デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
13款 社団法人国際聯盟協会
■綱文

第36巻 p.536-544(DK360195k) ページ画像

大正13年1月29日(1924年)

是日、当協会第二十八回研究会、当協会事務所ニ開カル。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

国際聯盟協会書類(一) 【(謄写版) 第二十八回研究会】(DK360195k-0001)
第36巻 p.536 ページ画像

国際聯盟協会書類(一) (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    第二十八回研究会
拝啓、来る一月二十九日(火曜)午後六時より、本協会事務所に於て第二十八回研究会開催致候間、御繁忙中誠に恐縮に存候得共御繰合御来会相成度、御案内申上候 敬具
      講演
 欧洲最近の政局       法学博士 米田実氏
  大正十三年一月二十一日
                    社団法人国際聯盟協会
                         研究会
 - 第36巻 p.537 -ページ画像 

(国際聯盟協会)会務報告 第一八輯 自大正一三年一月二五日至同年二月二九日(DK360195k-0002)
第36巻 p.537 ページ画像

(国際聯盟協会)会務報告 第一八輯 自大正一三年一月二五日至同年二月二九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    九、研究会
一、第二十八回研究会 一月二十九日協調会館に於て開会、劈頭渋沢会長の挨拶あり、今後研究会の一層の発展を希望し、自ら努力すべきことを誓はれ、米田実博士の「欧洲最近の外交」に就ての講話あり、後、質問応答に移つた、出席者三十余名
○下略



〔参考〕国際知識 第四巻第三号・第三―一一頁大正一三年三月 最近欧洲の形勢 法学博士 米田実(DK360195k-0003)
第36巻 p.537-544 ページ画像

国際知識 第四巻第三号・第三―一一頁大正一三年三月
    最近欧洲の形勢
                 法学博士 米田実
     (一)
 最近の欧羅巴の出来事で、大に吾人の注意を惹くものがある。一は数日前の外国電報の報じて来た、仏蘭西とチエツコスロヴアキアとの同盟条約の成立である。之は独り仏蘭西、チエコスヴアキアのみの関係に止まらず、ユーゴスラヴイア、ルーマニア等の所謂小協商国と仏蘭西とが最近接近しつゝあつたのが、今次の同盟条約で愈々具体化して来たと言つて善いのである。然らば仏蘭西と此等の諸国との関係は如何なるものか。小協商国諸国の方針は何か。其の欧洲の平和に対する関係は如何。又此の仏国との提携に対して反対する勢力は無きか、等自然問題となる訳である。第二の重要事件に、英国に於ける労働党の新内閣組織であり、之に伴ふて此新内閣の、対仏独政策が問題となつて来るのである。予は玆に此等に関して少しく述べて見度い、又其間に各国の情況にも幾分言及して行き度いと思ふ。
    (二)
 前にも述べた通り、数日前の新聞には仏蘭西とチエツコスロヴアキア国との間に、同盟条約が成立したことが報ぜられて居る。一見甚だ突然の様に思はれるけれども、決してさうではない、且つ其因つて来る所必ずしも浅しとしないのである。此の同盟成立の由来を知るには大体仏蘭西の欧洲政策の根本を思はねばならぬのである。
 仏蘭西は過般の大戦で独逸を惨敗せしめた。然し乍ら之を以て安心は出来ない。仏蘭西の人口は三千九百万であり、之に対して独逸の人口は六千万である。人口の差異のみを以つてしても、将来再び戦争の起ることを予想する場合、仏蘭西人は晏如たり得ないのである。況んや仏蘭西の人口は年々二十万づゝ減少し、五十余年後には二千九百万に減少すると言はれて居る、此に反して独逸は年に七十万乃至八十万の増加をして居るのであるから、仏蘭西は単独で独逸に対する能力を疑ひ、為めに如何にもして、独逸の背後に強力な同盟国を持ち度いと考へて居るのである。尤も此の政策は今日に始まつたのではない、今から三十三年前即ち一八九一年から一八九四年にかけて、仏蘭西が独逸の背後の露西亜と同盟条約を造つたのも、全然同一の精神に出でた
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ものである。其の露西亜は今日、最早や仏の同盟国では無い、のみならず寧ろ今や独逸と露西亜が結托し独逸は露国から資源の供給を仰ぐ形勢となつて居る。故に仏蘭西は独逸の背後に同盟国を作り、一は独逸を前後より圧し、一は独露の接近を阻止せんとして居る。此の政策はヴエルサイユ会議当時からの政策であつて、其の時に先づ波蘭国を強大にするに努めた如き、此政策の発露である。
 波蘭は嘗て独・露・墺三国に分割されて居たものだが、大戦後に復活して新興国となつたのである。此新波蘭は民族主義に基いて独立国を建設した訳だが、其国境決定の実際を見ると、却て他民族の民族主義を無視して、広大な国を作つた感がある、分割されて居た国を、民族主義に依つて一国にするは良いとしても、近隣の民族の意志を無視し、他民族の民族主義を蹂躙してまで、大国を作つたでは無いかとさへ思はれる。元来其の民族状態より言へば、新波蘭は面積八万又は九万方哩、人口一千七百万、又は一千八百万位を以て正常であるべきものであるのに、現在では面積十五万方哩、人口二千六(又は七)百万になつて居る。波蘭人に非る他民族で波蘭土に編入されたものは、白露、ウクライナ地方が四万四千方哩、其人口の七割五分は露西亜人、東ガリシア地方が二万方哩、其のレンブルグ地方は殊にウクライナ人が多い。其他リトアニア人の住むヴイルナ地方も加へられて居る。之は一九二〇年のリガ露波条約で決定したものもあるけれども、要するに仏国が終始波蘭を支持したことが、右の結果を齎らしたと言つて善いのである。而して仏国は初から波蘭と結托して居たが、一九二二年二月の条約も、之を具体的に示して居る一である、此条約は政治に関するものと、通商に関する部分とから成つて居る。併し波蘭との結托は第一歩であつた、其次として今度のチエコスロヴアキアとの同盟条約が成立したのである。少しく其の成立の順序を尋ねて見やう。
      (三)
 チエコスロヴアキアは、仏蘭西でも殊に重きを置いて居た。同国は中欧に於て最も健全な発達を遂げつゝある、唯一の国家である。歳出入の平衡の取れて居るのも、チエツコスロヴアキアのみであつて、歳出入共に四・五億円位だが、不足額も僅に二千万円位だ、独逸は勿論波蘭・ユーゴスラウイア・墺地利・洪牙利等、皆な財政乱脈を告げて居る中に、チエツクスロヴアキアの如きは、稀有の例である。人口一千二百万の此国は、従来富饒の地として知られて居る、墺洪国時代に於ても、その石炭産出額の八割五分は、此の地方で産出し、其他に織物・鉄を出し、旧墺洪国の輸出総額中、三分の二は此処から出て、租税の人頭割負担額も此処の住民は他の部分の住民の二倍半であつた。斯の如く経済的に有力である上に、政治家にも卓越した人が多く、大統領マサリツク博士(本年七十三歳)を始め、ベネシユ氏・ラジン氏の如き人が居る。ベネシユ氏は本年四十歳位で、戦前プラーグ大学の教授をしたこともあるが、建国以来首相或は外相として、近隣諸国との接衝に当り、其の親交を増進したのみならず、大国の間の外交にも関係し、一昨年一月カンヌ会議に於て、英仏の協調の破れた後の如き極力居中調停の任に当つた位ゐの手腕家である。又財政家としてのラ
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ジン氏の功績も看過することが出来ない。今日中欧に於て其の通貨の為替相場の下落しない国は、只チエツコスロヴアキアあるのみであるが、これも旧墺洪国崩壊に際し、早く他の部分の通貨とチエコスロバキアの通貨とを截然区分し、其後も支払準備金の無い兌換券を発行せぬ方針に出た等に起因して居る、一般の政治振りも穏健で、常識的である。尤も世上の批評を招いたのは、大土地の分配を決定した社会主義的政策であるが、之も同国の土地が少数富豪に独占せられ、一人にして三十万町歩・六十万町歩と言ふが如き、広大な土地を所有して居ることを思へば止むを得無かつたであらう、然かも実際土地分配の処置も、穏和である処に、此国の健全な政治振りが見られる。之を要するに、チエツクスロヴキア国は、今日中欧・東欧で第一に健全な発達を見つゝある国と言つて善い。
 斯くの如くであるから、仏蘭西がチエツクスロヴキア国を重視するのも自然であらう、そこで仏蘭西のフオツシユ元帥は、昨年チエツクスロヴキアを訪問して大に両国の親善を策し、且つマサリツク大統領の訪仏を勧めたのである。其結果十月にマサリツク大統領・ベネシユ外相の巴里訪問が実現されたのであつた。其の翌月(十一月)独逸の前皇太子が和蘭から帰国すると、帝政復活に対する疑惧の念が、一般に仏人間及チエツクスロヴキア人間に漲り、一層仏蘭西とチエコスロヴアキアの接近を刺戟したのである。蓋しチエツコスロヴアキアの人口一千二百万の内にはボヘミヤ地方に居住する独逸人三百万が含まれて居る。尤もチエコスロヴアキアと独逸の国境は、地理的意味からは適当な天然的境界であるけれども、民族主義から見ると、多数独逸民族をチ国に収めた点に於て、不当と言はねばならぬのみならず、憲法の如きに於ても、チ民族の国家の意味が高調せられて、国民平等の意義に適つて居らず、又国内工業品其他に関聯して、独逸語排斥を敢てして居る、そこで自然チ国も独逸を恐るゝ理由がある。又たチ国は六十万の洪牙利人を国内に有して居るので、洪牙利の帝政復活計画をも恐れて居る、是に於てか、独逸を愛《(マヽ)》する仏国之に乗じ、其仏チ結托策を講じ易くなつたのである。而して昨年十二月、ベネシユ氏が巴里に滞在するあつて、大体同盟の原案が出来た。即ち両国は他の攻撃に対して相互に援助し、又独逸国・墺洪国の帝政復活を阻止することゝしたものである。之が愈々今度の同盟条約として、成立するに至つたのである。
      (四)
 然し恐らくは之れ丈けでは済まぬ、此の上ユーゴースラヴイア、及ルーマニアと仏蘭西との間に同盟関係が成立するだらう、否な已に協議中であらうと思はれるのである。而して仏国は之に依つて、その対独圧迫策並びに独露間の接近妨害を意味する、屏障政策を完成し得るのだから、多分大満足であらうと思はれる。併し予は翻つて真に之が果して、中欧の平和に貢献する所である乎否を思ふと、疑問を生せざるを得ぬのである。
 顧みるに、墺洪国の領土から巴爾幹にかけて、所謂小協商の出来たのは一九二〇年から一九二一年に亘つてゞある。即ち一九二〇年の八
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月にはチエコスロヴアキアとユーゴスラヴイアとの間に条約が成立し一九二一年四月にはルーマニアとチエコスロバキアとの条約、一九二一年六月にはユーゴースラヴイアとルーマニア間の条約が出来た。之と略時を同うして、波蘭とルーマニアは一九二一年三月に、又波蘭とチエツコスロヴアキアは、同年十一月に条約が出来たのである。右の内、ユーゴースラヴイア及ルーマニア間の条約とは、洪牙利及び勃牙利から来る脅威に対する防衛に協力することを約して居るが、ルーマニアとチエツコスロヴアキア間の条約は、独り洪牙利の脅威にのみ備へて居り、勃牙利につきては何等規定して居ないのである、此等は各国の地理的事情から生じて居る差異である。而して此等条約は一見一つの防守同盟であり、団体軋轢を予想して居るものであるけれども、然かも諸小国の聯合を計画したチエツコスロヴアキア国外相ベネシユ氏と、羅馬尼首相たりし故タケ・ヨネスク氏等、計画者の理想とする所は、決して之に止らず、寧ろ結局の処、中欧聯邦を作るにあつた、即ち中欧聯邦若くは寧ろダニユウ聯邦を成立せしめて、之に依つて平和を期せんとの希望を抱いて居たのであつた。之は美しい考へであつたと言つて善い、之は急速には出来難いだらうが、成功させることが国際平和に貢献する所以なるは、誰も看取するに吝ならぬであらう。然るに若し今次成立を伝へられる仏蘭西とチエツコスロヴアキア同盟の如きは、仏蘭西の屏障政策としては成功としても、当初にタケ・ヨネスコユ氏、或はベネシユ氏の抱いた聯邦の成立と、国際平和の実現を含む理想に対して、却つて障害となつて来る虞はあるまい乎、是れ予は窃かに憂慮せざるを得ない所である。
 蓋し仏蘭西が小協商の数国と同盟関係を結んで提携して行くことは反仏の勢力をして他の聯合を作り、之に対抗せしむる傾向を生じはせぬであらう乎。現に現在でも小協商の拡張は行悩んで居る、即ち小協商は昨年夏までは希臘も加へんとしてゐた、然し今は夫は不可能になつた。希臘は昨年末、皇帝ゲオルギオス二世を放逐し共和制を布かんとして居る。始めこの革命に反対であつた老政治家ヴエニゼロス氏も既に革命が起きては如何ともする術なしとして、帰国の上希臘の為に奔走して居るらしい。併し一方皇帝を国外に追つた、希臘は之に依つて、巴爾幹諸国との親善を害したことを忘れてはならない。即ちルーマニアの皇太子妃は希臘皇室の出であり、希臘ゲオルギス皇帝の妃はルーマニアの皇女である。又ユーゴースラヴイアの皇后はルーマニアの出身で、希・羅・ユの三国皇室は血縁関係が出来て居る、加ふるに羅ユ両国政治家は、大分希臘の狂暴な政治が、悪風を隣国に入れ来らんことを心配して居る。ソコで、希臘の小協商の参加は、差当り困難となつたと言はねばならない。
 又勃牙利は如何と言ふと、土耳其と共に独逸の味方として、大戦に参加したのではあつたが、最近日は大分小協商参加の形勢が出来つゝあつた。然るに昨年の六月勃牙利ソフヰア府に革命が起り、四年間在職したスタンブリスキー内閣が仆れ、ス氏は暗殺されたが、この運動を援助したのはマセドニア在住の勃牙利人であつたと言はれて居る。蓋しマセドニアには多数の勃牙利人が居るが、之が現在ユーゴスラヴ
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ヰア国の領土となつて居るので、此等は不平であり、勃牙利の政治家と相響応して、ユーゴスラヴヰア反対陰謀をやつて居り、スタンブリスキー首相の対ユーゴスラヴヰア軟弱外交に不平を持つて居たものである。その謀が成功してスタンブリスキー氏排斥を見たのであるが、それ丈けユーゴスラヴヰアと勃牙利が、疎隔を加へた訳である、従つてその小協商参加の機会も、遠くなつたに違ひない。勿論此等は仏国と小協商との接近の結果として来たものでは無い。唯だ予が指摘し度いのは、斯くの如き形勢であるところに、仏国との小協商との同盟に依つて、或る大国をして小協商反対の聯合を策せしむるに至らば、其禍ひ大なる可きを思はしむること是れである。
      (五)
 然らばその所謂大国とは誰ぞ、伊太利是れである。伊太利は欧洲大戦後少からず不平である。戦争中には可成の効績を現はしたに拘らず其得た所は少いと不平を鳴らして居る。伊太利人は言ふ『我等は依然英国、或は仏国から圧迫されてゐる、伊太利は地中海に住む国だが、その両方の出口たるジブラルタル及スエズ運河とは、共に英国に扼せられ、伊太利は地中海の内に閉ぢ込められて居る形である。尚其の上英国はパレスチン等に委任統治地域を持つことになつたが、スエズ運河の附近に斯の如き地域を有する事は、益英国勢力を確固不抜のものたらしむる結果になつた。又伊太利は海外に植民地を有つことが少い英国が人口三億を超ゆる殖民地を有し、仏国が人口五千万の殖民地を有するに係らず、伊国の植民地人口は百五十万にしか達して居ない。其の上国内の資源も豊富とは言ひ難く、鉄・石炭も乏しく、原料は海外に仰がねばならない、之も戦争後救治されて居ない、と伊太利人は考へて居る。一昨年十月三十日ムソリニ氏が首相となり得た一因は、実は伊太利人の対外的不平に乗じ得たことにもあるのである。ソコで首相ムソリニ氏は、反動として帝国主義に傾き、伊太利の領土拡張を企つることになつた。其一端は先づ、同国のアルバニア政策変更に現れたが、又た昨年八月伊太利の一将軍が、希臘人と称せらるゝ者に殺害されたのを機会に、アドリア海の入口にあるコルフ島占領なども同じ意味である。後になつて伊太利は此の占領を以て一時的手段であると声明したけれども、其当初の意思が永久占領の機会を覘つて居たことは明瞭である。又た近頃フユウメの問題も亦喧しく言ひ出したし、其他窃かに英領マルタ島、仏領コルシカ島も亦、伊太利に属すべきものであるといふ考をも包蔵して居る。併し差当り伊太利が其発展政策上、当面の邪魔物と考へて居るのは、アルバニアに於ける競争者であり又た北アドリアチツク海岸(フイウメ、ダルマチア近く)でも敵手となつて居るユーゴスラヴイヤ国に外ならない、而して此ユーゴスラヴイアは、所謂「小協商」の一員であるところから、自然伊太利は小協商を敵手とし易く、若くは敵とせねばならぬ立場となつて居る、是に於て乎、伊国首相ムソリニ氏は、先づ弱国で伊太利に依頼せねばならぬ苦境に在る墺地利を抱き込み、之を根拠として、不平を抱く洪牙利との聯合を計り、之を手馴付け、更に勃牙利をも入れて小協商に対抗せんとする形勢を生じて居た。然るに仏国が愈々小協商諸国と同盟
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関係を造り、大陸に鞏固な団結が出来ることゝなると、大国たる伊太利は、愈々決意して所謂「新聯合」を策し、従つて欧大陸に二個の国際団体の軋轢対峠を生ずるの危険を見るではあるまい乎。
      (六)
 殊に吾人が忘れてならぬのは、現に仏蘭西と伊太利との間には、種種軋轢を生じ易い難問題がある。此一・二を挙げて見ると、伊太利は由来外国に多数の移民を出して居るが、米国に於ては三分入国法の施行後、多数伊太利人の入国が不可能になつた。(三分法とは一箇年に於ける米国への入国者数を、その民族の在米人口の三分に限つた法律の謂である)、此等の事情の為めに最近、伊太利人で仏蘭西に移住する者が多数になり、年々八万余に上つて来たが、此の移民には永住とあるが、一時的のものもある、併し孰れにしても此等が、仏蘭西に於て受ける待遇に関する問題が生じつゝある。之は差して面倒で無いとしても、北阿弗利加で仏・伊間に厄介な問題がある。最近には摩洛哥のタンヂールの問題が起つて居た。即ちタンヂールの処分問題につき仏国が一九一二年の条約を楯として、伊太利の発言権を拒んだこと、伊太利が摩洛哥問題につきて、仏国に反対し、西班牙を支持する意向を持つて居ることなど、其一端を示すと言つて善い、兎も角従前と異り、急に膨脹主義に奔り始めた伊太利の外交の前には、伊仏衝突の起り易いのは、自然である。然るに此形勢の下に在つて、仏蘭西がチエツコスロヴアキア其他小協商と、密接な同盟関係を結ぶと言ふことになると、伊太利の嫉視と憂慮と増加し、仏国と小協商の提携あるに対抗して、他の伊太利中心の国際団結を誘致することは、自然の勢と言はねばならぬ、是れ果してタケ・ヨネスコ氏、又ベネシユ氏等の理想であつた万国平和維持に貢献す可き現象であらう乎、思ふに、仏蘭西の対独政策として丈け考ふると、新同盟の出現は策の宜しきを得たるものであるかも知れぬ、然かも中欧及び巴爾幹の平和に如何なる影響を有するを考ふると、予は此最近欧洲勢力の新発展に対して、一片憂慮の念なきを得ざるものである。
      (七)
 以上の外、予が最近に注意せねばならぬ、欧洲の問題として数へねばならぬのは、英国に於ける労働党内閣の出現である、依つて少しく之にも言及して置く、同党の歴史を案ずるに、未だ古いとは云はれない。同党発生以来、未だ二十年そこそこであるに拘らず、穏健中庸をモツトウとせる絶えざる努力は、遂に同党をして異常の躍進的発達を見せしめた、而して今や英国の廟廊に立つことゝなつたのである、顧みるに同党が一の政派として、英国の政界に立つたのは、一九〇〇年即ち二十三年以前である、無論それ以前にも労働党の議員はあつたが彼等は大抵自由党に属したものであり、その始めて組織的な労働派を造り、下院の選挙戦に自派の候補者を出馬せしめたのは、実に一九〇〇年であり、然かも当時下院同党議員数六名を当選せしめ得たに止まつたのである。然して一九〇六年には五十二名、一九一〇年一月の総選挙に於ては四十名の当選者を見、同じ年の十月の下院解散直後の逐鹿戦にては、四十二名の党員を議会に送つたのであつた。然かも英下
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院の議員総数に比較して此数字は大して優勢ではなかつたので、従つて労働党の勢力、未だ微弱たるものであつた。然るに、一九一八年春の選挙法改正の結果、選挙権が多数労働者に附与せられたので、同党は大分有利の地位に置かるゝに至つた、然かも同十二月の総選挙迄は戦争気分が残り居り、又た講和会議以前の事とて平和主義の労働党に及ぼす好影響を発露するに至らず、その獲得議席は僅かに、七十四に止まつたが、一昨年即ち一九二二年十一月の総選挙に至つて漸くその結果が現はれ、同党は一四二名の当選者を出し一千五百万の投票総数中、実に四百五十万余票を占め、政府党(統一党)に次ぐ有力の在野党所謂「陛下の反対党」たる地位を議場に占むるに至つたのである。然るに昨年即ち一九二三年当時の政府、統一党内閣は戦後同国内に澎湃として押し寄せ来りし、経済不振と失業問題の解決策として、保護貿易政策を宣言し、之を国民の輿論に問はんとして、同年十一月下院を解散し、十二月六日総選挙を行つたが、其の結果は意想外にも、絶対多数を誇りし保守党の敗残となり、自由貿易を主張せる労働党及自由党の大勝となつた、即ち統一党の議席は三百十六より二百五十七に激減し、之に反し労働党は百四十二より百九十二に激増し、自由党も百五十八を数ふることゝなつた。而してその結果、ボールドウイン内閣一月二十二日辞職し、同日ラムシー・マクドナルド氏を首相とする労働党の内閣は成立するに至つたのである。併し予が玆に指摘せんとするのは、此英国の内政的変動そのものでは無い、唯此内政的変動が欧羅巴の政局に変化を生ぜしめんとする一点是れである、何故ならば労働党政府の大陸政策は、無条件に前内閣のそれを踏襲し無いのみならず、之に改革を加へんとしつゝあるからである。
 先づ新政府の外交政策は如何と言ふと、軍備の縮小、平和の保持、並びに国際聯盟を一層支持して之を有力にすること等が第一に呼号せられて居る、右の内軍備縮小の政策は東洋にも適用せられ、現に一億円を以て新嘉坡海軍根拠地を拡張せんとする、前内閣の計画は廃案せらることゝなつた、之は極東の平和の点から見て、吾人の欣喜に堪えない所である。併し極東の事は説かぬとして、此以外に、否な之れ以上に注目せねばならないのは、新政府の対仏政策に外ならないのである、抑も統一党政府が、保護貿易論を主張し、特恵関税を設けんとしたのは何故であらうか。仏国が対独強硬策、就中昨年のルール占領等で独逸馬克暴落は一層甚しく、財界安定せず、その影響は周囲の諸国に及んで、為めに英国の大陸貿易は多大の不利益を蒙つた。生産費以下にあらざれば独逸等に、英貨の販路を求め得られざる窮況を呈した故に同国は仏国に再三、対独態度の緩和を勧告したのであつたが、仏国の頑強なる態度は、依然として旧の如く、英国の勧告は容れられなかつた。故にボルドウイン首相欧大陸の貿易発展の困難なるを見、一転、現に英国輸出額の三割以上を占めて居る自国殖民地との貿易を盛んにし、以て目下の難関を切り抜けんと考へた、之が手段としては殖民地の好感を惹き、英品の厚遇を来すべき特恵関税の採用が考案せられ、遂に之を昨年十二月の総選挙で人民に判断を問ふたのであつた、然るに人民の判断は統一党政府の政策を否とし、為めに前述の如く統
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一党政府仆れ、労働党政府が成立したのである、然らば特恵関税策に反対して居る労働党内閣は、英国貿易の発展、百四・五十万人の失業問題の解決の為めには、是非共欧洲大陸貿易振興策に復帰せねばならなくなつた、従つて同党は是非仏蘭西を圧して、その対独政策を緩和せしめねばならぬ立場に居る。殊に同党は一九一九年以来、賠償問題に於て独逸に寛大ならんことを主張し、ヴヱルサイユ条約の修正をさへも主張した歴史があるでは無い乎、然らば則ち今回マクドナルド氏を首相とする労働党内閣の出現は、愈々英国が露骨に強硬に独逸償金軽減を主張し、之が為めに国際会議をも称道することを示し、同時に英仏の関係は愈々隔離し行く可きことを意味するものである。前首相ボールドウイン氏と雖も仏国の政策には反対であつた。昨年六月より八月に亘つた両政府往復公文は、ボナーロー氏内閣に比し、英仏の意見衝突を一層明かにしたものであつた。併しボ氏は大に英仏の乖離を恐れるの余り、秋期以来無為無能となつて居た、今若し今度の労働党内閣が独逸賠償の軽減を強張して来ると、それが如何なる変化を西欧の国際形勢に及ぼすであらうか乎、是れ頗る興味ある問題といふべきである。
 以上で予は本論を終りたい、要するに東に於ては、仏国と小協商の接近が一層明確な姿をとり、同盟に発展して来たこと。西に於ては労働党の出現に基く、英国の対仏・独政策の一転化し来ることは実に重大なる形勢の新発展と言はねばならない。但し終りに一言を加へ置き度いことは以上平和促進の現象と言ひ得無い点である。併し昨年中で欣ぶ可き平和促進の現象も無いでは無かつた。即ち一つは伊希紛争が国際聯盟の道義的圧力の下に平和的解決を見たことであり、今一つは中米グアテマラ、ニカラグア、ホンヂユラス、コスタリカ、サルヷトル五ケ国の中米平和条約が昨年二月を以て成立したことである。(了)
   ○右ハ誤植多キモ姑クコノママトス。