デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
7款 大日本平和協会
■綱文

第35巻 p.542-547(DK350099k) ページ画像

大正14年5月1日(1925年)

是日当協会解散シ、其事業ヲ国際聯盟協会ニ移ス。


■資料

(国際聯盟協会)報告 第三〇輯自大正一四年四月一日至四月二六日(DK350099k-0001)
第35巻 p.542 ページ画像

(国際聯盟協会)報告 第三〇輯自大正一四年四月一日至四月二六日
                        (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
二、第五十二回理事会
日時、大正十四年四月九日午後四時。於丸の内銀行倶楽部。
出席者、阪谷副会長、○以下理事九名、会計監督一名主事加藤外松出席
○中略
協議に移り左記事項を協議決定した。
○中略
三、大日本平和協会申出の件
 従来本協会より補助しゐたる大日本平和協会はその事業を本協会に移したき希望を申出られたるにつき、協議の結果之を受諾することに決したり。
○中略
七、平和文庫設置の件
 本協会の図書を完備し、平和問題及平和運動の資料の供給所とする事をはかること、右に対しては外人部委員ボールス氏の協力を求めること。


(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 大正一三年(DK350099k-0002)
第35巻 p.542 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正一三年
                 (阪谷子爵家所蔵)
○十三年九月廿二日ボールス氏日本クラフニ来訪アリ、昨年米国ニ帰リ一ケ年ノ後チ来ラレタルナリ。此間ニ大地震ヤラ排日案アリ、数年ヲ経タル感アリト共ニ語ル。余ハ日本ガセンシチーブニナリ居ル事情ヲ語リ、今日ハ穏和説尚行ハレ居レトモ、段々面白カラザル事情ノ生ゼンコトヲ憂フル旨ヲ語ル。ボールス氏モ米国有力者間ニハ事情ヲ了解シ、帰化法改正ノ議アルヲ語ル。是レハ最良策ナリ。又チカゴ大学パーク教授(社会学)主任トナリ、桑港ニ来リ、南加大学バガージユス教授、セアートル大学ノマツケンジー教授ト共ニ東洋人ノ社会材料ヲ取調ツヽアリ。青年会ノフイツシヤー(紐育)デビス(桑港)両氏モ大ニ尽力シツヽアリ云々


(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 大正一四年(DK350099k-0003)
第35巻 p.542-543 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正一四年
                 (阪谷子爵家所蔵)
○十四年一月十日、ボールス氏来訪(日本クラブ)奉仕機関ヲ廃シ聯盟協会外事部《(国際脱)》ニ合併ノ件相談アリ
   ○中略。
○二月二十一日、日本クラブニテ平和協会理事余《(会脱カ)》、宮岡、深野出席、国際奉仕機関ハ聯盟協会ニ合併ノコト異議ナシ、平和協会ハ之ヲ存
 - 第35巻 p.543 -ページ画像 
シ事務所ヲ聯盟協会ニ移スコト其他
 三月一日、日本クラフニテ宮岡、添田、阪谷、ボールス、クレメン*ト、ウエインライト、深野集会ス、前記可決、余従来ノ経過ニ付謝辞ヲ述フ、添田、宮岡、ボールス、ウエインライト演説アリ、川上ボールス両氏ニ感謝ス
 今後平和協会ハ多少不規則ニナルベキコト、諸氏ハ不相変尽力ノコト、川上氏以下手当ハ余ニ一任ノコトヲ談ズ
  右聯盟協会ニテハ四月九日理事会(銀行クラブニテ)ニ付議シ可決ス、阪谷、秋月、田川、林、宮岡、内ケ崎、深井、山田、加藤、青木等
*(欄外記事)
[大切
   ○中略。
○四月四日深野ニ百円ヲ託ス、外ニ山崎亀吉百円、ボールス百円、経済調査会特別会計ヨリ若干、合計五百円ヲ以テ川上勇手当二百五十円、道又同百五十円、木川同百円ヲ慰労トシテ支給ノコト
 右ニテ三月三十一日限リ国際奉仕機関ヲ閉鎖ス
 四月二十五日深野、道又来宅最終ノ支払ヲ為ス(慰労金支出)帳簿〆切り銀行解約
   ○中略。
○十四年五月一日、午後四時日本クラブニテ平和協会及国際奉仕機関全部国際聯盟協会引継済ニ付、平和協会最終ノ総会ヲ開キ報告ス、当日出席者阪谷、ボールス、添田、宮岡、堀越、深野、道又
(欄外記事)
  十四年
   四月十日付ニテボールス宛報告将来ノ援助ヲ頼ム、平和文庫ヲ聯盟協会ニ置ク件モ併テ申送ル


(ギルバート・ボールズ)書翰 阪谷芳郎宛一九二五年四月一七日(DK350099k-0004)
第35巻 p.543-544 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(ギルバート・ボールズ)書翰 渋沢栄一・加藤外松宛一九二五年四月一七日(DK350099k-0005)
第35巻 p.544-546 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第三〇―三三頁昭和七年二月 故渋沢子爵と我国に於ける国際平和運動 本協会理事宮岡恒次郎(DK350099k-0006)
第35巻 p.546-547 ページ画像

国際知識 第一二巻第二号・第三〇―三三頁昭和七年二月
    故渋沢子爵と我国に於ける国際平和運動
                本協会理事 宮岡恒次郎
 故子爵渋沢青淵翁が一九一九年即大正八年六月二十八日調印のヴエルサイユ条約に依り、国際聯盟の組織せらるべきことを認識せらるるや、我国に於ても此国際平和確保の機関を支持する為め帝国政府の背後に有力なる国際聯盟協会を建設し、以て大に国論を喚起するの必要を説かれ政府及民間識者の協力を得て本会を創立せられたることは今更喋々の必要なしと雖も、今日平和運動と云へば直に国際聯盟を思起し、国際聯盟即平和保持、非戦即国際聯盟と云ふが如く殆ど二者同一物にして二にあらざるが如く一般に考へらるる時勢と為りたるに就ては、国際政治の上に国際聯盟未だ現はれず、我国に於て国際聯盟協会の設立抔何人も想像せざりし以前に於て老子爵と平和運動とは如何なる関係ありしや、我国に於ける国際平和運動の過去を辿りて子爵の功績と達見とを追想するは本会として極めて自然の行事なりと思はる。是れ即私が玆に渋沢子爵と我国に於ける国際平和運動と題して、国際聯盟協会設立以前の経緯を可成簡単に述べんと欲する所以である。
 大日本平和協会が東京に設立せられたるは、明治三十九年四月即世界戦争の勃発に先んずること満八年前なりし。又京都に於て東洋平和協会の設立せられたるは明治四十一年即西暦一九〇八年と記憶す。又日本在留米国人の平和団体たりし「アメリカン・ピース・ソサイエチー・ヲブ・ジヤパン」が東京横浜在住合衆国人に依り創立せられたるは明治四十四年一月、即ち今より二十一年前なりし。
 大日本平和協会の創立者は安政六年若は万延元年亜米利加公使館が伊豆柿崎より江戸に移り、麻布仙台坂下善福寺に設けられたる時、幕府の陸軍士官として公使「タウンセンド・ハリス」護衛隊の司令を勤め、維新後教育家としては麻布中学創立者、又政界に在りては第一期以来の衆議院議員として令名を轟かし、社会運動としては少年禁酒運動に努力したる江原素六氏なり。大日本平和協会の会長は始め江原氏なりと記憶すれども、幾干もなくして同会は伯爵大隈重信を会長に推挙したり。其当時理事とし尽力したる者は故服部綾雄、故林包明、ギルバート・ボールス、鎌田栄吉、故中野武営、故寺尾亨、子爵福岡秀猪、大橋新太郎、故大越成徳等の諸氏なり。会計のことは当時東京電灯会社々長たりし故佐竹作太郎氏之を担任し、其死後は大橋新太郎氏専ら其事に当り、又幹事は加藤勝弥、向軍治外二氏なりし。而して同会は「平和」と題する月刊雑誌を発行し神田美土代町耶蘇青年会館、一橋外高等商業学校講堂等に於て講演会を開き、平和主義及戦争に依らずして国際紛争を解決する論を盛んに鼓吹したり。
 明治四十四年七月十一日よりカーネギー国際平和財団、経済及歴史部の会議を瑞西国ベルンに於て開くことゝなり、同会議に出席せんことを当時同財団理事長たりし前米国国務長官エリユー・ルート氏より
 - 第35巻 p.547 -ページ画像 
阪谷男爵に求め、男爵は其招待に応じて行かるることと為りたるに依り、大日本平和協会は同年六月六日早稲田大隈邸に於て阪谷男爵の為めに送別会を開きたり。是れ同男爵及渋沢翁が表面に立つて国際平和運動に参加せられたる始めての公知事実と記憶す。其当時日本に於ける国際平和運動に努力したる米国人の名を忘る可からず。曰くギルバート・ボールス、曰く故神学博士クレー・マコーレー、故同ジー・エチ・ペテー、神学博士エス・エチ・ウエインライト、故勲三等ゼー・アール・ケネデー等なり。而して明治四十四年夏には同会の陣容大いに改まり、会長は伯爵大隈重信、副会長は江原素六、阪谷芳郎の二氏又新理事としては島田三郎、新渡戸稲造、早川千吉郎、高田早苗、箕浦勝人、尾崎行雄、添田寿一等の諸氏現に選ばれて就任したるか、若し然らざりしとするも、少くも理事に擬せられて会より交渉を受けたるものなり。青淵翁が同会名誉評議員に推されて公然同会と関係あることを発表するに至りたるは蓋し故大隈侯爵と阪谷男爵の功なり。此頃同会々員数僅かに二百五十名を出でざりし事実を顧みるに於て、青淵翁と我国平和運動との関係浅からざりしことを思はずんばあらず。
 京都に於ても明治四十一年十一月十一日東洋平和協会なるものを組織し、当時京都市長たりし西郷菊次郎会長と為り、重なる肝煎としては今現に米国紐育に於て東洋諸国就中日本と米国との了解に尽し居る神学博士シドニー・ギユーリツク、当時同志社々長たりし原田助、京都帝国大学教授末広重雄及四条教会牧師牧野虎次等の諸氏あり。
 又朝鮮に於ても隆起四年即明治四十三年六月十日韓国平和協会を起し会員約四百三十五名を算したり。
 大日本平和協会事業の一端として特筆すべきことは同会が雑誌平和の刊行を廃罷したる後「ゼ・ジヤパン・ピース・ムーヴメント」と称する今の「グリーニング・フロム・ジヤパン」の如き英文雑誌を出版したること、及世界各国就中米国に於ける平和団体等より来る通信の相手と為す為め専心其事に当る幹事を置き、神田区表猿楽町拾番地に耶蘇青年会が建築したるビルデイング内二室を借り、川上勇と云ふ篤志家を依頼してインターナシヨナル・サービス・ビユーロー即国際奉仕機関と名けて事務所を置きたること是なり。此事たるや一定の費額を月々要するが故に、子爵に依頼して毎月渋沢事務所《(日米関係委員会)》より若干円の交付を受けたり。其後国際聯盟協会の設立あるに及び大日本平和協会の維持困難に陥り、当面の執務者たる川上氏も余り其通信事業に勉励して病に罹り、恢復の見込なきに至りたるが故に其事務は国際聯盟協会に移し、大日本平和協会としては大正十四年五月一日を以て一先解散することと為れり。
 渋沢子爵は論語と算盤と云ふことを常に標語として商売其他殖利事業の道徳化を説かれたる人なり。即ち正義道徳に反したる行動を為さば殖利事業に成功せずとの信条を抱かれたり。故に国と国との関係亦然り。共存共栄の途に依るに非ずんば国家として成功し得ずと固く信じ、率先して国際平和運動に志し万国親善を説かれたり。蓋し故人の性格当然の帰着なりと云はざる可らず。
   ○右ハ「竜門雑誌」(第五二九号・昭和七年一〇月)ニ転載セラレタリ。