デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
5款 其他 2. ベルナルド・ベテルハイム記念碑建設
■綱文

第38巻 p.502-509(DK380051k) ページ画像

大正15年4月15日(1926年)

日本ニ渡来セル最初ノ基督教宣教師ハンガリー人ベルナルド・ベテルハイムノ記念碑ヲ琉球ニ建設センガタメ、ベテルハイム記念事業委員会会長アール・アール・ブル、是日栄一ニ対シ、同会ヲ代表シテ金百円ノ寄付ヲ乞フ。栄一之ニ応ジ、更ニ其記念碑ノ背後ニ記念樹ヲ贈ル。


■資料

(アール・アール・ブル) 書翰 渋沢栄一宛 一九二六年四月一五日(DK380051k-0001)
第38巻 p.502-506 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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(小畑久五郎) 書翰控 アール・アール・ブル宛 一九二六年四月二四日(DK380051k-0002)
第38巻 p.506 ページ画像

(小畑久五郎) 書翰控 アール・アール・ブル宛 一九二六年四月二四日
                        (渋沢子爵家所蔵)
               (COPY)
           Viscount Shibusawa's Office
        1 Eirakucho Nichome, Kojimachiku, Tokyo
                        April 24, 1926
Rev. Mr. E. R. Bull
  2 Kami Tatsuwocho, Kagoshima.
Dear Mr. Bull:
  Your esteemed letter of the 15th inst., addressed to Viscount Shibusawa duly reached this office. It was a curious coincidence that a friend of Mr.Juko Shiga was paying a visit to this office speaking about the Bettelheim Memorial project, When I was just reading your letter to the Viscount. The matter was at once taken up with the Viscount through his regular Secretary, and you will be pleased to know that the Viscount consented to contribute one hundred yen toward the enterprise. The amount was already handed to Mr.Shiga's friend, and no doubt it will reach you in a good time. The newspaper clippings enclosed in your letter will be translated and submitted to the Viscount later on. I read them with a keen interest and was deeply impressed with the self-sacrificing spirit and conduct of the pioneer missionary. You ought to be congratulated in the noble act in bringing to the public notice his otherwis comparatively unknown merits.
  Trusting your work is progressing satisfactorily, I beg to remian,
                    Yours very cordially,
                     (Signed) K. Obata


(アール・アール・ブル) 書翰 渋沢栄一宛 一九二六年六月六日(DK380051k-0003)
第38巻 p.506-508 ページ画像

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〔参考〕雑綴 (日米関係委員会)(一)(DK380051k-0004)
第38巻 p.508-509 ページ画像

雑綴 (日米関係委員会)(一)       (渋沢子爵家所蔵)
Bernard Jean Bettelheim《ベルナルド エァン ベッテルハイム》(琉球名 伯徳令)一八一一年六月、匈牙利ブレスブルヒ(現チェッコ・スロヴァキア)に生る
ブダペスト、ヴィーン等に医学を修め、一八三六年九月伊太利パデゥア大学より医学博士を授けらる、当時の医学上の論文四十七篇、いづれも斯道の珍と認めらる
メヘメット・アリ(埃及中興の英主)の一軍艦に軍医長となる
土耳其マグネシア陸軍聯隊の軍医長となる
一人を医するよりも万人を医するの大なるを悟るや、倫敦に来り基督教を修めリヴィングストン(有名なる阿弗利加布教家兼探険家)と同窓の友となり、共に道を海外万里に伝へんとする念燃ゆるが如く、一は阿弗利加に入り、一は琉球に到る
一八四五年九月七百噸の帆船に便乗して英国出帆、翌四六年一月香港着、香港より小帆船に搭じ五月一日琉球着、翌二日那覇上陸、即ち本年五月二日より正八十年前に初めて日本の土地に上陸す(日本弘化三年四月六日)
ベッテルハイム博士はベッテルの支那音伯徳令に依り、伯徳令の名を以て今の沖縄県那覇市波ノ上護国寺に事実上禁錮せられたのである、琉球政府及び在番の薩摩官吏には百方博士を『苦迫』した、即ち其の寓居の傍に番小屋を建て筑佐事(琉球の邏卒)をして博士の行動を日となく夜となく監視せしめ、博士が施薬すれば病者をして之を棄てしめ、復た博士の治療に就くことを禁じ、会々博士が外出すれば店を閉ぢしめて人民と言談せしめず、米・菜・甘薯などの食料を求めんとするも売らしめず、又琉球の大毒蛇たるハブが、博士の寓居に棲息せる
 - 第38巻 p.509 -ページ画像 
をば退治せんと琉人を傭はんとすれば、官吏は其傭に応ずることを固く禁ずるなどした。一方又人民もベッテルハイムを垢罵迫害し、背後より瓦石を投ずるなどする者もありて、博士の大道に打倒れたることも再三ならざりき
以上の如く『苦迫』せらるゝこと九年、其間ベッテルハイムは其の寓居となせる護国寺の僧房を以て薬局となし、絶えず貧民に施薬し、又途に病人に会へば之を診し、薬を施し、其家を訪ひ、又チフスの流行して猖獗を極むるや、其療法を琉球三司官に建言し、又眼病者を治療し、又種痘法を伝へたり、又以上の『苦迫』の間、基督聖典の琉球訳を果たせり、其の文学上の価値は琉球文学者が『琉球語にて嘗て印刷せられたるものゝ中、至純至美……言語の美なるに驚けり』と記せしを以て測り知らるべし。此琉球訳聖典は今や世界稀書の一となり、本邦に現存するもの四部
米国水師提督ペルリ艦隊の琉球に来るや、ベッテルハイムは其間に斡旋し琉米条約成る、ペルリより銀製の大盃を贈らる
琉球訳聖典の浄書成るや、之を印刷に附せんとし、米国艦隊に便乗して琉球を去る、時に安政元年
米国に在留中、会々南北戦乱起るや、イリノイス州義勇軍の軍医となり、ヴィックスバーグの大劇戦にも参加せり
米国南北戦乱の後、米国にて琉球及日本の紹介に努め、一八七〇年二月九日(明治三年)モンタナ州ブルックスフィールドにて死去す、行年六十九
以上の如くベッテルハイム博士は、匈牙利、チェッコ・スロヴァキア、墺地利、独逸、伊太利、埃及、土耳其、英吉利、米国、琉球(日本)の十ケ国にそれぞれの因縁あるを以て、博士を徳とする九ケ国よりの石を以て土台となし、米国より寄贈の記念碑を其上に建て、来る五月二日ベッテルハイム琉球上陸正八十年を期し、其の九年間寓居となせし沖縄県那覇市に於て記念式を挙行する旨、首唱者米人ブール氏より申し来り、右碑石は既に大阪商船会社ロンドン丸積込み、シアトルを出帆せし予報ありたり、最も功徳を受けたる琉球即ち日本が、此際風馬牛視して居つては関係九国に対し、又世界に対し、如何にも文化の低劣なることを自白するようで妙ならずと思ふ
 ○右ハ前掲案文ニ記セシ如ク標題ノ綴込中ニアル略伝ナリ、筆者出典未詳。