デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
5款 其他 1. ザベリヨ記念碑建設
■綱文

第38巻 p.489-502(DK380050k) ページ画像

大正13年7月11日(1924年)

是日、フランス共和国人神父アー・ヴィリヨン、鮎川義介ト共ニ飛鳥山邸ニ栄一ヲ訪ヒ、山口県山口町大道寺ニ於ケル、ザベリヨ記念碑建設ニ対シテ援助ヲ乞フ。栄一乃チ三井・岩崎両家ニ申入レ、各金三千円ノ寄付ヲナサシム。大正十五年九月十七日ヴィリヨン再ビ飛鳥山邸ニ来訪シ、右記念碑維持ニ関シ重ネテ援助ヲ乞フ。栄一、古河虎之助・森村開作等ニ寄付ヲ勧誘シテ援助ス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK380050k-0001)
第38巻 p.489 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年      (渋沢子爵家所蔵)
七月十一日 金 午前十時 仏人ビリヨン氏来約(アスカ山)


(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年七月一一日(DK380050k-0002)
第38巻 p.489 ページ画像

(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年七月一一日
                   (渋沢子爵家所蔵)
          (別筆)
          大正十三年七月十一日鮎川義介氏来状
拝啓、陳者今朝は拝訪御繁忙之折柄御配慮之儀奉願上候処、早速御快諾を賜はり、御芳志感佩之至りに奉存候、其節御申聞之趣意書等五通丈不取敢拝呈致置候間、何卒宜敷御高慮に預り度、尚右書類不足之為め追送方申遣居候へは、接手次第更に拝呈可致候間、御含置被下度、御願旁此段得貴意候 敬具
  七月十一日               鮎川義介
    渋沢子爵閣下
          侍曹


渋沢栄一書翰 控 鮎川義介宛 (大正一三年)七月一一日(DK380050k-0003)
第38巻 p.489 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 鮎川義介宛 (大正一三年)七月一一日  (渋沢子爵家所蔵)
(写)
拝読今朝ハ遠方御過訪被下、久振りニて仏人と談話致し、懐旧之感を深くするを得申候、建碑ニ対する寄附金ニ付、三井・三菱之依頼ハ両三日中ニ承合、其模様早々申上候様可致候、老生も小額寄進之積に候間、其際ニ申上候様可仕候
書類五通御遣し被下落手仕候、他之勧誘ニ相用可申と存候、右拝答匆匆如此御座候 敬具
  七月十一日
                      渋沢栄一
    鮎川賢契
       拝復

 - 第38巻 p.490 -ページ画像 

ザベリヨ記念碑建設ノ件(DK380050k-0004)
第38巻 p.490 ページ画像

ザベリヨ記念碑建設ノ件       (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    ザベリヨ紀念碑建設趣意書
山口大道寺は、天文年間、天主教伝道の為めに、遠く西欧より我国に来航せし最初の布教者、フランセスコ・ザベリヨが大内氏に諮り、大内氏に依りて、其布教を裁許せられたる遺跡なり。其裁許状は、我国に於ける最古の裁許状にして、故近藤清石翁の大内氏実録中にも、ザベリヨ書翰記中にも将た日本西教史にも引用せられ、其史実は今や之を疑ふの余地なし。而してザベリヨの崇高なる精神と熱誠なる努力とは、単に之を一個の布教者とのみ目すべきにあらずして、実に社会教化の運動者たり、西洋文明の伝播者たりと云ふを妨げざるものあり。即ち我国に於ける西教史上に之を特筆大書すべきものたるのみならず西洋文明東漸史上より考ふるも、亦之を重要視せざるべからず。歳月流るゝが如く、爾来三百七十余年、地形は変じ、旧態は改まり、其史跡は空しく湮滅に帰して、猶不問に付せられ、今日まで何等記念計画の進捗せざりしは、甚だ遺憾に堪へざる所なり。依て同志相謀り、ザベリヨ遺跡保存会を発起し、左記の方法を以て記念碑を建立し、長へに之を伝へんと欲す。願くば、教派と信仰の如何を論ぜず、成るべく多数者の賛同を得て、其目的を達成せんことを。玆に其趣旨を宣明して江湖同感の諸君に告ぐ。
    記
 一本会をザベリヨ遺跡保存会と称すること
 一山口遺跡地にザベリヨ記念碑を建立すること
 一記念碑建設の実行方法に関しては総て本会代表者に一任ありたきこと
 一本会の代表者は山口県知事とすること
 一本会の事務所は山口県庁内に置くこと
 一工費及維持費総額は金五万円とすること
 一寄附金額は各自随意とすること
 一寄附金は大正十三年九月末日迄に本会事務所に送付ありたきこと
  大正十二年七月
                ザベリヨ遺跡保存会
                  代表者 橋本正治
  ○橋本ハ山口県知事ナリ。


(アー・ヴィリヨン) 書翰 渋沢栄一宛 一九二四年七月一二日(DK380050k-0005)
第38巻 p.490-491 ページ画像

(アー・ヴィリヨン) 書翰 渋沢栄一宛 一九二四年七月一二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
Vicomte Shibusawa
              Yokohama,12 Juillet,1924
Monsieur le Vicomte,
  Je ne veux pas quitter Tokio sans vous remercier,d'un cœur vraiment ému, pour l'accueil si bienveillant si cordial dont vous avez daigné m'honorer hier; croyez à la reconnaissance
 - 第38巻 p.491 -ページ画像 
 respectueuse d'un vieux serviteur de notre bien-aimé Japon.
  J'ose vous supplier d'être le meilleur avocat de notre supplique, et de nous obtenir un don princier des Nobles Magnats de la Capitale.
       Très humble et respectueux serviteur,
                  (Signé) A. Villion
                des Missions Étrangères de Paris
(右訳文)
             (栄一鉛筆)
             翻訳延引之為め七月廿一日一覧
謹啓
東京ヲ去ルニ当リ、昨日閣下ヨリ好意誠実ナル優遇ヲ賜リタル光栄ニ対シ、衷心感謝ノ意ヲ表シ奉リ候、何卒吾人ノ好愛スル日本国ノ為メニ尽サントスル此老僕ノ拝謝ノ誠意ヲ御諒承被下度候、此機会ニ於テ再ヒ閣下ニ向ツテ老僧等ノ懇願ヲ支持スル最高ノ弁護者トナリ、又帝都ノ貴紳ニ於テ多大ノ喜捨相成候様御勧誘被下度奉懇願候
                        頓首九拝
  大正十三年七月十二日横浜ニ於テ
                       巴里外国布教会
                         アー・ヴヰイヨン
       渋沢子爵閣下


渋沢栄一書翰 控 鮎川義介宛 大正一三年七月二三日(DK380050k-0006)
第38巻 p.491 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 鮎川義介宛 大正一三年七月二三日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ばビリオン氏より退京に際し御懇切の御挨拶に接し、翻訳の上一覧致候、同氏との会見は、真に偶然ながら小生にとりては思ひ出深き仏国の人なると、小生も同氏も共に老人なる為め非常に深き興味を感じ、愉快なる印象を得候次第に有之、御返事旁右申上度と存候も、態々申上候程の義にも可無之と存し候に付ては、甚だ申上兼候得共同氏へ御書通之序を以て、貴台よりよろしく御申通し置被下度候
過般御来談の建碑寄附金に付、岩崎・三井両家へ勧誘の義は多忙の為め其儘と相成居候も、四・五日中には何とか御引合致度と存し候、然し御承知の通り他よりも種々両家に対し要求有之候間、果して御希望の通り御引受相成候哉を疑ひ候も、兎も角貴台の御思入之模様等詳細申通し、小生も至極賛成に付御賛助有之度旨申談候積に御座候、右申上候通り始終心掛け居候も、何かと取紛れ遷延致候段何卒不悪御了承被下度候
右得貴意度如此御座候 敬具
  大正十三年七月廿三日
                      渋沢栄一
      鮎川義介殿


(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年七月二四日(DK380050k-0007)
第38巻 p.491-492 ページ画像

(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年七月二四日
                      (渋沢子爵家所蔵)
                 (別筆・朱書)
                 大正十三年七月廿四日鮎川義介氏来状
 - 第38巻 p.492 -ページ画像 
拝復、炎威酷烈之折柄愈御清栄奉恭賀候、陳者先般ビリヨン氏同伴拝訪御配慮願上置候件に付、御多用中毎度御懇切なる貴翰を賜はり難有奉存候、御来示之ビリヨン氏との御会見に関し、数多き御接客の中に於て布衣布教の一老外人に対し、特に御情調之濃かなる御感想を承り候儀只管感佩の外無之、実は同氏に於ても過日拝芝後、閣下之崇高なる御人格に敬服致居、帰萩後も毎々御会見当時の事ども、申越乍蔭感謝致居候折柄、右之御存意相伝申候はゞ一層満足致候儀と存候に付、早速詳細可申送所存に御坐候
同氏より御配慮奉願置候岩崎・三井両家へ御勧誘之儀に付ても、縷々御高示に預り奉深謝候、御繁用殊に炎暑之砌誠に御迷惑之次第とは奉存候へとも、何分宜敷御願申上候○中略先は拝願旁万々御願まで乱書如此御座候 敬具
  七月廿四日
                      鮎川義介
    渋沢子爵閣下
          侍曹


(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年九月一二日(DK380050k-0008)
第38巻 p.492 ページ画像

(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年九月一二日
                      (渋沢子爵家所蔵)
                 (別筆・朱書)
                 大正十三年九月十二日鮎川義介氏
拝啓、秋冷相催候処愈御清祥之段恭賀此事に奉存上候、陳者先般御配慮之儀奉願上置候「ザベリヨ」記念碑建設之件に関する三井・三菱御両家之御意向如何之模様に御座候哉、御多忙之折柄御催促ケ間敷儀申上候は何とも恐縮之次第には候へとも「ビリヨン」師始め発起人諸氏に於ても、非常に心配致居候趣に付、若し先方之御意向相分り候はゞ御漏し被下候様奉願度、右御伺旁乱書如此御座候 草々敬具
  九月十二日
                       鮎川義介
    渋沢子爵閣下
           侍曹


(アー・ヴィリヨン) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一三年)一〇月一二日(DK380050k-0009)
第38巻 p.492-493 ページ画像

(アー・ヴィリヨン) 書翰 渋沢栄一宛 (大正一三年)一〇月一二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
Victe Shibusawa
                      Kobe, 12..X.
                      Naka-Yamate dori,
                      Eglise Catholique
Mr le Vicomte,
  Au souvenir de la si bienveillante audience et généreuse promesse que votre Noble Cœur m'accorda en Juillet, sous l'égide de mon ami Aïkawa,j'ose vous adresser une nouvelle instance pour nous obtenir de l'Honorable Mr Mitsui une souscription princiere au Monument Historique de St François Xavier à Yamaguchi... Les travaux sont commencés déjà, et
 - 第38巻 p.493 -ページ画像 
 les fonds sont encore attendus, j'ose implorer votre entier dévouement, si connu pour le bien et l'Honneur du Japon.
  Daignez, sur la fin de ses jour, obtenir cette consolation à un vieilland qui a consacré toute sa vie à ce bien-aimé pays.
  Dans le plus profond respect et gratitude, j'implore le puissant plaidoyer du Noble Vicomte Shibusawa...,
    dont je suis le moindre serviteur.
                      (signé) A. Villion
(右訳文)
拝啓
友人アイカワ氏ノ援助ニ依リ、去ル七月中閣下ノ御懇篤ナル接見ヲ得シ事、並ニ侠気アル御約束ヲ追想シ、玆ニ閣下ニ懇願致度ハ山口ニ於ケル聖フランソワ・ザヴヒヱールノ歴史的記念碑ニ、多額ノ御寄附ヲ名家三井氏ヨリ相受度事ニ御座候
同工事ハ既ニ着手致居候モ、其資金ハ今尚不足致居候、善徳ト日本ノ名誉ニ対シ、周知ナル閣下ノ献身的御同情ニ深く訴ヘ申候
親愛セル貴国ノ為メ全く一身ヲ捧ケ居候一老人ノ為メ、近日中此慰安ヲ御恵被下度偏ニ願上候 謹具
  十月十二日
             神戸市山手通天主公教会ニテ
                    ヴイリヨン
    渋沢子爵殿


集会日時通知表 大正一三年(DK380050k-0010)
第38巻 p.493 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年          (渋沢子爵家所蔵)
十月廿四日 金 午前八時―八時半 鮎川義介氏来約(アスカ山邸)


(鮎川義介)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年一〇月二七日(DK380050k-0011)
第38巻 p.493 ページ画像

(鮎川義介)書翰 渋沢栄一宛 大正一三年一〇月二七日
                       (渋沢子爵家所蔵)
             (別筆・朱書)
             大正十三年十月廿七日鮎川義介氏来状
拝啓、陳者過日は御繁用之折柄推参、種々御配慮之儀奉願上千万恐縮之至りに奉存候、其節は記念碑建設資金之内へ多分之金員御寄附に預り、御厚志感佩之至りに奉存候、尚其砌一応御話申上置候三井・岩崎両家へ申込候関係、為念左に申上置候間何分とも宜敷御願申上候
 即ち海軍少将山本信次郎氏ビリヨン師同道の上
 三井家に対しては
   福井菊三郎氏
 岩崎家に対しては
   武田秀雄氏
に申入候処、孰れも一応諒承せられ、孰れ熟考之上と云ふことに相成居候筈に御坐候
先は右御礼旁如此御座候 敬具
  十月廿七日               鮎川義介
    渋沢子爵閣下

 - 第38巻 p.494 -ページ画像 

渋沢栄一書翰 控 福井菊三郎・武田秀雄宛 大正一三年一〇月二九日(DK380050k-0012)
第38巻 p.494 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 福井菊三郎・武田秀雄宛 大正一三年一〇月二九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
(写)
拝啓、益御清適奉賀候、然ハ過般神戸市中山手通天主公教会ビリヨン氏、山本信次郎氏同道御訪問申上、ザベリヨ記念碑建設ニ付(三井・岩崎)家ノ御援助御願申上候由ノ処、右ニ付鮎川義介氏ヨリ当方ヘモ来談有之、適当ノ御企劃ト存シ少分ナガラ寄附致置候次第ニ御座候、就テ小生ヨリモ重ネテ貴台ニ申上、右ビリヨン氏ヨリ御願出ノ件ニ付御配意相願候様、鮎川氏ヨリノ懇願モ有之、玆ニ一書得貴意候義ニ御座候、右得貴意度如此御座候 敬具
  (朱書)
  大正十三年
  十月二十九日
                      渋沢栄一
    福井菊三郎殿
    武田秀雄殿   各通


(福井菊三郎) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年一一月二四日(DK380050k-0013)
第38巻 p.494 ページ画像

(福井菊三郎) 書翰 渋沢栄一宛 大正一三年一一月二四日
                     (渋沢子爵家所蔵)
             (別筆・朱書)
             大正十三年十一月廿四日福井菊三郎氏来状
拝啓、時下愈々御清穆被為渉奉慶賀候、陳者予て御話拝承致し居候ザベリヨ氏記念碑建設費中へ御寄附金之件ハ、其後協議之結果金参千円也を三井家総代三井八郎右衛門名義を以て御寄附申上候事ニ本日決定既ニ申込手続中ニ御座候間、乍憚右様御了承賜り度、此段御通知旁得貴意候 敬具
  十一月廿四日
                        福井菊三郎
  子爵 渋沢栄一閣下


(アー・ヴイリヨン) 書翰 渋沢栄一宛 一九二四年一二月一日(DK380050k-0014)
第38巻 p.494-495 ページ画像

(アー・ヴィリヨン) 書翰 渋沢栄一宛 一九二四年一二月一日
                       (渋沢子爵家所蔵)
                Kobe, 1, Decembre,1924
VICARIAT APOSTOLIQUE
     du
   JAPON CENTRAL
Noble et digne Vicomte,
  C'est d'un cœur ému de reconnaissance que je viens vous remercier de votre si généreux dévouement. Vous avez eu la bonté de plaider la cause de Saint François Xavier et de nous obtenir cette belle souscription des Honorables Magnats Bn Iwasaki et Mitsubishi Profondément touche, je prie Dieu de bénir mille fois le Patriotique Vicomte en son "Petit Trianon." Et en prochaines lettres à mes amis aux U.S.A., je leur dirai cela, en leur répétant : = "Honte à vous, Yankees de San Francisco".
 - 第38巻 p.495 -ページ画像 
          dans le plus humble respect
                    (signé) A. Villion
                     des Missions Étrangères
Vicomte Shibusawa
(右訳文)
  神戸、一九二四年十二月一日
    高貴ナル子爵殿
閣下ノ侠気ト義気ニ対シ深厚ニ感謝仕候、殊ニ聖フランソワ・ザヴヒーノ為メ、岩崎・三井両家ノ巨額ナル寄贈ニ付、御尽力被下候御親切ニ対シ感謝仕候
小生者愛国心ニ富メル閣下ノ祝福ヲ熱心神ニ祈候、猶在米友人へ次回ノ通信中ニ右記述ノ積ニ有之、桑港ノヤンキーも定メテ慚愧可仕と存候 敬具
                       ヴイリヨン


子爵及外国人会見記録 【仏人ビリヨン氏との会見】(DK380050k-0015)
第38巻 p.495 ページ画像

子爵及外国人会見記録            (渋沢子爵家所蔵)
    仏人ビリヨン氏との会見
  九月十七日○大正十五年午前九時半、仏宣教師ビリオン民は二見直三氏同伴、飛鳥山邸に青淵先生を訪ふ、洋館応接室にて応対さる。
 ビ「一昨年御尽力を受けましたザベリヨ(サン・フランソア・ザビエル)の記念碑が漸く山口に立ちました。色々有難う御座いました」
子爵「貴方はいくつですか」
 ビ「八十五歳であります」
子爵「私は日本呼で八十七、西洋呼びだと八十六歳何ケ月でありますから私が一つ上です」
 ビ「ザベリヨは大友宗麟の客として日本に参り、後京都に上り、次で山口に住んで基督教の布教に従事し、遂に日本で客死したが、いよいよ此度山口の兵営の脇の大道寺と申すお寺に記念碑が建ちました。来月十六日に除幕式を開きます」
二見「除幕式には到底御出席は願へませぬでせう」
子爵「どうも病気を持つて居りますから」
二見「就ては此記念碑其他の維持費の必要もありますので、又古河さんの方へ寄附金の御口添が願へますならばと、御願ひに出ました様な訳で御座います」
 ビ「どうか御願ひ致します」
子爵「三井や岩崎の方はどうなりました」
二見「御口添によりまして三井・岩崎両家からは三千円宛御願ひ致しました。又藤田さんからは千円御寄附を願ひましたから、古河さんからも千円位御願ひ出来ましたならと存じます」
子爵「では話しませう。其返事は鮎川(義介)氏まで致したらよろしう御座いませう……青淵文庫の方に私が仏蘭西へ参つて居た時代のものもありますから見て行つて下さいませんか、私が御案内申せばよろしいが、足に水むしが出て痛いから此処で失礼致します」
ビ 二見「有難う御座いました、何分よろしく御願申上げます」

 - 第38巻 p.496 -ページ画像 

サべリヨ記念碑建設ノ件(DK380050k-0016)
第38巻 p.496 ページ画像

サベリヨ記念碑建設ノ件          (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
敬啓、愈々御清穆之段慶賀ノ至リニ存候、陳者予テ工事中ノザベリヨ記念碑竣成致候ニ就キ、来ル十月十六日午前十一時除幕式挙行候間、御参列ノ栄ヲ得度此段御案内申上候 敬具
 迫テ準備ノ都合モ有之候ニ就キ、御参列ノ有無十月五日迄ニ御通知被下度候
  大正十五年九月 日
         山口県山口町県庁内
            ザベリヨ遺跡保存会代表者
               山口県知事 大森吉五郎
  ○当日栄一出席セズ。


サベリヨ遺跡大道寺碑建設の経過 ザべリヨ遺跡保存会編 第七―八頁刊(DK380050k-0017)
第38巻 p.496-497 ページ画像

サベリヨ遺跡大道寺碑建設の経過 ザベリヨ遺跡保存会編
                        第七―八頁刊
○上略
記念碑建設ノ場所ハ山口町字金古曾町歩兵四十二聯隊東側通用門附近デ、愈大正十五年十月十六日午前十一時ヲ期シ、最モ荘厳ニ除幕式ハ挙行セラレタ。今其概況ヲ記サンニ当日ハ折悪シク雨天デアッタガ、参列者ハ
 西班牙公使代理参事官フエルナンド・アルチオ氏、同夫人、伊太利大使代理神戸総領事ジユリオテスト・ルデハラニヤ氏、葡萄牙公使代理領事シールパスザ氏、仏国大使代理三等書記官ドメルセ男爵、羅馬法王使節ジヤルデアニーニ氏、東京上智大学長ホフマン氏、東京小石川区天主堂大司教レイ氏、岡山天主堂大司教ドリング氏、奈艮天主教会神父ビリオン氏、下関公教会アウツシユ氏、朝鮮京城大学々長玉楽安氏、山口天主公教会レフエルト氏、大阪府知事中川望氏、元山口県知事林市蔵氏、戸畑鋳物株式会社社長鮎川義介氏、大阪商業会議所会頭稲畑勝太郎氏、京都帝国大学教授三浦周行氏、長崎高等商業学校教授武藤長蔵氏、山口在住ノ県庁其他各官公吏、各学校長、代議士、県会議員、新聞記者、町会議員、寄附者有志者、信者等約五百名ヲ算シタ。
定刻ニ至ルヤ、一発ノ煙火ヲ合図ニ、記念碑ニ向ツテ設ケラレタル天幕ノ式場ニ参列者一同着席シ、発起人タル山口町長河北勘七氏開会ノ挨拶ヲナシ、一同起立、海軍軍楽隊ノ嚠喨タル演奏ニ連レテ国歌ヲ合唱シ、山口県技師後藤土木課長ノ工事ノ経過報告アリ、引続キ軍楽隊ノ「神ノ礼拝」ノ吹奏裡ニ大森ヨシ子嬢(知事令嬢)記念碑ノ前ニ進ミ、恭シク綱ヲ曳クヤ、覆ハレタル白布ハ「ハタ」ト落チ、高サ二十九尺ノ碑柱ハ巍然トシテ表ハレ、一同拍手ヲナシ仰イテ礼拝シ、転タ敬虔ノ念ニ打タレタル時、大森知事ハ厳然トシテ壇上ニ進ミ、ザベリヨ遺跡保存会長トシテ、恭シク式辞ヲ朗読シ、更ニ菱川山口高商教授ガ英訳シ、次イデ総理大臣、内務大臣、文部大臣、司法大臣等ノ祝詞代読アリ、西班牙国使節、仏蘭西国使節、伊太利国使節、葡萄牙国使
 - 第38巻 p.497 -ページ画像 
節、羅馬法王使節、岡山天主堂大司教ノ順序デ、各自国語ニテ祝辞ヲ述ベ、ビリオン老師ハ其通訳ヲナシ、上智大学校長ハ日本語ヲ以テ、又京城大学長ハ朝鮮語ヲ以テ祝辞ヲ述ベ、続イテビリオン老師モ日本語ヲ以テ祝辞ヲ述ベタ、其祝詞ノ終リニ
 私ハ六十年以上コノ日本ノ地ニ住ミ、神ニ仕ヘテ居マスガ、コノ聖ザベリヨ記念碑建設ノコトヲ思ヒ立チ、時ノ知事林・中川両氏ヲ始メトシ、歴代ノ知事ヤ保存会ノ方々其他各方面ノ皆様方ノ御尽力ニ依リマシテ、私ガ死ナナイ前ニ此碑ヲ見ルコトガ出来マシテ最早ヤ思ヒ置クコトアリマセン
ト云フヤ感極ツテ声涙共ニ下リ、列席ノ人々皆感激シテ満場水ヲ打ツタ如クニナリ、拍手ノ裡ニ降壇シ○中略 午後一時三十分退散シタ。
○下略
  ○尚是日、次イデ山口公会堂ニ祝宴、午後三時ヨリ山口高等商業学校講堂ニ記念講演会、六時ヨリ祇園菜香亭ニ特別夜会開催サル。


(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一〇月二一日(DK380050k-0018)
第38巻 p.497 ページ画像

(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一〇月二一日
                      (渋沢子爵家所蔵)
謹啓
晩秋の候益々御清穆に被為渉奉慶賀候、陳者兼て御配慮に預り候ビリヨン師主唱ザベリヨ記念碑の除幕式も、別紙の通り去る十六日頗る盛大に、且国際的に無滞相済み申候間乍恐御安神被成下度候、此種の挙によりて将来国交上に不尠好影響を齎らすへしとハ、当日参列の外交家の異口同音に唱へ居候所に御座候、就てハ先達ビリヨン師親しく罷出て懇願申上け、且又本県知事よりも御願申試み候古河家の御寄附の件は、此際是非とも閣下の御尽力によりて御取纏めの程切に御願申上候、拙者目下当地ニ帰省中ニて二十五・六日頃には帰京の心組に御座候得者、帰京の上更めて電話ニても御伺ひ可仕と存居候へとも、兎ニ角外務大臣並ニ県知事閣下の御希望に従ひ、歓迎会・除幕式とも盛大に行ひ、為めに意外の費用を要し造園費ハ勿論、今後の維持費に不足相生し候始末に付、古河家を始め大倉・浅野等の大家にも御援助御願申上てハ如何との委員連中の意見も有之、旁々何れ拙者帰京の上閣下に御縋り致し、御悃願相試み可申様申残し置候次第ニて其辺何卒御含み被下度、何分にも当地に於てハ最早僅かの寄附金も募集の余地無之不得己閣下に御倚頼申上る次第、甚厚ケ間敷儀ニハ有之候得共、此国際的事業を永遠ニ保持する為め、特に御承引被下度偏に奉願上候、先は右御懇願申上度、何れ帰京の上万々御意得可申候 敬具
  十月二十一日
                        鮎川義介
    子爵 渋沢栄一閣下
             御執事
  ○別紙トハ除幕式ノ景況ヲ記セル地方新聞ノ切抜ナルガ如シ。略ス。


(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一〇月二九日(DK380050k-0019)
第38巻 p.497-498 ページ画像

(鮎川義介) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一〇月二九日
                        (渋沢子爵家所蔵)
 - 第38巻 p.498 -ページ画像 
拝啓、逐日冷気相加り候処益御清栄奉賀候、陳は過日「ザベリヨ」記念碑除幕式之際、山口より不取敢一書拝呈致置候処、御高覧被下候ことゝ奉存候、以御蔭其後古河男爵より五百円御寄附被下候ことゝ相成候趣にて、態々以電話御通報被成下候に付、本日古河合名会社へ罷越右金員正に受領致、直に山口県知事宛にて送付方取斗置候間御安意賜はり度、尚右除幕式後は同碑往訪之内外人非常に多く相成、自動車のみにても一日十台以上を算するの状態に有之候趣、然るに資金手薄の為め場内之植込其他の諸設備如何にも不完全にて、折角の国際的記念物に対しては画竜点睛を欠くの憾有之、同地委員間に於ても何とか今少し醵金の方法を講じ度と苦慮罷在候も、同地方にては最早此以上醵集の余地も無之趣に付、余り再々の儀にて恐入候へとも右事情万々御賢察之上、今一度御配慮相願、安田・大倉・森村・浅野等諸家へ御懇談之上応分之御寄附相成候様御尽力之程只管御願申上候、孰れ其内御少閑之機に於て拝芝親しく万々御願可申上心組に候へとも、玆に右一応之御礼旁御願まで如此御坐候 敬具
  十月廿九日                 鮎川義介
    渋沢子爵閣下
          侍曹
○下略


渋沢栄一書翰控 森村開作外二名宛 (大正一五年一一月五日)(DK380050k-0020)
第38巻 p.498 ページ画像

渋沢栄一書翰控 森村開作外二名宛 (大正一五年一一月五日)
                  (渋沢子爵家所蔵)
(写)
拝啓、益御清適奉賀候、然は山口県山口大道寺内ザベリヨ師遺蹟保存の義に付、予て賛助を依頼せられ聊か助力致候処、今般更に別紙写の通鮎川義介氏より懇請有之候に付ては、御迷惑察入候得共可成御賛助被下候様致度、趣意書相添御依頼まで如此御座候 敬具
                     渋沢栄一
    大倉組 門野重九郎殿
    安田家 結城豊太郎殿 各通
     男爵  森村開作殿
(欄外記事)
[大正十五年十一月五日使送済


(森村開作) 書翰 増田明六宛(大正一五年)一一月八日(DK380050k-0021)
第38巻 p.498-499 ページ画像

(森村開作) 書翰 増田明六宛(大正一五年)一一月八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
                           明六
拝啓、御清栄奉賀候、乍早速先日渋沢子爵より御紹介のザベリヨ師遺蹟保存費中へ金五百円寄附致度、右何処へ差出可然哉、毎時御手数乍ら御指示奉煩度、再昨電話相伺候処御不在、為に書中御依頼如此御座候 頓首
  十一月八日
                       森村開作
                          代
 - 第38巻 p.499 -ページ画像 
                      (別筆)
                       共立企業社長
    増田明六様               鮎川義介氏


(安田保善社社会課) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一一月九日(DK380050k-0022)
第38巻 p.499 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

(大森吉五郎) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一二月一七日(DK380050k-0023)
第38巻 p.499-500 ページ画像

(大森吉五郎) 書翰 渋沢栄一宛 大正一五年一二月一七日
                   (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、益々御清祥の段奉慶賀候
陳者ザベリヨ記念碑建設に関しては、多大の御援助を蒙り御陰を以つて本秋盛大なる除幕式を挙行し得たる段奉深謝候、就ては該建設に関する収支計算書別紙の通り及送付御高覧に供し度、残額は本会維持資金として経理可致、右会計の御報告旁深甚の謝意を表し度如斯御座候
                          敬具
  大正十五年十二月十七日     ザベリヨ遺跡保存会長
                         大森吉五郎
    (宛名手書)
    渋沢栄一殿
(別紙)
    ザベリヨ記念碑建設費収支計算書
                大正十五年十二月十五日現在
      収入之部
一金三万九千四百五十七円十四銭
       内訳
    一金三万八千五百七円十八銭   寄附金
    一金九百四十九円九十六銭    利子
      支出之部
一金三万八千六百六十六円六十三銭
       内訳
    一金二千三十四円四十五銭    基礎工事費
    一金七千八百七十四円五銭    敷地整理費
    一金一万八千八十二円七十銭   碑石費
    一金七百五十七円五銭      樹木植付費
    一金千二百六十一円九十一銭   監督員給料其他地料人夫賃
    一金三千五百四十一円五十四銭  土地買入費
    一金四十一円九十銭       東宮殿下御使御差遣費
 - 第38巻 p.500 -ページ画像 
    一金四百十円九十銭       印刷費
    一金百七十一円六十六銭     通信費・公課・車馬賃・道路修繕費
    一金三千六百六十円四十七銭   除幕式費
    一金八百三十円         設計監督技師謝儀並常任書記手当
 差引七百九十円五十一銭残
  ○本款所収「ヴィリヨン神父記念胸像建設会」ノ条参照。



〔参考〕ザべリヨ記念碑建設ノ件(DK380050k-0024)
第38巻 p.500-502 ページ画像

ザベリヨ記念碑建設ノ件           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    フランセスコ・ザベリヨ略歴
 フランセスコ・ザベリヨは一千五百六年(我が永正三年)四月七日西班牙ナヴアール城の領地ザベリヨ殿中に生る。父は西班牙の貴族にして枢密顧問官となり、母も亦貴族の出なり。夙に文学に志し、年十八にして中学の業を卒へ、仏国巴里大学に入り文芸と哲学とを修め、嶄然頭角を現はす。三年の後、文学博士の称号を受け、大学教授を拝命す。二十二歳の時、偶まゼスイツト結社の発起者ロヨラと交り、其感化を受け、大悟徹底、断然名利を擲ち、身を挺して神の福音を世界に伝へんと決心す。即ち、巴里を去つて伊太利に赴き、其研究と熱誠とを以て各地に伝道し、到る処名声嘖々たるものあり。
 当時、葡萄牙は国勢隆々として、広大なる領地を亜米利加乃至印度に有す。而して国王亦熱心なる信者なり。羅馬法王に請願しザベリヨを印度に派遣せしむ。ザベリヨ乃ち意を決し、千五百四十一年(天文十年)四月七日、其の三十五回誕生日を以てリスボン港を発し、海路艱難を極め、十有四箇月にして印度のゴアに達す。印度地方人殊に在留葡萄人の道徳廃頽、風俗紊乱の甚しきを視て痛嘆し、鋭意教化に努め、漸次其範囲を拡めて数箇国に亘り、前後十余年を印度及び馬来に送り、遂にマラツカに移る。
 マラツカ布教中、同地に日本人勘四郎(或は弥次郎)といへるものあり。故あつて鹿児島を脱走し、其の僕二人と来り住す。ザベリヨの教義を聴き、洗礼を受けて熱心なる信徒となる。或時、ザベリヨは勘四郎に問ふ「予、爾と共に日本に赴き布教せんと欲す、如何。」と。勘四郎曰く、「望なきにあらず、日本人は唯道理にてのみ之れを支配すべき民なり。」と。ザベリヨ即ち、意を決し、神父、教弟及勘四郎等と共に、支那船に乗り、マラツカを発し、千五百四十九年(天文十八年)八月十五日、鹿児島に入港す。
 其鹿児島に上陸するや、島津氏之れを優遇し、ザベリヨは熱心に布教す。然るに一部人士の反抗と排斥とは、遂に翌年十一月鹿児島を去るの止むなきに至り、鹿児島を発して平戸に寄航し滞在二週間、更に京都に向ふ、途に、山口に寄る。時に西暦千五百五十年、実に我が、天文十九年十月なり。謁を大内義隆に求め、其の館に就きて教義の大要を講す。滞在一個月余。其年の十二月十八日、山口を出てゝ京都に達す。然るに当時京都は戦乱の巷と化し、将軍は江州に走りて在らず
 - 第38巻 p.501 -ページ画像 
天皇に拝謁せんと欲して能はず、特許を得て以て伝道布教をなすの余地無く、失意落魄留京僅かに十五日、悄然として大阪に出で、海に航して再び平戸に還る。
 一千五百五十一年(天文二十年)二月、更に平戸を出でゝ山口に入り、大内義隆に謁し、楽器・錦襴・時計・眼鏡等舶来の珍宝奇器を献ず。義隆大いに喜び、答礼として大小二刀、黄金若干を与へんとす。ザべリヨ固辞して曰く「吾が望む所は布教の外他なし。」と。義隆之を聞きて其の心事を嘆賞す。其後、ザベリヨは、大内氏によりて大道寺(其所在地は地形の変更、市街の改廃により、今や明確ならざるもビリオン氏其他の研究に依れば、目下の山口歩兵第四十二聯隊兵営内に当るといふ)と称する無住の廃寺を附与せられ、且、布教の裁許状を受く。其文左の如し、
    周防国吉敷郡山口県大道寺事従西域来朝之僧為仏法紹隆創建彼寺家之由任請望之旨所令裁許之状如件
     天文廿一年八月廿八日     周防介御判
 これ実に我国に於ける最古の公然たる天主教布教の裁許状として、最も注目すべきものなり。
 山口に滞在すること一歳に満たずと雖も、其の熱心と努力とにより洗礼を受くるもの三千余人、当時日本人の未だ知らざる諸種の学問技芸を紹介して、西洋文明の大勢を知らしめ、殊に天文数学上の智識の幼稚なるを見、其の智識を利用して宗教に関する在来の誤解を自覚せしめしものゝ如く、日本に派遣すべき布教者の資格につき、印度総督に送りたる書翰中「天文算数の智識を要すること。」「才学博識を要すること。」とあるにても、其一班を窺知するを得べし。即ちザベリヨは一個の伝道師たり、社会教化の運動者たるに止まらず、又実に西洋文明の伝播者たりしと云ふを妨けざるなり。
 其後一度、印度に帰り、準備を整へ、捲土重来、日本に来つて新天地を開拓せんに若かずとなし、千五百五十一年(天文二十年)八月、山口を発し、豊後の府内に赴き、居ること二箇月。葡萄船の帰航する有り、乃ち便乗して印度に還る。
 翌々年再び印度を出発し、ゴアに到つて布教事務の改善に六箇月を費し、新嘉坡を経て支那に入らんとす。蓋し、日本を教化するには同文の支那を知らざるべからずと思ひしが為なり。船、将に、広東に入らんとして三州島に着するや、船中熱病を得て上陸し、療養大いに尽せしも病勢頓に革まり、千五百五十二年(天文二十一年)十一月二十七日、雄志を懐いて竟に永眠す。年四十七。盛儀を以て棺をゴアの天主会堂に納む。羅馬法王は、「福者」の諡を授け、後、更めて「聖者」の位を授けて聖式を行ふ。
 噫、身は西班牙の貴族の家に生れ、天涯万里異邦に布教し蓬頭弊衣艱難具さに嘗むること二十余年、遂に極東の孤島に逝く。其崇高なる献身犠牲の精神は、三百七十年後の今日之れを見るも猶、景仰欽慕に堪へざらしむるものあり。社会教化の運動者として、西欧文明の伝播者として、千古不朽の偉人たるを失はず。日本として殊に山口としては、此偉人が全力を傾注したる土地として、将た最古の布教裁許状の
 - 第38巻 p.502 -ページ画像 
附与されたる土地として、長へに其の事蹟を忘るべからざる也。