デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
2款 タウンゼンド・ハリス記念碑建設
■綱文

第38巻 p.328-331(DK380036k) ページ画像

大正14年8月4日(1925年)

是ヨリ先七月二十八日、アメリカ合衆国特命全権大使エドガー・エー・バンクロフト軽井沢ニ客死
 - 第38巻 p.329 -ページ画像 
ス。是日栄一、其追悼文ヲ中外商業新報ニ掲ゲ、ハリス記念碑建設ノ事ニ及ブ。


■資料

東京朝日新聞 第一四〇七二号 大正一四年七日三〇日 米大使バンクロフト氏 軽井沢に客死す 胃潰瘍に罹り三週間前から 新渡戸博士の別邸に静養中 昨夜突如急変して(DK380036k-0001)
第38巻 p.329 ページ画像

東京朝日新聞 第一四〇七二号 大正一四年七日三〇日
  米大使バンクロフト氏
    軽井沢に客死す
      胃潰瘍に罹り三週間前から
      新渡戸博士の別邸に静養中
        昨夜突如急変して
〔軽井沢特派員電話〕駐日米国大使エドガー・アヂソン・バンクロフト氏は去る七日より軽井沢なる新渡戸博士の別荘に暑を避けてゐたが持病たる胃かいようになやまされ、去る十五日より病勢頓に進み、既報の如く一時重態を伝へられたが小康を得、それ以来医員・看護婦等付き添ひ病床に横臥のまゝ加療中のところ、二十八日午後病勢急に革り、東京築地聖路加病院長トイスラー博士及び池田博士は直に一等書記官エドワード・ネヴイル氏等と共に同地に向つて急行したが、同夜九時五十分遂に逝去した、病名は十二指腸かいようである、行年六十九歳
○中略
  赴任してから丁度十月目
    不言実行の日米親善に
      記憶に残る下田行
バンクロフト氏が駐日米国大使に任命せられ、母国アメリカの地を離れたのは実に昨年十一月一日で、桑港発クリーブラント号にあの銀髪の姿を
 先づ 見せた時、氏は記者団に対し「日米の親交は声のみでは駄目です、不言実行あるのみ」と言葉少に語つた。かくて同十七日氏は令弟で歴史家たるフレデリツク・バンクロフト博士及び秘書エフ・シーライリー氏を随へつゝ初めて我日本の土を踏んだのである。かくて同十九日午前氏は帝国ホテルの大使館仮事務所より信任状捧呈の為
 参内 正式に駐日大使として、所謂不言実行の両国親交に力を尽した、去る二月十一日紀元節当日明治神宮に参拝した事、四月十六日日米国交の生れ出た伊豆下田にタウセンド・ハリスの遺蹟を尋ねた等、尚世人の記憶に新なる処である


中外商業新報 第一四一六三号 大正一四年八月四日 バンクロフト氏を悼む 子爵渋沢栄一(DK380036k-0002)
第38巻 p.329-331 ページ画像

中外商業新報 第一四一六三号 大正一四年八月四日
   バンクロフト氏を悼む      子爵 渋沢栄一
      一
 米国大使バンクロフト氏の突如逝去せられたのは去月廿八日であつた、私はその報に接すると同時に哀悼の意のみは早速表して置いたが何分病臥中のことゝて、公人としてその意思を表明する機会がなかつた、故に多少後ればせの憾があるけれども、今私の最も親しい中外商業新報を通じて氏と私との関係を述べ追悼の言葉としたい。バンクロフト氏が駐日大使として着任せられたのは、確か昨年の十一月十七日
 - 第38巻 p.330 -ページ画像 
であつた、私はその翌々十九日帝国ホテルで氏と会見し、長時間いろいろうちとけた意見をかはしたが、爾来病気にて引籠つたので、その後もしみじみお話が出来ず、本年二月日米関係委員会で、同氏の歓迎会と松平駐米大使の送別会とを行つた時お目にかゝつたのみである
      二
 私としては前任大使ウッヅ氏が非常な親日家であつた関係と、彼の移民法の成立を不満に感じて自ら職を去つたと聞いてをるので、次の大使バ氏は如何なる人であらうかと懸念してゐた、ところがシカゴ、マーシヤルフイールドの百貨店のハイプス氏が、同氏のことを聞かせてくれた、この人は事業家であるが、外交上・教育上に相当の意見を有し、宗教家としても有名な人である、即ち二度ばかり私を訪問して「バンクロフト氏と私とはすこぶる親密であるが、同氏は立派な紳士である、私から貴方(渋沢)のことをよく話して置くから、どうかよろしく」といつて、その人となりを詳しく話した
      三
 されば私は最初同氏に会見した折、ハイプス氏から種々のことを聞いたとて、お互にうちとけた話をしたが、しかし私は当時大使といふ重職にある氏に、着任早々日米問題の将来に就て談ずるのはどうかと考へ、それ等はなほ日本の事情も了解し考究してからでも遅くないと所謂日米問題に関してはつつこんだ談話はしなかつた、殊に私は東西文化の融和を目的とし、日米間に面倒な問題の残らぬやうに解決し度いと考へてをるから、単に日本国民としてその昔日本が世界列強の仲間入が出来たのは、米国の義侠と信義との賜であると米人を敬慕してをる意味を述べたのであつた、また氏も両国親善に尽すため胸襟を披いてくれといつた
      四
 それから後同氏との間に、タウンセンド・ハリスが安政三年(西暦千八百五十六年、丁度ペリーが来朝した二・三年後)下田の近くの柿崎に玉泉寺といふ寺があつて、そこへ米国領事館旗を初めて樹てた、それに就て色々の話や相談をした、それは近頃で玉泉寺の本堂や庫裡が大破し修繕せねばならぬが、貧乏で出来ぬとて日米関係委員会へその資金の寄附方を、同寺の坊さんから申込んで来た、何分こゝはハリスが一年余りゐた由緒ある寺なので、私達も何とかしたいと考へてゐた、処がバ氏はその修繕費の内へ三百円を寄附したのみならず、ハリスの古蹟として記念したいといひだした
      五
 そして記念碑を建てたい、其費用はバ氏の友人で実業家のウオルフといふ人が二千円だけ出資するから、将来に伝へて恥かしくないやうに渋沢子爵に建設者となつてもらひたいといふ、私は大変よい事であるとこれを是認し、早速清水組の人を同寺に派し、その設計をさせた勿論二千円では余り立派なものは出来ないが、お寺の門の前へハリスの日記にあつた英文を彫込み、その下にこの文章に基いた感想文を私の手で書く積りにした
      六
 - 第38巻 p.331 -ページ画像 
 かく私は一人で定め、バ氏に相談したなら直実行にかゝる考へであつた、そして氏の御病気が夫程に大患とも思はなかつたので、人を遣はしたりなどしたが、遂に突然にも氏と私とはこゝに幽明境を異にする間柄となつてしまつた、実に人生ははかないものであると慨歎の至りに堪へない、殊にバ氏は年齢未だ六十八、私より二十近くも若いのであるから、洵に惜んでも余りがある
      七
 従つて私はこのことを今後米国大使館の人とよく相談するはずにしてゐるが、ハリスの遺蹟はたとひ私の独力を以てゞも建設したいと思つてをる、又先年私はニウヨークのブルクリンでハリスの墓に参詣したことがある、当時墓所は紅葉が美事であつたので、ハリスの赤心の強さをこの紅葉の色に喩へて、詩や歌を作つたこともあるから、これも記念碑に書きたいと思つてをる、実に此ハリスといふ人は維新当時領事から進んで公使となり、日本が外国からの脅威を感じ、また脅迫された時分、よく日本のために尽し、彼のタリフ(税目)などの親切な相談相手となつてくれた義侠に富む日本の恩人である
      八
 バンクロフト氏は、九月四日までにこの碑を建てゝ欲しいといつてゐたが、それは到底難かしい、とはいへ出来るだけ早く建設して日米両国将来の国交上に寄与せしめたいものである、またこれがバ氏に対する一つの記念ともなるであらうと思ふ