デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第35巻 p.5-24(DK350001k) ページ画像

昭和2年1月14日(1927年)

是日当委員会主催アメリカ合衆国人ウィリアム・イー・グリフィス歓迎午餐会、丸ノ内東京銀行倶楽部ニ開カル。栄一、病気ノタメ出席セズ、阪谷芳郎代リテ挨拶ス。次イデ五月九日、栄一日本女子大学ニ於ケル同夫妻招待会ニ臨ミ挨拶ヲ述ブ。サラニ六月九日、上野公園自治会館ニ開カレタル講演会ニ臨席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 昭和二年(DK350001k-0001)
第35巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
一月四日 晴又曇 寒気昨日ト同、朝来少ク雲アレトモ風無クシテ寒威モ亦タ強カラス、午後ヨリ快晴
午前○中略九時過小畑氏・高田氏共ニ来訪ス、小畑氏ニハ頃日渡来セル米国人グリヒス氏ヲ日米関係委員会ニ於テ歓迎夜宴開催ノ事及同氏ヘノ伝言ニ付詳細ニ口授スル処アリ○下略


日米関係委員会往復書類 (二)(DK350001k-0002)
第35巻 p.5 ページ画像

日米関係委員会往復書類 (二)     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ハ『日本帝国』ノ著者トシテ有名ナルウヰリアム・イー・グリフイス博士八十四歳ノ高齢ヲ以テ旧臘来遊セラレ候ニ付テハ、会員打寄リ談話会相催同博士ノ懐旧談等承度候間、万障御繰合ノ上来十四日(金)正午丸ノ内東京銀行倶楽部ヘ尊来被成下度、此段御案内申上候 敬具
  昭和二年一月七日      日米関係委員会
                 常務委員 渋沢栄一
                  同   藤山雷太
  御諾否折返シ御回示願上候


日米関係委員会集会記事摘要(DK350001k-0003)
第35巻 p.5-7 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要       (渋沢子爵家所蔵)
 昭和二年一月十四日(金)、於東京銀行倶楽部、日米関係委員会ウヰリアム・イー・グリフヰス博士招待談話会
    出席者
 来賓 ウヰリアム・イー・グリフヰス博士
 会員 一宮鈴太郎氏・大谷嘉兵衛氏・小野英二郎氏・添田寿一氏・頭本元貞氏・串田万蔵氏・江口定条氏・姉崎正治氏・阪谷男
 - 第35巻 p.6 -ページ画像 
爵・白仁武氏・森村男爵
 幹事 服部文四郎氏・増田明六氏・小畑久五郎氏
 調査嘱託 高木八尺氏
    記事概要
阪谷男爵 本日は珍らしくも八十四歳の御高齢に在らせらるゝ米国の老紳士を御迎へして、懐旧談を伺ふことを得ましたのは私共の喜びとする所であります、特にグリフヰス老博士は、明治の初年即ち明治三年に我邦に渡米せられて育英の事業に当られたばかりでなく、御帰国後も日本より彼の地に渡つた青年学生を薫陶せられたのであります。加之「ミカドス・エムパイヤ」と題する著書を公けにせられ、爾来殆んど六十年間、或は講演により或は諸雑誌に寄稿せらるることによつて米国に日本を紹介し、日本に関して謬伝・誤報の伝はりし時には之を訂正する等、日本に取り忘るべからざる恩人で御座います。渋沢子爵は本日病気の為め御出席になりませぬが、往年加州に排日熱の盛なりし頃、之に善処せんとの目的を以て日米関係委員会を組織して、日米両国の親善に努力して居られます。子爵は今日の欠席を特に遺憾とせられまして、私よりグリフヰス博士に呉れ呉れも宜敷申上くる様にとの御言伝がありました。又子爵はグリフヰス博士が再び東京に御見えになる頃は必ず御面会が出来るであらうと楽んで居られます。御承知の通り今日我々は国家的喪中にありまするので、本会を歓迎会と申す様な幾分かハデナ会にする事の出来ないのを遺憾と致します。然し我々此処に居る誰よりも日本の昔を知つて居らるゝ外国の紳士より昔語を拝聴することは此上もない光栄で御座います、と結ばれて此処に老博士を紹介せらる
グリフイス博士 阪谷男爵並に御参列の諸君、私は玆に五十六年前の驚くべき経験を繰返へして申上くる必要は無いと思ひます。然しながら吾々人間は友人達に長く記憶して貰い度いといふ欲望を有つて居り、又昔の事柄を知らうとするものであります。私が日本に参りました当時の国情と申せば、国内騒然として日本は自ら滅亡するに非らざれば、或は外国の征服を免れないといふ様な次第でありました。然しながら明治の初年には偉人が居りました。而して此等の指導者達が、フルベツキ博士の指導により、外国の文物を学び得ました。フルベツキ博士の外にダツチ・レフオームド教会のブラウン博士は英文法を著作し、ヘボン博士は日英字書を公けにされました。大久保利通は偉人であり、先見の明に富んだ政治家でありました。明治の初年には井中の蛙的偏見を有する人々が多数ありました。私はペリー提督の旗艦サスクイハンナ号がフイラデルフイヤ市の港の波止場より進水するのを見ました。又井伊掃部守の派遣せられた遣米大使の一行をフイラデルフイヤ市で見ました。私はニユー・ジヤーシー州、ニユー・ブランズウヰツク市のラドガース大学の出身でありますが、当大学とフルベツキ博士との関係が深い所から当大学には多勢の日本学生が留学したのであります。其内には横井平四郎の甥が居りました。私は或る時日本留学生の或る者に対して、諸君は何の為めに遥々此国まで渡航せられたかと尋ねました事がありま
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す。さうすると答は日露戦争が早晩起るだらうから、私共は露国人を砲撃する為めに大砲を造る事を学ぶ為に参りましたと答へた。日本の教育は非常に盛んであります。学校教育は国家の干城であつて日本は教育が盛んである限り安全である。私は近世科学を日本に紹介する為に参つたのであつた、故に今日の如き物質文明の進歩を見るに至つた事は無論慶賀の至りであるが、私は別に怪まない。当時の人民は種々なる病気に犯されて居つた、例へば盲目者、鼻垂れ、顔面の腫物、麻疹、天然痘等が盛に流行して居つた。二月の寒天に真つパダカの乞食を見る事が珍らしくなかつた。明治天皇が御歳十五歳の時天皇の御英姿を拝する光栄を得た。当時明治天皇を囲繞せし人々は屈指の大人物であつた。天皇は御若年の頃は右偉人等の指導に重きをなされた。故に御成人の暁には実に御見上け申す程の御能力を発揮せられ、終に明治の偉業を興起せらるゝ事となつたのであります。加州の排日問題は米国の国体と、加州に於けるアイリツシユ人種と、日本より渡米せし労働者の何人なりしかゞ了解せらるれば能く釈明する。実に彼等は日本の□□族であつた。而してアイリツシユ族は何故か日本人否東洋人を排斥するのである。加州の排日は此処に其源を発して居るのである。日本人は決して単純な人種ではありません。セミチツク種、マレー種及亜細亜高地に住居せる諸人種の雑種である。日本人の偉い所も此処に存するのである。日本人の忠義心、特に皇帝に対する誠忠心は世界無比と言つて宜ろしい。私は日本の諸君に対して急かずに邁進なさいと忠告する。米国に於てはワシントン及リンカンは国民崇敬の的になつて居る。彼等は国家以上尊い人々である。ワシントンは裕福であつたが、リンカンは貧困であつた。然しながら何れも無慾の士であつて非常に国家を愛したのである。斯る偉人を有して之を尊崇する国は強いのである。外国人にして日本が封建時代より変遷して今日の国運をなすに至つた沿革を知つて居るのは私一人であると思ふ。日本の道徳的進歩は又驚異の外はない……
   午後二時閉会


東京日日新聞 第一八〇三〇号大正一五年一一月一三日 「ミカドの国」の著者五十年ぶりで来朝 新らしい日本を見に八十三歳のグリフイス翁(DK350001k-0004)
第35巻 p.7-8 ページ画像

東京日日新聞  第一八〇三〇号大正一五年一一月一三日
    「ミカドの国」の著者五十年ぶりで来朝
      新らしい日本を見に八十三歳のグリフイス翁
ラフカデオ・ハーン氏の日本紹介と同じい声価を持つアメリカの有名な日本研究の著述家ウヰリヤム・エリオツト・グリフイス翁(八三)は、渋沢栄一・藤山雷太・井上準之助の諸氏など日本における友人達の
▽…お客 としてニユーヨーク州プラスキの町を出で、十二月九日の大洋丸で横浜入港、五十年ぶりで日本を訪ねる事となつた、約三ケ月滞在して五十年前を思ひ出でつゝ静かに大正十五年の日本を見て行くのだといふ、翁は明治四年に松平越前侯に招かれて来朝し、藩校の教授として当時新進の書生達に欧米の文明を教へ、同じ六年には開成所にあつて二ケ年間物理学を教へ、明治十九年には
▽…勲四 等を贈られた、この間翁は親しく日本を見、アメリカへ帰
 - 第35巻 p.8 -ページ画像 
るや否や直ちに筆をとつて「ミカドの国」を著し、その観察の詳細と名文は読書界をうならした、現在でもアメリカの知識階級の人の書庫には必ずこの書を発見する、更に引きつづいて「日本神話」「支那朝鮮日本の歴史」など日本に関するもの十種に及び、明治四十年前後には「改革途上の日本国民」「美術国民としての日本」「日本におけるヘツバン氏」を著し、更に大正十二年にいたつては
▽…円熟 の筆を改めて「日本神話」を新刊した、滞在中は日本の風物に思ふまゝ浸ると共に出来るだけ講演を惜しまぬ筈であると


竜門雑誌 第四六五号・第八四―九一頁昭和二年六月 ○青淵先生記事 グリフイス博士との会談(DK350001k-0005)
第35巻 p.8-12 ページ画像

竜門雑誌  第四六五号・第八四―九一頁昭和二年六月
 ○青淵先生記事
    グリフイス博士との会談
  青淵先生は五月九日午前十一時半頃よりグリフイス博士と日本女子大学校に於て会見せられ、席上左の如き談話の交換をされた
博士「私は今から六十年前維新当時、未だ封建制度の廃止にならぬ時代に日本へ参つて居りましたから、子爵が新政府で財政のことに力を致され、其為め屡々危険な目にお会ひになつたことも、又日本が其後非常な進歩を為したこともよく承知致して居ります」
子爵「日本の現在と過去とを深く知る外国の方は少ないが、貴方はそれをよく知つて居て下さるのですから、日本にとつて尊い方であり私の夙に尊敬して居る方であります」
博士「誠に有難いお言葉で恐縮致しますが、それは子爵に対しても同じ事が申上げられます。即ち初め日本の財政に関する根底を培はれた後、更に日本の経済界を今日の盛況を見るまで御導きになりましたことは賞讃せずには居られないのであります。明治天皇側近の方方は皆偉かつたのでありますが、あのやうに維新と云ふ機会があつたからあの様に偉い働きをせられました。子爵も其のお一人として敬服致して居ります。丁度封建制度が廃された頃、一時松平春岳公の処へ私は唯一人の外国人として参り、親しく廃藩置県のことを見ましたので、当時の有様を承知して居りますが、かかる大事業を実行せられた一人としての子爵の功績は多大であります」
子爵「其の事を云はれると明治初年のことを思ひ出します。私は別に政治上の学問をしたと云ふではなく、単なる百姓でありました。当時幕府の制度の下に階級の差が甚だしく、凡て家柄で地位が定まつて居りましたから、私達は此の階級制度を破るのが自分達の責務であるとして、百姓をやめました。それから色々の事があつたが、兎に角遂に一ツ橋慶喜公の家臣となつて居る内に、将軍となつた慶喜公が大政を奉還したので、今お話の封建の制度が破れるやうになりました。斯くて将軍職を辞した私の主人慶喜公は謹慎するやうな身柄になられた。従つて私としては一旦主人とした人が斯様な事情になつたから、最早政治界へは出まいと覚悟しました。然し種々のいきさつがあつて四・五年役人となつたが、此時分即ち明治四年彼の廃藩置県が行はれ、私は大蔵省に居て、その事務に従つたのであります。之れは井上馨侯が主となつて私はそれを援けた。今試みに此
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事が出来なかつたらどうであらうかと想像して見ると、丁度現在の支那に於ける状態の如くなり、統一的の仕事は出来なかつたかも知れません、当時私は三十三歳で未だ若かつたから、其の実務には骨を折つて努力致しました。此事は貴方にお話すれば、よく御理解下さる事と存じます」
博士「私も其事実を鮮かに思ひ出します。あの改革では子爵は生命の危機にさへ遭遇せられたと覚へて居ります。誠に当時の人々が殆ど他界せられた中にあつて、子爵のみが生存せられ、現在の地位に居られることは慶賀に堪へません」
子爵「私は国家に御奉公したと云ふのは政治より経済方面の発展に努めたことであると申してよいでありませう、明治六年官を辞し第一銀行の経営に従事してから五十五年を経過致しました。其の間実業の進歩がありましたが、何分日本は国が小さいから農業が満足でない、他の商工業が進んでも、富の根源が薄い。故に満洲とか支那とか南洋とかへ力を進めたいが、それを実行すれば他国の疑惑を受けるので、慎んで居るのであります。大体に実業界は進歩したと云はれますけれど、退歩した点もあつて困つたものだと思ひます」
博士「今お話を伺ひまして、日本の進歩に驚くばかりであります。私は歴史家を以て自ら任じ世界の文明史を研究して居りますが、日本のものは世界に比類がない程であります。植物でも春が来れば現れますが、それには早く土地が準備をして居るからであります。日本の進歩したのも、往古菅原道真とか頼山陽とかの文学があり、文明の素地を為して居つたからであります。曾てボストンで五百万弗を投じた図書館が出来た時、世界の文明に功献した人々の名前を刻んで置くことになり、私も委員の一人に選ばれましたので、日本の人も入れて欲しいと云ひ、道真と山陽の二人の名前を加へる事になりました。故に私が生きて居る間にワシントンへ左様なものが出来るやうになりましたなら、そこへ世界の財政家の名前を刻ませるやうにし、其時は必ず子爵のお名前を入れる様に、推薦し度いと思ひます」
子爵「道真は一千年以上も昔の人でありますから、歴史によつて知るに過ぎませんが、正しい国を愛する情の深い人で、末路が不幸に終つた。即ち藤原時平に倒されたので、一般から同情せられて居りまして、それが為め一層名高くなりました。実に国を愛し、君に忠であつたさまは賞讃すべき人であります。又山陽は世界のことを知る学者ではないが、日本の国体を知り、日本の歴史に詳しく、日本政記・日本外史等を書いた人でありまして、父春水も学者であります其の書いた説が尊王論であつたから、明治維新の根本を為したと云はれて居ります。貴方の御選定は両者共、適当であつたと非常に嬉しく感じます」
博士「年を取つて参りますと、若い時に見なかつた、感じなかつたことを知ります。私の祖父は百五十年前船に関係し荷物の監督をして支那との貿易のことに従事しました。又六十年ばかり前にニユーヨークから三十哩ばかりあるニユーブランヂウヰツクにあつた私の宅
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へ日本の学生で来た人がありました。それは志士と云はれる方々です。だから私の血は祖父の時代から東洋を知り、父の下に居る時から日本に親しみを持つて居りましたが、遂に私が日本へ参る様になりましたので、普通の旅行者の見ることの出来ぬ日本を見て居ります。従つて日本の進歩の有様を判然と知る訳で同慶の至りに堪へません。私は大小をさして居られる子爵を確かに見たことがあります私ももとグランド将軍の下に軍人であつたのであります」
子爵「どう云ふ関係から日本へお出でになりましたか」
博士「斯う云ふ順序であります。フルベツキと云ふ長崎へ来て居た宣教師がありました」
子爵「フルベツキと云ふ人に其の学校で会つたことがありますが、其の人はお話の方の息子さんでせうか」
博士「さうです。その人は子供をアメリカへ置きました。私がまだ学生の頃此のフルベツキさんの事を聞いて居つたのであります。此宣教師を通じて私の学校の校長へ福井の藩主松平春岳と云ふ大名の顧問に行く者は居ないかと云ふ交渉があり、校長は私にグリフイスお前行かんか、外国へは好意を寄せて置かねばならぬ、是非行つて貰い度いと言はれ、終に日本へ参ることに決心したのですが、生命保険会社が日本へ行くなら保険をつけぬと云ひました。其頃アメリカ大陸横断の鉄道も漸く幹線が出来上つた程でした。これは千八百七十年即ち日本の明治三年でありますから、斯う云ふ事も当然でありませう。斯く宣教師のフルベッキさんからの申越が次第に進んで私が日本へ参るやうになつたのでした。そして前にも申した如く九州のフルベッキは子爵の会はれたフルベッキ将軍の父であります。大正十二年の震災の時に帝国大学の図書館へ寄附をしやうと最初に気が附いたのが、此フルベッキ将軍でありましたが、ロックフェラーが大金を寄附したのでよしました」
子爵「日本とアメリカとは関係が密接であります。最初の使臣たるハリスは伊豆の下田へ参りました。私は此人を知らないけれども貴方と同じくよく日本を知つて下さつた人で、最初は総領事でありましたが、後に公使になりました。下田の傍の柿崎に玉泉寺と云ふ寺がありますが、此処がハリスの領事旗を立てた処で、それは安政二年乃ち千八百五十九年であります。私は此の古蹟を保有する積りで、ハリスの碑を樹てやうとして居ります。今年中には出来る積でありますが、斯うしてハリスの事蹟を日本人に知らせたいと思ふのであります。又貴方のこともどうかして日本人に広く知らるゝやうにしたいと思つて居ります。外国の方で日本に深い関係を持つ人々のことを日本人に知らせるのは、国際心を養ふことになりますから、是非必要と思つて居るのであります。お恥かしいが、日本人は一般に憂国的で、国際心に乏しいようであります。だから人を見たら盗人と思へと云ふやうな言葉もあります。かゝる有様でありますから、国際心を鼓吹する必要があると切に思ふのであります」
博士「その二つの方面を見れば、日本のみがさうであるとは申せません。英国では外国人を見たら、石を投げよといふ諺があります。国
 - 第35巻 p.11 -ページ画像 
際心と云ふ点から申せば、ペリーが日本へ来る時の出帆の状態を見て私は万歳を唱へました」
子爵「帝国大学で物理学かを教へられたやうでしたが」
博士「化学と物理とを専攻したので教へました。又哲学を無報酬で教授しましたが、それは日本の学生の頭脳を知りたかつたからであります」
  因に同博士は八十三歳の高齢である、当日は女子大学校の講堂に於て夫妻及び左記の如き青淵先生の演説があつた。
 今日は誠に愉快な日でありまして、皆様と共にグリフイス御夫妻がよい御講演を為して下さいましたことを感謝致します。そして若い人々のみでなく老人の私も益する処が少くありませんでした。当校へ米国人のお客様を御案内致しましたことは少くありませんが、大抵の場合お一人のみで、博士夫妻の様にお二方おそろいで御出で下さつたことは殆んど稀であります。グリフイス博士は御老人であるがお達者であります。五十七年前に早く日本へ見えました。当時は尚ほ旧幕の余習の盛んな時代でありました。其の時分から働いて居る私達は共に前世紀の人間でありませう。然し色々お互に話合つて見ますと、古い事新らしい事の有様がよく判りますので心嬉しく感じました。貴女方にも此の世の中が進み行く有様、進んで来たことは、私が特に申上げんでも理解して頂けると思ひます。御夫妻の御演説で特に嬉しいと思ひましたのは、日本の婦人が世界の何処の国の婦人に比較しても遜色がないと云はれたことでありまして、社会から認めらるゝ学者で、経験の豊かな博士が証明して下さるのでありますから、間違ひないと非常に喜びます。然しさうであつても実際に勉強し切磋琢磨して此の証明の裏書をすることは自ら皆さんの勤めであらうと思ひます。そして此の大学に学ばれる皆さんは婦人として国家に対する幾多の義務を尽さなければなりますまい。米国のことに就て一つの例を申しますと、カーネギーの自叙伝の中に斯う書いてありました。「自分(カーネギー)は面倒な事業や技術、又むづかしい学理上のことで困苦してから宅へ帰ると、妻が温い同情を以て慰めてくれるので、何等の疲労を覚えず愉快に一夕を送つて次の日の活動を期することが出来た。妻は私より年が下であるから当然私が先へ死ぬだらう。後に残つた妻はどうか健全であつてくれと願ふ。けれど私の死後は慰がないとすれば、彼女が先へ死んだ方が彼女の為めであると思つたが、翻て考へるとさて自分が残るとしたらどうであらうか、これはやはり年の上である私が先へ死するのが自然であると思つた。」と云ふやうな事が書いてありました。私は之を見て、之こそ真の内助の功であると思ひました。夫婦となれば、主人をよく働かせ、よい子供を生むのが妻たる婦人の務めである。故に皆さんの責任は重いのであります。どうか斯くして国に尽されるやう希望してやまない次第であります。
  更に十二日正午グリフイス夫妻を飛鳥山邸に招待し、博士の令姉に教育を受けた穂積男爵未亡人その他旧知の人々をも招いて午餐を共にせられた。
 - 第35巻 p.12 -ページ画像 
子爵「今日は博士御夫妻を遠い処まで御出でを願ひ失礼で御座いました。併し今日の御招待が必ず博士を御喜ばせするに違ひないと思ふことが一つあります。其れは、博士を若返らせるといふ事であります。と申すのは此処に集つた婦人の方々は明治の初年、博士の姉君が日本で最初の女子教育機関を開かれました。其学校に学んだ人達でありますから、博士の旧知であり、少くとも五十年前に還らせ得るものと信ずるのであります。然し御婦人をお招きしたのは私がグリフイス博士を招待するだしに使つた訳ではなく、皆さんにも当時を思ひ出して若返つて頂き度いからであります。どうかその点はよろしく御了解を願ひます」
博士「渋沢子爵は実に珍らしい人物で、明治初年幾多の危難を経、殊に日本の財政を確立された方でありまして、当時は屡々身に迫つた危機を忘れて日本国家の為めに働かれました。今日は姉の学校に学ばれた方々と古い話の出来る機会までお与へ下さいまして、感謝に堪へないのであります」


家庭週報 第八八八号昭和二年五月一三日 五十七年ぶりに観る日本 エリオツト・グリフィス(DK350001k-0006)
第35巻 p.12-15 ページ画像

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(ウィリアム・イー・グリフィス)書翰 渋沢栄一宛 一九二六年九月二二日(DK350001k-0007)
第35巻 p.16-17 ページ画像

(ウィリアム・イー・グリフィス)書翰  渋沢栄一宛 一九二六年九月二二日
                       (渋沢子爵家所蔵)
             Pulaski, N. Y. Sept. 22, 1926
Viscount Shibusawa Ei-ichi
 Honored Sir and Fellow-Octogenarian,
  Heaven be praised that you are still living and able to serve your country and humanity! I had the honor of often seeing you in Tokyo when I was serving in the Imperial University, 1872-1874 ; and my sister was the first principal of the Government School for girls, inside Hitotsubashi Go Mon.
  In America, I met you and spoke in behalf of Japan before you at General Verbeck's school at Manlius, near Syracuse, N. Y. and again in New York when you were guest of honor at the Japan Society. I was then the only speaker and told about your great work in the early Meiji years (Mr. Zumoto interpreting to you). The last time we met was on Sunday in the First Presbyterian Church in New York, when we condoled with each other over the loss of a Japanese statesman by assassination.
  I passed my eighty-third year September 17, 1926 and memory carried me back to that morning of April 7, 1850, when the U.S.S.S. "Susquehanna," the future flagship of Commodore Perry was launched alongside of my father's coal wharf in Philadelphia. As the ship moved he started cheers for the gallant ship. He had been a sea captain and rejoiced in the sending of this fine ship to the Far East.
  Now after fifty-six years from my first sight of the Princess Country, you are inviting me to Japan. Heaven bless you! I hope to arrive at Yokohama December 9th and write the life of your great emperor, the Meiji Tenno. Since returning from Japan in 1874, I have been constantly interpreting Japan and the Japanese to our American people.
  God bless the Emperor and lengthen your useful life!
                Heartily,
            (Signed) W. Elliot Griffis
(右訳文)
         (栄一鉛筆)
          十五年十一月一日一覧、書中に来ル十二月九日に横浜着之見込と有之ニ付回答発送ニ不及候事
 東京市               (十月十九日入手)明六
  子爵渋沢栄一閣下
         紐育州プラスキ、一九二六年九月廿二日
            ウヰリアム・エリオット・グリツヒス
敬愛する閣下又共に同しく八十歳を超えたる仲間なる閣下。閣下が尚
 - 第35巻 p.17 -ページ画像 
ほ御健在にて国の為め並に人類全体の為め御尽力被遊候は神の嘉する所なるべくと存候、小生は嘗て東京帝国大学に奉職致し候頃(自千八百七十二年至千八百七十四年)屡々御会見する光栄を得たるものに候又愚妹は一橋御門内の官立女学校最初の校長たりしものに御座候
《*》米国に於ては紐育州シラキユースに程近きマンリアスに於けるフルベツキ将軍の学校に於て、日本に関する演説を為し閣下の御清聴を煩はしたる事有之候、其後紐育に於て閣下が日本協会の賓客たりし時御面会致候事有之候、其際の小生は唯一の演説者にて、明治初年に於ける閣下の御功績に就て談話致候(頭本氏が閣下へ通訳せられ候)最後に紐育第一長老教会に於て拝光の機を得、当時暗殺せられし日本の政治家を追惜致候義に御座候
小生は千九百二十六年九月十七日を以て齢八十三歳を超え候に当つて端なくも後年ペリー提督の旗艦となりし軍艦「サスケハンナ」がフイラデルフイアに在りし愚父所有の石炭波止場の傍に於て進水式を挙けたる千八百五十年四月七日の朝の事を想ひ出申候、式始り、船滑り出すや父はその雄姿を見て喝采致候、父は嘗て船長たりしこと有之候為め、此立派なる船を東洋に送る事を歓び候
さて小生が美はしき貴国を見てより五十六年、今や小生は再び閣下の御招待により日本を訪問せんとするものに有之、真に感謝に不堪候
小生は来る十二月九日横浜到着の見込みに有之、直に日本の偉大なる帝王即ち明治天皇の御伝記を執筆致度希望罷在候
小生は千八百七十四年帰国以来常に米国人に対し日本及び日本人を紹介致居候、終りに今上陛下に対し奉り天の加護厚からんことを祈り、併せて閣下の意義深き活動の愈永からんことを祈り候 敬具
*(欄外別筆)
 [明治四十二年此学校は子爵参観せられたり


外務省関係書類 (三)(DK350001k-0008)
第35巻 p.17-18 ページ画像

外務省関係書類 (三)          (渋沢子爵家所蔵)
                    (別筆)
(朱書)                十一月七日入手

欧二普通合三九五六号
  大正十五年十二月六日
             外務次官 出淵勝次外務次官之印
         (常務委員)
   日米関係委員会長子爵 渋沢栄一殿
    「グリフイス」博士本邦来訪ニ関スル件
本件ニ関シ今般在米松平大使ヨリ別紙写ノ通申越アリタルニ付委曲右ニテ御承知ノ上、同博士来着ノ際ハ相当便宜供与相成様御配意煩度
 追テ同博士ハ十二月十一日横浜着ノ予定ノ由
(別紙)

公第七三二号 大正十五年十月十三日
            在米 特命全権大使 松平恒雄
   外務大臣 男爵 幣原喜重郎殿
    「グリフイス」博士訪日ニ関スル件
 - 第35巻 p.18 -ページ画像 
米国人「ウイリアム・エリオツト・グリフイス」博士Dr. William Elliot Griffisハ明治初年(一八七二年ヨリ一八七四年迄)文部省ニ聘セラレ帝国大学ニ教鞭ヲ取リ、帰米後モ本邦ニ関スル多数ノ著述及講演ニ依リ本邦事情ヲ紹介スルニ努メ、一九〇八年ニハ勲四等旭日章ヲ授与セラレタル人物ナルカ、今般八十三歳ノ高齢ヲ以テ再度日本訪問ヲ思立チ、来ル十一月九日桑港発大洋丸ニテ本邦ヘ赴ク趣、同博士ノ日米関係ニ貢献セル功労尠カラサルニ顧ミ、今回渡日ノ際ハ成ル可ク優遇ヲ与ヘラレ度シ
右稟申ス


外務省関係書類(三)(DK350001k-0009)
第35巻 p.18 ページ画像

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(ウィリアム・イー・グリフィス) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年二月二八日(DK350001k-0010)
第35巻 p.18-19 ページ画像

(ウィリアム・イー・グリフィス) 書翰  渋沢栄一宛 一九二七年二月二八日
                (渋沢子爵家所蔵)
       WILLIAM ELLIOT GRIFFIS
        PULASKI, NEW YORK
                Beppu, Feb. 28. 1927
Viscount Shibusawa
       Honoured Friend,
  Allow me to acknowledge your kindness in introducing me your friends in Japan and Korea. I have been busy, on my route, in addressing clubs, societies, schools and churches, taking delight in helping the Japanese and Americans to understand and appreciate each other. I consider that your friendship and mine is at least 55 years old, for I used to see you in Tokyo. May you long live to serve your country and your fellow men. Heartily,
           (Signed) W. Elliot Griffis
(右訳文)
          (栄一鉛筆)
          現ニ同氏ハ何レノ地ニ在るや承知致シ
 - 第35巻 p.19 -ページ画像 
タシ 四月十九日落手一覧
 東京市                  (三月四日入手)
  渋沢子爵閣下
           別府、一九二七年二月廿八日
            ウヰリアム・ヱリオツト・グリフヰス
拝啓、日本及朝鮮に於ける閣下の御友人諸氏に御紹介被成下候御厚意誠に難有奉深謝候、途中小生は倶楽部・協会・学校・教会等に於ける演説に忙しく、日米両国人相互の間の諒解と友誼とを増進するに微力を尽す事を得たるは小生の欣快とする処に候、思ふに閣下と小生との間の友誼は少くとも五十五年間継続せるものに候、蓋し小生は東京に於て閣下と会見するを常としたるが故に候、閣下には愈御長命被遊、貴国及び貴国民の為めに御尽力被遊候様奉祈念候
右御礼旁々御挨拶まで得貴意度如斯御座候 敬具


(ウィリアム・イー・グリフィス)書翰 渋沢栄一宛一九二七年五月三〇日(DK350001k-0011)
第35巻 p.19-20 ページ画像

(ウィリアム・イー・グリフィス)書翰  渋沢栄一宛一九二七年五月三〇日
                (渋沢子爵家所蔵)
                 Kamakura, May 30, 1927
                    JAPAN
Viscount Shibusawa
 Honored Sir,
  I count it my highest honor to share with you, in helping to make Japan great, though I was only a seed-sower. And now, 59 years after first teaching Japanese students in America, and, 57 from first seeing Fuji Yama, I have come again to Japan, to behold wonderful progress and transformation. Let me congratulate you upon attaining so great an age, and ever more upon your continued usefulness to Society and your county. May you see even yet many more years of usefulness, and your country and nation enjoy the fruits of your experience and wisely-directed energy.
  Most heartily yours, (my wife alse joining in sending fare-well greetings and congratulations.)
             (Signed) W. Elliot Griffis
(右訳文)
                      (栄一鉛筆)
                      六月六日一覧
 東京市                  (六月一日入手)
  渋沢子爵閣下
           鎌倉、一九二七年五月三十日
            ウヰリアム・ヱリオツト・グリフヰス
拝啓、益御清適奉大賀候、日本をして偉大ならしめしことに付閣下と共にすることを得たるは小生の最も名誉とする処に御座候、小生は単に種を播たるに過ぎされども、小生が米国に於て初めて日本学生を教授してより玆に五十九年、又初めて富士山を見てより五十七年を経過致候、今日再び日本に遊び其の驚くべき進歩と変化とを見たる次第に
 - 第35巻 p.20 -ページ画像 
御座候、閣下が如斯老齢に達せられ而も猶ほ社会国家の為めに引続き有用なる御尽力を遊はさるゝ事を御祝申上候、閣下には今後猶ほ多年有用なる御尽力を遊ばされ、貴国及貴国民が閣下の御経験と賢明に使用せられし御努力の結果を享受せん事を祈り居候
乍末筆荊妻と共に御別れの御挨拶と御祝詞とを申上げ候 敬具


渋沢栄一書翰 控 ウィリアム・イー・グリフィス宛一九二七年六月一一日(DK350001k-0012)
第35巻 p.20 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 ウィリアム・イー・グリフィス宛一九二七年六月一一日
                      (渋沢子爵家所蔵)
                    (栄一鉛筆)
                    六月十七日一覧
大洋丸にて同しく八十歳以上の友人なる
 ウヰリアム・ヱリオツト・グリフヰス博士殿
            東京、一九二七年六月十一日
                      渋沢栄一
拝啓、益御清適奉賀候、然ば貴台愈々我国を去られんとするに臨み、小生は貴台の第二回の日本御訪問が成功裏に終結致候に対し衷心より慶賀仕度候、人類活動の各方面に於て記録破りの出来事多き現代に於ても、貴台は日米親善なる史的方面に於ける競争に於ての優勝者にして比肩するもの無之義を当然誇り得ることゝ存候、此競争に於ける勝利の栄冠は永久に何人も窺はざるへく且窺ひ得ざること明白に候
平和使節として日本訪問の途に就くペリー提督の旗艦サスケハンナ号の進水を、フイラデルフイヤ市の埠頭に目撃したる一少年を思ひ、尊き教育の事に携はる為め明治三年親しく日本に来り、今又五十七年後八十四歳の高齢を以て再遊せられたるを思へば真に此感なき能はず候而して日本との此の特異の関係は貴台が維新後の日本の歴史及び明治天皇御伝記を著述せんとの宿望達成を予示するものゝ如くに候、此遠大の御計画の完成せられ候様熱心に希望仕候、此処に記念の為め拝呈仕候は徳川家康公三百年祭の際作製せられたるものゝ一に有之候、此箱に収めたる三巻の絵巻物に付ては添付の英文説明書により御諒知被下度候、右は非売品に御座候、時々御令閨と共に御覧被下「ミカド」の帝国を偲ばれ候はゞ幸甚に御座候
擱筆に臨み一言相添へ申上度候は、去八日夜東京中央放送局より放送せられ候貴台の別離の辞に付てに御座候、貴台は幾多の結構なる御注意をせられ御中に、日本婦人に対し断髪を模倣する如き心なき習風に陥らず、伝統の美風を維持する様警告を与へられたるは実に当を得たる義にして感謝に堪へず候
令閨及び貴台に対し衷心より平安の御旅行を祈り奉り候 敬具
  ○右英文書翰ハ同日付ニテ発送セラレタリ。


(ウィリアム・イー・グリフィス フランシス・ケー・グリフィス) 書翰 渋沢栄一宛一九二七年六月一七日(DK350001k-0013)
第35巻 p.20-21 ページ画像

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(ウィリアム・イー・グリフィス) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年八月一〇日(DK350001k-0014)
第35巻 p.22 ページ画像

(ウィリアム・イー・グリフィス) 書翰  渋沢栄一宛 一九二七年八月一〇日
                   (渋沢子爵家所蔵)
          Pulaski, N. Y. August 10, 1927
Viscount Eiichi Shibusawa
 Honored Sir,
  In rich memory of your great generosity to me and to Mrs. Griffis, as well as in the memory of former years, I beg to state that I arrived home July 19th, and am now digesting my accumulation of periodicals and letters. Nevertheless, I have begun the promised biography of the great Meiji Tenno, and hope to complete it before the end of the year, when I shall probably go to the national capital Washington to spend the winter, and probably to begin what I promised -- a History of Japan during the Meiji period.
  Allow me to wish you health and strength and a prolongation of your useful life. I have determined more than ever to do what I can for the advancement of the Japanese people in all prosperity and usefulness.
           Very heartily yours,
            (Sigend) W. Elliot Griffis
(右訳文)
                     (栄一鉛筆)
                     九月七日一覧
 東京市                 (八月廿九日入手)
  子爵渋沢栄一閣下
        一九二七年八月十日、紐育州プラスカイ
            ウヰリアム・ヱリオツト・グリフヰス
拝啓、益御清栄奉賀候、然ば小生及荊妻に対する閣下の御厚意に関する豊なる追懐と往年の記憶を懐き、七月十九日無事帰国仕り、目下留守中堆積せる多数の刊行物及書翰を処理致居候、一方予ての計画通り明治大帝の伝記執筆に着手致、本年末迄には完結の見込みに御座候、その頃小生は冬季を過す為め多分国都華府に罷越し、予て申上候「明治時代の日本歴史」の稿を起し得るかと存候
閣下の御健康と御元気と御長寿とを奉祈候、小生は日本国民の繁栄と有為とを促進致候為め一層努力致度堅く決意仕候
右得貴度如此御座候 敬具



〔参考〕(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 昭和三年(DK350001k-0015)
第35巻 p.22 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記  昭和三年
                     (阪谷子爵家所蔵)
 ○三、二、七 此日新聞グリフイス翁(ミカドスエンパイヤ著者)ノ死ヲ報ス(国民)



〔参考〕一八五三―一九二一年日米外交史 ペイソン・ジェー・トリート著村川堅固訳補 第一二四―一二五頁 大正一一年四月刊(DK350001k-0016)
第35巻 p.22-23 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕森村男爵家所蔵文書 【日米関係委員会収支計算書】(DK350001k-0017)
第35巻 p.23-24 ページ画像

森村男爵家所蔵文書
(謄写版)
    自大正十五年一月一日至昭和元年十二月卅一日 日米関係委員会収支計算書
      収入之部
一金九千円也 会員醵出金
  内訳
   市来乙彦氏  一宮鈴太郎氏 原富太郎氏  服部金太郎氏
   堀越善重郎氏 大倉喜八郎氏 大谷嘉兵衛氏 小野英二郎氏
   梶原仲治氏  団琢磨氏   串田万蔵氏  藤山雷太氏
   古河虎之助氏 江口定条氏  浅野総一郎氏 渋沢栄一氏
   白仁武氏   森村開作氏  以上十八氏各金五百円宛
一金参百九拾六円九拾六銭    銀行預金利息
一金四千百四拾弐円参拾八銭   前年度繰越金
 合計金壱万参千五百参拾九円参拾四銭
      支出之部
一金参千五拾円也        補助費
  内訳
 金弐千円也  在布哇大学教授原田助氏帰朝旅費補助
 金五百円也  桑港ニ於ケル英文雑誌「大海」発刊ニ付補助
 金参百円也  加州ストウジ博士本邦及満鮮支地方旅行費補助
 金百九拾円也 報知新聞社主催日米水上競技大会寄贈優勝杯壱個調成費
 金六拾円也  米国大学船歓迎準備委員会費分担額
一金弐千拾壱円六拾七銭     集会費
   但協議会及迎送会・招待会等拾回分
一金参千七百拾八円也      報酬及諸給
   但有給幹事一名及嘱託一名其他
一金百四円弐拾八銭       電報料及郵税
   但米国行電報料及案内状郵税等
一金百拾壱円九拾弐銭      雑費
   但会員名簿・招待状・書翰箋・封筒等
 - 第35巻 p.24 -ページ画像 
 合計金八千九百九拾五円八拾七銭
  差引収入超過
   金四千五百四拾参円四拾七銭
右之通ニ候也
  昭和二年二月              渋沢栄一

    自昭和二年一月一日至同年十二月卅一日 日米関係委員会収支予算書
      収入之部
一金九千円也          会見醵出金
   但会員十八氏ヨリ醵出金(各金五百円宛)
一金百円也           銀行預金利息
一金四千五百四拾参円四拾七銭  前年度繰越金
 合計金壱万参千六百四拾参円四拾七銭
      支出之部
一金四千円也          各種補助費
一金四千円也          集会費
一金参千八百円也        報酬及諸給
一金五百円也          電報料及郵税
一金参百円也          雑費
   合計金壱万弐千六百円也
  差引金壱千四拾参円四拾七銭 次年度繰越金
右之通ニ候也
  昭和二年二月              渋沢栄一