デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
3款 第三回米国行
■綱文

第33巻 p.78-141(DK330006k) ページ画像

大正5年1月14日(1916年)

是日栄一、日本移民協会第三回講演会(神田区日本基督教青年会館)ニ於テ、訪米旅行談ヲナス。爾後、十七日竜門社有志主催歓迎晩餐会(帝国ホテル)、十八日東京手形交換所新年宴会(銀行集会所)、二十四日全国商業会議所聯合会(東京商業会議所)、二十六日総理大臣大隈重信主催晩餐会(首相官邸)、二十七日銀行集会所新年宴会(帝国ホテル)、二月十九日日本貿易協会主催晩餐会ニ出席シ同様訪米旅行談ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三三五号・第三五―四五頁 大正五年四月 ○日本移民協会に於て 青淵先生(DK330006k-0001)
第33巻 p.78-86 ページ画像

竜門雑誌 第三三五号・第三五―四五頁 大正五年四月
    ○日本移民協会に於て
                      青淵先生
  本篇は、一月十四日午後五時より神田青年会館に於て開会せられたる日本移民協会第三回講演会に於ける、青淵先生の米国旅行談なりとす(編者識)
 満場の諸君、日本移民協会の今夕の御会合に付きまして、一場の愚見を述べるやうにと添田副会長より御申出がございまして、玆に参上致して諸君と御目に懸かる訳でございます、御聞及びの通り、昨年の
 - 第33巻 p.79 -ページ画像 
十月亜米利加に旅行を致しまして、一月早々帰京いたしたのでございます、兎角忙しいといふ申訳て、何もかも始終多忙々々で物の不行届を陳弁するやうな嫌ひがありますけれ共、ツイ愚見を陳じやうとしても、好い思案も持つて居りませぬ、即ち移民の事に付ては甚だ知識も乏しい、又何等調査したものも無いのでございますから、其点に付て申上ける事は殆ど無資格、無能力と言はざるを得ぬ事を以て、御免を被らうとしましたけれども、丁度亜米利加旅行をして、亜米利加に参つて居る在留の同胞に親しく接触したであらう、是もマア所謂活きたる働きであるから、夫等の見聞の次第を申すも、尚ほ移民協会に対する一の意見になり得るであらう、故に見た事を言ふ丈けの口が無い、其の智能が無いとは、御前は言ひ能はぬであらうからして(拍手)別に学識だとか経験だとか、或は偉い才学が有るといふことは認めぬけれ共、見た事を言ふ丈けの弁舌は持つて居るやうに思ふから、兎に角出いといふ、別に脅迫では無いけれども、御要求があつた(拍手)斯くせられると、見た事も言へぬといふのも余り不調法であつて、兎にも角にも、仮令無意味な旅行にせよ、亜米利加を廻つて参つたのですから、其見及んだ事をば申上げるに止める、即ち米国旅行談といふ演題に依つて今夕申上げやうと言うて、此処に罷り出でたのでございます。(謹聴)
      △旅行の趣意
 亜米利加に今度の私の旅行は、全く無意味な事で、所謂老後の漫遊に過ぎませぬ。何処から御誘ひを受けた訳でも、何の案内状を貰つたのでございませぬ、併し或点から言ふと、国民としては今の海外在留即ち亜米利加に多数に居る同胞者に、始終同情の念已まぬのでございます、為に殆ど爾来十年に垂んとして居ります、で、大勢の申合せに依り或は一己の微力に依り、どうぞ此のカリフオルニヤ、若くはオレゴン、ワシントン、其他東部の方に参つて居る人々に対しても、亜米利加の国民が相当なる待遇をして呉れるやう、所謂敬愛の情を失はしめたく無い、即ち御国に対して微力ながら国民としての務だと思ふて或は公共の力に依り、或は一個人の微力に依つて、爾来尽力を重ねつつ居りますけれども、未だ以てカリフオルニヤに於ける、我同胞に対して亜米利加の待遇は、我々頗る満足と申上げ兼ねて居りますから、今度参つたのは、それの融和とか解決とかいふ事を予期した訳ではございませぬけれ共、此旅行たるや、仮令無意味中にも、聊か之に依つて解決の端緒が見付け得らるゝ事になりはしないか、又或は少くとも之を緩和せしむる位な事が出来はしまいかと云ふ事は、私の心の中に予期せぬのではございませぬ。
 立ちましたのが昨年の十月の二十三日で、帰りましたのが本年一月四日である、即ち日を数へるといふと七十四日に相成ります、僅かに二ケ月半の旅行でございまして、殊に私の微力、何等為すことはございませぬが、此間の多少経歴が、或は此点に聊か効能が有つたらうかと思ふ辺なきにしもあらずであります、但、逆の方から見られたら、それは渋沢の己惚である、何の効果も無いと言はれる虞れが無いとも申されませぬやうであります、予自身は自身の事を申上げざるを得ま
 - 第33巻 p.80 -ページ画像 
せぬで、其七十四日間の有様が斯うであつたといふ事を、取摘んで陳情して、諸君の清聴を煩したいと思ふ。
 前にも申上げます通り、一向ホンの自由旅行でございますが、一昨昨年、カリフオルニヤ州の土地法が州会に提出され、それが通過する其頃に、本会の副会頭たる添田君などゝ御相談しまして、頻に我々は日米同志会といふものを起して、どうぞ其通過を防禦したい、若し通過するとしても、成る丈け我在留同胞の迷惑を少からしめたい、即ち斯かる突飛な案が提出されたに付ては、定めて多数の同胞が余程憂惧に堪えぬであらう、是は一つ見舞をせねばなるまいといふので、そこで添田君に御願申して、神谷忠雄といふ人と御二人で、我々同志会から行つて戴いたといふ事もございます、併し其直接なる希望は完全に達し得られませぬで、提案は遂に多少の修正は有つたが通過いたして土地法といふものは、矢張今現にカリフオルニヤ州の法律となつて居る、之に付ては帝国政府も、合衆国政府に種々交渉もある趣であるがマア何れにするといふ埒は、未だ明かぬといふの外申分は無いやうであります、爾来の有様は尚一歩進んで、厳しい案でも出されはせぬかといふ如き虞が其頃には有つたので、又其修正の為に、土地法が甚だ緩和であるといふやうな説をなす部分も有つたと申すことを頻々承はるので、業に已に右の法律が在留民に重き迷惑を感ずるのに、又もさう云ふ事になられては尚更困難と思ふて、視察を遂げ御見舞申して帰り来られた添田君等と種々御協議を致して、何とか宜い解決をしたいものだ、少しでも緩和したいものだと言ふ事が、其以後の我々一つの問題として居るので御座います、丁度御聞き及びも御座いませう、其頃からして、此パナマ開通記念博覧会が開かれたのである。此パナマ博覧会に対して、其以前から参加すると云ふやうに我国は通告してあつたからして、続いて参加ばかりでなしに、相当の出品をするや否やと云ふ事も一つの問題になつて居つたのであります、我々も前に申すやうな関係からして、斯う云ふ職分を以て、詰り愚見を陳情すると云ふやうな関係も持つては居りませんけれ共、十年以来ズツと以前カリフオルニヤ州の商業会議所の連中を呼ぶと云ふ事も、又其翌年渡米実業団を組織して彼の国へ渡航したと云ふ事も、皆原因は前に申す通りであつて、屡々披露し来つた私共であつたが為に、此博覧会に関しても聊か愚見を陳情した、仮令土地法の制定にもせよ、又此以後に如何に無礼な事をするにもせよ、折角参加すると云ふやうに御定めになつたのに、出品をなさらぬのは宜く無からう、出品するに限るだらうと云ふ私は愚見を陳情した。果して夫れが採用されたといふ意味では無かつたでありませうが、丁度御聞き及びの通り既に今夕、唯今ツイ私は遅刻しましたから、極く僅かしか拝聴しませぬが、事務官長山脇君が御出張になつて、此博覧会も誠に都合好く終局を見まして御座います。是は私共其当時に、是非参加する以上は出品なさるが宜からうと申し上げた事が、其結果甚だ日本の出品は、博覧会に一つの光彩を添へた、又其取扱が甚だ順序立つて居り、参観者の大に注目する処と相成つた事は甚だ喜しい。尚実地を見て深く喜ぶので御座います。
      △巴奈馬博覧会と労働者大会
 - 第33巻 p.81 -ページ画像 
 畢竟私の今度の旅行も、重なる事が自己の用向をしたので、即ち是非出品をした以上は、何うか日本の実業界の人々が、兎に角博覧会に参加して実地を見て喜び、又先方からも挨拶を受けると云ふ事も、決して無用な務でなからうと思ひまして、是は誰れから頼まれぬにも拘らず、一つ博覧会に参列するのも甚だ必要であらうと思つたので御座います。蓋し是も前に申す従来の関係を、一部分効果あらしめたいと思うたに過ぎませぬ、十月の二十七日《(三)》に発して、十一月八日にサンフランシスコに着きまして、今申します博覧会をも見、丁度サンフランシスコに於ける日米関係の有志とも申すべき人々と、屡々会見致しました、是に就いては玆に細かい将来斯くならうと云ふ事は、申上げる迄の未だ自信を持ちませぬ、併し彼の地に於ける日米の間に将来を円満ならしめたいと、所謂国を憂ふる人々は、種々なる組立を以て日本と相提携して、或問題をも解決せしめ度い、或感情をも緩和せしめ度い考で居られるやうである。幸ひ日本に於てもさう云ふ事が成立ちまして、各々提携して未来の紛紜が若し有るとすれば、之を融和し解決する事が出来はしまいかと思ふて、是等の事に就いて、余り未だ未発な事は悉く申し上げ兼ねますけれ共、多少の望を属すと云ふ事を申し上げて置きます。
 更にモウ一つ申して置き度いと思ふ事は、博覧会に際して、此亜米利加の労働者大会がありました、是は亜米利加ばかりでなしに、欧羅巴からも大分参加しました。所謂労働組合大会でありますが、亜米利加の労働者組合は中々規律立つて出来て居りまして、其中心はワシントンにあります、其ワシントンの仲間の首脳に立つ人はガンパルスと云つて、七十以上の労働者で、矢張り労働者から成り立つて、今労働社会に大なる勢力を持つて居ります、大博覧会を機会にサンフランシスコに労働大会が開かれたに付て、サンフランシスコにも一つの局長のやうなものがあります、其人がシヤーレンベルグと云ふ人であります、其他之に附随して、或は新聞記者とか色々な労働社会の人が多数ありますが、其名を悉く記憶しませぬが、是は其日本にも丁度友愛会と云ふ一種の似寄つたのがある、春亜米利加から来た牧師マツシユース、ギユーリツクと云ふ人から、博覧会に際して左様な大会が開かれるから、日本からも労働者の代表として人を出して呉れたら、自からさう云ふ情意も融和を来すであらうと云ふ希望で、友愛会の会長の鈴木文治氏と云ふ人があります、私と同船で帰つて参りましたが、行く事になつて、其事に対しては私共もギユーリツク等の相談に依つて鈴木君とも屡々会見いたして、此亜米利加旅行に付ても多少相談に与つた、私よりずつと先にサンフランシスコに参つて居られたのです、折柄其処へ私が到着した、軈て労働者大会も開れると云ふ事でありましたから、懇親づくで様子を聞き、又気付も申すと云ふやうな事で、遂に今のワシントン州の首脳なるガンパルスと云ふ人、又サンフランシスコの一部長とも言ふべきシヤーレンベルグ、今の鈴木氏、其他の労働社会の人々は丁度サンフランシスコに到着の四日目で御ざいましたか、十三日の日に会見致しまして、色々此労働組合の事に付き、又博覧会に於ける労働者の経験に付き、敢て談判と云ふ程で無く、例へば
 - 第33巻 p.82 -ページ画像 
情意の交換をしました、此人達との談話は其一夕でありまして、私は東部を廻つて帰つて来る時、再びガンパルスと云ふ人は、ワシントンの方に帰りましたから居りませなんだが、シヤーレンベルグなど云ふ人はサンフランシスコに居られ、丁度十数人を私から案内して、丁度此方へ帰る少し前に一夕会合を致しまして、大に意見の交換を致しました、詰り此のカリフオルニヤ州の排日の原因は色々あります、決して唯、単に是が根拠であるとのみは申されませぬけれ共、人種問題もありませう、宗教問題もありませうけれ共、直接の問題は矢張り経済の問題で、即ち労働者の安いのが行つて向ふを妨害する、夫れが困るから排斥すると云ふのが、一番当面の見易い問題のやうでありました故に、労働者間の融和が程好く附いて来れば、自然其気焔を和らげ得ることは、是はモウ事実であります、故に昨年参つた亜米利加人のギユーリツクなど云ふ人なども、成るべく此カリフオルニヤに於ける労働者間の融和を望むが為に、さう云ふ注意を与へた、此参会に同意した労働者間の重立つた人々も、幾らか夫れらを心して、成るべく日本の事情を詳に知り度いと云ふやうな観念が起つたやうであります、為に始の会見は左様な問題にまでは進みませなんだけれ共、私が東部を廻つて帰つて来たのは十二月の十五日であります、其十六日に特に労働社会の人々、前に申した通り十数人を、パレス・ホテルに招いで会食し、且つ各々腹蔵なく談話しました、其談話の交換などは、私から思ふと大に融和した、さう云ふ訳ならば、日本人はモウそんなに嫌はぬでも宜いのだ、日本人が斯うして呉れるに困ると云ふやうな意味も申して居りました、其点は甚だ承知し難いと云ふ方では無くて、まさかに向ふでも総てを横に車を押すのでは無い、矢張り車は縦に押すやうに見受けられます故に、其事柄が斯う云ふ問題を私が出して、斯う答えたと云ふ事迄も、悉く玆に申上げ兼ねますけれ共、大体右様の有様で、多少土地法に於ける今の経済問題と云ふだけの大体に於ては、聊か融和出来得たらうと思ふので御座います、同じ太平洋沿岸でもサンフランシスコ、私はサクラメント、サンノゼなぞと云ふ場所は、今申すやうな、何うも亜米利加人の頻りに排斥する意見を持つて居る様子に聞えます、併し土地を隔つてワシントン州、即ちシヤートル、若くはオレゴン州ポルトランドの有様と段々変つて参ります、殆ど日本人に対して、何等差別を付ける事はないやうな様子であります。
      △各地に於ける同胞の厚情
 先年四十二年に渡米実業団で参つた時に、シヤートルが丁度私が亜米利加に於ける旅行の起点で、玆に或人が日本人の為に大層力を入れて呉れました、即ちローマン、ブローと云ふ人、ヂヨーヂ・パツクと云ふ人、リサルトと云ふ人、さう云ふやうな人、夫れに御礼に行かんならぬと思うて、サンフランシスコの用事を大概に片付けて、此の方に廻つてシヤートルの方面に行き、シヤートルへ行く前にポルトランドへ行つてローヤル・クラークと云ふ人、此人にも謝意を述べた、其辺の有様は詰り相当に同胞が参つて居りますが、至つて嫌ふの苛めるのと云ふやうな事は頓とないやうだ、併しシヤートルに居る高橋徹夫などと云ふ人の話に依ると、矢張り労働社会には物議はある、自然と
 - 第33巻 p.83 -ページ画像 
人種問題と云ふものも情意が通じて、イヤさう云ふ訳ならと云ふて、或は営業上の差別、労働者の区別を立てると云ふ事が、全く無いやうに此地方では化し得られると申す事で、甚だ快く承つたのであります是から私はシカゴの方へ参る、此途中は中々長う御座います、此間に殆ど停車場が数ケ所、多数居る場所もあり、少い処もあるが、我同胞の移住農の居らぬ処は無い、私の今度の旅行は何うしてさう云ふ処まで聞かれたか、別に私が御通知しませなんだけれ共、何時か聞かれたと見えて、停車場に出て私の労を慰する為にと云ふて、菊の花を一枝持つて来たり、林檎を三つ持つて来て、慰めて下すつたりした御方もあつた、寒い時分で停車場に待つて下すつた御心は、寒さに引換へて大変温い、私の寒さは其感情に忘れられたと言ひませうか、マア愉快な感情を持つて居りました(拍手)甚しきは或停車場は夜の二時に丁度十分許り止る停車場がありました、モウ二時では誰れも来まいけれ共、若しゴロツとなつて寝て居つては、甚だ不精な奴だと言はれるかも知れぬ、マア我慢して起きて居やうと思うて、起きて居りました、果して二時にも矢張り五六人の人が来て、渋沢の室は何れかと尋ねた私が渋沢で御座ると云ふと、大いに喜んで言葉を交はした、数ケ所の停車場で諸君の如き待遇を受けた、私は実に嬉しく、日本人の同情の深い事、日本人は情の深い者だ、私も深い積りであるが、私以上深いやうに感じましたと言つて御礼を申したので、却つて向ふから御礼を申すよりも、此方の御礼の方が声が高からざるを得ぬやうな訳でありました。(拍手)
      △紐育に於ける同胞の地位
 シヤートルから以東は、殆ど斯う云ふやうな話をする事がありませぬのです、殊にニユーヨークに来ますと、自然居る人も堂々たる人々で、或は正金銀行の御人、三井物産会社の御人、高峰工学博士とか高田商会・大倉組とか、皆立派な亜米利加の大商人と肩を並べて経営して居るやうな人々が住んで居る、一体日本人でも、矢張り向ふの同種類の人々に尊敬される、私は丁度ニユーヨークに在る日本人の宴会に付て、カリフオルニヤで受ける御馳走とニユーヨークで受ける御馳走は魚も違ひ献立も違ふが、誠に其魚・献立の違ひよりは以上の違ひが有る、畢竟私が尊重されるは私が尊重されるので無くて、諸君に対する尊敬の余意が私に来たと思ふので、諸君はそれに付ては尚どうぞ人格を進め業務に勤勉し、成る丈け日本から来た人に君方のやうな優遇を、一同受け得るやうにして欲しいと申して御別れしたのです、唯ニユーヨークに於て私が商売上に一つの将来の考を持ちましたのは、さなきだに独りニユーヨークと云はず、亜米利加の経済は欧羅巴の戦争に付ては、実にモウ福徳の三年期、小さい声で戦争継続といふ事を、多分亜米利加人は云て居るだらうと思ひます、但、日本でもさう云ふ声を小さく聞かねばならぬ場合が有るかも知れませぬ(拍手)、さう云ふ有様であるが、亜米利加人と云ふ中にも、東部に於けるニユーヨーク、フヰラデルフヰヤ、シカゴ以東などの繁昌は、七年前に参つた時にも既に既に繁昌に驚きましたが、更に又それこそ驚愕する位の大繁昌でありました、此繁昌の有様は、必ず唯じつとして内にのみ繁昌し
 - 第33巻 p.84 -ページ画像 
て居らぬのが、亜米利加人の気象であります、内に力余りあれば、外に発展する、是皆常であります。
      △日米禍機の緩和
 既にニユーヨークのインターナシヨナル・コルポレーシヨン、何んと訳しますか、万国会社とも云ふ可き大会社、重もな銀行者の仲間などが申談して経営されて居る、其組織はどう云ふものかといふと、南米と東洋に向つて大に発展を心掛けるといふ事であります、南米も勿論、帝国や伯剌西爾などに於て拓殖会社を作つて、今既に人が出て居りますが、東洋即ち支那、此支那に対して我々は大に力を進め、事業の経営を今実は試みつゝあります、亜米利加の方より大なる潮の如き勢ひを以てやつて来るといふ事は、勢ひ我々の力を尽す部分に相接触せざるを得ぬ、接触の結果は競争になる、競争の結果は、衝突する日が生ぜぬとも云へぬのであります、故に既に政府に於て、土地の関係から前に申すやうな憂ありとすれば、更に東部に於て商売上から又争ひになると云ふ事は、是は誰しも心に浮ぶ問題だらうと思ひます、丁度ニユーヨークに於て或銀行者、若くは政治界の人々が、其懸念を以てどうぞ御互に相提携して、各々其有余と不足を加へ且補ひ、余りある物を以て足らぬ処を補を受ける、此の如くして自己さへ宜ければ宜いといふ観念を捨てて事業の経営を図つたならば、今の衝突等のことは必ず生ぜぬであらうから、さうありたいといふ事を頻りに主張しました、唯々一場の述べ流しの言葉が、果して亜米利加多数の人の耳に完全に這入つたか分りませぬが、併し或学者若くは政治家、又極く相対して話をしたナシヨナル・シチー・バンクのプレシデントといふ御人も、私の考が誠に尤もだ、所謂未だ雨降らざるに於て牖戸を綢繆するといふ事は、甚だ智慧ある人の努む可きことである、至極お前の気附は尤もである、だから我々も実は万国会社を起して東洋に力を張らしたい考だけれ共、其御忠告に対しては最も心せねばならぬと思ふ、と申し呉れましたので、我々の熱心が一場の談話であるから、果して充分に之を以て未来紛擾を防ぐと云ひ得ることは難うございませうけれ共、兎に角それ丈けの気附を申述べたことは、全くの無用の弁にならぬであらうと自分は期待するのであります、東部に於ける御話も、或はウヰルソン大統領にも面会しました、ルーズヴエルトといふ人は丁度招いて呉れましたから午餐会、ホンの内輪的家庭的なる午餐に参じて、色々東洋若くは西洋の、あの人の政治の考を承りました、併し是等の御話は個人が斯く申して斯様答へたといふ事は、此場合に適当なお話でございませぬから、先づ略し置きますやうに仕ります。
 右様な東部に於ての経過を経ましてから、再びサンフランシスコに参りまして、前に申上げた通り日米の関係問題を、或は融和し、或は解決しやうと云ふ希望を以て、更に小委員会を組織すると云ふ事に就て、再度帰つてサンフランシスコに於て更に相談を求めまして、先方は既に確定されましたから、其の内日本に於ても似寄つたる会が組織されやうと考へます、果してそれが成立しますると、それが大いなる効能を持つと云ふ事は申上げ兼ねますけれども、併し少なくとも多少の情意を通ずるとか、融和の助けを与ふるとか云ふ事が出来やう思ひ
 - 第33巻 p.85 -ページ画像 
ます。右等の役目をしまひまして、終に先月の十八日に船に乗つて帰途についたと云ふのが大略でございます。
      △海外発展の用意
 亜米利加旅行の顛末を申上げますと、其の通りであつて、今申上げました所の事は、移民協会に対して甚だ関係の薄いお話でありますけれども、併し東部に於ける事柄は別として、カリフオルニヤに関する多少の心配は、敢て移民の政策とか、移民に対する世話方とか云ふやうな事に成りませぬけれども、万更ら無縁故なお話でもなからうと思ふのであります、要するに私は、日本からして海外に移民として出るに就て、是迄の遣方は何うも注意が足らなかつたと云ふ事を、多く考へなければならぬと思ひます、移民協会の発会式でございませぬ、先達つての会合の時に、私にも一言述べろと云ふ添田さんからのお勧めでありましたから、愚見を陳述した事を記憶して居りますが、他の仕事の大体に就ては、段々将来ある宜い物、或は欧羅巴のそれを見習ふて種々なる組立てが出来て居りますが、移民に関する、移民会社の組織は、或は移民の世話方は、移民協会の如きものは、今迄長い間放擲してあつたと云つて宜しい。斯くの如く段々人数が増して参り、領土が狭いから、勢ひ是は何うも我が帝国が自然と他へ発展せざるを得ない、他へ発展するには、其処に移民問題が生ぜざるを得ぬのであります。故に前以つて斯くの如き物があつたならば、例へば宜い協会を設立して居つて、其の協会に於ては、或は出る人は斯う云ふやうに考へたら宜からう、一時働らきに行くならばこう、永久的の移住者はこうしなければならぬと云ふやうな事に就て、其の人々の理解が出発前から定つて居るやうにしたならば、斯くの如き齟齬蹉跌は無くて済むと思ひます。併し今でも海外に出る労働者は、其の種類の方から云ふと殆んどさう云ふ移民会社とか、移民の世話方とか云ふやうな者が、今申すやうに正しい筋道を或は教授し、或は誘導すると云ふやうなことはなくて、直ぐに移民の一人頭幾らと云ふやうに、所謂頭をはねると云ふだけが移民の世話方の本務の如き有様で経過したのが、終に出る人の考へも甚だ不順序であつて、従つて他国人から嫌はれると云ふやうに成つたので、其の初めに慎まなかつたから、今日の亜米利加の如き有様を生じたと云つて、決して私は過言ではなからうと思ふ、今度サンフランシスコに於ても、或はシヤートルに於ても、ロスアンゼルスに於ても、到る処で多数の同胞が会します度び毎に、私は何うぞ皆さんの覚悟は、若し帰ると云ふ覚悟であるならば、其の主義にするが宜しい。若し又永住して行かうと云ふ者ならば、其の覚悟を以て所謂十分なる文化を計らなければならぬ、聊か其の意志をしつかりと決めて戴きたいと云ふ事を、到る所で御忠告申しました。私の云ふた事が十分に甲斐あるやうにお聞きに成りましたか、其処は分りませぬけれ共、先刻申上げた通り、此度の旅行が役に立たないでも、併乍ら何等求むる所なく、唯だ衷情に依つて出たと云ふ事は、聞捨てにしない、心を以て迎へて呉れたと云ふ事を見ました。又到る所、停車場で花を呉れたり、林檎を呉れたり、其の他サンフランシスコでも、シヤートルでも、皆な必ずや同じ感じを以て、林檎を呉れんでも、心を温かに
 - 第33巻 p.86 -ページ画像 
迎えて呉れたであらうと思ひます。果して然らば、私の今述べたやうに、打寄つた処で忠告した事は、大抵在留諸君が能く聞いて伝達されるから、是からは幾分か改善をする方法に成りはしないかと云ふ事を私は予想したのであります。亜米利加旅行談と云ふ中にも、矢張り此の移民の関係を含みますと自分は思ひますので、此の旅行の趣意は凡そこんな事であつたと云ふ一端を、敢へて諸君のお耳に入れたに過ぎんのであります。
 甚だ清聴を煩はして、何んの益する所もございませぬ事で、御免を蒙ります。

竜門雑誌 第三三二号・第五七―六〇頁 大正五年一月 ○青淵先生帰朝歓迎穂積法学博士授爵祝賀晩餐会(DK330006k-0002)
第33巻 p.86-89 ページ画像

竜門雑誌 第三三二号・第五七―六〇頁 大正五年一月
    ○青淵先生帰朝歓迎穂積法学博士授爵祝賀晩餐会
 青淵先生には、別項記載の如く一月四日米国より無事帰朝せられ、又本社創立以来、監督・顧問・評議員等として永く尽力せられたる法学博士穂積陳重氏は、昨年十二月一日勲功に依り特に男爵を授けられたるを以て、石井健吾・大川平三郎・尾高次郎・植村澄三郎・八十島親徳・男爵阪谷芳郎・佐々木勇之助・清水釘吉・渋沢元治・諸井恒平諸氏発起人総代となり、渋沢・穂積両家の親族及び我竜門社中の有志二百二十有余名の諸氏連合して、青淵先生の帰朝歓迎と穂積法学博士授爵祝賀とを兼ね、両男爵及御家族並に米国帰朝の一行諸氏を招待して、本月十七日午後五時より帝国ホテルに於て晩餐会を催せり。来賓及来会者は左の如し
 △来賓
   青淵先生    同令夫人
   男爵穂積陳重氏 同令夫人
    渋沢武之助君  同令夫人
    渋沢正雄君   同令夫人
    頭本元貞君
    堀越善重郎君  同令夫人
    増田明六君   脇田勇君
    横山徳次郎君  永野護君
 来会者(イロハ順)
  伊藤新作君   板野吉太郎君  井上金治郎君
  石黒忠篤君   同令夫人    石田豊太郎君
  伊藤潔君    一森筧清君   犬丸鉄太郎君
  岩崎寅作君   今井又治郎君  池田嘉吉君
  石井健吾君   服部金太郎君  同令夫人
  原胤昭君    波津久清君   早速鎮蔵君
  新原敏三君   西田敬止君   堀井宗一君
  穂積重威君   堀切善次郎君  同令夫人
  堀井卯之助君  堀田金四郎君  堀江伝三郎君
  土岐僙君    土肥修策君   富永直三郎君
  利倉久吉君   豊田春雄君   尾上登太郎君
  大川平三郎君  同令夫人    大川鉄雄君
 - 第33巻 p.87 -ページ画像 
  大川義雄君   織田令夫人   織田雄次君
  尾高幸五郎君  尾高次郎君   同令夫人
  尾高豊作君   尾高朝雄君   尾高鮮之助君
  尾高定四郎君  大原春治郎君  大友幸助君
  大沢正道君   沖馬吉君    小口金三郎君
  渡辺嘉一君   片岡隆起君   川口一君
  加賀谷真一君  金井滋直君   同令夫人
  加藤為次郎君  加賀覚次郎君  川田鉄弥君
  金谷藤次郎君  柿沼谷蔵君   神谷十松君
  神谷義雄君   柏原与次郎君  吉田嘉市君
  米倉嘉兵衛君  吉田節太郎君  田中二郎君
  田中栄八郎君  田中寿一君   竹田政智君
  田中太郎君   田中楳吉君   田中元三郎君
  多賀義三郎君  高橋波太郎君  高橋金四郎君
  高根義人君   高松録太郎君  高松豊吉君
  滝沢吉三郎君  塘茂太郎君   鶴岡伊作君
  坪谷善四郎君  角田真平君   成瀬隆蔵君
  中井三之助君  同令夫人    中村省三君
  永田母堂    永田令嬢    仲田正雄君
  仲田慶三郎君  永井岩吉君   長滝武司君
  村木善太郎君  内山吉五郎君  浦田治平君
  上原豊吉君   同令夫人    上田彦次郎君
  植村澄三郎君  植村甲午郎君  野村鍈太郎君
  野口半之助君  野崎広太君   倉沢粂田君
  日下義雄君   同令夫人    栗田金太郎君
  簗田𨥆次郎君  山内政良君   山中善平君
  八十島親徳君  同令夫人    同令嬢
  八十島樹次郎君 八巻知道君   矢野由次郎君
  矢野義弓君   矢木久太郎君  山中譲三君
  山口荘吉君   山下亀三郎君  山本久三郎君
  安田久之助君  松平隼太郎君  前川益以君
  福原有信君   同令夫人    福島三郎四郎君
  古田元清君   藤田英次郎君  藤山雷太君
  福田祐二君   福島宜三君   古田錞次郎君
  古田良三君   小池国三君   小林武彦君
  小林武之助君  小林武次郎君  小橋宗之助君
  小西安兵衛君  古仁所豊君   古田中正彦君
  寺田洪一君   手塚猛昌君   青木要吉君
  有田秀造君   朝山令夫人   阿部吾市君
  粟津清亮君   浅野総一郎君  同令夫人
  浅野泰次郎君  同令夫人    安藤憲忠君
  酒井正吉君   佐藤毅君    佐藤正美君
  佐々木保三郎君 佐々木勇之助君 同令夫人
  佐々木清麿君  佐々木慎思郎君 斎藤章達君
 - 第33巻 p.88 -ページ画像 
  斎藤峰三郎君  斎藤孝一君   西園寺亀次郎君
  坂倉清四郎君  笹沢仙左衛門君 阪田耐二君
  男爵阪谷芳郎君 同令夫人    阪谷希一君
  阪谷令嬢    佐々木和亮君  木村弥七君
  木村亀作君   北脇友吉君   木下英太郎君
  湯浅徳次郎君  水野錬太郎君  芝崎確次郎君
  清水釘吉君   同令夫人    清水一雄君
  清水揚之助君  白石元治郎君  同令夫人
  渋沢秀雄君   白石甚兵衛君  渋沢信雄君
  渋沢義一君   渋沢長康君   渋沢虎雄君
  渋沢市郎君   渋沢元治君   同令夫人
  渋沢治太郎君  肥田英一君   弘岡幸作君
  平沢道次君   平田初熊君   諸井六郎君
  諸井時三郎君  諸井恒平君   同令夫人
  諸井四郎君   同令夫人    持田巽君
  森岡平右衛門君 桃井可雄君   関直之君
  鈴木金平君   鈴木紋次郎君  同令夫人
  鈴木清蔵君   鈴木善助君
 予定の如く午後六時食堂を開きて、デザート・コースに入るや阪谷男爵は発起人を代表して
  私は今夕の司会者として開会の趣意を述べます。渋沢男爵閣下が昨年十月渡米の途に上られます際、我々竜門社員は其の御送別会を開きました。其の当時は只一意男爵の御無事帰朝を願ふ外何の望みも持ちませなんだ、然るに一月四日無事御帰朝になりまして、而かも御出発当時よりも一層御健康の温容に接することを得ましたのは我々竜門社員一同の喜びに堪へざる所であります。加ふるに米国朝野の有識者と会見して、意思の疏通を図り、将来日米親善に資する所尠からざる効果をお土産として齎らされたることは、全く望外の望みでありまする。
  又渋沢男爵が渡米途上に在る際、御大典御挙行の紀念として、畏くも 天皇陛下より旭日大綬章を賜はりました。御恩賜の御趣意を其筋の人々に就て洩れ承りまするに、渋沢男爵が多年東京市養育院を首めとして、慈善事業其他公共事業に尽されました功労を思召されて、特に恩賜の御沙汰に及ばれたと云ふことで御座いまする、天恩の優渥なるは感泣の外ありませぬが、是れ又我々竜門社員一同の慶びに堪へざる所であります。殊に当時大隈首相が旭日大綬章御下賜の御沙汰を、無線電信で渡米途上に在る渋沢男爵に伝達されたと云ふことは未曾有の事に属し、一層我々一同の喜ぶ所で御座いまする。
  又穂積博士が多年教育法制等に尽力せられました功労を思召されて、畏くも 天皇陛下より特に男爵を授け賜はりました、天恩の優渥なるは申すも恐れ多き事ながら、我々竜門社中の先輩が斯かる栄誉を荷ひましたのは、取りも直さず我竜門社の誇りとして喜ぶ所で御座いまする。乃ち渋沢男爵の御無事御帰朝を祝すると同時に、穂
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積博士祝賀を兼ねて、今夕粗宴を開いて歓迎旁々祝意を表する次第で御座いまする。
 玆に於て一同起立、盃を挙げて青淵先生並に穂積男爵御一家の万福を祝し、次いで青淵先生の簡単なる謝辞あり。穂積男爵亦起ちて謝辞を述べて曰く
  渋沢男爵閣下の歓迎会を開かれまする驥尾に附して、私の授爵を御祝ひ下さいますのは、私の此上もない栄誉と感謝致す所であります。其の次第は亜米利加今日の降盛を来たしたものは、全く学問と実際との密接の関係を保たるゝ結果であります。其の真相を日本実業界の代表者たる渋沢男爵が、親しく御視察ありて御無事御帰朝に相成りました此際、宮中に於て私が、従来学究として教育の為めに本分を尽しました微功を思召されまして男爵を授け賜はりました無上の栄誉をお祝ひ下さると云ふことは、此上もない喜びで御座いまして、深く感謝致す次第で御座いまする云々。
 是れにて宴を撤し、別室に於て青淵先生の米国御旅行談あり。最後に露国女流音楽家ベルソン嬢のバイオリン演奏二曲あり。散会したは午後十時過なりき。当夜青淵先生には露国大使館夜会に招待を受けられ、為めに米国紀行談の委曲を悉くす能はず、他日を約して午後九時同夜会に赴かれたるは遺憾なりき。


竜門雑誌 第三三五号・第二三―三五頁 大正五年四月 ○竜門社員の歓迎会に於て 青淵先生(DK330006k-0003)
第33巻 p.89-98 ページ画像

竜門雑誌 第三三五号・第二三―三五頁 大正五年四月
    ○竜門社員の歓迎会に於て
                      青淵先生
  本篇は一月十七日、竜門社の有志会員諸氏の催しにて、米国より帰朝せる青淵先生及穂積男爵を帝国ホテルに招待して晩餐会を開ける際、青淵先生が食後別室に於て演説せられたる米国旅行の梗概なりとす(編者識)
 食後の余興が諸君のお楽みとなるべき筈であるのに、余興代りに甚だ不似合なる私の旅行談は、果して諸君の御満足を買ひ得るや否やを懸念致します。併し今日の御会合は、私の旅行を祝することが其一に算へられてあつたから、食卓では少しお話が長くなると思ふて、当席に於て申述べるのでございます。帰京以来彼方此方で旅行談を致しました為めに、口に慣れて、古めかしいと云ふ感がございます、且御会同の中には既にお聴きなされた方もございませうが、旅行の順序を逐うて、概略を述べて見たいと思ひます、蓋し是は演説と云ふよりも、寧ろ竜門社に対して私が旅行の経過を報告するのであるから、報告会と思うてお聴き下すつたら、事務の報告と云ふものは愉快な事ばかりはないものですから、御辛抱もなされるかと思ひます。其お積りでお聴を願ひます。
 私が日本を出立したのは昨年十月二十三日で、帰朝したのが本年正月の四日でございます。故に時日は丁度七十四日を経過致しました。第一に諸君のお喜を願ひたいのは、私は船が弱い為めに、此旅行に於ての最苦痛は船である、若しも病気になつたらそれまでの事と覚悟の上であつたが、船だけは実に辛いと云ふことを出立前に諸君にも申し
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たが、然るに年取つてから船が強くなつたのか、又は風が少くて浪が穏かであつたのか、此程合は分りませぬけれども、幸に食堂に出ぬことはなかつたと云ふに依つて、船疾がなかつたと云ふことを御承知下さるであらうと思ひます。実に望外であつて、日々愉快なる旅行を致しました。船中が往復で一月以上、亜米利加に着してから、陸路の汽車往復も十数日も費しましたから、前に申す七十四日の旅行は、大半船と汽車とで費され、亜米利加の大陸に於て御馳走を受けたり、人と談話したり、事物を見聞したり、或は宴会席其外で演説をしたりと云ふ時日は、丁度三十日しかございませぬ。恰も悪い果物の、皮ばかり多くて食すべき実の少いやうな有様であつた。十一月八日に桑港に上陸して、十四日まで同地に居りました。此間の主なる経過は、博覧会を見物し、桑港に於て、嘗て相談の始つて居つた日米関係調査同志委員会と云ふものが組職されやうと云ふので、是等の人々と会見して意見を交換し、又其歓迎の宴会に出席しました。桑港博覧会を機会として労働者大会が開かれて居りまして、此労働者の首領たるゴンパスといふ人が華盛頓から出張した。此人は七十近い老人で、労働界では中中の勢力家である。蓋し此人は労働者から段々に経上た人ださうであります。又桑港にも加州方面の部長といふべきシヤーレンブルグと云ふ人がある、此人は未だ四十有余の壮年で、同じく労働者より出た人である。是等の人々に面談することは、地方関係に於て必要であらうと云ふことで、牛島謹爾氏の主催で、パレース・ホテルで晩餐会がありまして、彼等と談話を交換しました。又博覧会見物の際には、博覧会に於て開かれたる午餐会にも出席し、十一月十日は御大典を祝する為めに桑港の沼野領事が、盛宴を張りて内外多数の人を饗応し、夜は九時頃より夜会がございました。桑港に於て数日間の経過は先づ此辺で、それから十五日に桑港を出立して北部に参りました。オレゴン州華盛頓州即ちポルトランド市・シヤトル市を訪問し、夫より東部に旅行する積りにて、大体の予定が十五日から向三十日間、十二月十四日には再び桑港に帰ると云ふ目的を以て出立したのであります。シヤトル市には二泊致しましたが、其一夜は宴会が済むと直ぐ夜汽車で出立すると云ふ昼夜兼行をやりました。シヤトルの夜汽車はポルトランドに着して夜が明ける、直にポルトランドの人が待構へて、朝餐の饗応があると云ふやうな、忙しい歓迎を受けました。先年此地方へ参つたとき種々款待して呉れたクラルクと云ふ人は、シヤトルには二夜宿泊して当市には唯二時間と云ふことは、甚だ不公平であると云うて、食卓演説に小言を申されましたから、私は之に答へて、総じて事物は記念になることが肝要である。尋常一様では、縦令当市に十日間滞留しても記念にはならぬ。亜米利加の諸君は朝寝だから七時頃に人を訪問することはないであらう。然るに今朝私が七時半に当市に着すると云ふに就て、早起して迎へて呉れて、早朝より斯の如き盛宴を張つて優待して下さると云ふのは、恂に感謝の至りであるけれども、習慣にない早起と云ふのは辛いものである、諸君が眠いのを我慢して起きた為めに、他日まで能く御記憶なさるであらう。如何に亜米利加の諸君が勉強なさると云うて、朝八時から宴を張りて客を迎へると云ふことは
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ないであらう。然らば今日私の来訪は、諸君に一の記念を与へたやうなものである。故に私が当市に滞留し得なかつたと云ふことは、却て諸君をして私が当市の訪問を永く記憶せしむるかも知れぬと申して、別れたのであります。シヤトルから市俄古へ参る汽車の旅行中に最も深く感じたのは、各停車場に於て、同胞の人々が私の旅行を如何なる事にて知り得たか、或は記念の花を持ち、或は林檎・蜜柑などを携へて十人、若くは十五人位で慰問して呉れたのは、実に感涙を催しました。而も其夜は雪が降つて、余程寒いのに、夜に入るまで待つて居られた、甚しきは夜の二時頃汽車の停留する間慰問された、私が日本の在留民の為めに心配する好意を謝すると云ふ意味でもあらうが、実に可憐の心情と、今も尚一の記念と相成つて居ります。市俄古市に参りましてからは、西部の有様とは様子が変つて、排日と云ふやうなことは、余り話題に上らぬ。来栖領事の開かれた宴会に依つて、同市の有力の人々に紹介された。又先年渡米実業団の団長として訪問した時の人々も来りて種々款待された。市俄古には商業会議所といふものはないが、商工業者の組合と云ふ名に依つて大なる会が組織されて居る。
先年来訪したときは其会の会長にて一行を饗応して呉れたスキンナーといふ人が、今回も主人となりて商工業者の多数会同して、宴会を開いて歓迎して呉れました。又市俄古第一国立銀行を訪問して、近頃亜米利加に於て各地方分権の銀行制度を中央集権組織にする、言葉を換へて言ふならば、各地散在の分立銀行では、一朝恐慌等のことがあつても、全国の金融を統一することが出来ぬ、一方には余財があつても一方には逼迫して居ると云ふやうな有様で、金融の調和を欠く、此事に就ては、従来亜米利加の政事家・学者・実業家の議論を重ねつゝあつて、先年参つたときにも、市俄古銀行者の会合にて、米国の銀行制度の英吉利や日本と違ふことを、彼等自身に歎息して、日本の銀行は亜米利加の制度を移したけれども、創立後十年を経て中央組織を採用したから寔に完全であるけれども、亜米利加は今日も元の儘で居る為めに、或る場合には金融上に差支を起すと云ふて居りました。然るに一昨年から段々其論が向上して、遂に之を統一する目的にてフエデラル・レゼルヴ・バンクと云ふものを組織することになつたのである。併し全然中央に統一すると云ふことは、亜米利加の政体と相合はぬと云ふので、種々討論の結果 訳して云へば日本銀行を各都市に十二組立てゝ、十二の中央銀行が出来た。此十二の銀行を、制度上から華盛頓の大蔵省中に中央局と云ふものを置いて、指揮監督して、一銀行たる働をさせやうと云ふのであります。此事は私が日本を出立する時に大蔵省でも、日本銀行でも、横浜正金銀行でも、既に相応に調査されて、現に亜米利加が欧羅巴の戦争に依つて、段々富が増して来る、金融の有様も、終に倫敦が紐育に変じはせぬかと云ふ説もある。其亜米利加に於て此際金融の統一に注意して中央銀行制度が布かれるのであるから、銀行者として、成べく丁寧に其実況を観察して来て呉れと云ふことであつて、其組織に就ても規則類を翻訳された印刷物もあり、又正金銀行に於て調査せし各種の書類を渡されましたから、私は船中から多少之を攻究し、同行の堀越君・野口君・福田君、及今西兼二君
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も幸に同船にて、是等の諸君と時々調査会の如きものを開いて、規則の条章をも研究しました。
 桑港では寸暇もございませなんだが、市俄古・費府・ボストン・紐育などが、十二の準備銀行中でも主なる場所でございますから、先づ市俄古に於て準備銀行経営の実状を承つて見ました。蓋し此十二の準備銀行の各地方に散在して居るのを統一すると云ふ方法は、政事家・学者の種々討論審議の上に作つたものでありますから、万一恐慌の時又は一時金融逼迫若しくは緩慢の場に各地の便宜を謀りて有無を相通ぜしむると云ふ仕組は、巧妙に出来て居るやうであります。元来亜米利加では、発行紙幣の準備金も強い割合を以て貸立られ、又国立銀行の預金に対する準備金割合も強く極められて、預金高の二割五分は常に銀行の手許に存して置かねばならぬであるから、是等は金融の逼迫の場合には大に不便を来すと云ふことを論じて居つた故に、準備銀行が各都市に十二出来て、其株主は多くは国立銀行である。而して其資金は、預金準備の割合を減じたものが用ゐられたのである。例へば二割五分のものを一割六分に減ずれば、大変に其差があるから、それだけのものは、準備銀行に向つて株金に払込み、又預金も出来る訳になる。準備銀行は又払込資本と預金とに依つて、営業を為して、其利益は年六分の割合までは資本者たる国立銀行へ仕払ひ、其余は政府の所得とする。斯う云ふ方法であるから、詰り準備として保存すべき金が運転されて、利益を生ずると云ふ事になる。而して各地方金融の緩急に応じて有無相通ずると云ふのだから、理論の上からは良い制度と云ひ得るかも知れない。此準備銀行は、紐育に設立したのが一番大きいので、預金の高が多うございます。此準備銀行の設立後の現状を紐育に於て研究して見やうと思ひましたが、寧ろ市俄古市が真相を知るに便であると思うて、市俄古の第一国立銀行の総裁ホーマンと云ふ人は予て知人でありますから、之を訪ね、其副総裁たるアーノルドと云ふ人が銀行業務に精通して居るので、之に就て準備銀行の近況を質問して見ました。私が第一に問ふたのは、特に欠点の存する二三の箇条を挙げて規則の条章などに付ては、少しく研究的であつて、時間も要しますから、他日の事として、所謂制度の骨子ともいふべきものを質問して見たのであります。アーノルド氏は、私の質問に対しては如何にも其通である、其辺に就ては此新法が完全に行はれ得るやを疑ふと申されました。後に紐育に於て同様に質問しましたが、紐育の人は従来の銀行者でなくて、新規に準備銀行の総裁となられて、此新法を金科玉条として無理にも之を以て活動して行きたいと云ふ念慮が強いからして、私の問ふた要点に重きを置かずして、便利のことだけを自慢顔に話すと云ふやうに聴えました。是等の事情は銀行業に精しい人であると、大抵御了解なさるだらうと思ひますが、私も銀行者の一人として、其質問したことだけを簡単に申述べて見ませう。
 第一に私が問ふたのは、若しも恐慌と云ふやうな場合に一国の金融が統一されるが宜いと云ふて、中央組織を造つたとすれば、それが十二あると云ふことは、十二の分身は一体にはなれぬと思ふ、或は制度の上からは出来ても、事実は困難であらうと思はれる。況んや其十二
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の銀行は各其利益を別にして居る。紐育の銀行と市俄古の銀行とは得失が全く別である。仮令華盛頓に中央局があつて指揮監督をするとしても、完全に統一の働きが為し得られるとは私は信じられぬ。此問に対してはアーノルド氏も同案であつて、他《(日カ)》に此規則は改正されるであらうと言ふた、それから第二には、其十二の準備銀行が、金融の緩慢なる場所と逼迫する地方とは、中央局の命令に依つて自由にこれを移動するやうな規則がある。例へば中央局が電信で達するとか、電話で命ずるとか云ふ方法にして、袋中の物を探る如く為し得るやうに見えるけれども、果して其時の中央局の命令が実際に適応して、不足と思ふ所が真に不足で、余るといふ地方が真に余つて、所謂痒い所へ手が行くやうに為し得るか、若しも其指揮が不適当であつたら中央局は実情も知らないでと云うて、各銀行は其命令に服従せず、種々反対の意見を云ふて、十二銀行の間に、時々齟齬扞格が起りはしないか。甚だ疑はしく思ふと云ひましたら、アーノルド氏も同様の懸念を持つて居るやうでありました。更にもう一つの疑問は、前に説明した如く各国立銀行が自己の資金を準備銀行に預けて、準備銀行はこれに対して相当の利子を支払ふのである。而して決算の際には年六分迄の利息を株主銀行に渡して、其他のものは政府に納めることになつて居る。故に準備銀行は自家の経営の為めに自然と株主たる国立銀行と競争する様になり、又国立銀行から云ふと、自分の為したる預け金が取も直さず自分に対する競争者となるから、各国立銀行が大に迷惑をしはせぬかと問ふと、アーノルド氏は現に今日が其通である、市俄古に於ては同業者が大変其点に付て困却して居ると答へました。新規の制度に対して、皮相の見を以て非難をするは穏当でございませぬけれども、市俄古又は紐育にて其関係の人々と問答した概略が右様な次第で、此新設の銀行は相応の効能もありませうが、或は多少の面倒を惹起すことが無いとも申し得られぬと思ひます。是は私の浅薄な意見であるが、船中から研究して、市俄古・紐育で再三問答を試みたから、其顛末を開陳したのであります。
 更に方面を転じて、ピツツバーグと費府で地方の有力者と交渉した事は、日米関係とか、若くは金融の統一とか云ふ話でなく、欧洲戦争の終局した後に日曜学校の世界大会を日本に於て開かれると云ふことに付て、日本の宗教家と海外の宗教家との間に約束が出来て居る。此日曜学校と云ふものは、其昔し欧洲にて或る篤志の人が、日曜に悪少年の遊んで居るのを見て、気の毒だと思ふて日曜学校の教授を始めたのが発端で、今日では欧米に伝播して一の流行物とも云ふべき有様で一面から云ふと教育であり、一面から云ふと慈善事業である、詰り慈善と教育とを混淆した一大事業になつて居つて、富豪若くは貴婦人達が専ら世話をして居るやうに見えます。殊に多数の人が集つてやるのでありますから、単に富豪・貴婦人ばかりでなく、一般の人が其会に出入して、時々開催する日曜学校の会に出席するのを一の快楽として居るやうに見えます。日曜学校の世界大会の際などは、米国の貴婦人たちは喜で出掛ける、而して其大会が一昨年は瑞西に開かれて、其際の決議にて来年は日本に開かれることになつて居る。斯る世界的の事
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だから、日本でも成るべく其会を都合能く開催せしめたいといふ事で大隈伯爵を会長として、此席に居られる阪谷男爵なり、私なり、其他多数の同志から合せて、日曜学校大会の後援会を組織して、主任者たる耶蘇宗教家を助力して居ります。現に今日御会同の諸君中にも、後援会にお加入を願つた方々もあります。右様なる次第で、欧洲の戦乱が終局したならば、相当なる時期に於て日本に日曜学校の大会を開くことになつて居る。然るに其大会に来集する人が頗る大勢で二千人にも達しはせぬか。殊更米国より貴婦人令嬢が多数来られると、東京にはこれに相当する宿屋がない、或は食事が不満足だとか、風呂場が不便だとか云ふ苦情が諸方から出る様になると、折角世界的の大会を日本に開きて、却て世界から日本を誹謗されることなりまして、亜米利加の貴婦人は活溌でもあり突飛でもあるから、先づ以て米国の大会担当者に能く協議をして置いたが宜からうと云ふ、日本の宗教家諸氏よりの委託であつた。そこでピツツバーグ市のハインヅ氏と、費府のジヨン・ワナメーカー氏が、日曜学校大会の亜米利加に於ける世話人であるから、此両氏に篤と打合せて呉れたが宜からうと云ふのが、私が出立の際の附帯用件であつた。先刻阪谷男爵から、私の第一の失敗談として、オークランドの日曜学校に出席する時間を誤つたと云ふお話がありましたが、これは伝えた人が誤つたので、午前十時と云ふ約束が十一時頃になつて少しく遅れたには相違ないが、三時も四時も遅れた訳ではない。且つ之を弁解すると、オークランドから自働車が迎へると考へて待つて居ると、船から行かなければならぬと云ふことで、彼れ是れと時間が延引したのであります。此処で言訳をした所が、オークランドまでは此声は聞える訳でありませぬ(笑)そこでオークランドへ行つて、始て日曜学校の体裁を一覧しました。其後ピツツバーグ市に拠りてハインヅ氏と会見し、日本に開かるゝ大会に付て種々の協議をしました。段々と談話して見ると、同氏が左様に日曜学校に尽力して居ると云ふことは、私はもしや一種の好事か又は名聞位と思ふて居りましたが、篤と同氏の心事を察すると、寔に誠心誠意にして、宗教上神に事へるには斯くなくてはならぬ――。人として世に処するには斯様にせねばならぬといふ、極く単純なる信仰よりやつて居ることを了知して別して感服しました。私は亜米利加の実業に従事する人が斯の如く深い信念で、而も事物に敦厚切実であるのを見て、亜米利加の富力の淵源あることを窺知しました。曾て亜米利加に漫遊せし時に、同国の実業の発達は単に其業に勉励するばかりではない、特に学問を重んずる為めであると云ふことは、穂積博士も常に言はれるが、実に亜米利加は学問と実際と工合能く密接して居る国と感じて居りました。併し今回の旅行にて更に別段の感が生じました。其理由は此ハインヅ氏などゝ云ふ人が、宗教的信仰心から、人は唯自己の為めにのみ世に在るべきものではない。言ひ換れば、人は必ず国家社会に対して、我生存する分限に応じて相当なる報酬的勤労がなくては、其本分が済まぬものだと云ふことを厚く信じて居る。談論すればする程、其覚悟の強いことが察せられます。依て私も従来孔子の教に依て安心立命を保つて居るが、帰する処は耶蘇教の趣旨と大差はない。己れを修
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めて百姓を安むするとか、博く民に施して能く之を済ふとか、身を立て道を行ひて名を後世に揚ぐる抔といふ教旨は、東洋哲学即ち孔子教の主眼とする処であると答へますと、彼れは少しく疑惑の口調にて、貴下が左様の事を論ずる人とは思はなかつたと申しましたから、それは反対である、吾々は亜米利加人は功利の事ばかり知りて、左様な精神的の事は考へぬと思うたといふて笑ひました。(笑)斯く会談に興味が生じたので、ハインヅ氏は益々愉快に感じられて、日曜学校には米国から大勢連れて行く、旅宿抔に少々位の差支があつた所が苦情は言はせぬ。米国人から千人又は千二三百人になつても構はぬではないかと言はれるから、私はそれはいけない。其為に特に来て斯く協議をするのだ、東京の旅宿屋は八百人乃至千人以上は容れられぬ、若し千人以上来られるのなら、其乗船に宿泊の出来るやうにして呉れねば困る貴下等は辛抱も出来るだらうが、貴下の令嬢はさうはいかぬ、他の貴婦人は尚更である。総じて亜米利加の貴婦人達は実に我儘である(笑)いや左様に我儘は言はさぬと云ふて、日曜学校大会に亜米利加人の来る手続を相談致しました。其相談にも相応の時間を費しましたが、当市到着の夜にはハインヅ氏の本邸にて鄭重なる晩餐会を催ふされ、当日と其翌日にて工場をも参観し、又カーネギー・ホールを見物し、ピツツブルグ大学生とフエラドルヒヤ大学生とのフットボールを一覧し某夜は同市の実業家倶楽部で、商工業者からの晩餐会に招待され、種種鄭重なる款待を受けましたが、最も愉快に感じましたのはハインヅ氏と宗教的信念の談話が頗る懇切にて、為めに御列席の頭本君をお苦しめ申したことゝ思ひます。併し後に頭本君に聴いたら、変つた通訳であつたから面白かつたと言はれました。費府には僅かに一泊で、翌日直に出立しましたから、ワナメーカー氏との会見はハインヅ氏との談話よりも少ない時間でありました。恰も十一月二十八日が日曜で、其日午後に学校を参観して、実際の有様を視察し、又婦人連の聖書研究会にも出席し、技術者階級の人々が集会せる聖書研究会にも臨席して一場の演説を為せし後に、来会の数百人と握手した時は、後に手の痛かつたことを覚えて居ります、其日の日曜学校参観の事は実に宜い記念となりましたが、其前夜六時頃ワナメーカー氏の店舗たる費府の有名なるデパートメント・ストーアーに到着すると、正面に大きなる両国の国旗を交叉し、種々光輝あるイルミネーシヨンを以て眩目する計りに飾立て、店舗には充満せる来客ありて、殊に多くの婦人が花の如く室内に居並むで居る。其中を主人ワナメーカー氏が私の手を取つて歩行するのですから、何か芸人の貌見世に似て、多数の人がワイワイと云つて拍手する(笑)私も少しく赤面をしました(笑)それから主人の案内にて、店内に設置しある店員教養所・食堂・庖厨の設備、或は秘密会議室抔、殊に事業に必要なる場所を一覧して、其夜は旅宿に帰宿した、翌日氏は九時前より私の旅宿に来訪せられ、十一時頃まで款談をしましたが、恰もハインヅ氏との談話の如く、彼れワナメーカー氏は私の東洋哲学即ち孔子教の要旨を説くと、東洋人にして単に実業家とのみ思ふた貴下が左様なる精神的談話をするかと云ふ疑を以て居られた様に見えた。段々相共に一身上の経過を語り合ふて、彼も
 - 第33巻 p.96 -ページ画像 
十歳の時から日曜学校で修学した人であると申して居りました。昨年七十七歳の高年で、尚其業務の大体は自己の能力で指揮する様に見えます。費府と紐育に大商店を開きて何千人といふ使用人があるから、各方面に相当の人を使用するは勿論でありましやうが、枢要の事柄は素より氏の方寸にあつて、万事に注意の届き方と云ひ、処事接物の精力は、実に偉いものであると、真に私は敬服しました。其日午後の二時から日曜学校の会堂に行きました。其会堂に於て氏は牧師の後に一場の演説をしまして、私の出席せしことをも来会の人に紹介した。当日の来会者は私の見た所では千五六百人と思ひましたが、其後熟知の人に聞きますと、あの会堂は三千人位は這入ると云ふことであつた、勿論立派な牧師が聖書の講義をして、会衆が讃美歌を歌ひ、私にも演説を依頼されて、日曜学校大会を日本に開催する事に付て当地に来りし次第を演説しました、それから最終に氏は会衆に向つて、此東洋の珍客は東洋哲学を信じそれに依つて安心立命して居る人だ。さうして其哲学は吾々の奉ずる耶蘇教と略ぼ似たやうなものである、依て私は此珍客に向つて一の企望がある、企望と云ふよりも寧ろ忠告がある。東洋の忠君愛国の教旨は、耶蘇の教義に下らぬか知らぬけれども、私の見る処では支那の古道は既に死んだ教と思ふ。耶蘇教は生命がある故に死したる教を奉じて居るより、生命ある耶蘇教信者となることを切望すると、大勢の面前で要求された(笑)是には私も即答が出来なかつたから、先づ其壇を下りてから後の談話にしませうと答へましたが、熱心の余りに発した言語にて、決して突飛又は無遠慮と誹るは宜くないと思ひます。それから氏は私を其自宅に連れて行つて、一夜たりとも歓談したいと頻りに云うて呉れましたけれども、ボストン市に行く約束であるから已むを得ず辞しました、依て氏は是れ限りで別れるのは残念だと云ふから、貴下は日曜学校大会には日本に来られる筈であるから、其時は又会へるといふと、氏はそれは明年の事である、紐育の滞在は何日と問はれて五日間と答へると、然らば自分も紐育に用があるから、紐育で又会はうと云つて別れましたが、其後十二月の二日に氏は紐育の店に来られて、私も他の午餐会を済して、爾後紐育なるワナメーカー氏の店舗に抵り、暫時氏と会話して遂に告別の握手をしましたが、実に氏は現在どれ程の事業を為て居られ、又どれ位の資力を持て居るか、其詳細は判らぬが、氏の今日に至るまでの経路は峻山もあり大沢もあつて、色々の艱難辛苦もしたであらう、其経歴は兎も角も真に壮にして、且最も派手なる事業を為し居るに拘はらず、其信念の堅実なると挙動の真摯なるは、敬服するに余あるやうであります。氏は食事の饗応もせぬで別れるのは残念だといふて、数部の書籍を贈られた、さうしてリンコルンに私淑して居るといふてリンコルンの伝と、ゼネラル・グラントの伝、其他種々の聖書類を私を饗応する代りにすると言はれ、来年又は再来年開かれる所の日本の日曜学校大会には是非出席して再会を期待する、実に千載の知己を得たやうな感がすると言ふて、染々と其衷情を吐露せられた、私が日米両国の国際上の事に付て、日本と亜米利加とは其国交の全体は親善ではあるけれども、現に西部の地方には多少の紛議もある、併し私は信ずる、真
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成の国交は其国民相互の相知るに在る、政事家の国交は言詞が綺麗ではあるけれども、恰も経師屋の糊で貼けたやうなものである。君我の如き相信ずる国民同志の国交は漆膠で付けたやうで、如何なる時でも離れぬ、斯の如くして始めて国交は完全と云ひ得ると思ふ。と述べると、氏は一体貴下は詩人のやうなる言詞を為すと言つて、頻りに笑はれて、其一語は大に氏をして首肯せしめたやうに思いました、宗教に就ての談話は其位のことでありまして、それから紐育では様々なる方面の人に会ひました。但しボストンにてエリオツト氏に面会した。氏は嘗て日本にも来遊せられ、政治上学問上の問題に就は常に注意を厚ふし、現に或る事柄に付て我政治界に向つて伏臓なき意見を寄せられた程の日本思ひの人でございますから、東西洋の目下の政界に付て色色の質問を試みましたが、実に深い情意を持つて日本を見て居る様に思はれました。併し順序を追うて是等の事をお話すると随分長くなります。殊に今夕は九時から露国大使館に夜会がありまして出席を約し置きましたから、到底詳細にお話を尽す訳には参りませぬ、エリオツト氏の戦争に就ての意見は現在の政事に触れますから、此処では申上げぬ方が宜いと思います、又紐育でヴアンデリツプ氏と会見しました此人はナシヨナル・シチー・バンクの総裁であつて、紐育の経済界に於て重鎮と称せらるゝ一人である、殊に目下東洋に向つて事業を発展しやうといふ一大会社を起し、其首脳に立て居るのであります、依つて此人に数回会談し、且一日同氏の宅へ午餐会に招かれて緩々と談話しました。私は今西部に於ける排日問題に就て懸念するよりも、支那に対して亜米利加が力を尽して発展すると、日本の当業者と衝突が起りはしないかと痛心しますから、其事に就ては前の大統領ルーズベルト氏に逢ふた時も、其他の有力者に会見した時も、切に其事を述べて見たのであります、而て此日ヴアンデリツプ氏との会話は、亜米利加は内国に対する事業も多いけれども外に発展する力が強い。而して其発展は必ず東洋であると思ふ、日本も支那に向つて大に発展しなければならぬから、勢ひ日本と亜米利加とが事実上支那に於て衝突を惹起するやうになりはせぬか、是は大に懸念すべき大事であるから、両国の有志者が共に其間に注意按排して、物議を起さぬやうにせねばならぬと云ふことを、切実に談じました。此談話が果して充分の効能を持つかどうか分りませぬが、私の説に対してヴアンデリツプ氏は至極同案なりと答へた。且ヴアンデリツプ氏は近々に東洋視察の途に上ると申して居りましたから、私は切に其事を勧告しました。果して旅行せらるゝかどうか分りませぬが、喜んで他日歓迎すると云ふて分れました。若し是等の人が来て、実況を見たならば、私の懸念を幾分慰することが出来るだらうと思ひます。
 西部に就ての御話もまだ残して置きました。私は帰途再び桑港へ参つて、到着の時に着手せし事柄を取纏めて帰国する都合であつた。演説の順序として東部の経過を述べて、是れから桑港の落着をと思ひますが、時間が段々迫つて参りましたから極く略して申します。詰り加州移民に関する問題は、追々に薄らぎて来ると思ひます。但し是から又日本から移民を入れることを希望するならば、其の反対は激烈とな
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ると思ふが、今日我が政府は紳士協約によりて、労働者を送らぬと云ふことになつて居るから、此有様を維持するなら、加州人も多少遠慮するかと思はれる。而して桑港博覧会へ対する日本の仕向けは、加州若くは桑港の人々が日本の好意を感謝して居ることは、決して虚礼でもお世辞でもなからうと思ふ、況や前に述べた桑港の労働者との会合などは、大に感情を融和し得たやうである。若し向後日米の労働者間に相協和する途が開けたならば、益々面倒は無くなるであらうと思ひます。故に私の今回の渡米は、敢て日米親善に効能を奏したとは申されませぬけれども、博覧会の日本の仕向けが大に感情を融和せしめたと云ふことを、確かに見届けたと思ひます。日本が之に参加した為めに、博覧会に関する多数の人々、及桑港の市民が如何に日本が親切なる心を以て、これに臨んで居たかと云ふことは、充分理解したと思ひますから、此点から云へば、私の旅行も満更無用ではなかつたかと思ふのであります。七十四日間の旅行が、過半は船と汽車に費へまして僅に三十余日が前来述べましたやうな有様に各地を巡廻して、先づ無事に帰朝し得て此お話の出来るのは自分も天祐と喜ぶのであります。先刻阪谷男爵が、丈夫で帰国したのが何よりの土産だと言はれましたが、是だけが諸君に対する確なるお土産であります、どうぞ左様に御領承下さるやうに願ひます。(拍手)


竜門雑誌 第三三三号・第八四頁 大正五年二月 ○東京手形交換所(DK330006k-0004)
第33巻 p.98 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第八四頁 大正五年二月
○東京手形交換所 新年宴会 東京手形交換所にては、一月十八日午後五時半より銀行集会所に於て新年宴会を催せり。当夜の来賓は青淵先生・豊川良平・水町日銀副総裁・深井営業局長等にして、食後委員長池田謙三氏の挨拶あり。次で水町副総裁は、昨年以来経済界の推移に関し其所見を開陳し、最後に青淵先生には、渡米所感の一節、即ち米国銀行聯合準備制度に関する問答其他重要の顛末を詳述せられ、右終りて午後九時頃散会せる由。


竜門雑誌 第三三六号・第四三―五〇頁 大正五年五月 ○米国の経済事情 青淵先生(DK330006k-0005)
第33巻 p.98-103 ページ画像

竜門雑誌 第三三六号・第四三―五〇頁 大正五年五月
    ○米国の経済事情
                      青淵先生
  本篇は、本年一月十八日東京手形交換所晩餐会に於ける青淵先生の演説なりとす(編者識)
 当交換所の新年宴会に、恰も米国旅行から帰りました為めに、特にお招を頂戴致したことは、寔に愉快に感じますのでございます。
 交換所の会は年々にあることで、而して年と共に進歩します。一昨年春の欧羅巴の戦乱は、吾々経済界に大なる影響を与へて、一時は頗る憂苦しましたのは、諸君も御同感であつたと思ひます。併し其憂苦は何時までも継続せず、昨年から事態が大に変化しつゝあるやうに思はれます。此点に付ては只今委員長からお申述になり、又是等の既往将来に就て、当交換所の最も信頼する日本銀行に於ては如何にお考慮なさるゝか、吾々は成べく其御説を聞かむことを望むと云ふ企望に対し、水町君から御懇切なる御演説は、吾々拝聴して其当を得たるもの
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と感佩致します。蓋し今日の場合は、鬱積したものが大に発展しかけたやうに見えます、故に悪くすると、此景況は却て誉め損ふやうになりはせぬかと、既往の経験に照して杞憂を抱くのであります。世の中の事は、必ず歴史は繰返すとばかり申されませぬから、或は変つた状態が生ずるかも知れぬけれども、寒去り暑来ると云ふ、数理を考へると、やはり歴史は繰返すと思ふても宜いのである、例へば染料会社の株の申込が八百倍になつたと云ふことは、明治三十八年に南満鉄道株の申込が千倍になつたと同じ道を辿るのではなからうか。水町君の注意的なる御演説は、蓋し其辺にあらうと思ふのでございます。是等の点に対して愚見を呈せば色々ありませうと思ひますが、既に委員長からも水町君からもお述になりましたから、私の蛇足は見合せまして、毎年に交換高も進み、金融市場の発達するのは寔にお芽出たいことゝ此新年の宴会を祝しまして、私は別に昨年の旅行に就て亜米利加の経済事情を、或は皮相の見たるを免れませぬけれども、出立の際にも諸君の御送別を戴きましたから、仮令短い時日に於て米国の表面のみを一覧したにもせよ、凡そ斯く観察したと云ふことを、陳上するのは、素よりお土産と云ふ程の価値はないにせよ、私の責住として此お芽出たい席に一言申述べることに致さうと思ひます。
 旅行の時日が短いのと、紐育は僅々五日間しか居りませぬ、尤も其途中市俄古に二日、ボストンに一日、費府にも一日、桑港には十日間居りましたが、米国の金融及商工業の趨勢を仮令飛沫にもせよ一通り見て参つたのでございます。紐育滞在の五日間には銀行家・商工業家又は政治家にも会見致しましたが、亜米利加の今日は、欧羅巴の戦乱が殆ど亜米利加の富を増すが為めに致して居るが如く見受けられる。私は亜米利加の人に向つて、諸君は内心では必ず此戦乱の長く継続することを祈らるゝかも知れぬが、如何に自国の富を増すからと云ふても、世界が斯の如き修羅道に相成つて居ることを喜ぶ程の利己の国民ではあるまいと思ふから、やはり、米国人も平和を希望するであらうと云ふ悪口を申しましたが、さう云ふても宜い位に見えるのであります。鉄材の売れ行、穀物の捌け方、其他百般の事物が総ての方面に於て亜米利加に仕合せを与へて居ると云ふても、決して過言でないやうでございます。種々なることを取摘んで申上げても切々になりますから、御同業者の集会でもありますから、私が一見して先づ斯うかと思ふた亜米利加の銀行制度の改正、即ち近頃制定されたる「ヒデラル・レゼルヴ・バンク」の有様に付て、極く表面の観察を玆に申述べて見やうと思ひます。
 昨年出発に際して横浜正金銀行の井上君は、私の旅行中出来得る時間に於て、研究して見るが宜からうと云ふて、聯合準備銀行の制度に関する細かい書類、謂はゞ一冊の案内書の如きものを送られた、且私の必要と思ふ時には、紐育の同行支店は充分助力しやうと言はれた、又大蔵次官に面会しましたときに、経済上・金融上の事は勿論、此聯合準備銀行の実況は出来得るだけ調査して来て欲しいと云ふ注文をも受けましたけれども、前に申しました通り、時日も少いし、実に通訳に依つて事物を調査すると云ふことは、其要領を得兼るものであるか
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ら、お受は申上げ兼ますけれども、出来るだけ調べて見ませうと答へて置きました。併し幸ひ正金銀行の指南書を持参致したに就て、先づ船中で熟読致し、条例の条草と比較研究して、色々意見を加へて参りました。桑港にも準備銀行が設立されて居つたのでございますが、是はまだ研究する程の力がないと申す事であつた。準備銀行の設立は十二箇所に分つてある、其の場所を尽く記憶しませぬが、先づ紐育、市俄古、ボストン、費府、桑港、ミネヤポリス、ダルス、カンサスシチー、ポルチモール、セントルイス、尚ほ二箇所を思出せませぬ、而して此の十二の外に中央局が、華盛頓の大蔵省の中に一部局として据えられてあつて、此所は銀行実務を執るのではない。十二の銀行に対して命令を発する一の中央局である。例せば船長が、船を彼方へ向けろ此方へ開けと云ふが如き職務を執る重要の場所である。元来亜米利加の国立銀行と云ふものは千八百六十年に出来まして、不換紙幣を兌換にする為め制度を作つたもので、公債証書を政府に納めて銀行紙幣を受取りて営業する方法で、日本の国立銀行も全然之に傚つて出来たのであります。其時は日本にも中央銀行はなかつた。国立銀行条例は明治五年に発布されて、六年に第一銀行を創立しましたが、九年から十一年頃迄に段々発達して、百五十六まで出来ました、其頃は松方老侯が大蔵卿であつて、どうしても亜米利加の制度を其儘に置くことは、金融の統一上面白くない。是非中央銀行がなくてはいかぬと云ふので明治十五年に日本銀行が創立されたのであります。而して各国立銀行の発行紙幣を整理する方法は、其翌十六年決定した故に、日本では銀行の開始より十年目に中央銀行制度が制定されたから、未だ其根差の若かりし代りに、移植が都合好くいつたのである。然るに亜米利加は之に反して、国立銀行の営業年月の長いのみならず、国風として痛く中央集権を嫌ふよりして、屡々金融上の不統一なる為め、不都合を惹起し逼迫を来すにも拘らず、幾度論じても中央銀行が出来ない。明治四十二年に私が渡米実業団の団長として渡航した時にも、市俄古市に於て同地の銀行者が会同して私を歓迎され、其午餐会の席に於て私は少しく揶揄の意味にて、日本の銀行は亜米利加の制度から伝習したが弟子なる日本にては今日は中央銀行制度を取つて居る。師たる米国は未だ其方法を採用せぬのは、蓋し弟子の過誤にして中央制度ならざるのが宜いのかも知れぬ。といふ演説をしましたら、来会の各銀行者は異口同音にそれは大違ひである。悪いと信じても、亜米利加では改正が出来ぬので困つて居ると言はれたことがあります。爾来中央制度の説が進んで、遂に一昨年、共和党政府のとき其案が提出され、民主党政府となつて種々研究の末に、今日の聯合準備銀行と云ふものが成立したといふことである。要するに統一は欲するも、中央集権は嫌ふ処から、合の子のやうな制度が出来て、之を中央局が支配し、依て以て統一的金融の緩和を図ると云ふ仕組のやうでございます。数字の詳細は記憶しませぬが、亜米利加の国立銀行の預金に対する準備金は二割五分と定めてあるのを一割六分に減じ、其他にも何か軽減するものがあつたと思ひますが、聯合準備銀行の株主は主として各国立銀行である、而して国立銀行は預金準備の軽減されたのを悉く準備銀行に預金
 - 第33巻 p.101 -ページ画像 
とし、準備銀行は又其資本高によりて払込まれた資本と、前にいふ各国立銀行からの預金との此二つを以て営業をするのであるから、恰も一種の特種銀行が出来たやうなものである。而して其取引の区域は各国立銀行を主とするけれども、一般に向つても自由に取引するのである。大体の仕組が前に述べた通りで、未だ創立の日浅き為めに各地の準備銀行の共に充分に発達をして居らぬから、どれ程の範囲に取引されて居ると云ふことは審かに承知しませぬが、準備銀行の受入れた預金の高が幾許で、貸出金が何程と云ふことは、横浜正金銀行に於て昨年九月頃の数字は取調になつて居つて、これに依りて見ても預金の高は大きいが、取引の分量は極く少い様でありました。私は市俄古に於て第一国立銀行を訪問して、尤も前年参つたとき其頭取に面会して識合になつて居りましたから、今の準備銀行の市俄古に於ける現況を承つて見ました。私はそれに就て二・三の疑問を質しました、但し此事は紐育に於て承つて見やうとも思ひましたが、却つて市俄古の直接経営をせぬ人で、聯合準備銀行の新組織を傍観して居る人に聴いた方が事実が明瞭になるかと思ひまして、第一国立銀行の副頭取アノルドと云ふ人が実務に精通して居るから、此人に就て廉々の質問をして見たのであります。其質問は三項であつて、第一は十二の準備銀行が出来たのは、中央制度を行ふと云ふ趣意のやうであるけれども、併し十二の銀行は全く境域を異にして居るから、華盛頓に中央局があつて之を指揮監督すると云へば、制度上からは出来るやうに見えるとも、若し其地方が大に金融逼迫とか、又は恐慌とか云ふ場合になつた時には、中央の命令が果して各地に敏活に通じて、各地の銀行が皆己を棄てゝ一致の態度を取り得るものであらうか、要するに十二はやはり十二であつて、一ではない、一と十二とは、十二と一と違ふほど違ひませぬか、さすれば中央と云ふ名はあつても、実はなくなりはせぬかと恐れると云ふことを問ひました。然るにアノルド氏は答へて、中央局の人人は此制度で満足だと云ふけれども、未だ行けるか行けないか、事実に際会して見ぬから確言は出来ぬ、併し私は貴下の懸念する如く思うて居る。詰り之を統一するには、如何に中央集権を亜米利加の政治家が嫌うても、是非一銀行に修正せざれば、真正なる統一は為し得られまいと思ふ。十二の銀行は皆別々の一個人であるから、事実の働きの違ふことは論を俟たぬのであると云うて居りました。それから私の第二問は此十二の銀行が中央局の命令に依つて、一方の金融が不足するときには他方から補足し、一方に剰余あるときは他方から需用するものとして、総て中央局の指図に依つて有無を相通ずるやうに制度の中に定めてあるが、是等は若し中央局の指図が其当を失すると、其十二銀行の間に大論争を生ずる恐れがありはしないか、詰り不用のものを受取り、必要のものを遣らなければならぬ、と云ふ不都合を生じて、十二の銀行が互に軋轢扞格を生ずるやうになりませぬか、此疑問に対しても、アノルド氏は必無とは期し難い、或は生じ易い事と思ふと、私の懸念する如く同氏も懸念すると答へられました。それから第三問は、此十二の準備銀行は六分の利息を株主に配当して、それ以上の利益は政府に収入する制度であるから、所謂半官半民の経営に属するの
 - 第33巻 p.102 -ページ画像 
である。而して重役の選任は政府である、故に銀行の資本は国立銀行が主であつて、其事務を担当する人は政府の人選であるから、其営業に国立銀行即ち株主と相争ふやうな有様が生ぜざるを得ぬと思ふ。誠に金融緩慢の時と云ふとも、準備銀行は其預金に二歩の利息を払ふことになつて居るから、唯々金を保管して利足を払ふ訳にいかぬ、勢ひ其金を貸したいと思ふことになる、殊に一般の取引を許されてあるから、国立銀行の得意に向つて競争することになる、是に於て国立銀行は自分の預けた資金に依つて競争を受けると云ふやうな傾向を生じて来はしないか。此質問に対してはアノルド氏は、今日現に大迷惑を蒙つて居る。市俄古市に創立せる準備銀行が、頻に国立銀行の妨げをしてならぬのである。此点は目下吾々の苦痛を感ずる所だと申して居りました、私がさう思うて聴いた為めに、先方の答も強く響いたのか分りませぬが、兎に角も少し実際に立入つて審かに聴かなければ、確とした事は別りませぬが、此準備銀行と云ふものが、果して亜米利加の金融を統一し得るかと云ふことは、疑問に属すると言はねばならぬやうでございます。市俄古の談話は夫れ位で、紐育に着してから同地の準備銀行の総裁たるストロングと云ふ人を訪問して、市俄古に於る疑問を繰返しました。併し此ストロング氏は市俄古のアノルド氏の如くには言ひませぬ、氏の言ふ処は、準備銀行は創立の日も浅いから色々と苦情を云ふ人もあるけれども――それはお互に譲合はなければならぬ、さう議論ばかりで行けるものではない。多少の面倒は起るべきも其処は中央局と云ふものがあるから、必ずしも故障が除き得られぬとは思はぬと、答へましたが、私が思ふには、此ストロング氏は新任せられたばかりの人であるから、其制度に重きを置かれ、事物を楽観して居らるゝが、遣つて見たら真に一体の働きを為し得らるゝか、併し此上余りに立入つて質問するのも宜くございませぬから、他の話に移りて準備銀行の質問は止めました。
 華盛頓に於て、ブライアンと云ふ曾て大使として日本に駐在した人の午餐会で、米国の大蔵大臣も同席で、少く準備銀行談を試みて見ましたが、午餐会で、長い談話も出来ませなんだ、大蔵大臣は、もしも私が企望するなら中央局の総裁に紹介するといふて頻りに勧誘せられましたけれども、其夜の汽車で華盛頓を出立する筈であつて、時間のない為めに、中央局の総裁には面会しませなんだ。聯合準備銀行の制度及其営業の現状は前に申し述べた通であつて、私の皮相の観察は是で止めて置きます。尚此事に就て日本銀行若くは横浜正金銀行に種々実際のお調もありましやうから、追々に御了解になる点もあらうと思ひます。更に一つお話をして置きたいのは、前にも申す如く欧羅巴の戦争から、大に亜米利加の富を増すに就て、同国の商工業の勢力が各方面に発展すると云ふことである、既に紐育の「ナシヨナル・シチーバンク」の総裁ヴワンデリツプと云ふ人が中心となつて、「セントラル・ナシヨナル・コルポレーシヨン」と称する一大会社を造られた。其資本額は五千万弗である。是は一昨年日本に於て設立した中日実業会社のやうな性質のもので、鉱山でも鉄道でも工業でも銀行でも、何でもやると云ふ仕組である。而して其発展の方面は南米と東洋であつ
 - 第33巻 p.103 -ページ画像 
て、東洋と云ふのは即ち支那であります。実に怒濤の如き勢を以て支那に向つて進発して来ると見えます。私は之に就て大に将来を懸念しましたから、紐育に到着する前から、支那に対する商工業には亜米利加人と日本人とは宜しく共に注意して、競争にならぬやうに心懸けねばならぬといふことを論じた。是は両国の実業界に実権を有する人々の大に注意すべき事と思ふ。日本に於ては自分も努めて我同業者に忠告しやうと思ふと云ふことを、先づボストン市にてエリオツト博士に話して、夫れから紐育に行つて前の大統領ルーズヴエルト氏を始めとし、其他二・三の人にも私の意見を披瀝した、前に述べたヴワンデリツプと云ふ人は其会社の中心に立つとの事であるから、一日同氏の宅で午餐会を催して私を饗応して呉れた時に、私は切実に其事を述べまして彼れも私の言ふことを道理と認めたやうであつた、併ながら其談話の続きに彼の云ふには、日本は目下支那に対して甚だ不評判である直言すると嫌はれて居る。故に米国で日本と提携すると、支那で仕事をするに付て不利益になりはせぬかと云ふ説が吾々の仲間にもある、是等の点は御互に能く攻究して、双方誤解のないやうにしたいものであると、斯様な意味を以て答へられました。依て私は大に其説を弁駁して、支那人が左様に云ふかも知れぬが、其言を信じて支那人を遇すると大なる間違の基となる、是は余程お考なさらぬといかぬ。支那人の他に対するのは、多くは同様にて日本に向つても同じ事を云ふ。それを軽信して両国の実業家が卒爾に手を伸すと、終に相方の間に誤解が生ずる、第一に亜米利加人に注意して貰ひたいのは其点である、而して日本にても是は大に用心しますと云ふことを呉々談話致しましたが、ヴワンデリツプ氏は是非当春東洋に旅行して見たいと云ひましたから、私は一遊を企望すると云ふて切に勧誘して置きました。御会同の諸君は御同様金融に従事する者で、商工の実務に着手するのではございませぬけれども、将来支那に向つて亜米利加の商工業者が潮の寄せるが如き勢で来られると、必ず衝突が起ると思ひます故に、私の亜米利加に論弁しましたのも、必ずしも杞憂とのみ見るべきことではなからうと思ひます。支那関係の人々は能く此点に注意して、敢て他に譲れといふではないけれども、加州に於ける紛議が減ずると、又東洋にて飛んだ面倒が起つて、為めに日米の不親善が湧出するは真に好しからぬことでございますから、我も用心しなければなりませぬが、彼にも注意を促したのでございます。総じて亜米利加の国情全体を観察すると、壮快なる事もあり、敬服すべき事もあり、面白いこともあり羨むべきこともあるが、其間或は厭ふべき事、同意の出来ぬ事もある単に桑港の博覧会を見ましても、お話すべき事柄が数々あると思ひますが、余り長くなりますから、今日は聯合準備銀行の事と東洋に於ける発展の為めに衝突を避くる事は注意すべき点と思ふて、諸君の御参考に供する為め、愚見の大要を述べたのでございます(拍手)


竜門雑誌 第三三三号・第八三―八四頁 大正五年二月 ○全国商業会議所 聯合会の感謝状(DK330006k-0006)
第33巻 p.103-104 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第八三―八四頁 大正五年二月
○全国商業会議所 聯合会の感謝状 一月二十四日午前十一時より、東京商業会議所に於て全国商業会議所聯合会開会、中野会長は
 - 第33巻 p.104 -ページ画像 
 本聯合会に於て時局調査委員会を設置したる此際、昨年末国家の為め、老躯を提げて渡米し、親しく米国の国情を視察し、且つ日米国交の親和に尽瘁せられたる渋沢男爵の出席を乞ひて、談話を聴取するは機宜を得たる事と信じ、渋沢男に交渉したるに、幸に渋沢男は之を快諾せられ、正午頃出席せらるゝ事となりたるに就ては、男爵の出席あり次第議事を中止して演説を聴取する事としたし
と諮りて、満場の同意を得、引続き営業税廃止案の討議中、青淵先生の出席ありたるを以て、直ちに議事を中止して、先生の渡米談を聴聞せられ、右演説終りて午後一時半再開、劈頭中野会長は
 渋沢男の日米国交上に尽瘁せられたる功労に対し、当聯合会の決議を以て感謝の意を表する事としては如何
と諮りたるに、全会一致を以て之を即決し、斯くて会長中野武営氏は全国商業会議所聯合会を代表して青淵先生の許に、左の感謝状を寄せられたり
 全国商業会議所聯合会は、昨年十月以来閣下が北米合衆国に渡航せられ、同国官民と交驩せられたることは、日米両国の親和貿易を増進せしむるに多大の効果あるものと認め、深く閣下が国家の為めに尽瘁せらるゝの功労を感謝し、玆に全会一致の決議を以て恭しく敬意を表す
  大正五年一月二十四日
              全国商業会議所聯合会
                 会長 中野武営
   男爵 渋沢栄一殿


第二十二回商業会議所聯合会報告 第一〇頁 大正五年一月(DK330006k-0007)
第33巻 p.104 ページ画像

第二十二回商業会議所聯合会報告 第一〇頁 大正五年一月
一、一月二十四日午前十一時四十五分男爵渋沢栄一君出席、昨年米国漫遊中ノ所感ニ付テ演説セラレタリ


第二十二回商業会議所聯合会議事速記録 同 継続会議事速記録 第七二頁 大正五年一月・四月(DK330006k-0008)
第33巻 p.104-112 ページ画像

第二十二回商業会議所聯合会議事速記録
同         継続会議事速記録
                  第七二頁 大正五年一月・四月
○会長(東京、中野武営君) 諸君、コレヨリ開会ヲ致シマス、昨日特ニ御通知ヲ申上ゲテ置キマシタガ、渋沢男爵ガ御承知ノ通リ昨年アノ老躯ヲ引提ゲテ亜米利加合衆国ヘ巡遊セラレマシテ、各所ニ於テ有力ナ人ト会見ヲセラレテ、両国ノ親交ヲ進メルコト、貿易経済ノ関係ヲ厚クスルコトニ就イテ非常ニ尽サレタノデアリマス、此聯合会ニ諸君ガ御出席ニナツテ居リマスコトヲ昨日男爵ニ申シマシテ、幸ニ繰合セテ出テ呉レテ所感ヲ述ベテ呉レヽバ大変満足ナコトデアルト思フガ、ト云フ相談ヲ致シマシタラバ喜ンデ御目ニ掛リニ出ルト云フコトデアリマシタ、今日十時半ニ出席スルト云フ約束ヲ昨日致シタノデアリマスガ、先刻電話デ止ムヲ得ナイ来客ニ接シテ居ルノデ、少シ遅刻ヲスル、併シ十一時迄ニハ必ラズ参席ヲスルカラサウ承知シテ貰ヒタイト云フコトヲ申越サレタノデゴザイマス、其内ニ参ラレルダラウト思ヒマス、会議中ニ若シ見ヘマシタラバ、待タサレヌ人デスカラ直ニ渋沢男爵ヲ案内ヲ致スヤウニシマス、其御積リニ願ヒマス
 - 第33巻 p.105 -ページ画像 
○中略
○会長(東京、中野武営君) 御討議中デゴザイマスガ、渋沢男爵ガ見ヘマシタカラ、議事ヲ中止シテ之レヘ渋沢男爵ヲ御案内致シマス
  〔男爵渋沢栄一君着席〕
    男爵渋沢栄一君演説速記
東京ニ全国商業会議所ノ聯合会ガ開カレタコトハ拝承致シテ居リマシタガ、今日玆ニ出席シテ私ガ昨年亜米利加ニ旅行致シタコトニ就テノ感想ヲ述ベルヤウニト云フ当会議所ノ会頭カラ御要求デゴザイマシタシ、今日参上致シテ諸君ニ御目ニ掛ルコトノ機会ヲ得タルヲ深ク喜ブ次第デアリマス、私ノ昨年亜米利加行ハ取立ツテ申上ゲマス程ノ理由モナケレバ、随ツテ又旅行ヲ致シタ結果ガドウ云フ効能ヲ現ハシタカト云フヤウナ殆ンド予期スル所モナイノデゴザイマス、抑モ旅行ヲ致スト取極メマシタノハ八月頃デアリマシタガ、其前ニドウカ往ツタガ宜クハナイカト云フ御誘導ヲ受ケタノガ、六月デアツタカ五月頃デアリマシタカ、即チ唯今此旅行ニ就テ頗ル讃辞ヲ賜ハツタ東京商業会議所会頭中野武営君ノ御誘導ガ抑モ始メテデゴザイマス、同君ノ私ニ対シテノ御示シハ、日米関係ト云フモノハ少シ痼疾的ノ問題デ、時々注意セヌト困ル、例ヘバ四十二年ニ我々ガ旅行シテ帰ツテ来テモ直ニ其跡カラ満洲鉄道ノ問題ヲ「ノツクス」ガ提出スルヤウニ、兎角亜米利加ニハ突飛ナ行動ガ多イ、又其翌々年即チ明クレバ一昨々年ニハ御承知ノ通リ加州ニ排日問題ガ起ツテ来タ、甚シキハ中央政府即チ其時ノ共和党政府ガ之ヲ鎮圧シヤウト掛ツタヤウニ見エタケレドモ、国務卿「ブライアン」ノ加州ニ来タノハ却ツテ効能ヲ与ヘズシテ害ヲ与ヘタヤウナ傾向ガアル、此ノ如キ有様ダカラ腹ガ立ツト云フテ、此方モ夫レニ応ジテ行動スルナラバ、所謂狂人走ツテ不狂人又走ルト云フヤウニナツテ、日米両国ノ間ニ甚ダ面白カラヌ有様ノミ進メテ行ク、ソレデ自然ニ放任ノ結果、彼ノ輿論ニ対シテ宜クナイ観念ヲ起サセルヤウニナツテハ困ツタモノデアル、夫レデ博覧会ガ桑港ニ開設サレルニ就テハ、右等ノ趣意カラ中野会頭ト共ニ、私ハ当局ノ人々ニモ、若シモ又故障ガ出ルカ知ラヌト云フコトヲ予想シテ之レヘ出品ヲセヌコトニナルト、彼我ノ友誼ニモ背クシ、益々感情ヲ悪クスルヤウニ自然ニ挑発スル虞ガナイトモ言ヘヌ、縦シヤ余リ柔ラカ過ギル誹ヲ受ケルトモ之レハ出品サレタ方ガ宜クハナイカト云フコトヲ、当時私共ハ中野君ト矢張リ同意見デアツテ、其様ナ話ヲ当時局ニ当ル御方々ニ陳情シタコトモアル、遂ニ博覧会ニ参同シ出品ヲスルコトニ決定シテ、其開催ヲ見タ訳デアリマス、此場合ニ博覧会ヲ参観スルト申シ、又先年厄介ニナツタ挨拶モスルト云フ意味デ、誰カ日本カラアノ人ガ来タカト多少米国人ガ注目ヲスル(例ノ観光団ノ一組デナシニ行ク)人ガアツタラ宜イト思フノデ、自己ナドモ必ラズ行カヌトハ云ハヌケレドモ、寧ロ亜米利加人ニ対シテハドウモ御前ノ方ガ比較的名ガ聞ヘテ居ルヤウダカラ往ツテ呉レテハドウカ、但シ何処カラ頼ムト云フ訳ニハイカヌノデ所謂自分ノ物嗜キノ旅行ニナルカラ、其辺カラ言ヘバ気ノ毒ダケレドモ、多少国家ニ功ヲ尽スト云フ己惚カラ言ヘバ奮発モ出来ヌコトデモナカラウ、一ツ往ツテハ下サルマイカ、斯ウ云フヤウナ御忠告デ
 - 第33巻 p.106 -ページ画像 
ゴザイマシタ、私ハ国ノ為メニナルコトナラバ、決シテ多少ノ費用ナドヲ厭フ念慮ハナイノデスケレドモ、今ノ御勧メニ対シテ考ヘテ見ルト、何ダカ余リ己惚過ギルヤウナ感ジヲ起シマシタ為メニ、御即答モ致サズニ居リマシタ、所ガ七月ノ始メデアツタカ、前ノ外務大臣加藤サンカラ、蓋シ中野会頭ノ御心配デアリマシタラウ、ドウカ面会シタイト云フコトデ、御目ニ掛ルト、今ノ米国旅行ノコトヲ頻リニ御誘導ガアリマシタ、一ツ気張ツテ呉レヌカ、併シ政府ガ命ズルト云フ訳デハナイケレドモト申スヤウナコトデ、其必要ト思フ点ハ中野会頭ノ御示シニナツタノト詰リ大同小異デアツタ、総理大臣カラモ斯ウ云フ話ガ中野君カラアツタガ、自分等モ至極宜イコトト思フ、ケレドモ之レハ国ガ命ズル訳ニイカヌコトダカラ、一ツ気張ツテ呉レタラ宜カラウト思フ、斯ウ云フ御沙汰ヲ伺ヒマシタガ、ソレモ是非ニト迄モ仰シヤラレタ訳デモナシ、尚ホ再考ノ裡ニ時ヲ過シテ居リマシタ、其内ニ沼野総領事カラ外務大臣ニ報告シ来ツタト云フノデ、当時次官松井氏カラ報告シテ参ツタノハ「カリホルニヤ」即チ桑港ニ一ノ………日本語ニ訳スルト、日米関係委員ト云フ訳字ガ一番適当シテ居ルト申シマスガ、此関係ト云フ字ハ洵ニ漠然トシタ言葉デ、モウ少シ何トカ適切ナル訳字ガ用ヒラレルカモ知レマセヌケレドモ、サウ性質ノ名ニ依ツテ大勢カラ組立テラレルデハナイ、二十名カ二十四・五名位ノ各方面ノ種類ノ人ガ集マツテ、例ヘバ学者モアリ政治家モアリ又実業家モアルサウ云フヤウナ種類ノ人ガ集ツテ一ノ仲間ヲ拵ヘテ、其仲間デ以テ日米間ニ現在紛糾シテ居ルコト及ビ将来ニ処スルコトヲ努メテ解決ヲ計ルヤウニシタイ、而シテ此会ハ独リ米国ノミニ出来タノデハ効果ガナイノデ、相俟ツテスル必要ガアルカラ日本ニモ造ツテ貰ヒタイモノダ幸ニ日本デ出来ルナラバ加州方面ニモ一ツ造ル考ヘダト云フノデ有志者間ニ評議シテ居ル、此事ハ日本デハドウ考ヘルデアラウカ、日本ノ有志者ニ諮ツテ見テ呉レト申シテ来ラレタ、ソレハ多分七月デシタカ八月ノ始メ頃デアツタト思ヒマス、其事ヲ承ハリマシテ私ハ少シ心ヲ動カシマシテ、果シテ夫レガドノヤウナ効能ヲナシ得ルカハ分ラヌケレドモ、丁度諸君モ御記憶デゴザイマセウガ、一昨々年ノ三月ノ末デアツタカ四月ノ初メデアツタカ、土地法ガ出マシタ時分ニ、私ハ不幸ニシテ病気デ寝テ居リマシタガ、当会議所会頭ガ大イニ心配ヲサレテ日米同志会ト云フモノヲ企テラレマシタ、之レハ言ハバ一夜造リデ、殊ニ出席モ出来ヌ私モ兎ニ角仲間ニスルガ宜イト申シテ会員ノ一人ニ加ヘラレ、更ニ進ンデ其会ノ一時会長ニ推サレマシテ、ソレカラ屡々此所若クバ他ノ集会所デ打寄ツテ、遂ニ添田寿一氏・神谷忠雄氏ヲアツチヘ派遣スルコトニ相成リマシタガ、仮令ソレガ大シタ効能ガナカツタニモセヨ、所謂ナキニ優ルト云フコトモ、想ヒ得ルノデゴザイマス、此何カ病気ノ時ニ立派ナ御医者デナクトモ摩ツテヤル人ガアルト病人ガ心持宜クナルト同ジヤウニ、先ヅ相当ナル用心ヲシテ手出シヲスルト云フコトハ、幾ラカ起ル間違ヒヲ大キクセズニ解決シ得ルモノダト云フヤウナ点カラ考ヘテ見マスルト、今桑港カラ申シテ参ツタコトハ之レヲ能ク組立テマシタナラバ、将来ニ多少ノ効能ヲナシハシマイカト斯ウ予想ヲシタノデゴザイマス、ソレカラ其前ニモウ一ツ往ツ
 - 第33巻 p.107 -ページ画像 
タガ宜カラウト云フ念ヲ強メマシタ理由ハ、昨年ノ春「セラー・マシウス」「シトニー・ギリツク」此両人ガ宗教家トシテ日米問題ヲ解決シタイ、ソレハ此国ニ対シ平和的ニ後援ヲシナケレバナラヌ人ガドウシテモ日本ヘ来テ、日本ノ事態ヲ審カニシ日本ノ有志ト十分会見シタガ宜カラウト云フコトデ、特ニ派遣サレテ参ツタノデアリマスガ、私ハ其「マシウス」、「ギリツク」ト数回討論会ヲ開キマシテ、時ニハ大ニ議論モシタノデアリマス、併シ此議論ニ依ツテ段々ニヨク事情ガ解ケ合フテ、詰リ帰リマスル時ニハ、勿論デゴザル、全ク御前ト同趣意ダカラ此趣意ニ依ツテ私ハ自分ノ方面ダケ尽力スルカラ御安心ナサイト云フ手紙ヲ途中カラ送ラレタノデアリマスガ、此「ギリツク」ノ滞京中即チ東京ニ居ル内ニ、博覧会ガ桑港ニ開カレルニ際シテ労働者大会ガアル、此労働者大会ハ世界的デ欧羅巴カラモ相当ナ人ガ来ル、而シテ亜米利加ノ労働組合ト伝フモノハナカナカ規律正シイモノデ、其首脳ニ立ツ人ハ「ワシントン」ノ「ゴンパス」ト云フ人デ、モウ七十ニ近イ老人デアルガ、労働者カラ成立ツタ人デアルガ相当ナル政治的才略モアリ、其二百万以上ノ労働者ヲ統轄スベキ力量モアル、又今桑港ニ居ル其会ノ部長トモ云フベキ加州方面ノ重立ツタ男ニ「シヤーレンベルク」ト云フ人ガアル、出ハ独逸ノ人デアルガ、ナカナカ是レモ実直ナ男デ、而モ排日ノ方ニハ随分力アル一人デアル、ソコデ「ゴンパス」ト「シヤーレンベルグ」是等ノ人々ニ面会シタラ宜カラウト云フノデ、之ハ他ノ方面カラ一夕ノ宴会ヲ催サレマシテ、私モ夫レヘ出テ「ゴンパス」モ参リ「シヤーレンベルグ」モ参リ、鈴木モ参リ、其他ノ人々モ参ツテ、是等ト顔ヲ合セマシタ、此ノ会ハ討論会デハナイ、所謂唯知ラヌ顔ガ会見シテ幾ラカ意志ノ交換ヲシタト云フニ過ギマセヌ、「パレース・ホテル」ニ一夕ノ宴会ガアツテ食事ノ時ニ色々話ヲ致シマシタ、「ゴンパス」ハ今日ハ余リ長クハ居ラレヌ、八時半カラ余所ヘ行カナケレバナラヌカラ一寸デ御免ヲ蒙ムルト言ツテ居リマシタガ一寸私ノ隣リニ居ツタカライロイロ労働者関係ニ就テ談話ヲシテ居ル内ニ、話ガ面白クナツテ来マシタモノカ、脇ヘ行ク用事ヲ忘レタノカ若クバ早ク引キタイ為メニ前以テ左様ニ時間ヲ詰メテ答ヘテ居ツタノカ、其辺ハ分リマセヌガ、段々話ヲシテ居ル内ニ八時ガ過ギ九時ニナツテモ平気ナ顔ヲシテ、終ヒニハ立ツテ演説ナドヲシタ、私モ夫レニ答ヘタリ何カシテ、サウシテ互ニ十分ナル歓ヲ尽シテ別レマシタガ、段々其労働組合ノ成立カラ、今夫レヲ統一シテ居ル有様カラ、又労働者ト資本家トノ間ノ事ナドヲ聞イテ見マスト、労働者ト云フテモ何モ唯得手勝手ナ我儘バカリ申スト云フノデハナイ、条理ヲ解シ相当ノ筋道ノ立ツタ人デアリマス、何シロ「ゴンパス」ト云フ人ハ二百万人ノ労働者ノ「プレシデント」ト云フ名ヲ得テ居ル、亜米利加ノ労働組合ヲ組織シ、其報酬トシテ相当ノ金高ヲ得テ居ルソウデアリマス、随ツテ其人物ハ決シテ軽侮スベキ御人デハナイヤウデアリマス、唯「ゴンパス」トノ会話ハ其一夕ノ食卓上ノ談話ニ過ギマセヌデシタガ、丁度再ビ桑港ニ帰リマシタ時ニ前ニ申上ゲタ委員ノ取極メモ其連中ノ十数名ト引合ヒマシタガ、更ニ其労働者仲間トモモウ一応会見シテ話ヲシタガ宜カラウト思ヒマシタ為メニ、鈴木モマダ居ツタモノデスカラ之
 - 第33巻 p.108 -ページ画像 
レモ参列セシメテ、サウシテ「ゴンパス」ハモウ居リマセヌデシタガ「シヤーレンベルグ」又他ノ労働党ニ関係スル人々、是等ノ人々ヲ十六・七名招キマシテ、此一席モ頻リニ労働者ト日本ノ移民トノ関係ニ就イテ諸君ノ腹蔵ノナイ意見ヲ述ベテ呉レト申シテ、所謂胸襟ヲ開イテ談話会ヲシヤウヂヤナイカト言ツテイロイロト話ヲ致シマシタ、其時「シヤーレンベルグ」ハ少シ御世辞ノ言葉モアリマシタガ、私共前カラ斯ル事柄ニ付イテハ随分骨ヲ折ツテ居リマスガ、未ダ其資本家部内ノ此ノ如キ名誉アル世間ニ名高イ人ガ特ニ私共ヲ御馳走マデシテ此ノ如ク胸襟ヲ開イテ話スト云フコトハ未ダナイ、故ニ此事ニ対シテハドウシテモ感ゼザルヲ得ヌ、但シ私ハ資本家ニ降服ハセヌケレドモ其厚意ニハ充分同意ヲ表シマスト云フ前置ヲシテ、去ナガラ之レカラ日本カラ来ル労働者ニ対シテハ斯ウ云フ都合ガアルカラ我々ハ排斥スル斯ル理由デアルト云フコトヲ矢張リ言フテ居マシタガ、其感情ニ於テハ酷ク融和シタト云フコトヲ申シテ居リシタ、私ノ立チマス時ニハ船マデ来テ色々話ヲシテ分レマシタガ、先ヅ私ハ別ニ此労働者トノ調和ヲ直接ニ計ツタ訳デハアリマセヌガサウ云フ次第デアリマシタ。
加州ニ対スル有様ハ概略此辺ニ致シテ措キマスガ、果シテ私ガ出テ何等カノ効能ガアツタト迄ハ申上ゲラレマセヌガ、或ハ労働組合党トノ接触ト申シ、又或ル委員ノ組織セラレル順序ト申シ、博覧会ニ対シテ日本ノ実業界ガ大イニ重キヲ置イタト云フヲ証明シタ其順序ト申シ、先ヅ完全トハ申セマセヌケレドモ、シナカツタヨリ仕テ来タ方ガ宜カツタト云フヤウニ思フノデアリマス、其辺ハ宜シク御諒承ヲ願ヒタウゴザイマス、東部ノ方ノコトハ之レモ一言申上ゲテ置キマスガ、紐育デ金融界或ハ実業界ノ御人々ニハ従来知己モアリマシタ為メニ、サウ云フ人々ニ遇ヒマシタ、特ニ私ガ此場合ニ於テ将来ニ懸念スルノハ、亜米利加ハ此欧羅巴戦争カラ同国ノ富ノ増スコトハ実ニ非常ナモノト申シテ宜イヤウデアル、其実際ハドレ程デアルカト云フコトヲ申上ゲル程詳シイ調査ハ致シマセヌガ、兵器・弾薬ノ売レルコト、其他種々ナルコトニ於テ亜米利加ノ富ハ増スバカリト申シテモ宜シイ、随ツテ景気ガ好クナリ、町ノ有様ナドハ生々トシテ居ル、殊ニ紐育ノ繁昌ハ已ニ業ニ四十二年ニ参ツテ驚キマシタガ、今度ハ更ニ又驚イタヤウナ訳デアリマス、其他表面ノ形式バカリデナク、内ガ段々充実ヲスルカラ外ニ発展スルヤウニナル、現ニ「ナシヨナル・コーポレーシヨン」ト云フモノヲ造ツテ、何デモ東洋ニ大イニ手ヲ延バサウト云フコトニナツテ居ル、紐育、「フヒラデルヒヤ」其他ノ土地ノ人々ガ中心トナツテ大ナル会社ヲ起サントシテ、夫レニ著手シ掛ツテ居ル、此事ヲ聞ク前カラ、私ハドウモサウ云フ姿ニナルラシイト思ヒマシタ為メニ、此事ニ付テハ深ク心配ヲシテ居ツタ、向フニ「ハンデリツク」、ソレカラ「コヒン」ト云フ人ガアル、何レモ其方ニ関係シタ人デ、私ガ先年参ツタ時分ノ知己デアリマスル、其「コヒン」ト云フ人ノ手デ出テ居リマスル横浜ニ「ゲリー」ト云フ人ガ居ツタ、之レモ従来ノ懇意デアリマス、昨年九月ニ向フヘ立ツテ行キマシタカラ私ハソノ「ゲリー」ニ、「コヒン」ハ君ノ親分ダガ、之レカラハ日本ト提携シテヤルヤウニ亜米利加人ニ志サセタイト思フ、ドウモ悪クスルト此東洋(東洋ト云
 - 第33巻 p.109 -ページ画像 
フハ支那ダガ)支那ニ於テ日本人ト亜米利加人ト競争セザルヲ得ヌヤウニナリハシナイカドウカ、其衝突ガ起ラヌヤウニ是非シタイト希望シテ止マヌ、君ガ帰ツタラ「コヒン」サンニ能ク此事ヲ言ツテ呉レ、現ニアノ人ハ芝浦ノ製作所ニモ相当ノ資本ヲ入レテ、日米共同デ事業ヲヤツテ居ル、又朝鮮デハ日米ノ資本デ合同シテヤツテ居ル仕事ガアル、小サイ仕事デハアルガ、左様ニ二ツモ三ツモ共同ノ事業ガ成立ツテ居ル、支那ニ対シテ之レカラ先キヤルニハ是非私ハサウ云フ方針ヲ取リタイト思フ、総ベテノ事業ヲ皆日米関係デヤルト云フ訳ニハ往クマイガ、君ノ方デ譲レル丈ケ譲ツテ、サウシテ御互ニ思切ツテ力較ベ叩キ合ヒト云フヤウニ往カヌヤウニセンケレバナラヌ、ドウカ御注意ヲ請ヒタイモノダト申シテヤツタノデアリマス、丁度十二月四日ノ日デアリマシタ「ハンデリツク」ニ会見シマシテ、懇切ニ其話ヲ私ハ致シマシタ、果シテ一場ノ談話ガ左様ナ永久的ナ事ニ十分ノ効ヲ奏スルカ否ヤハ勿論期シ難クゴザイマス、併シ其理由ハ誰ガ聞イテモ分ルコトデ、私ノ希望ガ必ズ行ヒ難イト云フコトデハナイト云フコトヲ、彼等モ能ク理解シタヤウデアリマス、其ノ談話ノ内ニ彼ガ斯ウ云フコトヲ云ツテ居ツタノハ、我々ハ少シ面白カラヌト感ジタノデアリマス、「ハンデリツク」曰ク、アナタノ御説ハ御尤モデアル、私モサウ思フ私ハ決シテアナタノ説ニ反対ハセヌガ、若シ我々ノ仲間ガ斯ウ云フコトヲ言ヒヤシナイカト懸念スル、ソレハ今日本ハ甚ダ支那トノ国交ガマズイ、支那ハ日本ヲ嫌ツテ居ルヤウナ風評カ話カ知ラヌガアルヤウデアル、ボイコツトナドモ随分強イヤウデアル、ソコデ仕事ヲスルニ其嫌ハレテ居ル人ト道連レニナツテ行ツタラ、当然旨イコトハ出来ナイ、コンナ詰ラヌコトハセヌガ宜イ、斯ウ云フコトヲ言ヒヤシナイカ適切ニ分ルヤウニ言フトサウ云フ意味ヲ申シテ居リマシタ、ソレカラ私ハ夫レハ誤解デアル、支那ハ亜米利加ナリ日本ナリノ企業家ガ往ツテ働カウトスルト、ドウモ其ノ間ヲ離間シタガル、事大精神ノ強イ支那人ハ企業家ニ兎角左右サレル、ソレヲアナタ方ガ軽卒ニ信ジテ、日本人ハ嫌ハレテ居ル、其ノ嫌ハレル奴ト道連レニサレルノハ詰ラヌト云フ考ヲ起サレテハ困ルデハナイカト、段々私ハ忠告ヲシタ、ソレニ対シテ、如何ニモ尤モダ、兎ニ角私モ一ツ東洋ヲ視察シタイト思フカラ、来年ハ是非旅行ヲスルト言ツテ居リマシタ、ソレデ私ハ別レマシタガ、果シテ「ハンデリツク」ガ来ルカドウカ分リマセヌガ、私ハ余程切実ニ話ヲシテ置キマシタ、此機会ニ諸君ニ之レ丈ケノコトヲ御承知置キヲ願ツテ置キマス。
亜米利加ノ企業ガ各方面ニ於テ既ニ発達シツヽアリマスルガ、更ニ之レカラ進ンデ行ク有様ト云フモノハ実ニ目ヲ驚カスヤウニ見エマス、若シ之レヲモウチツト時日ガアツタナラバ、仮令私ノ少シ老衰シタ身体又時務ニ暗イ身デモ斯ウ云フコトモアリマスゾ、アヽ云フコトモアリマスト云フコトヲ申上ゲラレタコトト思ヒマスガ、何分時日ガ少ナク応接ニ遑ナイ為メニ、唯ホンノ抽象的ニ大体論シカ申上ゲラレマセヌ、併シ、此景気ノ盛ンナルニ対シテ需要品モ甚ダ多イヤウデアリマス、現ニ生糸ノ如キハ非常ニ高イ、ソレカラ他ノイロイロノ商売品ヲナゼ日本ハモウ少シ来テ売ルニ努メテ呉レンカト申ス人々ハ実際アル
 - 第33巻 p.110 -ページ画像 
ヤウデアリマス、船ニ乗ツテ居ル人々ニモサウ云フコトヲ言フタ、私ハ自身ニハ聞キマセヌガ、山脇事務官長ナドハ申シテ居ラレマシタ、若シ此各地ノ商業会議所諸君ノ中ニ亜米利加ニ斯ウ云フ販路ヲ開イタラ宜カラウト云フヤウナ御望ミデモアリマシタラ、時節柄アチラヘ御旅行ナサルガ宜イト思フノデアリマス。
要スルニ加州ニ於テハ前申シマス通リ一ノ関係委員ガ出来サウニ思ヒマス、労働者ノ調和モ少シハ進ミツヽアルヤウニゴザイマス、博覧会ニ対スルコチラノ厚意ヲドウゾ明カニシテ置キタイト云フコトハ私丈ケノコトデスケレドモ、稍々意志ノ疏通ヲ致シタカト思フヤウデアリマス、四十二年ニ各地ノ商業会議所諸君ト罷出デマシタ、既ニ此ノ御席ニモ其御同行ヲ願ツタ諸君モイラツシヤイマスルガ、丁度桑港ヲ始メ「ポートランド」、「ロスアンゼルス」、「シヤトル」、「シカゴ」ソコラデ皆先年御世話ニナツタ挨拶ヲ致シ、又其当時ノ人々ガ大勢打寄ツテ懇切ニ又再ビ世話ヲシテ呉レマシタ、其機会ヲ以テ当時ノ同行ノ方方カラモ宜シク申スト云フコトヲ叮嚀ニ申通ジマシテ、一通リノ謝意ハ徹底シ得タト思ヒマス、「シヤトル」ノ「ローマン」始メ「プレーン」ナドハモウ相変ラズ親切ニ世話ヲシテ呉レマシタ、又「ポートランド」ノ「クラーク」ナドハ私ガ「ポートランド」ニ一泊スルコトガ出来マセヌノデ大層不満ヲ言フテ、ナゼ「ポートランド」ヲサウ云フヤウニ余所ニスルカ、唯ハドウシテモ通サヌ、ト云フノデ、私ハ丁度「シヤトル」ヨリ立ツテ夜明ノ七時ニ「ポートランド」ニ着シマシタガ、其朝七時半カラ停車場ニ迎ヒニ来テ、ソレカラ「ホテル」ニ行ツテ朝飯ノ而カモ朝飯モ早朝八時ノ饗宴ト云フノダ、ナゼナラバ其九時半ニハ汽車ガ出ルノデ、幾ラモ時間ガナイカラデアリマス、亜米利加ハ夜ノ明方ガ遅ウゴザイマス、ソコヘ持ツテ来テ八時ニ歓迎会ヲ開カレタノデアル、随分ドウモ宜イ記念ニナツタヤウデゴザイマス、「ロスアンゼルス」デハ「オスペン」ガイロイロ世話ヲシテ呉レマシタ、「シカゴ」デハ「セケンナー」ガ大変力ヲ入レテ呉レマシタ、其他各地デ先年旅行シタ時ニ遇ツタ人々ニハ、大抵面会ヲ致シマシタ、例ノ「エリオツト」ト云フ肥ツタ御人ガアリマシテ、汽車中デ宴会ナドヲシテ呉レタ、多分上遠野君ナドハ御覚ヘデアリマセウガ、アノ人ニモ「ワシントン」デ遇ヒマシタ、アノ当時ノ事ニ付イテ世話シタ人ニモ大分会見ヲ致シテ、帰ラレタラドウゾ其時分ノ御方ニ宜シク申セト云フコトヲ懇切ニ伝ヘラレマシタデ、此序デニ皆様ニ申上ゲテ置キマス甚ダ旅行談ト取混ゼテ事理ノ徹底致サヌコトデゴザイマスガ、所謂断片的ニ申上ゲタノデゴザイマス、ドウカ左様御聞キヲ願ヒマス。
                          (拍手)
  大正五年一月二十四日
    午後一時三十分開議
○会長(東京、中野武営君) 諸君、午前ニ引続イテ開会ヲ致シマス、チヨツト御諮リヲシマスガ、午前ニ渋沢男爵ガ出席セラレマシタガ、同男爵ハ北米合衆国ヲ廻ハラレテ段々排日問題ノコトトカ、或ハ経済上ノ問題ナドニ就イテ尠カラヌ労ヲ執ツテ呉レタノデゴザイマスガ、兎モ角アノ老躯ヲ引提ゲテ斯ウ云フ公共ノ為メニ尽サレタコトハ御互
 - 第33巻 p.111 -ページ画像 
ニ感謝スル所デアリマス、実ハ昨年丁度加州ニ国会ガアリマスル年デアリマシテ、一昨年国会議員ノ改選ノ場合ニ於テ排日論者ノ数ヲ調ベテ見マスト、加州ノ国会議員ノ大多数ハ排日論者デアル、即チ労働者ノ云フコトヲ可トスル方ノ議員ガ大多数ヲ占メテ居ルノデ、非常ニ珍田大使ナドモ心配ヲセラレテ、桑港ノ博覧会ガ開ケ日本ガ出品ヲシテ博覧会中ニ国会ガ開ケテ若シモ排日論ナドヲヤカマシユウ言フテ日本ヲ恥カシメルヤウナコトデモアツタナラバ実ニ日本ノ国民ハ黙ツテハ居ラレナイ、ドンナコトガ出来ルカモ知レナイ、寧ロ博覧会ノ出品ハ考ヘ物デアル、見合シタ方ガ宜カラウト迄、珍田大使カラハ言フテ来ラレタヤウニ私ハ聞イテ居ル、其際ニ内々農商務大臣カラ渋沢男爵ト私ノ両人ニ相談ガアリマシタカラ私共ハサウ云フ場合ニ辟易スル訳ハナイ、出スベキモノハ出シテ置イテ、向フガ悪ケレバ悪イ時分ニコツチガ責メルコトヲシナケレバナラヌ、サウ云フコトヲ前カラ心配シテ貿易上ノ為メニ又巴運河ノ開通祝ノ為メニ開クト云フ此博覧会ハ日本ガ出品セヌト云フコトデハ、同情ヲ寄セテ居ル亜米利加人ノ同情ヲ失フコトニナル、味方ヲモ共ニ合セテ失フト云フ結果ニナルカラ、之レハ如何ナルコトデモヤラナケレバナラヌ、兎モ角モ我ノ為スベキコトハ為シ、然シテ置イテ向フニ無理ナコトガアレバ、コチラカラソレヲ責メルコトニシナケレバナラヌト云フコトヲ以テ、政府ニ勧告ヲシタノデゴザイマス、幸ニ昨年ハソレ程心配シタニモ拘ラズ、其議会ハアリマシタケレドモ排日問題ハ議ニ上ボラズシテ、何事モナク議会ハ終ツタノデゴザイマス、又明後年ノ議会ハドノヤウナ排日問題ヲ出スカモ知レマセヌケレドモ、兎モ角当面ニ於テ米国ノ加州ガ前々来ノ行掛リアルニモ拘ラズ暫クソレヲ止メテ我ニ好意ヲ有ツ以上ハ、コツチカラモ又好意的行動ヲ執ラナケレバナラヌノデアル、此機会ニ於テ宜シク種々ノ尽スベキコトヲ尽シテ置クノガ道デアル、向フガ笑ツテ手ヲ出セバコツチモ笑ツテ手ヲ握ランケレバナラヌ訳デアル、ソレニハドウシテモ渋沢君ニ行ツテ貰ツテ置カネバナラナイ、申セバ誰モ此ノ人ヲ実業界ノ代表者ト云フコトハ異議ハナイガ、選挙ヲ以テスル訳ニハイカヌ、又私ガ専横ニ実業界ノ代表者デアルト極メルコトハ勿論ナイノデアル、唯米国人ガ見テ、肩書ヲ持ツテ居ラヌ人デモアノ人ガ来ルノハ実業界ノ代表者デアル、代表シテ居ル者デアルト、斯ウ向フガ見做シテ相当ナ仕向ヲスル人デナケレバナラヌ、ソレニハ渋沢男爵ニドウシテモ行ツテ貰ハナケレバナラヌ、如何ニモ迷惑千万ナコトハ察セラレルノデゴザイマスケレドモ、之レハ大事ナコトデゴザイマスカラ達ツテ私カラ希望シタノデゴザイマス、幸ニ承知シテ呉レテ行クコトニナツテ、先程御話ニナツタヤウナ次第デゴザイマス、アノ人デゴザイマスカラ余程今度ハ努メテ親切ニ多方面ノ人ニ遇ヒ、前ノ大統領及現大統領ニモ遇フト云フヤウニ、有ラン限リノ有力ナ人ニ遇ツテ来ラレタノデアリマス、私ハ同男爵ガ非常ニ親切ヲ以テ実業界ノ為メニ此労ヲ執ラレタコトヲ衷心感謝シテ居ル、米国デハ商業会議所ノ人ガ表面ノ主ナル待遇者ニナリ、到ル所デ渋沢君ヲ歓迎セラレタノデアリマス、実ハ皆サンニ御諮リヲシマセナンダケレドモ、昨日私カラ渋沢君ノ出席ヲ請フタ所以デアリマス、就キマシテハ米国ナドハ始終商業会
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議所ガ目標ニナツテモ何モ斯モ働キヲシテ居ルノデアリマス、渋沢君ガ今度労ヲ執ツテ呉レマシタニ付テハ、商業会議所ノ代表者ト云フ訳デハ勿論ナイノデゴザイマスケレドモ、事実ニ於テ実業家ノ代表者デゴザイマスカラ、今日ノ聯合会ヲ幸トシテ、諸君ニ私カラ御訴ヘ申シテ、此聯合会ハ渋沢君ノ尽サレタ労ヲ多トシ感謝スルコトヲ諸君ニ御諮リ申シマス、御異存ナケレバ聯合会ノ決議トシテ、渋沢君ヘ感謝ノ意ヲ致シタラドウデゴザイマセウ
  〔「賛成、賛成」ト呼ブ者アリ〕
○会長(東京、中野武営君)ソレナラバ此聯合会ハ、渋沢男爵ガ渡米セラレテ、国交ノ親善、貿易経済関係ノ密接ヲ計ルニ努メラレタト云フコトヲ深ク多トシ、聯合会ノ決議ヲ以テ感謝ノ意ヲ表スル、斯ウ云フ御決議ヲ玆デナサツタトシテ、渋沢君ヘ其意ヲ致シテ宜シウゴザイマスカ
  「「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕


竜門雑誌 第三三三号・第八四頁 大正五年二月 大隈首相の招待会(DK330006k-0009)
第33巻 p.112 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第八四頁 大正五年二月
○大隈首相の招待会 大隈首相は一月二十六日午後四時、米国より帰朝せる青淵先生を主賓とし、米国大使ガスリー氏を始め、各国務大臣貴衆両院議員・外交官・学者・実業家百余名を陪賓として、永田町首相官邸に於て晩餐会を催せり。食後大隈首相は起ちて先づ来会者の労を謝し、次いで主賓青淵先生が渡米の目的を達して、無事帰朝せられたるは、国家の為め敬賀に堪えずとて、盃を挙げて先生の健康を祝するや、青淵先生には謙譲なる態度にて、首相の厚意を謝したる後、滞米中各市視察の情況を縷陳し、終りに盃を挙げて首相の健康を祝して之れに酬ひ、米国大使ガスリー氏亦起ちて、謹厳なる口調もて、渋沢男今次の渡米は日米国交上に、通商上に裨益する所尠少に非ず、将来彼我国交の益々親善ならむことを望むと述べ、夫より別室に於て歓談を交へて午後八時過散会せるよし。


中外商業新報 第一〇六九七号 大正五年一月二七日 ○首相邸晩餐会 新帰朝の渋沢男外 知名の実業家招待(DK330006k-0010)
第33巻 p.112-113 ページ画像

中外商業新報 第一〇六九七号 大正五年一月二七日
    ○首相邸晩餐会
      新帰朝の渋沢男外
      知名の実業家招待
大隈首相は、過般桑港博覧会参観を機として日米親善に資す可く同国各地を巡遊して帰朝せる渋沢栄一男の労を多とし、歓迎慰労の意を表する為め、廿六日午後四時男を正賓とし、兼て朝野知名の士を官邸に招待して晩餐会を開きたるが、米国大使ガスリー氏を始め、各国務大臣・枢密院議員・衆議院正副議長・貴衆両院議員・官吏・実業家・学者及米友協会の主なる人々百余名出席せり、先づ階下大広間に於て、大隈首相は起つて来賓に挨拶の辞を述べ、渋沢男が渡米の目的を達して無事帰朝せられたるを賀し、日米親善の上に多大の効果ありし事を謝し、且つ桑港博覧会関係者に対する慰労の挨拶を述べ、次で渋沢男は首相の丁重なる厚意を謝したる上、滞米中に於ける視察の結果及所感を陳べ、日本に於ては桑港博覧会の日本出品を不評なりしとの噂あ
 - 第33巻 p.113 -ページ画像 
るに拘らず、彼地に於て実地視察したる所にては、左る事実を見聞せざりし事、及日米両国民の関係に就ては、彼地の識者間にも労働問題等の為めに双方国民の間に誤解あるを甚だ遺憾なりとし、衷心改善の方法を尽す可しと為すもの多かりし事等、有益なる談話ありて、別室の食堂に移り、主客歓談を交へ、宴後更に談話室に入りて八時散会したるが、当日は大隈首相の外、江木翰長、大隈・山崎・前田秘書官、及内閣各書記官等も主人側として斡旋の労を取れるが、出席者は前記の外左の諸氏を始め百余名なりき
 島田議長・早速副議長・瓜生桑博総裁・山脇事務官長・金子子・団琢磨・早川千吉郎・有賀長文・安田善三郎・浅野総一郎・中野武営 大倉喜八郎男・加藤正義・近藤廉平男・須田利信・松方巌・豊川良平・水野日銀副総裁・志村興銀頭取・馬越恭平・服部金太郎・日比谷平左衛門・和田豊治・末延道成・郷誠之助男・大橋新太郎・阿部泰蔵・高松豊吉・藤山雷太・田中平八・柿沼谷蔵・小野金六・菊地長四郎・星野錫・堀越善重郎・木村清四郎・吉井友兄・土方久徴・渡辺千春・福井菊三郎・藤瀬政次郎・白石直治・藤原銀次郎・小野英二郎・武藤山治・山川勇木・成瀬正恭・鈴木総兵衛・荘田平五郎 三村君平・今村繁三・原富太郎・若尾幾造・茂木惣兵衛・増田増蔵 安部幸兵衛・桑田熊蔵・菊地大麓男・新渡戸博士・姉崎博士・武井守正男・阪谷芳郎男・下条正雄・古市公威・穂積陳重男・小田切万寿之助・岡部長職子・高橋是清男・栗野慎一郎子・元田肇


竜門雑誌 第三三四号・第二二―四二頁 大正五年三月 ○米国帰朝談 青淵先生(DK330006k-0011)
第33巻 p.113-128 ページ画像

竜門雑誌 第三三四号・第二二―四二頁 大正五年三月
    ○米国帰朝談
                      青淵先生
  本篇は、大正五年一月二十六日内閣総理大臣大隈伯爵が官邸に於て開催せられたる青淵先生帰朝歓迎晩餐会席上に於ける、青淵先生の演説速記なり(編者識)
 総理大臣閣下、満場の閣下、諸君、昨年の十月私が米国に旅行を致したことが、図らすも政治界・実業界の御認め下さる所となつて、今夕而かも大隈総理大臣の官邸に於て、斯く政治家・実業家諸君御多数の御打揃ひの所で、此旅行談を申上げると云ふことは、殆んど望外と言はうか、実に夢想だも思ひ設けぬことで、私一身の名誉余りありて却て恐縮いたす次第でございます、去ながら過日大隈伯爵に御目に掛つた時に、一日の旅行の談話を自分も聴かう、又同志の人々を集めて聞かせるやうにしたいと云ふ仰せでございましたから、到底利益ある御話は申上げ得られませぬけれども、米国各地にて行動せし経過顛末を申上げて、其先きは宜しく御諒察を願ふと云ふことに致したい、私に於ては唯自己の一分を尽したに過ぎませぬのですから、どうぞ左様御了承を願ひたい、但し御沙汰次第何時でも悦むで参上致すと御受けをして、即ち今日此御席に罷出でた訳でございます。
 元来私が亜米利加旅行を思立ちましたのは、昨年の春の頃と思ひますが、今日も御出席になつて居ります中野武営君が東京商業会議所の会頭として、私に桑港博覧会見物の為め米国へ旅行したら宜からうと
 - 第33巻 p.114 -ページ画像 
云ふ勧誘がございました、此話は畢竟桑港の博覧会を、日本の実業界でも注目して居ると云ふ事を、米国人へ知らしめたいと云ふ意念から起つたのであります、又明治四十二年に亜米利加の商工業者から、近頃稀に見る処の方法を以て、我実業界の多人数を招いて呉れましたが蓋し其目的は日米両国の親善にあつて、而して其結果が有効であつたか、なかつたかは分りませぬ、何れにせよ、夫れなりで謝辞も述べぬと云ふのは、私に於ても少し物足らぬやうに感じ居りました、故に聊か時候後れの挨拶ではありますけれども、一度参つて各地方の重立つた人々に有難かつたと言ふは、相当の礼儀ではなからうか、詰りそれらが米国旅行を為すに至つた重もなる理由でございました、但し私がさう云ふ位地に立つべき身柄であるか、又立たねばならぬのであらうかと云ふことを自問自答して、甚だ迷つて居りました、然るに八月の初めに至つて、旅行したが宜からうと思ひ定めた理由と云ふは、桑港に於て亜米利加側の人々から、日米の関係に就いて随時協議をする処の一会を組織しやうといふ一案が生じた、それは余りに多数の人でなく、二十名乃至二十五名位で、さうして其会員の資格は、官といはず民といはず、政治家も学者も実業家も打混じたる一会としたい、同時に日本に於ても同様の組織にて一会を起し、此両会が互に其意見を交換し、常に両国間の事物に注意して、綿密に之れを調査講究し、時には双方より人を往復せしめて情意を貫通し、万一両国間に事有る場合には、十分に其事情を審査して意見を討議確定し、適当と思ふ場合にはこれを世間に発表しやう、但し亜米利加側と日本側との意見に相違ある時には、成るべくこれを協商し、若しも一致せざることあるも之を捨置かず、各是と信ずる所に依つて行動しやう、斯る趣意を以て桑港に一会を起したいが、日本にも同様の設立を企望するといふ照会が其筋にあつたと聞きまして、私は至極宜い方法と思ひました、適当なる人柄で桑港にさう云ふ組織が出来るならば、夫れと相応はしい一会を東京にも組立てゝ、相共に意見を交換し、或る場合には彼が是とする所を我は非とすることもあるか知れませぬが、各自公平無私の心を以て相論じ、其一致した意見を以て、双方の政治又は社会に向つてこれを発表すると云ふことは、頗る有益であらうと考へましたから、勉めて之れを成立せしめたいと思ひました、併しそれとても、私が主として其設立に任ぜなければならぬと云ふやうには思ひませなんだけれども、従来の行掛りより、烏滸ケ間敷くも自から進んで是等の事に参加して居ります為に、既に両国の親善に有益なりと思ふ以上は、自身彼地に到りて桑港の諸君の考案も能く聞いて見たいと思ひました、更にもう一つ思ひ起したのは、一昨年来の欧洲の戦乱が、当初には亜米利加も大分に打撃を受けたやうであつたけれども、事態追々に変化して、今日は亜米利加の商工業界は、旭日昇天とも云ふべく駸々と進む勢を有つて居る、此終局が如何に成り行くであらうか、又其進歩の結果が何処へ発展するかと云ふことに付ては、私一身は今老衰して、実業界に有力なる働はなし得られぬにもせよ、どうやら東洋の事業界に於て、第二の苦心をせねばならぬかと云ふ憂慮も生じました、付ては其発展の実際を見ると同時に、米国東部の有力な人々、即ち紐育に於
 - 第33巻 p.115 -ページ画像 
ける銀行会社等の重立たる紳士の意見を叩いて見るも無用なことではなからうと思ひまして、是等二三の企望が、私の米国旅行をしたが宜からうと思ひ定めた原因をなしたのでございます。
 私の今回の旅行の目的は斯る趣意であると申すことを、十月二十三日に春洋丸に乗組みまして、十一月の八日に桑港に着する間に、幸に船が静かでございました為に、拙文ながら自分で筆を取つて所謂宣言書とも云ふべきものを作りました、それは当時日本にも送りましたから、或は一二の新聞で記載して呉れたかも知れませぬが、此所にも持参して居ります、亜米利加人に向つて発表した趣意は此宣言書の通りでございますが、自分の心に期待したのは、前に申上げた二つのことが最も必要と感じて、即ち私の心が私の老躯をして此旅行をなさしめたのでございます。
 去ながら、言語も通ぜず、学問もなく、力も微弱である処の此老衰の身体を以て、何等得る所はなからうと云ふことは、予ねての覚悟でありましたが、せめては此老婆心が米国各地の人々に通じて、奇特なるものだと思はれる丈けでも、満更無駄でもなからうかといふ心得で発足したのでありますから、彼の地に於る旅行の経過が、仮令有効と申上げられぬまでも、自分としては決して不足とは思ひませぬ、若し果して唯今総理大臣の仰の如く聊かたりとも効果ありとせば、夫は望外の幸でございます、殊に今夕私の旅行談を斯の如き多数の閣下・諸君が御聞き下さると云ふことは、実に容易ならぬことと感佩致すのみならず、既に幾分の効果ある如き感を生ずるのであります、申上げたいことが数多くございますから、少し御退屈であらうとは存じますけれども、旅行の順序を追ふて申上げざるを得ないと考へます、故に中には無用な事がありませうけれども、暫時御清聴を煩はしたいと考へます。
 十月二十三日に横浜を立つて、途中布哇に於て日米両国人間の関係も承はりましたが、喋々申上げる程の事はございませぬ、桑港へ着したのは十一月の八日の夜でありました、翌九日には先づ桑港博覧会見物に一日を費し、十日は遥に本邦の御大典を奉祝する為に其用務で終日奔走しました、十一日には前に申上げました桑港に設立されたる日米関係委員と云ふ一団体の評議会が、商業会議所で催されました、当日会同した米国人の名前は悉く記録して参りましたが、布哇に於て砂糖の業を盛大に経営して居るアレキサンダー氏と云ふ人が座長で、商業会議所会頭モーア氏、博覧会副総裁ヘール氏、加州大学総長のホイラー氏、それからキヤピテン・ダラー氏、シヤトル市より来会せしローマン氏、博士ガイ氏等、都合十九名の集会でありました、之れに、私を始として日本人が六名であつたと思ひます、此日の集会は、詰り桑港の人々から、日米関係委員会を造ることが必要だと思つて当地では其相談が略々熟して居るが、日本に於ても同意し得るや、果して同意ならば東京にも同様のものを組織するか、而して此委員会は詰り加州に関する日米関係の事が主となると思ふに付ては、現在の加州移民に関して日本国民の輿論はどの辺にあるか、又渋沢の希望する所は何れにあるか、米国人の考案も腹蔵なく言ふが宜いと思ふけれども、日
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本側の希望を成る丈け詳知して、相互の間に斯う云ふ意見があると云ふ要点を知つて、其解決を企図するやうにしたい、而して今日の一会は双方の意志交換会と云ふて宜からうと思ふと云ふことで、来会米国人にも段々其意見を述べる人がございました、結局私にも腹蔵のない意見を陳述せよと云ふことになりましたから、私は其席に於て遠慮なく愚見を申述べたのでございます、但し日本の輿論として玆に陳述することは出来ぬ、詰り渋沢の意見を述べるより外ないのである、自己の想像上より、日本の多数の意見は斯様であらうと信ずる所を申すのである、他日或は之れよりも低度に論ずる人もあらう、又或は多きを望む人もあらう、それに依つて私の意見の相違とは言ふて下さるな、私は今日自己の信ずる所を申すのである、而して私自身には之れを輿論と思ふけれども、屹度確めると云ふことは甚だ難いことであるから夫れ丈けは能く御了解下さいと云ふ前提を以て、加州移民に付ての問題を論じましたのであります。
 元来此移民に対して、加州の人々が迷惑を感ずると云ふことは、我我甚だ了解に苦しむ、又現に亜米利加にある日本移民に対して、欧羅巴人の待遇と差別あると云ふことはどうしても日本人として堪へ難き事である、日本は亜米利加の勧誘に依つて世界に顔を出したと云ふ深き縁故がある、而して亜米利加は飽までも正義人道を重むじて、世界の人民一様に待遇するを以て主義として居らる、然るに今日加州方面に於て、経済上の関係から、日本より移住する労働者を排斥し、之れに差別的待遇をすると云ふことは、我々の真に了解し得ぬ点である、日本国民の多数は皆亜米利加を尊敬して居る、其亜米利加は建国以来常に道理を重むじ仁義を貴ぶ国である、此道義に明い国民が、縁故深い日本移民に対して斯く不公平の処置に出るかと考へると云ふことは勢ひ不平を言はざるを得ぬ、即ち差別的待遇に対して日本国民はどうも満足出来ぬ、同意を表し兼ねると云ふことを能く理解して貰ひたい去りながら日本人は常に忠恕の心掛ありて、他人の迷惑を構はぬと云ふやうな無情の国民ではありませぬ、又国の法律制度には服従する人民であります、故に現に移住し居る同胞中に、亜米利加の風習に同化せぬ者があるとか、若くは迷惑になると云ふやうな事に付ては、勉めて其匡正に尽力して居る、又日本政府は両国間に成立つた所の紳士協約と云ふものを固く守つて居ると同時に、国民に於ても其希望は兎も角も、所謂国法には十分に従はなければならぬと思ふて居る、故に今日の所では最早移民問題は過去となつたと云ふてもよい、然るに現在の移住民に向つて尚ほ差別的待遇を加へると云ふことは、我々の不快に感ぜざるを得ぬのであります、要するに我々日本人は、亜米利加の迷惑は構はぬなどゝ云ふ考案は微塵もない、又我政府の定めたる法令には、完全に服従しなければならぬと思つて居る、但し現在の移民が亜米利加人たり得る人は勿論、縦しや亜米利加人となり得ぬ人々に対しても、欧羅巴移民と同じ待遇をせらるゝことを希望するのである、之れが私の亜米利加の御人に対して希望する要旨であると云ふことを申述べました。
 此演説に対しては、経済問題として他の移民との関係上地方的に生
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ずる処置であるから、日本人が余りに苦情を言ふて呉れては困ると云ふ弁解的の意見を述べた人はあつたが、私の説には全然同意とは言はぬでも、我々は反対だと云ふ駁撃的の議論は聞へませぬでした、加州大学総長のホイラー氏などは何も意見は述べませぬ、又商業会議所会頭モーア氏は私の演説に同意を表されました、ガイ博士は曾て日本に学校を立てたこともあつて、日本の国情に通じた人であるから、全然同意と申されました、其他二三の人々も各其意見を述べましたが、之れは討論会ではない、所謂意志の交換会でありましたから、二時間余で打切りました、之で双方の大趣意は分つたから、米国側は此手続を以て委員会を成立しやうと云ふことになり、日本でも同様のものを組織し、将来追々に生じて来る問題毎に双方の意見を交換することゝなし、尚詳細の手続は、私が東部を巡廻して再び桑港に帰つて来た時に取極めるとして、夫れから午餐会となつたのであります、此午餐会は所謂歓迎と云ふ意味の演説やら、又私の先年の旅行に付て優待せられたる謝意の演説やらで終りを告げました。
 加州移民に対して最も注意すべき事柄として、桑港に於ける十一日の日米関係委員の会合は、前に申述べました如く、先づ私の意見は同志者間には徹底したやうに見へました、併し何分突飛な事の多い地方でございまするし、殊に新聞社も丸で黒白相容れぬのがありまして、彼のハーストと云ふ人の主宰して居る日本反対の新聞抔は、殊更に構へて種々なる難題を申掛け、私の毫も知らぬ事柄を渋沢は斯う云ふたとて、其管理するエキザミナーと云ふ新聞に掲載しましたのみならず色々の疑問を提出して之れに向つて答をせよと云ふ、私は日々多忙であるから、右等不急の質問には答は出来ぬと言ひましたら、彼れは答の出来ぬのは不親切であるといふて頻りに誹謗しました、又私がオークランドの日曜学校へ行くことを約して、其時刻が遅延した為めに、日本人は約束が固くないと云ふ攻撃を受けました、右様なる妨害はありましたけれども、大体に於ては公平の意志、正当の考案を以て論ずる人は、余り反対は唱へなかつたと思ひます。
 それから続いて申上げまするのは、翌十二日に桑港博覧会の会場に於て特に私に対する午餐会がありましたことであります、今夕御列席の山脇君も当日其宴会に出席されましたが、元来私は此博覧会へ日本人が来て参観したと云ふ声を高めたいと思ひ居ましたのに、先方もそれに応ずるやうな方法で、会場に於て盛宴を張つて、参観しました私に会社の総裁より謝礼の演説をせられたのであります、此時の総裁モーア氏の言葉は、私に対しても種々なる褒め言葉がありましたが、より以上日本に対して謝意を表された、詰り此博覧会が斯の如く成功したのも、帝国が参加して呉れたと云ふことが与つて力ある、之れは衷心からさう思つて居るといふて、余程深厚の意味を以て謝辞を述べました、此事に就いては山脇君から必らず当局に申上げたと思ひますから、私が喋々するは無用に属しますが、総裁の演説中に、此博覧会へ帝国から出品するといふに就いて、日本には種々の説があつたとの事であるが、渋沢君は当初より出品の賛成者の一人であつたとの事である、而して今日あるを致したのは、実に此博覧会としては大いに日本
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政府に対し、日本国民に対して厚く謝意を表すると共に、今日参観された渋沢君に対しても謝意を述べる必要があり、斯くするのは私の愉快とする所であると迄申されました、故に当初から博覧会に対して今回の旅行を勧誘された中野会頭の御言葉は、果して夫れ程の価値あるものと見られたか否は分りませぬけれども、此博覧会会場に於て、其局に当る者から前に述べたる如き謝辞を受けましては、聊かながら其効ありと申上げて宜からうと思ひます。
 博覧会の成績が如何であつたかと云ふことは、山脇君が御詳しうございますから、私が申上げるのは無用の弁ですが一応申上げます、日本では、失敗に終つたとか或は不出来であつたとか云ふやうな評判も間々あるやうですが、私は此博覧会は失敗所ではない、相当なる効果を奏したと申して宜しいやうに思ひます、入場者も沢山にあつたのでございます、唯余興の設備は大いに失敗しました、之れは如何なる理由で失敗したのであるか、本館には相当の入場者があつて余興場が何故に失敗したかと云ふ其理由は、能く見出すことは出来ませぬ、之れに就いての説明は為し得ませぬが、失敗は事実であります。
 更に一つ申上げたいことは、桑港の博覧会を機会として労働組合の大会が桑港に開かれました、此事に就いては、昨年の春シユヱラー・マシユース、シドニー・ギユリツクと云ふ両博士が、宗教家の代表者として米国より日本に参られまして、其機にギユリツク博士は、日本から労働者の代表者を桑港に開かるゝ大会に臨席するやうにしたならば、労働者間の情意が融和して来るだらう、労働者の情意が融和すれば、自然と根本の解決が出来て、加州の移民問題が無くなるであらうと思ふ、故に労働大会に日本より誰か参列させたいものである、併し折角出張しても、其大会で受けぬやうでは困ると思つたから、桑港方面の幹事たるシヤーレンベルグ氏と云ふ人と相談して置いた、同氏の意見は、日本から正当の手続にて来たら受けてやらうと云ふことであつたから、是非日本からも代表者を出したいものだと云ふギユリツク博士の意見でありましたが、同博士の推薦で、友愛会の会長鈴木文治及同会の幹事吉松貞弥の両氏が、七月頃、亜米利加へ立つて行きました、但し桑港に開かれる労働大会は十一月でありますけれども、其前に米国の各地を巡遊し幾分の調べもしたいと云ふので、両人は早く立つて参つたのであります、此事は敢て私の主として関係したる仕事ではございませぬけれども、幸に此労働大会に両人が出席するを得て、日本の労働者は斯う云ふものだと認められたならば、相互の情意が融和するだらうと思ひましたから、どうぞ都合よく往けかしと、心窃に希望して居りました。
 私は先にも申上げました通り、十一月八日桑港に到着しましたが、折柄米国労働党の首領たる華盛頓のゴンパースと云ふ人が、労働大会に出席の為に桑港へ出て参りました、恰好の機会であるから、是等の人々と私が会見したら宜からうと云ふので、彼の地で馬鈴薯を沢山作つて居るポテト・キングと称されて居る牛島謹爾氏が主催者となり、其ゴンパース氏及シヤーレンベルグ氏、鈴木・吉松両氏などを案内して晩餐会を開き、私も其会へ出席しました、其席に於て私はゴンパー
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ス氏と相接近して、亜米利加に於ける労働組合は如何なる順序から起つたか、現に如何なる運びをなして居るか、労働者と資本家との関係は如何であるか、又此労働者の処置に就いて、日本では今日工場法を制定しつゝあると云ふことを、種々質問談論して腹蔵なき意見を取換はせて見ました、此ゴンパース氏と云ふ人は七十に近い老人にて、元来の労働者で今も労働者と称へて居りますが、併し米国労働組合の総長として相当の報酬を受けて居りますから、立派な紳士たる位置を保つて居るのでございます、且段々と談話をして見ると、立派な学問をした人ではない様でありますが、資本と労働との関係は斯様である、又労働者自身は如何に考へなければならぬ抔と云ふ論理は、全く学者の論ずる所、政治家の考へる所と、余り差はない丈けの知識も有つて居り、論理もちやんと立つて居るので、亜米利加の労働者は見上げたものだと私は感じました、日本にも労働者であれ位に事物を理解して居るものが、或はあるかも知れませぬが、日本では学問の仕組が違うのかして、全く学問なくして成立つた人は、例せば定石を稽古せぬ碁の様な者で、其処置は巧妙であるけれ共、何となく筋が立たぬと云ふ嫌ひがある様に見へます、然るに亜米利加の無学と云ふては悪いが、本式の学問をせぬ、所謂帝国大学を卒業せずして成立つた人は、偉くなる程帝国大学の大学者と違はぬやうな意見を述べるのである、之はどう云ふ訳でありませうか、序乍ら玆に一言して、将来学者先生方の御研究を願ひたいと思ひます、例へば彼の有名なるカーネギー氏、ゼームス・ヒル氏又はワナメーカー氏の如き、是等は学問素養の少ない偉い人であります、日本にも学問のない偉い人が沢山ありますが、どうも学問のない人と学問のある人とは心持が違ふやうであるが、米国では学問のない人と学問のある人との論旨が一致するやうに見える、是は何に原因するかと私は疑を抱いて居ります、余談ではありますけれども、ゴンパース氏との会見から此疑を申添へて、諸君に宜しく御研究を請ひたいと思ひます。
 ゴンパース氏との会見は、幾分か効能があつたやうに思ひましたのは、初め彼は私に遇ふのを余程忌やであつたと見へて、八時半から前約があるから長い話は困ると言ふて居りました、然るに私と談話をして居る内に、もう九時になつても十時になつても、却々帰らぬと云ふ有様で、終ひには自から立つて食卓演説をして、頻りに愉快さうに見えましたが、之れは何でも私のことを、亜米利加では大富豪と間違へて居る、日本のモルガンなどゝ言つて居る、右等のことからゴンパース氏は、金持は何でも我儘なものだと見ずに嫌つて居つた処が、少しく見当違ひで、矢張り我々の情を能く酌取つて呉れると思はれたか、そこは私の己惚かも知れませぬが、何に致せ、初めは拠所なく遇ふと云ふやうな態度であつたが、段々話す間に、イヤ之れも人間だ、さう筋の分らぬものではないと云ふ位に、相互に思ひ合ふと云ふやうな次第でありました、而して其事に多少の関係を以てか、鈴木文治・吉松貞弥の両人は、都合能く労働大会の正会員となり、相当の待遇を受けるやうになつたのであります、之れは唯労働大会に日本人も参加したに過ぎませぬから、夫れに就いて大いなる効果があらうとは思ひませ
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ぬ、去ながら追々亜米利加の労働者が、日本の労働者に対して相反目せぬやうになつて呉れゝば、労働問題に就いて物議の根本は消滅するであらう、根本が消滅すれば、之れに対する誤解は無くなるであらうと思ひますから、是等のことも、決して無用ではなからうと想像致すのであります。
 前に述べたる外にも、桑港に於る行動は、毎度博覧会に臨場したとか、或は他の内外人に招かれて饗応を受けたと云ふことはございましたが、重もなる事項は前述の通でございまして、十一月十五日に桑港を出立して北部の方へ参りました、オレゴン州ではポートランド市、又ワシントン州ではシヤトル市を訪問致しました、併しポートランド市にては、先年渡米実業団長として参つた時にクラーク氏と云ふ人に種々親切なる待遇を受けましたから、同氏に面会して謝意を述べましたが、時間がなかつた為に、午前八時頃に朝飯の饗宴を受けて直ぐ出立すると云ふやうな有様でありました、シヤトル市にてはローマン氏ブレイン氏・前判事バーク氏・トリート氏など云ふ人々が、先年も我物の如くに実業団を世話して呉れまして、実に到らざる所なく懇切を尽して呉れたのであります、是等に対しては厚く礼を言はなければならぬと思つて、当時の一同を代表致して、能く謝意を申し述べましたが、御礼を言ふと、又御馳走になるから、到底際限のなきことであるといふて、主賓一同大笑を致しました、同市には二泊して、諸氏の宅をも訪問致し、又日本人会の諸君にも饗宴を受け、色々と談話を交換しましたが、此所では居留民に物議もなく、労働者に付ても問題はないが、中に幾らか変つた事柄に付ては其談話を致し、且つ状況を報告して呉れたのであります。
 それからシカゴへ参る間は、丁度三日三夜でありますが、其途中四ケ所か五ケ所の停車場に、其地方在留の同胞が私の旅行を聞きて旅情を慰めて、一言の謝辞を述べるとて、菊の花の数枝或は林檎抔を袋へ入れて来訪して呉れました、それも夜寒い時分に、小供などを連れて来て私を送迎して呉れましたが、私は真に其熱情に感じて暗涙を催しました、シカゴ市に於る行動には特に御報道申上げることはございませぬ、唯日曜学校の次回大会が平和克復後日本に開かれると云ふことに付いては、日本の宗教家諸君と御話合をして居りました、又大隈伯爵が其後援会と云ふものを組立てられ、私共も驥尾に付いて、此御集まりの中にも大分後援会の会員たることを御勧め致して、忌やだと思召してござるかも知らんが、御承知下さつた御方も大分あらつしやるやうであります、故に此大会のことを、此場合に一寸申上げて置くも無用の弁ではなからうと思ひますが、シカゴ市には、其日曜学校に関係の人々が大分ございます、昨年の春日本へ参つたシユヱラー・マシウス博士は、シカゴ大学神学科の学長をして居られます、是等の人々が申合せて一日案内をして呉れまして、日曜学校関係のことに付いて談話を致しました、又シカゴ大学の総長ヂヤツドソン博士からレセプシヨンを開かれまして、叮嚀なる待遇を受けました、此ヂヤツドソン博士は、先年日本へ参つた節に大隈伯には種々御厄介になつたから、帰国の後どうか厚く御礼を申上げるやうにと云ふ伝言も受けましてご
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ざいます、序ながら其事を申上げます。
 渡米実業団が先年参つて世話になつた人で、スキンナー氏と云ふ人は、今は商工組合の会長をしては居りませぬけれども、先年の関係上商工業者の方面へ心配して呉れまして、一日盛大なる午餐会を開いて呉れました、シカゴ市に於ける第一国立銀行総裁はフオーガン氏と云ふ人で、其副総裁はアーノルド氏と云ふ人である、此銀行は先年参つた時分に訪問して、銀行の仕組も聞き取り、其活動振も承知して居ります、又両氏とも知り合の間柄でありますから、現に亜米利加に於て一昨年新設せられた所の聯合準備銀行、即ちフヱデラル・レザーブ・バンクの事に付いて、出立前に大蔵省の菅原次官、又横浜正金銀行頭取の井上君から、出来得る限り現状を査察し、将来の成行をも研究して見るやうにと云ふ御嘱託もありました、其細い手続は、井上君の好意に依つて取調べられた覚書をも所持して居りましたから、船中で其書き物に依つて、聯合準備銀行の組織は斯様である、其働きは如何であると云ふことは、極く詳細には分りませぬけれども、大要は理解し得た、而して其中には多少の疑問があつた為に、寧ろ紐育よりはシカゴ市にて此疑問を訊して見たら、幾分の要領を得られはしないかと思ひまして、同銀行のアーノルド氏に就いて種々質問して見ましたが、私は此の聯合準備銀行の創設は、米国に於いても金融の統一は必要だと云ふことを認識せられ、段々議論の末、中央制度を採用せられたのであるけれども、全然中央集権にするは各地方の利害関係上不可能と云ふので、之れを折衷して今の聯合準備銀行と云ふものが出来たのであると思ふ、而して現今の国立銀行は、一八六〇年の制度に依つて創立されたもので、爾来全く地方分権制度で経営して居らるゝ故に、万一恐慌の場合には中央統一を欠く為めに、非常に困ると云ふのが、亜米利加の金融界の弊害である、之れを統一せしむるには中心力がなければならぬ、中心力を造るには、中央に一大銀行を創立しなければならない、さうすると、又中央集権の弊を生ずると、彼此討論審査の末に、此中央銀行的の銀行を各所に造ることゝなりて、其銀行を十二箇所に分けられた、紐育、シカゴ、フヒラデルヒヤ、ボストン、桑港、セントルイス、ミネヤポリス、カンサスシチー、まだ三四所ございます、悉く覚へて居りませぬが、都合十二に分つて、之れに依つて中央の働きをさせやうと云ふのであります、而して其中心力は、ワシントン府の大蔵省に一の中央局を置いて連絡を取れば全く一になる、一になつても事実が各地に散在して中央集権の弊を防ぎ、而して又統一の働きをもなし得ると云ふ方法と認めます、就て私の疑問とする処は、第一に此方法によりて統一すると云ふけれども、既に十二に分離したる銀行が、事実一に帰する働を為し得るや否や、第二には其十二の銀行が一に帰する為には、総て同一の働きをしなければならぬが、十二のものが同一の働を為し得るは或は不可能の事にして、却て十二同志が相争ふやうなことが生じはせぬか、第三には此十二の銀行の資本家は誰であるかと云ふと、地方に散在する所の国立銀行である、故に日常の営業上、準備銀行と株主銀行の間に競争をすることはありはせぬか、此三点が私の見た所では差支が生じはせぬかと思はれるのであり
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ますと、遠慮なくアーノルド氏に聞いて見ますると、氏も結局、此儘で完全に行はれるものとは思ひませぬと答へました、殊に第三問に付いては、現在さう云ふ弊害が現はれて居る、丁度貴下の言ふ通りで、各国立銀行は、自分が造つた準備銀行から得意先へ貸金の競争にて自分が妨害を受ける、之れでは永続きはせぬと言つて居りました、一体此十二の準備銀行が皆一般に個人との取引をすることに定められて居る、而して、其銀行の利益も六分の配当以外は国の収入となるのである、斯様な到度であるから、之れは到底再応の修正を要するものと想像しましたが、果して将来益々都合能く進行して私の鑑定違ひとなるか、是等は一の疑問でありますが、何れ其内に尚ほ真相が分ることゝ思ひます、其後に紐育に参つて、紐育の準備銀行の総裁たるストロングと云ふ人に面会して、同じ問題を以て問ふて見ましたが、ストロング氏はアーノルド氏のやうには申しませぬ、併し極言すれば、そんな心配はないとは言はぬので、多少不便はあるが、私は中央局へ参つて時々相当なる協議をします、将来幾分の面倒が生ずるかも知らんが、蓋し面倒は仕事の上には免がれぬことであるから、追々に宜くなるであらうと思ひますと云ふ、弁解的の答がありました、シカゴに於ける問答は実際的で、紐育に於けるのは形式的であつたと私は解釈しましたが、何れが真理であるか、将来どうなるかと云ふことは、能く注意すべきものと思ひましたのでございます。
 ピツツバーグ市、フヒラデルフヒヤ市等にては、他日日本に開くことになつて居る日曜学校の世界大会のことに付いて、ハインツ氏及びワナメーカー氏に会見致しました、此ハインツ氏は、一昨々年日曜学校のことに付いて欧羅巴へ行く途中日本へ参りまして、伯爵のお邸へも罷出でました、只今ヂヤツドソン博士の御言伝を申上げたと同じやうに、厚く御礼を申し呉れろと云ふ言伝を受けましてございます、偖右の両氏に会見しましてから、私が一種異様に感じたのは、此ハインツ氏の業体は頗る通俗的である、蔬菜・果物抔の鑵詰類を経営して居る、又ワナメーカー氏はデパートメント・ストーアの主人であつて、孰れも有名な人々であるが、両氏共に平素哲学的素養のある事も聞きませぬが、日曜学校に就ては熱心に骨を折つて居る、故に外見からは何だか一の名聞にして商売の助けにするのではないかと邪推されるやうであるが、段々様子を見ると、此両氏の精神と云ふものは真に敬服の至りで、全く日曜学校に就いては、宗教家以上の信念を有つて尽力して居るのであります、私は我邦に於ける次回大会の際、大勢の会員に来られては其接待に困ると思ひます故に、余り多数の人が来ぬやうにして貰ひたい、又大船の雇入が出来ぬと陸上のみでは宿泊に困る、殊に亜米利加の婦人達は随分我儘であるから、その我儘は諸君が慰撫して呉れなくてはならぬ、準備不充分で此方は手落があつても成る丈け諒恕して、苦情不平は言はぬやうにして貰ひたいと言ひましたら、両氏とも頗る熱心でありますから、夫れしきのことはどうでも宜いが先づ第一に、貴下が之れに関係する真意は如何と云ふ質問を起されました、そこで私の答へますには、自己は耶蘇教も仏教も奉ぜぬ故に、宗教上からの信念ではないが、併し人は自己の為めにのみ生くべきも
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のでないと云ふことは東洋哲学で深く感じて居る、其点に付いては、耶蘇教の趣旨と殆んど同一であらうと思ふと云ふ話をしました、此談話からして所謂精神相感とでも申しましようか、両老人ともに愉快なる会話をしました、但しワナメーカー氏は七十九歳、ハインツ氏は七十四五歳であります、殊にハインツ氏は自宅で鄭重なる晩餐会を催して、二十人余の親友を集めて会食せしめ、食後別席に於て十人ばかりの演説がありました、来会者の中に、彼の独逸から九十三名の学者が連署して亜米利加に送られた宣言書に対して答へられたるピツツバーグ市カーネギー協会々長チヤーチ氏も居られました、此独逸学者が連署して亜米利加に送つた書面の趣意は、今度の戦争の起原は、独逸としては余儀ない場合に於て立つたのだ、決して自己から求めたものではないと云ふのである、之に対して、チヤーチ氏の答書は、貴下等は左様に言はれても、種々なる公文書、又は事実に就て査察してこれを判断すると、御尤だと聴許することは出来ぬといふ意味であつた、其文章は辞令を巧みに、余程柔らかに書いてありましたが、私は是等の問答を翻訳書で読んで面白く感じて居りました、然るに図らずも其答書の本人たるチヤーチ氏と、ハインツ氏の宅に於て親しく会見して談話を交換する事を得ましたのは、誠に仕合はせでありました。
 ワナメーカー氏は評判の如く有名な人で、フヒラデルフイヤ市に於て宏大なるデパートメント・ストーアを営んで居る、蓋し広告的に商売をする人である、然るに同氏の宗教に対する熱心と云ふものは、実に意外に感じました、同市に滞在の日は日曜に当つたので、会堂へ同行して其説教を聞き、又私も演説をさせられ、終に同氏は立つていとも荘重の態度にて、私に向ふて言はるゝには、先刻来段々宗教上又は社会上の談話を交換して見ると、東洋哲学も耶蘇の教旨も余り相違はないやうであるが、若し違はぬとすれば、之れから貴下に耶蘇信者になることを勧告するとて、聖書一冊を携へ来りて、日曜学校の会堂稠人の中で切実に勧誘せられたには、私も少し閉口しました、此時私の心には、ワナメーカー氏は耶蘇の積極主義によりて、己れの欲する所を人に施すことをせらるゝが、私は又孔夫子の消極主義を以て、己れの欲せざる所人に施す勿れであると答へむと思ひしも、討論となるを恐れ黙止しました。
 ボストン市に参りましては、エリオツト博士に面会しました、博士は大隈伯爵とは別して御懇親の御間柄で、現に各方面に於て相当なる地位を有つて居る人であります、従来博士は帝国が支那に対する施設に就いては、敢て其職でないにせよ、種々なる意見を有つて居る人でございます、又欧洲の戦乱に就いても深く心を労して居るやうに見受けました、博士は私の為に午餐会を開催して、多数の名士に紹介して呉れましたが、其前一時間ばかり、特に時局又は社会の事を談じました、其談話の中に斯う云ふことがございました、之れは政治家ならざる私の言語では、其意見が徹底したかどうか分りませぬが、欧羅巴戦乱に就いて、私はシカゴに於ける集会の演説にも此事を申したのであります、それは此未曾有の大戦乱はいつ平和となるか知り得ぬが、将来東西両洋の真誠の平和を計らうとするには、東洋に於ては日本が盟
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主となつて努力せねばならぬと覚悟して居ります、又西洋に於ては亜米利加が其位地を有つのである、故に日米両国の親善は即ち東西両洋の融和であると思ひますと云ふことを申したのであります、博士へもこれらの趣意からして段々話をしました末に、エリオツト博士は、此戦争は素より平和の早く来るを欲するけれども、段々亜米利加の平和論者が説を立てゝ居るが、私は無理に平和を求めることは寧ろ出来難き事と思ふ、譬へば或る疾病が極度まで往かなければ回復はむづかしいと同じ様なものである、然らば、結局平和は求められないかと云ふと、夫れは必らず遂に平和に帰する、而して其平和は将来に維持する平和たることを希望する、将来に維持する平和たることを希望するとすれば、其終局の要旨は、今戦つて居る数国即ち英吉利を始めとして戦争に参加して居る国々と、亜米利加と此六国が同盟して、世界公海の自由を保護し、嚮後変乱の起らぬやうな仕組を設けなければ、将来の平和を完全にすることは出来ないと言はれました、私は夫れに対して問を掛けて、果して然りとして、現在の亜米利加の政治家が貴説に同意しますかと言ふと、博士はそれは分らぬが、日本が主唱して、英国に正式に参加の勧誘をして欲しい、而して此意見は大隈伯爵に伝言を頼むと申された、私は更に語を継で、自分には十分に理解したと云ふことは出来ませぬが、兎に角貴案は、亜米利加の政治家が至極と思ひますかとの再問に対して、それに付いては確かな答は出来ないとの事でありました、故に私も帰国の後、此御談話を大隈伯爵に報告します、而して今日貴下の御腹蔵なき御考を承知したことを喜びますと云ふ談話を致したのでございます。
 其時に私は斯う云ふことを申しました、米国の東部に参つて見ると欧洲の戦乱は亜米利加に無上の幸福を与へて居るやうである、此商工業の繁盛は何処迄続くか知れぬやうに思はれるが、此結果亜米利加は他に発展をするやうになるであらう、大いに其力を他方に伸ばすやうになるは必然の理である、而して其伸ばす方面は支那であらうと思ふが、日本も従来支那に向つて相当なる力を尽して居る、此間に競争若くは衝突と云ふものが起りはしないかと云ふことを恐れる、貴下は如何に御考なさるゝか、私は大に憂ふるから、紐育へ行つたら実業界の人々と、此事に就いて論じやうと思ふが、貴下は政治家である、学者であるが、其位地から私の此考に対してはどう御判断下さるかと云ふと、博士は尤もだ、実にそれは相当なる御考だと思ふ、之れから私も若し米国の商工業者に会見の機会があつたら務めて注意を与へるやうにしませうと言つて呉れました、エリオツト博士の談話は先づこれ迄でございます。
 紐育へは十一月の三十日に到着して、十二月四日迄居りました、此五日の間に十一月三十日の夜は日本倶楽部の会合でありました、二日目は高峰博士が、紐育の重立つた政治家・学者・実業家等を会して、私の為に盛大なる宴会を開いて呉れました、三日目は正金銀行の一宮氏が午餐会を開いて呉れた、其会には金融界の人々が二十人余り会合致しました、此時に於て欧洲の戦乱より受くる亜米利加の金融界、又商工業者の繁昌のことを、当事者に質問して見ましたが、今其数字を
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挙げて申上げることは出来ませぬけれども、私の前に想像した通りの有様でございます、此夜は日本協会の主催にて、大宴会とレセプシヨンとが開催されまして、来会者男女六七百名を算し、頗る盛会でありました、四日目にはルーズベルト氏が午餐会に招くと云ふことで、オイスター・ベーなる同氏の居宅へ参りました、当日は賓主八人ばかりの小午餐会でございましたが、氏は卒直に自分の意見を述べました、第一に朝鮮の総督の政策が頗る宜しい、恰も始政五年の報告書を見たが、日本は海外の殖民に就ては十分な経験はないやうに思つたが、思ひの外上手に御やりなさると言つて、大に賞賛して居りました、それから日支問題に就いては如何なる意見を有つて居らるゝかと思ふて、無遠慮に問を発して、亜米利加の政治家には大分不平があるか知らぬが、私は政治家ではないから、御心配なく貴案を御示し下さいと云ふて、其意見を叩いて見ましたが、氏は答へて此事は込入つた事柄であるから、卒爾に直ぐ答は出来ない、併し私は斯う云ふことを言ふ、東洋の平和を維持する盟主は日本である、日本の政治家も国民も殆んど自覚して居ると思ふ、又西洋人も其様に承諾して居る、少なくとも私はさう思つて居るから、此見地に居るものと解釈したら、支那に関する意見も、了解し得るであらうと云ふ答でありました、加州移民に対しては、是れから移民を送ると云ふことには反対すると云ふ意味を以て話されましたが、帰化権の問題に就いて問ひましたら、夫れは自分は疾くに熱心に賛成し、先きに大統領の職にありたる際、国会に教書を発して、日本人に帰化権を与ふの至当なる事を勧告したと申して居りました。
 先年私が渡米の時、氏は大統領の職に在りて華盛頓の白堊館で謁見しました時に、開口一番日本の美術と軍隊とを褒めて居りましたから私は揶揄的に、閣下は日本の美術と軍隊とを御褒め下さるが、私は銀行者だから実業家である、日本実業家は次回に参上した時に御褒め言葉を頂く様に致し度思ひますと申しましたら、氏は大に笑つて居られました、依て其話を持出して、十三年前華盛頓にて御目に掛つた時に閣下は、日本の美術と軍隊とを御褒め下さつたから、私は此場合はまだ日本の実業家は御褒め言葉は頂き得ぬと思ふが、此次に御目に掛る時には褒めて頂きたいものであると申したが、今日も褒めて頂く訳にはいかぬのを遺憾としますと申しましたら、彼は先年のことを能く覚へて居りまして、イヤ今日は十分御褒め申すから、さう御承知下さいと言つて、笑つて居りました、併し之れは真実褒めたのか、或は申訳に褒めたのか分りませぬから、実業家諸君は余り褒められたと御自慢下さらぬやうに願ひます。
 ルーズベルト氏との談話は此辺でありまして、此夜は東西通信社の主催にて米国の各新聞社及雑誌社の集会を開かれ、私は其席に於て日米関係に就て、平素の意を演説しました、是は東西通信社の将来に幾分の裨補する処があると信じました、其翌日は紐育の大銀行のヴァンデリツプ氏に面会致しました、之れも午餐会を開くからと云ふて招かれたのでございます、同行者は日本銀行の浜岡五雄氏・今西兼二氏・頭本氏等で、郊外なる同氏の宅で緩々と談話を致しました、其時に氏
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も余程懇切に私を款待せられ、私の申すことには同氏は大体は同意のやうでありました、けれども此は今回組立つたインターナシヨナル・コーポレーシヨンで、戦後欧洲に於ける国債整理の際、大に活動を為し且南米及支那に向つて十分に発展しやうと云ふ考を持つて居られて私が日米商工業者の支那方面に於ける競争衝突を避くる為め、成るべく日米共同の仕事をしなければならぬ、米国人は日本と一緒にやらなければ不利益だと言ふことは、全然同意と言はれない、且つ氏の話の中に斯う云ふ問がございました、それは支那人は日本人に反感を有すと聞けるが、果して然るかと申すのでした、そこで私は先づ支那人の現状を詳叙し、且日米共同と云ふて、私の企望する処は決して漠然たるものではない、現在亜米利加人と日本人と力を合せて経営して居る事業が、着々都合宜く進行して居る、例へは東京に於る芝浦の製作所又川崎の電気会社にしてもさうである、朝鮮に成立して居る鉱業会社も同様にて、日本と亜米利加と共同して居る会社事業は着々進行して居る、故に日米共同の事業は、既に事実に於てあるので想像上の空論ではない、日米人御互に新しき精神を以て、相恕するの心より共同してやらうと思へば、双方の長所を宜く利用することは必らず出来やうと思ふ、試みに資本は亜米利加が日本に優る所である、機械も亜米利加が日本に優る、併ながら此資本・機械を運転使用するは人である、それも主脳に立つ人は暫く措いて、相当の位地に動く人が残らず亜米利加人で往けると思ふか、又多数の支那職工を使ふと云ふ時に、其取締に立つ人を亜米利加から連れて来るを利益と思ふか、又其材料が入用と云ふ時に何処から取るか、是れは支那にもあらうけれども、新しい事業に対する材料は、どうしても日本に依らざれば相当のものを得ることは出来ない、更に一事の重要問題は、万一他日支那に動乱ある場合に、此新しく創設された事業の保護の任に当るものは、日本を措いて他に求むる事が出来やうか、斯る睹易き事情があるから、米国人も己れ一人でやらうと云ふ考を持たずして、日本と共同するに勉められたい、もしも之れに反して、両方にて自己の満足を謀らば、必らず其結果は競争にならうと思ふ、私は夫れが甚だ懸念であると叮嚀に反覆申しましたが、同氏も大体には同意のやうでありました、是非今年は東洋視察に来ると申して居りましたが、果して旅行しますか、そこはまだ分りませぬけれども、此愚見は独りヴァンデリツプ氏にのみ申したのではありませぬ、ゼネラル・エレクトリツク会社のコツフィン氏、其他の諸氏にも申しました、今度新会社の東洋方面の主任として東洋に来るといふストレート氏(日露戦争中新聞通信員として日本に滞在し、其後奉天の総領事となり、後官を辞して米国資本家の代表者として北京に滞在したる事ありと云ふ)も、私の旅宿を来訪して呉れまして、今度自分も東洋に於て実業上の活動をしやうと思ふ、嚮後は言論でなく実力で働くから、貴下方の御弟子となるによりて、宜しく頼むと申されました、依て私は弟子所ではない、従前の如く貴兄の駿足にて東洋を蹴散らかされては困るから、御手柔かに頼みますと申したら、今日は以前の考は有つて居りませぬから御安心下さいと申して居りました、之れはどう云ふ意味であるか知らぬが、日本に反対の考
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はないと私は理解したのであります。
 紐育滞在中、ゼームス・ヒル氏を其事務所に訪問しました、氏は現に大北鉄道会社の社長ではないが、其実権を握つて居る人で、製鉄事業と米国の農業改良に熱心なる人であります、先年はセントポール市にて会見しましたが、此日其事務所に会見し久闊を叙すると、氏は日本の製鉄事業に対して、切に忠告的意見を述べられました、暫時の会見にて氏の意見の詳細を知り得られませぬが、氏は実に淳朴質実にして、毫も浮誇の言行なく、米国に於ても稀に見る処の老紳士であります。
 華盛頓に参りましても多数の人から款待を受けました、我駐箚大使珍田子爵の厚意によりて、幸に大統領ウイルソン閣下に御目に掛りました、之れは唯謁見致したに過ぎませぬが、其時大統領は、国際病院の建設に就いて帝室から御下賜金のあつたこと、又実業家の寄附金に付ても酷く喜ばれて、厚い謝意を述べられました、且つ主任者たるトイスラー氏が紐育で今其事に奔走して居らるゝが、其中当地へ来たら尚添心して精々寄附金を取纏める様にするが、再び日本へ行つて世話になるだらうと云はれました、殊に私が屡々亜米利加に旅行したことを喜んで、古語に旅人の足跡は其国境を踏ならすといふてあると言はれたから、私は自己の足跡にて日米の境界を踏消したく企望しますと申しましたが、之れが先づ談話の要点でございます。
 続いて帰途はロースアンゼルス市に立寄りました、此地方には桑港辺よりも多数の日本人が在留し居るに拘らず、米人より比較的能く款待されて居る様に思はれましたが、其多くは農業を営むで居て、収穫も相当あるけれど金融の便宜を有つて居らぬ為め、亜米利加人の問屋から金を借りる、遂に問屋に相場を左右せられて、利益を彼等に壟断せらるゝは誠に遺憾である、之れに対して何とか心配して呉れと云ふことを、短い滞留時間に多数の人から申出でました、是は相当の時間を以て詳細に聞かなければ分らぬことであるから、斯る短時間には十分に理解することは出来ない、幸に領事の大山君が居る、同氏に能く話をして、大山君から日本に伝へて呉れて、これが解決が出来ることなら心配しませうと答へて置きました。
 十二月の十四日には桑港へ帰着しました、此地にては最初に申述べた日米関係委員の組織に就いて、更に地方人との相談の必要がありまして、今度は私の方から一同を招きまして、十四日の午餐会を開き、其席上弥々前々の協議を継続して、帰国の後は東京にも一会を組織する、而して其成立後の文書往復の順序等は如何にしたら宜からうと云ふやうな相談を取纏めて、其方のことは決了しました、次いで前に申上げたシヤーレンベルグ、其他労働党の人々と今一度相会したら宜からうと考へまして、之も私の方から一夕招きましたが、其夜は賓主共に腹蔵のない意見を述べやう、所謂胸襟を披瀝すると云ふ前提で、彼等も無遠慮なる談話をされましたが、別に変つた意見を申述べも致しませなんだ、唯此の如き種類違の人々が相会して、而かも何等の腹蔵なく愉快な談話をしたことを喜ぶと申して分れました、此外には別に申上げまするやうなことはございませぬが、加州大学総長のホイラー
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博士に会ひました、此人は独逸のカイゼルには年久しく眤近して居る人であるとの事から、幸ひ他の宴会にて隣席に居るを機として、カイゼルの御性格又御挙動に就いて、種々真相を承はつて参りました、之れは此席で申上げることではなからうと思ひますから、唯ホイラー総長と談話をしたと云ふことを申上げるに止めて置きます。
 十一月八日桑港に着してから、十二月十八日再び乗船して帰国の途に就きます迄の旅行の経過、及各地にて面会せし人々、又其人々と談話をした大要は、是迄陳述した通りでありまするが、之れを三段に分けて申しますと、第一移民問題に付て、桑港に於ける日米関係委員会の席上に於て述べました私の主張は、最早移民問題は過去となつたが現在の日本人に対して、悪い感情だの、差別的待遇は、是非除いて貰はなければならぬ、さうして機会があつたならば、帰化権も得るやうにしたいと云ふ趣意でありました、第二には桑港のみでなく、或はシヤトル、或はシカゴ、其他の各都市に於て、東西洋の文明を融合せしめて、世界の平和を図るは、是非亜米利加と日本と力を合せてやらねばならぬと、日本人は切に希望する故に、其日米両国の親善は、最も以て努力せねばならぬと論じました、第三には紐育に於て、欧洲の戦乱によりて亜米利加の富の進む程、海外発展の気勢が烈しくなる、其発展の余勢は必らず支那に発現する故に、支那に於る日米の商工業の競争は免れぬことゝ思ふ、就ては両国の有識者は、今日より是れが予防を務めねばならぬと云ふことを、叮嚀親切に述べました、而して私は米国人も私の意見を諒察せられ、又私も米国人の意向を稍了解したかと思ふのでございます、余り重要でもない旅行談を永々と申上げまして、閣下・諸君の清聴を煩はしましたのを深く御詫び申上げます。


竜門雑誌 第三三三号・第八四―八五頁 大正五年二月 ○銀行集会所新年宴会(DK330006k-0012)
第33巻 p.128 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第八四―八五頁 大正五年二月
○銀行集会所新年宴会 銀行集会所にては、一月二十七日午後六時より帝国ホテルに青淵先生・阪谷男・高橋男・豊川良平氏を招待して新年宴会を催せり。席上青淵先生には、謝辞旁々米国銀行談を演説せられたる由。


銀行通信録 第六一巻第三六四号・第二一三―二二〇頁 大正五年二月 ○銀行倶楽部新年晩餐会演説(大正五年一月二十七日帝国「ホテル」に於て)(DK330006k-0013)
第33巻 p.128-138 ページ画像

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竜門雑誌 第三三四号・第一〇七頁 大正五年三月 ○日本貿易協会晩餐会(DK330006k-0014)
第33巻 p.138-139 ページ画像

竜門雑誌 第三三四号・第一〇七頁 大正五年三月
○日本貿易協会晩餐会 日本貿易協会にては、二月十九日午後五時より曩に米国より帰朝せる青淵先生一行を招待して、定例晩餐会を開き
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たり、青淵先生には病後なりしに拘らず押して出席せられて、食後米国遊歴中の経過を簡単に報告せられたる後、対時局貿易の将来に関し大要左の如く演説せられたる由
 一昨年欧洲戦乱の勃発するや、余輩は我国財政経済上実に容易ならざる変化の影響を蒙るべき一大事件の発生として、多大の憂惧を抱くと同時に、一方亦之に伴つて起る米国経済界の繁栄を予想し、延ひて我生糸を首め、対米貿易の発展に期待する処なきにあらざりしが、開戦数ケ月間の経験は、全然此予想と反して、貿易は振はず、而かも海には敵国艦隊の跳梁して海運界を圧迫するありて、為めに商品の市価は益々低落して、内地商工業界は萎靡銷沈を極め、終に彼の生糸救済案を策するの始末に立ち至りしが、「世は塞翁が馬」とは能くも云ひ得たる古諺にて、其後形勢は又再変して対米輸出貿易の好調となり、欧洲方面に於ける軍需品の需要、其他各種商品の要求急激に発展増加して、遂に今日の祝すべき状況を現出するに至れり、扠然らば今後の貿易は如何、思ふに欧洲戦争にして継続する期間は、恐らく今後も尚当分此趨勢を続け行くべきは、敢て疑ふ処にあらざるも、所謂千載一遇の此際に於て、我貿易当業者が果して如何の覚悟を以て、如何なる努力経営を悉しつゝありや、当営業者ならざる余輩は素より之に対して批判を下す適当の材料に乏しきも、這般米国及往復の船中に於て耳にしたる二・三顧客側の批評に徴すれば、此間我貿易当業者に於て或は商品の製造上或は撰択上に、幾多の新なる注意と努力を要求せるものなくんばあらずと思惟する次第なり、独り対米貿易のみならず、近く特殊の親密関係に立ちて、貿易上亦頓に面目を一新せるの観ある対露貿易の発展に就も、特に営業者諸君の深大なる工夫と努力を慫慂せざる能はず、凡そ対外貿易の発展に関しては、其対手の何国たるを論ぜず、第一は金融、第二は対手国の制度、第三は交通運輸機関の実情を精査し、荀も此等の一部に貿易の発展を阻碍する事情潜在するときは、先以て此障碍を除去することの最も急務なるは言を俟たず、此三者の関係円滑に投合して、然る後始めて所期の目的を達し得べきなり、余は貿易事業に就ては門外漢なるも、金融のことに就ては聊か責任の地に在るを以て、此方面よりする貿易助長に就ては、今後も及ばず乍ら応分の努力を惜まざる決心を有す、希くば諸君に於て深く此等の点に注意を払ひ、深謀善算、国家千載一遇時に貢献せられむことを悃望に堪へざる次第なり、云々


渋沢栄一書翰 ジェームス・ディー・ローマン宛 一九一六年二月二五日(DK330006k-0015)
第33巻 p.139-141 ページ画像

渋沢栄一書翰 ジェームス・ディー・ローマン宛 一九一六年二月二五日
         (ジェームス・ディー・ローマン氏所蔵)
           (COPY)
Baron E. Shibusawa
  Tokyo
                 February 25, 1916.
J. D. Lowman, Esq.,
  Seattle, U.S.A.
 - 第33巻 p.140 -ページ画像 
Dear Sir:
  I want to thank you very much for your kind favour of the 23rd of December. I am always feeling grateful for the neverchanging kindness and sympathy which Mrs. Lowman and yourself extend towards my wife and myself.
  Indeed it had given me a great pleasure that you had paid me a surprising visit at Hotel Fairmont, just on the next morning I had landed in San Francisco. I am also very glad of my having had the opportunity of seeing Mrs. Lowman there. As it was one of the chief aims of my recent American trip to have a happy interview with you, after a very long time since I had it last time, I was intending to call on you myself, when I went over to Seattle. Really I was never expecting to have your kind call as soon as I stepped on the American soil. You may well imagine how great was my delight, when you had surprised me with your quite unexpected visit. I am also very glad to know that you were expecting to come over to San Francisco to see me off, though you could not do it on account of your sudden illness. I hope you would have already recovered and are perfectly well now.
  Indeed, it was very late in the evening, when I had arrived at Seattle by train, but you were then at the station to welcome me there; and while I was staying in your city, you were so very kind to meet me and to afford me every convenience. I esteem it a wonderful kindness, and thank you very gratefully for that.
  After I left Seattle, I had visited Chicago, Pittsburg, Philadelphia, Boston, New York, and Washington; and everywhere I went, I was warmly welcomed by my American and Japanese friends. It had given me such a great joy, as to have forgotten the tire of my long journey.
  I am much pleased to hear from you that my recent visit to your country is very likely to bring about the betterment of the American-Japanese relation; and if it is really so, I should deem it as the fulfilment of the chief aim of my American trip of this time. Since my return home, I am always telling to my fellowcountrymen, whenever chance permits, how warm and sincere is the friendly sentiment of Americans which was expressed to me.
  It is really my life work to promote the better friendly feeling between the two nations, and as I have determined myself to do all what I can to produce good result, I feel quite helpful to have a very sympathetic and staunch friend like you in America.
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  I ought to have written you more early, but as I have been ill for some time since my return, I could not do it to my great regret. I am, however, very glad to say that I have already recovered and am perfectly strong.
  Lastly, I take pleasure of praying, with all my heart, the health and prosperity of Mrs. Lowman and yourself, and my wife joins me in sending you good wishes.
        With kindest regards,
             Yours ever sincerely,
                  (Signed)
                 Baron Shibusawa