デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.222-229(DK330011k) ページ画像

大正10年10月31日(1921年)


 - 第33巻 p.223 -ページ画像 

是日栄一、サン・フランシスコヲ発シ、シカゴヲ経テ、十一月五日ニュー・ヨークニ到着、六日夜ワシントンニ向フ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK330011k-0001)
第33巻 p.223-225 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
十月三十一日 半晴 軽寒
午前七時起床、入浴シテ衣服ヲ整ヘ、朝飧ヲ食ス、畢テ来訪ノ客ト談話ス、男女各様ノ訪問アリ、午前十時半アレキサンダー、リンチ氏ノ来訪アリ、余ハア氏ノ自働車ニテ繋船場ヘ着シ諸氏ト分袂ス、桑港オータランド《(ク)》間ノ海ヲ渡リテ汽車ニ搭ス、是ヨリ鉄路旅行ノ人トナル、車中特別室アリテ読書談話自由ナルヲ以テ、毫モ不便ヲ感スル事ナシ少時ニシテ汽車ノ儘ニテ海ヲ渡ル事アリ、鉄路進ムニ従テ処々山岳ノ起伏ヲ見ル、車中ニテ午飧・晩飧シテ、夜ニ入ル頃ヨリ山岳漸ク深キヲ覚フ、車中ニテ読書シテ夜十一時過就寝
十一月一日 半晴 寒暖常ナシ
昨夜ヨリ汽車深山ニ入リテ、時々人跡ヲ見サル事アリ、午前七時半頃起床シ、車中ニ於テ洗面、衣服ヲ整フテ朝飧ス、後観覧車ニテ談話ス午飧後二時半オクデンニ着ス、邦人二十名許リ駅頭ニ来リ迎フ、日置某紹介シテ一同ニ会見シ、一場ノ訓示ヲ為ス、時ニソートレーキ在住橋本大五郎氏ナル者同乗シテ、製糖会社設立ノ事及爾後ノ経過ニ間シテ実況ヲ説明ス、但同氏ハオマハ市ニ所用アリテ同車スル由ニテ、更ニ増田ヨリ其詳細ヲ聞取ル事ヲ約セシム、桑港ヲ離レテ汽車山間ニ入リシヨリ、峻嶺幽谷ヲ過キテ、オクデン駅ニ至ル頃ヨリ平坦ナル農圃ヲ見ル、終日車中ニ在テ雑談ニ時ヲ移シ、又ハ読書シテ閑ヲ消ス
十一月二日 晴 軽寒
午前七時半起床、洗面畢テ衣服ヲ整ヘ、一行中ノ数氏ト共ニ朝飧ス、後観覧車ニ於テ一行ト談話ス、午飧後添田・頭本・堀越・増田・小畑ノ諸氏ト、余ノ此行ニ於ル使命ヲ全フスルニ付、各自ノ分担ヲ協議シ且共ニ其任務ニ尽瘁セラレン事ヲ委嘱ス、而シテ添田博士ハ余ヨリ先ニ華府ニ抵リ、全権使節ト打合ノ事ヲ托ス、夜飧後観覧車ニテ、同乗ノ米人ト種々ノ談話ヲ為ス
昨日オクデンヨリ同乗セル橋本大五郎氏ト、製糖会社ノ事ニ関シテ談話ス、但シ数年前パーマー氏ナル者渡来シ、会社設立ニ付株式募集ノ事アリ、尋テ加藤辰弥氏之ヲ担当スルヲ《(モカ)》実況明瞭ナラサルニ付、増田ヨリ橋本氏ニ向テ其次第ヲ承合サシム、此日橋本氏ハオマハ市ニ抵リテ下車ス、但シ同氏ノ此汽車ニ同乗シタルハ別ニ自己ノ要務アリタル為メナルモ、本文ノ会社ニ関シテモ真想ヲ説明セント欲シタルナリトノ事ナリ
此日車中見ル所ハ一面ノ農場ニテ、四望只渺茫タルノミ
(欄外記事)
 汽車中ノ寝所ニ於テ曾遊ノ日記ヲ一覧ス、「但明治四十二年渡米実業団ノ記事ナリ」
十一月三日 快晴 軽寒
午前七時起床、洗面畢テ衣服ヲ整ヘ、観覧車ニ出テ一行中ノ諸氏ト談
 - 第33巻 p.224 -ページ画像 
話ス、昨日来山岳ニ離レテ汽車一路渺茫タル農圃ヲ見ルノミ、時ニ或ハ牧場アリ、又村落ノ断続スルアルモ、概シテ一望千里眼界ナシト云フヲ得ヘシ、八時過汽車中ニテ朝飧シ、九時過市俄古市ニ着ス、桑島領事・島津青年会幹事及同市旅宿ブラツク・ストーン代理人停車場ニ来リ迎フ、直ニ自働車ニテ湖畔黒石旅亭ニ抵リ、客室ニテ小憩ス、同市第一国立銀行頭取ウエツトモア氏停車場ニ来リ、相携ヘテ旅宿ニ抵リ、頭本氏通訳シテ米国金融ノ近況及労働問題ヲ話ス、十二時過旅宿ニテ午飧シ、二時ヨリ当地基督教青年会主任〔   〕《(原本欠字)》○パイピス氏ノ案内ニテ市中及公園ヲ遊覧シ、更ニ青年会旅舎ニ抵リテ青年保護ノ為設立スル低価宿舎ノ実況ヲ一覧ス、午後四時過旅宿ニ帰休シ、後日記ヲ編成ス
此日添田博士ハ、華盛頓ニ先着シテ使節ト交渉ノ事アリテ、市俄古十二時四十分発列車ニテ出立、午後六時当市新聞社員来リテ種々質問アリ、頭本氏ノ通訳ニテ日米関係ノ要旨ヲ説明ス、午後六時半ヨリ島津氏ノ案内ニテ、同氏管理ノ当市ニ設立スル青年会館ニ於テ晩飧会アリ食卓ニテ数名ノ演説アリ、盛会ナリキ
添田氏ヨリ米国記載ノ記事ニ付説明スル所アリ
十一月四日 晴 軽寒
午前七時半起床、入浴シテ後一行ト共ニ朝飧ス、畢テ訪英米実業団一行中ノ大橋氏来訪セラル、尋テ中島・門野・阪井・松本・原・米山、其他同行ノ諸氏今日当市到着ノ由ニテ来訪セラル、時ニ原総理刺客ノ毒手ニ斃レタルノ急報ニ接シ、来会者一同愕然タリ、依テ直ニ急電ヲ発シテ本邦阪谷・藤山二氏ニ真想ヲ聞合ス、又原氏ヘモ弔電ヲ発スル事トス、午後十二時四十分発汽車ニテ市俄古ヲ出立シ、紐育ニ向フ途中各駅ニテ新聞紙ヲ得テ、原総理ノ事ヲ調査ス、午飧・晩飧共ニ列車ニテ一行ト会食シ、本邦ノ急変ニ関スル将来ノ推移等ヲ談ス
夜十時列車中ニテ就寝、褥中古文真宝ヲ読ム、十二時止ム
十一月五日 半晴 軽寒
午前七時起床、車中ニテ洗面シ、衣服ヲ整ヘテ、一行ト共ニ列車中ノ食卓ニ抵リテ朝飧ス、昨日市俄古ニテ汽車ニ搭乗セシヨリ、列車ノ進行迅速ニシテ、是迄ノ列車ト異リ頗ル愉快ヲ感シタリ、殊ニ両沿ノ田園モ耕作整頓セリ、而シテ停車ノ各駅モ大ニ其趣ヲ異ニス、午前十時頃紐育市到着、熊崎総領事ヲ始トシテ、米人数名、邦人数十名来リ迎フ、住友銀行支店長今村氏ノ自働車ニ搭シテ、ブラザー旅宿ニ抵ル、内外人多数来リテ安着ヲ賀セラル、午後一時午飧、時ニ添田博士華府ヨリ来リ、食後華府ノ景状ヲ詳悉シ、明後日華府出張ノ事ヲ約シテ、添田氏ハ午後五時華府ニ帰ル
日曜学校幹事ブラオン氏来話ス、シドニー・ギユリツキ氏来リ、明日会堂参拝ノ事ヲ約ス、其他数名ノ来客アリ
熊崎領事来話、明夕会談ノ事ヲ約ス
十一月六日 晴 軽寒
午前七時起床、入浴シテ衣服ヲ理メ、一行ト共ニ朝飧ス、畢テ書類ヲ調査ス、九時過東洋汽船会社関根氏来話ス、曾テ浅野社長ヨリ示サレタル書類ニ付談話ス、十時ギユリツキ氏来リ談ス、当地ニ設立セラレ
 - 第33巻 p.225 -ページ画像 
タル米日関係委員会ノ事ニ付種々意見ヲ交換ス、相伴フテ会堂ニ抵ルホスデツク氏ノ日曜講演ヲ聴ク、畢テ氏ト握手シテ曩ニ日本来遊ノ旅況ヲ談ス、十二時過帰宿、午飧後更ニギユリツク氏・小畑氏等ト、ブルークリンニ在ル日曜学校ニ関スル会堂ニ抵リ、ブラオン氏ノ周旋ニテ堂内各室ヲ視察シ、会堂ニ於テ国際道徳ノ必要ニ関スル一場ノ演説ヲ試ム、畢テ午後五時旅宿ニ帰ル、此日会堂ニ於テ原首相ノ凶変ヲ弔フノ式ヲ行フテ、特ニ余ニ対スルノ敬意ヲ表セシハ、ブラオン氏ノ厚キ注意ニ出テタリ
夜七時一行相伴フテ熊崎領事ノ宿所ニ抵リ饗宴ヲ受ク、住居ハ当ホテル内ニ在リ、夜飧畢テ後、曩□《(ニカ)》ギユリツキ氏ヨリ照会セル紐育ニ関係委員設立ノ事ニ付テ種々ノ談話ヲ為シ、領事ニ托シテ充分ノ調査ヲ為シ、其得失ヲ考案セラルル事ヲ托ス
此夜十二時発ノ夜汽車ニテ華府出張ノ事ト定メ、熊崎氏ヲ辞シテ直ニ途ニ上リ、汽車中ニ睡眠シテ翌朝華府ニ抵ル


竜門雑誌 第四〇七号・第三一―三二頁 大正一一年四月 ○渡米日誌 青淵先生(DK330011k-0002)
第33巻 p.225-226 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第三一―三二頁大正一一年四月
    ○渡米日誌
                      青淵先生
○上略
 十月三十一日(月) 午前十一時一行はロルフ市長、アレキサンダーリンチ諸氏の見送りを受けサウザーン・パシヒイツク線に搭乗して桑港を出発す、サクラメント駅に達したるに沖健二氏以下在留同胞車前に一行を迎ふ。子爵は之に対し一場の答辞及懇篤の訓話あり。
 十一月一日(火) 午前十一時半汽車オグデン駅に着す、多数同胞の出迎ありたれば子爵は車を下りて一同に対し処世の要諦に就き懇々諭示せられたり。
 十一月二日(水) 終日乗車
 十一月三日(木) 午前九時シカゴ駅に到着す、フアスト・ナシヨナル・バンク頭取ウヰツトモーア、桑島領事・島津岬其他諸氏の出迎を受け、相伴ふてブラツク・ストーン・ホテルに至り、子爵はウヰツトモーア氏と米国目下の金融状況及不景気回復の時期等に付種々談話ありたり、午後一行は自働車にて市内を巡覧し、夜に入りては日本人基督教青年会館の晩餐会に出席し、島津・子爵・頭本・堀越・増田・小畑諸氏の卓上演説ありたり。
 此日添田博士は一行と別れ華盛頓に直行す。
 十一月四日(金) 朝シカゴ発車、終日を車中に送る。
 十一月五日(土) 午前九時四十分紐育ペンシルヴアニア駅着、ギユーリツク、高峰の両博士、熊崎総領事、其他当地在留諸氏多数の出迎あり、プラザ・ホテルに投宿し、子爵は待受けの内外人に接し、夜に入りて一行共に堀越氏主催の晩餐会に赴きたり、前日一行に別れ、華府会議準備の実況を視察し、我全権に進言の任務を帯びたる添田博士は四日朝同府着、直に徳川公爵始め加藤・幣原の両全権に面会して子爵の伝言を通したる結果、子爵自ら来華の必要を認め、翌五日博士は紐育に来りて子爵一行と協議し、更に引返して華府に於ける旅宿の用
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意をなして之を子爵に急報したり。
 十一月六日(日) 一行は紐育第一長老協会及ブラオン氏日曜学校を訪問し、午後七時熊崎総領事の晩餐会に出席し、宴畢つて後夜行列車にて華府に向ふ。
○下略


竜門雑誌 第四〇七号・第四八―五一頁大正一一年四月 ○青淵先生渡米紀行(三) 随行員増田明六(DK330011k-0003)
第33巻 p.226-228 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第四八―五一頁大正一一年四月
    ○青淵先生渡米紀行(三)
                  随行員 増田明六
○上略
十月三十一日 月曜日 晴
 天壌無窮の皇祚の繁栄を祈りつゝ、午前十時三十分ホテルを発す、フヱリーに於てアレキサンダー、リンチ両氏を始め、ロルフ市長等に送られ、十一時発車して東部に向ふ、子爵の車台はステート・ルームシーなり。
 午後零時五十五分ポート・コスタに於て列車は三分せられ、渡舟に依りてベニシアに到る。
 此列車は旅客頗る少数にて多数空席あり、之れ鉄道大罷業の噂に駆られ旅客争ふて去二十九日の列車にて搭乗したるが為めなりと云ふ。
 食堂は列車の最後にありて、先生の車室より八個の客車を隔ち、之が往返頗る困難なりしが、先生には聊かも苦にせられず、三食共往復せられたり。
 午後二時二十五分サクラメント駅到着、沖健二氏を始め、日本人会唐沢・服部・津田等諸氏の出迎ありて、同地産葡萄三箱を贈られたり先生は車窓より厚く其芳意を感謝するの意を陳べられたり。
 汽車の動揺頗る烈しく、決して良き気持にあらず、併かも先生には、車窓に依りて古文真宝を読み、十一時半漸く臥褥せられたり。
十一月一日 火曜日 晴
 先生には午前七時起床せらる、午後一時五分オグデン駅到着、橋本大五郎氏其他邦人十九名の出迎あり、先生は汽車を下り、一同に対し己の欲せざる処を人に施す事勿れの語を引き訓話せられたり。
十一月二日 水曜日 晴
 午前十時先生を始め添田・頭本・堀越・増田・小畑の諸氏、先生の室に会し、協議の上、本旅行中の事務取扱方を左の通決定す。
一、子爵の通訳は頭本氏主として之に当り、小畑氏は其補佐を為す事
二、子爵及一行の行動に関しては、如左取扱ふ事
 一、子爵の演説は、増田氏筆記を為す事
 二、米国人の演説は、頭本氏又は小畑氏筆記を為す事
 三、一行の行動に就ては、可成各自記録を取る事
 四、新聞切抜通信社に、青淵先生に関する記事の切抜を依頼する事
 五、先生と米人又は邦人との談話は、立会ひたるもの必ず筆記する事
 六、前項の切抜及筆記は、全部増田に於て取纏め整理する事
三、添田博士はシカゴにて一行に別れ、華府に直行する事、依て其日
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常の行動は親ら手記すべき事
四、先生は一行を代表して、軍備縮少は日本国民の意思たる事を強く主張する事
 先生には前日オグデン駅より同乗したる橋本大五郎氏より、アイダホ州リグビー市所在ビート・グロウソース・コムパニーの近況を聴取す。
十一月三日 木曜日 晴
 午前九時シカゴ市ユニオン・ステーシヨンに到着す、桑島領事、ウヰツトモーア氏(シカゴ・フアスト・ナシヨナル・バンク頭取)島津岬氏等出迎に来る、先生はウヰツトモーア氏の自働車に同乗して、氏と談話しつゝ、ホテル・ブラツク・ストーンに投宿し、引続きウヰツトモーア氏と米国目下の金融状況及不景気挽回の時期等に付き種々談話を為す。
 午後はシカゴ基督教青年会々長タブリユ・エフ・ハイピス氏、及同会秘書エル・ダブリユ・メツサー氏の案内にて、市街及ワシントン及ジヤクソン両公園を巡回の後、同会館の設備を一覧して帰宿す。
 夕島津岬氏の案内に依り、日本人基督教青年会館に於て、同氏夫人の手に成れる日本料理の饗を受く。
 先生・添田・頭本・堀越・増田・小畑の演説あり、一同水入らずの歓を尽し十一時帰宿す。
 此日添田寿一氏一行に別れ、午後零時四十分当地を発して華府に向ふ。
十一月四日 金曜日 晴
 午前ダブリユ・エツチ・マンス氏先生を来訪す、氏は先生が去る明治四十二年渡米実業団長として渡米せられたる際、シカゴ、デスモイネス、及オマハの三商業会議所を代表して一行の案内役として親しみ厚き人なり、先生の此回の渡米を新聞紙上にて承知したる為め特に来訪したる由にて、先生にも悦んで面会、其後久闊の挨拶を交換せられたり、蓋し今回の一行中先生を始め、頭本・堀越の両氏、並に増田は同実業団の団員たりしなり。
 午前九時訪英実業団の一行来着、此ホテルに投宿す、大橋新太郎・中島久万吉氏等先生を来訪す。
 午前十一時、本国に於ける原首相東京駅にて刺客に襲はれ、其兇刃に殪れたりとの電報当地新聞社に入電ありとて通知を受けたり、一同愕然たり、直に領事館に問合はせたるも、何等電報無しとの事なるが不取敢青淵先生には東京なる阪谷男爵宛電報を発して、事実ならば代はりて弔意を表されたしと依頼され、午後零時四十分紐育に向て停車場を出発す。
 シカゴ・紐育間の距離九百八哩なるが、此間僅かに二十一時間、即一時間四十哩余の疾走力を以て急行す、先生には終日故原首相を惜み車中遥に弔意を表せられたり。
十一月五日 土曜日 晴
 午前九時四十二分紐育ペンシルヴヱニア駅に到着す、熊崎総領事を始めとしてブラオン、ギユリツク、高峰の諸博士、其他当地在留邦人
 - 第33巻 p.228 -ページ画像 
諸氏多数の出迎あり、相携へてホテル・プラザに到る、先之堀越商会支配人坂野氏、一行の為に特に室を整へ置きたれば、先生は直に八階なる美くしき応接室を有する八七〇号の室に入られたり。
 紐育は先生の米国に於ける最も親み厚き地なり、先生のホテルに落付くを待設けたる米国の新聞記者を始めとして、友人の来訪引きも切らず、先生には一々鄭寧に応接せられたり。
 夜堀越善重郎氏に招かれて、先生始め一行東洋館に赴き、久し振りに日本食の饗を受けたり。
十一月六日 日曜日 晴
 青淵先生を始め一行は、また行李を解くの遑もなく、本日は第一長老協会及ブラオン博士日曜学校を訪問して説教を聴問し、午後七時熊崎総領事主催の晩餐会に出席して、米国の近状を聴取し、其夜十一時半発列車に搭じて華盛頓に向ふ。


竜門雑誌 第四一二号・第二二―二三頁大正一一年九月 ○青淵先生渡米紀行(四) 随行員増田明六(DK330011k-0004)
第33巻 p.228 ページ画像

竜門雑誌 第四一二号・第二二―二三頁大正一一年九月
    ○青淵先生渡米紀行(四)
                  随行員 増田明六
十一月六日(日曜日) 晴
 此日先生の訪問せられたる、ブラオン博士の監督らせるゝブシウイツク・アヴエニユー教会の日曜学校の状況を略叙すれば如左、即先生の同教会の会堂に入りて席に就くや会衆一同起立して両手を頭上に延ばし、両手を互に握りて日米親善の徴象として先生を歓迎せり、於是ブラオン博士は、先生の八十二歳の高齢なるにも不拘、日米親善の為めに渡米せられたるを賞揚し、又先生が多年日本の日曜学校の為に尽力せられ居る趣を述べ、特に先年東京に於ける世界日曜学校大会の為に尽されたる努力の著るしきは、必竟同大会をして成功を収めしめたる所以なりと感謝し、而して最後に会衆一同に図り、満場一致を以て原首相の遭難に関し、日本皇帝陛下並に日本国民に対し深く同情を表する旨の決議文を通過して、之を先生に嘱せり、続て先生は起立して原首相は我邦歴代の首相中で最も能く民意を代表して起つた政治家なりしが、不幸にして兇刃に殪れたるは、吾々国民の真に悲に堪へざる次第なると同時に、二十世紀の文明国と目せらるゝ我邦に於て、如斯不祥事を生じたるは誠に慚愧の至りなり、本日ブラオン博士始め此処に会合せられたる米国民諸君より厚き同情を承りたるは、日本国民の一人として深く感謝する処なりと挨拶し、次ぎに頭本元貞氏より日本は軍閥主義とか侵略主義とかの誤解を受けて居るが、是は日本の一部分を見たる想像説にして、日本は真に平和主義の国である事を極説して会衆の諒解を求め、午後四時辞去したり
○下略


中外商業新報 第一二八〇八号大正一〇年一一月九日 渋沢子一行紐育着 華盛頓会議の重要さを力説す 在紐育新関特派員(DK330011k-0005)
第33巻 p.228-229 ページ画像

中外商業新報 第一二八〇八号大正一〇年一一月九日
    渋沢子一行紐育着
      華盛頓会議の重要さを力説す
                  在紐育 新関特派員
 - 第33巻 p.229 -ページ画像 
六日発=渋沢栄一子一行は本日紐育に到着した、米人有力者及日本人代表者の盛んな出迎へを受けてホテルに入つたが、同子は直に左のステートメントを発表した
 日本人は華盛頓会議の重要さと、其れが非常なる重大意義を有することを充分に認めて居る、該会議は啻に大平洋の平和と進歩に大関係を有するのみに非ず、実に又世界の平和の基礎を造るべきものである、我等は日本将来の発展は、偏に商業及び産業の方面にある事を確く信ずるものである
渋沢子一行と団博士を団長とする実業視察団は、各方面の団体から引き切りなしに歓迎される筈になつて居るが、殊に十五日に催される日本協会の歓迎晩餐会は最も盛大なるものだらうといはれる
 別報 七日紐育発=在米日本実業団長渋沢子爵は、日曜学校生徒に対し一場の演説をなして曰く、吾等日本実業団は、華盛頓会議の大業を援助する為には、如何なる労力をも辞せぬ決心であると、子爵は又曰く、日英米三国が恰も此三国民が個人として親友なるが如く、互に友邦として交はることを得れば、吾等は平和を期望することが出来ると、渋沢子爵は自己署名の陳述書を発して曰く、日本人は華盛頓会議の真義と、同会議が太平洋のみならす、世界の平和と進歩とに対して重大なる関係を有することを熟知してゐると、猶同陳述書の曰く
 吾等日本人は、日本将来の発展は殆どその商工業の発展に係つてゐる事を自覚している、吾国人は平和を熱望する点に於ては、決して他国人に劣ることはない、而してこの平和あつてこそ、始めて経済上の発展を望むことを得るのである、吾等は如何なる国よりも、軍備の重荷を除去するの必要に迫まられていることを痛感してゐるからして、吾等は米国大統領ハーデイング氏が、華盛頓会議への請待を発せられた際、抱懐せられて居た高遠な平和の理想と国際間の善意とに、衷心から同情を表していると(国際直電)
    排日記者までが渋沢子賞揚
                 在華盛頓 石田特派員
六日発=渋沢子の一行は、米国に於て非常に好感を以て迎へられて居るが、彼の排日を以て有名なる新聞記者ブリスベーンの如きすらも、本日のイヴニング・ジヨーナル紙上に論じて曰く
 渋沢子の渡米の目的は、日本と米国との実業家の間に更によき諒解と関係を結ばんとするにある、我等は彼を遇するに公平を以てし、彼をして其目的を実現せしむるに無用なる障害を与ふべきでない、彼の皮膚が、白色であれ、褐色であれ、黄色であれ、それは問ふ所ではない、彼に同情ある態度を採る事は、彼の事業を容易ならしむるものである