月)》 晴
 午後より風生じ波浪高し。
一月四日 火曜日 晴
 今日は青淵先生の献身的旅行を終はられ、芽出度帰京せらるゝ日なり。
 午前六時横浜港外に到着、定規の検疫を受け、同九時横浜埠頭に上陸、多数出迎人に擁せられつゝ、休憩所に充てられたる同地千歳に至り午餐を執られ、午後一時横浜商業会議所の歓迎の辞に対して、旅行視察の概略を報告せられ、夫より直ちに横浜停車場に至り、二時二十四分発列車に搭乗、三時六分東京駅に着し、朝野千余名の出迎を受け直に兜町事務所に至り、同族各位の歓迎会に列し、穂積男爵の辞に対し、答辞を述べられ、終りて午後六時芽出度く飛鳥山邸に帰還せられたり。


大阪毎日新聞 第一一六四二号 大正四年一二月二〇日 渋沢男帰朝(桑港特電十七日発)(DK330005k-0004)
第33巻 p.69 ページ画像

大阪毎日新聞 第一一六四二号 大正四年一二月二〇日
△渋沢男帰朝(桑港特電十七日発)
渋沢男は、山脇桑博事務官長及び其他桑博関係者等と共に、十八日桑港出発帰朝の筈


大阪朝日新聞 第一二一八四号 大正四年一二月二七日 渋沢男布哇着(DK330005k-0005)
第33巻 p.69 ページ画像

大阪朝日新聞 第一二一八四号 大正四年一二月二七日
○渋沢男布哇着
渋沢男は地洋丸にてホノルルに寄港、青年会主催の午餐会にて演説を試み、日米両国の危機は欧洲戦争終了の後東洋問題にて起る恐れあり両国民の慎重なる考慮を要すと云へり(ホノルル特電二十四日発)


竜門雑誌 第三三二号・第五二―五三頁 大正五年一月 ○青淵先生帰朝(DK330005k-0006)
第33巻 p.69-70 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・第五二―五三頁 大正五年一月
    ○青淵先生帰朝
 青淵先生には、海路恙なく一月四日午前九時、次男武之助・三男正雄・頭本元貞・堀越善重郎・増田明六・脇田勇・横山徳次郎・永野護の諸氏と共に横浜港に安着せられたり。此日天気麗かにして気候の殊に小春日和の如かりしは、青淵先生の至誠の感応にやあん、軈て巨船
 - 第33巻 p.70 -ページ画像 
地洋丸が雄姿堂々新港岸壁に横着けとなるや、雲霞の如く埠頭に押寄せたる京浜の紳士淑女は先生の温容に接すべく、先を争うて船梯を攀づる者引きも切らず、程なく青淵先生には、一行と共に令夫人並に親族の方々、扠ては眤近者に擁せられて予て休憩所に宛てられたる千歳楼に向はれ、少憩午餐後、横浜商業会議所主催の銀行集会所に於ける歓迎会に臨まれて一場の演説を為し、終りて午後二時二十七分横浜発汽車にて同三時十分東京駅に安着せられ、夫れより直ちに兜町渋沢事務所に立寄られて、親族一同に依りて催されたる歓迎会に臨み、席上穂積男爵は一同を代表して歓迎辞を述べ、之に対し青淵先生の答辞旁旁訓戒あり、次いで頭本元貞氏の別欄記載の如き随行所感談ありて後一同シヤンペンの盃を挙げて青淵先生及一行の無事帰朝を祝して宴を撤し、夫れより先生には令夫人と共に目出度く飛鳥山の曖依村荘に帰邸せられたり。本社は、青淵先生が高齢をも厭はせられず、帝国の為め三たび米国に渡航し、而して天の使命を尽されて恙なく帰朝せられ新年早々先生の温容に接するを得たるは、社員諸君と共に洵に欣慶に堪えずとする所なり。
 当日横浜港及東京駅に出迎えられたる重なる人々は左の如し
      △横浜港出迎人(次第不同)
 渡辺福三郎  ケネデー  大村彦太郎  小野慶蔵
 井上準之助  増田増蔵  紫藤章    安部幸兵衛
 左右田喜一郎 大橋新太郎 大川平三郎  同令夫人
 大谷嘉兵衛  田中栄八郎 茂木惣兵衛 男爵穂積陳重
 同令夫人   中野武営 男爵阪谷芳郎  佐々木勇之助
 尾高幸五郎  尾高次郎  同令夫人   渋沢元治
 同令夫人   渋沢義一  八十島親徳  桃井可雄
 清水釘吉   清水一雄  西園寺亀次郎 小崎弘道
                 (其他数百人)
    △東京出迎人(次第不同)
 大隈首相代  河野農相    石井外相    尾崎法相
 高田文相  公爵徳川慶久代 子爵三島弥太郎 男爵郷誠之助
 男爵三井八郎次郎  男爵三井八郎右衛門  男爵古河虎之助
 男爵瓜生外吉 男爵近藤廉平 男爵大倉喜八郎  益田孝
 早川千吉郎  水町袈裟六   松方巌     阿部浩
 島田三郎   井上友一    添田寿一    菅原通敬
 大谷靖    古市公威    桜井錠二    朝吹英二
 高松豊吉   岡実      堀越角次郎  阪谷男爵令夫人
 天野為之   埴原正直    三村君平    室田義文
 木村長七   石井健吾    柿沼谷蔵    嘉納治五郎
 服部金太郎  三上参次    萩野由之    矢野恒太
                 (其他数百名)


中外商業新報 第一〇六七五号 大正五年一月五日 ○渋沢男帰朝 当日横浜にて歓迎会(DK330005k-0007)
第33巻 p.70-71 ページ画像

中外商業新報 第一〇六七五号 大正五年一月五日
    ○渋沢男帰朝
      当日横浜にて歓迎会
 - 第33巻 p.71 -ページ画像 
渡米中なりし渋沢男爵は、令息武之助氏を始め、堀越善重郎・頭本元貞・増田明六諸氏、其他一行と共に、既記の如く四日午前七時入港の地洋丸にて横浜に安着、撿疫を終へて同九時男爵夫人・阪谷男夫妻・穂積男夫妻・令孫を始め、中野武営・大谷嘉兵衛・大橋新太郎・安藤横浜市長、其他多数京浜実業家の出迎へを受けて岸壁より上陸、自働車を駆つて福井屋に休憩の後、零時卅分より銀行集会所に開催せる横浜商業会議所主催の歓迎会に臨み、同二時廿七分横浜駅発、同三時六分着の列車にて東京に着、直に王子の本邸に入れるが、是れより先東京駅には外相・文相・蔵相、外各次官を始め朝野多数の出迎へあり、一時頗る雑踏を極めたり


中外商業新報 第一〇六七五号 大正五年一月五日 ○日米益々親善 渋沢男帰朝談(DK330005k-0008)
第33巻 p.71-72 ページ画像

中外商業新報 第一〇六七五号 大正五年一月五日
    ○日米益々親善
      渋沢男帰朝談
△排日感情融和 予が今回の渡米は、単に自由意志による漫遊と云ふに過ぎず、随而格別確然たる目的のありし訳にあらざるも、然し予が年来の希望たる日米両国の親善に関しては、桑港博開会を機として、現在以上に両者の接近を図り、以て此際将来に対し綢繆の用意をなすの好機たるを感じたれば、此点に就きては、在米中及ばずながら微力を尽すに心掛たり、桑港に於ける排日思想も、近頃は大分緩和されたる形跡ありて、邦人に対する感情大に融和の模様あれば、将来必ず然りとは断じ難けれど、此分にて進まば、漸次両者の近接も期し得るが如し
△日米関係委員会 尚ほ最近に於て、加州を中心とし附近各地の有識者の発案にて、日米関係委員なる一団成りたるが、該委員の目的は、今後両国の事情を攻究し、彼我の親善を図ると共に、移民・通商其他一切の事項解決に努めんとするにありて、各委員は何れも其地方に於ける名望家、即ち学者・宗教家及び実業家二十一名を以て組織さるゝものなれば、両国親善の上に今後有力なる一機関となる可く思はる、而して右委員会は、予が桑港着後四日目の昨年十一月十一日を以て、加州商業会議所に其第一回を開けるが、当日の出席委員は十九名にして、之れに山脇桑博事務長官及び予等も列席し、種々日米問題に関し意見を交換する所あり、席上予は、加州労働者が経済上の関係より日本移民の渡米を喜ばざるは無理もなく、此点は日本としても考ふ可き所なれど、さりとて日本人に対し依然差別的待遇を存するは其当を得ず、是れを撤去する事は軈て両者の自然的融和を図る一助たらんと述べたるに、委員中には大体に於て予の意見に賛するもの多かりき
△東部各地好感情 次に桑港に開かれたる労働組合大会には、日本側を代表して鈴木文治氏列席せられしが、予も外部より右の会合に多少の関係もあり、且つ在米中の牛島氏の勧めもありしより、此機会に於て同組合の重立てる人々と会談し、十一月十三日夜は主領株たる盛華頓のゴンパルス氏とも会見意志の疏通を図りたり、斯くて桑港を出発シヤトル、ポートランド、市俄古、ピツツバルグ、費府、紐育、ボストン、華盛頓の各地を巡訪し、致る所邦人及び彼地の知人より非常な
 - 第33巻 p.72 -ページ画像 
る歓迎を受けたるが、由来此等東部地方には排日思想存在する事なく尚ほピツツバルグに於ては、一昨年本邦へ来遊せる同地の缶詰会社々長たる富豪ハインツ氏の歓迎を受け、予て出発の際大隈伯其他宗教家の依頼もあり、且つ予自身も関係を有する用件、即ちハ氏の主唱に基き戦後日本に万国日曜学校大会を開くに就き種々打合せをなし、夫れより費府に到りても、同様の目的の下に同市の巨商ワーナメーカー氏とも会談せり
△ヱ博士とロ氏 而してボストンにては、ヱリオツト博士に会見せるが、予は戦後米国が必然支那に着目するは順序なる可ければ、此点に於て日本として商業上競争の地位に立つ可く、延いて日米両国の交情に及ぼす所なきかを憂慮すと述べたるに対し、博士も同感の旨を以て答へ、斯かる憂惧を一掃するは、識者の務めなりと語れり、尚ほローズベルト氏には、オイスター・ベーにて会見、予の為めに午餐会を開かれたるが、氏は急進共和党にて大体排日的色彩を有する人なるも、前述の如き予の意見には大体賛意を表し、且つ日本が支那に対する措置及び朝鮮統治等に関しては、寧ろ賞讃の意を表し、唯日本移民問題に対しては、予の意見に同意し難しと語れり、尚ほ盛華頓にては大統領ウイルソン氏に謁見、其事務室に於て親しく談話を取換はし、日米親善に関し夫々意のある所を開陳し置きたるが、之を要するに排日思想も近時余程緩和せられたるは事実なれば、此機に於て一層彼我の近接に努むるは最も肝要の事なる可く、日本に於ても前述の如き日米関係委員を設け、両者相呼応して其目的の貫徹に努めざる可からず


東京日日新聞 第一四〇七二号 大正五年一月五日 米国巡遊談 昨日帰朝の渋沢男(DK330005k-0009)
第33巻 p.72-73 ページ画像

東京日日新聞 第一四〇七二号 大正五年一月五日
    ○米国巡遊談 昨日帰朝の渋沢男
渋沢男は令息武之助・正雄、及頭本元貞・堀越善重郎氏等九名と共に四日午前六時横浜入港の地洋丸にて米国より帰朝せしが、上陸後直に千歳楼に赴き、昼餐を喫したる後、横浜商業会議所に於ける歓迎会に臨み、午後二時二十七分発にて帰京せり、同男の談左の如し
 △排日は下火 予が今回の渡米は、従来往々両国間に蟠まれる誤解を避け、両国民の親善を図るに在り、着米匆々桑港にて排日派の頭目ジヨンソン氏を訪問せんとせしも、病気の為其意を果さゞりしも加州一帯殊に桑港に於ける排日熱は、余程下火となり、近き将来に激烈なる排日運動の起るべきを予想する能はざりき、予は日米の親交を図る一手段として、加州各有力者と懇談の末
 △日米関係委員会 なるものを創設し、且日本にも同様の委員会を設け、在米邦人の労働問題其他に就き、互に衷情を披瀝して彼我の親善を計る事とせり、之が委員には政治家・学者・宗教家並に実業家等廿一名を挙げ、加州副知事アーレング氏も之が一人たるを承諾し、十一月十一日桑港商業会議所に於て第一会を開きたるに、出席者十名、沼田領事も出席せしが、予は其席上加州の対邦人労働問題は、経済的利害の関係上又已むを得ざる所ならんも、加州政府が邦人に対し往々差別的待遇を行ふが如き、各方面より観察して最も不可なる所以を力説せり、次に鈴木久次郎氏等の尽力に係る全米国
 - 第33巻 p.73 -ページ画像 
 △労働組合大会 開設の如きも、予は大隈伯より依嘱を受け居ることゝて、之に対し大に助力する所ありしが、是亦邦人の労働問題を解決するに与つて力あるを疑はず、桑港を辞してシヤトルに赴き、数回歓迎を受け、ポートランドに於ては相識の間柄なるクラーク氏より朝餐に招かれ、市俄古にてスキンナー氏の歓迎を受け、ピツツバルグにては有名なる缶詰会社々長ハインツ氏と、欧洲の戦争終結し速かに日曜学校大会を日本に開催することを懇談し、フヰラデルフヰヤにては世界一の百貨店主ワナメーカー氏に招かれ、ボストンにてはエリオツト名誉大学総長と面会せしが、氏は今後米国は支那貿易に向ひ大々的伸展を企つべきや必せり
 △日米商戦 而して其結果支那に於て、米国は日本と経済的衝突を来すことあるべきに依り、今日より予め之れを緩和するの策なかるべからずと説きしは、大に味はふべし、更に紐育にても五日間に十回の招待会あり
 △婁氏と維氏 ルーズヴエルト氏とはオイスター・ベーに於て会見せしが、氏は依然邦人労働者排斥主義を抱懐するが如きも、最近支那に対する我政府の行為に就ては、毫も悪感を有し居らざるものゝ如くなりし、華盛頓にてはウヰルソン大統領に面謁し、ホワイト・ハウスの一室に膝を突合せて閑談数刻に亘りたるが、予の日米問題に対する意見に対し、大統領は大に同感を表せられたり、帰途ローサンゼルスに立寄りしが、同市は多数の本邦人労働に従事し居るも排日の気風は寸毫もなく、唯邦人間の金融機関に乏しき苦情を耳にせるのみ、夫より再び桑港に出で、四日間滞在、八回労働者会を開きたり云々


東京朝日新聞 第一〇五九二号 大正五年一月五日 渋沢男爵帰朝 米国諸名士と会談 日米関係委員会成る(DK330005k-0010)
第33巻 p.73-75 ページ画像

東京朝日新聞 第一〇五九二号 大正五年一月五日
    ○渋沢男爵帰朝
      ▽米国諸名士と会談
      ▽日米関係委員会成る
昨四日早暁地洋丸にて横浜着帰朝せる男爵渋沢栄一氏は
△福神の如き相貌 益ふくよかに、訪問の記者団を船のソシヤル・ホールに迎へて語つて曰く、余が渡米の理由は、着桑と同時に内外新聞紙上を借りて宣言せる如く、今を去る六十三年前吾が長夜の眠りを覚まし呉れたる米国の恩を徳とし、爾来数十年間両国の融和を計りつゝありしに、今回桑港大博覧会に於ける吾出品意外の歓迎を受け、日米問題の解決に与つて力ある由を知りて歓喜に堪へず、玆に親しく同会場を訪はんと欲せる事其一にして、其二は現下の惨憺たる欧洲の戦雲を掃攘し、平和の光を齎すものは雄大なる米国の力に俟たざる可からざると同時に、東洋の平和を維持するは吾が日本の任とすべき処なるが、此の大任ある両国間に、国交上の未了案件あるは最も憂ふべき事なるより、余は今次の旅行に於て力の及ぶ限り之が排除に努力せん事を念とせり、此大小二箇の目的を根柢に置ける余の旅行は、二箇月半の日子を費して、十分ならざる迄も略之を果し得たりと信ず、即ち十一月八日着米第一着に桑博を訪問せるが
 - 第33巻 p.74 -ページ画像 
△加州の排日感情 は、予想の通り同会の影響に依りて益喜ぶべき傾向を呈しつゝあり、博覧会終了後排日熱の再燃を憂ふる人々あれども目下の処にては先づ然る事なかるべしと観察せられたるが、更に十一日には桑港会場内にて、太平洋岸の有力なる米人==政治家・法律家学者・宗教家等廿一名を網羅せる日米関係委員会の発会式に、沼野領事・山脇桑博事務官長等と共に出席し、同会上予は今日迄米国内に於て他邦人に対し人種に依る差別的待遇をなし来れるは甚だ不可なれば宜しく之を除くと共に、労働者の入国制限は理に於て然るべしと雖も東洋人なるが故に制限すると云ふが如き不条理の規定たらしめざる事を希望せるが、中には差別的待遇を除く時は、日本人は奇貨措くべしと侵入し来るに非ずやとて、反対意見を唱ふるもありたれど、大体に於て列席者の同意を得たり、此日米関係委員会の内容等細目に亘りては、東部諸州を巡歴後更に会合して決定する事とし、桑港滞在四日の間には、万国労働大会に友愛会長鈴木文治氏を伴ふて出席したり、尤も最初は鈴木氏を日本代表者として認めざりしが、同氏の演説報告及び予が斡旋の結果、遂に同会は氏を正式の会員に推し、玆に
△日米労働者の握手 成立する事となれるは喜ばし、越えて十五日にはシヤトルに赴き、同地が日米人間に利益の衝突を有せざる結果、至極円満なる状況にあるを実見し、且著名なる米人諸氏の大歓待を蒙りポートランド、市俄古両所共クラーク、スキンナー諸氏の尽力により桑港組合員三百名、官民実業家数十名とも酒間に歓談を交へ、次でピツツバーグに旧知の缶詰王にして万国日曜学校の大立者たるハインツ翁と会し、戦争終局後日本に其大会を開くに就て打合せをなしたるが其人格高潔なる同翁の抱懐せる「人は他人の為め国の為めに尽すべきにて、自身一個の利害に執着すべきに非ず」との思想には、予も多大の共鳴を感じ、数回の会見は予と翁とをして百年の知己たらしめたり夫より費府に米国デパートメント・ストアの王にしてハ翁と斉しく日曜学校の重鎮と称せらるゝワナメーカー氏と逢ひ、其の経営に係るストア見物の際は、数千の男女の「バンザイ」を浴せかけられ、恰も竜宮に遊べるかの思ひをなし、終つて紐育を経てボストンに至り、ハーバート大学総長エリオット及びピーボデー両博士其他の学者と会見したるが、エ博士に向つて米国西部に蟠まる日米問題は一日も早く解決し度く、尚戦乱中益富力を加ふる米国は、今後其商工業の手を伸べて東洋殊に支那方面に及ぼすべきは自明の理にして、其際支那と利益を共にする日本と相対し、双方勝手を働く如き事ありては、遂に
△日米の禍根を生 ぜずとも限られねば、互に周到の注意を要する旨の意見を述べしに、博士も又大に之を多とせり、紐育にては私立銀行のマンビリック及オイスター・ベーにローズヴェルト氏と会談したりロ氏は排日主義を持する人なれど、日本の対支態度及予等の懐ける日米融和の意見には寧ろ好意を示しつゝあるを看取せり、華府に於る
△大統領との謁見 始末は其大部分を発表し難きも、ウィルソン氏は特に余等を自個の事務室に招じ、膝組的態度を以て過し、将来は斯くありたしとの予の希望の如きも最も慎重に聴取せり、華府よりは更に市俄古、ロースアンゼルスを経て桑港に到り、再び日米関係委員会其
 - 第33巻 p.75 -ページ画像 
他数種の会合に臨み、帰朝の途に就ける次第にて、日米関係委員会は帰朝後中野氏其他とも協議の上、両国委員間に連絡を取りて活動せん所存なり(横浜電話)


国民新聞 第八五七九号 大正五年一月五日 渋沢男車中談 米国の対独感情(DK330005k-0011)
第33巻 p.75-76 ページ画像

国民新聞 第八五七九号 大正五年一月五日
    ○渋沢男車中談
      米国の対独感情
四日朝横浜入港の地洋丸にて帰朝せる渋沢男一行は、直に旗亭千登勢に入り少憩の後、横浜銀行集会所の午餐会に臨み、午後二時二十七分発列車にて帰京せり、其の車中に於ける談片を摘記すれば左の如し
△帝政問題と米国 支那に於ける帝政問題は、米国に於ては余り問題として取扱はれ居らざるが如く、予の歴訪せる有力家の間にも、時に該問題を話頭に上す機会なきにあらざりしも、ホンの世間並の問題として雑談せるに過ぎず、寧ろ帝政問題に就てと云はんよりは、支那に対する各種の問題に就きて、米国人の多くは、日本の余りに干渉に過ぐるを誹議せんとする傾向なきにあらず、実際に於て日本は支那に対して嫌はれ男、米国は反対に好かれ男と思惟しつゝあれば、我対支外交の経過並に其の態度に関しては、概して好感情を有せざるやに見受けたり
△米国の平和運動 米国に於ける平和論者には二派ありて、従来唱へ来れる世界平和論に対して、エリオツト博士の如き有力なる学者が、平和論の根拠を倫理道徳の上に置くは敢て不可なきも、平和運動は宜しく将来有効に支持さるべき方法に依り、一層有意義のものと為さゞる可らずと主張し、曾て我国に来遊せるラツド博士の如きも、亦此見地より運動を開始せんとするものゝ如く、恐らくブライアン氏の如きも、遠からず熱心なる参加者たるべしと観測せられつゝあり
△独逸は平和の敵 エリオツト博士の平和運動宣言書には、倫理上より独逸の誹議すべき点を挙げて、結局欧洲の平和を破壊し、世界的大騒乱を惹起せる責任は、全然独逸の挑戦的行動に帰すべきものと断じ他の英・仏・露各国は、独逸の打撃に余儀なくせられ、自衛的に開戦せるものなりとの主張は、案外有力なる説として迎へられ、今や米国民の有力階級に於て、漸次反独逸的感情の高まりつゝあるは事実にして、一般に日を逐うて独逸を平和の敵とする風潮に進みつゝあり、但し政府当局者の如き責任ある地位に在る者にして未だ此問題に対し公然意見を発表したる者なく、随つて予に対しても明白に賛否を断言したる者なきは、蓋し当然なるべきか
△中央銀行は困難 国際金融上の大変革に遭遇しつゝある米国財界有力者は、此機会に於て統一的法制の下に完全なる中央銀行を設立すべき希望あり、既に聯邦準備銀行の名を以て、委員十二行を指定し、金準備を以て著々実現に努めつゝありと雖も、米国の銀行は州立あり国立あり、又トラストありて、各沿革習慣を異にし其の組織複雑せるを以て、一朝之を打つて一丸とし、直に統一制の下に組織を更改するは極めて至難の業に属し、米人は敢て不可能にあらずと云ふも、予の観る所に依れば甚だ疑問也、現に聯邦銀行副総裁に会見せる当時、試み
 - 第33巻 p.76 -ページ画像 
に予の観察せる諸点を指摘して其前途観を叩きたる所、矢張同感なる旨を答へたる程にて、例へば冒斯頓と桑港との聯邦銀行間に、全然利害の不一致を来し、容易に調整を得ざる虞ある如き、其一例にして実行上の困難は却々に少からざるべし


中外商業新報 第一〇六七八号 大正五年一月八日 ○渋沢男早稲田訪問(DK330005k-0012)
第33巻 p.76 ページ画像

中外商業新報 第一〇六七八号 大正五年一月八日
○渋沢男早稲田訪問 四日帰朝せる渋沢男は、七日午前十時二十分早稲田邸に大隈首相を訪ひ、滞米所感其他に付き歓談を交へ、正午辞去したり


竜門雑誌 第三三二号・第三五―三六頁 大正五年一月 ○渡米随行所感 頭本元貞(DK330005k-0013)
第33巻 p.76-77 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・第三五―三六頁 大正五年一月
    ○渡米随行所感
                      頭本元貞
  本篇は青淵先生の帰朝当日、即ち一月四日午後三時半より親族の方々が渋沢事務所に於て催されたる歓迎会に於ける、頭本元貞氏の所感談なりとす(編者識)
 私は此度渋沢男爵に随行して米国に参りまして、本日男爵と与に帰朝致したに就きまして、御親族方御列席の席上に参列の光栄を得ましたことを感謝致します。就きまして私が、アチラで男爵の通訳を致しまして、大いに感じた事が御座いますから、其の所感を述べましてお礼に代へたいと思います。
 其一は、費府に於て男爵と同市のジヨン・ワナメーカー氏との会見に於ける所感で御座います。ジヨン・ワナメーカーといふ人は、費府と紐育にも三越のやうなデパートメント・ストーアを持ちまして、其の店を管理して居ります宗教家で、殊に日曜学校には非常に熱心で、人格も亦た立派であります。其人が心から男爵を歓迎されました。併しながら此人は日本人を深く知らない。日本人はエライ進歩した可愛らしい国民である。何とかして助けて遣りたいと云ふ同情を持つて居るに過ぎぬ人と感じました。初め男爵に対する時の態度は、稍々さう云ふ感じを持つて居らるゝやうでした。男爵が費府へ着かれたのは土曜日の事で、其時逢はれた際にはさう云ふ態度でありましたが、其の翌朝九時から十時半頃までホテルへ尋ねて来られ、男爵と色々の話をされた。其時の話は、第一は日曜学校の世界大会を日本で開くと云ふことに就ての話から起つて、夫から男爵は、扠て自分は基督教は信じないが、一体世間の道徳の改善には大に勉むると云ふことから説き始めて、東洋哲学即ち孔子教の話をされました。さうするとワナメーカーは非常な感動を起して「さう云ふ主義を持つ人であるか」と非常に頭に感じたやうに態度に現はれた。夫れから男爵は御自分の生立ち、即ち十歳の時からカウしてアヽしてと、今日までの経歴を話された。所が非常に男爵に信頼を起し、夫れからの話と云ふものは丸で一変して来た。さうして、ドウかカウ云ふドウも立派な人格のある人、理想のある人を自分の宗教に入れたい。カウ云ふ人を耶蘇教以外に置くのは残念であると云ふ慾望心を起された。其昼からワナメーカーの案内で男爵が教会に行かれた時に、千五百人許りの面前で、ドウか男爵に
 - 第33巻 p.77 -ページ画像 
此の席上で、耶蘇教に帰依すると云ふことを言つて呉れと謂はれた。此れには男爵は迷惑された。斯様に男爵に対するワナメーカーの態度が、日曜の朝二時間の対話で全然変つて仕舞つた。随て日本人に対する意見も変つた。今迄の日本人中に、カウ云ふ理想を有つて居る人があるとは意外であると現に明言しました。夫れから男爵とワナメーカーとの交際は、只同じ事に就て同感を有して居る友達と云ふことでなしに、真に精神上から信頼する本当の意味ある友達となられたやうに私は非常に感じました。
 第二は太平洋沿岸で、丁度桑港の博覧会を機会として米国労働組合の各州の代表人と、夫れから加奈太・英吉利並に日本の人々とが集つて大会を開いて居る際で、其の亜米利加の労働組合の首領のゴンパースと云ふ非常に有力な人、其人が或る伝手に依つて一夕男爵と晩餐を共にせられた。初めての会見でありまして、男爵がドウ云ふ意見を持つて居らるゝか、向ふでも怖々と来た。一寸其の前に申ますが、夫れは男爵の事を日本のモルガン、世界第二の金持と米国の新聞抔で書いたのは、私共は誠に不平に堪へない。心外に思つて居りましたが、併し新聞抔でさう書くものですから、随てゴンパースも男爵は資本家中の代表者で、自分等の敵であると思つて居た、其人に会うのですから怖々であつた。食卓の上で私が通訳して居りますと、労働問題に就ての男爵の御意見は、資本家としての意見許りでなしに、労働者側の立場からも見て居られる。色々同情ある意見を懐いて居られると云ふことを発見して、ゴンパースは意外の感に打たれた様子であつた。夫れで男爵がワシントンに行かれた時分は、私もワシントンに帰るからモウ一遍会ひたいと云つて別れましたが、非常に満足されて居つた。所がワシントンで相逢ふ機会を得ませなんだが、男爵がワシントンからの帰途、桑港で再び労働者の領袖と会ひましたが、其時は労働者側の態度が丸で変つて居ました。男爵の方からは、別に大して乗込んで演説もされない。所が向ふ側では非常に乗込んで、日本人に対する労働者側の意見はカウである、アヽであると云つて、打解けて演説をしました。
 さう云ふ風に男爵の人格に就て始めて了解して、此人は成程資本家を代表する人ではない。資本家以上の理想を持つて居られる人であると、男爵の人格に信頼を起しました。此方面に於ける男爵の人格に対する認識は、将来日米の関係を解決する上に於て、必ず偉大なる効果ある事と信じます。
 夫れは何であるかと云ふと、男爵の人格の力が冥々の裡に感化を及ぼして、さう云ふ結果を来たすのであります。さう云ふ次第で、今回の御旅行に就ては御意見に就ての影響もありませうが、第一の影響は男爵の人格、人格が強い波紋を起したと云ふことが続々と現はれました。要するに男爵が御旅行なされた範囲内に於ては、非常に深い交際をされて帰られた。到る処親密なる知己を拵へて帰られた。此れは男爵に於かれまして、其処までは御親族方の前でお話もなりますまいかと思ひますから、私が同行致しましたお礼として一言申上げる次第で御座います。
 - 第33巻 p.78 -ページ画像 

(ハワード・ジェー・ハインツ)書翰控 渋沢栄一宛 一九一五年一二月三一日(DK330005k-0014)
第33巻 p.78 ページ画像

(ハワード・ジェー・ハインツ)書翰控 渋沢栄一宛 一九一五年一二月三一日
            (ハワード・ジェー・ハインツ氏所蔵)
             (COPY)
           Pittsburgh, Pa., December 31, 1915.
Dear Baron:
  ............
  Your visit to America has been a great source of satisfaction to all who have had the privilege of meeting you and to all who entertain the same feelings of amity and good will toward Japan that you took every occasion to declare to be your feeling toward America. I am glad that you had the opportunity of coming into contact with some of the Sunday Schools of America, for the knowledge and inspiration thereby obtained will enable you, I am convinced, to take back to your homeland a keener appreciation of the purpose of the coming World's Convention to be held in Tokyo.
  ............
               Sincerely,
             (Signed) H. J. Heinz
Baron Eiichi Shibusawa,
  Tokyo, Japan