デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第34巻 p.589-593(DK340066k) ページ画像

大正14年9月26日(1925年)

是日、当委員会主催、アメリカ合衆国人ウィリアム・アクスリング博士招待午餐会、丸ノ内東京銀行倶楽部ニ催サル。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

(ウィリアム・アクスリング) 書翰 渋沢栄一宛一九二五年九月一〇日(DK340066k-0001)
第34巻 p.589-591 ページ画像

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日米関係委員会往復書類(一)(DK340066k-0002)
第34巻 p.591 ページ画像

日米関係委員会往復書類(一)      (渋沢子爵家所蔵)
(写)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ば昨年排日移民法の喧伝せられし際、米国に在りて尽力せられしバプテスト教会神学博士アキスリング氏此程帰任致候に付ては、来廿六日正午東京銀行倶楽部に同氏を招待して懇談会相催度と存候間、御繰り合はせ御来会被下度此段御案内申上候
                           敬具
  大正十四年九月廿二日
                      渋沢栄一
  追て当日は同氏の懇親の人々十名程に御案内致置候
  尚乍御手数御来否御一報被下度候


日米関係委員会集会ニ関スル控(DK340066k-0003)
第34巻 p.591-592 ページ画像

日米関係委員会集会ニ関スル控 (日米関係委員会所蔵)
 大正十四年九月廿六日(土)正午、東京銀行倶楽部
 アキスリング博士歓迎午餐会
                 (太丸ハ朱書)
                  男○阪谷芳郎
       ○アキスリング博士   ○添田寿一
                   ○頭本元貞
                   ○串田万蔵
                   欠姉崎正治
                   ○団琢磨
                   欠山田三良
                  子 金子堅太郎
                   欠井上準之助
                  子○渋沢栄一
                   ○増田明六
 - 第34巻 p.592 -ページ画像 
                   ○小畑久五郎


日米関係委員会集会記事摘要(DK340066k-0004)
第34巻 p.592-593 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要 (渋沢子爵家所蔵)
 大正十四年九月廿六日、日米関係委員会、於銀行倶楽部開催
 ウヰリアム・アキスリング氏招待午餐会
 出席者
  来賓 ウヰリアム・アキスリング博士
  委員 阪谷男爵・添田寿一氏・頭本元貞氏・串田万蔵氏・団琢磨氏・渋沢子爵
  幹事 増田明六氏・小畑久五郎氏
    記事概要
渋沢子爵 皆様と共にアキスリング博士を御迎へしたことを喜びますアキスリング博士はアメリカのアキスリング博士ではなく、日本のアキスリング博士と思ふて居りますから、此度の御経験を伺ふことを喜び、且つ皆様と共に博士の御健康を祝し度ふ存じます
アキスリング博士 私は渋沢子爵を始め日米関係委員諸彦に対して今日私を御招き下さいました御厚意を難有感謝致します。私が日本を出発しません内に排日移民法は通過しました。シヤトル着後直ちに電報を以てニユーヨークに呼ばれました。三種の会合が紐育市に開かれて居りました。即ち(一)米日関係委員会(二)基督教聯合予算会(三)基督教聯合幹事会でありました。私の演説は私の出版しました小冊子中に乗せてありますが、聴衆は到る処に大なる緊張を以て傾聴せられました。其結果排日移民法の改正を決議した集会も多くありました。ワシントン市に於ては労働者及国務省の当局者を訪問して意見を陳述しましたが彼等は大に同情を表して呉れました、然し事は決して仕舞つて所謂後の祭に過ぎない有様となりました、此上は国民に訴へて輿論を喚起するより外に道なしと考えました。移民法執行権は労働者の手中にあるので私は労働卿及次官に面会して懇々陳述しました。彼等はアメリカはアメリカ人のアメリカなりと云ふて頑乎たる態度を示しました。之に対して私は二個の点の主張しました(一)日本留学生は日米親善に貢献する所が多い、故に日本学生の入国を便利にすること(二)在留日本人に家庭をなすの便宜を与ふること。此等の主張に対して労働局は中々譲りませんでしたが結局寛大の処置を取るべしとの諒解を得ましたが、労働者の家庭生活云々に就ては全然考慮の余地を与へませんでした。然しながら一ケ月前此問題に就ても成るべく寛大なる処置を取る事を発表しました、恐らく輿論の力の然らしめたものと考へます。ワシントン市より紐育市に還りて基督教聯合会国際委員と我教会と協力して啓発運動を開始することゝなりました、演説旅行の方法としては、先づ先きに準備委員を遣はして集会の手筈をなすのでありました。私の準備委員は長く支那に宣教師として働いて居つたハーデイングと申す人でありましたが、誠に能く準備して呉れました。演題としては日米関係・排外法・人種問題・外交問題・真の日本・日本人の心理状態等を掲げました時には非常な反対を受けましたが、九分通りの聴衆は謹聴しま
 - 第34巻 p.593 -ページ画像 
した。米国人一般の対日感情は寧ろ宜ろしい方であります、十年前に比較して非常に日本を理解して来たと思ひます。日本人に反対する者は左の四種であります
 (一)黄色新聞紙、(二)秘密結社(K・K・K・)、(三)在郷軍人団、(四)労働組合、国民一般は余り此等の団体に動かされて居りませんが、右の団体は政治にカラマツテ居り、且つ隠れたる宣伝をなして民心を腐敗せしめやうとして居ります。米国の人口は一億一千二百万でありますが、其半数は移民よりなりて居ります。欧洲戦争前までは米国は国民問題に左程の重きを置きませんでしたが、戦争の際国家に統一なき事を泌々と感しました為め、今日は極端に統一即ち同化問題を唱へる様になつたのであります。紐育市の人口は五百五十万でありますが、内四百五十万は外国人で、純粋の米国人は唯百万人丈けであります、例へばユダヤ人八十万、伊太利人五十万、独逸人六十万と言つた様な有様であります。外国人の激増によりて、米国人従来の国民性及道徳性に大変化を来したのであります。故に米国は自衛の為め移民数に大制限を加ふるより外に道はない事を発見したのであります。然し私は何処までも人種差別をなすことは非なりと論じました。又国民の八分通りは私の意見に賛成しました、宗教家・実業家も同情を表しました。学生等は盛に世界的研究を始めました。米国其れ自身は今過渡期に遭遇して居ると思ひます。彼等は移民問題に醒めました。彼等は材源に富み且つ広大なる国土を有して居るので、他を顧みる暇がありませんでしたが、今は斯る孤立的生活の時代遅れなる事を悟りつゝあります。実業家・学者及宗教家等に此徴候を見ます。私は又日米両国の関係が過渡期にあるのではあるまいかと考へます。従来米国は日本の親なり師なりと思つて居りました、然し今や日本国を同等のものと認めやうとして居るのであります、之れ即ち覚醒であります。此覚醒は可なり有力なる階級に行渡つて居ります。大体に於て私は将来の日米関係を楽観的に見ます。
        以上
   午後二時半一先つ閉会、後懇談に移り三時半全く散会


(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一四年(DK340066k-0005)
第34巻 p.593 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一四年
                   (阪谷子爵家所蔵)
十四、九、二六 銀行クラブ・日米小委員会、アキスリング氏帰朝ニ付招待、氏ハ在米中三万マイル旅行、三百五十回講演ス、頗ル力アリ、ハージングト云フ印度ニ居リシ宣教師米国ニアリ、アキスリング氏ノ為宣伝者トナリテ先駆シ、大ニ便宜ヲ得タリ、ア氏ハ米国日米協会・宗教聯盟・パプチスト三者ノ為ニ働キタルナリ云々