デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
5款 其他 3. ストージ博士古稀祝賀会
■綱文

第38巻 p.509-526(DK380052k) ページ画像

大正15年9月20日(1926年)

是日、アメリカ合衆国太平洋沿岸長老教会総理アーネスト・エー・ストージ博士古稀祝賀会、帝国ホテルニ催サル。栄一其司会者トナリ、祝辞ヲ朗読ス。続イテ歓迎晩餐会同所ニ開カレ、栄一同ジク出席ス。是ヨリ先、同月十七日ストージ夫妻飛
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鳥山邸ニ来訪ス。


■資料

竜門雑誌 第四五七号・第七七頁 大正一五年一〇月 青淵先生動静大要(DK380052k-0001)
第38巻 p.510 ページ画像

竜門雑誌 第四五七号・第七七頁 大正一五年一〇月
    青淵先生動静大要
      九月中
 二十日 ストージ博士古稀寿賀会及同博士歓迎晩餐会(帝国ホテル)


集会日時通知表 大正一五年(DK380052k-0002)
第38巻 p.510 ページ画像

集会日時通知表 大正一五年         (渋沢子爵家所蔵)
九月十七日 金 午後三時   ストーヂ博士来約小畑・白石二氏同伴
              (飛鳥山邸)
  ○中略。
九月二十日 月 午後四時   ストージ博士歓迎会
        午後六半時  同博士軟迎晩餐会(帝国ホテル)


(増田明六) 日誌 大正一五年(DK380052k-0003)
第38巻 p.510-511 ページ画像

(増田明六) 日誌 大正一五年       (増田正純氏所蔵)
八月十五日 日 晴               湯ケ原
○上略
午後三時、渡辺金三・宮崎小八郎両氏来訪、要件如左
加州パサデナに居住の米人スートジ博士は、在加州在留邦人ハ誰でも殆と知らぬものハ無き日本人の為ニ尽さるゝ医者で、宣教師である、在留者、主として青年の勉学の便、病気の手当、学資金の補助、日常の訓戒、困窮者の救助等を、二十余年間一日の如く図つて呉れ、併かも、其功の外ニ洩れるのを厭つて居る誠ニ多数宣教師の親日家中で、他ニ比類の無い陰徳之人であると、宮崎君ハ推賞して居る、今般同地居留日本人ハ醵金して、多年の博士の厚意に酬ゆる為め日本漫遊を勧め、博士も之を甘受して、来九月十八日来着せらるゝ事ニなつた、然るニ居留者の醵金ハ博士夫妻の往復汽船賃丈けであつて、日本・朝鮮支那旅行の費用は日本の特志家ニ頼りて補助して貰ひたいとの申越であるが、如何にして之を得たものであらうかと云ふのと、も一つは歓迎の方法を如何ニ仕様かと云ふ問題ニ付て、一応門下生が集まつて協議して見たけれと、到底成案が立たないので、無余義両人帯同来訪し之が教示を請ふ次第であるとの事である
依て渡辺・宮崎両氏から種々聴取した上、大体左の案を立つて門下生各位と熟議、決定せられたしと交付した
一博士夫妻、之が案内者の費用とを合ハセ滞在旅行の日数を六十日として、金四千円(一日七十円の割)として、之を門下生より壱千円外務省より弐千円、日米関係委員会其他より壱千円を得る事
一博士ハ本年七十才なるを以て、日本の所謂古稀祝賀会を催す事、此会は日本官民一同の催として、其費用ハ発起人ニて分担する事
一右の会ニ於てハ講演会を催うし、聴講者を自由とする事
一次ニ歓迎晩餐会を催す事、会費ハ五円の事、可成多数者の列席を求むる事
一祝賀会ニ於てハ博士の頌徳文ニ記念品を添へ贈呈する事
一祝賀会並晩餐会の発起人ハ朝野の有力者ニ加入を請ふ事、其内より
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発起人総代を定め、書面等ハ此総代の連名とする事
一博士本邦滞在中及旅行中の一切の世話を為す為め、門下生より実行委員若干名を定むる事
一祝賀会・講演会・晩餐会の実行委員ハ別ニ定むる事
一東京滞在場処は帝国ホテルとし、特別室料等の割引を請ふ事
其他発起人氏名、発起人総代たるを請うべき人々の氏名、場処、事務運行時日等ニ就き詳細の案を作成したり
八月十六日 月 晴                 湯ケ島
宮崎小八郎氏前夜の案を携へ、午前八時半発自動車ニて帰途ニ就く
○下略
  ○中略。
九月一日 水 曇雨ナシ                出勤
○上略
ストージ博士歓迎方法ニ付き、宮崎小八郎・河崎己之太郎外三氏来訪ニ付、小生の私案を陳ふ、一同賛成、早々事務ニ取掛る事を打合ハせたり
○下略
  ○中略。
九月十七日 金 曇                  出勤
○上略
午後四時、米国ストウジ博士招待の件ニ付キ、丸の内事務所ニて打合ハセ会を催す


中外商業新報 第一四五七一号 大正一五年九月一七日 日本の恩人ス博士きのふ来朝 アンクル・サムそつくりの好々爺 今度は古稀の祝ひに招かれて(DK380052k-0004)
第38巻 p.511-512 ページ画像

中外商業新報 第一四五七一号 大正一五年九月一七日
  日本の恩人ス博士きのふ来朝
    アンクル・サムそつくりの好々爺
      今度は古稀の祝ひに招かれて
排日の策源地と見なされて居る加州にあつて、邦人排斥の声が起る度に、日米両国民の間に立つてこの解決の衝に
 半生を捧げて居た日本の恩人イー・ヱー・ストウジ博士は、十六日午後二時横浜入港の大洋丸で、老夫人を伴ひ第三回目の日本訪問に来朝した、博士は人も知る人類同愛主義者で、医学と哲学の両博士で今年七十歳、古稀の誕生を祝し、かつ多年の恩情に酬ゆるため、既報の如く若槻首相をはじめ、渋沢子・大谷・大倉・阪谷両男等数十名の招きに応じて来朝したものである、博士は白髪白髯、絵で見るアンクル・サムそつくりの好々爺でニコニコしながら
 「日本に来るのはこれで三回目です、今回は又教へ子達に招かれてこの懐しい日本を見ることが出来るのは感謝にたへません、アメリカの排日は全く声をひそめ漸く日本人を解する様になりましたが、桑港は労働のやかましい所だけに日本人の永住すべき所ではない、日本人は勤勉であり、貯蓄心が強く、利口だ、と云ふこの
 三点が米人の日本人をおそれる所以で、之が誤解されて排日の声を生んだのです、私の日本滞在は約一ケ月でこの間世界の平和のために講演をするつもりです」とかたり、多数関係者の出迎を受け直
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ぐ上京した


竜門雑誌 第四五八号・第八八―九四頁 大正一五年一一月 ストージ博士と会談(DK380052k-0005)
第38巻 p.512-515 ページ画像

竜門雑誌 第四五八号・第八八―九四頁 大正一五年一一月
    ストージ博士と会談
  九月十七日(金曜日)雨頻りなる午後、此程より来遊中のイー・ヱー・ストージ博士は令夫人、並に宮崎小八郎氏と共に、飛鳥山邸に来訪せられた。
ストージ博士 数年前日本に参りました折、御面会したいと思ひましたが、御旅行中であつた為め拝顔の光栄を得ず残念に存じました、本日機を得て、親しく温顔に接することが出来ましたことを喜びます。
子爵 博士の在留本邦人に対する厚い御配慮に付ては、毎々拝承しまして感謝致して居りましたが、親しく御礼を申上げる機会がなく今日に到りましたところ、今度の御来遊のことを承り沁々御礼を申上げることが出来やうと喜んで居りました訳で、玆に親しく衷心より御礼を申上げます。私の米国に対する感想は古い歴史があります。突然斯様のことを申上げる事も、如何かとは思ひますけれども、博士の如き日本を知り日本人に深い同情を有せらるゝ方に対しては思ふことを全部申上げるべきであると思ひますから、少しく申上げて見たいと存じます。
ストージ博士 子爵が日米親善に付て不断の御尽力をなさるゝのは、よく承知して居る所で御座います。其因て来る所を親しく承ることが出来るのは何よりで御座います。喜んで承りたいと存じます。
子爵 私は米国式に勘定致しますと八十六歳と半で御座いますが、老人ながら未だ古いこと忘れませぬから記憶を辿つて申上げて見ませう。私の生れたのは東京から二拾里位離れた村の農家でありました 教育は主として支那教育で、二十歳位までは漢籍で育ちました。当時は外国は恐ろしい、日本を奪るものである、日本をあやまるものであると云ふ風な思想が一般に行はれて居りまして、私も其感化を受け、外国排斥の感念を有つて居りました。斯の様な考の起つたのは外国一般には通りませぬけれども、三・四百年前這入つて参りました「ジエスイツト」教が稍侵略的で、日本をあやまるとも見られる所があつた為め、徳川幕府の祖家康は鎖港を断行したのでありますが、其推移が漢学者をして排外的ならしめたのであります。かゝる思潮の行はるゝ際、彼のペリーが日本の開港を迫りました。ペリーが国書を持ち開港の談判に参りましたのが嘉永六年で、私の十四歳の時でありました。何分にも私は少年のことであり、社会のことは知らなかつたのでありますが、然し十年も前に鴉片の紛紜から支那が英国の為め香港を奪はれ、屈辱の媾和をしたことが日本にも伝はつて居り、彼の有様ではならぬ、異国恐るべし、外夷近付くべからずとの思想が漢学者流の間に強く、私も少年ながら異国の所作がよろしくないと感じて居りました。加之前にも申たように早くから排外的の空気に染まり、且漢籍に親んで益此傾向を助長して居つた為めに、此米国の関係に付ても幕府は外国から圧迫されたのであつ
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て、押付けられる幕府もよろしくないが、押付ける外国も間違つたことをすると思ひました。かくして倒幕攘夷を説へる様になりました。此が私の二十四歳の時でありまして、此頃の言業で申すと危険人物になつたのであります。
ストージ博士 至極自然で御尤千万で御座います。
子爵 二十五歳で家を出、京都に参り、暫く浪人してから、一橋家に仕へて士となりました。玆に初めて社会の事情が分り、米国との関係に付ても他国との関係に比較して考へねばならぬ、又日本の進歩を計るには科学的でなければならぬと考へる様になりました。そこで外国であるからといふても、一概に排斥してはならぬと思ひ出しました。斯様な思想の変化の生じた折柄、偶然徳川民部公子に随つて仏蘭西に行くことになり、欧羅巴に滞在する間に外国の事情も分り、従て外国中に於ける米国が如何なる態度を採つたかが明になり米国が如何に親切に国交を結んだかを知ることが出来ました。
 米国との関係を回顧する時、忘るゝことが出来ないのはタウンセンド・ハリスであります。私はハリスとは会つたことはありませぬけれども、真に深い感想を有つて居ります。前にも申しました通り米国排斥すべしとの考を有つて居たところ、如何に米国が親切であるかを知り、自分の考が如何にも間違つて居たと云ふことを知りました。学問的のことは知らず一概に恐るべきものに思ふたことは誠に間違であつた、相済まぬことであつたと慚愧に堪へぬと思ひ、此点からも深い感触を有つて居ります。
 ハリスの奥幽しい行動に付ては、今も心から感謝して居ります。当時の日本を顧みますと、取締はつかず、攘夷派の人々が盛に暴行を働くと云ふ有様で、米国公使館を置いた麻布の善福寺や、品川の公使館予定地の焼打をしたりしたから、幕府でも大分心配をして外国人に夜分出歩かぬ様にと厳しく注意しました。然るに米国公使館の訳官ヒユースケンと云ふ人が、此注意に拘らず或晩出掛けて赤羽橋の附近で暗殺されました。此ヒユースケンと云ふ人は和蘭人でありますが、日本語のよく出来る人でありました。勿論英語に堪能なことは云ふ迄もありません。
 そこで各国の使臣は大に憤激し、斯の如き有様では江戸に止る訳に行かぬと云ふて、英・独・仏等の公使は横浜へ引揚げることになりました。その時ハリスは之に反対し、断然として引揚げを拒絶しました。ハリスの云ふ所は「日本の取締のつかぬことは甚だよろしくない。然し凡そ新しい国を開き又は新しい施設をなさんとするに当り、国民の内に多少の物議のあることは当然である。反対する人もあるのは免れ得ないことである。其反対派の人から殺害されたと云ふ一事を以て、日本の政府を無視し、公使館を引揚げ、日本を侮辱することは出来ない」之に対し他の公使は「左様なことを云ふても今夜にでも殺されたら如何するか」と云ふと、ハリスは「其場合には出来る限り防衛する。万一防ぐ能はざるに到れば一死あるのみ」と答へて敢然として江戸に止りました。幕府の老中は之を伝へ聞いて、涙を以て感謝したと云ふことであります。
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 先是ハリス氏が条約にある関税の税目(タリフ)に付て、日本の方で分らぬことを非常に懇切に教へて呉れたことがあるさうで、之を取扱ふた人から感謝を以て話されたことがあります。
 斯の如くハリスの行動は我々の武士道と申すべきものであります。ハリスがかく親切にして呉れたと同時に、米国は下ノ関事件の償金返還も、他の外国に先つて実行し、又治外法権の撒廃に付ても第一に同意しました。抑もペリーの渡来の時から米国は日本に対する親切を以て一貫したのであります。此等のことを考へましても両国の親善は益増進せしめ、益進展せしめなければならぬと考へ、之が為に努力することは私の天職であると思ふて居ります。
ストージ博士 誠によく了解致しました。日米間の友情と申しますが米国の日本に対する感情は今日が最よいと思ひます。新聞の論調に見ましても、日米戦争などを云ふものはありませぬ。尤もハースト一派には之を云ふものがありますけれども、これとても余り強くは云ひませぬ。殊にハースト系の新聞は、米国でも問題にせぬ状態でありますから、戦争などは夢にもないと申してよいと思ひます。又実際に付ても、排日の根は絶えたと申して差支ないのであります。かく見て参りますと、米国の感情が良好であると申すことが出来ると存じます。尤も排日移民法案の正当でないことは申す迄もなく、米国の心ある人々は此の如き法案を認容しませぬ。私の見る所では「クオタ・ベーシス」を採用することが適当であると思ひます。排日法には心ある人々は反対でありますから、将来必ず改善せられることを信じて居ります。然し一体国と国との交は個人間の交際より以上に考へなければならぬものであります。故に国と国との交の為め、或一部の人が犠牲になることがあるかも知れませぬ。国と国との交の為めに多少のことはあるかも知れませぬが、然し今日の排日移民法は早晩改正せなければならぬと思ひます。要之日米両国関係の将来に付ては楽観するものであります。
 次に日本人排斥と申しますけれども、日本人が劣等民族だから排斥すると云ふのでなく、寧ろ優良民族であるが為めにするのであります。今日現に墨西哥人が年々十万人位入国します。此数字は日本人が制限を受けずに入国した時の数年間の数を合した程のものであります。然るに敢て排斥せぬのは墨西哥人が劣等であり、問題とならぬからであります。墨西哥人は金を貯へて土地を買ふ才覚がないからであります。
 日本人が墨西哥に土地を得たとか、日本が加州に軍艦を送るとか云ふては昂奮して、警戒するのは日本が優等であるからであります。寧ろ日本は誇るべきであると、衷心から申上げたいのであります。然し米国が陸軍を増したり、軍艦を太平洋に廻したりすると云ふことは無用のことであります。此の如きは日本を知らぬ為に生ずるのでありまして、日本を理解すれば日米の親善は益増進するのであります。
子爵 御話に関聯して想起しますは、シヤーレンベルグの観察であります。同氏の意見は「日本を嫌ふとか、悪むとか云ふだけではない
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或点では愛するし又敬服もして居るが、日本人が入国することは困る。其理由は日本人は同化しない。どうも利己主義である。従て日本人が入り込むと結局米国を分裂せしむるからよろしくない」概略こう云ふのであつたと思ひます。尤も直接聞いた訳ではなく、フイランに申送つたものゝ写によつて承知したのであります。其後渡米の際シヤーレンベルグに面会し、此事を云ふた所依然として同様の主張をして居りました。
 思ふに日本が国際的になつて日尚浅く、世間慣れぬ性質があるからであらう。此頃物故されたハーヴアアドのエリオツト博士は、更に手厳しく攻撃されました。其要点は「日本が米国と同等の待遇を要求するならば婦人の教育を高めなければならぬ。婦人を男子の従属物と考へるのを改めて、米国と同様男子と平等の地位にあるものとせばならぬ」と云ふのでありまして、実に一言もなかつたのです。
ストージ博士 日本人が排日移民法に対し克く忍耐したことを見て、米国でも如何かせねばならぬと思ふて居ります。繰返して申しますが「クオタ・ベーシス」が採用せられねばなりませぬ。然し米国に現に在留して居る日本人の状態は、気の毒な有様ではありませぬ。皆自分等の本国は人口稠密で随分困つて居るが、自分等は困る様なことはないと云ふて居ります。殊に彼等の第二世が段々出来まして高等の教育を受け、米国人とも自由に接触することが出来るやうになりました。故に将来に付ては、何等悲観する必要がないのであります。
 一体米国人は結局「正しい事」をしやうと云ふ精神を有つて居ります。然るに排日移民法は一時の昂奮によつて、前後の思慮なく通過したもので、一般の人々は之を正しくないと認めて居りますから、早晩改正されることゝ信じて疑ひませぬ。
子爵 御親切な御思召を感謝致します。私も真に其通りに思ふて居りますので、若い人々を戒めて居ります。私共も「クオタ・ベーシス」の採用せらるゝことを希望して居ります。又米国に対しては怨んでは居りませぬ。
 只議論の為めに議論をし、又は政府を攻撃する向には米国を悪様に云ふ人もあるかも知れませぬが、此種類のことは米国にも恐らくあることと思ひます。然し私共は御説の通りと信じて居ります。
ストージ博士 子爵の御態度は誠に正当であり、敬服に堪へませぬ。それにつけても特に御家庭に参上致し、長時間緩々御高見を拝聴することを得ましたのを厚く御礼申上げます。
                     (大正十五年九月二十一日白石記)


中外商業新報 第一四五七二号 大正一五年九月一八日 元気な両翁時を忘れて歓談 移民法の撤廃も両三年中と きのふス博士の渋沢子訪問(DK380052k-0006)
第38巻 p.515-516 ページ画像

中外商業新報 第一四五七二号 大正一五年九月一八日
  元気な両翁時を忘れて歓談
    移民法の撤廃も両三年中と
      きのふス博士の渋沢子訪問
十六日来朝したイー・ヱー・ストウジ博士夫妻は、旅の疲れも見せず十七日午後二時市役所を訪問、その足で三時に
 - 第38巻 p.516 -ページ画像 
 飛鳥山 の渋沢子邸を訪ねた、渋沢子はこの遠路の客をねぎらうため玄関まで出迎へた、訪ねた人も訪ねられた人もまだまだ余裕しやくしやくたるもので、庭の芝生に降り注ぐ折からの豪雨も却て気を落ちつけ、それからそれへと国交問題から移民問題などへと話がはづむ、日本びいきの博士が彼の童顔を赤くして
 「移民法は米国として実にお恥しい次第で、我々は是非とも一・二年の間には撤廃する様に極力努める積りです」
と自分が罪でも犯したやうに言ひ訳する
 子爵は 子爵で
 「私は壮年時代を殆ど攘夷の雰囲気の中に過したものであつたが、一旦世界の大勢を悟るとそれからは幾十年、及ばずながら出来るだけの力を尽して来たのであつた、殊に米国は我国と特殊の密接な関係があるのだから、他人行儀でなく経済方面からも外交方面からもお互に打ちとけて提携して行きたい」
と和気靄々たる国民外交だ、ひとわたり話が済むと青淵文庫の陳列を見て、予定の時間も忘れ四時半すぎに
 再会を 約して別かれた、なほ廿日午後二時には子爵に関係の深い麹町区二松学舎で、博士歓迎会を催すことになつてゐる
    市長から寿老人像ス博士へ贈呈
十六日来朝した米国のストウジ博士は、十七日午後二時日本キリスト教聯盟の宮崎氏に案内されて、市庁に伊沢市長を訪問し挨拶を述べた市長はこの米国における邦人の父とも言はるゝ博士に対し
 「在米邦人がいろいろお世話なつてまことに有難う、今度はまたよくいらつしやいました」
と心からなる歓迎の挨拶をした、そして博士が古稀の祝ひにあたられるのを記念するために、寿老人(高村光雲氏作)像を贈呈した、なほ市長は十九日午後六時から帝国ホテルで、渋沢子、藤田商業会議所会頭と共同主催の下に博士の歓迎晩餐会を開くことになつた


(増田明六) 日誌 大正一五年(DK380052k-0007)
第38巻 p.516-517 ページ画像

(増田明六) 日誌 大正一五年        (増田正純氏所蔵)
九月二十日 月 曇                  出勤
○上略
午後四時、米国加州長老教会総理、イ・エ・ストウジ博士古稀祝賀会(帝国ホテル)ニ列席す、渋沢子爵ハ同祝賀会々員総代として祝辞を朗読し、記念品を博士ニ贈呈す
博士ハ過去四十年在加州本邦人特ニ青少年の相談ニ応し、其指導者と為り己を空ふして邦人の為ニ尽す、夫が為ニ前後三度自己の住宅を邦人救済の資ニ提供す、博士の援助に依りて米国の大学、専問学校《(門)》、中学校等を終り、我国ニ帰りて朝野に職を得るもの千以上ニ及ふ、故ニ在留邦人ハ博士を父の如く敬ひ、今回資を醵出して第三回の本国旅行を為さしむるニ際し、本邦旅行中の費用ハ在本邦の門下生ニ頼りて、資を供せん事を望み(米日間の往復の海路は全費を自分等ニ於テ醵出し)たるを以て、門下生の人々より特ニ子爵に請ふ処あり、子爵ハ小生をして立案せしめ遂ニ此祝賀会を催うすニ至りし次第なり
 - 第38巻 p.517 -ページ画像 
引続き同五時より博士講演会に移り、同六時半より同歓迎晩餐会ニ移り、博士夫妻大満足の意を表したり
以上各会の順序ハ凡如左
第一祝賀会  司会者 渋沢子爵
  祝辞    渋沢子爵   小畑翻訳文朗読
  謝辞    ストウジ博士 宮崎小八郎通訳
第二講演会  司会者 井深梶之助
  紹介の辞  井深梶之助
  講演    博士     宮崎小八郎通訳
第三晩餐会  司会者 阪谷男爵
  歓迎の挨拶 阪谷男爵   小畑通訳
  同     伊沢東京市長 〃
  答辞    ストウジ博士 宮崎通訳
  万歳三唱   若槻総理大臣
  陛下及来会者の為ニ万歳 ストウジ博士


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0008)
第38巻 p.517-518 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然バ来ル九月十六日来着ノ太平洋沿岸日本人長老教会総理イー・エー・ストージ博士ハ稀ニ見ル徳望家ニシテ過去四十余年間一日ノ如ク日米親善ノ為ニ尽力致シ、太平洋沿岸在留邦人ノ青年ニシテ博士ノ指導誘掖ニ拠リテ、米国ノ大学・神学・専門程度ノ学業ヲ卒リ、今日我カ朝野ノ職ニ在ル者一千名以上ニ及ブ由ニ有之候、今般在留同胞ハ博士ノ本年七十寿ニ躋レルヲ機会ニ、其恩誼ニ酬ユル為メ醵金ヲ為シ、博士夫妻ヲシテ本邦ヲ観光セシムルコトヽ相成候ニ付テハ、来邦ノ上ハ可然款待ヲ与ヘラレタシトノ申越有之候依テ同志相謀リ来ル九月二十日帝国ホテルニ於テ、左記要項ノ如ク歓迎会相催シ、感謝ノ意ヲ表シ度候間、何卒御賛同ノ上御来会被成下度候、就テハ誠ニ勝手ノ義ニ候得共、右御来否玆ニ封入ノ端書○略スヲ以テ折返シ御回示被成下度候 敬具
  第一、古稀祝賀会  凡午後四時開始
      記念品贈呈
  第二、博士講演会  凡午後五時開始
  第三、歓迎晩餐会  凡午後六時半開始
   晩餐会費金五円当日御持参ノ事
  大正十五年九月 日
            ストージ博士歓迎会発起人総代
                   伊沢多喜男
                   井深梶之助
                   藤田謙一
                   渋沢栄一
(印刷物)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然バ来ル九月十六日来着ノ米国加州外二
 - 第38巻 p.518 -ページ画像 
州ノ長老教会監督イー・エー・ストージ博士ハ、稀ニ見ル徳望家ニシテ、過去四十余年間一日ノ如ク日米親善ノ為ニ尽力致シ、太平洋沿岸在留邦人ノ青年ニシテ、博士ノ指導誘掖ニ拠リテ米国ノ大学・神学・専門程度ノ学業ヲ卒リ、今日我カ朝野ノ職ニ在ル者一千名以上ニ及ブ由ニ有之候、今般在留同胞ハ博士ノ本年七十寿ニ躋レルヲ機会ニ、其恩誼ニ酬ユル為メ醵金ヲ為シ、博士夫妻ヲシテ本邦ヲ観光セシムルコトヽ相成候ニ付テハ、来邦ノ上ハ可然款待ヲ与ヘラレタシトノ申越有之候、依テ同志相謀リ来ル九月二十日帝国ホテルニ於テ、左記要項ノ如ク歓迎会相催シ感謝ノ意ヲ表シ度候間、何卒発起人トシテ御賛同被成下度、別冊博士ノ略伝相添此段御依頼申上候、就テハ誠ニ勝手ノ義ニ候得共右御諾否玆ニ封入ノ端書○略スヲ以テ折返シ御回示被成下度候
                           敬具
  第一、古稀祝賀会  凡午後四時開始
      記念品贈呈
  第二、博士講演会  凡午後五時開始
  第三、歓迎晩餐会  凡午後六時半開始
   晩餐会費金五円当日御持参ノ事
  大正十五年九月 日
                  ストージ博士歓迎会
                          渋沢栄一
 追伸、発起人各位ニハ本会諸費用支弁ノ為メ、乍御迷惑晩餐会費ノ外、凡金弐拾円位御支出願度ト存候間、何卒御承知置被下度候
  ○別冊博士ノ略伝ハ後掲。


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0009)
第38巻 p.518-519 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類          (渋沢子爵家所蔵)
                    (別筆)
                    v印当日出席者
    ストージ博士歓迎会発起人(イロハ順)
                     v伊沢多喜男
                      井深梶之助
                   (太丸ハ朱書)
                     ○一宮鈴太郎
                     v井坂孝
                    ○v岩原謙三
                      井上哲次郎
                      埴原正直
                     ○服部金太郎
                    ○v星野錫
                      床次竹二郎
                    ○男大倉喜八郎
                    ○v大谷登
                    ○v大橋新太郎
                    ○v大倉喜七郎
                      若槻礼次郎
                     v粕谷義三
                      金杉英五郎
 - 第38巻 p.519 -ページ画像 
                     ○米山梅吉
                      頼母木桂吉
                     ○団琢磨
                     ○田村新吉
                     男田中義一
                      添田寿一
                    ○v根津嘉一郎
                      鵜崎庚午郎
                      上野季三郎
                     ○久原房之助
                     ○倉知誠夫
                     ○藤田謙一
                     ○藤原銀次郎
                     ○児玉謙次
                     v小松緑
                     子後藤新平
                      姉崎正治
                     ○浅野総一郎
                     ○浅野良三
                    v男阪谷芳郎
                      沢柳政太郎
                     ○木村久寿弥太
                   ○v子渋沢栄一
                     ○白仁武
                     ○白石元治郎
                   ○v男森村開作


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0010)
第38巻 p.519-520 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類           (渋沢子爵家所蔵)
    実行委員会報告事項
○上略
一記念品ハ風俗画帖ニ英語ニテ博士誕生七十祝賀ノ為メ、之カ祝賀会ヲ代表シテ渋沢子爵ヨリ贈呈ノ意味ヲ認メ、貼付シタルモノ二冊ニ祝賀文(表装巻物トス)ヲ添へ呈スルコト
一博士夫人ニ花束ヲ呈スルコト 凡二円
○下略

    中央卓ニ御着席ヲ請フ御人々
阪谷男爵    若槻首相   伊沢多喜男
ストウジ博士  同令夫人   三谷民子
大橋新太郎   粕谷義三   根津嘉一郎
藤田謙一    木村久寿弥太 白仁武
立花小一郎   井深梶之助  沢柳政太郎
浅野総一郎   服部金太郎  平塚広義
内田嘉吉    添田寿一   マツケンジー
 - 第38巻 p.520 -ページ画像 
(印刷物)
         DINNER
        IN HONOUR OF
       DR. E. A. STURGE

       SEPTEMBER 20th, 1926

         MENU
        Potage Moules
       Crabe au Gratin
    Aloyau de Bœuf à la Flamande
     Poulet Rôti Pomme Rissolées
       Salade de Saison
      Marron à la Chantilly
        Friandises
         Café
      Imperial Hotel, Tokyo
  ○右ハストージ博士歓迎晩餐会献立表ナリ。


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0011)
第38巻 p.520 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類       (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    イ・エ・ストウジ博士歓迎祝賀会順序
            大正十五年九月二十日 帝国ホテルに於て
  第一 古稀祝賀会  午後四時
          司会者    子爵 渋沢栄一君
一奏楽                 木岡英三郎君
二祝辞              子爵 渋沢栄一君
三記念品贈呈           子爵 渋沢栄一君
四女声合唱               東京女子大学生
五挨拶       医学博士 哲学博士 イ・エ・ストウジ君

  第二 講演会   午後五時
           司会者 神学博士 井深梶之助君
一紹介の辞          神学博士 井深梶之助君
二女声合唱               東京女子大学生
三講演       医学博士 哲学博士 イ・エ・ストウジ君
  右通訳               宮崎小八郎君

第三 晩餐会     午後六時三十分
          司会者    男爵 阪谷芳郎君
一挨拶              男爵 阪谷芳郎君
二歓迎演説          東京市長 伊沢多喜男君
三歓迎演説       監督 神学博士 鵜崎庚午郎君
四答辞       医学博士 哲学博士 イ・エ・ストウジ君

 - 第38巻 p.521 -ページ画像 

中外商業新報 第一四五七五号 大正一五年九月二一日 古稀を祝はれス博士の感激 新秋月明に思出深くゆふべ帝国ホテルで(DK380052k-0012)
第38巻 p.521 ページ画像

中外商業新報 第一四五七五号 大正一五年九月二一日
    古稀を祝はれス博士の感激
      新秋月明に思出深くゆふべ帝国ホテルで
去十六日来朝した日本人の父、太平洋沿岸日本人長老教会総理イー・エー・ストージ博士の古稀祝賀を兼た
 歓迎の 会が二十日午後四時から帝国ホテルにおいて開かれた、若槻首相を始め渋沢氏、大倉男、阪谷男、伊沢東京市長、藤田東京商業会議所会頭など朝野の名士有力者を発起人とするこの歓迎の会は、参列者もまた知名の士ばかり二百余名、先づ渋沢栄一子が司会者となつて古稀祝賀の会が開かれた、壇上上手に安楽椅子二脚がおかれてストージ博士夫妻、下手には渋沢子、粕谷衆議院議長、阪谷男等が居流れる、渋沢子は「声がつぶれてゐますが、続くかぎり読みます」と前置きして
 博士の ために祝辞を朗読した、海外諸国のうち日本人の在留する数の最も多いのは、アメリカだといふことから説きおこして
 「博士は資性温厚……数十年前より本邦人の赤手自ら新天地を開拓せむがため、遠く海外に渡航して奮闘するを見て、深くこれに同情せられ、此可憐なる青少年の保護者を以て自ら任ぜらる……」
とて博士の四十年の好意と同情を謝するあたり、参会者一同も在りし日の思ひ出に当の博士を前にして唾を呑むやうな
 緊張振 りを示した、祝辞の巻物と共に記念品として日本名画三十選、別冊五十選が子爵の手から博士に贈られ、急霰の如き拍手がおこる、ついで三十名ばかり
の東京女大生のコーラスが、熱誠な感謝と歓待の意を述べる、博士は感慨に堪へぬ面持で謝辞を述べた
 自分は今年になつて既に数回となく七十の祝をされた上で、また日本でこの歓迎を受けた、もう一度来朝するときは、棺桶でも用意して来ねば、余り大切にされ過ぎて死んで了ふかも知れない、七十はもう
 人生の 下り坂である、下り切つてまた生れ変る日には是非日本に生れたい、日本とアメリカは太平洋の両の柱のやうなもので、この二本の柱が優劣なく並び立つことによつて、沿岸人民の幸福が維持される
と述べて満腔の謝意と喜びを表した、次で井深梶之助博士の司会でス博士の講演会が開かれ、六時半からは阪谷男司会のもとに
 大広間 を打ち抜いて盛大な晩餐会に、師父と子弟との情愛つきせぬ歓談に新秋月明かなる一夜を更かした


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0013)
第38巻 p.521-522 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類           (渋沢子爵家所蔵)
(一行朱書)
別紙原稿ニ依リ子爵訂正ノ分
(全文栄一墨書)
海外諸国の中、本邦人の在留する者尤も多きは北米合衆国なりとす、其初め本邦人の米国渡航は概ね其招致に出てゝ、所謂有無相通の原理に基因するものなれは、彼我共に頗る融合調和せしも風俗習慣の相違若しくハ利害の錯綜せるより、時に或は米国人の嫌忌を生し殊に一種
 - 第38巻 p.522 -ページ画像 
政事的煽動者あるによりて、遂に排日の気勢を馴致し、其極日米国交の親善を傷けむとするは、吾人の深く痛心する所にして、本邦同憂の人士は爾来種々の方法によりて、各方面に於て之れか矯正回護に尽力しつゝあるも、米国人にして吾人と此喜憂を同ふし、従来在留の本邦人に対して陰に陽に種々の庇護を加へられ、両国民の親善融和に貢献せらるゝこと、イー・エー・ストウジ博士の如き人あるを見るは、吾人の感激措く能はさる所なり
博士は資性温厚篤実、夙に医学を以て名声を博せられしか、数十年前より本邦人の赤手自ら新天地を開拓せむが為め、遠く海外へ渡航して奮闘するを見て深くこれに同情せられ、此可憐なる青少年の保護者を以て自ら任せらるゝに至れり、是れ実に我か明治十九年頃の事なりとす爾来博士は本拠を加州桑港に置き、自ら貲を捐てゝ寄宿舎・青年会教会等を建設して在留本邦人の教導慰安に勉め、本邦人排斥運動未発の昔時より圧迫熾烈の今日に至るまて、玆に四十余年終始渝らさること殆と一日の如し、殊に其間桑港大震災の際には(博士も夫人も)寝食を廃して本邦人の救護に当られ、博士は為めに三回まても其所有の家屋を提供して其貲に供したるは、実に其全生涯を本邦人の犠牲とせられしものと云ふへきなり、是を以て在留本邦人の博士を欽慕する恰も慈父の如く、嚮に其旅費を醵出して日本観光を請ふこと再度に及びしが、今玆博士が古稀の齢を迎へられしを機として三回の渡航を勧誘し、吾人も亦幸に其謦咳に接し高風を景仰するを得るは、豈啻有朋自遠方来、不亦楽乎の感のミならむや、依て同志相会し(今夕此小宴を開催して)博士夫妻の貴臨を請ひ、恭しく此記念品を呈して聊か謝意を表せむとす、博士は既に古稀の高齢に躋らるゝも、矍鑠猶壮者を凌くものあり、冀くは自今摂養其健康を保持せられ、益々世界の為めに善事を尽されると同時に、本邦人の為めに援護の労を取られむことを聊蕪言を陳して式辞とす
  大正十五年九月二十日
  ○右ハ祝賀会ニ於ケル栄一ノ祝辞ナリ。
  ○当日ノ出席者総数二百三十一名ナリ。


(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一五年(DK380052k-0014)
第38巻 p.522-523 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一五年
                  (阪谷子爵家所蔵)
(謄写版)
    ストウジ博士第三回来朝歓迎辞
閣下、淑女、紳士
世ニ聖人ト云フ者アレハ、今夕我々ノ来賓ストウジ博士ハ即チ其人ナリ、世ニ国民ノ朋友ト称スヘキ者アレハ、ストウジ博士ハ即チ其人ナリ、生レテ七十年、其四十余年ヲ米国ニ在ル日本人ノ為ニ尽サレタル公平無私ニシテ犠牲的ナル博士ノ徳行ハ、其高キコト富士山ノ高キヨリモ高ク、其深キコト太平洋ノ深キヨリモ深シト云フヘシ、如斯キ徳行ハ、名利ニ満チタル俗界ヲ離レタル、純清ニシテ高遠ナル理想ヲ有スル人ニ於テ見ルコトヲ得ヘシ、而シテ如斯キ人物ハ、極テ稀レニ神ガ人類間ニ生セシムルモノニシテ、其徳行ハ現世ニ於テノミナラス、
 - 第38巻 p.523 -ページ画像 
遠キ将来ニテモ化育上ノ影響ヲ及ホスモノナリ、サレハ如斯キ人物ハ其出現セル地方ト時代トノ宝トスヘキモノニシテ、今夕其宝トスヘキ人物ト接触シ、其講話ヲ聴キ之ト食卓ヲ共ニスルヲ得ルハ、如何ニ我我ノ幸福ソヤ、人生ニハ限アリ、ストウジ博士ガ今後尚再三我邦ニ来遊セラレンコトハ、我々ノ熱望スル所ナレトモ、人間寿命普通ノ原則トシテハ頗ル難事トセサル得ス、果シテ然ラハ我々日本人カ博士ニ対スル感情ノ今夕特ニ深キモノアルハ、博士ノ御推察ヲ乞フ所ナリ
  大正十五年九月二十日
                   司会者 阪谷芳郎
  ○右ハ晩餐会ニ於テ朗読セルモノナラン。


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0015)
第38巻 p.523 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類           (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然者予テ御賛同ヲ蒙リ候イ・エ・ストウヂ博士歓迎祝賀会ノ義、御庇蔭ヲ以テ其古稀祝賀会・講演会・晩餐会共各百数十名ノ参会ヲ得、何レモ盛大裡ニ終了致、遠来ノ同博士ニ於テモ満足致、発起人各位ニ対シ厚ク御礼申上候様ニ依頼有之候次第ニ御座候
当日ノ収支ノ会計ハ別紙所載ノ通ニテ、発起人各位ニ御割当致候時ハ金拾四円弐拾銭宛ト相成候間、乍御迷惑御負担被下、御序ニ丸ノ内渋沢事務所ヘ御送付被下度候 匆々
  大正十五年十月四日     ストウヂ博士歓迎祝賀会
                         渋沢栄一
  ○別紙略ス。


ストウジ博士歓迎会書類(DK380052k-0016)
第38巻 p.523 ページ画像

ストウジ博士歓迎会書類           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
謹啓
優渥なる祝福の下に愈御清福の御事と存じます。陳ば私共去る九月十六日来朝以来、皆様の一方ならざる御歓待を忝ふし有難く感謝いたして居ります。殊に九月廿二日
摂政宮殿下に拝謁を賜はりたる上、貴重なる御下賜品すら頂戴するの光栄を忝ふし、身に余る恩寵に感激いたして居ります。今後は余命のあらん限り日米両国親善平和のため、且つは在米の日本人同胞諸氏のため微力を尽して奉仕いたしたきものと、深く心に念じて居ります。願くは御高堂の上に神の御加護の豊ならんことを。
  千九百廿六年十月           イ・エ・ストウジ
                     同   ストウジ
         様
 追て私共は十一月十九日上海発の春洋丸に乗船し、同月廿七日横浜発で帰米の途につく予定で御座います



〔参考〕(宮崎小八郎) 書翰 増田明六宛 (大正一五年)一〇月一二日(DK380052k-0017)
第38巻 p.523-524 ページ画像

(宮崎小八郎) 書翰 増田明六宛 (大正一五年)一〇月一二日
                       (渋沢子爵家所蔵)

 - 第38巻 p.524 -ページ画像 
ストウジ博士を案内して大坂まで参り、一役済まして本日正午一応帰京、明日と明後日基督教聯盟の総会を開催、それが済み次第十六日の朝、特急で東京発、下関にてストウジ博士と落合ひ九州を一巡し、朝鮮・満洲に向ふ予定にして居ります、その前に一度御目にかゝりたいと願つて居りますが、何分非常に多忙で万事意に任せず失礼して居ります、十五日に御目にかゝれるならばと願つて居ります。尚別に一つ御願申したき事は、渋沢子爵(日米関係委員として)から朝鮮総督斎藤実閣下に、ストウジ博士夫婦が来る十月廿六日、京城に赴く予定であるから宜しく頼む旨の御紹介状を、直接子爵より先方に向けて御発信下さるやうにして頂きたいもので御座います。実は京城在住の友人(基督教青年会総主事丹羽清次郎氏)から、右の旨注意して参りましたので御座います。何卒大兄より子爵へ右の趣きを御依頼下さるやう折入つて御願申上ます、失礼ながら書面をもつて斯の如くで御座います 敬具
  十月十二日                    宮崎小八郎
    増田明六様
           侍史
(欄外別筆・朱書)
 [10/23返事済



〔参考〕(宮崎小八郎) 書翰 増田明六宛 大正一五年一一月二四日(DK380052k-0018)
第38巻 p.524 ページ画像

(宮崎小八郎) 書翰 増田明六宛 大正一五年一一月二四日
                      (渋沢子爵家所蔵)

予定のプログラムに従ひ無事昨日神戸に着、明廿五日神戸発、翌廿六日正午横浜入港の筈になつて居ります、それで廿七日に先方の御都合によりストウジ博士は、渋沢子爵を御訪問の上御別れを告げられたき希望で御座います、東京では帝国ホテルに、一・二泊なさる事で御座いますから、いづれその際は又御知らせ申上ます
御好意により至る所に於て予想以上の大歓迎を受けられたので、ストウジ博士御夫婦とも非常の御満足で御座います
近日御目にかゝつて御報申上ます 敬具
  大正十五年十一月廿四日              宮崎小八郎
    増田明六様
           侍史



〔参考〕ストウジ博士略伝 ストウジ博士歓迎会編 第一―六頁 大正一五年八月刊(DK380052k-0019)
第38巻 p.524-526 ページ画像

ストウジ博士略伝 ストウジ博士歓迎会編 第一―六頁 大正一五年八月刊
  在米日本人の慈父
    イ・エ・ストウジ博士略伝
    Earnest A. Sturge, M. D., Ph., D,
 米国人で日本魂を有し、真に能く日本を解し且つ日本人を愛する点に於ては、医学博士にして哲学博士たるストウジ氏に及ぶ者は他にありますまい。ストウジ博士は温厚・篤実の君子人で、その七十年間の生涯は人類同胞愛を以て終始一貫して居ります。
 排日の策源地と見做されて居る加州桑港にあつて、日本人同胞の友
 - 第38巻 p.525 -ページ画像 
となり、その指導誘掖に尽力されしこと既に四十年に及んで居りますその間日本及び日本人のため寄与貢献された所は、決して少少では御座いません。
 千八百五十六年(安政三年)オハヨオ州に生れた博士は、本年七十回の誕生日を迎へられました。在米の日本人は此の喜ぶべき古稀の誕生を祝し、且つ多年の鴻恩に酬ゆる意味に於て応分の醵金をなし、三度目の日本観光を願ふことになつたのであります。
 ストウジ博士は千八百八十一年暹羅皇室の招聘に応じ宮中顧問医として赴任されました。居ること五年、同国特有の熱病患者に対し当時最新の療法を施し、その成績大に見るべきものがあつたさうであります。けれども不幸夫人の健康勝れなかつたので暇を乞ふて帰米し、更に独逸に遊学すること一年、医学の蘊奥を極め再び東洋に赴かんとする途次、加州桑港に立寄られたる際同地に在留せし数名の日本青年に邂逅されたのが縁となり、日本人の将来に大に望を嘱し、日本人を愛護し、彼等の友となり指導・誘掖するは、これ我が使命なりとの大自覚を抱かるゝに至りました。
 さう云ふ事情によりましてストウジ博士は、千八百八十六年に全生涯の方針を一変し、医術をもつて立つ代りに太平洋沿岸に於ける日本人同胞の慰安者となり、同情者となり、保護者をもつて任ぜらるゝやうになられたのであります。爾来四十年、博士は米国太平洋沿岸日本人長老教会総理の職にあつて、在米同胞のために寝食を忘れて尽力せられました。
 博士の誘導を受けて大学・神学・専門学校程度の学業を卒へて帰朝し、朝野の要職に任じて居るもの千名以上にも及んで居りませう。
 博士は邦人排斥問題の起る毎に至誠と熱心とをもつて日米両者の間に立つて之が鎮撫・解決の任に当られました。千九百六年(明治三十九年)の桑港大震災に際しては、身自ら罹災者であつたに拘はらず、御自身の主宰にかゝる桑港日本人基督教青年会を開放して、同胞罹災者を救助せられしもの幾千なるを知らぬ程の多数に及んだ事や、誘拐されたる幾多不幸の同胞婦人を救ひ出すため、十数回以上も危険を冒された事などを挙ぐれば、到底爰に述べ悉くすことの出来ない程で御座います。
 大戦後に当つて世界的に流行寒冒が流行した時のこと、桑港に於ける一日本人青年も之に罹りました。非常に危険性を帯びたる病気とて誰一人として看護する者がなかつたのに、ストウジ博士は挺身して自ら看護の任に当り、その後続発する同胞患者を殆ど単身もつて之が治療看護に任し、大に効果を挙げられたので、その同胞を愛し、之が為に尽さるゝ精神の大なるものに感激する者起つて治療・看護に遺憾なきを得遂に病魔を撲滅することが出来た事も、今尚在米同胞者間に喧伝せられて居ります。
 博士は太平洋沿岸日本人長老教会総理として、桑港、ワツソンヴイル、サリナス、モントレー、ランボク、羅府、ロングビイチ、ウヰンタースバアグ、サクラメント、スタクトン、ハンフオド、パサデナ、ハリウードの各地に、日本人長老教会を設立し、在留同胞の指導に任
 - 第38巻 p.526 -ページ画像 
ぜられ、且つ桑港に於ける基督教青年会の如き、特に渡米する同胞のため、宿泊所ともなり、案内所ともなり、慰安所ともなり、一切の要務を弁ずる唯一の機関として貢献したる所、極めて著るしきものがありました。けれども博士は極めて謙遜な方で、毫も御自分のなさつた善き事を他に漏らしなさるやうな事が御座いません。全財産を抛つて日米親善のために尽すとは実に博士のことであります。医療器械、及び医学書など高価のものを悉く日本人医師に贈与されたを始めとし、一度は自己の邸宅を日本人基督教会に寄贈して牧師館を提供されました。現在桑港市ポスト街にあるのはそれであります。家屋を売却して我が同胞のために図られた事は二度もありました。これぞと云ふ資産なき博士にして斯る行為に出らると云ふのは、全く日本及日本人を愛せらるゝ結果として、同胞は深く感銘して居ります。
 千九百四年(明治三十七年)のこと、在米同胞が博士の徳を頌し、その労を慰むるため官民合同の一大慰労会を桑港に催ほしました。その際博士が折に触れて咏ぜられた日本に関する英詩を出版して、一はもつて博士の御精神を広く世に知らしめ、一はもつて博士を驚かしたいとの考へから、博士夫人に請ふて玉稿を得、出版したのがあの有名なる詩集「日本魂」"The Spirit of Japan"と云ふのでありました。その年のことであります。博士は在米同胞の請を容れられ、初めて日本観光のため来朝されました。この事が天聴に達するや 先帝陛下から特に勲五等に叙せられ旭日双光章を賜はりました。又帝国教育会は特に博士を特別会員に推薦して、同胞の教育に尽瘁されたる多年の功労を表頌することになりました。
 千九百十五年(大正四年)博士は二たび在米同胞に薦められ、今上陛下御即位の御大典を奉祝のため来朝し、宮中に於て波多野宮内大臣を経て在米日本人基督者を代表して聖書を献納されました。それに博士自詠の英詩を添へて奉られました。幸に二つともに 陛下の御嘉納を忝ふせられたので、どんなにか博士はそれを身に余る光栄として感謝されたかは、帰米後の各地講演会に於て述べられた所によつても察せられます。
 博士は本年古稀の齢に達せられたので、在米の同胞は博士多年の鴻恩に酬ふると共に、又日本の現状をも見てもらひたいと、爰に三度博士をして日本を訪はしむることになりました。
 博士は陰徳の君子で、為された所のすべての善行美徳をなるべく世に知らしめないやうにして居られます。それだけ博士の人格は高潔で日本の武士気質と相通ずる所があります。
 博士の著書中、最も広く知られたるは「日本魂」The Spirit of Japan 及「自然の教訓」The Nature's Teachings 其他であります。
  大正十五年八月