デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
3款 日印協会
■綱文

第36巻 p.25-29(DK360015k) ページ画像

大正4年6月17日(1915年)

是日、当協会総会、築地精養軒ニ催サル。栄一出席シテ懐旧談ヲナス。後、当協会評議員ニ推薦セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK360015k-0001)
第36巻 p.25 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
六月十七日 晴
○上略 五時築地精養軒ニ抵リ、日印協会総会ニ出席シテ一場ノ懐旧談ヲ為ス○下略


日印協会々報 第一四号 大正四年一〇月 会報 日印協会総会(DK360015k-0002)
第36巻 p.25 ページ画像

日印協会々報 第一四号 大正四年一〇月
  会報
    日印協会総会
 六月十七日(木曜)午後四時より本会総会を東京築地精養軒に於て開催せり。同日の出席者左の如し。
  伯爵 大隈重信  山上曹源
  男爵 渋沢栄一  エム・エー・バワニー
                  (以上来賓)
  浅野長七○以下六十七名氏名略
 午後五時副会頭神田男座長席に就き、副島理事の大正三年度会務報告(巻頭記載)の後、会計報告は満場異議なく通過し、次で評議員追加選挙の件は手続を省略して、大隈会頭に其指名を一任することに決し、総会議事を閉づ。夫れより渋沢男爵・大隈会頭並に近藤男爵順次別項所載の日印貿易に関する演説を了して晩餐会に移る。
○中略
    評議員の選任
 本会総会に於て大隈会頭に一任せる本会評議員選挙の件は、其後会頭より左記三十六氏を指名し、夫々推薦状を発せられたり
  ○上略 男爵 渋沢栄一○下略


日印協会々報 第一四号 大正四年一〇月 日印貿易の回願(本会総会席上に於て) 男爵 渋沢栄一(DK360015k-0003)
第36巻 p.25-28 ページ画像

日印協会々報 第一四号 大正四年一〇月
    日印貿易の回願
     (本会総会席上に於て)  男爵 渋沢栄一
 後れ馳せに本会へ参上致しまして、玆に一言を述べます機会を与へられたことを深く感謝致します。実地に事務を取扱ひませず、常に批評の位地に居るのですから、実は抽象的の意見しか申上げられませぬ
 - 第36巻 p.26 -ページ画像 
が、日印の貿易上に就いて現在に将来に心を尽し力を延ばさねばならぬと思ふことは、諸君と其感を同じう致して居るのでございます。既往に遡つて考へますると、私も日印の貿易上に参加致したことがあると云ふことを玆に思ひ浮べるのであります。幸ひ此席には近藤男爵も尊来でありますから其経過を一言申述べて見ようと思ひます。
    紡績事業の起源
日本の紡績事業も今日では大分拡張致しましたけれども、明治十五年頃始めて日本に紡績会社は生れたのでありまして、二十年頃はまだ漸く端緒を開いた丈けでありました。日本の紡績糸は其の始めは田舎で老婆や小娘がビンビンと糸車でひいて居りました。之れに代用する為めに十五年頃二・三の紡績工場が出来たのであります。故に其製糸販売も頗る狭く又其需要向も極く小区域でありました。而して其時代には原料も日本産と支那棉を用ゆると云ふのが目的であつた。所が印度の孟買辺の紡績工場が段々盛んになることを聞及んでから、夫れ等に倣つて経営したら宜しからうと云ふことになつた。さて其事業を拡張しやうとするには、第一に原料の棉の産地を調査研究し、又其起業の組織に就いても大いに実際を観察する必要が生じました。私は銀行者であるから商工業の実務に就いては暗うございますが、紡績事業は其頃から厚く注意して聊か相談相手になつて居つた為めに、印度の原棉及び紡績工業の方法を調査致したいと云ふことを当業者諸君と申合せて、適当なる人を派出することになりました。此事に就いては我が外務省に御助力を願いたいと申上げて、即ち今日の日印協会の会頭たる大隈伯爵が其時外務の当局であらせられたから、其日は忘れましたけれども、適当な人を派出することに就いて種々御願ひ致し、終に佐野常樹と云ふ人が宜からうと云ふので、外務省から御派遣下さつた。佐野君出立の際には我々関係者は伯爵の官邸に招かれて、其送別会に参列したのを覚えて居るのであります。其時の佐野君の調査は僅に端緒を知り得た丈けで帰られたので十分なる見込が付きませなむだが、併し乍ら孟買の紡績工業は斯様々々であると云ふことも概略は了解し、且将来日本の紡績を拡大するにはどうしても印度の原棉を輸入しなければ原料が乏しいと云ふことになつた。其際佐野君に随行したのは今日大阪に於て紡績業の有力者の一人たる川村利兵衛といふ人でありました。爾来追々と孟買の当業者とも交際して、終に孟買に有名なるターター商会と懇親を厚うする様になりました。其後アール・デー・ターター、ゼイ・エン・ターターの両氏、前後して日本へも渡航されて私も其時に会見し、又当業者とも相往来して、更に進んで原棉を印度から輸入することの要談が始まりました。前に調査に往つたのは二十一年であつたが、原棉を日本へ輸入するやうになつたのは二十五年頃と覚えて居ります。偖左様な要談が進んで参ると、所謂一を得て又一の不足を感ずるは世の中の常であつて、原棉の運送船のことに甚だ不便を感じて来た。原棉を輸入し様とすると、其棉は独りでは来ては呉れぬ。矢張り海を渡つて持つて来ることが必要だ。其間には汽船がなければならぬ。
    日印航路の開始
 - 第36巻 p.27 -ページ画像 
 是に於て一つ日印の間に航路を開かなければならぬと云ふ論が起りました。是は明治二十六年の事であつて、まだ其時には私は日本郵船会社の重役の席末を涜さぬ時であつた。其翌年から近藤男爵其他の諸君の御仲間入をして、爾来十年間郵船会社の取締役の職務を執りましたが、此孟買航路を開くの一事は少しく其前であつたと記憶して居ります。此孟買航路を開かねばならぬと云ふ必要を生じた事に就いて、私に是非力を頼むと云ふ依頼を日印両方面の人から受けまして、既に紡績事業の関係から一歩進み二歩進みて、更に其の原棉を輸送する船舶は其航路を開かねばならぬと云ふことになり、日本郵船会社に向つて是非此航路を御開き下さるやうにありたいと云ふことを、紡績業者の介添人として私も出頭したことを今なほ記憶して居ります。其時の会社の社長は森岡昌純君であつたと思ひます。近藤君は実務を担当なさる重役の御一人で其御相談は主として同君と致しました。何しろ此孟買に向ふ新航路を開くと云ふことは、当時の日本郵船会社に於ては卒爾に極める訳にはゆかないから数回の評議を経て漸く同意された。それはどう云ふ訳だと云ふと、彼のピー・オーと云ふ英国の汽船会社が、従来此孟買支那日本間の航路を専有して居る、其航路に向つて有力なるピー・オーと云ふ大敵と競争することにせねばならぬと云ふことであつた。果して然かり。此航路が開けるとピー・オー汽船会社と大競争を起したのであります。此競争は明治二十六年から七年へ掛けてのことでまだ日清戦争の起らぬ前であつた。甚しきはピー・オー会社の香港支店の監督といふ職にあるジヨウゼフと云ふ人が特に日本に出張せられて、近藤君にも会談され、又私に面会を求められたから私は兜町の事務所に於て接見した。其時の来訪者は右のジヨウゼフ氏と横浜・神戸両支店の支配人とで都合三人であつた。そこでジヨウゼフ氏は口を開いて此航路を日本にて飽迄も競争すると云ふならばピー・オー会社は勢ひ会社の全力を尽して抵抗をしなければならぬ。何となれば孟買と支那との航路は言はゞピー・オー会社の畑である。既に他人が己の畑へ鍬を入れゝば之れに応戦せざるを得ぬことになる。それで競争を継続するかと云ふ文切形の脅し言葉でありました。私は其言に対して答へて言ふた、それは英吉利人の如き紳士の口にすべき言葉ではない、左様なる恐喝手段を以て吾々に臨まれるに於ては、我々は決して服従は出来ませぬ、貴方で所謂喧嘩腰を以てなさるなら我々は少しもそれを妨害はせぬ、又恐怖もせぬ、蓋し孟買より日本に棉を輸送するを目的として新航路を開くは当然の権利にしてピー・オー会社の妨害すべき筈はない、殊に此実務は日本郵船会社で経営するのである、只今ジヨウゼフ君の言はれた如く日本の郵船会社にても只ピー・オー会社の脅迫が怖いからそれで此航路を罷めると云ふことは決して出来ぬと思ふと申したことを、今も記憶して居ります。其時彼の言ふには、詰り此競争の結果は支那に送る綿糸の運賃をピー・オー会社で飽迄安くすると、其安くした分は日本の利益にはならぬ、又英吉利の利益にもならぬ、故に英吉利が損をして日本の利益にならない、唯支那に紡績糸が安くなるに止まるのだから、そんな不利益なる競争は止めて、孟買から日本に輸入する原棉の運賃を特別に低廉に契約すると
 - 第36巻 p.28 -ページ画像 
云ふ様な一時の利を以て我々を説得しました。私はそれに答へて、夫れは理論であつて事実はさうはならない、貴下が左様なる無理をして支那行の綿糸の運賃を低下し、特に支那人に意外の利益を与へると云ふことは、自から暴戻な事をするから生ずるので、要するに不自然なことであるからして、不自然なる結果となるのは当然である、之れは文明国人の言ひ且つ行ふべきことではないと思ふ、私はさう云ふ不自然なる説には耳は傾けませぬと云ふ意味を以て断然と答へました。遂に其議論は夫れなりに立別れとなりましたが、両会社の営業上の競争は頗る面倒になりて、日本郵船会社も大いに苦心しました。併し其結果、此孟買航路は国家が大いに力を添へて下さる様になつて、其後に至りて漸く両会社の協定が整つた。而して今は昔の話となつて更に憂ふべき点のないのみならず、其時は一の命令航路でありましたが、今日は自由航路となつて居るやうに思ひます。郵船会社は独り孟買航路のみならず、更に進んでカルカツタ航路を開かれて居ると云ふことである。是は殆んど二十余年前の昔語でありますけれども、日印貿易には何も知らぬ私が他事の関係を有つて今日此席に於て此昔語を申上げるのは私の名誉として、知つた諸君も大勢居られるが、中には知らぬ方もあらうと思ふて、此事を申上げた次第であります。
    日印貿易の将来
 さて今日この日印貿易の状態は如何であるか、之れは私が申上げぬでも分り切つた重要事件であります。我帝国は何れの地方にも十分なる商業の発達を図るのは最も勉むべき事であるが、既に二十年の昔から左様な縁故を生じて居る日印の間である。今日は幸ひ印度からの来客も見へて居られる様であります。今申した紡績事業の関係、特別の航路の成立せしは左やうなる訳であつて、其頃はまた普通の物品の輸出入は殆んど数ふるに足らぬ有様であつた。併し今日は決して左様なものではない、或は絹織物とか種々なる雑貨とか、私は其事に暗い為めに玆に数字を挙げると云ふことは出来ませぬけれども、蓋し大いに増進し且つ将来も亦増進すべき機会があるだらうと思ひます。昔語を老人の私が申述べたのは諸君に真面目に希望致すのであります。二十年前の昔しに左様なことで航路が開けたのである。それより追々に事業が進歩した。斯う考へますると、今日若い諸君は夫れに数十倍する御働きは必然出来るであらうと期待致します。此日印協会に於て老人の昔語を申上げて若い諸君の御奮発を希望すると云ふのは敢て無用の事ではなからうと思ひまして、玆に一言を申述べた次第であります。
   ○右英訳文ハJOURNAL OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION No. 15, Feb., 1916. ニ掲ゲラレタリ。
   ○日印協会ノ総会ハ第何回ト称セズ単ニ「総会」ノ前ニ年度ヲ冠スルノミ。(副島八十六談)


竜門雑誌 第三二六号・第七六―七七頁 大正四年七月 ○日印協会総会(DK360015k-0004)
第36巻 p.28-29 ページ画像

竜門雑誌 第三二六号・第七六―七七頁 大正四年七月
○日印協会総会 日印協会にては折柄入京中のジヤマール兄弟商会支配人ヱム・ヱー・パワニー氏の歓迎を兼ねて六月十八日午後五時《(十七日)》より築地精養軒に於て定時総会を開きたり、先づ理事副島八十六氏の会務
 - 第36巻 p.29 -ページ画像 
報告、副会長神田乃武男の会計報告あり、次で演説に移るや青淵先生は日印貿易旧懐談を試み、曰く
 日印貿易の端緒は我邦紡績業の勃興に伴ふ原料輸入の必要に発せるものにして、今より二十年前日本郵船会社が外国汽船会社の圧迫に堪えて孟買航路を開始したる当時の状態を顧み、今日三億以上の両国貿易の現状と対比すれば往時漠として夢の如し云々
と述べ、次いで会長大隈伯、近藤廉平男の演説ありて総会を終り、別室に於てパワニー氏の歓迎宴を催し、午後九時散会したる由


中外商業新報 第一〇四七一号 大正四年六月一四日 日印協会総会(DK360015k-0005)
第36巻 p.29 ページ画像

中外商業新報 第一〇四七一号 大正四年六月一四日
○日印協会総会 十七日午後四時より築地精養軒に於て開会、大正三年度会務及会計報告並に評議員補欠選挙の後、大隈伯、渋沢男、山上曹源、エム・エー・パワニー四氏の演説ある由、因に山上曹源氏(曹洞宗大学教授)は、多年カルカツタ大学に教鞭を執りたる印度通、エム・エー・パワニー氏は今般緬甸蘭貢ジヤマル兄弟会社より本邦鉱山業視察の為特派せられし人也