デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.229-278(DK330012k) ページ画像

大正10年11月7日(1921年)

是日栄一、ワシントンニ到リ、軍縮会議ノ日本全権委員公爵徳川家達及ビ同駐米大使男爵幣原喜重郎ニ面会、将ニ開カレントスル同会議ニ付進言ス
 - 第33巻 p.230 -ページ画像 
ル所アリ。八日同全権委員男爵加藤友三郎ニ会シテ同ジク進言ス。同日ホワイト・ハウスニ於テ大統領ウォレン・ジー・ハーディングニ会見ス。九日前国務卿ウィリアム・ジェー・ブライアンノ来訪ヲ受ケ、又、上下両院議員其他有力者ト会見ス。

同日ニュー・ヨークニ帰リ、十二月三日マデ滞在ス。

此間十一月十一日ロチェスターニイーストマンヲ訪問、同家ニ一泊、同十二日コダック会社ノ工場ヲ見ル。十八日ピッツバーグニハワード・ハインズヲ訪問、同家ニ二泊ス。

十二月三日ニュー・ヨークヲ発シ、フィラディルフィアニジョン・ワナメーカーヲ訪問、同家ニ一泊、旅館ニ一泊ス。五日フィラディルフィアヲ発シ、再ビワシントンニ至リ、十一日マデ滞在ス。

此間八日元大統領ウィリアム・エッチ・タフトヲ訪問、十日国務省ニ国務卿チャールズ・イー・ヒューズヲ訪ネテ会談ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK330012k-0001)
第33巻 p.230-242 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
十一月七日 晴 軽寒
午前六時半起床、汽車七時半ニハ華府到着ノ筈ナレバ、洗面シテ衣服ヲ理メ、時刻ニ至レハ華府ニ抵リ、直ニ車ヲ下リ、添田博士及原口少将来リ迎フ、原口氏ハ大使館附ノ武官トシテ、数月前当地ニ赴任セラレ、其東京出立ニ際シ関係委員会ヨリ送別ノ宴ヲ開キタル縁故アルニ由ル、相伴フテ先ツ当地ノホテル〔   〕《(原本欠字)》○アーリントンニ投宿シ、朝飧シテ後徳川公爵ヲ其旅館ニ訪フ、添田氏同伴ス、余先ツ公爵ニ会見シテ一別以来ノ旅況ヲ述ヘ、且公務ニ対シテ種々ノ意見ヲ進言ス、公爵ハ之ヲ領承セラレ、直ニ幣原大使ニ会見ノ事ヲ勧告セラル、依テ全権使節ノ為特設スル臨時ノ官衙ニ抵リ、幣原大使ト会見シテ、余ノ当地出張ノ理由ヲ陳ヘ、且明八日午後二時ヨリ、加藤・幣原・徳川三全権ト事務所ニ於テ会見シテ、余ノ意見ヲ聴キ、之ヲ審議スヘキ事ヲ約シテ退去ス
午後一時半旅宿ニ抵リ午飧シ、後安達某、山川某等来訪シテ、余ノ渡米ニ関スル事ニ関シテ種々ノ質問アリ、後種々ノ来訪客アリテ寸暇ヲ得ス、午後六時半一行ト共ニ原口少将旅館ヲ訪ヒ、日本料理ノ晩飧会アリ、一同歓ヲ尽シ九時過帰宿、後日本ヨリ送リ越シタル新聞紙ヲ一覧ス
(欄外記事)
 新聞紙ノ閲覧畢リテ日記ヲ編成シ、十二時就寝
 ロサンセルス人オスホン氏来訪セラル
 阪谷男爵ヨリ過日ノ電報ニ対スル回答到着
 - 第33巻 p.231 -ページ画像 
十一月八日 晴 軽寒
午前七時起床、入浴シテ後朝飧ス、畢テ本邦ヨリ当地ニ来レル新聞記者数名旅宿ニ来リテ、種々ノ談話ヲ為ス、原口少将来訪ス、午飧後添田・頭本・堀越三氏滞同、全権ノ事務所ニ抵リ、主トシテ加藤全権ト軍備縮小問題及華府会議ニ関スル要旨ヲ論議ス、三時過大使館ニ抵リ幣原大使同行白亜館《(堊)》ニ於テ大統領ニ謁見ス(全権トノ会談、大統領謁見ノ顛末ハ別記事アレハ玆ニ略ス)午後五時過帰宿、夜飧後加藤海軍中将来話ス、十時過ヨリ書類ヲ調査シテ十一時就寝
十一月九日 雨 寒
午前七時半起床、昨日ヨリ少シク風邪気ナレハ入浴ヲ歇メ、洗面シテ朝飧ス、畢テ来客ニ接シ、十時添田・頭本・堀越三氏ト共ニ当地ノ衆議院ニ抵リ、オスボン氏ノ居所ヲ訪ヒ、其案内ニヨリテ下院議員フイリヤ氏ヲ其議員部屋ヲ《(ニ)》訪ヒ華府会議其他ノ談話ヲ為ス、更ニ〔   〕《(原本欠字)》○ハドルストン氏ヲ訪フテ精神上ノ談話ヲ為シ、最終ニ上院議員ボラー氏ヲ訪フ、上院議員ノ控室ハ下院ニ比シテ頗ル壮大ナリ、款談十数分ニシテ再会ヲ約シテ去リ、オスボン氏ニモ分袂シテ全権事務所ヲ訪ヒ、本日当地ヲ去リ紐育ニ赴ク事ヲ告ケ、旅宿ニ抵リ午飧ス、沙市サミユール・ヒル氏来話ス、共ニ午飧シテ後会ヲ期シテ辞去ス、山下弥七郎氏ブライヤン氏同行来訪セラル、種々別後ノ談話アリ、後添田氏ヲ紹介シテ後事ヲ托ス、ヒル氏ノ企望ニ付テモ添田氏ニ托シテ大使館ニ伝語セシム事トス
本日華府ヲ辞去シテ紐育ニ帰ルニヨリ来リ訪フ者多シ
午後三時華府ヲ発ス、添田氏ハ華府ニ留リ渋沢長康同行ス、途中フィラドルヒヤニ於テ英国行ノ為分離ス、夜八時半紐育帰着、ホテル・プラサル《(マヽ)》投宿
夜種々ノ書類ヲ調査シ、又日記ヲ編成ス、十一時就寝
十一月十日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、午前二・三ノ来客ニ接ス、一時紐育市某クラブ○バンカースクラブニ於テ当地有力者開催ノ歓迎会ニ出席ス、食卓ニテジヨヂ・ゲリー氏ノ演説アリ、余ハ之ニ答ヘテ今回来遊ノ理由及華府ニ開カレタル軍備縮小問題等ノ事ニ論及ス、宴畢テ帰宿ス、午後客舎ニ於テ一行ト協議シ、今夕ロチスター市行ノ事ヲ決ス、七時頃宗教家及ヒ新日米関係委員会ノ開催スル晩飧会ニ出席ス、司会者ヒンレー氏及ビツカーシヤム氏等歓迎ノ演説ヲ為ス、シトニー・ギユリツク氏周旋甚タ努ム、主賓各演説アリ、余ハ東京ニ設立セル関係委員会ノ沿革ヲ詳細ニ説明ス、十一時頃ヨリロチスター市訪問ノ為メ発車ノ時間ニ至レルニヨリ、宴ヲ辞シテ直ニ汽車ニ搭シ、夜中ノ列車ニテロチスター市ニ向フ、夜ニ入リテ降雪、車中寒威凜然タリ
十一月十一日 曇 寒 朝来積雪数寸ニ及ヒ寒気強シ
午前七時車中起床、洗面シテ汽車ノ到着ヲ待ツ、八時頃ロチスター市ニ抵ル、停車場ニハエーストマン氏二・三ノ侶伴ヲ帯同シテ来リ迎フ直ニ其自働車ニ搭シテ同市ナル氏ノ家ニ抵ル、先ツ階上ナル美麗ナル寝室ニテ衣服ヲ整理シ、畢テ主人及接伴員カーチス氏ト共ニ朝飧ス、畢テ暫時休憩シテ後、エーストマン氏当市ニ建設セル児童ノ歯科病院
 - 第33巻 p.232 -ページ画像 
ヲ一覧ス、施設整備シテ未タ他ニ類例少キモノト思ハル、一覧畢テ客年エ氏同行セル医師モリガン氏ヲ其家ニ訪ヒ、夫人、家眷等ト共ニ款待尤モ努ム、種々ノ談話後、郊外倶楽部ニ抵リ、市人多数ノ歓迎ヲ受ケ、食事畢リテモリガン氏ノ演説アリ、余モ謝詞ヲ述ヘ、宴畢テエーストマン氏創設ノ音楽学校ヲ一覧ス、後エーストマン氏宅ニ抵リテ投宿ス
此夜エーストマン氏ハ其家ニ於テ鄭重ナル晩飧会ヲ催シ、食器其他美麗ヲ極ム、食後音楽ヲ奏シテ接待頗ル努ム、主人ノ挨拶ニ次テ一場ノ謝詞ヲ述フ、夜七時過散宴就寝
十一月十二日 雪 寒
午前七時半起床、入浴シテ主人等ト共ニ朝食ス、十時頃エーストマン氏ノ家ヲ辞シ、主人ト共ニ自働車ニテ有名ナル写真工場ニ抵ル、ロチスター市中ニ在リ、工場内ニハ各部ノ職員十数名アリテ款待至ラサルナシ、場内一覧ノ後、余ハ其一室ニ於テ暫時休憩ス、此時職員ノ一人余等ヲ誘引シテ場内ニテ活動写真ヲ一覧ス、午後一時工場内ニテ午飧ノ饗応アリ、畢テ各部ノ職員幹部ノ諸氏ニ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、工場ヲ辞シテ停車場ニ抵リ、午後二時発ノ汽車ニテ紐育市ニ帰ル、車中ハ昨日ト同シクシテ記事ナク、夜飧ハ列車ニ於テシテ、午後十時紐育市帰着プラザー・ホテルニ投宿ス、帰宿後各所ヨリノ来状又ハ電報等ヲ整理シ、十一時就寝
十一月十三日 晴 軽寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、後商業団員中ノ諸氏ト談話ス、午前十一時半一行ト共ニ、ロング・アイランドナルジヤチ・ゲリー氏ノ居ヲ訪フ、紐育市ヲ距ルコト十数俚《(哩)》ニシテ、概略二時間ノ自働車行程ヲ費シテ其家ニ抵ル、邸園ノ宏壮、居宅ノ佳麗、一見米国富豪ノ住居タルヲ知ルニ足レリ、客室ニ小憩シテ主人夫妻ノ接見アリ、談話中種種ノ来客相会シテ一時半食卓ニ就キ、食事終ラントスル時主人ノ余ヲ歓迎スルノ懇切ナル演説アリ、又主婦カ先年本邦来遊ノ記臆ヲ縷述シテ、饗応尤モ努メタリ、余モ亦其厚意ヲ謝シ、且従来日米両国ノ交誼ニ付微力ヲ致セル旨ヲ告テ、本日ノ優遇ヲ感謝スル旨ヲ述ヘタリ、畢テ更ニ客室ニ於テ談話シ、午後三時過辞シテ帰途ニ就キ、午後五時紐育市ニ着シ、六時近クシテ帰宿セリ、晩飧後一行相会シテ談話ス
十一月十四日 雨 軽寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、午前十時頭本氏同伴ニテ日本銀行派出員永池氏ヲ其事務所ニ訪ヘ、同氏ト共ニ聯合準備銀行ニ抵リストロング氏ト会見シ、昨年同氏本邦来遊ノ際余ヲ尋問シテ往時ヲ語ラレシ事ヲ告ケテ、種々ノ経済談ヲ為ス、午後一時辞シテ帰宿ス、後クラルク氏来リテ其家ニ開催スル午飧会ニ同行ス、添田氏ヲ除キテ一行同伴ス、午後二時頃其家ニ於テ鄭重ナル午飧会アリ、畢テ各種ノ馬匹共進会様ノ観覧場ニ抵ル、クラルク氏夫妻ノ案内ニヨル、一覧後午後五時頃帰宿、暫時休憩シテ六時過晩飧ヲ畢リ、添田博士ト共ニ当地ノ日本人会ニ抵リ、一場ノ演説ヲ試ム、夜十一時帰宿就寝
(欄外記事)
 - 第33巻 p.233 -ページ画像 
 当地ニ設立スル日本人会ハ、日本銀行一宮氏会長タルモ、旅行中ナルヲ以テ、公務課長〔   〕《(原本欠字)》氏代理ニシ《(テカ)》余等ヲ紹介ス、余ハ日米関係ニ関シテ現下ノ状況ト従来ノ尽力トヲ詳細ニ演説ス
十一月十五日 晴 軽寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、午前九時頃ヨリシヤトル市サミユール・ヒル氏、一友人共ニ来訪ス、同時ニ添田博士モ来会ス、暫時談話シテ辞去ス、ヒツツハルグ市ハインズ氏来ル、本月十八日同市訪問且博物館陳列ノ日本人形ノ件ヲ談話ス、本邦新聞紙社員森某氏来リテ時事ヲ談ス、留学生又ハ写真技術師ノ類来訪ス、牧師井上織夫氏来リテ会堂建設ニ関スル寄附金ノ事ヲ依頼セラル、長岡岸吉松氏来ル、氏ハテキサス地方ニ移住シタルカ、余ノ当地滞在ヲ聞知シテ特ニ来訪セラルルナリ、午後吉松貞弥氏来ル、労働問題ニ付種々ノ談話アリ、夜飧ハ増田・小幡二氏ト共ニシテ、後木村秀雄・同駒子ノ来訪アリ、頭本氏モ来会シテ夜半マテ種々ノ雑談ヲ交換シ、十一時帰去ス、後日記ノ編成ニ努ム、十二時就寝
(欄外記事)
 此日ハ終日在宿シテ種々ノ来客ニ接見ス、午前九時ヨリ引続キ寸暇ナク、夜十一時ニ至リテ歇ム
 午前高峰博士来訪、アルミナム工場建設ノ件ヲ談シ、本月二十六日頃ハデビス氏来訪ノ旨談話アリ
十一月十六日 半晴 軽寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、食堂ニ於テ数多ノ商業団諸氏ト談話ス、畢テ小柴写真師来リ撮影ス、紐育ヘラルド新聞紙社員ホスオールス氏来ル、同新聞紙ハ昨年本邦ニ来リ種々援助ヲ与ヘタル関係上、ボスオールス氏ト爾後ノ経過ヲ談話シ、日米両国ノ親善ニ付意見ヲ詳述シテ、十二時過辞去ス、午後一時半添田博士・渋沢長康等ト共ニ午飧ス、畢テ日記ヲ編成ス、当市有力ノ銀行者ヘボン氏来話ス、小幡氏通訳タリ、ヘボン氏ハ去年本邦ヘ来遊シテ再三会見シ、且懇親ノ間柄ナレハ、日米国交ニ関シ、又ハ華府会議ニ付テモ胸襟ヲ披キテ談話スルヲ得タリ、夜吉松貞弥氏来ル、夜飧ヲ共ニシテ労働問題ヲ談ス
(欄外記事)
 午前九時半プロオン氏来話、日曜学校関係ノ銀行家二名、同伴来訪シテ、去年東京ニ開催セシ大会ニ関シ、種々ノ謝意ト感想トヲ述ヘラル
 労働問題ニハ、添田博士・中島男爵・村松某等モ参席シテ、夜十一時過迄種々ノ談話ヲ為ス
十一月十七日 曇 軽寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後頭本氏ヨリ今夕紐育商業会議所ノ晩餐会ニ於ル演説ノ原稿ニ付談話ス、但シ英文ニテ頭本氏朗読ノ筈ナリ、又当地其他ヘノ書状発送ニ付本書ニ記名ス、古谷竹之助氏来話ス、添田・頭本・堀越三氏ヲ会シテ紐育ニ成立セル日米関係委員会ノ事ニ付協議ス、団琢磨氏・串田万蔵氏ヲモ招集シテ前段ノ意見ヲ開陳シ、且華府会議ノ件ニ関シテ種々内談スル所アリ、午飧後、添田博士・増田・穂阪氏等ト共ニ当地ノ学校ニ在学スル生徒ノ小集ニ出席
 - 第33巻 p.234 -ページ画像 
シテ、余ノ今回ノ旅行ニ関シテ詳細ノ談話ヲ為ス、添田氏モ一場ノ演説アリ、四時過帰宿ス、五時頃ストロング氏来話ス、来ル二十一日午飧饗宴ノ事ヲ告ク、六時辞去後、衣服ヲ改メテ紐育商業会議所晩飧会ニ出席ス、キングスレー氏会頭トシテ余等ノ一行ヲ款待ス、一場ノ演説ヲ為ス、来会者中二名ノ長時間ニ渉ル演説アリ、十二時頃散会、帰宿後日記ヲ編成ス、十二時就寝
(欄外記事)
 今夕ノ集会ハ六百余名ニテ、階上淑女ノ傍聴者多ク、宴席モ壮麗ニシテ頗ル雑沓セリ
十一月十八日 曇 軽寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、此日ハピツツブルグ市行ノ兼約アリテ、八時前紐育停車場ニ抵リ、八時五分発ノ発車ニテ同地ニ赴ク、車中ノ所見、田園・市街・農村・工場或ハ邱岳・河川等各様ニテ、終日ノ興ヲ添フ、時々工場ノ煤煙断続ノ間、渓流ニハ捕魚ノ人モ見ヘテ、到処景状ヲ異ニセリ、午後七時ピツツブルグニ着ス、停車場ニハハエンズ氏、キニヤ氏来リ迎フ、自働車ニテハエンズ氏宅ニ抵ル、但頭本堀越二氏ハ同行セス、他ノ一行中増田・小畑二氏ハ余ト共ニハエンズ氏宅ニ、他ハ同市ノ旅宿ニ止宿ス、着後ハ氏夫妻懇篤ナル款待ニテ、夜飧後ハラ氏ノ来話アリ、更深ルマデ、ハ氏ト往事ヲ談シ、十二時頃就寝
(欄外記事)
 大正四年十一月、日曜学校大会ヲ東京ニ開催ノ件ニ付、協議ノ為メ訪問セシ時ハ、先人存在シテ種々ノ精神談ヲ為セシ事アリシカ、今夕其往事ヲ話シテ共ニ懐旧ノ歎ヲ深クセリ
十一月十九日 小雨 寒
午前七時起床、入浴シテハ氏夫妻ト共ニ朝飧ヲ食ス、畢テ種々ノ談話ヲ為シ、午前十時花輪ヲ作リテ故ハエンヅ氏ヲ奠墓ス、其子当代ハ氏モ同伴ス、畢テ当地ニ有名ナル博物館ニ抵リ、故ハ氏出品ノ御殿女中ノ人形余ノ手ニテ改造ノモノヲ発表ノ式アリ、館長ホーランド氏式辞余ノ理由陳述、大学教授チヨルチ氏ノ演説アリ、式畢リテゴルフ倶楽部ニテ午飧ス、其時モ演説アリ、後キニヤ氏ノ茶会ニ出席シ、五時頃ハ氏ノ家ニ休息ス、午後七時当市旅館ニ於テ市人ノ開催セル晩餐会ニ出席ス、キニヤ氏司会者タリ、食後ハ氏其他ノ諸氏ヨリ去年日曜学校開催ノ事ニ付種々ノ謝辞アリ、終リニ余モ一場ノ答辞ヲ述ヘテ会ヲ閉ス、来会者五・六十名ナリ、十一時ハ氏ノ家ニ帰宿ス
十一月二十日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、今日紐育ニ向ケ帰着ノ積ニテ九時過同市ヲ発シ、車中ノ風光往事ト異ナル事ナク、午飧・夜飧共ニ列車中ニテ食シ、夜八時過紐育帰着ス、停車場ニ頭本・堀越氏等来リ迎フ、相携ヘテオテル・プラザーニ投宿ス
今朝華府添田博士ヨリ電話ニテ、過日徳川公爵ヘ一書ヲ托セシニ、添田氏ハ之ヲ公爵ヘ呈セシモ、回答ハ熟案ノ後ニスヘキ趣余ニ伝言ヲ托セラル《(レ)》タルニヨリ、之ヲ伝達スル趣ナリ
紐育帰着後、一行諸氏ト会話ス、且頭本・堀越二氏ニ旅行中ノ事ヲ談
 - 第33巻 p.235 -ページ画像 
話ス
十一月二十一日 小雨 寒
午前八時起床、風邪気ニテ入浴ヲ歇ム、朝飧後医師ノ診察ヲ受ク、後階上室内ニテ本邦ヨリ郵送セシ各種ノ新聞紙、又ハ雑誌類ヲ読ム、十月二十日頃ヨリ二十九日迄ノ分ナリ、余等発足後ノ記事一眸ノ中ニ在リ、午飧後モ尚之ヲ継続ス、時々来人ト会話ス、午後七時半当市聯合銀行総裁ストロング氏主催ノ宴会ニ出席ス、ス氏病気欠席ニテ同僚代理ス、日本銀行員永池氏・正金銀行柏木氏・住友銀行今村氏等来会、食卓上銀行関係ノ回顧談アリ、夜十一時散会帰宿、此夜ノ宴会ハ頭本氏通訳ス
十一月二十二日 晴 軽寒
午前七時半起床、入浴シテ朝食ス、畢テ種々ノ来客ニ接シ、十時頃堀越商会ノ店務ヲ一覧ス、堀越氏・伴野氏種々業務取扱上ノ説明アリ、十二時帰宿、午飧後故ルースベルト氏ノ家ヲ訪フ、オエスター・ベーノ故宅ナリ、旅宿ヲ発シテ約一時半ニシテ其家ニ抵リ、未亡人ニ会見シ絵巻物ヲ贈リ、往時ヲ談ス、帰途ル氏ノ墓ニ奠シテ心裏ニ故人ヲ追懐シ、五時過帰宿ス、七時伴野氏ノ招ニ応シテ其寓ニ抵リ、日本料理ノ饗ヲ受ク、食後種々ノ雑話アリテ十時過帰宿、鈴木氏ノ意見書ヲ一覧ス
(欄外記事)
 ル氏ノ故宅ヲオエスター・ベーニ訪問セシハ、午後三時頃ナリキ、其居住ノ状況及墳墓ノ設備等真ニ簡易ヲ極ム、一家、主婦ト一婢アルノミニシテ、其墓碑モ、尋常人ト毫モ異ナルコトナシ、米人ノ国柄○以下記事ナシ
十一月二十三日 半晴 寒
午前七時過起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ理髪ス、後階上ノ客室ニ於テ柏木正金支店長ノ来訪ヲ受ク、在東京ノ日米関係委員会ノ事ヲ談ス、又今村住友銀行支店長来リ、米国留学生ニ関スル注意ヲ聴ク、頭本・堀越二氏来話、午前十一時半一行ト共ニ紐育ニ有名ナルナシヨナル・シチー・バンクノ招宴ニ応シテ其銀行本店ニ抵ル、頭取ミツチヨル氏東京在勤ノハーナム氏、其他ノ同行来会《(員脱カ)》ス、一行共ニ午飧ノ饗応ヲ受ク、食卓ニテ種々ノ事業経営ニ付テノ談アリ、食後主人側ノ挨拶ニ答ヘテ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、午後三時半帰宿、食卓上前総裁スチルマン氏会見ノ顛末ト当時ノ余ノ経済意見等ヲミツチヨル氏ニ詳述シテ、頗ル興感ヲ与ヘタリ
帰宿後本邦阪谷氏ノ電報アリテ、軍縮問題ニ付要件ノ通報ニ接シタレハ、直ニ華府添田氏ヘ電報シテ至急ノ来紐ヲ要求セリ
午後六時キユリツク氏来リ、日米関係委員会ノ事ヲ談ス、熊崎総領事モ来リテ同シク協議ス
夜八時ヘンリー・タフト氏ノ招宴ニテ其家ニ抵ル、バツタラー、ロツクヘーラー等ノ有名ノ陪賓アリテ、十四名ノ数奇ヲ尽セル宴会ナリ、種々ノ談話アリテ、夜十一時散会帰宿ス
高峰博士ヨリノ使者来リ、博士ノ伝言ヲ述フ、コロンビヤ大学生川島来話ス、華府添田、布哇原田二氏ノ書信来ル
 - 第33巻 p.236 -ページ画像 
十一月二十四日 曇 寒
本日ハ米国ニ於ル我カ新嘗祭ノ如キ日ナルニヨリ、招宴ノ事モ他方訪問モセサル事トテ、午前八時頃起床、入浴シテ昨夜華府ヘ電報招来セル添田博士ニ会話ス、蓋シ阪谷氏ノ来信ニ付、華府ノ我全権ニ内意陳述ノ為ナリ、添田博士ハ余ノ意ヲ領シテ直ニ帰府セリ、午前十一時頃当地ノ油絵画工ノ家ニ抵リ肖像ヲ作ル、但シ堀越氏ノ勧誘ニ応スルナリ、十二時帰宿、午飧後華府及加州地方訪問ニ関スル前程ヲ協議ス
頃日来各方面ヨリ種々ノ来状アル《(リ)》タルニ付、回答ノ事ヲ指示ス、又加州方面ノ事ニ付書類ヲ調査ス
晩飧畢テ一行当地ノ大興行場ヒツホドロムニ抵リ、種々ノ技芸ヲ覧ル堀越氏、商会主任伴野氏夫妻モ同行ス、夜十一時頃帰宿就寝
此日ヴワンデリツプ氏欧州ヨリ帰来ノ由ニテ、夜ニ入テ電話アリ
十一月二十五日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ来人ニ接シ、十二時半当地絹糸業者ノ案内ニ応シテ、ステリー氏主催ノ午飧会ニ出席ス、ゴールドスミス、チニー、及スキンナー、其他有力ナル絹糸業者十数名来会シ、鄭重ナル宴会アリ、食卓上ステリー氏ノ挨拶ニ対シテ、生糸ニ関スル従来ノ経験ヲ述ヘ、更ニ日米両国ニ於ケル本事業ノ需要供給ニ付テ、両者間ニ注意スヘキ要件ヲ演説ス、更ニチニー氏ノ華盛頓会議ニ於ル企望ニ答ヘテ、余ノ日米両国ノ国光親善《(交)》ニ関スル苦衷ヲ陳述ス午後三時過散会、帰宿後クラルク氏ノ晩飧会ニ出席ス、一行共ニ案内ヲ受ケタルナリ、饗宴美麗ニシテ、ジヤツジ・ケリー夫妻及貴顕ノ人人来会ス、食後席上手品数番アリ、一同歓ヲ尽シテ夜十一時帰宿ス、此宴会ニ於テ主人クラルク氏ノ歓迎演説ニ対シテ、余モ一場ノ答詞ヲ述フ
十一月二十六日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ古谷氏来リ、高峰博士等ト共ニ午飧シ、後黒部川水力ニ拠ルアルミナム工業ニ関シ種々ノ談話ヲ為ス、余ハ出立前逓信大臣ヨリ内話アリタル旨ヲ説明シテ、デビス氏ノ決意ヲ徴ス、同氏ハ簡単明確ニ其決心ヲ余ニ説明ス、談話畢リテ帰宿ス、後本件ニ関シ本邦ニ打電ノ事ヲ古谷氏等ト協議ス
十一月二十七日 雨 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、後書類ヲ調査ス、午前十一時一行相伴フテ、紐育近郊ナルスカボローノヴワンデリツプ邸ニ抵ル、途中自働車ニテ約一時半ヲ費シタリ、邸内樹林多ク居宅モ広壮ナリ、夫妻及令嬢・令息等相集リテ款待至ラサルナシ、十二時半頃ヨリ一同午飧ヲ共ニシ、客年ノ本邦旅行ニ関スル談話ト、今回ノヴ氏欧洲巡回ニ付テノ意見トニテ時ヲ移スニ至レリ、更ニ余ノ此行ヲ決スルニ至レノ《(ル)》趣旨ヲ詳陳シ、食後尚会話ニ時間ヲ要シ、午後五時邸内ニ設立セル中学程度ノ一学校ヲ参観シ、夕方六時頃帰宿ス、此夜ハ旅宿ニテ夜飧シテ後書類ヲ調査ス
(欄外記事)
 昨日高峰博士ト共ニデヒス氏ト会見ノ事ニ付、アルミナム工業ニ関シテ水力許可ノ事ヲ野田逓相ニ電報ス
 - 第33巻 p.237 -ページ画像 
 蓋シ発足前ニ肥後局長ヨリ、大臣ノ命ヲ以テ、デビス氏トノ交渉ヲ依頼セラレタルカ為メナリ
 昨年帝国蚕糸会社ニ於テ買取リタル生糸ヲ、目下ノ好況ヲ機トシテ徐々売却セラルル様、忠告ノ電報ヲ今井五介氏ニ発ス、但横浜ノ原氏ト協議スヘキ事ヲモ申添ヘタリ
十一月二十八日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後頭本氏ヲシテ華府添田氏ヘ電報シテ来紐ヲ促ス、蓋シ華府会議ノ件ニ付本邦ヘ急電スルノ必要アリテ、其事ヲ議スル為メナリ、午前十一時肖像画師ノ家ニ抵リ《(ル)》、堀越氏同伴ス、十二時過宿《(帰脱)》、更ニ頭本氏ト共ニ、ハミルトン・ホルト氏ノ午飧会ニ出席ス、余ト共ニ賓主十一名、何レモ宗教家・学者等ノ会合ナリ、食事前後ニ於テ、余ノ近状又ハ我邦カ米国ニ望ム要項等種々ノ問答アリテ、共ニ興ニ入リタリ、後ギユリツク氏ノ事務所ヲ訪ヒ、日米関係委員会ノ事ヲ談シ、午後書類ヲ調査ス、夜七時高峰博士ノ招宴ニ応シテ日本人会ニ抵リ、日本料理ノ饗宴ヲ受ク、食後和洋各種ノ余興アリ、食卓上一場ノ謝詞演説ヲ為ス、夜十一時帰宿ス
添田氏華府ヨリ来ル、直ニ本邦発電ノ事ニ協議ヲ開キ、明朝決行ノ事ヲ約シテ就寝
(欄外記事)
 午前十時モツト氏・ヒツシヤー氏来話ス、モツト氏トハ、曩ニ基督教青年会ニ対スル寄附金ノ件、及西比利亜地方援助ノ件ニ付、種々談話ヲ交換セリ
 此日霊魂不滅ニ関シ、又ハ基督教信仰ニ付、種々ノ談論アリ
十一月二十九日 半晴 寒
午前七時起床、例ノ如ク入浴シテ、先ツ昨夜来添田等ノ諸氏ト審議シタル本邦阪谷氏ヘ発スヘキ電報文案ヲ作リ、諸氏ヲ会シテ之ヲ審議ス頭本案ハ詳密ニ過キ、添田案ハ簡略ノ嫌アリ、依テ余ノ立案ト共ニ更ニ添田氏ニ修正ヲ托ス、朝飧後之ヲ決定シテ発信セシメ、更ニ徳川公ヘハ一書ヲ副ヘテ添田氏ハ帰華ス、後阪谷氏ニ詳細ノ書状ヲ認メテ之ヲ通知ス、十時半オスボン氏来話ス、小幡氏通訳シテ爾来ノ情意ヲ談話交換ス、午後一時半午飧、畢テ日記ヲ編成ス、午後四時〔   〕《(原本欠字)》博士来リ、頭本氏ヲ伴フテカーネギー氏未亡人ノ家ヲ訪ヒ、日光絵巻物ヲ贈リ、会見シテ種々ノ談話ヲ為ス、同氏自伝ノ訳書ハ近日上木発売ノ事ヲ告ク、未亡人ハ其良人ノ書斎ニ余等ヲ招シテ、鄭重ナル茶菓饗応アリ、午後五時過帰宿ス
熊崎総領事来話ス、曾テ依頼アリシ文学上ノ援助ニ付談話ス、午後七時ヴワンデリツプ氏夫妻ノ案内ニテ、一行紐育ノ婦人倶楽部ニ抵リ、晩飧後其誘引ニ応シテ劇場ニ抵ル、喜劇ナレトモ言語通セサレハ其妙味知ル能ハス、只男女俳優ノ態度軽妙ヲ感スルノミ、夜十一時散会帰宿ス
十一月三十日 曇 寒
午前八時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後木村駒子女子《(史)》ノ訪問ヲ受ク、駒子ハ其夫ト長子トヲ伴ヒ来リテ撮影ス、大阪瓦斯会社ニ任用ノ米人トウマス氏来話ス、午前十一時堀越氏ト共ニ肖像画師ノ家ニ抵ル、十
 - 第33巻 p.238 -ページ画像 
二時過帰宿ス
当地ニ於ル生糸業者ノ案内ニテ〔   〕《(原本欠字)》旅館ニ開催スル午飧会ニ出席ス、食卓上生糸業ノ発展歴史ヲ講演ス、午後三時帰宿当地ニ設立スル日本人会角田氏来リテ、本会館設立ノ寄附金募集ノ事ヲ告ク、二宮行雄氏来話ス、同氏ハ紐育着後風邪ニ罹リテ訪問ヲ延引セシ旨、而シテ演劇談ニ付テハ近日華府ニ於テメルツ氏会見ノ後ヲ口約ス
夜八時一行共ニジヤツヂ・ゲリー氏ノ招宴ニ応シテ紐育ノ家ニ抵リ、居宅ノ結構宏壮ニテ、装飾其他美麗ヲ極ム、食饌モ数奇ヲ尽シタリ、食後主人及タフト、キングスレー二氏ノ演説ニ次テ、一場ノ謝詞ヲ述ベ、小幡氏通訳ス、夜十二時散会帰宿ス、ゲリー夫人ハ特ニ其客室及装飾等ヲ説明シテ、其豊富ヲ示サレタリ
置物ノ彫刻品ニ弐拾余万円ノ価アルモノアリ、其他ノ器物モ想像ニ堪ヘタリ
留守宅ヨリ兼子・愛子・明石照男・横山氏等ノ書状ヲ落手ス
十二月一日 晴 軽寒
午前八時起床、入浴朝食畢リテ二・三人ノ来人ニ接ス、十時半小幡氏《(小畑)》ヲ伴フテ、当市港口ニ在ル、移民入国ニ付其検査等ヲ取扱フ処ノ衙門ヲ一覧ノ為出張ス、熊崎総領事同伴ス、米人ビゲロー氏夫妻ノ案内ニテ館長トツト氏迎ヘテ綿密ニ各所ヲ案内シテ逐一説明セラル、移民調査検閲ノ手続及病気手当等頗ル整頓シタリ、一覧畢テ午飧ヲ饗セラレ後本所ヲ辞シテ、港内ナル水族館ヲ一覧ス、但シ館長ノ案内ニヨルナリ、畢テ地下ノ電鉄ニテ帰宿シ、中島男爵ヘ海底電線ノ事、門野重九郎氏ヘ白岩氏ヨリ文書ノ事、添田博士ヘハ昨日ノ来書ニ対スル回答ヲ認メテ発送シ、又日記ヲ編成ス
夜七時半ヘホン氏ヨリ案内ニテ其家ニ抵ル、晩飧会ノ為ナリ、頭本氏同伴、主人夫妻及令嬢等ニテ家庭的親睦ナル会食ナリ、食事前後ニ於テ種々ノ談話ヲ交換シ、夜十一時帰宿
帰宿後日記ヲ編成シ、又書状ヲ認ム
(欄外記事)
 [移民局ノ設備、其取扱方頗ル鄭重ニシテ、感服スル所多シ
十二月二日 晴又雨 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ種々ノ来客ニ接ス、高峰博士来リテ其身上ノ去就ニ付テ意見ヲ諮ハル、依テ当初ノ目的遂行ヲ慫慂ス、アイランド氏、熊崎領事同伴ニテ国家学ニ関スル種々ノ質問ヲ発ス、又華府会議ニ付テモ内話アリ、正午大橋・団二氏来リ、各地巡回ノ景況ヲ縷述セラル、相共ニ午飧ヲ室内ニ於テシ、華府会議ニ関スル余カ取リシ爾後ノ行動ヲ内示ス、三時半肖像画師ノ家ニ抵ル、小幡同伴ス、帰宿後居初氏欧洲ヨリ帰着ノ由ニテ来訪ス、長康ニ別ヲ告ケテ将来ノ勤勉ヲ督励ス、六時頃堀越氏ヲ伴フテ紐育ノ夜景ヲ親ル、繁華ノ街衢ニ於ル装飾電灯恰モ花ノ如ク、又星ノ如シ、真ニ不夜城ノ名ニ当レルナリ、七時過帰宿、直ニ衣ヲ改メテビゲロ氏ヨリ案内アリシ地球ノ極度ト名クル一倶楽部ノ会同ニ出席シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス十一時散会帰宿ス
十二月三日 晴 寒
 - 第33巻 p.239 -ページ画像 
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、今日紐育ヲ引揚ケ費府ニ赴クトテ九時停車場ニ抵ル、紐育居留ノ人士多数行ヲ送ル、是ヨリ先キ当地内外人ヘノ告別トシテ名刺ヲ贈付ス、一行中ノ堀越氏ハ自家ノ業務ニテ此地ニ止マルニヨリ、紐育ノ有力者ニハ時ニ伝語ヲ托ス、九時半発十一時過費府着、停車場ニハ前大使モリス氏及ワナメーカー氏ノ代理人来リ迎フ、直ニ当地ノ旅宿美景館ニ投シモリス氏夫妻ノ主催ニテ午飧会アリ、来会者二十名許リナリ、主人ノ歓迎演説ニ答ヘテ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、午後三時散会、更ニワナメーカー氏ノ客トナリテ其接待ヲ受ク薄暮ワナメーカー氏ト共ニ、自働車ニテ公園ヲ経テワ氏ノ家ニ抵ル、家ハ郊外十数哩ノ樹林深キ処ニ在リ、家ニ抵リテ揩上美麗《(階)》ナル一室ヲ以テ余ノ寝室ニ供ス、夜七時半主人ノ開催セル晩飧会ニ出席ス、蓋シ余ノ為メニ地方有力ノ人士数十人ヲ招宴シテ余ヲ紹介ス、卓上主人ノ歓迎演説ニ次テ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、談話已ム時ナクシテ、夜十一時散会ス、此日ワ氏会見ヨリ車中又ハ其邸宅ニ於テモ宗教上ノ勧誘頻リナリキ
(欄外記事)
 ワナメーカー氏ヨリ、基督教ノ談話頻リニ生シテ、其応答ニ努メタリ
十二月四日 雪 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、昨夜ヨリ主人ノ注意アリテ接待頗ル鄭重ナリ、余及増田・小幡三人ニ、ブラオン氏ヲ加ヘテ四人食卓ヲ共ニシ、畢テ自働車ニテ費府市街ニ抵リ、ジラード・コレージヲ一覧ス、ワナメーカー氏ハ余等ニ先テ同所ニ在テ迎フ、学生総計千六百人許リ相会シテ堂ニ満ツ、校長先ツ訓示ヲ為シ、ワナメーカー氏余ヲ紹介ノ為メ一場ノ演説アリ、次テ余ハ訓示的演説ヲ為ス、右畢テ市中ニ在ルワナメーカー氏ノ家ニ於テ午飧ス、食事前後ワ氏ハ切ニ余ノ基督教ニ帰依セラレン事ヲ勧告セラル、午後二時一同相携ヘテワ氏ノ管理スル日曜学校会堂ニ抵ル、来会者堂ニ《(満ツ脱カ)》、牧師ニ次テワナメーカー氏講演アリテ、特ニ余ヲ会衆ニ紹介セラレ、後余モ一場ノ演説ヲ為ス畢リテ来会ノ児童ヨリ聖書一冊ヲ余ニ寄送ス、ワナメーカー氏ノ注意ニ出ツ、後別室ノ聖書研究会ニ抵リ、午後五時過旅宿ニニ《(衍カ)》来リテ、ワ氏ノ方ハ増田・小幡ヲ代理セシメ、午後七時頭本・穂阪・矢板氏ト夜飧ヲ共ニシテ、費府ノ旅宿ニ投宿ス
十二月五日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、午前九時頃当市ワナメーカー氏ノ店舗ニ抵リ、ブラオン氏及ワ氏ノ代理等案内ニテ階上ノ基督磔刑ノ名画ヲ一覧ス、時ニフラオン氏ハワ氏ニ代リテ、余ニ特別製ノ袂時計ヲ寄贈ス、其所為極メテ厳粛ナリキ、畢リテ前大使モリス氏ヲ其事務所ニ訪ヘ、一昨日ノ饗宴ヲ謝ス、又当地聯合準備銀行ヲ訪フテ、営業ノ現状ヲ説明セラル、午後一時旅宿ニ帰リ、当地人士ノ開催セル午飧会ニ出席ス、司会者及ブラオン氏ノ演説ニ次テ、余モ一場ノ謝詞ヲ述フ畢テ午後五時発ノ汽車ニテ華盛頓ニ向フ、十時頃華府着添田氏ノ来リ迎フアリ、曾テ宿泊シタルアーリントン・ホテルニ投宿ス、夜添田・原口二氏ノ来訪アリ
 - 第33巻 p.240 -ページ画像 
十二月六日 晴 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後徳川公爵ヲ其旅宿ニ訪ヒ、別後ノ経過ニ付種々ノ談話ヲ交換ス、午飧後モント・バーノンニ抵リ、華盛頓ノ墓所ヲ拝シ、其旧宅ヲ一覧ス、居住ノ結構素朴ニシテ、一モ豪奢虚飾ノ跡ナシ真ニ感佩ニ堪ヘス、低徊教時、一茶店ニ憩ヘテ薄暮旅館ニ帰ル、夕方神田男爵・立博士来訪セラル、安達金之助氏来リテ曾テホルト氏ヨリ依頼セラレシ余ノ日米ニ関スル意見及努力シタル顛末ヲ詳述シテ、一篇ノ論説トシテ以テホルト氏ニ寄贈スル事ヲ委托ス
(欄外記事)
 午前エブリー氏他ノ米人同行来話ス、添田・小松氏等ト共ニ東洋汽船会社ノ事ヲ談ス
十二月七日 晴 軽寒
午前六時半起床、入浴シテ直ニ旅装ヲ理シ、八時発ノ汽車ニテ紐育ニ赴ク、国際病院長トエスラー氏トノ兼約ヲ践テ、ラモント氏ノ招宴ニ応スル為ナリ、増田・小幡二氏同伴ス、十二時半紐育着、堀越氏停車場ニ来リ迎フ、直ニ某クラブ○インデアクラブニ抵リ宴席ニ列席ス、ラモント氏及米人側ニハ前大使モリス氏、ヘンリンタフト氏《(衍)》、其他十数名来会ス、邦人ニハ団・大橋・門野・杉本・藤原・阪井等ノ諸氏参席ス、食後卓上国際病院ニ関スル一場ノ演説ヲ為ス、午後四時散会、ラモント氏ニ別ヲ告ケ、団氏ト車ヲ同フシテ其旅宿ニ抵リ、近状ヲ談話シ、華府会議ノ景況ヨリ、爾来余ノ行動及将来ノ見込ヲモ詳細ニ打合ハセ、団氏一行ハ来ル十三日渡米《(英)》ノ筈ニ付、英国ニ於ル注意ヲモ丁寧ニ説話シ、他ノ諸氏トモ告別シテ、五時紐育発汽車ニテ帰華、夜添田・頭本二氏其他一行ノ人々ト談話ス
十二月八日 曇 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、後笠井重次氏一米人《(笠井重治)》ヲ伴フテ来訪セラル、十一時サイボルト氏来ル、氏ハ本年八月東京ニ来訪セシ縁故ヲ以テ、華府会議ニ関スル我全権ノ行動等ニ種々ノ質問アリ、且余ノ従来唱道スル日米親善ニ付各方面ヨリ問ヲ発シ、談話時ニ緊張ノ事アリ、一時余款談シテ充分ノ了解ヲ得タルモノヽ如シ、同氏帰去後マクラチー氏・ホード氏来話ス、マ氏ハ桜府ビー新聞紙主宰ニシテ有名ノ排日論者ナレハ、特ニ胸襟ヲ披キテ之ヲ迎ヘ、種々ノ論談ニ時ヲ移シ添田・頭本二氏ト共ニ午飧シテ、他日桑港ニ於テ再会ヲ約シテ去ル、午飧前後ニ於テ小崎弘道・綱島佳吉二氏来話ス、安孫子氏来訪セラル午飧後サミユール・ゴンパス氏ヲ其事務所ニ訪ヒ、一別以来ノ久闊ヲ叙シ、労働問題ニ付二・三ノ意見ヲ交換ス、同氏曾テ宣明シタル意見書ノ稿本ト一篇ノ雑誌ヲ寄贈セラル
午後四時半頃帰宿、六時半前大統領タフト氏ヲ其家ニ訪フ、氏ハ現ニ大審院長タリ、十二年ヲ経タル会見ナルモ懇親ノ情替ルコトナク、現下ノ形勢ニ付テ詳細ノ説明アリ、談話畢テ七時半帰宿、夜食後加藤全権ヲ其旅宿ニ訪フモ不在、明日ヲ約シテ帰宿、後日記ヲ編成ス
(欄外記事)
 タフト氏ノ余ヲ待遇スル実ニ親切ナリキ、辞去ノ際雨中送リテ戸外ニ在リ
 - 第33巻 p.241 -ページ画像 
十二月九日 曇 寒
午前七時半起床、風邪気ニ付入浴ヲ止メ、洗面シテ朝飧ス、米人ゲーロー氏及ブリーソン氏等来訪、桑港到着ノ際同地基督教青年会ノ為メ一場ノ談話ヲ請求セラル、依テ講演ハ謝絶スルモ、会談ナレハ同意ノ旨ヲ回答ス、望月小太郎氏来話ス、岩永祐吉氏来《(岩永裕吉)》リ、国際通信ノ事ニ付樺山氏ノ書状ヲ携帯ス、且紐育ナル日米関係委員会ニ付種々ノ談話ヲ為ス
安孫子・植原二氏来リ、米国留学生ノ事ニ付意見ヲ陳ス、午後一時ホード氏主催ノ太平洋商業大会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス、畢テ帰宿三時半加藤全権ヲ事務所ニ訪ヒ、華府会議ニ関スル詳細ノ説明ヲ聞ク奉職就任以来其心事及行動共ニ切実ニシテ、大ニ同情スヘキモノアリ午後五時頃帰宿、夜七時半昨年来遊ノ議員団ノ招宴ニテ一旅宿ニ抵ル主人側ハ夫人モ同伴ニテ饗応丁寧ナリ、食卓ニテ一場ノ演説ヲ為シ、賓主歓ヲ尽シ、夜十一時散会帰宿ス
十二月十日 曇 寒
昨日ヨリ風邪気ニテ入浴ヲ廃シ、起床直ニ洗面シテ朝飧ス、午前十時添田・頭本二氏ト共ニ華府ニ開催スル会議場ニ抵ル、特ニ一官衙ヲ以テ之ニ充テタレハ、体裁頗ル整頓ス、傍聴者場ニ満チ殊ニ婦人多シ、会議ハ日英米仏四国協約ノ決議アリ、ヒユーヅ国務卿最モ斡旋セラル英仏日其他各国ノ代表者交々立テ賛成演説アリ、畢リテ午後一時半徳川公ノ旅宿ニ抵リ、其開催スル国際聯盟ノ協賛ニ関スル午飧会ニ出席ス、上院議員バートン氏、サミユール・ゴンハス氏等来会ス、卓上諸氏ト共ニ一場ノ演説ヲ為ス、午後三時ルート氏ヲ其詰所ニ訪ヒ、款談半時間ヲ過ク、阪谷男ノ事ニ及ヒテ懇篤ナル伝言アリ、辞去シテヒユーズ氏国務省《(ヲ脱)》ニ訪フ、会談数十分、先ツ本日会議ノ決定ニ付祝意ヲ述ヘ、次テ日米関係ニ付従来ノ苦心ヲ詳陳ス、氏モ充分了解ノ旨ヲ叙セラル、帰宿後桑港ナルアレキサンダー、リンチ二氏来訪、依テ今夕晩飧ヲ共ニセン事ヲ約ス
七時二氏再ヒ来訪ス、晩餐中種々ノ談話ヲ交換ス、夜十時散会ス、小松緑氏来ル、久闊ヲ叙シ、時事ヲ談ス
十二月十一日 曇 寒
午前七時起床、風邪気ニテ入浴ヲ止メ、洗面シテ朝飧ス、午前十時米国婦人来訪ス、曾テシンシナチー市ニ於テ会見セシ一寡婦ノ友人ニテ頃日汽車中ニテ邂逅シタル人ナリ、依テ詳細ノ伝語ヲ托ス、安孫子氏夫妻来訪、本邦男女ノ学生ヲ撰択シテ米国ニ留学セシメ、善良ナル学友ヲ作ラシムルト共ニ、其学生ノ修学ニ便スルノ必要ヲ縷述セラル、小田切氏・杉村氏等来話ス、午後一時過午飧シ、畢テ種々ノ来人ニ接ス、蓋シ今夕当地ヲ去ルニ付告別ノ為メ来ル者多シ、三時半小幡氏ヲ伴フテ会堂ニ抵リ、ヒンレー氏ノ宗教講演アリ、中ニタウンセント・ハリス氏ノ事ニ付テ、余ノ名ヲ加ヘテ当時ノ時態ヲ証明スルニ付、来会者中ニ余ニ握手ヲ求ムル者頗ル多シ
蓋シ此日曜講演ハ、本邦ヨリ渡来セル華府会議ノ全権ニ関スルニヨリ徳川公爵モ一場ノ演説アリテ、開国当時ノ外交ニ論及シテ会衆ノ拍手ヲ受ケタリ
 - 第33巻 p.242 -ページ画像 
畢テ加藤・徳川・幣原・埴原ノ四氏ヲ訪ヒ、今夕当地出立ノ事ヲ告ク何レモ帰京後ノ会見ヲ約シテ去ル、七時頃旅宿ニテ高峰・堀越・山本悌二郎・小松緑・田川大吉郎・安達謹之助諸氏ト留別ノ小宴ヲ開キ、夜十時四十分発ノ汽車ニテ当地ヲ発ス


竜門雑誌 第四〇七号・第三二―三九頁 大正一一年四月 ○渡米日誌 青淵先生(DK330012k-0002)
第33巻 p.242-247 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第三二―三九頁大正一一年四月
    ○渡米日誌
                          青淵先生
○上略
 十一月七日(月) 午前七時半着府○ワシントン府アーリントン・ホテルに投宿、子爵は午前九時シヨーラム・ホテルに於て徳川公と会見す、後全権の事務所に抵りて、幣原大使と会談して渡米の趣旨を詳細に陳述す、午後は種々の来客応接に忙しく、夜に入り一行と共に原口少将より日本食の饗応を受けたり。
 十一月八日(火) 子爵・添田・頭本・堀越諸氏共に徳川・加藤・幣原の各全権を其事務所に訪ふて、子爵より一行渡米の趣旨を詳陳し、且本会議に関する国民側の意向を忌憚なく進言す、是に於て加藤全権より重要案件に就て打明けたる説明ありたり、此要談中曩に請求したる一行の大統領接見時間(三時三十分)となりたるを以て、一時此要談を中断し、幣原大使に伴はれて子爵以下四名は白堊館に赴きたるに子爵が従前大統領謁見の際には曾て見受けざる多数武官の案内により先づ東の間(イースト・ルーム)に通りて待合せたる後、緑《(青)》の間(ブルー・ルーム)に転じ、其中央に直立せられたるハーヂング大統領に謁見せり、大統領は先づ子爵に握手して二三の談話を交換せられ、後他の三氏と握手して謁見の式を畢り、再び全権事務所に抵り、加藤全権との要談を継続し、及他の三氏より伏臓なく其意見を具申し、加藤全権よりも、既に内外新聞記者の質問に対して、軍備制限の大趣旨は帝国も全然賛成にして他邦と倶に相当減縮に躊躇せざる旨を宣明し、帝国政府の態度は既に世界の知る所となるに至れる旨を詳話せられ、尚ほ四名より反覆陳述せる意見に付ても、其趣意を諒とする旨を明答せられたり、午後六時頃全権事務所を退出して旅宿に抵れば、各種の目的を以て来訪する新聞記者引きも切らず、頗る雑沓を極めたり、夜に入りて加藤海軍中将来訪せられ、軍縮問題に付種々の談話あり。
 十一月九日(水) 朝サミユール・ヒル氏、米国務卿ブライアン氏の来訪に接す、午前十時ジヨーダン博士紹介の上院議員ボーラー氏訪問の為め、子爵・添田・頭本氏等は米国代議院に抵る、先づロスアンゼルス出身の代議員オスボン氏を其事務所に訪ひ、氏の案内により共和党代議士フリア氏に面会し、更に民主党代議士ハツドルストン氏と会話す、氏は一種の精神的意見を主張せられ、単に形式的に軍備を制限するのみを以て根本の平和を期すべからざる旨を力説せられ、日米問題に関しては、両国の有志者間に相談会の如きものを開きて時々事情の疏通を努むべしと言へり、子爵よりも従来の尽力を陳述し、相談会の開催に付ては、追て添田氏に於て担当することゝして、更に別館なる元老議員事務室にボーラー氏を訪問し、子爵よりも先づボーラー氏
 - 第33巻 p.243 -ページ画像 
の宿論たりし軍備制限問題が実現するに至れるを祝されたるに、氏も喜悦の体にて種々の談話ありたり、会見畢つて一同は全権事務所に赴き、全権各位に面会し、子爵は殊に加藤全権に向て進言するに、今般軍備縮小の為め一部の当業者及労働者間には其営業上に急激の変化を生ずるを以て多少の苦情あるべきも、事の大小を較量せられて、適当の処置ありたき旨を具申せられ、午後四時半華府発車、同夜十時紐育に帰着す。
 十一月十日(木) 正午紐育日本協会代表者ヂヤツジ・ゲーリー氏主催の午餐会に出席、子爵、ストーン、添田博士諸氏の卓上演説あり、散会後クラーク氏の案内にて、同氏経営のアメリカン・ヱクスチヱンヂ・ナシヨナル・バンクを一覧す、夜フインレー氏(後にウイツカーシヤム氏代りて司会者となる)主催の晩餐会に臨み、子爵は東京日米関係委員会の沿革を演説し、尋でウイツカーシヤム、ラツセル、ギユーリツク、熊崎、添田、フオーステツク、頭本、植原諸氏の卓上演説あり、子爵一行は中途にて退席、直ちにイーストマン氏の招きに応じ十一時二十五分発の夜行列車に搭乗してロツチヱスターに向ふ。
 十一月十一日(金) 朝八時着、イーストマン、イーストウッド(銀行家)氏等の出迎を受け、子爵以下氏の邸の客と為る、正午ドクトルモリガン氏の主催に係るカントリー・クラブに於ける午餐会に出席し夜はイーストマン氏が其邸に於て催されたる晩餐会に臨み、イーストマン、ハッペル、リース、頭本諸氏及子爵の卓上演説ありたり。
 十一月十二日(土) 一行は午前中イーストマン氏経営のコダック写真工場を巡覧し、午餐の饗を受け、子爵は食卓上一の訓示演説を為し午後二時二十分同地を辞し、同十時紐育に帰着す。
 此日華盛頓コンチネンタル・メモリヤル・ホールに開かれたる大会議の景況を略記すれば、先づ大統領の式辞あり、次に英国全権バルフオア氏よりヒユース氏を議長に推挙するの動議ありて、ヒユース氏議長席に就て直に海軍減少案を提出せらる、仏国全権ブリアン氏、我全権徳川公を始め、伊・白・支・蘭・葡代表者の挨拶あり、軍備委員と極東太平洋委員とを設くる旨の報告あり、ロツヂ氏の動議により更に十五日より開会することに決して閉会す。
 此日添田氏より全権各位に向て、十五日開会の冒頭に於て、日本全権よりヒユース案に賛意表明の必要を具申す。
 十一月十三日(日) 午前ヂヤツジ・ゲーリー氏のロング・アイランドに於ける同氏邸の午餐会に出席す、ゲーリー、子爵、頭本諸氏の卓上演説あり。
 十一月十四日(月) 正午クラーク氏主催の午餐会に赴き、後ホースシヨウに伴はれたり、夜日本人会主催の晩餐会に招かれ、八時より日本人会館に於ける演説会に赴き、子爵・添田博士より在留同胞の心得方に就き講演あり。
 十一月十五日(火) 夜吉松貞弥氏より米国労働問題に関する其実験談を聴取す。
 十一月十六日(水) 午前子爵はブラオン、ハリス、チヤツピン三氏(世界日曜学校関係者)ボスウオース氏(紐育ゼ・サン記者)トヰス
 - 第33巻 p.244 -ページ画像 
ラー氏(東京聖路加病院長)及ヘツボーン氏の来訪を受け、夜は前日に引続き吉松貞弥氏の紐育美術製版職工組合に関する談話を聴取す。
 十一月十七日(木) 朝子爵はハミルトン・ホルト氏に面会、米国側関係委員会を永続的のものとなし、誤報訂正に関する活動に就き意見の交換あり、正午東京日米関係委員子爵・団・串田(団・串田の両氏は訪米英実業団員として来紐)添田・頭本・堀越の六氏会合し、子爵より経過の報告あり、午後一時半在コロンビア大学日本学生集合に於て子爵並に添田氏の訓話あり、夜は一同ワルドルフ・アストリアに於ける紐育州商業会議所第五十三回恒例晩餐会に招かれ出席す、同会頭キングスレー氏司会の下に子爵は一場の演説を試みられたり。
 十一月十八日(金) 子爵は随行員を伴ひ、午前八時発の列車にてピツツバークに向ひ出発、午後六時五十分到着せらる(頭本・堀越の両氏は紐育に止まり、添田氏は講演の為めプリンストン大学に赴き、翌日ワシントンに帰府す)子爵旧知のハインツ、キニーアの諸氏一行を停車場に出迎ふ、子爵と増田・小畑の両氏はハインツ氏の客となり、其他はシエンレー・ホテルに投宿す、此夜子爵はウヱステングハウス社長ハー氏の来訪を受け、主人ハインツ氏と共に会談し、又ハインツ氏は故ハインツ氏の追懐談に時を移し、深更に及びたり。
 十一月十九日(土) 朝来新聞記者の来訪あり、午前子爵は故ハインツ氏の墓を弔ひ、カーネギー博物館に抵り、先きに寄贈し置きたる徳川時代上流婦人人形の陳列式に臨みて一場の演説を為し、又午後一時同館長ホーランド博士主催の午餐に出席す、同氏及ハインツ氏に続きて卓上演説を試み、終つて結核療養所を一覧し、午後四時半キニーア氏宅に於ける茶会に臨席し、夜は同地実業家にして世界日曜学校協会幹事たる人々に依つて催されたる晩餐会へ赴かれ、席上、座長キニーア、ハインツ、ダビツドソン諸氏に続て、今回渡米の目的及故ハインツ氏に関する追憶談を試みられたり。
 十一月二十日(日) 午前九時五十二分ハインツ及キニーア両氏に送られて、ピツツバークを発し、午後八時紐育に帰着す。
 十一月二十一日(月) 午前午後内外多数の来客あり、子爵及頭本氏午後七時半、紐育聯合準備銀行頭取ストロング氏主催の晩餐会に出席す、当夜の来会者は、同銀行取締役会長ジヨーイ氏其他主客併せて十名なり。
 十一月二十二日(火) 子爵は午前堀越商会の業務を視、午後頭本氏と共に蠣浦なるルーズベルト氏未亡人を訪問す、後故人の墳墓に詣す夜は堀越商会支配人阪野氏宅の晩餐会へ臨席せらる。
 十一月二十三日(水) 午前十一時子爵及一行はゼ・ナシヨナル・シチー・バンク頭取ミツチヱル氏主催の午餐会へ出席す、同氏及子爵の卓上演説あり、夕刻子爵は頭本氏、ギユーリツク博士及熊崎総領事と会して、紐育日米関係委員会の事業に関し意見の交換を為したり、夜はタフト氏邸に於ける晩餐会へ出席せられ、同氏と日米親善に関する意見の交換を為す、此夜阪谷男爵よりの入電に関し、協議の必要を生じたる為め、在華府添田氏に向つて至急紐育に来るべき旨を打電す。
 十一月二十四日(サンクスギビングデー)早朝子爵は阪谷男爵より
 - 第33巻 p.245 -ページ画像 
の入電に就き、添田・頭本・堀越諸氏の意見を徴せられ、其結果添田氏をして直に華府へ引返し、各全権の意見を確めしめたる上、日本に返電することに決す。
 此日は感謝祭なれば何等の会合なく、只来訪者に面接せられしのみなり、此日添田氏より全権と会見の結果に付来電あり、華府会議に関しては別に記録あるを以て、以下省略す。
 十一月二十五日(金) 正午子爵及堀越氏は、紐育絹業副協会長ステリー氏主催の午餐会に出席、日本生糸に関し来会の生糸業者と意見を交換したり。
 夜子爵一行はクラーク氏邸に於ける晩餐会に出席し、クラーク氏の歓迎辞に対し、子爵は一同を代表して答辞を陳べられたり、此夜ヂヤツヂ・ゲーリー氏夫妻及諸名士も多数来会せり。
 此日東京阪谷男爵よりの来電に対し答電を発す。
 十一月二十六日(土) 正午子爵には米国アルミナム会社長デビス氏の午餐会に出席し、日本に於けるアルミナム事業に関し協議せらる、高峰博士及古谷其他の諸氏来会す、夜子爵は頭本・堀越両氏と共に、在紐育如水会支部の晩餐会に臨席し、子爵及頭本氏は一場の演説を試みられたり。
 本日阪谷男爵に対し華府会議に関する電報を発す。
 十一月二十七日(日) 正午子爵及一行はヴアンダーリツプ氏に招かれ、スカーバラー・オン・ハドソンなる同氏邸の午餐会に出席す。
 卓上主人の挨拶に対し子爵の謝辞あり、食後子爵と同氏との間に、華府会議に関する談話、並に欧洲各国財政に関する同氏の視察談等あり、夕刻同夫人の案内にて、同邸構内に建設せる同氏理想のスカボロー・スクールと名づくる学校を一覧し、午後八時紐育に帰着す。
 十一月二十八日(月) 午前子爵には米国基督教青年会々長モツト氏及フイツシヤー氏の来訪を受け、会談の後、頭本氏と共に正午ハミルトン・ホルト氏主催の午餐会に出席し、食卓上に於て精神上に属する種々の問題ありて款談数刻に及ぶ、夜は一同日本人クラブに於ける高峰氏の晩餐会に赴き、当市在留の多数日本人に面会したり、此夜阪谷男爵に対する返電に関し、添田氏へ打電来紐を求められしを以て、添田氏特に来紐せられ、一同凝議せるも、事件の重大なるを以て各一夜を熟慮すべき事とせり。
 十一月二十九日(火) 早朝子爵は添田・頭本・堀越の諸氏と会し、阪谷男爵に対する返電案を協議決定して之を打電し、同時に添田氏をして華府に赴かしめ、全権に其結果を内報せしめたり、夜は子爵外一同ヴアンダーリツプ氏夫妻の案内にて、コロニアル・クラブに於ける晩餐会に出席し、尚同夫妻に伴はれてカシノ劇場に於て観劇したり。
 十一月三十日(水) 正午子爵に堀越氏同伴、在紐邦人生糸業者の午餐会へ出席し、一場の演説を試みられ、夕刻旅宿に於て紐育日米関係委員会会長ウイツカーシヤム氏、同会幹事ギユーリツク博士、及熊崎総領事と会して、紐育に設立する日米関係委員会の事を協議す、ウイツカーシヤム及ギユーリツク両氏の意向は、同委員会は華府会議の結果を待て将来活動の方針を定めんとするものなるも、子爵の注意に随
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ひ、先づ第一着手として新聞紙上に於ける日米間の記事に誤謬あらば之が訂正をなす方針なりとの談話あり、子爵は又東京に於ける日米関係委員会の来歴を詳談し、帰朝の上は新聞紙誤謬訂正の事項も加へて将来互に提携すべく、尚桑港に於ける日米関係委員会にも交渉して、均しく聯絡を取るべきことを約したり、夜子爵外一同市内に於けるジヨージ・ゲーリー氏邸に於ける晩餐会に出席す、主人ゲーリー氏夫妻キグスレー、タフト等諸氏及子爵並に頭本氏の演説ありたり。
 十二月一日(木) 午前十一時子爵は熊崎総領事と共に、トツド氏の案内にて、エリス島に到着せる欧洲移民の取扱状況を視察したる後、午餐饗応を受け、夜はヘボーン氏に招かれ、其家庭的晩餐会に出席せられたり。
 十二月二日(金) 子爵は正午団琢磨及大橋新太郎の両氏と会し、華府会議に関し協議する処あり、又午後熊崎総領事の紹介にて、コロンビヤ大学講師アイルランド氏に会し、華府会議に関し意見を交換せられたり、夜子爵及頭本氏はヱンド・オブ・アース会長ビゲロー氏に招かれ、同会年会晩餐会へ出席せられたり。
 十二月三日(土) 子爵及一行(堀越氏を除く)は午前九時四十分、費府へ向つて紐育を出発す、午後零時半同府着、前駐日大使モーリス及ブラオン氏停車場に在りて一行を迎へ、直にベルビウー・ストラツトフオード・ホテルに到り、少憩の後、子爵外一同モーリス氏夫妻の催にかゝる午餐会へ出席し、子爵は一同を代表して謝辞を陳べらる、終つてワナメーカー氏を同氏商店に訪問して会談の後、子爵は増田・小畑と共に同氏に伴はれ、自働車に同乗して同氏の郊外本邸の客と為り、其他は同ホテルに投宿す、夜は一同ワナメーカー氏の催にかゝる同邸の晩餐会へ出席し、子爵より一行を代表して一場の演説を試みられ、宴終り人散じたる後、別室に於て子爵とワナメーカー氏との会談津々として深更に及びたり、堀越善重郎氏は本日一行と分離して紐育に止る。
 十二月四日(日) 朝子爵及一行はゼラード・カレージを一覧す、校長フリツツ氏、総長アンダーソン氏の演説に続て、子爵も学生に対し一場の講話を試みられ、正午ワナメーカー氏の市内邸に於て午餐の饗を受け、夫れより相伴ふて同氏の監督するベサニー・サンデー・スクールに至り、其の紹介によりて、子爵は大講堂に集会せる数百人の男女に対し一場の講演を試み、又別室に於る聖書研究会に於て一場の演説を為し、再度大講堂に帰来して集会せる人々と一々厚き握手を交換せられたり、此日降雪烈しく、子爵はブラオン博士の懇切なる忠告に依り、ワナメーカー氏の同意を得て、同邸に止宿するの約を変更してベルビウー・ストラツトフオード・ホテルに投宿せられたり。
 十二月五日(月) 子爵には頭本氏と共に午前市長を訪問し、次でワナメーカー氏商店に抵る、時に同氏は病気の為め親しく贈呈すること能はざるを遺憾とすとて、友人ブラオン博士を以て、同商店の基督磔刑の名画ある特別室に於て、金時計を記念として子爵に贈られたり、畢て子爵はモーリス氏を訪ふて、頃日の厚意を謝し、尚費府準備銀行頭取ノリス氏を訪問し、午後一時半市長及当市実業家の催にかゝる午
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餐会に出席し、市長モーア氏、ブラウン氏其他の卓上演説あり、之に対して子爵の答辞ありたり。
 午後五時十五分ブラオン氏等に送られ、費府を発車して華府に向ひ同八時半同府着、添田氏及原口少将(大使館付武官)の出迎を受け、一同アーリントン・ホテルに投宿す。
十二月六日(火) 午前九時子爵には徳川公爵と会談す、午後マウント・ヴアーノンなるワシントンの墓所に詣でらる、此日小田切万寿之助氏より阪谷男爵の返電を落手す。
 十二月七日(水) 此日子爵は午前七時半華府を発し、午後一時五分紐育に着し、直にインデア・クラブに於けるラモント氏主催の東京聖路加病院建築費醵出の協議に関する午餐会に臨席し、一場の演説を試みられ、了りて団氏を其旅宿に訪ふて、華府会議に関して爾後の経過を談話し、同夜帰宿せらる、此日の会合には、前駐日大使モーリス、コロンウエル、タフト、オスボーン、トヰスラー諸氏及有力なる当市の実業家・宗教家の出席あり、邦人側にては団・大橋・門野・藤原等の諸氏出席ありたり。
 十二月八日(木) 朝来目下滞在中のマクラツチー氏と意見を交換せられ、正午マクラツチー氏及フオード氏を招待して午餐会を催し、加州在留邦人問題に付き種々の論議ありたり、午後ゴムパース氏及タフト氏を訪問会談せられたり。
 十二月九日(金) 正午コスモス・クラブに於けるフオード氏の午餐会へ出席し、午後三時半加藤全権と会見す、夜はニユー・ウイラードホテルに於て昨年渡日したる米議員団員オスボーン、ハリス、スモール及キヤムベル等の諸氏夫妻の催に係る晩餐会に臨み、主人側の卓上演説に対し、子爵及添田・頭本両氏の答辞ありたり。
 十二月十日(土) 子爵は午前十時コンチネンタル・メモリアル・ホールに赴き、第四回の華盛頓会議を傍聴せらる。
 正午シヨーラム・ホテルに於ける徳川公爵主催の午餐会に臨み、国際聯盟協会関係諸氏に面会せられたり、午後三時ルート氏、同四時ヒユース氏を各其官庁に訪ひ、種々の会談を試み、夜は桑港アレキサンダー及リンチ両氏の来華を機として、小宴をホテル内に開きて懇談せり。
 十二月十一日(日) 子爵は印度支那の件に関する東京商業会議所よりの来電に対し答電し、其他来客に接し、午後カヴヱナント教会に於て徳川公爵の演説を傍聴し、夜は紐育より態々来訪したる高峰博士・堀越善重郎氏を始め、日下滞華中の山本悌二郎・田川大吉郎・小松緑安達金之助等の諸氏を招き、留別の宴を開き、午後十時五十五分出発ロスアンゼルスに向はる。
○下略


竜門雑誌 第四一二号・第二三―三五頁大正一一年九月 ○青淵先生渡米紀行(四) 随行員増田明六(DK330012k-0003)
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竜門雑誌 第四一二号・第二三―三五頁大正一一年九月
    ○青淵先生渡米紀行(四)
                   随行員増田明六
○上略
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十一月七日(月曜日) 晴
 午前七時半先生を始め一行華盛頓停車場に着す、先着の添田博士・陸軍少将原口初太郎の両氏先生を迎へ、相携へてホテル・アーリントンに投宿す(原口少将は米国駐在大使館附武官にて、先きに東京出発赴任の際親敷先生を訪問して、日米問題に就き意見を聴取せられたるなり)因に華盛頓府は世界各国政府の全権委員及之が随員関係等輻輳して、孰れのホテルも既に満員にて空室を存せざりしが、先着の添田博士と原口少将の尽力にて漸く此ホテルに入る事を得たるなり。
 此日先生には添田・頭本・堀越の三氏を帯同して、午前中日本の全権たる徳川家達公並に駐米大使にて同全権たる幣原男爵を訪問して、来る十一日より開催せらるゝ会議の議題に就き両氏の意見を聴取し、又日米関係委員会を代表したる意見を陳述して帰宿、夫れより同地に集合せる日米両国の新聞記者に接して、日本国民の同会議に対する意見を陳べ、又紐育ゼ・ウオールドの特派記者たる足立金之助氏に特に会見して、同紙を通じて広く之を喧伝するの策を執られたり
 夜七時より原口少将に招かれて一同日本料理の饗を受く、同少将及騎兵少佐原常成氏列席、大に斡旋せられたり、午後十一時帰宿
十一月八日(火曜日) 晴
 先生には午前在宿、午後二時日本の首席全権たる男爵加藤友三郎氏と会談し、前日徳川全権に於けると均しく華府会議に対する同全権の意見を聴取し、又日米関係委員会の代表者としての意見を陳べ、且向後会議進展の模様に依りては、微力の在らん限りを尽すべしと誓はれたり、同三時四十五分幣原大使に伴はれてハーデング大統領に謁見せらる、添田博士・頭本元貞・堀越善重郎の三氏同行す、同大統領は先生を引見して遠来を悦び、且老年と聞き居りしが意外に壮健なる容姿に驚くと云はれしに対し、先生は日本国民として日米両国の親善の為に多年微力を尽し居る旨を陳べ、且壮年の頃五十位の年配の人を見ると大に老人に見へたるが、自分が其年に為ると老人とは感ぜざるものなりと答へ、更に大統領は貴下の両国の為めに尽さるゝを衷心より悦ぶと同時に、尚将来も充分尽力を請ふとの談話ありしと云ふ
 因に先生は明治三十五年六月渡米の際、時の大統領ルーズヴエルト氏に謁見せられたるが、其際大統領は北清事変に対する日本の態度、及日本の美術品に付き大に賞讚したるに対し、先生は予は実業家なるが日本の実業も他日閣下より賞讚を受くる様尽力すべしと答へられ、更に大正四年第三回渡米の際オイスター・ベーに於ける同氏邸にて会見したるに、同氏は三十五年の先生の談を記憶して居りて、日本の実業の発展に就て賞讃せられたりと云ふ、又タフト大統領には明治四十二年第二回の渡米の際ミネアポリス市にて謁見せられたるが、先是同氏がフイリツピン視察の途次二回東京にて面会せられたり、而して大正四年第三回渡米の際、ウヰルソン大統領にはホワイト・ハウスにて謁見せられたるが、其際氏は先生に対し旅人の足は国境の土を踏みならすものなりと、先生の渡米を悦ばれたり、又先生が多年厚き同情を以て、東京築地聖路加病院々長トヰスラー氏の国際病院の計画に対し尽力せらるゝを感謝せられたるが、トヰスラー氏が大統領夫人の親戚
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なるを以て、常に先生の尽力を耳にせるを以てなり、先生は之に対し是亦日米親善の為めに外ならざる次第なりと答へられたり、如此にして先生は明治三十五年以来歴代の大統領に面謁したる光栄を有せらるるなり
十一月九日(水曜日) 晴
 先生には午前中加州選出下院議員オスボーン氏を始めとして、シヤトル市のサミユール・ヒル氏、並ウヰルソン氏大統領の際国務卿ルリー・ブライアン氏の来訪を受け、会談せられたり、ブライアン氏は先生と旧知の友人なり、本日の来訪は、華府会議に付き何か日本の為めに尽すべき事あらば労を惜しまざるべしとの事なれば、先生は添田博士を当府に残留せしむべきに付き、向後の形勢に因りて拝願すべき事あらば、同博士を経て煩はす事あるべきに付き、御承知置を請ふと依頼せられたり
 先生には頭本・堀越両氏の外、随行員と共に午後三時華府停車場を発して紐育に向ひ、午後八時十分安着、坂野新治郎氏の出迎を受け、直にホテル・プラザに投宿せられたるに、先生の応接及居室と廊下とは各種の鉢植菊花を以て装飾せられ、卓子は又美事の大輪の菊花を以て装飾せられたるを見る、之れは先生の親友ヴアンダリツプ氏より、先生の旅情を慰藉せんと特に秘書ベネデクト氏を以て先生に寄贈られたるものなり、此日添田博士は華府に留りて、日本大使館にて執行せられたる故原首相追悼会に、先生の代理を兼ね出席したり、渋沢長康氏紐育より来りて先生に会見し、同ホテルに投宿す、先生は同氏に渋沢元治氏・団琢磨氏・持田巽氏に宛たる紹介状を交付せられたり
十一月十日(木曜日) 晴
 先生には頭本氏を伴ひ、正午バンカース・クラブに於ける日本協会の歓迎午餐会に出席し、司会者ヂヤツジ・ゲーリー氏(会長ヴアンダーリツプ氏欧洲旅行中に付き代理)の歓迎辞に対し、答辞を陳べられたり
 午後七時先生には、華府滞留の添田氏を除きたる一行を伴ひ、紐育日米関係委員会並聯合基督教会今回開催《(合同)》のエール・クラブに於ける晩餐会に出席せらる、来賓は先生の一行を始め、熊崎総領事・植原悦二郎・川上勇の諸氏にして、主人側は同会委員長ウイツカーシヤム、同幹長ギユーリツク博士を始め、フオスデイツク、モツト、ブラウン、フインレー(紐育タイムス主筆)の諸氏、其他主客併せて三十名なりギユーリツク博士先づ起ちて本会開催の趣旨を説明す、次で司会者たるフインレー氏は先生を来会者に紹介するに当り、先生が一九〇九年渡米の際ブルクリンに故タウンセンド・ハリス氏の墓参を為せし際作られたる詩に言及して、先生が如何に米国に対して厚意を有せらるゝかを披露したり、次で先生は起ちて、先づ嵩高なる団体の合同に依りて一行の招待せられたるを謝し、又ドクトル・フインレー氏及ウイツカーシヤム氏の過大の讚辞を蒙りしを謝し、予は微力ながら多年世界の平和人道の進歩に努めたるが、就中米日両国の親交に関しては始終努力を怠らざりしなり、言ふ迄も無く日本が世界に中間入を為したるは漸く六十年前の事にして、米国最初の公使として日本に派遣せられ
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たるタウンセンド・ハリス氏の厚意に基きしものなり、先年ブルクリンに同氏の墓に詣で、熟々当時の氏の功績を回想して、貴下の赤き真心が予等を貴下の墓に引き付けたるなりと、一詩を作りて手向けたる次第なり、実に此の日本に対する厚意は日本国民の忘るゝ能はざる処なり、当時氏は通訳ヒウスケン氏と共に東京なる麻布の某寺に仮寓せられたるが、徳川政府の施設不完全なりし為め、外国人を敵視したる盲目的愛国者の為めに、通訳ヒウスケン氏は殺害せられ、他国の外交官は孰れも危害を怖れて任地を引上げ避難したるに、ハリス氏一人断乎として此危地に止まりて、泰然として米国政府の使命を全うしたるは、日本の武士道上より日本国民の挙つて賞讚措かざる事なりとす、氏は此在任中種々の厚意を日本に与へられたるが、其の中に就き関税の協定に付きては、特に日本の利益を図りたるは歴史の明かに示す処なり、爾来日本に来る米国の使節は孰れも日本に厚意を与へられ、両国の国交は益々親密となり、日本人は米国に来りて、政治に財政に経済に其他各方面の教育を受け、又事業に関し範を与へられたり、又貿易に就ても、日本は米国より鉄・機械を仰ぎ、米国は日本より生糸を輸入し、如此して国交も貿易も相伴ふて円満に進みたるが、日清・日露戦役後、乍遺憾両国の交際円満を欠くの状を呈せり、蓋し両戦役は決して日本が好んで為したるものにあらず、日本の改廃には換へ難く所謂正当防衛上已むを得ざるに出でたるものなり
 恐るゝは恨を生み出すものなり、一九〇七年頃に至り米国人の日本に対する気風一変して、先づ加州に於て物議を生じたり、当時日本の外務大臣は小村寿太郎氏にして、同年米国当局者と協議して紳士協約を締結したり、予は国際間の問題は単に其関係国の当局者のみに委すべきものにあらず、国民同志も亦誠心誠意其解決に努むべきものなりと信じ、一九〇八年日本に於ける五大商業会議所に諮りて、太平洋沿岸八商業会議所の各代表者を日本に招待して、親敷日本人に接触して日本人の真意の諒解を求めしが、其翌年一九〇九年には却て右貴地会議所より招待を受け、予は其団体の団長として渡米したるが、斯る往復は只単に観光の意味に終らざるなり、互に国民の心情を察知し、問題の解決に充分の力あるものと信ずるなり
 日本の行動に付ては勿論非難すべき事多々あるべしと雖ども、同時に米国にも非難すべき事無しと云ふべからず、故に両国政府は互に折衝すべきは勿論なるが、国民も亦互に意見を交換して誤解を融くの必要あり、併し只単に観光的往復にては、未だ以て親交を継続すべからず、永く之を継続する機関を設くる事必要なり、偶一九一五年渡米の際、桑港に於ける民間有識者が一の委員会を作り、日米問題の研究を勉めたるを以て、我が東京に於ても同一の目的を以て、吾々国民の同志が委員会を組織して、互に提携して問題の解決に勤むる事としたり今回予等の渡米は此委員会を代表したるものにて、本席にある添田・頭本・堀越の三氏は孰れも其委員にして、常に予と共に両国の問題に関し研究を怠らざるものなるが、今回渡米の目的は華府会議の開催せらるゝを機として、加州に於ける問題の融和に止まらず、近年支那に対する両国の関係上、東部に於ても同様の委員会の設立せらるゝを希
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望したるに、幸に本年七月当地に於て委員会の設立せらたる事を、ギユウリツク博士の通信に依りて承知し、雀躍して之を悦ぶ次第なり、願くは同会は我が東京なる委員会と互に提携して、両国の問題の研究に勤め、両国の国交を益円満に進めん事を希望するものなり云々
 先生は演説を終るや、直ちに停車場に至りて十二時発列車に搭じ、ロチヱスター市に向ふ
十一月十一日(金曜日) 曇
 午前八時ロチヱスター市停車場に到着、同地イーストマン氏はイーストウード及カーチスの両氏を伴ひ、停車場に在りて一行を迎へ、先生及頭本・堀越の両氏及増田はイーストマン氏の邸に伴はれ、小畑・穂坂・矢板の三氏はイーストウード氏の案内にて、シエンレー・ホテルに入り、カーチス氏は停車場に止まりて一行荷物の引纏めを為したり
 先生にはイーストマン氏と共に朝餐の卓を囲みたる後、イーストウード及ムリガン両氏夫妻の来訪を受けたる後、十時半イーストマン氏の案内にて氏の寄附金より成れる歯科治療院を参観す、古市氏なる邦人歯科医として在勤、先生を導き各室に案内して説明の労を取る、氏は同院に勤務したる際、記念事業の一端に使用せられたしと、同院より支給せられたる最初の月俸を院長に提供したりとて、院内の一美談として噂せられ居れり、夫れよりムリガン氏邸に於ける茶に臨み、正午同氏夫妻に依りてカントリー・クラブに於て催されたる午餐会に出席せらる、主客併せて百五十名、食堂は特に子爵歓迎の為め福寿と記せる日本の提灯を四方に下げて装飾となせり、ムリガン氏歓迎の辞を陳べ、且来会者に先生を紹介せらる、即先生は起ちてイーストマン氏の厚意に因りて、十二年を隔てゝ再度当市に来り同氏の歓待を受けつつある外、本日如此盛宴に列するは望外の仕合はせなり、只今主人より年齢披露を蒙りしも、予は八十二の老齢なるが、古き事は必ず列席諸君より多く知り居る事を誇と為す事を得べし、玆にある書物に記されたる文字は、日本文にして日米両国の最初の条約の一節にして、両国の永久の懇親を語れり、爾来六十余年両国々交は平和に継続せるを喜ぶ、此条約の締結せられし時予は十五歳の少年なりしが、爾来六十七年間微力為す処無きも、只日米間の問題に付ては種々尽力したる処あり、過刻ムリガン氏邸にてグランド将軍の写真を見たるが、同将軍の日本に来訪せられしは明治十二年にして、其際予は東京に於て市民の総代として同氏の款待に勤めたり
 予の米国旅行は今回を以て四回と為すが、十二年前の第二回の折当市に出で、市民各位の親厚なる待遇を受けたるを今尚鮮かに記憶せり続て一九一五年第三回の渡米を為したるが、其際当地には来らざりしも、老齢にも拘はらず如此屡々渡米する所以は、多年親善なりし日米の国交が日清・日露戦役後相互に誤解の点ありて、苟もすれば之が親善を阻害するの傾きあるを以て、之を一掃せんが為めなり、昨年はイーストマン氏及ムリガン氏は吾々の招待を快諾せられ、貴重の時間を割きて日本に来遊せられたるは、日本国民の深く欣快とする処なり、今回はイーストマン氏の招待に依りて参上し、親戚同様の待遇を与へ
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らるゝは、蓋し米国人の日本人に対する厚意を披瀝せられたるものなりと信ずるなり、加州に於ける紛議や東部に於ける紛争の多くは、売名の徒又は自己の利益を図る人、又は何か求めんとする人々に依りて醸成せらるゝものなるが、此紛争の根源を艾除するは、両国の識者の勤めなりと信ず、昨年両君の渡日せられたるも、予の今回渡米したるも、必竟此意志に外ならざるなり、元来日米両国間には何等疑を生ずべき問題の存する事無し、互に礼義を守り、互譲に依れば何等恐るゝ処疑ふ処無き筈なり
 米国の如き天然の富源を有するものは、南米に東洋に力を馳せんとするは当然の事なり、日本は米国と同一の利益を争ふて得々とするものに非らざるなり、此席の提灯に日本文字を以て福寿と記されたり、福は米国の専売なり、寿は予に与へられん事を希ふ、予は既に老齢なりと雖ども、尚諸君に依りて与へられたる寿に依りて生存し、益日米親善の為めに努力せん事を期す
 夫れより再度イーストマン氏の案内に依て、同氏一個の寄附金に依りて建設せられたる音楽学校及商業会議所を参観したる後、同会議所の一室に於てイーストマン氏と日米問題に就き対談したるが、先生は今回渡米の目的より両国親善の必要を説きたるに対し、同氏は予は老境にも及び且演説不得手なるを以て、積極的行動に出づる事不能るも精神に於ては先生と全然同意見なりと、腹蔵なき意見を互に交換せられたり
 午後七時よりイーストマン氏邸に於て、同氏主催の歓迎晩餐会あり先生を始め一行列席す、来会者は孰れも同市に於ける有力なる代表的実業家にして、其数十七名なりし、先づイーストマン氏起ちて日本天皇陛下の為めに乾杯を為し、次で先生には米国大統領の為めに乾杯を為したる後、イーストマン氏簡単に先生及一行に対して歓迎の辞を陳ぶ、之に対し先生はイーストマン氏が謙譲自ら誇らざるを、能言未之真君子善処即是大丈夫の東洋の語を引用して激賞し、且来会者に対し孰れも代表的人物なるが、イーストマン氏の日米両国の親善に力を尽さるゝと同様に尽力せられんことを切望する旨を述べられたるが、最後に頭本元貞氏の演説ありて会を閉ぢ、夫れより音楽の弾奏あり、主客孰れも歓を尽し午後十二時散会す
十一月十二日(土曜日) 降雪
 前夜来の降雪紛々として天地の万物暟々たり、オルガン弾奏中にイーストマン氏と共に一同鄭重なる朝餐を終る、ロチヱスター大学に在学中の竹中及イーストマン氏、歯科治療院に在勤中の古市氏先生を来訪す
 午前十時イーストマン氏の案内にて、先生を始め一行コダック会社に至り、其工場を参観す、同工場にては、欧洲戦争前迄は原料品は独逸より輸入せしが、戦争中同品の輸入杜絶の為め、同工場にて研究の上之を製造する事を得たる由にて、此一事は戦争の賜なりとイーストマン氏語れり、同氏の希望に依り先生には重なる同会社々員二十氏の集合に対して一場の訓示を試みられたり、扠予は十二年前当地を訪問せしが、当時は只大なる写真工場あるを知りしのみなりしが、昨年社
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長イーストマン氏が日本に来遊し、親敷面会の上、始めて其温厚篤実にして現代に於て実に各国民の模範とすべき紳士たる事を知り、同社の今日ある故無きにあらずと熟々信ずるに至れり、同氏の渡日は米日両国の親善を増進せんとする為めにして、予の今回の渡米も均しく其目的に出でたるものなり、昨日来同氏は、言葉に難尽款待を予等に与へ、本日は此工場を開放して予等に参観せしめられたるは、予等の光栄之に過ぎざる次第なり、予は過去四十年間日本の実業の発達に尽力したるものなるが、凡ての業を起すには先づ道理に適ふや否やを考へ而して之に配するに細心の知識と勉励と耐忍とを以てせば、如何なる事業と雖も成らざる事なし、本日此工場を参観して右の東洋の教訓が総て実施せられしを見たるが、之れ諸君のイーストマン氏を援助したる結果と確信する次第にして、東洋の勇将の下に弱卒無しと、又一騎当千の士と云ふ諺は、イーストマン氏と諸君との為めに作られたる言葉と云ふも逸辞にはあらざるなりと陳べ、正午々餐をイーストマン氏及右幹部諸氏と共にし、午後二時二十四分イーストマン氏及右の諸氏に送られて、先生外一行汽車中の客と為り紐育に向つて出発す
 午後十時十分紐育に到着、ホテル・プラザに入る
十一月十三日(日曜日) 曇
 先生を始め一同午前十時半自動車を馳せてロング・アイランドに於けるヂヤツジ・ゲーリー氏邸に向ひ、一時半にして達す、途中クヰンボロー・ブリツジを通過す、橋上通路三段ありて、下段は人道、中段は自動車及電車道、而して上段は汽車路なり、同邸に着するやゲーリー氏夫妻悦び出でゝ、先生を拉して室に入る、当日の来会者は先生一行の外、エリス島移民局長コンマンダー・トツド氏夫妻、アドミラル航路会社のアレキサンダー氏夫妻、ニキソン氏夫妻、及ドツグモーア夫人等主客併せて十七名なり、鄭重なる饗宴ありて、最後にゲーリー氏は、先生の生立・性格等より、終始一貫日本帝国の為に尽瘁し、財政経済に精通し、日本の実業の今日の発達は、真に先生の功績なりと来会者に紹介し、尚今回先生の渡米は最も時機を得たるものにして、仮令華府会議に於て日本の全権が如何なる結果を齎らして日本に帰らるゝとも、先生が日本国民に告げらるゝ所は正確にして、日本国民は必ず先生に依りて米国民の誠意を知らるゝならん云々と結び、次ぎに親日のニキソン氏は簡単に、日本の今回の華府会議に参加せられたるは、世界平和の為めに悦ぶべき事なりとの意を陳べられ、最後に先生のゲーリー氏夫妻に対する謝辞、及今回渡米の目的より有力なるゲーリー氏其他の諸氏の尽力によりて、華府会議の円満なる終局を結ぶ様尽力を請ふ旨を述べ、午後十一時款を尽してホテルに帰宿す
 此日訪英実業団員稲畑勝太郎氏先生を来訪、仏国ジユバン氏提案の東京に於ける仏国会館建築の件に付き談話し、又同団員門野重九郎氏来訪、及前駐日大使モーリス氏と会見の由にて、西比利亜問題・支那問題に付き談話ありたり
十一月十四日(月曜日) 雨
 午前十時先生には頭本氏を伴ひストロング氏を訪問せられ、午後一時半一同と共にエル・エル・クラーク氏の出迎を受け、自動車に分乗
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して、同氏邸に於て特に一行丈けの為に催されたる午餐会に臨む、同氏夫妻懇切に一行を款待す、同邸応接室に伊太利画伯ペジエラ氏の画かれた夫人の肖像額あり、其下に佇立する夫人と比較すれば、其何れが真なるか弁じ難し、午餐中蓄音機に依りて日本の勧進帳能等を奏して興を添へ、頗る懇切を極めたり、午後三時より更に同氏夫妻の案内にてホース・シヨウに到り、馬匹の競技を観、午後五時帰宿す
 午後七時半先生は一行を伴ひ、日本倶楽部に於ける日本人会の催にかゝる先生歓迎晩餐会に出席す、司会者の歓迎辞に次ぎ、先生には日米関係の経過を説き、老躯を提げて今回渡米せしも、必竟日本国民の真意を華府会議の開催せらるゝを機会に、米国民は勿論世界の国民に喧伝せんが為なり、諸君は日本人として日本全国民を代表する立場にあり、各個人の人格正しきは即日本国民の人格を表示するものなれば能く此心を以て米国民に臨まれん事を望むとて、孔夫子の「言忠信、行篤敬、雖蛮貊之邦行矣、言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉」の言を引きて一同に希望を陳べられたり
 次に添田博士の演説ありて、十時半自動車にて送られ帰宿
十一月十五日(火曜日) 晴
 先生には終日在宿、左記諸氏の来訪を受けられたり
岸吉松氏(テキサス州にて米作経営者、又油田所有者にして、先生は氏の先考岸宇吉氏とは別懇の間柄なりし)先生の渡米を知り特に来紐の由にて、戦後米国経済界不振の打撃を受け経営困離の状況を語れり、先生は氏を大橋新太郎氏(訪英実業団長として滞紐)に紹介せられたり
井上織夫氏(シヤトル市在留日本人伝道に従事)シヤトル市日本人青年伝道会館建設寄附金募集の為め滞紐の由にて、先生の先年故高橋徹夫氏の希望に依り、東京にて右に寄附金を為したる縁故より、今回の渡米を機として、先生より同事業に対する賛成の書面を得て、訪英実業団員及米人より寄附金を得んとの希望談ありしが、先生には徒らに他人に迷惑を掛くるに忍びずと之を謝絶せられたり
サミユール・ヒル氏(シヤトル市実業家)ロービー大佐を伴ふて来訪先生の為めに何用にても弁ぜんと厚意を寄せらる、先生は厚く之を謝されたり
ハワード・ハインヅ氏(ピツバーグ市蔬菜鑵詰会社長にして、先生は氏の先考ハインヅ氏とは多年眤懇の間柄なりし)紐育に来りしを以て先生に敬意を表し、且来る十八日先生及一行を自邸に招待せん事を約せんが為めに来訪せりと告げらる、先生は深く其厚意を謝し、且同日必ず訪問すべき事を約されたり
川島良一氏(コロンビヤ大学学生にして、東京貯著銀行神田支店長川島太郎氏子息なり)先生並添田博士に面会、来十七日コロンビヤ大学邦人学生の為めに講演せん事を請ひ承諾を得たり
吉松貞弥氏(元友愛会々員にして、目下米国美術製版職工組合に加入し、現に某印刷工場の一職工として従事)来十六日更に先生を訪問して、同労働組合の組織・経営等を談話する事を約す
木村秀雄氏夫妻(先年渡米の節先生の紹介状を受けたる人にて、夫人
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は女優なり)先生に敬意を表さんが為めなり
十一月十六日(水曜日) 晴
 先生には朝平岡寅之助氏の添書を有する紐育にて有力なる邦人写真師小柴徳次郎氏の来訪を受け、撮影を為したる後、左記諸氏の来訪を受けられたり
 エフ・エル・ブラオン氏、アーサー・エム・ハリス氏・エス・ビーチヤツピン氏(孰れも大正九年東京に於ける世界日曜学校大会に出席したる人々なり)は、先生に敬意を表せんが為、又、ボスウオース氏(前紐育ゼ・サン新聞の記者にして、先年渡日、同紙上に極東欄を設けて大に日本を紹介すべしとて、先生の後援を得て掲載料を蒐集したるが、之を実行せざりし人物なり)は氏が渡日の際先生の厚意を拝謝する為め、又トヰスラー及ウードの両氏は先生の東京に於けるトヰスラー氏計画の国際病院設立に対する援助を謝する為め、又ヘツバーン氏(氏は先年先生を経て東京帝国大学に基本金を添へて一講座を建設したる人)は遠来の先生を犒ひ、且先生を招待して一夕家族的晩餐を催す事を約せられたり
 午後六時半前日の約に基き吉松貞弥氏来訪、会食の後氏の加入せる米国美術製版職工組合に関し、凡左記の談話を為せり
一、ユニオンに入る職工は、五年以上同一事業に従事し、技能才幹を有するものに限る
一、ユニンオンは基本金を有す、会員は毎週三弗五十仙の支出を要す其内一弗は基本金に、二弗五十仙は本部の積立金及支部の経費に充てらるゝものなり
一、失業職工には本部より一週二十五弗、病気職工には二十弗を支給す
一、ユニオンに入る労働者は処世上安心立命を得、又賃銭増加希望の場合は一致するを以て要求を達する場合多し、ユニオンに入らざるものは個人関係なるを以て目的を達する事困難なり
一、温情主義は労働者少数の場合は出来得べきも、幾千人と云ふが如き多数の労働者を使用する工場に於ては、到底行はれ難し
一、鉱山労働者は気頗る荒く、軍隊を煩はする事あるも、ユニオンに加入せるものにありては荒きものなし
一、日本に於ては多くは感情に馳りたるストライキ行はるゝも、米国に於ては絶対に無し、米国の夫れは主として時間問題、又は賃銀問題又は解雇の恐怖に起因す
一、ストライキを為す場合と雖とも、前日迄は平然として労働し、機械の如きも清潔に為し、卓上も平常に於ては器具を出し放しに為し置くを、此場合は整理して引取るを例とす
一、ストライキ継続中、ユニオンに於ては毎朝本部に於て点呼を為し不絶一致の行動を取る事に努む、若し此点呼に応ぜざるものは救助を受くる事能はざるなり、又見張番を設け、ユニオン以外の職工をストライキ加入に勧誘する事に勉むる例なるが、同時に資本家側に於ても見張りの巡査を設くるを以て、見張番と雖とも無理に労働者を勧誘する事能はざるなり
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一、米国資本家は日本の如く毎年増給するが如き事なし、其代り十年位に資本家と組合員と協議して、相当の増額を為すを例とす
一、毎年一月資本家代表者三名とユニオン代表者三名と各種問題を協議す、此議題は一ケ月前に提出するを例とす
一、ユニオン組織の場合は、労働局に届出登録を要す
一、ボストンにては、米国最初の試みとして、ユニオンに於て労働者の為めに学校を設け、職工教育を為しつつあり
一、労働者の給料は生活費・教育費・娯楽費・老後生活費を含みたるものとす、故に贅沢を為さゞる以上は、米国労働者は給料の四分の一を剰す事を得べし、自分(吉松氏)は月二百弗の収入を有するが内五十弗宛を剰し居れり
一、労働者家庭の概況
 一、郊外に住居す
 一、家賃比較的低し、アツパートメントにて三室を借入るとして月五十弗位なり、通例五十五弗は一週間分の給料なり
 一、食事費は夫婦にて一日一弗五十仙(自炊)独身にて一弗二十五仙(外にて食事する以て比較的高し)にて足るべし
  昼間はサンドウイツチと牛乳又は珈琲を用ゆるを例とす
 右談話には先生の外、添田寿一・中島久万吉男・松村光三・岸吉松の諸氏及増田明六相会す
 此日、エル・エル・クラーク氏より見事の葡萄一籠を先生に寄贈せられたり
十一月十七日(木曜日) 晴
 先生には午前中ハミルトン・ホルト氏(紐育インデペンデント雑誌主筆)及グリーソン氏(往年東京基督教青年会に在任)の来訪を受け面接せられたり
 正午先生の室に於て東京日米関係委員会を開き、先生を始め、団琢磨・串田万蔵(両氏は訪英実業団員として紐育に滞在)・添田寿一・頭本元貞の諸氏相会し、華府会議に関し一致の行動を取るべく熱心なる協議を遂げられたり
 午後二時先生には添田・増田・穂坂三氏を伴ひ、美以教会に於て催されたるコロムビヤ大学邦人学生講演会に臨席せらる、同教会は加藤氏の主管にして、目下邦人学生三十名を収容寄宿せしめ居ると云ふ、来会の学生三十余名、川島良一氏先づ先生を始め添田・増田・穂坂の三氏を来会者に紹介したり、次ぎに先生は徐々に日米国交の経過及現状より説き起し、過去三回渡米したる所以、並今回渡米の目的等を詳説し、諸子も亦常に日米親善に意を注き、両国の国交をして益光輝あらしむべしと訓諭的演説を試み、添田博士は欧洲大戦の根源は必竟世界が物質文明に偏倚したる結果なるが、此戦禍にこりて人類が徒に物質文明に憧れたるを悔悟したり、然れども未以て真に改悛の精神を見る事能はざるを遺憾とすと、目下の華府会議の状態を説き及ぼし、軍備縮少は六尺の剣を三尺に縮めたるに過ぎず、三尺の剣は亦以て人を殺すに足るべし、更に武器を取り去りても尚鉄拳を有す、以て争を為すに足るべし、故に吾人は精神上争無からしめざるべからず云々と論
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じ、又来会者中の学生川島茂氏は起ちて、日米親善の捷径は、日本を米国人に知らしむるにあり、其方法としては小学教師の交換教授を為すにあり、依て先づ米国の小学校教師を日本に招致し、日本の国情を知らしむる事、又日本の美術品陳列場を紐育に設くる事、日本の各種活動写真を米国人に見せしむる事等は最も必要なりと説き、午後四時半同講演会終了、記念撮影を為して辞去す
 同六時半先生外一同紐育商業会議所より廻附せられたる自働車に分乗して、ウオルドルフ・アストリアにて開催せられたる紐育商業会議所第百五拾三回恒例晩餐会に出席す、会衆約六百名、先生は当日の主賓として、会頭キングスレー氏の右に坐席し、頭本氏通訳として先生の右に坐す、会は祈祷に始まり宴会に進み、デサート・コースに於て司会者たる会頭は起ちて、先生を会衆に紹介したる後、大演説を試む次ぎに先生は起ちて、簡単に邦語を以て挨拶を為し、且つ予は英語を解せざるを以て、時間省略の為め頭本氏をして予の所感を述べしむべし、即頭本氏は先生に代り英語を以て、紐育市は世界の大都会にて、貿易上金融上世界の中心なり、我が東京は紐育市と最も密接の関係を有す、紐育市に於ける市況は直に東京の事業界に影響す、故に紐育市と東京市とは益離るべからざる理由を有するものなり、此意味に於て諸君は、共に益両国の親交の深からん事を切望して止まざるなり云々と結び、次でインデアナ州選出上院議員ベヴアリツヂ氏、ヴーヂニヤ州前知事コーンウエル氏の熱烈なる演説ありて、十二時散会


竜門雑誌 第四一四号・第二八―三二頁大正一一年一一月 ○青淵先生渡米紀行(五) 随行員増田明六(DK330012k-0004)
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竜門雑誌 第四一四号・第二八―三二頁大正一一年一一月
    ○青淵先生渡米紀行(五)
                  随行員増田明六
十一月十八日(金曜日) 晴
 午前八時五分、先生は増田・小畑・穂坂・矢板及渋沢長康氏を伴ひペンシルベニア停車場を発して、ピツツバーグ市に向ひ、午後六時五十分同市イースト・リバアー・ステーシヨンに到着す、ハワード・ハインヅ、キンニーアの両氏自働車を以て停車場に一行を迎ふ、先生と増田・小畑はハインヅ氏邸の客と為りて同邸に入り、穂坂・矢板・渋沢はキンニーア氏に導かれて、シエンレー・ホテルに投宿す
 先生はハインヅ氏夫妻が我が慈父に対すると均しき懇切なる款待の下に家族的晩餐を終りたる後、ウエステングハウス電気会社々長ハー氏の来訪を受く、同氏は先生が今回老齢の身を以て日米親善の為に渡米せられしを衷心より感謝し、且曰はく、予は昨年貴国訪問の際意外の款待を受けし事を深く記憶して、常に欣喜の情に堪へざるなり、今回先生の来遊を耳にし、日本人の厚意の万分の一に酬へんが為に特に来訪したる次第なれば、何なりと便宜を計ふべし、然し先生の当市滞在は甚だ短く、特に明日は土曜日にて我工場も午前丈にて休業する次第なれば、工場を御参観に供すべき機会無きを遺憾とすと、右に対し先生は、貴社の直接間接に我邦の電気事業に貢献せられ居るは、夙に予の感謝する処なり、先年貴会社副社長たるオスボーン氏渡日の節、親敷面会して労働問題に関し意見を聴取したる事あり、今回は渡米以
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来到る処に於て貴国人より懇切の待遇を受け、本日はハインヅ氏の客と為り、今又貴下の来訪に接し、感謝の情言語に尽し難し、乍併今回の旅行は貴説の通極めて短時日なるを以て、乍遺憾貴工場を参観する事を得ざれども其厚意の程は深く記憶して忘れざるべし云々と答へられ、同氏辞去後、先生は別室に於てハインヅ氏夫妻と長時間の対談を為せり、其談話の要領を叙せば、ハインヅ氏先づ先生に対し終日の汽車旅行の労を犒ひ、先生の如く高徳の人格者が予の賓客と為られしは当家の光栄なり、若し故父ハインヅ氏在世ならば如何計り喜ぶ事ならん、故父は煉瓦製造人の子にして、一八四四年に生れ、始め或る小町にて祖父と共に煉瓦製造に従事したるが、父は尚大なる事を営み度きを以て、祖父に請ふて漸く一町六反程の土地を得、之に野菜を耕作し此野菜を基礎として鑵詰業を開始したるは一八六九年なりしが、其資本としては父の下に働き得たる千弗の金額に過ぎざりしを以て、不得止借入金を為し、耐忍勤勉、漸次之を拡張して、現今に於ては七千人の使用人を有する大製造場と為したり、父の事業の如此繁栄に進みしは一に信用に基くものなり、父は一年毎に販売先に検査員を派遣して一年越の製品は凡て原価を以て買戻し、市場に不良品を止め置かざる事とせり、又代価も必ずしも市場の価に依りて昂低せざるなり、市場昂しとて決して之を引上げす、常に平均を取る事に努むるを以て売行頗る良好なり、父の死後予等子供は大なる打撃を蒙りしも、父の築き上げたる信用は依然として根柢深く、今や年々製品数量を増加する状況にありと語り
 先生は氏に対し、故ハインヅ氏とは深き懇親を重ねたるが、今や其人無しと雖ども、其子息たる貴下に面会して如此懇切の待遇を受くるは、老人の身に取り悦之に過ぎたるもの無し、先年故ハインヅ氏に面会の節、氏は予に対し互に老年と為りしも、互の相続人が意思を継承するに於ては可ならずやと語られしが、今日子息たる貴下に面会し、当時の氏の談話を回想して感慨特に深きを覚ゆるなりと、夫より先生は元と農家に生れ、始めは故ハインヅ氏と均しく親ら耕耘に従事したる当時より漢学の教育を受け、一時排外的志想に陥り、コンマンドルペリーの渡航を日本を侵略する企図なりと誤解したるが、其後タウンセンド・ハリス氏の正義の行動を見て開国主義に変じ、廿四歳の時父母の許可を得て郷里を去り、徳川慶喜公に奉仕して、民部公子に随ひ仏国旅行を為し、帰来身を実業界に投ずる決心を以て、先づ金融業に従事し、夫れより運輸業に、各種製造工業に及び、又公共・慈善・教育等の事業に多年尽瘁したるが、其間常に心中を往復しつゝありし信念は、国家は只物質文明のみを以て治めらるゝものにあらず、健全なる道徳が之に伴はざるべからずと、常に此の信念を鼓吹したり、七十七歳の折実業界を隠退して、余生を社界的事業及国際問題等に捧ぐる決心を為したり、日米問題に就ては多年一日の如く解決に努めしが、未だ微力にして好果を収むる事を得ざるも、向後益精力を集注して之に当らんとする覚悟なり、今回の渡米も亦同問題の為に尽さんとの意念に出でしものにて、勿論日本政府の委嘱に依りしものにあらずして一己の発意なる次第を談話し、本日此地に来りて故父君に面会する事
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を得ざるも、其意志を継承せる貴下に面会して故父君の事績を偲び得るは、予の幸福とする処なり、願はくは貴下に於ても、故父君と均しく将来日米親善の為めに尽力せられん事を切望す云々
 先生とハインヅ氏との談話は滾々として尽きざりしが、深更に及びしを以て明日を約して就寝せられたり
十一月十九日(土曜日) 雨
 先生には午前八時半ハインヅ氏夫妻と朝餐を共にしたる後、当地新聞記者参名(内一名は婦人記者)の来訪に接し、又撮影に応じたる後ハインヅ氏と共に庭園散歩を為す、十時ハインヅ氏舎弟クリフオードハインヅ氏紐育より今朝帰来せりとて、停車場より直に先生を訪問す十時半ハインヅ氏の案内にて故ハインヅ氏の墓に詣で、花環を捧け、十一時半カーネギー博物館に赴き参観の後、先生が先に同館に寄贈せられたる日本婦人の人形(旧幕時代に於ける、上臈)陳列式に参列し館長ホーランド博士の紹介を受けたる後、凡左記の演説を試みられたり「一九一五年当地に来遊の際、故ハインヅ氏の案内にて当博物館を参観の際、日本古代の乗物を見たるが、之を熟視すれば乗物を担いで居る駕籠舁と其中に乗つて居る婦人とは、古代現代取り交ぜの装飾及服装なりしかば、其駕籠の時代に相当する人形を調製せしめて送付せんと、故ハインヅ氏に約したるが、爾来数年を経過し、本年春ホーランド館長に送附したるもの即ち之にして、尚駕籠舁の服装及之を担ふ体裁等は、絵画に依りて示す事として、歴史家に依頼出来したるが、此人形の上部に額として掲げあるもの即夫れなり、今日予の来館を機として、特に此陳列式を行はれたるは、予の光栄とする処なり」云々右に対しホーランド館長の謝辞ありて、午後一時カントリー倶楽部に於ける午餐会に出席せられたり、席上ホーランド博士司会者と為り、先づ先生を来会者に紹介し、次ぎにハインヅ氏の昨夜来先生と談話したる感想より、今朝先生の故ハインヅ氏の墓参に対する謝辞を陳べて先生の人格を賞讚したる演説ありたる後、先生は起ちて先づホーランド博士及ハインヅ氏の讚辞を謝し、昨夜深更に至る迄ハインヅ氏と談話したる喜び、尚六年前故ハインヅ氏に伴はれて同氏の寄贈陳列場を見て珍らしき各種の出品に感動したるが、其中に就き日本婦人の人形は時代と著しく相違せるを見、之を訂正する事を同氏と約し、今日漸く其約を果たす事を得たるが、予が約束したるハインヅ氏は既に幽明界を異にして、親敷握手する事能はざるは、老年の予に於ては深く遺憾とする処なり、併其子息たるハインヅ氏能く其父君の意を承け、而して予の意中を諒解せらるるは欣喜に堪へざる処なり、今回ハインヅ氏の招待に応じ当地に来りしは、故ハインヅ氏の墓に詣でゝ往事を偲び、又人形の陳列式に列せんが為めなりしが、今朝墓参を為し、又玆に陳列式に参列するを得たるは、予の本懐之に過ぎざるなり云々、右午餐会を終りて先生外一行は、ハインヅ氏及キンニーア両氏の案内にて結核治療院を参観し、次でキンニーア氏邸に於ける茶会に出席す、同氏を始め同氏令嬢及令嬢の朋友にして花の如き令嬢十数名ありて一行を迎ひ歓待す、同氏令嬢は昨年十月東京に於ける世界日曜学校大会に出席の際、飛鳥山邸に先生を訪問したるが、夫れより欧洲を経て帰
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米したるなり、東京滞在の際帝国ホテルに於て渋沢信雄氏と会談したる由の談話もありたり。
 午後五時半帰館、七時シエンレー・ホテルに於ける日曜学校関係者及実業家の催に係る晩餐会に出席す、食堂に入るに先立ち、先生始め一行一列となりて来会者に接す、ハインヅ氏は先生の右に在りて先生を紹介するの労を執れり、レセプシヨン終りて食堂に移る、卓上は大輪の黄菊及紅葉を以て飾られ、而して四壁は所々に青葉を盛りたる竹籠を吊るし、之に日本国旗を挿入して頗る美観を呈せり、席定まり饗宴に移り、デザート・コースに入り、司会者たるキンニーア氏起ちて昨年十月東京に於て開催せられたる世界日曜学校大会の成功は、全く先生の尽力に依りしものなり、此尊敬すべき先生を当地に迎へたるを以て、吾々は日曜学校関係の実業家が発起人となりて本会を催ふしたるに、斯く多数の来会者を得たるは、予は発起人を代表して感謝する処なりと冒頭して、会衆に先生を紹介する為め先生の和訳せしめられたる「ローズベルト氏の日本観」を一同に示し、又先生よりキンニーア宛書翰の一節を朗読して、米日の親善に最も尽力せらるゝ次第を演説したる後、第一の演説者としてハワード・ハインヅ氏を指名す。
 ハインヅ氏直に起ちて、予は先生が亡父と深き懇親の間柄なる関係上、先生を拙宅に迎へたるに、快諾せられ、昨夜来其温容に接する次第なるが、恰も亡父に対するが如き感ありとて、昨夜先生が汽車旅行を慰むる遑も無く、深更に至るまで会談して先生の経歴を聴取したるが、実に公平無私にして情義に厚き大偉人なりとて一同に紹介し、如此偉人が日本を代表し居る以上、日米の親善は期して待つべきなりと結び、第二の被指名者はエツチ・デー・ダブリユ・エングリツシユ氏第三の被指名者はドクトル・ダピツトソン氏にして、本夕日本の偉人と称せらるゝ先生に面会するの機会を得たるは光栄なり、予も日曜学校事業に興味を有する一人なるが、世界の人々が基督の精神に基いて交際する時は、必ず平和を保ち得べくして、相互の諒解は何等の疑問をも生せざるべし、本夕の如き会合は、即相互の諒解を増す所以にして、親善の道玆に胚胎すと云ふべきなりと、第四に指名を受けたるは先生にして、先づハインヅ氏並キンニーア氏其他当市人士の歓待を謝し、第一回に当市に来りしは一九〇二年にして、響のピツツバーグ、煙のピツツバーグを観、二回の一九〇九年にはハインヅ氏の経営せる事業を観て、其の清潔なるピツツバーグ市に驚き、第三回の一九一五年には故ハインヅ氏と世界日曜学校大会の開催に付き協議したるが、更に今度第四回の訪問に於いて往事を回想して感慨無量に堪へざるものあり、予の故ハインヅ氏と始めて会見したるは、一九一三年氏が瑞西に於ける第七回世界日曜学校大会に列席の為め日本を通過せられたる際、拙宅並大隈侯邸に於てなり、故に交際の年限は比較的短しと雖も、相互に精神は能く了解したるを以て、百年旧知の如き感あり、氏は活溌なる性格にて果断に富み所謂裁決流るゝ如き感あり、併し親み易しと雖ども、同時に侵し難き威厳あり、昨年十月東京に於て開催せられし第八回世界日曜学校大会には、是非同氏の参列を希望したるが終に永眠せられたる訃音に接し遺憾に堪へざるなり、併し予の心を慰
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むる一事は、其令息たるハインヅ氏が父君の意を継がれ、予をして此親にして此子ありと感嘆せしむるにありと、夫れより日米親善に説き及ぼし、予は此解決を以て生涯の事業と為し、死して後止むの覚悟なりと、藤田東湖の詩の最後の句を引きて局を結ばれたり。
十二時解会
   ○以後ノ日記竜門雑誌ニ収載ナシ。


中外商業新報 第一二八一〇号大正一〇年一一月一一日 渋沢子徳川全権を激励す 涙を禁じ得ない学生の原暗殺弾劾 華府に入つた渋沢子爵との会見記 在華盛頓新関特派員(DK330012k-0005)
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中外商業新報 第一二八一〇号大正一〇年一一月一一日
    渋沢子徳川全権を激励す
      涙を禁じ得ない学生の原暗殺弾劾
      華府に入つた渋沢子爵との会見記
                 在華盛頓 新関特派員
七日発=渋沢子一行は今朝紐育から華盛頓に到着した、予は早速刺を通じて其宿舎であるアーリントン旅館に同子を訪問したが、子は喜んで予を引見した、子の健康は長途の旅行にも怯げず頗る良好で、意気軒昂たるものがあつた、渋沢子が当地に到着するや、徳川公は直に同子と会見したが、同子は徳川公に対して
 軍備縮小は世界の大問題である、私は貴下が勇気を鼓舞して之を実現する為めに最善の努力を払はれる事を希望する、日本の国民は明らかに心底から軍備縮小を要望して居る
と説く所あつた、渋沢子は予(新関特派員)に対し更に語つて曰く
 予は昨日曜に、紐育ブルツクリンに在る、バスウイツク日曜学校の招きに応じて出席し、着米以来初めての公開演説をした、出席者はいたいけな少年少女の学生五百名以上であつたが、席上同校のブラウン博士は原首相の暗殺に対し同情を寄せ、其野蛮卑怯なる行為を指弾する決議文を読んだ、少年少女はバタバタと手を叩いて、私は此光景を見て、思はず涙の出るのを禁じ得なかつた程の感動を覚へたのである
渋沢子は、二・三日中に大統領ハーデング氏、国務卿ヒユーズ氏及び有力なる上院議員を訪問して会談し、紐育に帰る筈で、夫から東部諸州の実業的視察の途に上る筈である


中外商業新報 第一二八一〇号大正一〇年一一月一一日 渋沢子大統領を訪問 青色の間に於て接見行は 在華盛頓石田特派員(DK330012k-0006)
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中外商業新報 第一二八一〇号大正一〇年一一月一一日
    渋沢子大統領を訪問
      青色の間に於て接見行はる
                 在華盛頓 石田特派員
八日発=本日午後三時四十分渋沢子は、堀越善重郎・頭本元貞の二氏を同伴、白堊館にハーデング大統領を訪問した、大統領は文武の諸官を従へ、青色の間《ブルールーム》に於て鄭重慇懃に渋沢子一行を接見した。


中外商業新報 第一二八一一号大正一〇年一一月一二日 渋沢子一行の帰朝は一月末(DK330012k-0007)
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中外商業新報 第一二八一一号大正一〇年一一月一二日
    渋沢子一行の帰朝は一月末
七日華盛頓特電=渋沢子一行は桑港からコレヤ丸で帰朝すべく船室を用意した、横浜着期は一月卅一日である
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竜門雑誌 第四〇二号・第六六―六八頁大正一〇年一一月 ○青淵先生渡米動静(DK330012k-0008)
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竜門雑誌 第四〇二号・第六六―六八頁大正一〇年一一月
○青淵先生渡米動静 前報後に於ける都下各新聞社の入手せる電報の主なるものを掲げて遥に先生の動静を偲ぶことゝせり。
○中略
 十一日着電=八日午後四時渋沢子爵はホワイト・ハウスに於てハーヂング大統領と会見した、背高く温厚掬するに余りある星条国の政治家と、老齢ながら肥満せる体駆をフロツクに包んだ日東の実業家とは、両者互にうち解けたる挨拶を交はした、ハーヂング大統領は渋沢子爵が八十二歳の高齢であると聞いて、心より其の健康を祝し談は日米の親善問題に及んだ、子爵は大統領に向ひ「余は日本国民の一員として、日米両国の関係に就き憂慮措く能はず、今回の華盛頓会議を好機とし、両者の間に蟠まれる総ての疑雲を一掃し、益国交の円満親善を希望する」との旨を述べ、会見約四十分余に亘り、熱心な握手を交して退出した、ホテルに帰りたる子爵は記者に語つて曰く「米国は由来平民主義の国と聞いて居たが、今日ハーヂング大統領と会見の際私の感じたことは、却つて軍国主義に逆転して居ないかと怪しまれる位であり、大統領の傍らに佩剣戞々として金モール燦然たる六名の武官が附添つて居た、之等は歴代大統領には未だ嘗て見ざる光景である」
      (十一月十二日東京毎夕新聞在華府徳光特派員報)


竜門雑誌 第四〇三号・第七六―七八頁大正一〇年一二月 ○青淵先生の動静(DK330012k-0009)
第33巻 p.262-263 ページ画像

竜門雑誌 第四〇三号・第七六―七八頁大正一〇年一二月
○青淵先生の動静 前報後、都下諸新聞紙に依りて報ぜられたる青淵先生の動静其他左の如し。
○中略
  大統領との初対面
 御老体誠に以て御苦労千万――ワシントンのアーリントン・ホテル二階の一室にわが渋沢子爵を見た瞬間、特派員の胸には真実にさういつた感じがむらむらと湧き立つたのである、国事を憂ふることに於て渋沢子の如き先づ代表的の日本人と謂はなければなるまい。
 『只今大統領ハーデング氏との初対面を済まして来ました』
 老子爵はテーブルの上の電灯の光を浴びつゝ稍前曲みになつた。十一月八日の午後三時四十四分から、ホワイト・ハウスの階下の応接間に今を時めく米大統領ハーデング氏と初対面の挨拶を交はして来た老子爵は、帰宿するや否や忽ちに過去の追憶に吹込まれたやうに半眼を閉ぢて徐ろに語るのである。
 『大統領に会ふのは四度目ですよ、そして夫々その時の印象に差位を認めるのです、最初は明治三十五年六月高平公使時代ホワイト・ハウスの二階で会見したのでした、お次はタフト大統領とミネヤポリスの旅中に出遇つたのでした、三度目はウヰルソン大統領で、たしかに大正四年、これはホワイト・ハウスの事務室で極打解けた幕でした『旅人の足は国境の土を踏み馴らすと言ひます、貴方のお足は日米国境の土を踏み馴らすことでせう』ウヰルソン氏は如才なく
 - 第33巻 p.263 -ページ画像 
私に斯んな事を語つたのです、第四回目それが今日です。
 『老人とは聞いてゐたが、八十二歳と半分(六ケ月)は驚いた御壮健なものですでね』
 ハーデング大統領は打ツつけに私の钁鑠振りに舌を捲いて見せました、で私は日本国民の一人として元来アメリカとの関係に深憂を有つものである事、並に華府会議の始末も何うか両国の為に最善の前途が開かれたいものだとの意味を告げたのです、が、大統領は老けゆく齢の事に思ひを馳せてゐたのです
 『渋沢さん、私は少壮年時代五十歳位の人を見るとひどく老人のやうに思はれてなりませんでした、が自分が五十歳になつて見るとさうでもありません、妙なもので』感慨多少といつた大統領の語に次いで私は直に衝き入りました
 『若い時分の考へと、年老つてからの考へは大に違ふものです、貴方が私のやうに八十余歳になられたら、今のお考へも多少狂つて来はしますまいか』ハ氏は私のこの言葉を肯定せずには措きませんでした、添田博士や頭本元貞氏も、私の次に接見の栄を担はれたのです、前申した通り私は歴代の四大統領にお目にかゝつてゐます、そして其時々の印象が夫々特異なものであつた事を繰返して申上げたいと思ふのです、就中今日の会見の場の光景のひどく前々からのと違つてゐる事です、デモクラシーの本山へ参つて私の意外に感じた事は、会見の場所に武官が厳めしく六人まで突ツ起つてゐた事です軍国主義の匂ひを放散するかの如き光景とはお考へになりはしますまいか、根本平和を議する大会議を三・四日の後に控へたホワイトハウスですよ、コレがね、御維新前奈翁三世、レオポルド三世などにもお目にかゝりましたが恰度その時のありさまそつくりです、豈夫逆転した訳でも御座いますまいが、妙にかう気になりましてね』老子爵は急に口を噤んで了つた、たつた一つ往来を隔てゝホワイトハウスの片側には、芝居小屋のイルミネーシヨンが色濃く夜のシーンを描き出してゐる、オーケストラの旋律を冷い風に送りつゝ。八日夜認む=(十二月八日東京毎夕新聞華盛頓特派員徳光衣城)


中外商業新報 第一二八一一号大正一〇年一一月一二日 渋沢子ボラー氏と会見す 団氏一行各地で非常に歓迎さる(DK330012k-0010)
第33巻 p.263 ページ画像

中外商業新報 第一二八一一号大正一〇年一一月一二日
    渋沢子ボラー氏と会見す
      団氏一行各地で非常に歓迎さる
九日華盛頓発=渋沢子爵一行は華盛頓を訪問し、アイダホ州選出上院議員ボラー、ウイスコンシン州選出下院議員ジエームス・エー・フリーア、アラバマ州選出下院議員ハツドルストンの諸氏と会見し、日米関係並に軍備縮小問題に就き意見を交換した、右会見の際スタンフオード大学名誉総長ジヨーダン博士は、渋沢子一行を前記米国議員に紹介斡旋の労をとつた、一行は本日午後紐育に向つたが、十二月に入り華盛頓に帰来し、一週間滞在する予定である、団琢磨氏以下の日本実業団一行は、市俄古並に中西部に於て非常な歓迎を受け、諸新聞並に官界民間の有力者は、何れも日本実業団に多大の注意を払つてゐる

 - 第33巻 p.264 -ページ画像 

東京日日新聞 第一六二〇四号大正一〇年一一月一〇日 渋沢氏動静(DK330012k-0011)
第33巻 p.264 ページ画像

東京日日新聞 第一六二〇四号大正一〇年一一月一〇日
    渋沢氏動静
〔華盛頓特電〕(七日発)渋沢子一行は、七日華府着、八日紐育に帰る筈、而して紐育を中心として約一箇月滞在するとのことである、米国人は渋沢子来米の主要用向は、日米両国が協力して支那から商業上の利益を収めようと云ふ志を遂げる為だと解して居る、支那代表は同子は南満洲鉄道を担保として米国で公債を募集すべく、其額は三億弗だらうと云つて居るが、子は全然之を打消してゐる


万朝報 第一〇二二三号大正一〇年一一月一三日 渋沢子等の運動(DK330012k-0012)
第33巻 p.264 ページ画像

万朝報 第一〇二二三号大正一〇年一一月一三日
    渋沢子等の運動
渋沢子は華府に於て、ボラー氏其他の有力者と会見して、意見を交換し、団氏の一行シカゴ市其他に於て、盛なる歓迎を受け、何れも日本を正当に説明することを努めつゝ有り、彼等の努力に依つて、米国人の間に、日本を理解する者を増加する事は、日米両国の国交を増進し太平洋の平和を維持するに与つて力ある可し


竜門雑誌 第四〇四号・第五八―五九頁大正一一年一月 ○青淵先生の動静(DK330012k-0013)
第33巻 p.264 ページ画像

竜門雑誌 第四〇四号・第五八―五九頁大正一一年一月
○青淵先生の動静 前報後都下諸新聞紙に依りて報ぜられたる青淵先生の動静左の如し。
○中略
ゴムパース氏と渋沢子禁酒問答
 十四日着華府徳光特派員報=徳川全権は十二日夜米国労働党の領袖ゴムパース氏招待晩餐会を開いた、渋沢子爵も招かれて臨席した、日本の代表的貴族たる十六代様と、巨富を擁する財界の長老と、世界的労働運動の大立物とは、玆に端なくも卓を囲んで膝を相交へたのである、ゴムパース氏は「之れが大使館招待なら酒が出るに違ひない!」と暗に酒の出ないのに不平らしい口吻を洩らす(中略)渋沢氏はすかさずゴムパース氏に一矢を酬ひ「酒の出ないのは御不満のやうだが、米国の禁酒と労働界の影響は如何、其結果は頗る良好で夫婦喧嘩は無くなり貯金も殖えたと聞いて居る」と、ゴムパース氏は之に答へて曰く「禁酒は労働者から唯一の慰安を奪ひ去つただけである、何等の好結果も齎して居ない、労働者は麦酒無くんば労働者無し(ノー、ビヤー、ノー、ワーク)と呼んで居る位だ、米国の禁酒は永くは続くまいと思ふ」と、渋沢子も如才なく「酒は上流社会に向つて禁止す可きものだが下級労働者に禁酒を励行するのは聊が其利害得失に惑はざるを得ない」と如才なく相槌を打つ、ゴムパース氏は猶ほ曩に渋沢子より訪問を受け、組合設立の可否を図り、公共事業例へば鉄道等に従事する労働者の同盟罷業を法律的に厳重取締る事の可否を問はれた、ゴムパース氏は之に答へて「組合無ければ却つて労働者を悪化せしめる憂ひがある、法律で厳重罷業を取締れば益争議を多からしめるばかりだ」と云つた。
               (十二月十五日東京毎夕新聞)
 - 第33巻 p.265 -ページ画像 

竜門雑誌 第四二〇号・第二六―二八頁大正一二年五月 ○紐育州商業会議所晩餐会に於て 青淵先生(DK330012k-0014)
第33巻 p.265-266 ページ画像

竜門雑誌 第四二〇号・第二六―二八頁大正一二年五月
    ○紐育州商業会議所晩餐会に於て
                      青淵先生
  本篇は、大正十年十一月十七日紐育ワルドロフ・アストリア・ホテルに於て開催せられたる紐育州商業会議所第百五十三回例会晩餐会に於ける青淵先生の演説なり。(編者識)
 司会者並に紳士・淑女諸君
今夕私が此の如き盛宴に御招待を受けましたことは、私にとつて大なる光栄であります、世界第一の大都会に於ける大実業家諸氏の御集の席に出まして、謝辞を申上ぐる特権を得ましたことは、誠に名誉でありまして、私は之を一生忘れることは出来ません。
 日本といひ東京と申しましても、皆様方には恐らくまだお出になつた事のない遠隔の地であり、また余りお考慮にも上らぬ所かと思へます、又其地に於ける出来事は極めて小さく、其範囲も限られて居り、而も其等が余りに小さい為に、若し大きな地辷りでも起つて大海に覆没して終つて、少しの痕跡をも止めないといふ様な場合であつても、大した感動を覚ゆることもなく、事務所に出て市俄古やセントルヰス等と大規模の取引をお始めになりますと同時に、全くお忘れになることゝ思ひます、之に反して私共が米国に対して有つて居る感覚は、全く異つて居るのであります、殊に紐育といふ所は極めて重要な都市でありまして、我々の常に親しみを感じて居るのであります。
 日本に於ける蚕業地並に茶業地では、紐育の商況を非常の熱心を以て研究して居ります、それは自家の利益が一にマンハツタン島(紐育市の別名)に於ける相場の上下に懸つて居るからであります、故に紐育は日本国民と極めて密接の関係を有して居りまして、恰も東京と隣接して居る如きの親しみを感ずるのであります、統計からも同様の事が言はれるのであります、例へば昨年米国から日本への輸入額は三億七千四百万弗に上つて居りますが、此金額は吾々にとつては仲々大きな金額であります、然るに此額は米国の総輸出高の四分五厘に過ぎませぬ、一方昨年度に於ける日本より米国への輸出額は四億壱千四百万弗で、日本の輸出総額の四割二分に相当するのであります、換言しますれば貴国の対日本の利害は全体の四分五厘でありますが、日本の対米国の利害は実に四割二分になります、即ち十と一の比率をなすのであります、以上縷述する所は、貴国と最も親密な交際を持続するといふこの日本国民にとつて、如何に重要事であるといふ事を、数字を以て明示致度いからであります、御承知の通り日本は、外国貿易で立つて行かねばならぬ国柄であります、而も輸出貿易額の四割二分を占めて居る貴国は、日本に取つては最も大切な華客でありますから、日本は貴国との最も親密な御交際を希望して居ますので、諸君は日本の此誠意をお疑になる様なことは無からうと思ふのでありますが、此際特に此点を御諒解下さる様御願致します。
 現今華盛頓に於て開かれて居る重大なる会議について一言致度いと考へます、有名なる国務卿ヒユーズ氏が牛耳を取りて、断乎たる海軍軍備縮少の提議を為されてより、外交上にも一転機を画し、人類の進
 - 第33巻 p.266 -ページ画像 
むべき道に対して新なる方向を示されたのは、誠に慶ばしい事であります、現代の文明に根本的の欠陥がある間は、単なる軍備縮少によつて戦争を根絶し得るものでないといふ事は、言を俟たないのでありますが、乍併今回企図せられたる海軍々備縮少に対し、幸に列強が賛成するに於ては、各国民の負担する租税を非常に軽減し得ることは明かであります。
 軍備縮少によつて多額の節約をするといふことのみが、軍備縮少の目的ではありません、此節約によつて得らるべき資本及び余力は、平和と進歩との為に用ひらるべきであります。
 即ち軍備縮少によつて直に戦争を止め得ないとしても斯くて徐々に国際の平和を維持し親善を増進して行くことが出来るのであります。
 軍備の縮少は、全人類に対し量り知るべからざる福利を齎すものであるに拘はらず、従来一再ならず、企図せられて、然も常に実現しなかつたのを、人道の為に痛歎して居りましたるに、今回米国によつて此会議が招集せられ、困難なる事業が漸く其緒に着き、而も極めて有望なる結果を見んとして居るのを見て、私は実に慶賀すべき事と、衷心より欣喜して居る次第であります、此事業が完成した暁には、米国が全人類より無限の賞讚と永久の感謝とを受けることゝ考へます。
 何れの国民も熱心に軍備の縮少を希望して居ると思ひますが、特に吾々日本人は之を切望して止まないのであります、此の如く軍備縮少は、殆ど全人類の希望とも申すべきでありますから、華盛頓会議が成功すべきことは疑のない処と考へます、而して日本は、此歴史的会議の為に貴国と協力することを、何れの国よりも熱心に希望するといふことは、私の玆に断言して憚らないのであります。
 終に臨み、地上の平和と人類の親善とを齎らすべき崇高なる事業の為に、只今華府に於ける会議に臨める人々に、勇気と力とを与へらるる様、天の加護を祈つて止まぬ次第であります。


渋沢栄一書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二一年一〇月一日(DK330012k-0015)
第33巻 p.266-267 ページ画像

渋沢栄一書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二一年一〇月一日
                (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
        VISCOUNT SHIBUSAWA
        2 Kabutocho Nihonbashi
            Tokyo
                 October 1st, 1921.

Mr. V. S. McClatchy,
  "Sacramento Bee"
    Sacramento, California.
Dear Mr. McClatchy:―
  Your kind note of June 29th enclosing within your article about the American-Japanese Relations, which you said you wrote in accordance with the request of the Yomiuri Shimbun reached me duly. I thank you for them. I carefully read what was printed in our paper at the time when it was published. I have my own ideas concerning your article and felt that I might write them down for my reply to your letter, but now
 - 第33巻 p.267 -ページ画像 
I am coming to your country, taking the opportunity offered by the Pacific Conference. Therefore it is possible for me to meet you in this trip. A small party of us will leave Yokohama on board the Shunyo Maru, on the 13th of October. Such being my present intention, I thought it best for me to discuss with you those questions that vitally affect your State when we meet together.
  Hoping to enjoy the privilege of meeting you soon, I beg to remain
             Sincerely yours,
             (Signed) E. Shibusawa


(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二一年一一月一〇日(DK330012k-0016)
第33巻 p.267-268 ページ画像

(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二一年一一月一〇日
                (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
               (COPY)
Viscount Shibusawa,
  c/o Japanese Embassy,
  Washington, D. C.
               Sacramento, Nov. 10th, 1921.
My dear Sir:―
  Your letter of October 1st, addressed to me at Sacramento, was received here today on my return from Honolulu.
  It will be a pleasure to me to comply with the suggestion of your letter, and meet with you at your convenience either in Washington or in California to discuss matters in which we are mutually interested, and a satisfactory settlement of which is necessary for the maintenance of friendly relations between your country and mine.
  I had the pleasure of renewing, at Honolulu, my acquaintance with Mr. M. Zumoto, and he, too, suggested that there be a meeting between us prior to your return to Japan, for a better understanding of each other, and our views and motives.
  I shall be in Washington at the Raleigh Hotel for about two weeks, commencing on or before November 20th. I shall be in New York for perhaps a week in the early part of December, for a meeting of the Associated Press Directors, and shall return again to Washington where I expect to remain until about the 16th of December.
  You may assume that I shall make other matters agree with your convenience for a meeting with you, and with others of your selection, either in New York, or in Washington.
  Meanwhile, I am enclosing herewith copy of my final brief, prepared for the Department of State, a knowledge of which will probably be of value to you in the meeting contemplated. I
 - 第33巻 p.268 -ページ画像 
trust you will realize that while in this brief I am brutally frank, there is neither the desire nor the intent on my part to be unfriendly. I feel that the best proof of friendship in a matter of this kind is to be entirely frank.
  I am enclosing also copy of a letter sent to Secretary Hughes, having to do with a mis-statement in my brief, to which Consul Yada has called my attention.
  You may be interested, too, in the enclosed copy of a talk made by me before the Rotary Club in Honolulu.
         Very sincerely yours,
VSM/K


渋沢栄一書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二一年一一月一七日(DK330012k-0017)
第33巻 p.268 ページ画像

渋沢栄一書翰 ヴィー・エス・マクラチ宛一九二一年一一月一七日
                (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
               (COPY)
       VISCOUNT SHIBUSAWA
       2 Kabutocho Nihonbashi
           Tokyo
             Plaza Hotel, New York
               November 17, 1921.
Mr. V. S. McClatchy,
  Raleigh Hotel,
  Washington, D. C.
Dear Mr. McClatchy:
  I thank you for your kind letter of November 10th addressed to me at Washington which has just come to my hand.
It will give me great pleasure to meet you and have a frank talk on questions which are so important to both of us.
  I have heard of you from Mr. Zumoto who is traveling with me and he wants also to meet you again. We leave here at the end of this month and will be in Washington about a week. So if you can give us time to lunch with us, either the 2nd or 3rd of December, I shall feel very thankful. Please let me know your pleasure at an early opportunity.
  With kind regards, I remain
               Yours truly,
              (Signed) E. Shibuusawa


(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二一年一一月二三日(DK330012k-0018)
第33巻 p.268-269 ページ画像

(ヴィー・エス・マクラチ)書翰控 渋沢栄一宛一九二一年一一月二三日
                (ヴィー・エス・マクラチ氏所蔵)
               (COPY)
                  New York, Nov. 23, 1921
Viscount E. Shibusawa,
  Plaza Hotel,
  New York City.
 - 第33巻 p.269 -ページ画像 
My dear Sir:
  It will be a pleasure to accept your kind invitation to lunch with you in Washington on the 2nd or 3rd of December, as best suits your convenience, in accordance with the suggestion offered in your letter of recent date which awaited me on my arrival here.
  There is no good reason why interchange of views on subjects in which we are mutually concerned should not be of benefit. I appreciate thoroughly the friendliness of Mr. M. Zumoto in making the suggestion. Please convey to him my warm regards and believe me,
          Very sincerely yours,
   ○右ハヴィー・エス・マクラチノ返書ナリ。



〔参考〕(ポールトニイ・ビゲロウ)書翰 名宛人不明一九三三年五月二三日(DK330012k-0019)
第33巻 p.269-270 ページ画像

(ポールトニイ・ビゲロウ)書翰 名宛人不明一九三三年五月二三日
                 May 23rd, 1933
                  Mid Atlantic.
               Norddeutscher Lloyd Bremen
               An Bord des D. "Columbus"
My dear and honored Sir:
  Your kind letter of long ago has followed me to Capetown and Australia ; and, finally on board this ship at Southampton. (England)
  The great Shibusawa has for many years been regarded in America, as in Europe, as the "Grand Old Man of Japan."
We have honored him for his courage and loyalty when a mere boy; in later years we honored his masterly grasp of constructive banking; and we scholars hold him in great veneration as the first Japanese to insist on high and broad University education for prospective "Captains of Industry."
  Altho ugh I have had no continued letter exchange with your illustrious Kinsman, I have the happiest recollections of the great University of Commerce where I gave a series of Lectures before the most crowded and the most intelligent audiences that I recall.
  My friendship with Viscount Shibusawa commenced through my very dear old friend Kusaka Yoshio, whom I had known since 1872 in the United States. To him the great Shibusawa was like another Washington ; and I honored him long before I was favored with his personal acquaintance.
  He came to New York for the Peace Conference and was my guest at the Annual Dinner of the Ends of the Earth club, with myself in the Chair.
  He made the most important speech of the Evening, which
 - 第33巻 p.270 -ページ画像 
was immensely applauded. I think that Mr. Obata acted as Interpreter―and most admirably did he fill that difficult post.
  Then I arranged a luncheon in his honor on Ellis Island where is the official residence of the Commissioner of Immigration. He was a warm, friend ; a patriotic citizen and man of wealth ; Robert S. Tod by name.
  Viscount Shibusawa's health was drunk with much enthusiasm and he acknowledged the compliment in a speech of characteristic frankness, wisdom and kindly wish for a better understanding between Japan and America. I feel sure that the Viscount carried home the conviction that Americans of property and education were wholly in sympathy with him.
  ……………
              Yours faithfully
                     (Signed)
                 Poultney Bigelow


〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下・第六六二―六六四頁昭和二年一一月―五年七月(DK330012k-0020)
第33巻 p.270-271 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六六二―六六四頁昭和二年一一月―五年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第二十四回 昭和四年九月十七日 於飛鳥山邸
    一、日英関係に就て
先生○中略
 日英の関係に就ては、今日差当つてどうしなければならないと云ふ事はない様に思ふ。併し亜米利加との関係があるから、若し日米間の平和が動くとすれば、他国との間に駈引せねばならないから、此方面から日英の関係も必要であると思ふ。一体外交と云ふものは、之を政府ばかりにまかせて置くのみではいけない。国民間の交際が大変必要である。此点から考へて英国に対しても、もう少し関係を持つ人々が心配して呉れたらと思ふ。私は亜米利加に対しては、相当国民外交に意を用ひてゐる積りであるが、何分年老つた為め思ふやうに行かず、次第に怠り勝ちになつて来た事を、遺憾に思つてゐる。併し個人の情愛としては変らない積りである。要するに国際関係は国民の情愛の繋がりがあつてこそ満足に行くのである。大正十年に、華盛頓に開かれた軍縮会議に、私は国民外交の為めに出掛けた。此会議で四ケ国協約が出ると共に、日英同盟が解除されたのであるが、私として大変残り多い感がした。英吉利代表バルフオーアは日英同盟を送る送別の辞をやつたが、仲々感じさせられる処があつた。日本からは加藤友三郎さん、徳川家達公、それに幣原喜重郎さん、埴原正直さんなど、相当な人が代表として出席して居つたがバルフオーアの言葉に対して一言も述べやうとしなかつたのは、今思つても残念である。蔭では、日本が感情を述べない事を野暮だと□評した者もあつた。徳川公や加藤さんの言へないのは尤もであるが、まるで田舎者が恐縮した様な塩梅で『御尤です』と引さがつたのは、余り賢明でなかつた様に思ふ。
 - 第33巻 p.271 -ページ画像 
○下略
   ○此回ノ出席者ハ、栄一・渋沢敬三・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。



〔参考〕竜門雑誌 第四八〇号・第六―一三頁昭和三年九月 華府会議と渋沢子爵 添田寿一(DK330012k-0021)
第33巻 p.271-275 ページ画像

竜門雑誌 第四八〇号・第六―一三頁昭和三年九月
    華府会議と渋沢子爵
                      添田寿一
      一
 大正十年華府会議が行はるゝに当つて、政府からは加藤友三郎子・徳川家達公・幣原喜重郎男・埴原正直氏、其他陸海軍・外務等官辺の有力者が多数出席さるゝ事となり、政府側全権委員の顔触は、遺憾なかつた。然るに米国は輿論の国であつて、民間殊にウオール・ストリート辺の意向が重きを有し、意外に実業家の意見が尊重せらるゝ国である。依て日本が華府会議に臨むに当つても、政府側の代表のみでなく、世界平和を議する此の重大なる会議に、民間側よりも代表的有力者を出さなければならぬと云ふ説が高まつた。就中渋沢子爵は、常に日米国交に意を注がれ、而も此度の事は、国際平和に大関係を有する所から、是非共子爵を煩したいと云ふのが、日米関係委員会々員一同の希望であつて、渋沢子爵の御出席は何よりも力強さを感ずるとて、懇請切なりし為め、遂に渡米を決意された。近親の方々中には、子爵の健康如何を懸念された御方もあつたけれども、子爵は国家国民の為め、総てを儀牲にして挺身蹶起せられた。随行者の一人として、私も御薦めを蒙つたれども、其任にあらざるのみならず、既に去る大正二年に、子爵の御熱心なる御言葉に従ひ、日米問題に関連して渡米した事もあれば、此度は御断りをして、阪谷男爵を推挙した。併し男爵にも御差支があつて、結局私も御同行者の一員に加はる事になつた。即ち随行者は頭本元貞・増田明六・小畑久五郎の諸氏と私を加えて四人であつた。
 大正十年十月十三日一行は東京駅及び横浜埠頭に於ける盛大なる送別の裡に出発し、途中ホノルルに立寄り、此処でも亦盛大なる歓迎を受け、十月二十九日桑港に到着したのであるが、子爵は此地の有力者と日米親善問題に就て意見を交換され御意見書をも発表された。
      二
 十月三十一日桑港出発、紐育へ向つて東行した。車中評議の結果、私はシカゴより御一行と別れ、華盛頓に直行して軍備縮少会議の模様を子爵に報告し、尚必要に依つては華盛頓に子爵の御出馬を煩す事に決定した。
 十一月四日私は華盛頓著、直に加藤全権と会見の上、渋沢子爵渡米の主旨を伝へると共に、子爵が紐育に在つて同地実業家中の有力者と彼我の意思疏通に努めらるゝ事、私が軍縮会議の経過を注目して子爵に報告せねばならぬ事、及び子爵の希望として全権御一同が有終の美を期して活動せられん事を述べて置いた。愈々開会の日が逼るに従ひ色々の取沙汰があつて、事態が如何にも重大に感ぜられた。百方奔走新聞記者其他英米の友人等に就き探りたるに、驚くべき重大問題に関
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し、英・米両国の間には予め意思相通ずるものあり、日本其他の列強はそれに追随するの外なき事が察知せられた。此の間に処すべき日本全権の態度如何、強ひて反対の地位に立つならば、軍縮会議阻害の全責任を負ふべき決心がなくてはならぬ。若し最後まで反対せぬ腹ならば、寧ろ他邦に先んじて積極的に賛意を表明し、以て一番鎗の名誉と日米親善の実を挙示すべきであると信じ、私は翌五日紐育に子爵を訪れ事態の重大なるを申上げ、華盛頓に於て全権との御会見の必要を力説し、即日帰華した次第である。
 十一月七日子爵は華盛頓に到着、加藤全権其他に面会して来意を告げられ、就中十一月八日の加藤全権との会見に於ては、日本に形勢を有利ならしむる様強く論ぜられた。此の日ホワイト・ハウスに於てハーデイング大統領と日米親善に就き御談話があり、翌九日紐育に帰られた。十日にはローヤース・クラブ及びエイル・クラブ等にて、子爵頭本氏・私も演説する事になつて居たる故、私も紐育に行き、子爵御一行は十日ロチエスターへ、私は華盛頓へ引返した。
 十一月十二日は華盛頓軍備縮少本会議の第一回当日で、私も傍聴に出掛けたが、先づ大統領ハーデイング閣下の開催の辞に続いて、議長選挙が行はれ、其結果ヒユーズ氏が当選された。議事に入るや、果然例の五・五・三海軍比例案が提出され、満場駭然たるものがあつた。
必ずや日本全権は率先して賛成演説をせらるゝならんと云ふ私の期待に反して、当日は儀式的に、平静裡に終了を告げた。会議の模様を子爵に電報にて報告したるも、今後我が全権の取らるべき態度に就き直接打合の必要を認め、十三日夜急行汽車にて紐育に赴き、精細子爵に申上げた。十八日子爵がピツツバークに赴かるゝまでは、紐育青年会館・コロンビヤ大学日人会・紐育商業会議所等の演説会に子爵と共に出席した。ブリンストン大学の講演会にも子爵に打合の上出席して帰華した。
      三
 十一月十五日は意義ある第二回本会議の日である。何となれば列国が海軍比例に対し賛否の意志を表示すべき時期となつたからである。此の日も第一番に起立したのは英国全権であつた。其次ぎに日本全権は簡単に『日本は主義に於て(in principle)賛成する』旨を述べられた。此の主義に於て賛成すると云ふ日本の真意が、何れにあるかに就き疑問が各方面に発生した。畢竟透徹なる英国全権の言明に対比して発生したものであるが、往々誹謗の声を耳にするに至れるは、遺憾に堪えない次第である。
 玆に目覚しかりしは支那全権の活動開始である。支那は此の機会を捉へて一挙国権の伸張に猛進した。税権の獲得、法権の回復、曰く何何と十箇条を提出し、策動至らざる無き勢を示した。支那の提案は頗る名文であつて、意中を尽して余薀なく堂々たるものであつた。随つて有力なる指導者が背後にあるなどゝ云ふ推測を下す者もあつた位である。第二回本会議後五・五・三の比例案は特別委員会に附せられたのであるが、日本委員の主張は該案を其儘承認は困る、然し委細確たる事に至つては、目下本国政府に照会中と云ふ所より議事が進捗せざ
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る為め非難の声が聞ゆるに至つた。そこで私は子爵と電報で打合の上十一月二十日加藤全権と会見して、海軍比例・支那提議・太平洋防備等に就き種々進言したが、全権は本国に問合せ中で、自己の考のみで決する訳には参らぬとの話であつた。私は玆に加藤全権の為めに弁して置きたい事がある。
 加藤全権の態度と云ひ、決意と云ひ実に立派なものであつて、其苦衷を酌まねばならぬ事を痛く感じた。本国では同月四日原総理大臣が兇手に斃れて、政変があり、中心が失はれ、内閣以外に外交調査会の有るあり、元老の方々も今日より多数であつて、国論の一定を欠き、廟議の決定も手間取り勝であつたことは、加藤全権を困難なる地位に立たしめざるを得なかつたと思ふ。
      四
 十一月二十一日第三回本会議の日となり、開会から十日目でもあり日本の態度も、今日は愈々公表せられるに相違ないと一般に期待された。処が会場に於て黙然たる日本全権の様子を見ては、殊に私の如きは唯々残念の感で一杯であつた。此の日図らずも仏国全権ブリアン氏の大演説のみで終つたのである。元来華盛頓会議に於ては、陸海軍備縮少問題・太平洋問題及び極東問題の三つが主要議題で、就中陸海軍備の縮少は其眼目となつて居つた。然るに此の日ブリアン全権は憤然起つて仏国の主張を開陳され、雄弁滔々満堂を圧するの慨があつた。其の言ふ処は要するに「仏国は海軍々備縮少に賛意を吝まないのであるが、中欧の現状に於て、仏国は一兵たりとも減ずる事を肯ずる能はず」と云ふのである。ブリアン氏の弁論たるや誠に力強いものであつた。而もブリアン氏をして此の大演説を為さしめたるものは、全く鞏固一定せる仏国々論の後援が存して居つた為めである。当時仏国の輿論は華盛頓会議に熱中して、其の声は全権を強く刺戟したのである。ブリアン氏の熱弁に依つて仏国の立場は明白となり、其の主張は貫徹せられ、玆に会議の目的は一変し、局限せられて海軍比例の会議となり、即ち陸軍は除外せらるゝ事となつたのである。事の玆に至りしは一つにブリアン氏の声涙共に下る熱弁の然らしむるに帰すべきは勿論であるが、又以て仏国々論の一致が彼をして此成功を博さしめたと言はねばならぬ。若し日本の国論も亦仏国の如くあつたならば、或ひは我が全権をして十分に活躍せしめ、日本の主張も貫徹されたであらうと思ふ。現代の外交、殊に国際会議に於て一定不抜の国論、有力なる輿論の後援が如何に必要であるかを痛感した。斯くて第三回本会議は仏国全権の一人舞台で其幕が下りた。そこで残つた海軍比例専門委員会議も、日本の態度が上記の如くであつた為め意の如く進行を見る能はず、軍縮会議は所謂停電の形となり、極東委員会の開催となり、支那側の活動は益々盛となつた。詰り軍縮会議は化して支那問題会議となり、米支間の接近は一層促進さるゝ形勢となつた。私は直ちに此の容易ならざる形勢を一々子爵に報告したが、心配の余り十一月二十四日紐育に赴き、最近の経過を申上げ種々打合の上、直に帰華して加藤徳川両全権に子爵の意中を伝へ、其御返事の趣を子爵に打電し、尚形勢に注目して居つた。然るに新聞紙などでは、五・五・三の比例に就
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き、特別委員会に於て日本委員が英米十、日本七に仕たいと云ひ出したのは怪しからぬ、それでは主義に於て賛成すると云ふ当初の声明に反するとか、縁日商人的掛引だとか評するに至り、形勢甚だ不利と見て十一月二十七日子爵に報告した。十一月二十八日子爵より電信にて面談したしとの事であつた故、直に紐育に赴き子爵に経過を逐一報告し、此の際本国政府の態度の闡明が最大急務なるを申上げた。子爵も種々御勘考ありたる結果、日本に向つて電報を打つ事に決意せられ、翌二十九日阪谷男爵を経由し、子爵の御名を以て首相並に外相に長文の電報が発送せられたので、多少の期待を抱いて私は帰華した。斯くして日本は荏苒日を遷し、支那は益々活動せる結果、日本に対する懐疑は遂に反感と変じ、支那の運動は着々奏功する傾向を呈し、外国郵便局の廃止は愚か、法権・税権の回復、駐在兵・租借地の撤去等、総て支那の主張は何でも採用せらるゝに至り、為めに彼の北京会議・南京事件等、其後発生せる幾多の禍根を植付くるに至つたことは遺憾の極である。甚しきは巴里会議にて決定された儘、支那側の不履行により遷延せる山東問題迄も持出さるゝ事となつた。山東問題に就きては既に巴里平和会議に於て同意せる義理合上、流石に英仏は正式に華府会議の議題とすることに躊躇したる結果、英米監督の下に形式として別室に於て山東問題会議が催さるゝ事となつた。
 十一月三十日徳川・幣原全権にも子爵御心痛の次第を申上げ、其結果を精しく子爵に報告した。
 十二月二日海軍比例に就き米国側より督促もあり、此の以上遷延も如何やと云ふ次第でもあらうか、日本政府へ我が全権より打電されたるやに伝聞せるも、中々安心なり難く、子爵の来華を煩す事となり、三日ヒラデルヒヤ市に於けるモリス前駐日大使・ワナメーカー氏等の会見を了せられて、同五日来華せられた故、其後の経過を上申した。然るに生憎同七日はトイスラー氏晩餐会の予約があり、子爵は再び紐育へ出懸けられて、直ちに引返へされた程東奔西走老体を煩したる事は御気の毒に堪へなかつた。
 十二月八日列国が支那の利害国権を侵害せぬ宣言が可決せらるゝ等支那問題は益々発展した。此の日マクラツチー、ゴンパース、タフト諸氏との会談あり。
 十二月九日子爵は加藤全権と会見あり、又前駐支米国公使ライシユ氏とも面会せられた。
 十二月十日は第四回本会議当日であつて、ヒユーズ氏より委員会経過の報告、ロツヂ氏より四国協約の報告があり、続いて日英同盟廃案の大問題に移つた。此の日ルート、ヒユーズ両氏を訪問せられ、アレキサンダー、リンチ両氏の来訪があつた。
      五
 第四回本会議に於ては、太平洋問題に関する四箇国協約に依り、太平洋の防備は現状の儘として、更に拡張しない申合となり、ヤツプ島に関しても日米間に協定が成立したのであるが、何としても当日の最大呼物は日英同盟廃棄であつた。英国全権バルフオア氏は流石に英国流の紳士的弁舌を振はれた、先きの仏国ブリアン氏の熱弁に比して、
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此の方は熱烈ではなかつたけれども、冷静の中に肺肝を抉るの感があつた。「日英同盟は極東の平和、延いては世界の安寧に功献した処頗る大である。功献偉大なる此の提携を、今玆に棄てねばならぬとは誠に感慨深いものがある。偶然同一列車に乗合せた旅客が停車場に着いて左右に袂を別つ様に、しかく簡単に、期限到来を理由として日英両国が相離れる事は忍びない処である」と云ふが如き語調であつた。今日こそ日本全権の演説は聴きものならむと多大の期待を以て迎へられ、日英同盟廃棄に就ては、必ず日本は今迄の沈黙を破つて英国以上に堂堂其所信を披瀝すべしとは何人も考へた所である。開場を待受けて子爵御同道傍聴席に坐を占めた。上記バルフオア氏の気品高きと同時に事理整然たる演説が大喝采の裏に終り、衆目は日本全権の席に注がれジヤパン、ジヤパンの声は聾せむばかりなりしも、日本側は容易に起たるゝ模様がない。此の機に於て徒らに逡巡せむか絶好の機会は逸すべくあるに、何を躊躇せらるゝかと私等は気が気ではなかつた。遂に周囲の刺戟に耐へ兼ねて、徳川公爵より簡短に日本も廃業を遺憾とする旨を陳述せられた。蓋し当時英国は総ての事情が米国の気嫌を損する事を許さなかつたのは、バルフオア全権の言動に徴しても良く察せられたのである。此の点に於て日本は米国に対し、移民問題等につき責むべきものを有するとも、米国に気兼ねすべき何物をも持つて居なかつたのであるが故に、正々堂々日英同盟が極東より延いて世界平和の為めに貢献せる所の甚大なりしを高唱すべきであつた。殊に日英同盟に忠実なる日本は欧洲大戦争にも参加し、或は太平洋に或は地中海方面に活躍して、戦局を味方に有利ならしめたる以上は、我が首席全権より一大演説があつて然るべしとは、衆論の一致する所である。
 此の日子爵は旅宿に帰られて、憤慨の意を漏された。国を憂ひ、民を念はれ、老体を提げて尽されつゝある子爵としては、尤もの次第である。文王怒つて国治まる、文王の怒は公憤であつて、子爵の憤り亦公憤にあらずして何ぞや。温厚なる子爵の此日の如く憤慨せられたることを目撃したのは、私としては空前であり絶後であると謂つても宜しい。十二月十一日華盛頓会議の所謂山も見えた所より、子爵は全権に別を告げられ、親交の人々と留別の宴を開かれ、其夜出発南方の線路を経て加州に向はれた。
 十二月十二日鶴首して待ちあぐんだ日本の態度が決定し、ヒユーズ氏の五・五・三比例案に同意する事となつた。尤も軍艦陸奥の生命丈けは取り留められた。結局同意さるゝものとせば最初率先して同意の意思表示があつたならば、対米関係は勿論有利なる条件が得られ、列国関係に於て益する所多大なりしは勿論、支那問題の経過も現在とは大に異なるものありしならむと考へ来るとき、子爵の御苦心が実現せざりしは、子爵の為めは勿論、日米支三国、否な極東の為め世界の為め、返す返すも遺憾に堪へざる次第である。
○下略



〔参考〕華盛頓会議に対する綱島(国際平和協会)代表の実見的感想 第一五―一六頁大正一一年六月刊(DK330012k-0022)
第33巻 p.275-276 ページ画像

華盛頓会議に対する綱島(国際平和協会)代表の実見的感想 第一五―一六頁大正一一年六月刊
 - 第33巻 p.276 -ページ画像 
    華盛頓会議に関して米国名流より
    本協会に寄せたる消息 三篇
      (其一)
 在紐育日米関係委員会々頭「ヂー・ダブリユー・ウイツカルシヤム氏」(米国前司法卿)より、本年二月十四日附を以て当協会々長蜂須賀侯爵に寄せたる書信中に曰く
   往年京城奉天間の汽車中端無く閣下と御同乗申上、且北京「ワゴン・リ・ホテル」に於て楽しき朝餐を共にせしことを追懐候事は、小生の殊に愉快とする所に有之候、尚ほ又閣下が目下国際平和協会に御関係相成り居る由承り、衷心喜悦を禁ずる能はざる次第に御座候
   小生は千九百拾三年貴国遊歴以来、我米国人が日本人に就きて又日本人の心理、並に其政策に就きて観察を誤り居ることを痛感し、曩きに日米関係委員会より小生に其会長たらむことを要請せらるゝや、小生は進みて之を快諾致候、斯る関係なるが故に、這次の華府会議を通じて、日米間の関係が著しく改善せられたることを無上の快心事に存居候
   綱島氏が閣下の御書状を小生に届けられたる当日、小生は恰も「ユニヴアシテイー」倶楽部の会食に出席し、其席上に於て華府会議に於ける濠洲の全権にして上院議員たる「パース」氏の同会議に於ける議事、及其経過に関する一場の演説を聴き申候
   同氏は日本全権の主張、其精神及会議の大なる目的を達成せむが為、常に協力を惜まざりし其態度を称揚し、当初日本全権の上に明かに危惧疑惑の念を以て会議に臨みたる氏は、今や日本全権に対し並に会議中同全権の執りたる行動に対して甚深なる敬意と、賞讚を以て会議を去るに至れる旨を述べ、日本全権は実際今回の会議の成功に多大の貢献を為したるものなることを切言致居候、小生は閣下が日本と最も緊切の関係有る此南方隣人の真摯なる告白を聞かれ候はゞ、必ずや感動せらるべきを信ずるものに有之候
   小生は貴国の老政治家にして又国際平和事業の使徒たる渋沢子爵の紐育訪問に対し、非常の快感を禁ずる能はざるものに有之候同子爵の吾人に与へられる激励の語は、吾人一同に異常の聳動を与へ申候
   又閣下に於て御承知の筈なる夫の「ギユーリツキ」博士は、米国に於ける第一の日本通として、日米間の親交促進に就き嘆賞すべき活動を続け居り申候
○下略



〔参考〕官報 第二八一五号大正一〇年一二月一九日 彙報(DK330012k-0023)
第33巻 p.276-277 ページ画像

官報 第二八一五号大正一〇年一二月一九日
  彙報
    ○官庁事項
○海軍制限問題ニ関スル決定 海軍制限問題ニ関シ本月十五日日英米三国首席全権ノ会合ニ於テ大要左ノ通決定ヲ見タリ
一、日英米三国ハ各自主力艦ノ勢力比率トシテ三・五・五ヲ採用スル
 - 第33巻 p.277 -ページ画像 
ト同時ニ、香港ヲ加ヘタル太平洋方面ニ於ケル要塞及海軍根拠地ニ関シ現状維持ヲ約定ス、但シ此ノ制限ハ布哇諸島・濠洲・新西蘭及日本本土ヲ成ス諸島、並米国・加奈陀ノ沿岸ニ通用セラルヽコトナク、此等ニ関シテハ当該各国ニ於テ完全ナル自由ヲ保留ス
二、日本ハ摂津ヲ廃棄シ陸奥ヲ加ヘ、米国ハ「ノースダコタ」「デラウエア」ヲ除キ、「ワシントン」及「コロラド」ヲ加ヘ、英国ハ英国噸数ニテ三五、〇〇〇噸以下ノモノ二隻ヲ新造シ「キング・ジヨージ」五世級四隻ヲ廃棄ス
三、代艦建造ニ当リ、主力艦ノ最高噸数ヲ米国噸数ノ計算法ニ依リ次ノ如ク定ム
   英、米    五二五、〇〇〇噸
   日本     三一五、〇〇〇噸
四、主力艦ニ関スル十年ノ海軍休暇ハ、特ニ協定セラレタル例外ヲ除キ米国提案通維持セラルヘシ
五、保有セラルヘキ主力艦ノ数並廃棄セラルヘキ主力艦ノ数ニ関スル日英米三国間ノ協定ハ、仏国及伊国ノ主力艦ニ関スル適当ナル協定ノ成立ヲ条件トス



〔参考〕華府会議諸条約及諸決議 条約集第八輯・第五一―五五頁大正一四年一二月刊(DK330012k-0024)
第33巻 p.277-278 ページ画像

華府会議諸条約及諸決議 条約集第八輯・第五一―五五頁大正一四年一二月刊
  三、太平洋方面ニ於ケル島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル四国条約並追加協定
○上略
    第一条
締約国ハ、互ニ太平洋方面ニ於ケル其ノ島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル其ノ権利ヲ尊重スヘキコトヲ約ス
締約国ノ何レカノ間ニ太平洋問題ニ起因シ、且前記ノ権利ニ関スル争議ヲ生シ、外交手段ニ依リテ満足ナル解決ヲ得ルコト能ハス、且其ノ間ニ幸ニ現存スル円満ナル協調ニ影響ヲ及ホスノ虞アル場合ニ於テハ右締約国ハ共同会議ノ為他ノ締約国ヲ招請シ、当該事件全部ヲ考量調整ノ目的ヲ以テ其ノ議ニ付スヘシ
    第二条
前記ノ権利カ別国ノ侵略的行為ニ依リ脅威セラルルニ於テハ、締約国ハ右特殊事態ノ急ニ応スル為、共同ニ又ハ各別ニ執ルヘキ最有効ナル措置ニ関シ了解ヲ遂ケムカ為、充分ニ且隔意ナク互ニ交渉スヘシ
    第三条
本条約ハ実施ノ時ヨリ十年間効力ヲ有シ、且右期間満了後ハ、十二月前ノ予告ヲ以テ之ヲ終了セシムル各締約国ノ権利ノ留保ノ下ニ、引続キ其ノ効力ヲ有ス
    第四条
本条約ハ締約国ノ憲法上ノ手続ニ従ヒ、成ルヘク速ニ批准セラルヘク且華盛頓ニ於テ行ハルヘキ批准書寄託ノ時ヨリ実施セラルヘシ、千九百十一年七月十三日倫敦ニ於テ締結セラレタル大不列顛国及日本国間ノ協約ハ、之ト同時ニ終了スルモノトス、合衆国政府ハ批准書寄託ノ調書ノ認証謄本ヲ各署名国ニ送付スヘシ
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本条約ハ仏蘭西語及英吉利語ヲ以テ本文トシ、合衆国政府ノ記録ニ寄託保存セラルヘク、其ノ認証謄本ハ同政府之ヲ各署名国ニ送付スヘシ
○下略