デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
3款 第三回米国行
■綱文

第33巻 p.141-154(DK330007k) ページ画像

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■資料

〔其他ノ資料〕東京日日新聞 第一四〇七九号 大正五年一月一二日 訪問 その日その日 渋沢栄一男「米国は面白い国」(DK330007k-0001)
第33巻 p.141-142 ページ画像

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竜門雑誌 第三三八号・第六〇―六五頁 大正五年七月 渋沢男爵渡米の反響 頭本元貞(DK330007k-0002)
第33巻 p.142-146 ページ画像

竜門雑誌 第三三八号・第六〇―六五頁 大正五年七月
    渋沢男爵渡米の反響
                    頭本元貞
 渋沢男爵漫遊の影響が、予想外に深く、且つ広く感じて居るやうです。其の反響は二つの方面で著しい。其一はカリフオルニヤ洲で問題を惹起して居る。夫れはドウ云ふ風に渋沢男爵の漫遊から反響が起つたかと云ふと、男爵が加州滞在中に米国の労働組合長のゴンパース氏を始めとし、其他の領袖連と二度も会合された。最初男爵が夫等の人人に会はれる時には、向ふの領袖連は、男爵は何の為めに我々に会ひたかつて居るのか、会へばドウ云ふことを持出す積りであらうかと、稍々疑惑の念を持つて居られたようであつた。玆で一寸男爵の人格に就て、亜米利加人はドウ云ふ風に思つて居つたかと云ふこと言ふ必要がある。男爵は昨年で丁度三度亜米利加に行かれたが、男爵は単に日本の大金持と云ふ方に一般に信ぜられて居つた。新聞抔にも日本のモルガンが来たとか、世界で第二の金持が来たとか書くやうな訳で、矢張り亜米利加の大資本家のやうに、人情のない、労働者を苦める側の
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人であると一般に思はれて居つた。其人から会ひたいと云ふ要求があつたのだから、労働組合の首領連が非常に疑惑を懐いたのは此れは無理もない。
 所が会つて食事を共にして、色々打明け話をして見ると、冷酷の資本家と思つて居た人が、案に相違して誠に温情に富み、且つ労働者にも深い同情を持つて居る人で、慈善事業若くは教育又は道徳的方面にも深い趣味を持ち、且つ甚大の努力を為して居る人であると云ふことを発見して、此れには非常に案外に驚いたやうな様子であつた。ソコデ渋沢男爵と云ふ人は、単に資本家と云ふ立場の人ではないと云ふことを発見して、其の瞬間から領袖等の態度は頓に変つて来て、夫れから甚だ打解けて話をするやうになつた。此れは最初の会見の時の模様であつた。
 夫れから二度目の時には、向ふから進んで日本人排斥を遣つた其の動機、或は各国の移民に属して排斥をした歴史抔に就て、腹蔵なく話をすると、斯う云ふやうな訳で、何となく領袖連の頭の中に、今まで自分共が日本人に就て持つて居つた観念が、丸で違つて居つたと云ふ印象を与えた。従つて領袖連が別れるに当つて、殆ど精神上の友達であるやうな態度で別れたのである。此れは確に非常に好い印象を与へてたものと確信して居る。
 さう云ふ訳で男爵は、領袖連と別れて日本に帰つて来てからも、コチラからも文通する、向ふからも一・二の人は手紙を寄越すと云ふ訳で、其関係は未だに絶えない。
 所で加州から選出されて居る合衆国上院議員で、フイランと云ふ政治家がある。上流の家庭に生れた立派な人であるが、併しながら此人は、常に自分の政治上の位地と勢力を継続する必要上から、労働組合の意を迎へることを努め、今日まで現に日本人排斥を旗印として居る位の人である。所が自分共が平生煽動して排日運動をさせて居る所の労働派の領袖が、渋沢男爵と親しく会合して打解け話をした結果、密接の関係が成立つた様子を見て焼餅をやいた。同時に自分等の立場を覆へされると云ふ虞れを懐いた。夫れからモウ一つフイラン氏が狼狽した一の原因は、昨年の十一月桑港で開いた米国労働組合大会に、日本から二名の代表員が行つた。夫れを送るに就ても渋沢男爵は非常に心配をして、種々相談に与つて送つたのであるが、其二名の代表員が桑港に行くは行つたが、向ふで中々受附けなかつたのを色々に説きつけて、トウトウ其の労働組合会議に日本の代表員として列席するやうになつた。夫れ以来向ふの領袖連との関係が密接になつて来て、労働大会の夜会・園遊会、或は個人の宴会抔にも招待されて非常に持囃された。此二つの事実が非常にフイラン氏に恐慌を来たさしめた。そこでフイラン氏は加州の労働派の牛耳を取つて居るシヤレンバーグと云ふ人に詰問書を送つた。其趣意は、近頃新聞で見ると日本から来た労働者の代表員と称する者を米国の労働組合大会に列席を許すのみならず、各種の宴会等に彼等を招待して、非常に歓迎の熱情を表したと云ふ。一体之れはドウ云ふ訳であるか、全体諸君の立場は日本人を極力排斥すると云ふに在るではないか、近来の態度に依つて見ると其立場
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を変へる積りであるか、或は既に立場を変へたのであるか、此れは全国の労働者に大関係を及ぼす事件であるから、明に其の意向を聞いて置きたいと、斯う云ふ訳。シヤレンバーグは之を答ふるに、自分等の立場に就ては決して何等の変更もしない、今日と雖も日本人を排斥すると云ふ意思に於ては何等の変る所がない。只日本から来た労働者の代表員に厚意を表したのは、日本の労働運動に同情を表し、之れに援助を与へるのは、日本に於ける労働者の地位を高める為めに必要である、日本の労働者の地位が高まれば、其結果として日本の労働者が海外へ移住すると云ふことも無くなつて来る次第である。故に我々が平生唱へて居る日本労働者排斥の目的も、始めて達せられるのである。さう云ふ意思で、日本から来た労働代表者に同情を表したと云ふやうな返事をすると同時に、シヤレンバーグが全国の労働組合に公開状を発して、自分共の平生唱へて居る主義と目的は、決して変へないと云ふことを更に宣言した。フイラン氏の詰問書には渋沢男爵云々と云ふことは明に書いてない。併しながら其恐慌を起した大原因は、渋沢男爵と領袖連との会合に在ると云ふことは、男爵が米国に滞在して居られる間にフイラン氏が新聞記者に話した事や、我々が帰朝後に、フイラン氏が亜米利加の東部紐育地方に於て言つた事を考へて見ても、渋沢男爵と労働者領袖の会合が、確に彼れの頭を刺戟した事は明かである。斯の如く加州の労働者に、渋沢男爵漫遊の余波が及んで未だに収まらずに居る。
 夫れからモウ一つ、外の方面で男爵の漫遊に就て議論を惹起したと云ふのは、此れは紐育地方で、男爵が渡米された時分は恰も米国の実業界で、今後大いに海外の事業に投資をしなくちやャならぬといふ気焔の熾な時で、一には欧洲大戦の後に各交戦国の財政整理の機に乗じて大いに活動し、大いに公債に応募して金を儲けやう。第二には従来南米諸国は欧羅巴から資本を仰いで居つたが、之れが戦争の為めに全く杜絶して以来、自然米国に供給を仰ぐやうになつた、就ては南米に向つて資本を卸ろすのみならず、事業をも直接に経営しやう、第三は東洋殊に支那に於て投資並に事業経営を遣ると斯う云ふ事で、非常に人気の満ちて居つた時である。ソコデ渋沢男爵が紐育に於いて、一流の銀行家其他事業家に色々の宴会や又会合等で出合ふ毎に、力を籠めて注意を惹いた事柄は、亜米利加の資本家が東洋殊に支那で事業をすると云ふことは、日本人の誠に歓迎する所である。併しながら支那に対しては、我々には商売以上に国家的の大利害を感ずるものであるから、其の富源の開発を徒らに他国人の手に任じて、自分等は何にもしないで傍観の態度を取ることは出来ないのである。従つて他国の事業家・実業家と競争をすると云ふ結果を免がれない。而して若し此の競争を放任して置けば、終にはお互に敵意を挟むと云ふ結果に陥る患がある。従つて国交上にも悪影響を及ぼすことがないとも限らない。故に此問題は、加州問題よりは真に国家的問題であつて、大いに我々の注意せぬならぬ事である。然るに幸にして、支那に向つて日米の資本家・実業家が発展するに際しては、相互に協同して事業を経営し、又協同の出来ない場合には友誼的態度を以て競争すると云ふことは、決
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して不可能でないと云ふことを自分は確信して居る。其理由は、第一日本は地理上支那に接近して居るのみならず、人種・文字等に於ても日本は支那と密接の関係がある。故に支那人の人情風俗を理解し、支那人の性質を呑込むと云ふ点に於ては、日本人は欧米の人に比して一日の長があると自分は信じて居る。夫れであるからして、支那へ品物を売るとか、或は支那人を使ふとか云ふことに就ては、到底欧米の人は日本人に及ばぬのである。第二には日本は最近三十年間の努力に依て工業の発達が著しい。随つて技師であるとか、職工長であるとか、熟練した職工であるとか、或は工業に必要な材料であるとか、機械類であるとか云ふものは、或る程度までは既に日本で完備して居る。故に亜米利加の諸君が支那に来つて事業を為す場合に於て、凡て此等の利益と便宜とを日本から得ることが出来る、随つて諸君が事業を経営するに当つて、日本人と提携すれば、甚だ容易く且つ経費も少くて出来る訳である。此れは唯理窟上から自分がさう言ふ許りでなしに、自分の今迄実験する所に由つて、出来得べき事を確信して居る次第である。と云ふのは、自分は朝鮮に於て、小さい金山ではあるが、亜米利加の資本家と一緒になつて経営して居る。所が亜米利加の資本家と自分並に日本の資本家との関係は甚だ円満で、さうして事業も整理して居る。夫れから日本内地に於ても、日本の資本家と亜米利加の資本家と協同経営して居る事業が数々ある。夫等の事業は皆円満に成功して居る。故に日米の資本家と事業家と、支那に於て協同して成功し得ないと云ふ理由を発見することが出来ない。斯う云ふ趣意を紐育で到る処で男爵が主張された。夫れで紐育の実業家仲間に於ては、十人が十人まで、皆夫れは至極結構であると云ふ意見で、殊に其当時紐育で組織したアメリカン・インターナシヨナル・コーポレーシヨンの主唱者である所のヴアンダーリツプ、其の副社長の一人なるストレート氏の如き、略々之れに賛同の模様であつた。兎に角男爵の主張せられた事は、米国に於て深甚なる感動を与へた。其の感動が如何に深かつたと云ふ証拠は、予て日本反対で有名なる新聞記者ミラード、夫れからブロンソン・バチラー抔云ふ人が、新聞或は雑誌等に、渋沢男爵の意見に反対の議論を掲げて、力を極めて其の実行を妨げるやうと努めつゝある。夫れから支那の新聞記者で唐某なるものは英文の達者な男であるが、此男抔も紐育で雑誌に投書をして、日本人と米国人とで支那で協同して事業を遣ると云ふことは宜しくないと云ふことを、頻りに書いて居る。併しながら斯う云ふ議論は、亜米利加の実業家には大した影響はないだらうと思ふ。と云ふのは、此等の人々は皆支那人であり或は支那人に使はれて、又支那人から資金を貰つて、さうして日本に反対的の事を書いたり運動をする人達の間に起つて居る議論であるから、亜米利加の公平な人の間には大した影響はないであらうと思ふ。
併しながら男爵の旅行が如何に日本反対側の人々に感動を与へたかと云ふことは、是れで其の一端が分かる。ソンナ議論は殆ど毎便到着する新聞雑誌に載つて居た。此れがマア渋沢男爵の漫遊に就て反響の著しい事実である。
 モウ一つ反響がある、此れは悪い方の反響ではないが、渋沢男爵の
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漫遊に就て起つて来た一つの問題がある。夫れは日本の社会でも充分理解して貰ふ必要がある。殊に渋沢男爵に密接の関係ある竜門社の諸君抔には能く了解して貰つて、渋沢男爵に一臂の力を仮さるゝことを切望する問題である。夫れは戦後に東京で開かれる事に為つて居る世界日曜学校大会の事である。昨年渋沢男爵が亜米利加に行かれる時に此大会に関係ある人々から委託があつて、亜米利加の大会関係者の重なる人々に直接に会つて、さうして能く其の準備等の事に就て打合せをして来て貰ひたいと云ふことであつた。其の為めに男爵はわざわざピツツバーグのハインツ、夫れからヒラデルヒヤのワナメーカー両氏に会つて、篤と相談をされたんである。其の趣意は、日本では此大会に亜米利加から来る人々を、充分に熱誠を以て歓迎する積りではあるが、何分にもホテルの設備又鉄道の設備等が米国のやうに行届いて居ないから、彼の多数の人に来られる事になると、自然宿をさせる処もないと云ふやうな始末である。東京に於てさへも然り、況や此等の人人が大会後に日本の内地を旅行されると云ふことになると、尚更ら非常な不便を感じなければならぬ。ホテルと云つても非常に不完全なものであるから、予め其の覚悟を以て来て貰ひたい。日本に行つて愉快な旅行が出来るものと云ふお考へを持つて来られると、却て失望して終には折角我々日本人が誠意を以て歓迎しても、亜米利加のお客様には其の意思が徹底しないで、悪結果を及ぼすことがないとは謂はれぬと云ふやうな事で、凡ての設備の不完全なる事を説明するのが男爵の目的であつた。ハインツ氏にもワナメーカー氏にも、其他日曜学校大会関係の諸君には、紐育でも桑港でも懇々と設備の不備なる事情を男爵から説明された。其点は能く了解されたやうであるが、併し男爵の説明を了解すると同時に、米国人の頭に残した印象は、男爵の目的とは全く反対の印象ではないかと憂へて居るのです。夫れは何故かと云ふと、ワナメーカーにしてもハインツにしても、其他の有力者にしても、男爵から此説明を聞いた時にドウ考へたかと云ふと、成程日本の鉄道・ホテル其他の設備は不完全であらう、けれども男爵の説明する所に依れば、日本の総理大臣大隈伯爵が会長となつて、さうして日本の実業界に於て最も勢力ある渋沢男爵を始めとして、其他重立つた実業家が夫れに加つて、さうして世界日曜学校大会の後援会を作られてある。渋沢男爵が態々説明までされて熱心に遣られる位であるから、此れは必ず非常な歓待をして呉れるに違ひないと云ふ印象を与へた事になつて、夫れだからして欧羅巴からはドウか知らぬが、亜米利加からは却て多数の人を呼びつける結果を来たしはせぬか、亜米利加人が非常の希望を以て、日本に来る人が却て多くなると云ふ、斯云ふ結果になつたと私は窃に憂へて居る。要するに渋沢男爵は、之れに就て、エライ借金を背負つて帰つて来られた結果に終つたのである。故に其の責任を充分に遂げさせる為めには、我々は蔭ながら何処までも尽力せぬければならぬ。殊に竜門社の諸君に於ては、其のお積りで御助力あらんことを切望するのである。


(増田明六)日誌 大正一四年(DK330007k-0003)
第33巻 p.146-147 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一四年 (増田正純氏所蔵)
 - 第33巻 p.147 -ページ画像 
二十三日○十月 金 曇 出勤
○上略
後五時半星ケ岡茶寮ニ於ける渋沢子爵渡米随行員記念会に出席す、大正四年十月廿三日横浜出帆、其際随行員外に同船したる、又米国ニ於て面会したり又帰朝の節同船したる人々をも勧誘参加を請ふ
来会者 渋沢武之助 同正雄 野口弘毅 増田明六(以上発起人)
 横山徳次郎 脇田勇 頭本元貞 堀越善重郎 永野護 渡辺利二郎《(渡辺利次郎)》(以上十名随行員) 星野錫 山崎亀吉 藤掛与左衛門 藤原俊雄 今西兼二 三田尾松太郎(以上六名同船者) 穂積重遠(紐育ニテ会合) 大山卯次郎(ロサンゼルス駐在領事として当時一行を案内又ハ招待したる関係)合計十八名の出席通知を受けしが、内穂積氏欠席外ニ当時の紐育総領事中村巍を招待したれと、耳疾の為め不参、発起人総代として渋沢武之助氏の簡単の挨拶ありて、一同歓を尽し九時半散会 ○中略
 右の会ニて同渡米後、即大正十年子爵の渡米の際同行又ハ随行したる添田寿一・穂坂与明・矢板玄蕃の三君をも次会より加ふる事を決し、又増田に本年の幹事を依頼し年一回之を開会する事と定めたり


竜門雑誌 第四八二号・第一四―一六頁 昭和三年一一月 青淵先生と日米問題 頭本元貞(DK330007k-0004)
第33巻 p.147-149 ページ画像

竜門雑誌 第四八二号・第一四―一六頁 昭和三年一一月
    青淵先生と日米問題
                      頭本元貞
○上略
      七、建設的親善運動の本舞台
 先生が日米親善に対して愈建設的積極運動の本舞台に一歩を踏み出されたのは、大正四年の晩秋、桑港に於ける巴奈馬開通記念博覧会見物を名として渡米されたときである。其時先生は桑港に於てアレキサンダー、ヘール、リンチ、其他実業界・教育界及政治界の有力家十五六名と会合して、日米間の諒解と親善を増進する為め、何等か具体的行動を取るの必要を力説された。其の結果桑港並に東京に於て各一の団体を設置し、相提携して両国間に於ける誤解を除き親善を促進することゝなつた。此の団体は桑港に於ては商業会議所内に設け米日関係委員会(Japanese Relations Committee)と称することに決し、先方に於ては直に其の組織に著手した。
 是に於て先生は桑港を出発して米国東部に向ひ、シカゴを経て紐育に至り、先年実業団旅行の際並に其の後の関係を結んだ各方面の有力者に接触して旧交を温ると共に、支那の経済開発に関し日米人間に競争を為すの結果、両国間の国交に、険悪なる状態を生ずる虞あるにつき、日米両国民が一致協力して之に当ること、両国民の為め並に支那の為め極めて緊要なることを説れた。先生は単に個人的に之を説くのみを以て満足せず、更に進んで広く言論機関に向つて此論を鼓吹せられた。此目的を以て一夕紐育市に於ける著名の操觚者約三十名を招待して、此の問題に附いて一場の演説を為し、大いに其の注意を喚起された。其の為め一時同市の新聞雑誌に於て此提案の可否に附て意見を戦はすもの少くなかつた。当時我対支政策に対して米国に於て色々の
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誤解を生じたる為め、此の提案に対して賛成する者は実業界に於てすら余り多くはなかつた。況んや言論界に於ては、之を論難する者多数を占めたのは、已むを得ざる事である。然しながら之に反対する論者と雖も、先生が徒に日米親善に附て、月並の抽象論を為すことを避け進んで具体的案を提げて米国の輿論に訴へられた誠意と見識に対しては、深甚の敬意を表することを吝まなかつた。
      八、先生と米人の交友関係
 此の旅行に於て先生は、太平洋沿岸は勿論のこと、東部地方に於ても各地共従来の交友関係を辿りて、更に密接の関係を結び、遂に終生の親友を得られたる例は枚挙に遑ない様である。其の中でも最も著しきは、紐育に於ては前大統領ルーズヴヱルト氏、実業界の大立物故ゲリー氏、前ナシヨナル・シチイ・バンク頭取フランク・ヴアンダリツプ氏、前検事総長ウヰツカシヤム氏、一流の弁護士ヘンリー・タフト氏(前大統領タフト氏の令弟)、ボストンに於ては前ハーバード大学総長ヱリヲツト氏、費府に於てはワナメーカー氏、華盛頓に於ては前大統領にして現検事総長たるウヰリアム・タフト氏等である。爾来日米間に何事か問題の生じたるときは、先生は是等の人々と文書又は電信に依り相互に交渉相談し、一致協力して解決に努められつゝあるのである。
 要するに滞米約四十日を費したる此の旅行に於て、先生の日米親善運動は初めて具体的階段に入り、西部に於ては直に米人をして此運動促進の一機関を組織して実行に進ましめ、東部に於ては一面には対支協調を説き、又一面に個人的関係を深くして、他日提携実現の基礎を築くことに努力せられたのであつた。而して東西両部に於ける、先生の組織的運動は実に予期以上の成功を得て帰朝された。
      九、雪旦の大宴会
 此の旅行に附き一の面白き挿話がある。ヲレゴン州ポートランド市の材木商でクラークと云ふ人があるが、氏は大の青淵先生崇拝者で、日本へも二三度来遊したことあり、先年実業団渡米のときは、三ケ月間我々と寝食を共にした歓迎委員の一人である。今日先生が桑港に上陸されたことを新聞紙で知り、直に手紙を以てポートランドへ是非立寄られたいとの申込があつたけれども、今回の滞米は極めて短時日の為め、遺憾ながら御地には伺ひ兼ねる旨先生から断はられた。そして桑港からシヤトルに赴き、同地よりシカゴへ直行することとなつた。此のプログラムでは途中ポートランドを二度素通りすることになるので、クラーク老人には少々気の毒に思ふたが、致し方がなかつた。初めの素通りは何等の珍事もなかつたが、二度目のときは、午前六時半頃列車がポートランドに著くと、思掛けなくクラーク老人が『トウトウ捕まへた』と叫びながら、我々の寝台に侵入して、直に起きて外に出よと云ふ、何うするのかと聞けば、何でも宜い僕が用意して居る自動車に乗つて一所に来い、君達の列車は九時でないと出発しない、それまでは君等の身体は僕が勝手に処分するのだ、サー来いと云ふ剣幕で、遠慮なく先生を連れて行く。そこで一同已む得ず自動車で供をすると、土地で一等のホテルに行き、兎ある大きな一室に連れ込んだ。
 - 第33巻 p.149 -ページ画像 
ところが其処には三十人計りの人が居て、一々我々に紹介された。曰く地方裁判所長、曰く商業会議所会頭、曰く何に銀行頭取、曰何曰何と、何れも土地の大立物計りである。紹介が終つて直に食卓に著くと簡単の朝食と思ひの外、実に鄭重なる大饗宴である。而して食事半ばから演説が始り、青淵先生の二演説(即ち邦語と英語)の外、三つか四つの米国流の快活なのがあつて、非常に熱誠を込めた歓待を受けた早朝の大宴会は如何に米国でも余り例のないことでもあらう。演説が終ると直ぐ様自動車で駅に送り返され、数分経ぬ間に列車はGood-byの声に送られて市俄古に向つて動き出した。彼の三十名の人には、六時前に其の温きベツトから起出て、而も十二月大雪の朝態ざ態ざホテルに出掛けて我々を歓迎して呉れた親切を思へば、先に同地に立寄るのを断つたことを後悔せざるを得なかつた。殊にクラーク老の親切に至つては何とも譬へ様はなく、唯涙ぐましく感ずるばかりであつた。是れも畢竟先生の御伴をすればこそと思ひ、先生が如何に米人の間に尊敬と愛慕の目標となつて居らるゝかを今更のやうに感じた。
○下略


竜門雑誌 第五三〇号・第五六―六二頁 昭和七年一一月 米国に於ける渋沢翁(DK330007k-0005)
第33巻 p.149-154 ページ画像

竜門雑誌 第五三〇号・第五六―六二頁 昭和七年一一月
    米国に於ける渋沢翁
                      穂積重遠
 平和記念日に併せて渋沢翁を偲ぶ会が催され、私にも何か話をせよとのことでありますが、翁の近い身内の者である自分から、かれこれ故人の事を申すのも、聊か憚かる処があるやうに思ひます、しかし折角の仰せでありますから、遺族の一人として御礼を申上げる意味に於て此処に立つた次第で満堂の皆様に対して感謝致す次第であります。只今諸先輩の御話を聴いて居りますと故人もこの席に在るが如き感が致します、所で私としては始終接して居ました為に、特に却つて取り立てゝ、どう斯うと申上げることも一寸浮ばないのでありますが、曾て私が留学を命ぜられてアメリカに参つて居つた時、翁が渡米されたことがあります。その時十日間ばかり翁の供をして歩いたが、此の時初めて翁の本当の人となりを見たやうに思ひます。成程渋沢翁は斯う云ふ人であるか、と初めて悟つたやうな訳で、それが私に取つては故人の最も深い印象でありますから、次にその時のことを申上げて見たいと思ひます。
 渋沢翁はアメリカに四回行かれましたが、それよりずつと前幕末に欧洲へ行かれた、その時はまだ若い二十八九歳で、フランスに行きそれから各国を巡遊した、しかしその後日本に於ける幾多関係事業の多忙の為め、ずつと西洋に参らなかつたのに、老後になつてアメリカへ四回も行つて居ります、第一回は明治三十五年六十三歳の時で、アメリカよりヨーロツパに廻り、特にアメリカに於ける主要な都市を視察された、第二回は明治四十二年で七十歳の時であり、この時は渡米実業団の団長として事業家の方々と約三ケ月間各地を廻られた、第三回は大正四年七十六歳の時であり、この時はサンフランシスコにパナマ運河開通記念の博覧会があり、それに日本の実業家を代表して参列す
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る為に参り、それが済んでアメリカの各地を廻つて居られる。第四回は大正十年八十二歳の時であり、これは丁度ワシントン会議の時で、このワシントン会議が非常に重大であると云ふことを考へ、この機会に尚ほ一層日米親善を図らうと云ふ目的を持つてアメリカに行かれたのであります。
 その度毎数多の収穫を得、日米親善の為に役立つたと思ふが、私が供をしたのは第三回、即ち大正四年、七十六歳の時であります。この当時私はボストンで勉強して居つたが、一行が各地を廻つてボストンに着いた際出迎へた。この一行の団長である渋沢翁は七十六歳であるが、一緒に来て居る若い人達に較べて遥かに元気がよかつた。私がボストンに迎へた時には、一行は既に各地で有ゆる大歓迎を受け、朝飯から歓迎の宴会と云ふ有様で、御馳走攻め、演説攻めに遭ひ、一行の人々は何れもヘトヘトになつて居りました。然るにその中でたつた一人実に元気よく活溌にやつて居るのが、団長たる七十六歳の渋沢翁であつたのには先づ以て驚きました。恰度そこへ私が出迎へたので、一行の連中はそれをよいことにして『これから先は御前に頼む、俺達は少し休ましてもらひたい』と云ふ様な有様でした。そこで私も一行に加り、ニユーヨーク、ワシントン等を廻つたのであります。
 成程従つて歩いて見ると同行の連中が草臥れる筈である。朝から招待である、昼は勿論、晩は尚更で、その度に演説を聴かされる、その間々に訪問客があり、新聞記者が会見を求める等実に一寸の時の暇もない。そうした中にあつて少しも疲れた様子もなく、総てその場合場合に快活に且懇切叮寧に人に接し事を処する翁の大精力には、実に驚き入りました。殊に私が気持よく感じたのは、何れの会合に於てもアメリカ人は演説が好きで代る代る立つてやる。それに対して又渋沢翁が答辞を述べる。併しそれは全部日本語である、渋沢翁は若い時フランスに居つたので、フランス語は一通りやり、殊に憶えのよい人であるから、若い時稽古をしたのをよく憶えて居つたが、英語はしやべれなかつた。英語も永年の経験で、相手の云ふ意味は中々よく推察したやうではあるが、自分で話すことはしなかつた。そこで演説は全部日本語で、又その日本語の演説の調子が本当に日本に於ける演説会で日本の人に話すと同じで、日本人、アメリカ人と云ふ区別はなく、全く日本の人に話すが如く諄々として説くので、何時でも二十分も三十分も掛かる。その時私が感心したのは、何百人ものアメリカ人が集つて居る処で、翁独特の感じのよい大きな声で隅々迄通るやうに話すが、それは日本語であるからアメリカ人には分らないであらうのに、その長い日本語の演説をアメリカ人が水を打つたやうにシンとして聴いて居る。之に私は感心した。元来アメリカ人は気が短かく行儀の悪い国民であるが、その気の短いアメリカ人が、一生懸命に耳を傾け聴いて居る。人間はこゝ迄行けば言葉などどうでもよいのだと思ひました。演説が済んで通訳が立たうとすると私の側に居た一米人が『通訳なんか要らない、よく分つたから通訳は要らない』と云つた程であり、日本語で此方の意思を向ふに通じさせるその腕前には実に感心した。それは即ち誠意が通じ、至誠が通ずるのであることを熟々感じたのであ
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ります。
 その時の大統領はウイルソンであつたが、ウイルソンに会見した時中々面白いことがあつた。『明日十時にホワイト・ハウスに来て呉れ』と云ふことで、私もホテルで支度して一行の部屋に行つて見ると皆揃つて燕尾服を著て居る、『燕尾服を今日は著て行く、一国の元首に拝謁するのだから』と云ふのである、『併しアメリカのことであるから燕尾服を著て行ては可笑しくはないか』『では何がよいか』と色々議論した結果、モーニングで行つたのでありました。処がホワイト・ハウスに行つて見ると、ウイルソンは相当の老人でしたが、荒い縞柄の背広を著、赤いネクタイを著けて居る、燕尾服で乗込んだらさぞ可笑しかつたことゝ思ふ。さうしてウイルソンに会つた時、ウイルソンはヅカヅカ立つて来て渋沢翁の手を握つて『足跡は国境を踏み消す、と云ふ言葉があるが、バロン渋沢のそれの如き偉大なる足跡が、度々日米の国境を踏み消して呉れることを欣ぶ』と言はれた。私は成程政治家と云ふ者は巧いことを言ふものだと思つた。するとそれに対して渋沢子爵も、『抑々ペルリ渡来の時より』と云ふ具合に、熱心に胸襟を開いて話をされ、側で聴いて居てもよい心持でした。
 アメリカ人との話や色々演説等、一々私は憶えて居ませぬが、これは渋沢翁の話でなく他の人の話であるけれども序でに申上げます。渋沢翁の歓迎会に於けるアメリカ側の演説の中で私が一つ今でも覚えて居るのである、或る宴会で白髪の一老人が立つた。私はアメリカ人に『彼れは誰ですか』と尋ねた処が『御前は彼れを知らないか、彼れは電話の発明者アレクサンダー・グラーハム・ベルだ』と云つた、成程グラーハム・ベルと云ふ人が電話の発明者だと云ふことは――ベルと云ふ名前の聯想もあり――知つて居たが、まだ生きて居るとは気が付かなかつた。これは面白い人の演説を聴くものと思つた。その時ベルが斯う云ふ事を言つた。『私は科学者だから日米親善と云ふ事は一向分らないが、唯此処で今迄諸君が御存知ないことを一つ御耳に入れたい、それは私の発明した電話を通して話された第一の外国語は日本語であることを御話したい。それは自分が愈々電話の発明が出来て大変喜んで居た処へミスター・イザハ(伊沢修二氏と思ふ)と云ふ日本人が尋ねて来た。そこで嬉しさの余り、愈々電話機が出来上つたと云つた処が、伊沢が言ふのに「この機械は日本語も話すか」と云つたのでそれは日本語だつて通じない筈はない、すると伊沢はどうもそれは腑に落ちないと云ふので、それでは向ふの発信機の処に行つて話して見給へ、自分は受話機で聴くからと云ふと、伊沢は早速行つて何か喋つた、意味は分らないが「日本語でもこの通り聞えるよ」と云つて二人手を取つて喜んだことある。このことを渋沢さんの歓迎の言葉に代へる』と云つたのが印象深く残つて居る。初めて電話機を通した日本語がベル氏を歓喜させた如く、渋沢翁の日本語も常にアメリカ人を感動させたのであります。
 斯様に、朝、昼、晩の宴会に出席するのだが、西洋の宴会は夜遅くなる。ホテルに帰つて来るのは十二時、一時であるが、皆ヘトヘトになつて帰つて来て、もう寝ようと思つても、翁は中々寝ようとは云は
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ない。『日本茶でも入れて話さうではないか』と、一時間位色々その日の感想談を聴かされ、又吾々の言ふことを聴いて下さる、私は渋沢翁に接して実に好い気持がしたのは、若い者の言ふことを好い気持で聴いて呉れる。私は一緒に話して翁位愉快な老人はないと思ふ。一寸も老人に接して居る気持がしない。全く此方を対等として言ふことを受け容れて呉れる。又意見や観察の反対なことは遠慮なく、若い者と思つて馬鹿にせず、議論して呉れたので、一緒に話して実に気持がよかつたのであります。
 そこで毎晩一時、二時頃迄も相手をさせられてやつと放免になり、自分の部屋に帰つて寝、翌朝一生懸命に早く起きた積りで、翁の部屋に行つて見ると、翁はもうチヤント起きて居る。そして何時でもフロツクコートである。翁は何時でもフロツクでありますが、嘗て榛名山に登つた時フロツクで登山して神社に参拝したので、神主さんが感心して、『フロツクコートで態々御参拝になつた、洵に謹厳な御方である』と云はれたが、実は翁は何時でもフロツクであつた。即ち何時でも謹厳であつたと云つてよからう。アメリカでも朝からキチンとフロツクコートを著けて日記を書いて居る。私が顔を出すと『お前が早く来ぬから食堂に行けなかつた。』と云はれて恐縮した。があの様に一日中駈け廻つて少しも疲れず、朝早くから昨日の日記を付ける精力には感心した。その体力の強いことは固よりであるが、体力だけの問題でなく矢張り精神の問題である。物事に当つては総て一生懸命で少しの弛みもなく、又一方に於て大度量を有し、如何なることにも心を悩まさないと云ふ気の持ち方が、如何に働いても疲れない精力を有たれた所以ではないかと思ふのであります。
 ワシントンに居た時でした、一日珍しくプログラムのない日があつたので、今日こそ休んでやらうと思つて居た処、翁が呼ばれると云ふので行つて見ると、『今日は何もないが何処か行く処はないか』と云ふ、吾々はもう見物に疲れて居るが折角翁がさう云ふので、彼処が宜からうと考へたのがマウント・ヴアーノンの公園である。マウント・ヴアーノンはワシントンが長く住んで居て死んだ、その家の在る処でその儘に保存されてゐる。天気のよい日に静かな川沿ひの公園を散歩して誠によい気持であつたが、その時渋沢翁も如何にも楽しげにそこらを歩いて『これはよい、これはよい』と云つて居られたが、今にして想ひ起すと『俺が死んだら飛鳥山の家と庭は公共の役に立つやうに使つて呉れ』と云ふ翁の遺言は、これは全く私の推測ではあるが、マウント・ヴアーノンの此の一日の清遊が翁に深い印象を与へた結果ではないかと考へられます。
 さう云ふ訳で渋沢翁に従つて歩いて居ると、翁の熱誠がよく分る。翁が熱心に考へて居た所は日支親善、日米親善、而して世界平和である。老年になる程其考へが熱烈になつたと思ふ。併し、その世界平和日米親善、日支親善の考への中に、又実に熱烈なる日本を愛する愛国心があつた。私は渋沢翁に於て最も熱烈なる愛国者と、最も熱烈なる平和主義者を見出すことが出来た。平和主義者は愛国者でなく、愛国者は平和主義者でない様に考へられる傾きがあるが、私はそれは本当
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でないと思ふ。真の愛国者にあらずんば真の平和主義者たり得ず、真の平和主義者にあらずんば真の愛国者たり得ぬと私は思ふ。偉大なる平和主義者と偉大なる愛国者とを一身に兼ねた人、それが渋沢翁の真の値打だつたと思ひます。
 これは私が一緒に参つた時ではないが、最後に八十二歳でワシントン会議の時アメリカに行つた、その時ワシントン其他の地方を廻つて愈々アメリカを引揚げる時、最後にサンフランシスコに於てアメリカ人の催した送別会があつた。その時例に依つてアメリカ人側から送別の辞があつた後、渋沢翁は立つて斯う云ふことを言つたさうである。『自分はこれで四回アメリカに来て僅かばかり日米親喜の為に骨を折つた。併し自分はこれが最後とは思つて居ない。若し又必要があれば自分は柩を船に載せて再び渡つて参ります』と云つて演説したさうである。それが翌朝サンフラシスコの新聞に出て、或る貴婦人が之を読んで非常に感激して、『実に偉大なる老人である。自分もこれから及ばずながら日米親善の為に努力しなければならぬと云ふことを痛切に感ずる、是非渋沢さんに会ひたい』と云つてホテルに来て『貴方の昨日の演説に感激した印しに之を上げますから附けて呉れ』と云つて、鎖に附いて居た飾りを取つて渡した。渋沢翁は喜んでそれを受けて、自分の時計の鎖に一生下げて居たやうである。私は思ふ。もし今日渋沢翁が生きて居られたならば、――私共親類の者としては百迄生きさしたいと思ひ、又百迄生き得ると信じて居たが、不幸にして昨年亡くなつたが、――もし今日生存して居たら、九十三歳の老躯を提げ、柩を船に乗せてアメリカに渡り、今度大統領となるべきルーズヴエルト氏に会つて初めからの日米関係を語つて『日米相親しむことが世界平和の根本である』ことを説きに行くと云ひ出し、我々親族の諫止を振り切つて渡米したことであらうと思ふのであります。
 渋沢翁逝いて一年、翁がもつと生きて居て呉れればよかつたと思ふこれは私事でなく、此今日の日本の時局に当つて、翁が生きて居たならばと云ふことを思ふのであります。これは身近い私が申しては或は言ひ過ぎであるかも知れないが、一生世界平和の為に、日本国家の為に尽した人であるから、其位の事は云はせて頂いても差支へないと思ふ。誠に今日翁が生きて居ないことは遺憾なことである。併し過ぎ去つたことは致し方もない。私共は、迚も一人では翁の真似は出来ないが、どうか私共は一同協力して、翁が折角こゝ迄やつて来た各方面の仕事、殊に最後に於て最も力を入れて居た日支親善、日米親善、延ては世界の平和、而して更に日本国が世界平和の支持者であると云ふ処に迄持つて行きたいと云ふことを痛切に感じるのであります。今日のこの意義深い会合に列して、翁が若し今日在つてこの席に出ることが出来たならば、嘸かし喜んだであらうと云ふ矛盾した感慨さへ起さざるを得ません。聊か玆に翁の想出を述べ、併せて皆様に対し翁の身内の一人として厚く御礼を申述べる次第であります。
  ○右末尾ニ左ノ如キ註記アリ。
   「右は十一月十一日、青淵先生一周忌の当日国際聯盟協会と東京市との聯合主催で、日本工業倶楽部にて「平和記念日と渋沢翁追憶の夕べ」が催さ
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れた時の講演速記であります、従つて文責は記者にあります。」
  ○但シ、竜門雑誌掲載ノモノハ穂積重遠ノ校訂ヲ経タルモノナリ。


竜門雑誌 第五三〇号・第一八―一九頁 昭和七年一一月 兄弟相寄りて父を語る(DK330007k-0006)
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