デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
4款 グラント将軍植樹記念碑建設
■綱文

第38巻 p.450-477(DK380048k) ページ画像

昭和5年5月30日(1930年)

是日、上野公園内グラント将軍記念植樹ノ傍ニ於テ、本碑ノ除幕式ヲ挙行ス。栄一出席シテ式辞ヲ
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述ブ。後、上野精養軒ニ茶会ヲ催シ、席上、又懐旧談ヲナス。


■資料

グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0001)
第38巻 p.451 ページ画像

グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                      (渋沢子爵家所蔵)
    ○グラント将軍植樹記念碑建設並除幕式記録
      附、東京市へ寄附の事
○上略
 除幕式当日には記念の為、映画の撮影を日本活動写真株式会社に命じて、当事務所の費用を以て之をなさしめたり。猶当日式場にパラマウント社の技師出張して撮影の許可を求めたれば之を許容せり。
除幕式
 昭和五年五月卅日、子爵の御健康もよろしく、梅雨に入るに先立つて、除幕式を挙行す。当日は米国にとりても記念日なり。
 午後二時過十分来賓殆ど揃ふ。
 渡辺理事立つて開会の辞を述べ、米国大使館附武官マキルロイ中佐令嬢ジエーンを麾く、ジエーン大礼服を着けたる父君に導れて登壇、幕の紐を引く。幕落ちたり。拍手一時に起る。
 次で子爵壇上に立たれ式辞を述べらる。或は古きを説き或は将来に亘り、語調整ひ声に力あり、御精気正に壮者を凌ぐ。
 次に立てるは米国大使ネヴイル氏なり。此二樹の繁れるを日本親善の表徴となす。
 外相祝辞は小松緑氏之を代読したり。
 市長代理保健局長安井誠一郎氏之に次いで登壇、子爵並に益田男爵の好意を謝し、其保存上万遺漏なからん事を誓ふ。
 渡辺理事再び登壇、閉会を告げ之を以て式を閉づ。
茶会
 これより三々五々来賓相伴ひて上野精養軒に入り、三時半茶席に就く。
 茶終る頃、子爵立ちてグラント将軍歓迎当時の懐旧談を試みられ、九鬼男爵の祝辞代読あり、井上男爵の演説あり、次でボールス氏在京浜米人を代表して祝辞を述べ、米国代理大使の挨拶を以て会を終る。
 猶除幕式当日、早朝米国汽船プレジデント・グラント号横浜に入港したるに付、船長を此式に招じたるに快く出席したるは興いとゞ深かりき。
○中略
 因に、東京市に対する寄附の式典は特に之を挙げず、落成届中に附記して以て寄附を了したり。
○下略


グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0002)
第38巻 p.451-452 ページ画像

グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                      (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、益々御清適奉慶賀候、然者往年元米国大統領グラント将軍夫妻
 - 第38巻 p.452 -ページ画像 
来邦の際、記念の為植栽せられたる扁柏並玉蘭は、五十余年の風雪を凌ぎて成育致居候も、其由来を知るもの漸く稀なるを遺憾とし、碑を建て聊か沿革を記し置度と存じ、東京市の賛同を得、頃日来工を急ぎ居候処、今般漸く竣工致候に就ては右除幕式挙行致度候間、御多用中御迷惑恐縮ながら五月三十日午後二時、上野公園内小松宮殿下御銅像傍式場へ御光臨被下度候
右御案内申上度如此御座候 敬具
 猶式後上野精養軒に於て、粗茶差上御緩談願上度と存候に付ては、準備の都合も有之候間御都合同封葉書にて御一報被下度候
  昭和五年五月十九日        益田孝
                   渋沢栄一
(右英文)
      Baron T.Masuda and Viscount Shibusawa
          request the pleasure of

      presence at the unveiling of memorial tablet
           erected at Ueno Park,
     near by the bronze statue of Prince Komatsu,
        in commemoration of the planting
       of the trees, Hinoki and Gyokuran,
 by General and Mrs. Ulysses S.Grant fifty-one years ago,
       on Friday, May 30th, at 2 o'clock,
       followed by tea at Ueno Seiyo Ken.
 R. S. V. P.


グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0003)
第38巻 p.452-453 ページ画像

グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                      (渋沢子爵家所蔵)
    グラント将軍植樹記念碑碑文
明治十二年米国前大統領ユリシーズ・シムプスン・グラント将軍来航せらる。明治天皇勅使を遣し、軍艦を派して将軍を長崎に迎接せしめ給ひ、其入京するに及びては浜離宮に館せしめ、待つに国賓の礼を以てし、備に懇款を極め給ふ、蓋し特例なり、将軍は西暦千八百二十二年米国オハイオ州の農家に生る、南北戦争起るに及び、奮然剣を提げて北軍に投じ、力戦して殊功あり、挙げられて其総指揮官となり、騒乱を平定して南北一統の基を成し、偉勲に依りて米国陸軍の総指揮に任ぜらる、而して衆望の帰する所千八百六十八年、遂に第十八代の大統領に推され、能く戦後の国政を総攪して亦大に治績を挙げたり、千八百七十五年再任の期満つる後、夫人及末男を伴ひて世界周遊の途に上る、我邦に渡来せられたるは即ち此時にあり、将軍資性真率重厚、深く東洋の平和に意を注ぎ、我邦の内治外交につきて屡当路に進言する所あり、為に我が国運の伸張を助くるもの甚だ多しと云ふ、此年七月三日将軍の入京せらるゝや、上下挙りて熱誠に之を迎へ、尋で或は夜会を開き、或は演劇を催せしが、八月廿五日に至り府民の名を以て上野公園に車駕の臨幸を仰ぎ、将軍及夫人を招請して槍術・剣術・騎
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射・犬追物等を観覧に供し、還幸の後、盛宴を張りて以て大に歓迎の意を表し、此に所謂国民外交の端を啓きたり、此日将軍は記念の為め手づから此処に扁柏を植ゑ、夫人も亦玉蘭を植ゑられたり、爾来春風秋雨五十年、二樹歳と与に成育繁茂せりと雖も、人の其由来を知るもの漸く稀なり、予等親しく此盛事に与れる者深く之を憾とし、乃ち碑を建てゝ事の梗概を叙し、以て永く後人をして聖主英将遭逢の跡を偲ばしめんとす
  昭和四年八月           子爵 渋沢栄一
                   男爵 益田孝
(右英文)
         Memorial Trees
          Planted By
       General and Mrs. Ulysses S. Grant
  General Ulysses Simpson Grant, ex-President of the United States of America, arrived at Nagasaki in 1879, whereupon Meiji Tenno dispatched an Imperial envoy and a warship to greet him.On his arrival in Tokyo on July 3rd, the General was hailed with great enthusiasm by its leading citizens.Meiji Tenno welcomed him as the guest of the nation and placed the Hama Detached Palace at his disposal.
  Imperial audiences, sight-seeing, and various kinds of entertainment were arranged for him. On August 25th, thefinal entertainment was held in honour of General and Mrs.Grant at Ueno Park, in which Meiji Tenno was graciously present.
  In commemoration of this event, General Grant planted a hinoki (Cupressus lawsoniana) and Mrs. Grant a gyokuran (Magnolia grandiflora), both of which have grown thick and tall. But few people now know the history of the trees.Therefore, we who had the privilege of participating in the welcome event fifty years ago, have erected this memorial tablet near them.
      August 1929
           Viscount Eiichi Shibusawa
             Baron Takashi Masuda


グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0004)
第38巻 p.453-454 ページ画像

グラント将軍同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                      (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    グラント将軍植樹記念碑除幕式次第
 一、開会辞
 一、除幕    米国大使館附武官マルキロイ中佐令嬢  ジエーン
 一、式辞
 一、祝辞    米国代理大使             エドウイン・ネヴイル閣下
 一、祝辞    外務大臣男爵             幣原喜重郎閣下
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 一、祝辞    東京市長代理             白上佑吉閣下
 一、閉会辞
(右英文)
           PROGRAM
        Unveiling of Tablet
     Commemorating Trees Planted by
      General and Mrs.U.S.Grant
  Opening Remarks....
  Unveiling.........Miss Jane, daughter
            of L.-Colonel and Mrs.J.G.Mcllroy, American Embassy
  Address:
           Viscount E.Shibusawa
            representing promoters
  Congratulations:
          Mr.Edwin L.Neville,
           Charge d'affaires, American Embassy
          Baron K.Shidehara,
           Minister of Foreign Affairs
          Mr.Y.Shirakami,
           Acting Mayor of Tokyo
          Closing Remarks....
              May 30 (Memorial Day), 1930


竜門雑誌 第五〇一号・第五九―七四頁 昭和五年六月 グラント将軍植樹記念碑除幕式 五月三十日上野公園にて(DK380048k-0005)
第38巻 p.454-464 ページ画像

竜門雑誌 第五〇一号・第五九―七四頁 昭和五年六月
    グラント将軍植樹記念碑除幕式
     ――五月三十日上野公園にて――
    ○
 昭和五年五月三十日の午後である。初夏の陽眩しい上野公園竹之台大芝生を前にした、小松宮殿下騎馬の銅像のすぐ後、紅白の幔幕が張り廻された一区劃、正面石段を上つた広場には大天幕を張り、更に進めば真正面に小高く紅白の幕が静かにたれ、其の上には日章旗と星条旗とが交叉されて居る、左右に現れた純白の御影石の石階は、清々しく磨かれて人待顔である。今青淵先生と益田男爵との配慮によつて新たに建設されたグラント将軍植樹記念碑の除幕式が挙げられやうとして居る。
 記念碑は濃緑を背にし老大桜樹の下に両翼を張つた近代式のもの、中央碑面の下には、躑躅が低く並び、真紅淡紅の花を見せて居る。碑に向つて左、亭々たる緑樹二本天を摩して立つ、各々丸い鉄柵がしつらへられ、それには青白のだんだら飾布が巻かれてある、奥にあるのがグラント将軍手植の「グラント・ヒノキ」、近きが同夫人手植の「グラント・ギヨクラン」であつて、五十年の風雪を凌ぎこれまで成長し
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たのである。扁柏は濃緑の枝を男性的に張り、玉蘭は淡緑の葉を微風にひるがへして女性的である。
    ○
 稀に見る快晴で天幕の外に居ると汗ばむ程であるが、午後一時過驟雨模様となり、早くも一つ二つ雫のやうに雨が落ちる。空を見上げては追々迫る式の雨に妨げられることを憂慮し眉をひそめて居る。心配の余り気象台へ電話する。返事に曰く『夕暮頃には驟雨になるかも知れないが、陽のあるうちは大丈夫』――一同ホツトする。言葉の通り幸にも程なく雲は薄れて行き、碧空に白雲がちぎつたやうに流れ、それも次第に消えて行く。
 一時三十五分先づ大谷嘉兵衛氏が白鬚をなびかせて石階を上ると、すぐ益田孝男が童顔を現す、実に到底八十歳以上の人とは思はれない大谷さんと益田さんとに写真機を向けて「がらがら」と廻し、彼方此方と活動写真技師が忙しげに働く、事務所の渡辺氏が益田男と椅子に倚つて話して居ると、又写真機を向ける、すると益田さんは話をやめて真面目な顔をされる。
 やゝあつて青淵先生が、例の温顔で自動車から下り立ち式場の有様を一渡り見廻される。援けられて石階を上ると、其処に立つ益田さん大谷さんと挨拶を交はされる。それから扁柏と玉蘭とを見上げて感慨無量の態である。撮影技師は写真機を持つて、青淵先生の後を追ひ廻して居る。次いで佐々木第一銀行頭取・団男爵・阪谷男爵・井上清純男爵・池田成彬氏・関屋宮内次官・土方日本銀行総裁・埴原正直氏・吉田外務次官など、後から後からと来られる。その間へ交つて米国代理大使エドウイン・ネヴイル氏夫妻や、グラント号船長マイケル・ゼエンスン氏が顔を出す。因にプレジデント・グラント号は青淵先生と親しいロバート・ダラー氏のダラー汽船会社定期船で、此の日の早朝横浜へ入港したので、ゼエンスン氏は此式へ間に合ふやうにと逸早く馳せつけた訳である。そこへ除幕の紐を引く当のジエーン嬢は両親マキルロイ中佐夫妻に手を引かれ、桃色のワンピースで無邪気に現れる。領事のスタージョン氏、聖路加病院のトイスラー氏などの米人が続き又飛び入りの若い人々の快活な応対振りも米国人らしい。さらに此朝東京へは入つた米国雑誌記者の一団などの来場があり、金髪・白髪・黒髪が入交つて、宛然時ならぬ日米交歓会が、此の粗末な天幕の下に行はれて居る観がある。
 グラント将軍の霊は、日本訪問当時主なる歓迎委員として斡旋した二人まで元気で五十年後の今日、斯かる記念碑を建てられたことに驚異を感ずると同時に、現世を去つて既に半世紀の今、自分を中心として日米人の交歓する有様を見ては、「平和を確立せよ」と叫んだ人であるだけに微笑を禁じ得ないであらう。
    ○
 司会者渡辺得男氏が開会の旨を述べると、一斉に拍手が起り、第一に米国大使官附武官マキルロイ中佐令嬢ジエーンさんが、盛装の中佐と共に立ち、真紅のバラの花を左の手に持ちかへて、幕の紐を握る、紐がぴんと張ると同時に幕は切つて落され、青銅の碑面が表はれる、
 - 第38巻 p.456 -ページ画像 
中央にグラント将軍の像、右が日本文の碑文、左が英文である。活動写真や、新聞社の写真班が一列になつてカメラを向けた。拍手はしばし止まず後から後から上野の山へ拡つて行く。ジエーン嬢の祖父マキルロイ氏はグラント将軍の部下として南北戦争で奮闘した人であるさうである。奇しくもつながる因縁は先づ除幕者から始まると思はせられる。因縁話は後にして、グラント将軍植樹記念碑文を見ると次の通りである。○碑文前掲ニツキ略ス
 やがて青淵先生が式辞を述べるべく碑前へ進むと益田男爵も従ふ。お二人の胸の白バラが陽に向つて一層白い。子爵のバスが天幕の内へ流れ込むと、日本語の判らぬらしい米国の人々も耳を傾ける。
  閣下、諸君。此除幕式に当つて御臨場を下つたことを私共主唱発起者と致して深く御礼を申上げます。実は五十年の昔の事を今日にするのでございますから大変に手後れでございます。玆に建碑し、未来に此事を伝へると云ふことは吾々も希望をしましたけれども、殊に友人の皆様から、未来の為に玆に碑を存してグラント将軍の植ゑられたところの「グラント・ヒノキ」及其御夫人の植ゑられたところの「グラント・ギョクラン」を永久に保存するが宜からうと云ふ御注意を受けまして、其頃の存在者としては益田男爵と私とが今漸く生残つたと申して宜いので、聊か主唱の位置に立つて心配致したのでございます。当時を回想致しますと、実に懐旧の感に堪へぬのでございます。もう今日としては日本と亜米利加との国交云々を喋々するまでもございませぬけれども、五十年の昔、私共がグラント将軍の日本に御越しになつたに就て、特に歓迎会を催しましたことは、亜米利加に対する唯礼儀を尽すばかりでなく、所謂国民として必要な事と考へて、其高風を慕ふと共に、亜米利加に対する友情を益々進めたいと云ふやうな観念から来て居つたのであります。
  将軍をお迎へ申すに付て、例へば夜会と云ひ或は特に宴席を設け又は劇場にお迎へ申したこともございますが、最後には日本の古武術を御覧に入れる、即ち此上野に於て流鏑馬・犬追物・母衣引さう云ふやうなものを御覧に入れまして、幸に明治大帝も特に其事を御親ら諒として下さいましたものと見えまして、臨御がありまして、大に吾々の面目を施したのでございます。其時に植ゑられたのが、此「グラント・ヒノキ」及「ギョクラン」でございまして、之を後世に存することは、吾々ばかりではない、日本の人の皆望む所でありますが、吾々の不注意から其企ての後れましたことは、もう殆ど吾々の手落と申さねばなりませぬ。段々友人の小松氏・世古氏などからどうしても此処にチャンとした由来を存し置くが宜しからうと云ふ御注意で、吾々も深く同感致しまして、即ち此碑を設置することに相成つたのでございます。而して今日此除幕式を開き得るに至りましたのは、特に東京市の市長の御心配を下さつたのは無論のこと、公園課の夫々の諸君の御同情の別して多きに居るのでございまして、玆に益々此二樹の繁殖を将来に期し得るのでございます。余り長いことを申すは却て諸君の御退屈を招く虞がありますから、左様な理由で甚だ手遅れではございましたけれども、五十年を経て玆
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に初て此事由を碑に存することが出来る、幸に五十年経ちましても私なり益田男爵なりは未だ壮者を凌ぐとは申せませぬけれども、左迄に老衰せぬことだけはどうぞ御記憶を願ひたいと思ひます。吾々は五十年を左程に長いとは思はぬ一人でございますから、どうぞ左様御諒承を願ひます。今日御尊来の方は皆其お仲間と吾々は存じ上げますので、玆に一場の式辞として簡単に所見を陳情致したのでございます。
 青淵先生の式辞はすぐ小畑久五郎氏が通訳する、次で米国代理大使ネヴィル氏が巨躯を運んで祝辞を述べる。○原文ハ次掲資料参照
  グラント将軍が日本に来遊されたのは五十一年前でありました。将軍は種々異つた風物に接せられたには相違ありませんが、又何となく親しみを感じた事と思ひます。将軍は其生涯の一部分を南北戦争の為めに、又其戦後の政治的恢復の時期に於ける国家の運命を双肩に荷ふて努力せられたのであります。将軍が来遊せられた拾年程以前に、日本は維新の改革を体験し、又直前には西南戦争が突発したのでありました。斯様な次第でグラント将軍は日本政府当局の有為なる政治家の当面して居た難問題に付て、稍諒解することが出来たのであります。日本の政治家は将軍が同情に富めることを知り、将軍は日本の政治家の喜を察しました。将軍は此帝国の驚嘆すべき歓待を享けた多数米国人の一人であります。将軍は明治大帝から特別な御優遇を忝くしました。
  グラント将軍は明治十二年六月七日長崎に到着し、同年九月三日横浜から帰国の途に就かれました。此間将軍は日本を隈なく巡遊し日光見物を以て其旅行を終られましたが、当時は今日の如く鉄道が発達して居らなかつたので、此旅行は徒歩か乗馬か、又は人力車によつたのであります。斯くして将軍夫妻は今日想像も出来ないやうな方法で、日本を見物せられたのであります。
  明治十二年八月廿五日、東京市民は上野公園に大祝賀会を催し、天皇の御臨幸を仰ぎました。グラント将軍及同夫人も招待されました。それは記念すべき日でありまして、会は午後二時に始まり夜十時迄続きました。余興には撃剣・馬術・流鏑馬に次いて大饗宴あり夜は煙火を打挙げました。当日将軍夫妻は請はるゝまゝに記念の為め夫々植樹しました。玆に私共の記念せんとするは此事蹟であります。記念の植樹をなし、帰国のため天皇に御暇乞を申上げた後、将軍は「日本が十分に国力を伸長して偉大なる国となり……且つ文明国の尊敬を享くるやう国政を指導するに至ること」は衷心よりの希望であると云はれました。将軍にして若し今日此処にあるならば、日本が日に日に将軍の希望を果しつゝあることを認めらるゝでありませう。将軍は帰米後幾年ならずして世を去られましたが、此樹は其後起つた大なる変化、即ち半世紀に亘る進歩発達を目撃して居ります。将軍の来遊が猶記憶せらるゝを指摘し、且つ嘗て斯る有力なる一市民を生みし米国が、今日も猶当時と同じく日本の友邦であると考へ得ることは、私共米国人に取つて、特に満足を覚ゆる次第であります。
 - 第38巻 p.458 -ページ画像 
  昭和五年五月三十日
            米国代理大使
               エドウイン・エル・ネヴイル
右が終ると、幣原外務大臣の祝辞を、小松緑氏が代読する。
   祝辞
 本日玆ニグラント将軍植樹碑除幕式ノ盛儀ニ当リ、一言祝辞ヲ述フルハ余ノ最モ欣快トスル所ナリ、グラント将軍ハ壮年ニシテ既ニ赫灼タル武勲ヲ顕ハシ、国人崇敬ノ的タルニ至リシノミナラス、再度大統領ノ顕栄ニ処シテ国政ノ燮理ニ高名ヲ走セ、大統領再任ノ任期満ツルニ及ヒ、世界周遊ヲ志シ、其途次維新草創ノ我邦土ヲ来訪セリ、将軍資性真率重厚深ク東洋ノ平和ニ意ヲ注キ、我邦ノ内治外交ニ付テモ当路ニ知言ヲ進メシコト一再ナラス、将軍ニ対スル我国民追懐ノ情ハ最モ深キモノアリ、惟フニ日米ノ国交ハ夙ニ開国ノ交誼ニ発シ、将軍ノ渡来ニ依リ愈々敦厚ヲ加ヘタルカ、両国関係ノ将来益々親善ヲ加ヘテ已マサルヘキハ、将軍植樹ノ歳ヲ追テ鬱蒼繁茂スルカ如クナルヘシ
 本日玆ニ大帝英将逢遭ノ跡ヲ偲ヒ、懐旧ノ情更ニ新タナルヲ禁スル能ハサルト共ニ、此盛典カ両国親交ノ上ヨリ見テ、意義極メテ深キヲ惟フモノナリ
聊カ所懐ヲ述ヘテ祝辞トナス
 昭和五年五月三十日
             外務大臣 男爵 幣原喜重郎
 次いで白上東京市長代理として社会局長安井誠一郎氏があつさり挨拶した。
  本日は市長代理の白上助役が、是非共御伺申して御挨拶を申上げると申して居りました所、急に先刻来已むを得ない差支が生じましたので、私に代つて御礼を申上げるやうにと云ふことでございましたので、代つて参りました。グラント将軍植樹の記念碑を建設して頂きまして、尚且つ之を東京市に将来意義あるやうに保護管理して行けと云ふ御下命に接しましたので、誠に満腔の感謝を以て其御趣旨に添へますやうに、此記念深い樹木と同時に、此記念碑を将来充分管理して皆様の御期待と其使命を完う致したいと存じます、御挨拶を申上げます。
 斯くて、除幕式は終つた。若葉に映ゆる青銅の碑面、それを囲ふ御影石の白さ、さゝやかな躑躅の花の紅、それ等を繞つて人々は寄り集り、口々に和んだ声で語り合つては碑面をのぞき込んで居る。
    ○
 式を終つてから人々は、三々伍々茶の会の開かれる上野精養軒へ向ふ、徒歩で行く人、自動車で廻る人まちまちである。
 精養軒の大広間は、眼下に不忍池を望み樹々の青葉を通して本郷台に対し、涼風が汗ばんだ顔に頗る気持よい。バルコニーに出たり、室内の椅子によつたりして、暫く款談は続けられる。茶の席が開かれると思ひ思ひに知つた顔でテーブルを占める。此処では一層くだけて日米人が語り合ひ論じ合つて、茶を飲み、菓子や果物を口にする。時に
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高らかな笑声が何処かのテーブルから起つて来る。
 拍手裡に青淵先生が起つて、グラント将軍を歓迎した当時の懐旧談をされた。
    懐旧談(青淵先生)
  本日の除幕式に当りまして皆様の御臨席を得ましたことを深く感謝致します。私の如き老人は五十年の歳月を左まで長しとは思ひませぬけれども、此お集りの皆様方は或はグラント将軍のお出になつた時分には、未だ至てお若くて、当時の事を御承知ないと思ひますが、若し其時の事を御覧になつて居つて、今日から御追懐になりましたら、大層の御感想をお惹き起しになるだらうと思ひます。私の如き五十年が余り遠くないやうな感じを持つ方は、此御集りの中には極く少いやうでございます。
  亜米利加に対する我官民の友情の深いことは、今更申上げる迄もございませぬが、殊に明治十二年にグラント将軍の御出の時分に民間の人々、即ち吾々共大に歓迎の意を強うしまして、益田君と福地源一郎君――桜痴と云ふ人と私などが、其首脳の位置に立ち、特にグラント将軍の歓迎会と云ふものを設けまして、追々方法を講じて歓迎をしようと云ふことになりましたが、扨何をしたら宜からうかと考へて見ると、どうも日本流の御饗応がお気に入りはすまいし、さらばと云つて西洋式のことは吾々は何も知らないから余程困りましたが、第一に夜会を開かうと云ふので、政府の建物の工部大学を拝借して、其処で夜会を催しました。それから更に一つ新しく劇を作つて、丁度折柄に新富座と云ふものが初て出来た頃ほひであつた為に、其新富座にグラント将軍を御招待申して、丁度仲間の中に福地桜痴が這入つて居りましたので、其人の手に依つて将軍に因んだ新劇を仕組んで御覧に入れました。更に進んで歓迎の一つの手段として八月の二十五日を期して、上野に於て日本の古武術を御覧に入れたい、それは流鏑馬・母衣引・犬追物、此三つを御覧に入れたいと云ふので、此場合には明治天皇にも御臨幸を願うて共に御覧を頂くことにしたら、吾々の催す歓迎上大に意義あることになり、又将軍は慰労会等に於て度々陛下にお会ひになつた御様子であるから、益々日米の国交を親善ならしむることであらう。敢て政治に関係ある吾々ではございませぬけれども、両国の間の益々親睦を望む為にさう云ふ催しを致しました、扨色々心配をしましたが、丁度折柄に其頃東京に流行病がありまして、流行病を懸念する年寄の大臣方は酷く陛下の御臨幸をお気遣ひになつて、遂に一旦御許可になつた臨幸が或は御沙汰止みになりはせぬか、と云ふ場合に至りました。其時に私共実に弱りまして、殆ど寝食を安んぜぬどころではない、如何に相成るかと云ふやうな切迫詰つた場合に至りました。若し此御臨幸が止むと将軍に対して申訳がないことになる。併しさればと云うてそれを強て願ふ訳には行かず非常に苦心を致しました、勿論其企ては民間の企てゞはございますが、時の東京府知事楠本正隆君は最初から相談に応じて下さつたから、共々商業会議所で其事に関して是非御臨幸を御決行になるやうに御願ひしやうと云ふ相談の会を
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開きました。其時に私は先づ主唱者であつたものですから、「吾々は亜米利加に対する国交上、斯かる機会に斯様に致したら宜からうと思つたが、結局斯くの如くになつた、若し御臨幸が中止となつたなら、吾々の面目は殆んど失はれると思ふ、実際こんな機会は何だか再び得られないやうな気がするから、何とかして御臨幸を御願したいものである」と云ふことを、真に心配の余りに憂鬱に陥つて、そこで一言の心事を吐露したのであります。其時に楠本君が酷く私の苦衷を買つて下さつて、「国民としてさう両国の国交に心を用ひるのは実に感心なことだ、さうあつてこそ日本の国民は大に頼母しい」と言ふて喜んで呉れました。「自分は役人の方であるが、飽迄も懸念されるならば、そこは多少踏切つて下さつたら宜からうと思ふ、政府のお方々に自分がそれこそ一身を賭しても尽力するから、お前は心配するな、余り気の毒に感ずるから、私が是非力を添へる、気を大きく持つて、もつと勇気を出せ」と言はれた、今も当時の事を顧み、楠本さんが私に勇気を附けて下さつたことを思ひ起します。それも詰るところ、日米の国交に重きを置いたと云ふことを敢て申上げるではございませぬが、其当時の追懐談として斯う云ふこともあつた、今のグラント・ヒノキなり、グラント・ギョクランなりを見ますと、昔を思ひ起さゞるを得ぬのでございます。斯かるお集りの席に於て、五十年を都合好く過ぎて今日あるを見ますと、実に昔を回想して真に嬉しいと云ふどころではありませぬ。此上もない深い感激を惹起するのでございます。御注意を受けた為に後れ馳せではございましたけれども幸に碑が設置せられまして、殊に東京市が別して其事に就て御力を貸して下されたから、所謂千歳不朽のものになり得るのでございます。五十年は僅かの間でも、五十年が幾度も繰返へされて継続することを考へますると、誠に末の末まで心床しく思はれるのでございます。甚だ往時の心配な事など申上げるのは無用の弁でございますけれども、現在存在して居つて其当時を顧みますと、あの時は斯う云ふ感じを持つたと云ふことを、つい愚痴がましく申上げざるを得ぬので、玆に臨場の皆様に御礼と共に懐旧談をお聴きに入れたのでございます。今日は皆様多数の御尊来を頂いて、玆に其懐旧の事を申上げ得られたのは、誠に仕合せのことであると思ひます。有難うございます、皆様の御健康を祝します。
 次には九鬼隆一男爵の代人が男爵の思ひ出話を次の如く朗読した。
    思ひ出話   (九鬼隆一男)
  此度グラント将軍の記念植樹の由来を記した記念碑の建設せられましたことは、洵に意義のある適宜の企図で、祝賀に堪へません。唯私は長く病気で引籠つて居て一向御企ての事を存せず、何等尽すところなかつた事を深く遺憾と致します。私はグラント将軍が明治十二年に来朝せられた時、仏国巴里から支那天津まで五十余日間随行したもので、爾来非常に厚い恩顧を受けたのであります。
  グラント将軍が大なる声望を荷つて米国大統領の第二回目の任期を終つて後、世界周遊の途に上り先づ英国に渡り、次に独逸を訪うて、ビスマルクと会見して著名な逸話を残し、仏国に到り巴里から
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印度・支那及日本を訪問せんとせられた時、グラント将軍は、日本に対して忠告することがあると言はれて居たので、日本の内閣では非常にそれを気遣つて居た。それは将軍の勇武と政治家として偉大なことは知れ渡つて居たが、聖人のやうな徳の高い人格者としては知られて居なかつたから、如何なる忠告をされようとするのかと、幾分危惧の念もあつたのである、当時私は教育理事官として欧洲に派遣されて居て、各国の教育上の取調べを果して帰国せんとする際でありました。官命ではないが内閣員からグラント将軍の一行に随行する様との手紙を受取りまして、一行に加はることを願つて許されたのであります。それはグラント将軍の日本に対する忠告の内容を聴きたい為でありました。グラント将軍の一行は十六名で令夫人も令息も一緒でありました。将軍は常にデッキの上に起臥して、只食事の時だけキャビンへ入られた、昼は籐椅子に倚て書見し、夜は寝椅子に臥て、朝は遅くまで眠られました。その眠る時の外は、絶えずシガルをクスメられていた程非常にシガルを好まれた、私は徹頭徹尾将軍のそばを離れず、昼夜とも将軍の傍に起臥して話を聴くの便を得た、そしてその忠告の内容を知ることを得ました。将軍が日本に対して忠告せんとせられた事は、実に聖人とも云ふべき親切至極なことでありました、その要点は、当時日本と支那とは琉球島の事で大葛藤を生じて居る時でありました。将軍の申さるゝには、支那は最大の国、日本は最小の国、欧米人から見れば、日本は支那の千万分の一の国だと思はれて居る、又支那は四千年の文明を保つて人口も四億を算へ、地上地下の富は無限で大雄強国である。それと戦つて日本は勝つことは出来まい、負けては大変である、若し万一にも日本が勝つたとすれば、又大変が起る、それは支那の文明も人間も腐つて居たといふことになり金箔が剥げる、恐るゝに足らないと謂ふことになる、世界を挙げて支那の巨大なる天然の富に向つてどしどし殺到する、その結果は支那の国難よりも却て日本に取り返しのつかない苦難を招来するに決まつて居るから、こゝは忍んで戦争を避けるやうにといふのであつた。それで私は此忠告の内容を一日も早く本国へ知らせようとしたが、当時電報は不便でありまして、やつと香港に著いて我内閣員へ電報を打つて知らせる事が出来ました。我内閣では非常に喜んで、私が将軍に随行して天津についた時、電報が内閣から来て居て、一行に分れて早く帰朝するやうにとの事で、天津で将軍に分れて帰朝しました、将軍は北京へ行つてそれから七月三日横浜へ来られた。私は将軍の接伴員の一人として再び将軍に接近したので非常に愛顧を蒙つた、当時私は内閣から米国へ赴任することを切に勧められたが、教育の事に熱中して居たので、顧慮しなかつたのであります。その後図らず米国駐箚特命全権公使として赴任することゝなりましたが、その頃将軍はニューヨークに近いマウント・マグレゴルの他人の別荘に閑居して居られたが私は明治聖帝の勅命に依つて四度将軍を慰問し、八度私に訪問しました。将軍は既に隠退して居られたから公然は国交上に関係はなかつたが、私が将軍の知遇を受けたことは国交上にも好影響を来たし
 - 第38巻 p.462 -ページ画像 
隠然一勢力となつたことは争はれない、私が明治聖帝から難有い御勅書を拝受して、遁犯罪人交換条約を締結して米国と対等の条約を結んだことは、当時未だ曾て米国と対等条約が締結されたことのなかつた時でありましたから、外交界に一大センセーションを惹起したことでしたが、それといふのも私が将軍と親交のあつたことが米国の好感を得て、外交上の機微に於て裨益するところがあつたことを信ずるのであります。其他将軍と公私の交際に於て種々の興味ある話もありますが、余り長くなつては御迷惑と存じますから、今は省くことと致します。
 かくて興の湧いて居る処へ、更に井上清純男爵が立ち上つて、感想を述べられ、場内はグラウント将軍を偲んで、さながらその人が眼前にあるかの思ひをあらしめられた。
    感想    (井上清純男)
  一エピソートの積りで御聴を願ひたいと思ひます。私は本日「グラント・ヒノキ」並に「ギョクラン」を拝見しまして、美事なる所の記念碑が渋沢子爵並に益田男爵の手に依つて建てられて居ることを拝しまして、無限の感慨に打たれたのであります。私は此樹が植ゑられた翌年華盛頓に於て生れたのであります。今此樹を見ますると如何にも立派に生長して居りますのに、私自らは同じ歳月を経て依然たる――何等貢献する所のない人間であることを発見しまして樹に対して真に感慨無量なるものがあつたのであります、其当時の御招待状は渋沢子爵並に益田男爵のお名前を以て出て居りますことを、私は遺つて居る手紙に依つて存じ上げて居るのであります。其時は誠に我日本は幼稚なものでありまして、如何に御両所に於かれまして御心配の下に盛大なる歓迎会が行はれたかと云ふことに就きましては、私は今から想見することが出来ると思ふのであります。私の手許には当時グラント将軍から与へられた処の誕生の祝ひ品があるのであります。それは銀製の食器であります、並にフォーク、ナイフ、鏡と云ふやうなものであります。或は銀製のコップを頂きました。而も其両面にはユー・エス・グラントに対してユー・エスグラウントより与へると云ふのであります。同じ人から同じ人に与へるやうに書いてあるのであります。私は生れましてからグラントと云ふ名前を持つて居つたのであります。をかしなことでありますが、姓が私の名であるのであります。而もユー・エス・グラントと云ふ全部を私は頂いたのであります。誠に世界の偉大なるお方から全部の名前を私が頂いて、其人間はどう云ふ人間かと云へば、どうも甚だ詰らぬ人間であつたと云ふことになるのでありまして、相済まぬと云ふ考は不断あるのでありますが、此度渋沢子爵並に益田男爵の手に依つて、此の如き立派なメモリアルが立ちまして、永久不滅に此樹は栄えるでありませう。さうして長くグラント将軍が我明治天皇陛下に忠告された所の心から起る所の忠言、今日の外交官あたりが到底考へることの出来ぬやうな、真心を披瀝した所の日本国に対する忠言、斯う云ふものは永遠に日本と亜米利加との間に遺されるものであらうと思ふのであります。此の如き精神が永遠に両国
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の間の連鎖となるならば、此の太平洋は何時迄経つても波の揚ることはあるまいと、私は深く信じて疑はないのであります、今日私は此樹に対して自分の身の甚だ詰らないものであることを考へて、実は此席に出ることも御辞退しなければならぬと思ひながら、懐旧の情に引かれて参りました。しかし私は二歳で以て亜米利加を去つたのでありますから、グラント将軍は私は能う覚えて居りませぬ。恐らくはあの髯の沢山ある頤によつて、私の小さい頭を撫でられたものであらうと思ひます。今日あの温和なる所のお顔に接して、誠に真の親に会つたやうな気がするのであります。グラント将軍は永遠に日本と米国との間に深き友情の範を示されたのでありますから、どうか其子孫たるものは、益々其精神を発揮し、さうして東西の文明の調和を図り、玆に真個なる世界文化を打立てることに協力して行きたいと祈つて居るのであります。今日は此の如き立派なる御席に私をも列なることを御許し下さいました渋沢老子爵・益田男爵に対して誠に感謝に堪へないのであります。どうか此樹の末永く栄えることを祈つて止まないのであります。
 尚ほ井上男爵は当時駐米全権公使であつた吉田清成子爵を父とさるる人である。かくて起たずには居られなかつたものか、ボールス氏も一場の感想を語り、最後にネヴイル氏の謝辞があつた。すると渋沢子爵はつかつかとネヴイル氏の処やボールス氏の席へ赴き、固く握手されたが、その手には感激の意味が含まれて居ることが、皆人の胸に響いた。更に井上男の傍へ行かれては、吉田子爵と大蔵省で共に仕事をされた昔を思ひ起して居られた様子に想像せられたが、斯様にして此の善き国際的な記念の会は閉され、各々つきせぬ握手に散会したのは午後五時を既に過ぎて居る頃であつた。
    ○
 偶然とは云ひ乍ら、此のグラント将軍植樹の記念碑除幕式には、幾多の因縁話がつきまとつて居た。前に記した通り、グラントの名を持つダラー汽船会社の船が此朝横浜に入港し、その船長が除幕式へ馳せつけたこと。除幕したジェーン嬢の祖父に当る人がグラント将軍の部下であつたこと、などの外に、井上清純男の父なる吉田清成氏は明治初年渋沢子爵と共に大蔵省に在り、彼の銀行制度の創始に当り、吉田氏は英国流の銀行を主張したのに対して、渋沢子爵は伊藤公説の米国式国立銀行に賛成した、故に当時のお二人は反対の意見の抱持者であつた訳だが、六十年近くを経た今日、吉田氏の令息とグラント将軍を仲にして、語らるるなどは、縁の奇しきを思はずには居られない。
 更にグラント将軍は、記念碑にもある通り「平和を確立せよ」と叫んで居らるゝ世界平和の一使徒とも云ふべき人であるが、此の碑建設の前提として、東京市公園課が記念樹の周囲一帯の改修に着手したのは、実に昭和四年十一月十一日世界大戦の記念当日であり、此の日青淵先生は国際聯盟協会長として、平和に関する演説を東京放送局にてなされたのであつた。越て清水組が記念碑の工に手を着けたのが、本年四月九日であつた、即ち四月九日はグラント将軍の勇名を轟かした南北戦争が終結を告げた日である。
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 その上除幕式の当日五月三十日は、米国にては逸することの出来ぬ「メモリアル・デー」であると云ふから、参会の米人には尠なからぬ深い感じを与へたことであらう。尚ほ此の因縁話の三・四に就ては、世古孝之助氏の手を煩したのである。


グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0006)
第38巻 p.464-465 ページ画像

グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                       (渋沢子爵家所蔵)
     Address by Mr.Neville at the Unveiling
     of the Monument to the Visit of General
     Grant ― Ueno Park, Tokyo, Memorial Day,
           May 30,1930.
  Fifty-one years ago General Grant visited Japan. Despite much that was outwardly different, he must have seen something that was familiar. He had spent a portion of his life in civil war, and in presiding over the destinies of his country during the period of political recovery from that war. Japan had experienced a complete alteration in government some ten years before his arrival, and had just emerged from civil strife in the Satsuma rebellion. He was able, therefore, to understand something of the difficulties which were confronting the able statesmen at the helm of Government here. They found him sympathetic, and he found them delightful. He was one of many of my countrymen who have enjoyed the wonderful hospitality of this Empire. He was the recipient of distinguished honors from Emperor Meiji.
  General Grant arrived at Nagasaki on June 7, and sailed from Yokohama on september 3,1879. During that period he visited all parts of the country, concluding his travelling in the interior by a trip to Nikko. The railways were not as developed as they are today, so these trips meant journeying on foot, horseback or jinrikisha. In this way,the General and his wife saw Japan in a way that is difficult for us to appreciate nowadays.
  On August 25, 1879, the citizens of Tokyo held a fete in Ueno Park, which His Majesty was graciously pleased to attend. Among the invited guests were General Grant and Mrs. Grant. It was an eventful day, the celebration beginning at two o'clock in the afternoon and continuing until ten o'clock in the evening. There were fencing, feats of horsemanship, archery, and great feasting, and in the evening displays of fireworks. During the day the two guests were each as asked to plant a tree. It is this event that we are commemorating today. After planting the tree, and on taking leave of Emperor Meiji to return home, General Grant said that it was his sincere desire "to see Japan realize all possible strength, and greatness..... and to see
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affairs so directed by her as to command the respect of the civilized world." Were he here today he would realize that Japan is more and more fulfilling his wishes every day. He did not live many years after his return to the United States, but the tree that he planted is a witness to the great changes that have since taken place ― half a century of progress and development. It is particularly gratifying to an American to note that his visit is still remembered, and to feel that the nation of which he was so distinguished a citizen is now, as it was then, considered a friend of Japan.
  ○右ハアメリカ合衆国代理大使エドウィン・ネヴィルノ祝辞ナリ。


中外商業新報 第一五九一七号 昭和五年五月三一日 グラント将軍記念碑(DK380048k-0007)
第38巻 p.465 ページ画像

中外商業新報 第一五九一七号 昭和五年五月三一日
    グラント将軍記念碑
      きのふ除幕式
上野公園に建立中であつたグラント将軍記念碑の除幕式は、卅日午後二時から同所に行はれた、主催者益田男・渋沢子を始め、来賓として米国代理大使ネヴイル氏・同大使館員・在京米人及び幣原外相代理・牛塚東京府知事・安井東京市長代理・阪谷男・団男・埴原正直・土方久徴・佐々木勇之助・池田成彬諸氏その他日米関係の名士多数出席、式はグラント将軍と親交のあつた渋沢子の挨拶にはじまり、米国大使館付武官マキルロイ中佐令嬢ジエーンさんの手によつて、晴ればれしく除幕されネヴイル代理大使の挨拶、幣原外相代理・安井市長代理の祝辞があつて終り
次で上野精養軒で茶菓の接待のうちに、渋沢子爵の追懐・九鬼男が将軍来朝の際、パリから天津まで同船した思出(朝読)・井上清純男が華府に生れて同将軍を名付親にした感慨など、興味ある談話に時を移し、午後四時半散会した
 同記念碑は益田男・渋沢子から市へ寄付されたもので、横一尺縦八尺の鉄筋コンクリート造り、中央にグラント将軍の像及び「平和を確立せよ」といふグラント将軍の座右の銘が銅板ではめこまれ、グラント将軍の来朝及び植樹の次第が日英両文で記されてゐる


東京朝日新聞 第一五八三一号 昭和五年五月三一日 五十余年の昔記念植樹の前に グラント将軍の記念碑 きのふ除幕式挙行(DK380048k-0008)
第38巻 p.465-466 ページ画像

東京朝日新聞 第一五八三一号 昭和五年五月三一日
  五十余年の昔、記念植樹の前に
    グラント将軍の記念碑
      きのふ除幕式挙行
上野公園竹之台の小松宮彰仁親王の騎馬御像の後方、常盤木の中にかねてより建立中であつたグラント将軍記念碑の除幕式は三十日午後二時執行された。
 出席者は渋沢子爵・阪谷男爵・ネヴイル米代理大使・幣原外相代理白上市助役代理・安井保健局長・埴原正直・池田成彬
並に同日午前横浜へ着いたプレシデント・グラント号船長マイケル・ジエンスンの諸氏であるが
 - 第38巻 p.466 -ページ画像 
式はグラント将軍と親交のあつた渋沢子爵のあいさつの後、米大使館付武官マキルロイ中佐令嬢ジエーンさんの手によつて除幕され、続いて各方面の祝辞があり、終つて上野精養軒で茶菓の接待があつた
 記念碑は渋沢子爵より市へ寄付されたもので、横一尺縦八尺の鉄筋コンクリート製、中央ニ厳めしい八字ひげのグラント将軍の像が浮彫され「平和を確立せよ」といふ将軍の座右の銘が
 銅版 ではめこまれた、因みに碑の背後にある二本の常盤木は往年グラント将軍夫妻が来朝の際、手づから植樹したもので以来五十余年の歳月を経て今や緑深々としげりにしげつてゐる。○写真並ニ写真説明略ス


報知新聞 昭和五年五月三一日 △グラント将軍記念碑除幕式(DK380048k-0009)
第38巻 p.466 ページ画像

報知新聞 昭和五年五月三一日
 △グラント将軍記念碑除幕式=渋沢子爵の発起でかねて上野公園に建立中であつたグラント将軍記念碑の除幕式は、三十日午後二時将軍と親交あつた渋沢子の挨拶の後、米国大使館武官令嬢ジエーンさんの手によつて挙げられた、碑の中央に将軍の像及び『平和を確立せよ』といふ座右銘が銅板ではめこまれてゐる、グラント将軍は米国南北戦争鎮定の勇将、第十八代大統領を二期勤めた後、世界漫遊の途次明治十二年日本に立寄り、東京府民総代の大歓迎会には明治大帝も臨御あらせられた、本年はそれから丁度五十年に当る


グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0010)
第38巻 p.466-472 ページ画像

グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                      (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    米国前大統領グラント将軍手植の樹
 上野恩賜公園の中心である竹の台大芝生庭園の少しく手前の左側を見ると、小松宮彰仁親王殿下の騎馬像が厳然として建てられてある。御像の後方に二本の常盤木があつて何れも高さ十米余に達し周囲の樹林の間に何となく異国情緒を示して居る。
 此二本の木は前の亜米利加合衆国大統領グラント将軍夫妻が親しく手植ゑされた来朝記念の樹で、爾来五十年余の歳月を経て現在の偉観をなしてをるのである。
 明治十二年八月二十五日、東京府民は将軍夫妻を上野公園に迎へ大歓迎会を催し、明治天皇の御臨幸を仰ぎ奉り、種々の我が武芸を観覧に供し、演技終りて陛下還幸の後、将軍は記念のためローソン・ヒノキ Cupressus Lawsoniana を夫人はタイサンボク Magnolia grandiflora を自ら植ゑられた。此の木は将軍夫妻を記念すべく前樹は「グラントヒノキ」後樹は「グラントギヨクラン」と命名し、柵を囲らし之が成育を保護された。而して此の苗木は当時外国樹種の栽培先駆者たる津田仙氏の提供されたものであつた。
    ――将軍の来訪――
 将軍が米国軍艦リツチモンド号に乗じて長崎に到着されたのは同年六月七日であつて、我皇室に於かれては特別の恩召を以て将軍が大統領在任当時より駐米公使として懇親の間柄にあつた吉田清成氏及伊達宗城氏をして接伴役とされ、長崎へ出迎へしめ、歓迎の勅諭を伝へら
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れた。
 長崎に於ては盛大な市民歓迎会あり、将軍は諏訪神社境内に榕樹を手植ゑせられた。
 次で将軍の乗艦は七月三日午前十時三十分横浜入港、岩倉右大臣、伊藤・西郷・井上諸参議の迎を受け、特別列車にて午後二時新橋駅着東京府民の熱誠なる歓迎を受け、旅館に当てられたる延遼館に入られた。
 翌四日には夫人帯同赤坂仮御所に参内し、有栖川・小松・閑院・北白川の各宮殿下の御出迎を受けられ、両陛下に謁見、親しく優渥なる勅語を給はり、将軍それに奉答し、各宮殿下の御見送りを受け退出されたことは実に空前の御待遇であつた。
 七日には天皇陛下日比谷練兵場に臨幸あらせられ、将軍を迎へ陸軍諸兵を閲し給ひ、正午には芝離宮に於て将軍夫妻と御会食の栄を給はり、親王・大臣・参議・各国公使も之に陪席された。
 之に引続き東京府民の大夜会、観劇会、日光・箱根の観光を初めとし、各宮家其他の招宴等数ふるに暇なき程にて、将軍夫妻の感激も一方ならずして「我れ諸国を経歴せし中にも華麗鄭重なる待遇に会ひたること多きも未だ日本の如き懇切なる待遇を見ず」と感謝されたと伝へられてゐる。
    ――将軍と我国――
 グラント将軍の来朝は将軍としては挂冠後の世界週遊の途次訪問されたに過ぎぬが、我国としては親しく国内を遊歴し、南北戦争より戦後の米国を統治された識見を以て詳細に視察して意のあるところを親しく陛下に進言された事実は、当時の国政の上に尠なからぬ貢献を為したものであつて、我国としては深く記念すべきことである。
 例へば欧洲強国の対外政策、外債の危険、人民の参政権、琉球事件国民の負担、条約改正、国民教育と教師招聘等に就て所信を進言され夫に対して長くも「貴卿カ言フ所ハ悉ク朕力耳ヲ傾ケテ聴キタリ、朕ハ熟考セン、深ク貴卿カ好意ヲ謝ス」と勅語を給はつたことよりしても、如何に重大なるものであつたかゞ窺はれる。
    ――将軍の略伝――
 グラント将軍は北米合衆国第十八代の大統領にしてユリツシーズ・シンプスン・グラントと呼ばれ、スコツトランドより千六百三十年頃移住せし人の後裔であつた。家はオハイオ州に在り千八百二十二年四月二十七日に生れ、父は鞣皮を業とし将軍も亦労働を以て家計を助けられて居た。十七歳の時ウエストポイント陸軍士官学校に入学、教育が充分でなかつたにも拘はらず容易に課程を了へ、千八百四十六年にメキシコ戦争に従軍して度々戦功ありて名誉大尉に進み、千八百四十八年、戦役終り、ミズリー州のセントルイス市にてミス・ジユリヤ・デントと結婚された。
 千八百五十四年に至つて軍務を退き、イリノイ州に鞣皮業を始められた。然しながら千八百六十一年、エイブラハム・リンカーン氏大統領となり南北戦争開かれるに際し、グラント家の鞣皮業は閉鎖の運命に逢ひ、氏は奮然起つて北軍に投じ各所に奮戦して大功あり、千八百
 - 第38巻 p.468 -ページ画像 
六十四年四月南軍の将リー将軍の降伏により未曾有の大戦は終りを告げた。
 平和克復後も引続き軍の指揮を執り、千八百六十六年には最高の栄位である総帥に昇進された。戦役後には衆望は期せずして将軍に集り千八百六十八年遂に大統領に選挙せられたので、一意南北の関係を改善し戦後の難局を治め、更に千八百七十二年に再選の栄を得、千八百七十五年任満ちて退き、千八百七十八年夫人及末男を伴ひ世界周遊の途に上られ、欧州諸国を巡歴し、東洋に及び、印度支那を経て我国に来朝されたのが、出発後二年日の千八百七十九年(明治十二年)であつた。
 此周遊に際し世界の各国は其英名を敬慕し上下共に競うて歓待し、恰も凱旋行進の観があつたと伝へられてゐる。従つて我国に於ても他の外国貴賓の来朝と異り全く特別の優遇をされたのは当然であつた。
 将軍は世界周遊を終り俗事を断ち静かに其自叙伝を編し、千八百八十五年七月二十三日、多くの事蹟を世界に残し六十三歳にして紐育州サラトガの近傍マウント・マグレゴルに於て永眠せられた。是より先将軍病を得て危篤の報天聴に達するや、長くも九鬼駐米公使を遣し四度び懇に慰問せられたので、将軍は天恩の辱さを感佩されたと云ふことである。
 我邦有史以来、将軍の如く身貧賤より起り国を挙げての大戦を平定し、よく戦後の難局を統治し、今日の大米国をなしたる英傑の来朝を迎へ、然かも親しく天皇に国政に就て直奏せし如きことを聞かず、又将軍の如く陛下の御信頼を忝うせしものは未だ曾てないのである。
    ――建碑――
 グラント将軍の意義深き来朝を記念する樹は現に健全に繁茂して居り、上野公園を東京市に御下賜後全園の改良に際し、其附近も整理改修を了し、更に将軍来朝当時府民総代として歓迎委員であつた子爵渋沢栄一・男爵益田孝両閣下は、五十年前の往時を回想し感慨深きものがあつて、新に一碑を建て将軍の英姿と其不滅の金言を刻し、其由縁を和英両文に記し、公園に寄贈されて此の樹が記念する世界的英傑と我国の関係とを明らかにせられたことは、誠に欣びに堪へぬところである。
    ぐらんとひのき。
     CUPRESSUS LAWSONIANA Murr.
     (CHAMAECYPARIS LAWSONIANA, Parl.)
 米国にてLawson Cypress. 我国にて「ラウソンヒノキ」と呼ばれる北米原産の針葉樹で、「ヒノキ」の親類であります。生長のよいものはよく60米突の高さに達し、地際まで濃やかな枝葉に包まれた美しい樹容は世界的に良い庭木として賞用されて居ります。此の木の品位は教養ある勇士の風格を偲ばずのに充分であります。郷土は北米西海岸地方にてOregon州の南部からCalifornia州の北部に渡つて居ります。
   ぐらんとぎよくらん。
     MAGNOLIA GRANDIFLORA, L.
 - 第38巻 p.469 -ページ画像 
 米国にて Bully Bay と呼ばれる北米特産の常緑濶葉樹で、我国では普通庭木としては「タイサンボク」(泰山木)と称へられて居ります。原産地ではよく30米突高さに達し、葉と花の優偉な木として世に比べるものが無いと言はれて居ります。葉の表面は輝いた濃緑色で裏面は金色の軟毛を密生する革質のものですが、これが一枚一枚はつきりした輪廓を見せて繁ります。五・六月頃直径の6,7寸もある乳白色の大きな花が芳香を初夏の大気の中に漂はして、高雅な夫人を想はしむるものがあります。郷土は北米の東南部から中部、即ち中部即ちNorth Carolina, Florida からTexas地方にて多湿の土地を好みます。
  ○右ハ四頁一枚刷ノモノニシテ、第一頁ヲ表紙トシ題名ヲ右横書トシ、中央ニペン画ノ記念碑ヲ置キ、下ニ東京市役所ト、同様右横書トセリ。第二・三頁ハ本文、第四頁ハ裏表紙ニ当リ、ペン画ノ略地図(円形)及ビ二樹ヲ大キク示シ、ソノ中央ニ前掲二樹ノ解説ヲ左横書トシテ掲グ。本文及ビ二樹ノ解説並ニ編集ハ東京市当局ノ手ニ成ルモノナルベシ。

(印刷物)
         The Grant Monument and
           Trees in Ueno Park
  A monument, inscribed with quotations from the speeches of General Grant, given during his visit to Japan fifty years ago, has been erected by Viscount Shibusawa and Baron Masuda. They were members of the Reception Committee of the City of Tokyo at the time of Grant's visit.
  On August 25, 1879, the citizens of Tokyo invited General and Mrs. Grant to a party of welcome at Ueno Park. Emperor Meiji honored the party with his presence. Examples of ancient military art were placed on exhibition for the entertainment of the guests.
  General Grant planted a tree with the botanical name, Cupressus Lawsontana, and Mrs. Grant one with the technical name, Magnolia grandifiora. These trees, supplied by Mr. Sen Tsuda, a pioneer in the cultivation of foreign plants, were named "Grant Hinoki" and "Grant Gyokuran." Fences were erected around them for protection.
         The Visit of General Grant
            to Japan
  General Grant arrived in Nagasaki on June 7, 1879 on board the American warship, Richmond. Kiyonari Yoshida, formerly Japanese Minister at Washington and Muneki Date, who had known General Grant when he was President were the reception committee to welcome the distinguished visitors. In addition a large number of people were present to greet them. While in Nagasaki, General Grant planted a banyan tree in the precincts of Suwa Shrine.
  The Richmond anchored at Yokohama on July 3 at 10.30
 - 第38巻 p.470 -ページ画像 
a.m. and was met by Junior Minister Iwakura and State Councillors Ito, Saigo and Inoue, who conducted General and Mrs. Grant to Tokyo by a special train, arriving at Shimbashi Station at 2 p.m. The General and his party then marched to the Enryo-kan in the Hama Detached Palace amid the cheers of the people of Tokyo.
  General and Mrs. Grant paid a visit to the temporary palace of Akasaka on July 4 where they were received by Princes Arisugawa, Komatsu, Kanin, and Kita-Shirakawa and finally by the Emperor and Empress. After they had expressed their gratitude to the Emperor for this honor, General and Mrs. Grant returned to the Enryo-kan, their place of residence while in Tokyo. Never before had such a reception been accorded to foreign guests.
  The Emperor inspected troops with General Grant at Hibiya Parade Ground and invited General and Mrs. Grant to a luncheon at the Shiba Detached Palace. Princes, Ministers and members of foreign legations were present.
  Later, a grand ball, a theatre party, sightseeing trips to Hakone and Nikko and invitations from the Princes filled the program. General and Mrs. Grant enjoyed this entertainment so much that they said of their visit to Tokyo : "We have been given many warm hearted receptions in the different countries of the world, but none so wonderful as in Japan."
            General Grant's Attitude
              Toward Japan
  The visit of General Grant to Japan was merely a friendly call on his way around the world after his second administration was completed. After traveling in Japan and seeing conditions here, aided by his experience as President and general during the Civil War, he was able to give the Emperor advice which was of great value in the administration of Japan during that period. The Japanese people should be ever grateful for this assistance.
  For instance, he gave his viewpoint regarding the foreign policy of Europe, the danger of foreign loans, universal suffrage, the affairs of the Loochoo Islands, the taxes of the people, the revision of treaties, national education and the engagement of the services of foreign teachers.
  The Emperor replied, "I have paid close attention to what you have said and shall consider it. I thank you for your kindness." This indicates the importance attached to these conferences in the mind of Emperor Meiji.
         Biography of General Grant
  General Grant's career is one of the most amazing in the
 - 第38巻 p.471 -ページ画像 
annals of American history. Ulysses Simpson Grant, eighteenth President of the United States of America, was born at Point Pleasant, Ohio, on April 27, 1822, descendant of a Scotch family who came to the United States about 1630.
  His childhood was spent at home, helping his father, who was a tanner. At seventeen, he entered West Point Academy, where he finished his course in spite of the insufficiency of his preliminary training.
  He saw service in the Mexican War in 1846 and due to his excellent record was promoted to a captaincy. After the war, he married Miss Julia Dent in St. Louis, Missouri, in 1848. He retired from military service in 1854 and started in business as a tanner.
  In 1861, Abraham Lincoln became President. When the Civil War began, Grant returned to the army. As an officer in the army of the North, he established an excellent record and was raised to the position of General. The war ended in April, 1864, with the surrender of General Lee of the Southern Army.
  After the War, Grant continued to serve in the army and was given the highest of honors. He was exceedingly popular as President. During his administration, he sought to adjust relations between the North and the South. He was elected to the presidency again in 1872 and was in office until 1875.
  In 1878, he began a world tour, including Europe, India, and China and arriving in Japan in 1879. General Grant was given a hearty reception wherever he went and was treated like a general making a triumphal entrance. Since his name was well known throughout the world, it was fitting that Japan should accord him a special reception, excelling that given to other foreign guests.
  After his world tour, General Grant retired from public life and gave his attention to writing his autobiography. He died at Mt. McGregor, near Saratoga, New York, on July 23, 1885, at the age of 63.
  When the news of the crisis of his illness was reported here, the Emperor sent Mr. Kuki, then Japanese Minister at Washington, to the General's home to enquire about his condition and express hope for his recovery. General Grant greatly appreciated this courtesy of the Emperor.
  The entire history of Japan records no other hero who rose to eminence from so humble a beginning, attained success as President of the United States after the terrible Civil War and visited Japan where he offered advice on matters of administration to the Emperor and was received with great confidence.
 - 第38巻 p.472 -ページ画像 
          Erection of Monument
  After Ueno Park was ceded to the City of Tokyo, many improvements were made. This year, a monument will be added in memory of General Grant, who was helpful to Emperor Meiji. As the trees, memorial of General Grant's visit, are always green, so is his memory fresh in the minds of the Japanese people. May these trees constantly proclaim the cordial relations between the world-famed hero and Japan.
  ○右和英二種ハ栄一ガ印刷ニ付シ、東京市へ寄附シタルモノニシテ、当日出席ノ人々ニ配布セルモノナリ、英文小冊子ハ外国人ニ対シテ配布ス。


グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0011)
第38巻 p.472 ページ画像

グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                       (渋沢子爵家所蔵)

図表を画像で表示謝状

     謝状  一グラント将軍記念腰掛台   壱基    金参百円也     右維持基金  右今般本市公園用トシテ御寄贈被成下  御厚意深謝候也     昭和五年六月二十八日      東京市長 永田秀次郎          [img 図]東京市長之印    子爵 渋沢栄一殿 





グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件(DK380048k-0012)
第38巻 p.472 ページ画像

グラント将軍 同夫人 来訪五十年記念碑建設ニ関スル件
                       (渋沢子爵家所蔵)
    グラント将軍植樹記念碑建設並除幕式
    経費明細書(決算)
一、金弐千九拾八円拾六銭   記念碑建設費
一、金六百五拾弐円五拾八銭  除幕式経費一切
   内訳 金百四拾四円七拾銭  除幕式設備費
      金百九拾七円拾銭   上野精養軒茶会費
      金弐拾四円八拾参銭  通信費
      金弐百七円参拾銭   印刷物費
      金弐拾円也      速記者二人報酬
      金拾五円也      公園内茶店出張費
      金四拾円也      除幕者へ贈呈人形代
      金壱円六拾五銭    徽章十七ケ代
      金弐円也       上野公園式場借地料(東京市へ納)
一、金参百円也      維持基金(東京市へ寄附)
 合計金参千五拾円七拾四銭
右之通ニ候也
   昭和五年六月四日


グラント将軍記念碑設計説明書(DK380048k-0013)
第38巻 p.472-473 ページ画像

グラント将軍記念碑設計説明書        (渋沢子爵家所蔵)
 - 第38巻 p.473 -ページ画像 
    グラント将軍記念碑設計説明書
所在地   東京市下谷区上野公園
所用坪数  四坪八合三勺
最高    地上八尺
設計概要  正面衝立中央ニグラント将軍ノ薄肉彫ノ青銅鋳像ヲ嵌込ミ、右左ニ和文・英文ノ碑文ヲ同ジク青銅薄肉彫トナシテ嵌込ム、右衝立ニ接スル直面ニハ植木ヲ植エ、両側袖塀内面ニ腰掛ヲ設ケ、中間ハ床面トス
構造    各塀ハ根伐三尺五寸堀下ゲ割栗石搗固メ鉄筋コンクリートノ地形ヲナシ、鉄筋コンクリートヲ以テ築造スルモノトス、床・階段・腰掛ハ盛土ノ上ニ割栗ヲ搗固メ、其上ニコンクリートヲ以テ築クモノトス
外部仕上  図面記入ノ如ク一部ニ白丁場石(小叩仕上)ヲ使用シ、其他ハ人造石小叩仕上及人造石研出仕上トス
  ○右ハ昭和五年六月、合資会社清水組設計部ノ調製ナリ。


渋沢栄一書翰 控 マキルロイ中佐宛 一九三〇年五月二七日(DK380048k-0014)
第38巻 p.473 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 マキルロイ中佐宛 一九三〇年五月二七日 (渋沢子爵家所蔵)
            (COPY)
                   May 27, 1940
Lieut.-Col. J. G. McIlroy,
  The Embassy of the United States
  of America,
  1 -chome, Uchiyamashita-cho,
  Kojimachi-ku, Tokyo
My dear Colonel McIlroy,
  It was very kind in you to accept my request through Mr. Neville to let your daughter help unveil the memorial tablet dedicated to the memory of General and Mrs. Ulysses S. Grant, on Friday, May 30, 1930, at 2 P.M., at Ueno Park. I hereby thank you very heartily for the happy arrangement and trust that everything will go off nicely on that day.
  With my best wishes, I remain,
               Yours very truly,
                   渋沢栄一(署名)
                     E.Shidsawa.


(ジエーン・スーザン・マキルロイ) 書翰 渋沢栄一宛 一九三〇年六月一一日(DK380048k-0015)
第38巻 p.473-474 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(カンタキューゼン公妃) 書翰 渋沢栄一宛 (一九三〇年九月一三日)(DK380048k-0016)
第38巻 p.474-475 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一書翰 控 カンタキューゼン公妃宛 昭和五年一〇月二八日(DK380048k-0017)
第38巻 p.475 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 カンタキューゼン公妃宛 昭和五年一〇月二八日
                   (渋沢子爵家所蔵)
               (別筆)
               昭和五年十月廿七日御一覧済み
   案 栄一
 米合衆国華府
  カンタキューゼン公妃殿下
    千九百三十年十月 日       東京 渋沢栄一
拝復、九月十三日付尊書拝見仕候、然者半世紀前御祖父母グラント将軍御夫妻日本御来遊の際、歓迎委員たりし故を以て先般益田男爵と共に、御植樹記念碑建設致候義御聞及の由にて、御鄭重なる御挨拶を賜はり恐縮至極に御座候
御幼少の時御祖父母様が、日本並に日本人に就て御話有之候ことを御記憶被遊候のみならず、御祖父母様日本御訪問の貴重なる記念品御秘蔵被遊候為、老生等の計画に付御感慨特に深き趣を拝承致、欣快の至に御座候、斯く御記憶中に日本の正しき姿の映じ候は、日本の為め感喜措く能はざる次第に御座候
猶右記念碑除幕式当日参列者諸氏に呈上致候小冊子、並絵葉書各二部供覧仕度、別封御送付申上候間、御受納被下候はゞ幸甚に御座候
右拝答迄得貴意度如此座候 敬具
○右英文書翰ハ同月二十八日付ニテ発送セラレタリ。


(カンタキューゼン公妃) 書翰 渋沢栄一宛 一九三〇年一一月二五日(DK380048k-0018)
第38巻 p.475-476 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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(原田助) 書翰 渋沢栄一宛 昭和五年七月五日(DK380048k-0019)
第38巻 p.476 ページ画像

(原田助) 書翰 渋沢栄一宛 昭和五年七月五日 (渋沢子爵家所蔵)
粛啓、愈御安泰奉恭賀候、偖半世紀ノ往時故グラント将軍並同令夫人本邦来遊ノ節、手植セラレタル樹木爾来生々繁茂今日ニ至り候記念ノ為メ、今般建碑ノ挙御計画被成下完成致候段慶賀之至ニ奉存候、誠ニ日米両邦親善ノ表徴トシテ永久保存之程希望之至ニ御座候、併セテ写真二葉御恵贈被下謹テ奉感謝候也 匆々敬具
  昭和五年七月五日            原田助
    渋沢子爵閣下


(出淵勝次) 書翰 渋沢栄一宛 昭和五年九月一九日(DK380048k-0020)
第38巻 p.476-477 ページ画像

(出淵勝次) 書翰 渋沢栄一宛 昭和五年九月一九日
                        (渋沢子爵家所蔵)
 - 第38巻 p.477 -ページ画像 
拝啓、秋冷之候愈々御健勝奉大賀候、却説先般ハ「グラント」将軍紀念碑建設之件ニ付御通報ニ預リ難有奉存候、此種ノ事ハ日米親善増進上誠ニ結構之義ト被存老台并ニ益田男段々之御配慮ニ対シ深ク感謝罷在候、自然同男ニ御面会之節ニハ宣敷御噂願上候、御恵贈之紀念葉書ハ早速故将軍嫡孫(目下華盛頓市公園部長奉職)ニ送付致置候、同氏モ往年東京市ヨリ華盛頓市ニ桜樹ヲ寄贈シタルコトヲ感謝スル意味合ニテ、近日中「ポトマック」公園ニ紀念碑ヲ建設スル筈ニ有之候、将又予而御焦慮之排日移民法修正之件ハ追々順当ニ運ヒ居候、成否ノ程ハ未タ因より見当相付不申候得共、次期議会ニハ何等カ法案提出之運ニ至ルべキカト存居候、今春一万哩ニ亘リ米国各地ヲ視察致候処、加州方面ニ於ケル邦人ノ発展振追々健実ニ向ヒツヽアルコト特ニ眼ニ付キ甚タ快心ニ存居候、何トカシテ彼等ニ今一段ノ力ヲ添ヘタキモノト日夕焦心罷在候「アレキサンダー」「リンチ」等不相変熱心ニ尽力致居候間御含置相願度候、乍延引御挨拶迄 草々敬具
    渋沢老台 坐下         出淵勝次
            (九月十九日)
  ○出淵勝次ハ当時ノ駐米大使。



〔参考〕中外商業新報 第一七七八二号 昭和一〇年七月二四日 けふグラント将軍五十年祭(DK380048k-0021)
第38巻 p.477 ページ画像

中外商業新報 第一七七八二号 昭和一〇年七月二四日
    けふグラント将軍五十年祭
米国十八代大統領グラント将軍の五十年祭が、廿三日午前九時半から上野公園の将軍記念碑前で行はれた。此日定刻海軍軍楽隊の両国国歌吹奏裡に式典の幕は挙げられ、牛塚市長先づ花束に埋もれた記念碑に向つて感慨深げに式辞を読み上げ、続いて日米協会長徳川家達公、日米関係委員会の阪谷芳郎男交々起つて追憶の辞を述べ、ネビル米代理大使の挨拶があつて同十時半、この床しくも意義深い日米交驩の式は閉ぢられた