デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第35巻 p.140-146(DK350032k) ページ画像

昭和4年11月11日(1929年)

是日、アメリカ合衆国サン・フランシスコ米日関係委員会会長ウォレス・エム・アレグザンダー並ニフランク・シー・アサートン等ト東京当委員会委員数名トニヨリ、日米問題協議会ヲ丸ノ内東京銀行倶楽部ニ開ク。栄一出席シテ会議ヲ指導ス。


■資料

日米関係委員会往復書類(二)(DK350032k-0001)
第35巻 p.140 ページ画像

日米関係委員会往復書類(二)       (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば目下京都に開催中の太平洋問題調査会第三回大会に出席の為め来邦せられたる米国代員数氏の上京を機とし、日米問題に関し懇談致度候間、来十一日(月)午後三時東京銀行倶楽部へ尊来被成下度此段御案内申上候 敬具
  昭和四年十一月四日     日米関係委員会
                 常務委員 渋沢栄一
                 同    藤山雷太

  追て御諾否封中葉書にて御一報被下度候


日米関係委員会集会記事摘要(DK350032k-0002)
第35巻 p.140-144 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要        (渋沢子爵家所蔵)
    昭和四年十一月十一日 日米問題協議会記事
               (午後四時、於東京銀行倶楽部)
 当日は終日小雨ふりたり。米人側の都合により午後三時を四時に繰下げ、招待者に電話を以て一々時間変更の由を通告せり。内阪谷男爵にのみ通知漏れにて、男爵より御注意を被りたり。午後四時迄、アレ
 - 第35巻 p.141 -ページ画像 
キサンダ氏は銀行倶楽部を当渋沢事務所と誤りて事務所へ来訪せられたれは、直ちに運転手に指示して集会所へ赴かしめたり。
本日の出席者並に欠席者左の如し
      ○出席者
        米人側
  桑港商業会議所会頭 ウオラス・ヱム・アレキサンダ氏
  布哇キヤツスル・エンド・クツク会社々長
              フランク・シー・アサトン氏
            前ハワイ知事 ファーリントン氏
       日本人側
                  渋沢子爵
                  藤山雷太氏
                  阪谷男爵
                  串田万蔵氏
                  内田嘉吉氏
                  頭本元貞氏
                  原田助氏
                  姉崎正治氏
              (幹事)小畑久五郎氏
                  佐治祐吉氏
     欠席者○略ス。合衆国人三名、会員七名ナリ。
 子爵「千九百十五年に桑港パナマ運河開通記念博覧会の開催せられた時に、米国に参りまして、アレキサンダさんにお遇ひ致しました。其時アレキサンダさんから、日米親善増進の為に、常置の団体を作り度いと云ふ話がありまして、大に然りと考へ、桑港と東京に各一つの会を造らうとアレキサンダさんにお約束を致しました。そこでアレキサンダさんは桑港の商業会議所の中に二十三人の会員を有する米日関係委員会(The Japanese Relations Committee)をお作りになりました。私は千九百十五年の暮に日本に帰りまして、翌年の二月に有力な実業家其他の人々に報告しまして、三十二人の会見を有する日米関係委員会を作りました。其後逝去せられたり、其他の事故で二十六人になつてをります。今日御出席の人々は、其内の重なる向でございます。此会は常置の会では御座いますけれども、日米問題が生じたり或は新聞等に誤聞が伝はるといふやうな時には、早速其解決に当る事になつてをります。常置の会でも何処からも補助も何も受けてをるのでは御座いませんで、孰れも会員各自が其費用を負担してをるのであります。時々米国側の会長と文通を致してをる訳であります。千九百廿年の秋には、加州に人民投票の問題が生じました所から、同年三月桑港からアレキサンダさん其他の一行十一人の方々を御招待しまして、東京で非公式の協議会を開きました。引続き紐育からヴアンダリツプ氏を団長とする十四五人の有力者諸氏を招いて、同様の協議会を催しました。」
 アレキサンダ氏「今回の京都に於ける太平洋問題調査会大会は大ぶ長い会議でありましたが、比較的よく運びました。かういふ風な会議
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も亦日米親善に貢献するものと思ひます。只今子爵のお話になつた委員会は、現在日本側の会員と同数を擁し、不肖私が会長を勤めてをりまして、全力を尽して日米間に誤解の生ぜぬやうに力めてゐるのであります。日本の方で平素の問題となつてをりますものがありますならば、伺ひ度いと思ひます。」
 子爵「一つの問題として提出するといふ程でもありませんが、遠慮の無い所を申上げれば、私は一個の日本の老人として、米国との国交を進めて行くには、お互に遠慮のないやうぬせねばならないと思ひます。米国から日本に対してかうもして貰ひたい、あゝもして呉れたいと云ふ風な注文も申述べ、又日本人第二世で加州及布哇にゐるものが兎角安定せぬやうであるが、どうすればよいかに就て、遠慮なく斯ういふ所は直さねばならぬといふ点も承りたいのであります。私の希望は、お互に遠慮する所なく、赤裸々に明し合ふやうにしたいといふに在るのであります。そこで私の方から伺ひたい要点を申しますと、
  『在米日本人第二世に対して、如何いふ点を如何注意したらよいか』と云ふことと
  『千九百廿四年の移民法を訂正する事は出来ぬかどうか』であります。
 これを此処で皆様に解決を願ふといふのではありませんけれども、いゝ方法があつたならば伺ひ度いと思ふのであります。」
 アレキサンダ氏「京都大会に於ける子爵のメッセジは、我々米国代員には多大の感銘を与へました。乃ち日本に親しい関係のある人々で特別会を開きまして、あのメッセジに就ての協議会を開いたのであります。労働党の主領シャーレンバーグ氏や勢力ある新聞主のロイ・ハワード氏などにもお集りを願つて懇談を重ねたのであります。席上ハワード氏は米国の労働組合があの移民法を通過せしめたのは過失であつて、あれは訂正するやうにせねばならぬと云はれました。またグリーン氏なども此移民法の改正を必要と認めてゐます。グリーン氏やチェスタ・ラウエル氏などは同意見を抱いてゐたのであります。シャーレンバーグ氏は今度日本へ来まして種々なる事物を見聞するにつけ、大いに日本に敬意を表してゐます。或公開の席上で氏は、日本の労働者の状態は非常なる進歩を見、就中海員団体に至つては他の諸国に対して毫も遜色がないといふ事を述べました。けれども氏が帰国すると同時に移民法の改正が生ずるか、又は氏が其改正手段に着手するかといふ点に就ては、氏は些かも言明する所はありませんでした。兎も角シャーレンバーグ氏に日本を了解せしむるには相当時を要するものと考へます。鈴木文治氏のシャーレンバーグ氏に及ぼす影響はよいものと思ひます。来年の一月にはシャーレンバーグ氏とハワード氏とに面会の約束を致してをりますゆゑ、其節に十分両氏の意中を知り得るであらうと思つて居ります。其上で御協議を要するものがあれば御通知申上げるつもりでをります。兎も角太平洋問題調査会の京都大会に於ける子爵のメッセジは、米国民の反省を促すによいであらうと考へます。また東京で開かれました万国工業会議の会員も、孰れも日本に好感をもつて帰つたといふ事でありますから、これまた日本にとつてよ
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い事に違ひないと思ひます。先刻労働組合の事を申上げましたが、此移民法改正に与つて力あるのは実に労働党であつて、先づ彼等から自発的に改正に志して来なければ甘くは行かぬものと考へます。」
 こゝで別室に入り茶菓の饗応あり、其間にも談話頻にはづむ。
 アサトン氏「昨年の十月私が欧洲旅行の途次米国本土を訪問しました時、マクラッチ(MacClatchy)氏並にシャーレンバーグ氏と懇談致しました。此時の主なる難問は、東洋よりの移民を如何すればよいかといふ事でありました。此人々も差別待遇は廃止したいと思つてをります。然しそれにはたゞ日本人だけをクオータ(quota)に入れるといふ訳には行かぬ。何故かと云ふと千九百廿四年の移民法は千八百九十年の国勢調査を基礎として定めたもので、もしクオータに東洋人を加へれば、日本人百五十人、支那人二千人となるのであります。もしその基礎を千九百二十年の国勢調査に移すとすれば、支那人は少くなり日本人が多くなる。これでも困るのであります。」
 姉崎氏「その千九百廿年を基本とするといふ事は到底行はれない事で、日本人がそれをあてにしてゐては大きな齟齬を生じます。」
 アサトン氏「次に第二世の問題につきましては、最近ルート(Root)及びウィルバー(Wilber)の両氏が協議しまして、日本人及び支那人の第二世を徹底的に調査する為に、ロックフエラ財団より年々八万弗を出して貰ふ事になりました。」
 頭本氏「その事は今度の京都大会で始めて聞きましたが、大変いゝ事だと思ひます。」
 ファーリントン氏「私もシャーレンバーグ氏と京都で話しました。シャーレンバーグ氏は私に総ての国民を入れよと申してをります。私はこの言葉に驚いた訳ですが、もしさうならば東洋人排斥といふ事は全く無意味な事となる。私の考では、よく同化々々と申してをるが、畢竟自分の隣人と平和に住む事が出来れば、それでよいものではないかと思ひます。此点より見る時は、我布哇は既にその試験期を過ぎて実行期に入つてをります。布哇に於ては人種問題は既に解決してをるものと思ひます。そこには人種の差別は無いのである。然しシャーレンバーグ氏が帰国して、京都大会での演説通りに実行するつもりならば、自分が其労働党主領の地位を擲つか、乃至は言明通りの成功をするか、どちらかに極まらねばなるまいと思ふ。たゞ氏は日本の労働者は賃銀が廉い、此点が困るとは申してゐました。私自身としてはクオータは東洋人西洋人同様に当箝むべきものと考へます。」
 アサトン氏「ともかく、移民法の改正は穏健な手段でやつた方がよいと考へます。どこまでも忍耐を以て輿論を指導して行くといふ方法をとらなければならない。急激な方法をとる時は例のマクラッチ一派其他の反対運動に油を注がぬとも限らぬからであります。然しながら決して私は冷淡な訳ではなく、此改正に全力を尽さうと考へてをるのであります。今回も京都ではジェロウム・グリーン氏及びチェスタ・ラウウエル氏とシャーレンバーグ氏との対談を求めたやうな訳であります。」
 アレキサンダ氏は藤山雷太氏と二三の話を交換せられたり。
 - 第35巻 p.144 -ページ画像 
 子爵は今夕平和記念放送の為に放送局に赴かるべく、米国人側亦本夜の宴会を控へたれば、六時過ぐる頃ほひ散会せり。


(原田助)書翰 小畑久五郎宛 昭和四年一〇月一二日(DK350032k-0003)
第35巻 p.144 ページ画像

(原田助)書翰  小畑久五郎宛 昭和四年一〇月一二日
                     (渋沢子爵家所蔵)
          (栄一鉛筆)
          会議後に再び交渉する事、この回答を発する事
                昭和四年十月十二日
拝啓、先日ハ失礼致候、其節渋沢子爵ヨリ小生滞日中に日米関係委員会員之会合ヲ催シ意見交換被成度、依テ小生都合ノ時日御一報可申上様仰セニ御座候、就テハ太平洋会議前《(問題調査会)》ナレハ
  十月廿一、二、三、四日
会議後ナレハ
  十一月十三日ヨリ十五日迄
ノ間ナレハ小生ニハ目下自由ニ御座候、若シ以上日取中ニテ御取極被下候得者好都合に存申候、此義閣下へ御伝声之程願上申候
右要件至急得貴意度 匆々敬具
                     原田助
    小畑久五郎様
            侍史
          (別筆)
          (十月二十二日回答済み 期日は追つて打合すべしとの意にて
           (別筆)
           昭和四年十月十四日入手
           京都市室町通り出水上ル中瀬古氏方


(原田助)書翰 渋沢栄一宛 昭和四年一二月五日(DK350032k-0004)
第35巻 p.144 ページ画像

(原田助)書翰  渋沢栄一宛 昭和四年一二月五日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、先般帰朝中ハ再三拝顔ノ栄ヲ辱シ、閣下ノ御健康ナル御近状ヲ拝シ欣慶此事ニ奉存候、次ニ小生儀予定ノ通去月三十日当地ヘ無事帰任仕候間、乍他事御放慮被下度候
偖御配慮ヲ蒙リ候太平洋会議《(問題調査会)》モ好首尾ヲ以テ終了致シ誠ニ御同慶ノ至ニ御座候、各国ノ代表諸氏モ故国朝野ノ御歓待ニ対シ満足ノ意ヲ表シ居リ候
此会議ガ日支両国及日米両国間ノ諒解ト近接ヲ進メタル点ニ於テ、特ニ有効ナリシ事ヲ信シ申候
本会議ノ成功ニ付テハ閣下ノ御援助与リテ最モ多キニ居候、感謝此事ニ御座候
時下邦家ノ為メ御自重被遊候様呉々奉祈候 敬具
  昭和四年十二月五日           原田助
    渋沢子爵閣下
○下略


渋沢栄一書翰控 原田助宛 昭和五年一月七日(DK350032k-0005)
第35巻 p.144-145 ページ画像

渋沢栄一書翰控  原田助宛 昭和五年一月七日   (渋沢子爵家所蔵)
拝復、十二月五日付の尊書順着難有拝見仕候、然ば御帰朝中は沁々御懇談の機も無之御出発の際にも御送別も不致卒爾欠敬の至に御座候、御承知の通り老衰且健康不充分の為め思ひながら御疎情に打過候段何
 - 第35巻 p.145 -ページ画像 
卒御諒恕被下度候、例の移民法問題に就ては尊台始めアレキサンダ、アサトン、フアーリントン等の諸氏の尊来を得て東京銀行倶楽部に於て多少意見の交換は致候得共、充分満足に不至残懐の至に御座候、其他の機会に於ても来遊の米国人諸氏に対し、個々に或は午餐会・晩餐会・茶会又は其他の集会に於て多数の人々に対して、可成丈情意の達し候様努力致候、然し何れも徹底的には参り兼、焦慮此事に御座候、頽齢の身の日暮れて途遠き感有之候得共、日米問題延ては世界平和の為め、引続き微力相尽し度期念罷在候間、尊台に於ても貴地に於て充分御尽力被成下候様希望の至に御座候、自然御気付の点も御座候はゞ御遠慮なく御申越被下、不絶御鞭撻被下度悃願仕候
右貴答旁得貴意度如此御座候 敬具
                     東京
                      渋沢栄一
 ホノルヽ市、布哇大学
  原田助様
   昭和五年一月七日


(原田助)書翰 渋沢栄一宛 昭和五年二月一六日(DK350032k-0006)
第35巻 p.145-146 ページ画像

(原田助)書翰  渋沢栄一宛 昭和五年二月一六日 (渋沢子爵家所蔵)
昭和五年二月十六日
粛啓、去一月七日附尊翰難有拝誦仕候、閣下愈御安泰被遊御坐恭賀之至ニ奉存候、偖尊書中御仰越ノ米国移民法ノ問題ニ付最近当地ノアサートン氏ニ面談仕候処、同氏ノ申サレ候様、渋沢子爵御熱心ノ次第ニ付テハ自分等モ決シテ等閑ニ付シ居ル訳ニアラサレトモ、此問題ハ米国側殊ニ加州側ヨリ自発的ニ起リ来ルニアラサレハ満足ナル結果ヲ得難ク考ヘラルヽニ付、其時期ノ至ラン事ヲ待居ル次第ニ候、然ルニ玆ニ一ノ光明トモ考ヘラルヽ事ハ、例ノシヤレンボルグ氏事先年来屡々太平洋会議ニ出席セル為メ、少々ツヽ緩和ノ傾向ヲ示シ居、殊ニ昨秋親ク日本ヲ訪ヒ其実際ヲ見聞シ且ツ各方面ノ熱心ナル御歓迎ヲ被リタル事ハ、彼ヲ大ニ感動セシメタル事其言動ニ依テ明白ニ候処、日本出発前新渡戸夫人ニ向ヒテ厚ク其歓待ヲ感謝シタル際、他日新渡戸博士夫妻ヲ米国ニ迎ヘテ今般ノ御厚情ニ酬ヒ得ル機会ノ来ラン事ヲ希望ス云々ト述ベタル由、シヤ氏ハ新渡戸氏ガ移民法ノ現在ノ儘ナル間ハ決シテ米国ニ行カズト公言シ居ル事ヲ能ク承知シ居ルニ係ラス此言ヲ為シタルハ、必ス自ラ期スル処アルモノト諒解サレ候、勿論何時如何ナル方法ヲ以テスル哉ハ恐ク本人ニモ不明ナルベキモ、之レカ為ニ努力ノ決心アル事ハ疑ナキ事ト思フ云々
以上アサートン氏ノ話ノ要領ヲ閣下ノ御内聞ニ達シ申候、但シ此件ハ全然外部ニ洩サル様致度トノ同氏ノ特別之注意モ御坐候間、其御含ニ願上申候
目下加州方面其他ニ於テ移民法修正ノ為メ運動中之人々不少候得共、其中ニハ或ハ却テ反感ヲ買フノミノ結果ナラザルヤ懸念サルヽモノモ有之候、若シ出来得ベクンハアサートン氏等ノ如ク、シヤ氏等ノ手ニ依レル運動ヲ待チ候方有効ト存申候
謹テ閣下ノ御健康ヲ奉祈望候 匆々敬具
 - 第35巻 p.146 -ページ画像 
                     原田助
    渋沢子爵閣下


(原田助)書翰 渋沢栄一宛 昭和五年三月二〇日(DK350032k-0007)
第35巻 p.146 ページ画像

(原田助)書翰  渋沢栄一宛 昭和五年三月二〇日 (渋沢子爵家所蔵)
粛啓、閣下愈御安泰被遊御座恭賀之至ニ奉存候
偖前便アサートン氏ト会見ノ次第御一報申上候処、其後桑港ノアレキサンダー氏来布今尚滞在中ニ御座候、一日同氏ト移民法改正ノ前途ニ付相語リ先般閣下ヨリ御仰越ノ旨ヲモ相談申候処、同氏ハシヤレンボルグ氏ニ関シテハ同人ガ此秋日本訪問後其日本ニ対スル感情ノ全然一変シタル事ヲ語ラレ申候、乍併ア氏ノ言フ所ニヨレハ、シ氏ハ労働同盟之幹事トシテ移民法改正ノ為メ積極的行動ヲ取ル事ハ尚ホ敢テセサル所ナレトモ、他方面ヨリノ運動ニ対シテ反対セズト云フ迄ニ相成候由、是ハ五年前ト比シテ非常之変化ト奉存候、又米国東部ニテハ太平洋問題調査会関係者中ニテ大統領及内務部長官等ニ対シテ交渉ノ途ヲ進メル事ト相成、紐育ノグリーン氏此程華府ヘ赴キ申候由ニ御座候
右ノ如クア氏其他ニ於テ決シテ閣下ノ御熱誠ナル御希望ヲ忘却不仕努力罷在候、只結果ノ迅速ナラサルニ付テハ御忍耐ヲ奉希之外ナシトノ事小生ヨリ御伝ヘ申上候様被申候、但シ此件モアサトン氏之伝言同様全然御内聞ニ願上申候
○中略
  昭和五年三月廿日、ホノルル      原田助
    渋沢子爵閣下