デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
12款 財団法人日仏会館
■綱文

第36巻 p.285-296(DK360112k) ページ画像

大正13年12月14日(1924年)

是日、当会館開館式、日本工業倶楽部ニ催サル。栄一病気ノタメ出席セズ。


■資料

東京朝日新聞 第一三八四五号 大正一三年一二月一五日 日仏会館成る きのふ開館式(DK360112k-0001)
第36巻 p.285 ページ画像

東京朝日新聞 第一三八四五号
大正一三年一二月一五日
    日仏会館成る
      きのふ開館式
日仏文化の協同研究、諸般の仲介、研究資料蒐集展覧、会合講演出版画策及奨励、仏国人士の宿舎提供等の事業機関として生れた日仏会館開館式は、十四日午後二時から丸之内工業倶楽部で挙行、理事長代理古市男会館設立の趣旨及び永田町村井吉兵衛氏別邸を借受けて開館の運びに至つた経過を述べたが、閑院宮殿下には同会館総裁御就任を快諾せられ、親しく台臨令旨を賜はり、加藤首相・岡田文相・曾我子の挨拶あつた後、クローデル駐日大使は
 「日本政府並に有志が此会館を設立され、在日仏人の便宜を計られることは感謝に堪へない、仏国に於ても一日も早く設立を急いで在仏日本人の為めに便宜を計るやう努力する」
と述べて、午後四時閉会、余興・茶菓の後散会したが、日仏人合して百四十名の来会者があつた


財団法人日仏会館第一回報告(自大正一三年三月七日至大正一四年三月三一日) 第一〇―一一頁(DK360112k-0002)
第36巻 p.285 ページ画像

財団法人日仏会館第一回報告(自大正一三年三月七日至大正一四年三月三一日)
                       第一〇―一一頁
(謄写版)
 ○創立
    四、開館式及集会
一、村井吉兵衛氏ノ好意ニヨリ、同氏所有ノ洋館ヲ借受クル事トナリ本事業モ漸ク其緒ニ就キタルヲ以テ、同年○大正一三年十二月十四日日本工業倶楽部ニ於テ 閑院宮殿下・首相加藤高明子・枢密院議長浜尾新子・外相幣原喜重郎男・文相岡田良平氏・仏国大使クローデル氏外多数名士ノ臨席ヲ仰キ、開館式ヲ挙行セリ
  因ニ仏国首相兼外相エリオ氏、大ニ此事業ノ進展ヲ喜ビ、前任ポアンカレー氏ノ約言ヲ履行シ、本事業補助費年額三十万法ヲ当期議会ニ請求シ、他方駐仏石井大使及駐日クローデル大使ヲ通シテ斯ノ如ク両国ノ親善ヲ促進スヘキ有益ノ事業ニ対シテハ、及ハン限リ努力スヘキ旨ヲ通告シ来レリ
○下略

 - 第36巻 p.286 -ページ画像 

日仏会館書類(二) 【男爵 古市公威君 殿下・閣下、今日、日仏会館ノ開館式ヲ挙行スルニ当リマシテ…】(DK360112k-0003)
第36巻 p.286-288 ページ画像

日仏会館書類(二)            (渋沢子爵家所蔵)
                  男爵 古市公威君
殿下・閣下、今日、日仏会館ノ開館式ヲ挙行スルニ当リマシテ、理事長タル渋沢子爵カ親シク皆様ニ御挨拶ヲスル筈テコサイマシタ所カ、病気ノ為ニ出席相叶ヒマセヌ、悪シカラス御諒察下サルヤウニ私カラ皆様ニ御願ヒ申シテ呉レト懇ロニ申シ越サレマシタ、右御承知ヲ願ヒマス、就キマシテハ甚タ不束テアリマスルカ、私カラ此会館成立ニ至リマス迄ノ沿革ヲ概略御耳ニ入レタイト存シマス、暫ク御清聴ヲ願ヒマス。
明治維新ノ前後ニ於キマシテ、西洋ノ文化ヲ我国ニ移シマシタ時分ニハ、仏蘭西文化ニ依リマシタモノカ大分沢山コサイマス、然ルニ爾後イツトナク次第ニ之ヲ閑却スルヤウニナリマシタノハ、甚タ遺憾ニ存シテ居リマス、御承知ノ通リ仏蘭西文化ハ西洋古典文化ノ制度ヲ継承シテ居ルト申シテ宜カロウト存シマス、即チ西洋文化ノ中枢ト申シ得ルモノト存シマスル、而モ仏蘭西文化ト我カ数年《(千脱)》ノ歴史ヲ有スル日本文化トハ、余程近似シテ居ル点カアルヤウニ思ハレマス、仏蘭西文化ノ長所ヲ広ク我カ日本ニ認識サセタイト云フノカ多年吾々ノ考ヘテ居リマシタ所テコサイマス、然ルニ一方仏蘭西ニ於キマシテ欧洲大戦後ニ、其文化ヲ世界ニ宣伝スル必要ヲ感シマスト共ニ、此古イ我カ日本ノ文化ヲ研究スル必要モ亦アリト認メマシテ、玆ニ日仏文化共同研究ト云フコトハ萌サレマシテ、仏蘭西政府ハ此目的ヲ以テ大正八年ニ大学使節「ミシオン・ユニベルシテール」ナルモノヲ日本ニ派遣シマシタ、其任ニ当ラレマシタノカ当時ノ里昂大学ノ総長「モッシュ・ポール・ジュバン」、副使トシテ里昂大学ノ教授「モーリス・クーラン」、此両人カ来朝イタシマシテ、我国ノ有力者ニソレソレ交渉ニ相成リマシタ、中ニ就イテ渋沢子爵カ最モ熱心ニ此事ノ折衝ニ当ラレマシタ、屡々「ジユバン」氏ト会見サレ、固ヨリ渋沢子爵モ此仏蘭西文化移植ト云フコトニ付イテ考ヘテ居ラレタコトテアリマスカラ「モッシュ・ジュバン」ノ計画ニ対シテ十分ニ尽力スルト云フコトヲ確答セラレマシタ、其「モッシュ・ジュバン」カ渋沢子爵、当時ノ「バロン」渋沢ニ差出シタ覚書カコサイマス、ソレカ「ミシオン」使節ノ意ヲ十分ニ言ヒ現ハシテ居リマスカラ、其要点ヲ一・二玆ニ朗読イタシマス。
斯ウアリマス、即チ日仏文化共同研究ト云フコトテアリマス、ソレカラ仏蘭西ノ日本ニ対スル友情ナトヲ述ヘテコサイマシテ、斯ウ云フコトモコサイマス、是ハ後ニ関係カアリマスカラチヨツト読ミマス、ソレテ仏蘭西テハ希望スルカ日本テモ同シヤウニ希望スルカトウカト云フコトヲ調ヘニ自分共ハ来タト斯ウ云フノテアリマス、ソコテ渋沢子爵ノ段々熱心ナル御話ナトモアツテ大ニ安心シタ、就テハ斯ウ云フコトニシタラ宜カラウト云フコトカソレカラ先キニコサイマスカ、其第一ハ、何シロ日本人ハ仏蘭西語カヨク分ツテ呉レナケレハイケヌ、併シ此事ハ急ニハ出来ヌ、而シテソレハ日本政府カ然ルヘク取計ラツテ呉レルタラウカ、先ツ日本人ニ仏蘭西語ノ分ル人ヲ沢山造ルニハ斯ウ云フコトヲシタラ宜カラウト云フノカ、此日仏会館ノ計画ノ基礎ニナツテ居ルノテコサイマス、多少ノ変更ハコサイマシタケレトモ大体コ
 - 第36巻 p.287 -ページ画像 
ンナコトテアツテ、即チ仏蘭西カラ学者ヲ送ツテ日本テ自分ノ研究ノ発表、若クハ近来西洋ニ於ケル学術ノ進歩ノ模様等ヲ日本ニ於テ講演スル、ソレカラ「エコール・ド・ラ・ラング・オリアンタル」ノヤウナ所ノ卒業生ヲ、日本・極東ノ研究ノ為ニ必要ノアルモノヲ、留学生トシテ日本ニ送ル、又或程度ノ若イ学者テアツテ、サウシテ日本ノ学者ト共ニ、或専門的ノ研究ヲ日本テスル、斯ウ云フ風ナ者ヲ送ル、サテ其人達カ日本ヘ来テ、其目的ヲ達スルヤウニ勉強スルノニハ「ホテル」住ヒテハ困ル、一ツ安心シテ静カニ勉強ノ出来ルヤウナモノヲ拵ヘテ貰ハナケレハナラヌト云フノカ「モッシュ・ジュバン」ノ申シ遣シタコトテ、即チ日仏会館ナルモノヲ拵ヘル必要カアルト云フコトニナルノテコサイマスカ、其財政・経済等ノ話モアリマスカ是ハサテ措キマシテ、テアリマスルカラ日仏会館ハ、トウシテモ一ツノ何カ建物カナケレハナラヌト云フコトニナルノテコサイマス。
「ジュバン」先生帰国ノ後ニ、渋沢子爵カ何トカ此問題ヲ進メナケレハナラヌカト申シテ二・三有志者トモ協議ヲサレマシタカ、玆ニ考ヘナケレハナリマセヌコトハ「ジュバン」先生ノ書面ニモアツタヤウニ此希望ニ付テ「レシプロシテ」カナケレハナラヌト云フコトナラハ、実行ニ付テモ「レシプロシテ」カナケレハナラヌコトテアリマス、此方テ家ヲ拵ヘテモ仏蘭西カラ人カ来ナケレハ困ル、仏蘭西カラ人カ来テモ家カナクテハ困ルノテ、「レシプロシテ」カ必要テアル、テ「ジュバン」先生来朝後ニ仏蘭西ノ政府カ更リマシタリ致シマシテ、トウモ仏蘭西ノ状況カ十分明瞭ニナツテ居リマセヌ、モウ少シ向フノ模様カ分ツテカラト云ヒツツ二年ホト経過シタノテコサイマス、大正十年十二月ニ現大使「クロオデル」閣下カ着任ニナリマシテ、十一年即チ一昨年初メテ渋沢子爵ト大使トノ間ニ、再ヒ会見セラレテ交渉ヲ開始セラレタノテコサイマス、大使モ非常ニ此事ニ熱心テアラレマスノテ赴任前ニ仏蘭西政府ト打合セモアリマシテ、此問題カハツキリシテ参リマシタ、ソレテ愈々之ヲ設立スル運ヒヲ致サウト云フコトニナリマシテ、時ニ政府ニ援助ヲ乞ヒマシテ、政府モ之ヲ諒トセラレテ三万円ノ補助ヲ議会ニ提出ニナツテ協賛ヲ得ラレマシタ、ソレカ一昨年……昨年ノ春ト申シタ方カ宜シウコサイマセウ、ソレカラ時ノ総理大臣加藤友三郎君カ財界ノ有力者等ヲ招カレマシテ、サテ此事ハ必要ト考ヘル、政府テモ相当補助スルカ、併シ一方、民間ニ於テモ揮ツテ賛成シテ貰ヒタイモノタト云フコトノ話カアリマシテ、当時臨席シテ居リマシタ人々ノ中カラ十二人ノ委員ヲ選ヒマシテ、従来此問題ニ関シテ居リマシタ六人ヲ加ヘテ、十八人テ調査研究ヲ致シマシテ、其十八人カ創立委員トナツテ玆ニ財団法人ヲ造ルコトニナリマシタ、其準備カ整フト昨年ノ震災テ是カ一頓挫ヲ来シマシタカ、併シイツ迄モ放擲シテ置クヘキ事テアリマセヌカラ、聊カ規模ヲ縮小シテ兎モ角モ事業ヲ起サウト云フコトニナリマシテ、当初ハ前申シマシタ通リ会館カ必要テアルカラ会館建築ヲスルト云フ計画テアリマシタカ、今日ノ場合トウモ建築ハムツカシイ、ムツカシイニ付テハ相当ノ家屋ヲ借入レテ、兎モ角モ事業ニ著手シヤウト云フコトニナリマシテ、約十万円ヲ目途トシテ資金ヲ募集イタシマシテ、ソレテ財団法人ヲ造ルコトニナリマシ
 - 第36巻 p.288 -ページ画像 
タ、マタ金額ハ十万円ニ達シテ居リマセヌ、三井・岩崎両男ノ寄付、其他ノ御方カラモ相当ノ寄付カアリマシテ今ノ所テハ七万円ハカリニナツテ居ルト思ヒマス、印度支那総督カラモ一万円ノ寄付カアリマシタ、ソレテ財団法人カ成立ツテ居リマス、サテソウナルト重要ナルモノハ家テアリマス、家ヲ如何ニスルカト云コトニ付テ彼レ此レ研究ヲ致シマシタ、幸ヒニ村井吉兵衛君ノ厚意ニ依リマシテ、其所有家屋ヲ借用スルコトカ出来ルコトニナリマシタ、頗ル都合ノ好イ建物テコサイマス、勿論多少ノ修繕ヲ加ヘナケレハナリマセヌカ、真ニ此目的ヲ達成スルニ便利ナ家屋テアリマス、是テ会館出カ来マシタカラ人サヘ来レハ事業ヲ開始スルコトカ出来ルヤヤウニナリマシタ。
然ルニ先日、仏蘭西政府カラ来年早々「モッシュ・アンリー・フォシーユ」ト云フ人ヲ日本ニ派遣スルト云フコトヲ大使館ヘ申シテ参リマシタ、「アンリー・フォシーユ」ト申ス人ハ、里昂大学ノ文学部ノ教授テアリマシテ「イストワール・デ・ボーザール」ノ講座ヲ担任シテ居リマシテ、此方面ニ付テハ有名ナ人テアルサウテコサイマス、殊ニ東洋美術ノ研究モ中々進ンテ居リマシテ、既ニ仏教美術ノ著述モアリマス、又日本ノ北斎ノ絵ナトモ研究シテ、北斎ノ絵ニ関スル著述モアルサウテアリママス、姉崎博士ナトハ持ツテオ出ナサル筈テコサイマス、真ニ日仏会館ノ第一ノ講師トシテ適任ト吾々ハ考ヘマス、ソレカ来年早々ニ向フヲ立ツテ来ラレマス、ソコニ至ツテ初メテ会館ノ事業カ始マルノテコサイマス。
併シ今日ソレニ先ツテ開会ノ式ヲ挙ケマシタノハ、是ハ御聞及ヒテモアリマセウカ、此事業ニ最モ熱心ニ御尽力下スツタ仏蘭西大使カ来年早々帰国セラレマス、帰国ノ前ニ自分ノ意見ヲ述ヘテ見タイト云フ御考モアリマシテ、余リ年末ニ切迫スルモイカヌ、年始早々モイカヌト云フコトテ、今日此会ヲ開イタ次第テアリマス。
右ハ甚タ概略ナカラ今日迄ノ沿革ヲ申上ケタ次第テアリマス。御臨席ノ諸君ニハ是迄モ段々此事ニ付テ御尽力ヲ願ヒマシタカ、尚ホ今後モ会館ノ為ニ御援助ヲ下サレマシテ、此有益ナ事業ノ円満ニ発達イタシマスコトヲ、玆ニ皆様ニ向ツテ冀ツテ置キマス。拍手
   ○栄一、十一月下旬来感冒ニ喘息ヲ併発、在邸療養ニ尽シ、十二月二十七日湯河原ニ転地、十四年一月二十五日ニ帰京ス。


(増田明六)日誌 大正一三年(DK360112k-0004)
第36巻 p.288 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一三年(増田正純氏所蔵)
十二月十四日 日 晴
○上略
後二時工業倶楽部ニ於て日仏会館開館式あり、出席の積ニて回答し置きたるも、飛鳥山邸ニ於ける用事多端の為め遂ニ時刻を失し、欠席の止む無きニ至れり
○下略


クローデル大使閣下講演(DK360112k-0005)
第36巻 p.288-291 ページ画像

クローデル大使閣下講演        (渋沢子爵家所蔵)
                   大正十三年十二月十四日
                   於日仏会館開館式
(印刷物)
 - 第36巻 p.289 -ページ画像 
Messieurs,
  Une idée juste porte en elle-même une force intérieure qui finit par l'obliger pour ainsi dire à se réaliser en dépit de tous les obstacles. Et les obstacles n'ont pas manqué à cette Maison Franco-Japonaise dont nous célébrons aujourd'hui sinon encore l'inauguration effective, à tout le moins la constitution officielle. Il y avait les concours à chercher, les bonnes volontés à éclairer, les autorités à convaincre, les plans à établir. Entreprise d'une difficulté non médiocre quand on pense qu'il s'agit d'une institution d'un caractère tout nouveau et qui n'a d'analogue exact dans aucun pays. Mais les difficultés ne sont pas venues seulement des hommes, elles sont venues de la nature. Le ler Septembre 1923, au moment même où nous pensions toucher au but, un tremblement de terre détruisait Yokohama et la moitié de Tokyo. Après une telle catastrophe je pensais, je l'avoue, que la Maison Franco-Japonaise comptait au nombre des victimes et que l'idée en reposait désormais au moins pour de longues années sous un amas de décombres fumants. Mes amis Japonais eurent plus de foi et plus de courage que moi. Malgré les pertes pécuniaires immenses que le désastre avait entrainées, malgré l'obligation qui paraissait désormais s'imposer au Japon de concentrer ses forces sur des objets d'un caractère plus pratique et plus prochain, ils estimèrent que la nécessité d'une forme permanente à donner à la collaboration intellectuelle franco-japonaise s'imposait plus que jamais et par une espèce de miracle ils surent imposer autour d'eux leur confiance et leur conviction. Le Gouvernement Japonais, pressé cependant par tant de besoins cruels et urgents, maintint sa subvention, les concours financiers promis ne se refusèrent pas et enfin un bienfaiteur généreux en mettant à la disposition de l'œuvre l'une des plus belles résidences de la capitale lui assura les bases d'une fondation définitive. Honneur donc aux promoteurs et créateurs de la Maison de France, honneur à la Société Franco-Japonaise qui en a conçu, l'idée, au Vicomte Shibusawa, ce vétéran qui depuis les débuts de l'ère Meiji guide son pays à la rencontre des sciences et des idées de l,Occident, je le remercie, généreusement fidèle à d'anciens souvenirs, de nous avoir couverts dès le début de son puissant patronage et de s'être fait pour anisi dire caution de l'œuvre que nous poursuivons. Merci à M. le Baron Furuichi, à M. le Conseiller Tomii, à Messieurs les professeurs Sugiyama et Anezaki, à M. le Consul général Kijima surtout qui s'est chargé avec tant de dévouement de la partie active, pratique, quotidienne, de cette entreprise à laquelle depuis 3 ans il consacre
 - 第36巻 p.290 -ページ画像 
tout son dévouement et toute son énergie. Merci surtout à notre grand bienfaiteur M. Murai Kichibei qui nous a fait une largesse vraiment royale, digne des meilleures traditions Japonaises, en nous donnant ce superbe bâtiment qui sera vraiment et réellement la Maison Franco-Japonaise, bâtie de murs et d'esprit. Je suis sûr que l'œuvre nouvelle à laquelle il a permis de se réaliser fera honneur à son nom, non seulement en France et au Japon mais dans le monde entier.
  …………
(右訳文)
諸君
 正しき考と申すものは、それ自身如何なる障碍に遭遇するも必ずさうならなければならないといふ、即ちそれが実現されなければ止まないといふ一つの内在の力を持つてゐるもので御座います。さてその障碍といふ点から申せば、今日その事実上の開館式とはいへないに致しましても、少くとも公式の設立式を挙ぐることを得るに至りましたこの日仏会館のことについても、かなり障碍があつたので御座います。或は諸方に助力を求め、或は有志の方々にこの挙の意のあるところを了解せしめ、或は政府当局を説得し、或は計画を確立しなければならない等のことがあつたのでありました。而してこの会館たるや、全く新らしい性質のものであり、他の如何なる国にも適確な類例を見ざるがごときものであるだけに、この計画は実に並々ならぬ困難を控へてゐたのでありました。しかも困難は単に人の方よりして来るに止らず自然よりしても亦到来したのでありました。千九百二十三年九月一日私共が一意会館設立の目的に向つて思ひを馳せて居りました時に当つて、震災は帝都の半と横浜とを壊滅に帰せしめました。かうした大事変の後に於て、私は打明けて申上げますとこの日仏会館に致しましもその震災の一犠牲となるを免れず、会館設立の議の如き、少くとも今後長年月の間は、ほとぼりさめぬ残骸の下に埋れ了ることであらうと考へてゐたのでありました。然るにわが日本の友人諸君は、私よりも更に強き信念と勇気とを持つて居られました。震災が齎した巨大なる金銭上の損失、また今後の日本にとつては、より実際的にして且より直接なる事に向つて精力を集注せざるべからざる必要あるにも拘らず諸君はこの日仏両国の智識上の協同事業に向つて永久的な形式を与へることは、今日に於いて最も必要なことであると考へられ、その信念と確信とを他の人々にまで移し及ぼすことに成功されたのは、寧ろ奇蹟とでも云ひたいほどでありました。日本政府は一方切迫焦眉の他の数多き必要に迫られながらも、その補助金を支持せられ、一方先約ありし財政上の各種の助力にしても改めて拒絶に遭遇することなく、かくて寛厚なる一篤志家が、この事業のために帝都に於ける最も美しき邸宅の一を提供して下すつたことにより、この事業の決定的な設立の基礎は確保せられるに至つたのでありました。この意味に於て名誉を荷ふべき方々は、日仏会館の発起者並に創立者たる諸君、その発案者たる日仏協会並に渋沢子爵でありまして、子爵の如き、明治の初年よ
 - 第36巻 p.291 -ページ画像 
りこの国をして進んで西欧諸国の思想学術を受け入れしむるに当つての先達とも称すべき方でありまして、子爵がその古き思ひ出を喜んで想ひ起され当初よりしてその有力な庇護を惜まれることなく、従つていま吾人が目的とするこの事業をば保証して起つて下すつたともいふべき点に就て、改めて私からお礼を申上げたいと思ひます。古市男爵富井枢密顧問官、杉山・姉崎両教授、特にはこの三年以来身命を捧げてこの計画のため、全く献身的にその活動的・実際的・日常庶務の方面までも引うけてゐて下さる木島総領事にも御礼を申上げたいとおもひます。殊に私は私共にとつて大なる恩恵を与へて下すつた村井吉兵衛氏に御礼を申述べなければならないのでありまして、氏は日本の最も誇るべき伝統にふさはしい実に美事な寛厚の態度を示され、これこそ全き意味に於て粉壁とゝのはり盛るに精神を以てするともいふべきわが日仏会館のために、この壮麗な建物を与へて下すつたのでありました。氏がその実現を可能ならしめて下すつたこの新らしい事業が、単に仏蘭西と日本とのみに留らず、全世界に亘つて氏の名を高からしめるものであることは私の信じて疑はないところで御座います。○下略


(ポール・クローデル)書翰 渋沢栄一宛 一九二四年一二月一五日(DK360112k-0006)
第36巻 p.291-292 ページ画像

(ポール・クローデル)書翰 渋沢栄一宛 一九二四年一二月一五日
                       (渋沢子爵家所蔵)
  Ambassade           Tokio, 15 décembre 1924
   de la
République Française
  au Japon
Monsieur le Vicomte
  Par une lettre en date du 13 de ce mois vous avez bien voulu me faire connaitre que le Comité de la Maison Franco Japonaise avait décidé de me proposer le titre d'Administrateur en chef honoraire de cette institution.
  Je suis grandement honoré de cette proposition. Je vous prie d'agéer vous-même et de transmettre aux membres du Comité mes plus sincères remerciements. J'accepte la proposition qui m'est faite avec le plus grand plaisir.
  Veuillez agréer, Monsieur le Vicomte, l'assurance de mes sentiments les plus sincèrements dévoués.
                   Glaudel.
Monsieur le Vicomte Shibusawa
  Administrateur en chef de la
  Maison Franco-Japonaise.
(右訳文)
拝啓
今月十三日附書面ヲ以テ日仏会館役員会ハ、本使ヲ同会館名誉理事長ニ御推薦被下候旨御通知相成敬承致候。
本件ハ本使ノ大ニ光栄トスル所ニ有之、爰ニ閣下ニ向ツテ至誠ナル感謝ノ意ヲ表シ候、何卒他ノ役員諸君ニモ本使ノ至誠ナル謝意御伝達被下度候。
 - 第36巻 p.292 -ページ画像 
本使ハ最大ノ欣幸ヲ以テ右御推薦ヲ拝受致候。
御受旁拝答迄右奉得貴意候 敬具
  大正十三年十二月十五日
               東京仏国大使クローデル
    日仏会館理事長
      渋沢子爵閣下


(ポール・クローデル)書翰 渋沢栄一宛 一九二五年一月二八日(DK360112k-0007)
第36巻 p.292-293 ページ画像

(ポール・クローデル)書翰 渋沢栄一宛 一九二五年一月二八日
                      (渋沢子爵家所蔵)
              Shanghai, à bord de l'"Amboise"
                     28 Janvier 1925
Monsieur le Vicomte,
  En quittant le Japon je tiens une derniere fois à vous exprimer toute ma reconnaissance pour le patronage que vous avez donné et pour la part prépondérante que vous avez prise à l'oeuvre de réalisation de notre Maison Franco-Japonaise. C'est grâce à vous en dépit des circonstances adverses que nous avons réussi.
  Aujourd'hui l'intérêt national de l'œuvre s'est manifesté à tous, il a été attesté par la subvention que le Gouvernement Impérial veut bien lui accorder. Il semble donc que le moment s'est venu de chercher pour elle des appuis en dehors même de la Capitale.
  Au cours d'un rècent voyage à Osaka et dans le Kwansai, j'ai été frappé de constater les sympathies qu'éveillait la nouvelle fondation malgré les renseignements insuffisants qu'on prend à ce sujet. Après en avoir causé avec M. Kijima, je me suis donc permis de demander à mon ami Inabata de Osaka de prendre la présidence d'un Comité de patronage parallelek à celui de Tokyo qui donnerait à l'œuvre son support moral et financier.
  J'éspère que vous approuverez cette initiative que j'ai dû prendre un peu à la hâte, vu la date rapprochée de mon départ.
  J'espère lors de mon prochain retour au Japon vous trouver toujours en excellente santé et en vous renouvelant mes remercicments je vous prie d'agréer, Monsieur le Vicomte, les assurances de mes sentiments les plus sincèrement dévoués
               (Signé) P. Claudel.
(右訳文)
  上海アンボアーズ号(仏船)ニテ 一九二五年一月二十八日
    渋沢子爵殿             クローデル
日本ヲ去ルニ臨ミ、小生ハ貴下カ日仏会館ノ実現ノ為メニ尽サレタル御努力ト御援護ニ関シ、貴下ニ対シ猶一度深厚ナル感謝ノ意ヲ表シ候
 - 第36巻 p.293 -ページ画像 
時機極メテ非ナリシニ拘ハラス能ク成功ヲ告ケ得タルハ、全ク貴下ノ賜ニ外ナラズト存候
今ヤ同事業ノ国民的利益ハ一般ニ認メラレタリ、日本政府ノ承認セラレタル補助金ハ又以テ之ヲ証スルモノニ有之候、従テ同事業ニ対シ帝国ノ首府以外ニモ援護者ヲ求ムベキ時機到来セリト考ヘラレ候
最近、大阪及関西旅行ノ際、此新事業ニ関シ未タ詳細説明サレザルニモ拘ハラス、多大ノ同情アルヲ発見致候
小生ハ木島氏ト談合ノ上、東京ノモノト同様ニ同事業ニ精神的且財政的援助ヲ与フベキ後援会ヲ設ケ之ヲ主宰サルヽ様、大阪稲畑氏ニ依頼致候、右ハ少シク早急ニ過クルヤトハ存候ヘ共、小生ノ出発迫リ候為メ取急キタル次第ニ有之、貴下ノ御賛成ヲ祈リ候
小生再ヒ日本ヘ帰任ノ節、御健全ナル貴下ニ再ヒ拝顔ヲ得ン事ヲ祈リ玆ニ重テ感謝スルト同時ニ厚ク敬意ヲ表シ候


渋沢栄一書翰 控 ポール・クローデル宛 (大正一四年)二月二七日(DK360112k-0008)
第36巻 p.293 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 ポール・クローデル宛 (大正一四年)二月二七日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、途中御障りなく御機嫌克御帰国被成候事と遥賀仕候、然ば御出発前是非一度拝光親しく得貴意度と存候処、持病喘息の為め長く病床に親しみ、旧臘稍快方致候に付、湯ケ原に転地し、漸く先月二十五日帰京致候様の次第にて、遂に御出発に間に合はす、御見送さへ不致打過候事残懐の至に御座候、予て御高配により成立致候日仏会館に対する御懇情の程深く感銘致、永久に忘るべくもあらず候、同会館開館式に於ての御演説にも、又上海よりの御懇書にも、老生の寸功に対する御懇切の御賛辞を賜り拝謝の至に御座候、過褒敢て当らす恐縮至極には存し候得共、尚余生ある限りは日仏会館は固より、両国々交増進の為め微力相尽し度と企念罷在候
日仏会館に関する要務、例へば貴国碩学派遣の件等に付ては、委細木島孝蔵氏より申上候筈に付、御承知の義と存候処、御帰国の上は何卒百事御高配被下候様、希望の至に御座候
大阪稲畑氏に日仏会館の件に付御談話被下候由真に好都合と存候、同氏は老生等京都に於て欧羅巴式の織物会社を設立致候際、技師として御従事を得、爾来御懇意に致居、老生とは因深き方にして現時は同地方の有力者として種々の方面に活動せられ候に付、至極適当と存候
老生病気未た全快とは申兼候得共、漸次実務に携はり居、精神的には完全に恢復致候間、幸に御休神被下度候
仏語にて御回答申上筈に有之候へ共、此際英語を用ひ候を御許し被下度願上候
右得貴意度如此御座候 敬具
  二月十八日              渋沢栄一
    ポール・クローデル閣下
   ○右英文書翰ハ大正十四年二月二十七日付ニテ発送セラレタリ。



〔参考〕(ポール・ジュバン)書翰 木島考蔵宛 一九二四年九月一一日(DK360112k-0009)
第36巻 p.293-296 ページ画像

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