デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
13款 社団法人国際聯盟協会
■綱文

第37巻 p.236-243(DK370054k) ページ画像

昭和3年12月8日(1928年)

是日、当協会主催国際聯盟労働局長アルベール・トーマ歓迎講演会、学士会館ニ開カル。栄一出席ス。


■資料

集会日時通知表 昭和三年(DK370054k-0001)
第37巻 p.236 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
十二日八日 土 午後二時 国際聯盟協会催アルベール・トーマ氏歓迎講演会(学士会館)


国際知識 第九巻第二号・第一一九頁昭和四年二月 ○本協会ニユース(十二月中)(DK370054k-0002)
第37巻 p.236 ページ画像

国際知識 第九巻第二号・第一一九頁昭和四年二月
 ○本協会ニユース(十二月中)
八日 △国際労働協会と共同主催にて、学士会館にトーマ氏講演会を開く、約四百名出席し盛会であつた。△東京会館にトーマ氏歓迎晩餐会を開く。○下略
○下略


国際知識 第八巻第一〇号・第二一―二五頁昭和三年一〇月 国際労働事務局長アルベール・トーマ氏来朝に就て 前田多門(DK370054k-0003)
第37巻 p.236-239 ページ画像

国際知識 第八巻第一〇号・第二一―二五頁昭和三年一〇月
    国際労働事務局長アルベール・トーマ氏来朝に就て
                      前田多門
 ジユネーヴに本局を有する国際労働事務局、之れは言ふ迄も無く、国際聯盟の一大機関として世界中の労働問題を総括する国際的役所であるが、其の事務局長たるアルベール・トーマ氏が愈々多年の本懐を果して、今秋十一月末に日本に来朝し、約一箇月間滞在するさうである。来朝の目的は勿論、事務局長の資格に於て、日本の政府・実業家労働者の各方面と直接の接触を保ち、国際労働機関がもつと日本に深く印象されるやう、又日本と言ふものゝ実情に就き、国際労働機関が充分に諒解し得る為めであつて、大将自ら馬を陣頭に進めて来たのである。世人は余り知らぬやうであるけれども、日本程国際労働機関の影響を多分に受けた国は無い。之れは丁度世界大戦後、初めて時代の思潮に眼覚め、政府が急に労働法制に手を着け初めた頃、此の国際労働機関が出来、年々の労働会議は種々の条約案を議決して、世界的に労働法制の進む可き道を公的に示したからである。例へば公益職業紹
 - 第37巻 p.237 -ページ画像 
介所法・労働者最低年齢法・改正工場法の如き、何れも国際労働条約を批准し、又は其の一部を採用した結果、従前全く無かつた事を新に初めたのであつて、又昨年から実施した健康保険法の如き、其の立法は之に関する条約案成立の以前為されたのではあるが、国際労働機関のモーラル・インフルエンスを受けた事多大であるは疑無い。今後と雖も、日本が社会法制に進むで行く限り、此の国際機関に俟つ所は極めて多いと言はなければならぬ。勿論、吾国は形式に於てこそ五大国の、八大産業国のと呼ばれて居るが、まだまだ産業生活の後進者であり、先進国同様の労働法制を一時に採用する事は出来ない。例へばワシントンの八時間労働条約の如き之れである。然し向ふべき標準は既に示され、吾国としても之を容認して居る以上、何時迄も世界の特殊国として外方を向いて居る訳には行かない。
 かゝる問題に対して朝野とも、もつと真面目に、もつと科学的に、然し人類共通の標準道徳・社会正義と言ふ方面を重んじつゝ、研究精査して見る可きである。丁度今回トーマ氏来朝の機に際して、朝野の有力者が胸襟を開き、実情を示し、此処迄は出来る、此処迄は出来ない、と言ふ様な点に就て、腹蔵なき意見の交換を試みたら如何であるか。トーマ氏に取ても、是が何よりの御馳走であらうと思ふ。極東の事物は案外欧洲に知れて居ない。欧洲人の考で、此んな事位出来ぬ事は無いと思はるる事が、案外こちらでは難しい。又其の逆に、向ふで不可能に近い事が、こちらでは容易である。此の事情を先方に知らせるには、百聞一見に如かず、有の儘に見せるが善い。其の上で客観的に、冷静に、然かも善い精神を以て、談議すれば、解決の出来ぬ問題はない。現に一昨年来朝した国際聯盟の衛生部長、ライヒマン氏の如き、関係者の機宜を得た取計ひに依り、此の流儀で日本を観察させられた結果、非常に善い印象を得てジュネーヴに帰り、其の後は頼れもせぬに、日本の善い事を吹聴して歩いて居る。何卒トーマ氏に就ても同様の結果をあらしめ度い。殊に過去三年に渉つて、国際労働総会席上、印度の代表者から労働時間条約、婦人児童深夜業禁止条約の未批准等に就き日本攻撃があり、日印間に激しい論戦があつた事実に鑑み日本の労働状態の真相を知ると言ふ事に就ては、局長も職務上多大の興味を持て居る事と思ふ。同氏は今回御大礼の都合や何かで、已む無くシベリヤ経由で支那を先きにして、それから日本に来るさうだ。支那では今度の政府は大分乗気になつて、わざわざ書記官を派し、ジュネーヴからずつと同行させると言ふ歓待振りださうである。勿論、吾国でも同氏が来られゝば、朝野の衷心からの歓迎を受ける事は確であり、既に吾が国際聯盟協会からも阪谷男爵の名を以て叮嚀なる招待状が発せられ、南満洲鉄道会社よりも、同氏一行を社賓として招待する事になつたさうである。
 トーマ氏は頗る活動家で、事務局長として丹念に事務を見る外、常に南船北馬、国賓として締盟各国の間を往来し、国際労働機関に関して、当該国民の興味同情を喚起するに努むる外、政府当局・事業家・労働団体と協商して具体的に労働条約批准促進を図り、現に先年南米諸国訪問の際など、帰りの御土産に、政府から数個の条約批准を貰ふ
 - 第37巻 p.238 -ページ画像 
て帰て来たなどの事があつた。今度も此んな風に、吾が朝野の諸士に接近する積りであらう。そこで是等の人々に同氏に関する予備智識を持つて頂く事が、此の際差し当り望ましいのであるが、先づ第一に、是は殆ど言ふ必要もあるまいけれど、若し誤解があれば解き度いと思ふのは氏が決して労働者一方に偏して居る運動家では無い事である。勿論、彼の前身は労働運動家であつた。又今でも彼の心腸は労働者の為めに燃えて居る。然し、其の心情があるからとて、現在、国際的協調機関である労働事務局長と言ふ御役人として、政府・資本家・労働者に、三方面の公平な立場に立て、宜しきを制せねばならぬ責務を忘れたり、公私を混同するやうな者では、彼は断じて無い。否それには彼は余り賢こ過ぎる。先づ彼の履歴を簡短に紹介しやう。
 トーマ氏は仏蘭西のカムピニーと言ふ所で、一八七八年に生れた。即ち明治十一年生れで、今年日本流で言ふと五十一歳、働き盛りである。御父さんは小さなパン屋さんで、勿論家は貧しかつた。御母さんは今でも達者で、殊に西洋では珍しいと思ふが、今でも依然伜夫婦と同居して居り、トーマ氏夫人と外処の見る眼も羨しい程仲善く同じ屋根の下で暮して居る。素朴な、善良な、実に善い御母さんである。御極まり文句だが、彼は幼少より非常な秀才で、仏蘭西に於ける傑物の登竜門と言ふべき師範学校に、前首相エリオなどと、前後して入学し度々奨学資金や旅費を貰ふて、現に学生時代露西亜に行た事もある。此が後年大戦時に際して、駐露大使を勤めた因縁を生じたのであらう又独逸にも留学した。学校生活終へて後、あの有名な社会党領袖で大戦開始後、間もなく刺客の手に斃れたジョーレスの看出す所となり、其の下で雑誌リュマニテーの編輯をやり傍ら種々の著述をやって居たが、一九〇八年には自治体の参事会員に選まれ、一九一〇年には代議士となり、其の識見・雄弁に依て段々政界に認められるやうになり、殊に一九一〇年の大ストライキには、大層な花形役者となり、次いで世界大戦起るや、彼ならでは労働者の押へが利かぬと言ふので、軍需省創設の際、軍需大臣に任命されたが、果して彼は出でゝは自ら各工場を廻つて、労働者に愛国心を鼓舞し、入ては緻密な行政的材幹に依て、此の複雑な仕事を立派に遣り遂げ、欧洲全体にトーマの名は響いた。而して軍需品の関係から、極く僅の間ではあるが、駐露大使を兼ねて居た事もある。大戦終るや政府を辞し、専ら代議士として国事に尽して居たが、ヴェルサイユ条約の結果、国際労働機関の出来上がつた際、最初の事務局長として衆望期せずして、彼の奮発を乞ふ事になり、就職して今に及んで居る。今は余念なく国際聯盟の為め、殊に彼の理想とする社会正義を国際的に樹立する為めに働いて居るが、今でも仏国政界では事ある毎に、彼の名は想ひ出され、近くはブリアンの後継者として、有力の筋から望を嘱されて居るさうである。
 かう言ふ履歴の持主である彼は、兎もすると資本家側から、プロの廻し者だと睨まれ易い。公平なる可き労働局長になつてからでも、資本家側から、例へば伊太利のオリベッチ氏や仏国のピノー氏から、事ある毎に攻撃された。攻撃されると強い同人の事とて仲々猛烈にやり返すが、然し八年の歳月を経過した今では、段々同氏の誠意・苦衷は
 - 第37巻 p.239 -ページ画像 
一般に認められて、彼は決して一派に偏して居らぬと言ふ事が定評になつて来た。勿論仕事の性質上、先づ労働者の保護と言ふ事に熱意があり、又労働者側が充分信頼する人でなければ、一日でも局長は勤まるものでは無い。此の点に於て彼の如きアムステルダム派の国際労働運動の大立者たりし人は最も適任と言はなければならぬが、同時に彼は上品なる妥協を知り、理想は常に高く把持し又公表し乍らも、協調機関の責任者として、迂路を歩む事に就て短気で無い。殊に毎時感服するのは、政府側に対して其の国の面目を重んじ乍ら、じわりじわりと条約の批准を迫て行く、其の呼吸其のタクトである。兎に角、本機関出来て以来難局続きで居乍ら、今や三百を超ゆる条約批准が出来たのは、彼自身の不撓の熱心と非凡の手腕に帰す可き点少くない。彼の如き精力絶倫な働き者は西洋でも蓋し少からうと思ふ。何処迄も積極的で、会議などでも、彼の資格は書記長であるが、此の書記長が会議の全部に躍動し、独りで弁じ独りで捌き、時にワン・マン・シヨウの感じを人に抱かせる。序で乍ら彼の雄弁は欧羅巴でも有数で、其の音声態度、殊に天性の機智と広汎な教養とに依る巧な言廻しとは、殆ど芸術品と言ふても宜ろしい程である。現に今年の総会の局長演説中にも極東訪問の事を述べる際の如きも「或るフランス人の作家は『たゞ土あるのみ』と書いてあるが、私の見る所では土は大きい。啻にその物質的な拡がりの故のみでなく、その上に棲む一切の個人や一切の社会の生の動きの故に土は大きいと思ふ。実にこの随所遍在の能力を持つものは神様のみである」と言ふ様な語を挿むで居るが、何でも無いやうな事だけれどかう言ふリマークスを日本の政治家なぞに挿み得る人が果して何人あるであらうか。吾が友、浅利順四郎氏(国際労働事務局東京支局長)のトーマ氏演説評に「トーマ局長の演説は何となく音楽的で、内容がよく解らなくとも、聞いて居て面白い。殊に声と身振りと顔の表情とが三拍子揃つて居るから、人形芝居のやうだと言つてもよいかも知れない云々」(世界の労働八月号)とあるが、全く其の通りで派出な演説である。然し其の派出な演出方法の内に仲々細い事が言へるのが、通常の所謂熱弁と異る点だ。来朝の際、フランス語で演説する機会が与へられたら、彼は必ずや、如実に此の手本を示すであらう。
 極東に来る事は多年の彼の願であり、又余も滞欧中、屡々勧めた処であつた。今度愈々機が熟した訳である。忌憚なく余の慾を言へば、彼程の人が来るのに、日本の政府自身が招待状を出し得なかつた事は遺憾に思ふが、然し国際聯盟協会其の他の方面を初め、政府当路の人人と雖も、愈々氏が来る事になれば、吾国一流の快きホスピタリチーを示すであらうと信ずる。今度来るのに就ても、恰も処女が多少気心の知れぬ恋人の許を訪ぬる事の、善くもあり、又悪くもあると言ふ様な気分が、氏からの来翰にも表はれて居た。何卒彼を失望させ度く無いものである。


国際知識 第八巻第一二号・第二頁昭和三年一二月 アンベール・トーマ氏を迎ふ(DK370054k-0004)
第37巻 p.239-240 ページ画像

国際知識 第八巻第一二号・第二頁昭和三年一二月
    アルベール・トーマ氏を迎ふ
 - 第37巻 p.240 -ページ画像 
 ジユネーブ十一月二日発電は、国際労働局長アルベール・トーマ氏の極東旅行への出発を伝へた。ワルソー経由モスコウ着、西比利亜線にて哈爾賓に来り同地より南満洲鉄道会社の社賓として天津に到り、北平並に南京を視察して上海に達し、同地から十二月五日神戸着の日本郵船上海丸で本邦来着の予定である。
 トーマ氏が久しく極東訪問の希望ありしも、諸種の都合で実現せられなかつたが、本年五月頃愈其志を遂ぐることゝなつたのを知つた国際聯盟協会は、理事会の議を経たる上、旧知の間柄なる阪谷副会長の名に於て、七月十二日附を以て氏の来遊を聞き歓迎する旨の手紙を発した処、八月十七日附を以て其厚意を謝し歓迎を欣諾し、国際聯盟協会の目的遂行の為に力を致したき旨の回答を送り来つた。


(アルベール・トーマ) 書翰 渋沢栄一宛一九二八年一二月三〇日(DK370054k-0005)
第37巻 p.240-241 ページ画像

(アルベール・トーマ) 書翰 渋沢栄一宛一九二八年一二月三〇日
                        (渋沢子爵家所蔵)
                 (別筆)
                 昭和四年一月十七日入手
SOCIÉTÉ DES NATIONS      BUREAU INTERNATIONAL DU TRAVAIL
LEAGUE OF NATIONS         INTERNATIONAL LABOUR OFFICE
                       GENÈVE
                Vers Shanghai,
                 A bord du Prés. McKinlay
                     30 décembre 1928
Cher Vicomte Shibusawa,
  Je ne veux pas m'éloigner du Japon sans vous avoir dit par cette lettre ma bien sincère reconnaissance. Je sais toute la part que vous avez prise à l'organisation de notre voyage. Je sais avec quel élan de coeur vous nous avez accueillis. Et je vous suis particulièrement reconnaissant d'avoir bien voulu grouper autour de vous tous ceux qui ont souci de l'harmonie entre les éléments industriels, tous ceux qui veulent, par des mesures de progrès social et de justice, assurer la prospérité du. Japon. C'est au milieu d'eux surtout et auprès de vous qu'il m'était possible de travailler efficacement.
  J'ai été touché également des souvenirs que vous avez bien voulu évoquer de votre passage dans mon pays de France, après la fin du Second Empire et j'ai été profondément ému des pensées que vous voulez bien m'exprimer sur la mission que vous vous étes tracée. Oui, vous avez tout à fait raison. Si vous pouvez avoir la fierté d'avoir introduit dans votre pays les premières combinaisons capitalistes qui ont assuré sa position éminente parmi les nations industrielles, vous pourrez être non moins fier d'avoir tenu comme par devoir à corriger les injustices et les misères que l'industrie apporte presque fatalement derrière elle, par une politique de conciliation, d'égalité et de respect mutuel entre patrons et ouvriers. Comme vous avez raison de
 - 第37巻 p.241 -ページ画像 
 considérer qu'il n'est pas d'industrie stable et prospère si elle n'est accompagnée de vraies mesures de justice !
  Je vous remercie également d'avoir bien voulu me remettre la magnifique collection de dessins qui rappellent la vie illustre du premier des Shôguns Tokugawa. Je la garderai non seulement comme un souvenir de votre délicieux accueil, mais aussi comme une preuve de votre admirable loyalisme envers les personnes comme envers les idèes.
  Je vous prie d'agréer l'expression de mon respectureux et sincère dévouement et de ma vive reconnaissance.
              (Signé) Albert Tomas
Monsieur le Vicomte Shibusawa
     TOKYO
(右訳文)
         (別筆)      (以下栄一鉛筆)
         昭和四年一月十七日入手、三十日一覧
         回答に不及ト存候事
拝啓、日本ヲ去ルニ臨ミ、至誠ナル謝意ヲ表シ奉リ度ク、玆ニ一書拝呈致候
今般、生等一行ノ貴国旅行ニ対シテハ、有ユル方面ニ御厚配ヲ賜ハリ如何ニ熱心ニ御歓待被下候カハ、熟知感佩致シ居候所ニ有之、殊ニ産業各部ノ協調ニ尽力セラルヽ諸君、及社会ノ進歩ト正義ノ手段ニ依リ日本ノ隆盛ヲ確保セントスル諸君ヲ御身辺ニ御集メ被下候御厚意ハ特ニ感謝ノ至リニ存候 是等諸君ノ間ニ介在シ、又御身辺ニ親近シ得タルニヨリ、始メテ小生等ハ有効ニ執務シ得タル次第ニ御座候
第二帝政時代ノ末期、仏国御来訪当時ノ懐旧談、又御使命ニ対スル御感想等ハ深ク感動拝聴致候、如何ニモ御高見ノ如ク被存候
初期ノ資本組織ヲ輸入シ、日本ヲシテ工業国間ニ優秀ナル地位ヲ保有セシメラレタルハ、誇リトセラルベキ所ニシテ、今日ノ工業カ必然其裏面ニ伴フ不公正及悲惨事ヲ矯正スルニ、傭者・被傭者間ノ協調、平等・互敬ノ政策ヲ遂行セラルヽモ亦、大ニ誇リトセラルベキ所ト存候御高諭ノ如ク、正義ノ伴ハサル工業ハ、確乎タル繁栄ノ工業ニハ無之候、終リニ初代徳川将軍ノ盛代ヲ偲バシムル優美ノ画集ヲ贈与セラレタルニ対シ厚ク御礼申上候、右ハ温カナル御優遇ノ記念トシテノミナラズ、理想ニ対スル如ク又人ニ対シテ示サルヽ忠誠ノ証跡トシテ之ヲ保存致スヘク候 敬具
  一九二八年十二月三十日
    上海近ク、於プレヅイデンド・マツキンレイ号上
                    アルベール・トーマ
    在東京 渋沢子爵殿


協調会書類(二) 【(栄一鉛筆) 四年五月十五日閲、近日中再読して不明瞭と思ふ廉々研究致度候事】(DK370054k-0006)
第37巻 p.241-242 ページ画像

協調会書類(二)            (渋沢子爵家所蔵)
          (栄一鉛筆)
          四年五月十五日閲、近日中再読して不明瞭と思ふ廉々研究致度候事
拝啓
 - 第37巻 p.242 -ページ画像 
客年十二月、本邦ヲ視察シタル国際労働局長アルベール・トーマ氏カ帰任後、去ル二月二十日国際聯盟事務次長杉村公使ト会見シ、訪東所感ヲ語リタル趣ニテ、同公使ヨリ本協会副会長阪谷男爵宛、トーマ氏観察談ヲ送リ来リ候、依テ増刷ノ上別冊玆ニ御配布申上候ニ付、御査閲被下度、尤モ右視察談ハ人事ニ渉リタル点モ有之候間、機密扱ニ願度候 敬具
  昭和四年四月六日
                      国際聯盟協会
    添田敬一郎殿
(別冊)
    昭和四年二月二十日
  二十日午前、前日帰任したる「トーマ」に面会、約一時間に亘り極東視察観察談を聞く。
一、日本聯盟協会
 協会か前将軍たる徳川公爵を総裁に戴くは極めて好きことなり、公爵は気品高く聡明にして、真に偉大なる人格者なり。日本か其伝統的文明の上に急激なる速度を以て、例へは国際聯盟と云ふか如き、新来の西欧文明を加味せさるへからさる国情にあるを想ふとき、衷心日本の為め慶賀すへきを感す、若夫れ会長渋沢子爵に至つては日本の国宝なり、子爵か諄々として「半世紀前に日本の実業界発達の為め貢献せんと決し、其目的の大半を達成したる一面、資本家階級の弊害生したるに気付き、此階級建設者たる責任を自覚し、労資協調の問題解決に奉仕せさるへからさるを確信し、折角努力しつゝあり」と説かれたるは、自分の永遠に忘れ得さる所にして、日本滞在中受けたる最も深き印象の一に属す。尚十数年来、知己を忝せる阪谷男爵か、周到親切なる斡旋の労をとられたるは感謝に堪へす、日本か有力なる協会を有するは新日本の名誉にして、又常任理事国たる日本国民当然の責務と信す。日本か国際政局上、殊に国際聯盟に於て抜くへからさる精神的偉力を発輝し得るに至りたるは、実に協会幹事先覚の努力の賜物と言ふへし。
○下略



〔参考〕(安達峰一郎) 書翰 山川端夫宛昭和三年一一月二日(DK370054k-0007)
第37巻 p.242-243 ページ画像

(安達峰一郎) 書翰 山川端夫宛昭和三年一一月二日 (渋沢子爵家所蔵)
(写)
  昭和三年十一月二日巴里
                      安達峰一郎
    山川盟兄
      侍史
○上略
已に御聞及の御事と存候通りアルベール・トーマ氏、愈々一昨夜出発露支経由、十二月上旬東京着、約四週間諸方面視察の筈、名義は労働事業のみに関する旅行に御座候得共、同氏は御承知の通り最も将来に富める当国の少壮政治家に有之、自然盟兄並に国際聯盟協会側の御世話に可相成機会も多々有之べくと被存候間、何卒可然御折衝の上、本
 - 第37巻 p.243 -ページ画像 
邦の永続的真友と為りて帰欧する様にと千祈万祷致居候、○中略右二件に関しては、徳川・渋沢・阪谷・添田其他諸先輩にも呈上可致筈に御座候得共、目下大取込の為乍遺憾実行致兼候間、何卒盟兄より可然御取成被下度、御懇願申上候
○下略
   ○トーマ来朝ニ就イテハ、ナホ本資料第三十六巻所収「日仏会館」昭和三年十二月二十五日ノ条参照。
   ○トーマハ栄一ノ死去ニ際シ、当協会宛弔電ヲ寄セタリ。本款昭和六年十一月十五日ノ条参照。