公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第38巻 p.587-590(DK380065k) ページ画像
大正14年1月28日(1925年)
是日栄一、孫文危篤ノ報ニ接シ、在北京ノ高木陸郎宛ニ代理見舞依頼ノ電報ヲ発ス。三月十二日孫文逝ク。栄一、霊前ニ花環ヲ供フ。
渋沢栄一電報控 高木陸郎宛 大正一四年一月二八日(DK380065k-0001)
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渋沢栄一電報控 高木陸郎宛 大正一四年一月二八日 (渋沢子爵家所蔵)
(別筆)
大正十四年一月二十八日発電之写
北京中日実業会社
高木陸郎殿
東京
渋沢
孫文氏病気危篤の事を聞き心配に堪えず、小生代理として御見舞相成模様御知らせ請ふ
○高木陸郎ハ中日実業株式会社副総裁。
(孫文)電報 渋沢栄一宛 大正一四年二月一二日(DK380065k-0002)
第38巻 p.587 ページ画像
(孫文)電報 渋沢栄一宛 大正一四年二月一二日 (渋沢子爵家所蔵)
(翻字)
大正十四年二月十二日入手之電報
東京
渋沢子爵
奉天にて
孫文
御懇篤なる御見舞拝受、御厚誼感謝す、只勇気と自信力に依り病に勝つ事を期す、幸に御放念を乞ふ。
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(中日実業株式会社)書翰 白石喜太郎宛 大正一四年二月一七日(DK380065k-0003)
第38巻 p.588 ページ画像
(中日実業株式会社)書翰 白石喜太郎宛 大正一四年二月一七日 (渋沢子爵家所蔵)
大正十四年二月十七日
東京市麹町区内幸町一丁目三番地
中日実業株式会社(印)
渋沢事務所
白石喜太郎様
拝啓、陳者孫文氏病気見舞ノ件ニ付、本月九日付ヲ以テ弊社北京総行ヨリ来状有之、過日渋沢子爵閣下ヨリ高木副総裁ニ宛テ孫文氏病気ノ代理見舞方御電嘱有之候ニ付、高木氏ハ子爵ノ代理トシテ孫文氏ヲ病床ニ見舞ヒ、花籠一対ヲ贈呈致候事ハ先便申上置候処、去ル五日汪兆銘氏ヨリ子爵ノ御見舞ノ対スル御礼手紙ニ、孫氏ノ名刺ヲ添ヘ、高木氏宛送リ越候間、子爵閣下ヘ伝達方可然願上候、尚ホ御礼旁病気模様ノ通知ヲ同氏ヨリ直接当社気付ニテ、子爵閣下ヘ電信差上クル由ニ御座候云々ト申越候ニ付、不取敢右申進候間子爵ヘ可然御執次被下度候
匆々拝具
附
孫文氏名刺 一葉
高木氏宛来状写 一通
訳文 一通
以上
(同封高木宛汪書翰訳文)
拝啓、過日ハ御懇書ヲ賜ハリ難有存候、孫中山先生病気ニ付テハ屡々貴国縉紳ヨリ慇懃ナル慰問ヲ承ケ、小生等深ク感佩罷在候、此度ハ又渋沢子爵ヨリ御見舞ヲ辱フシ、且花籠御恵贈ニ預リ奉深謝候、早速中山先生ノ病床ヘ差出候処、御厚意ヲ感謝シ宜敷御礼申述ヘ呉レトノ事ニ御座候間、何卒渋沢子爵ニ御礼ノ意味可然御転達破下度候、中山先生ハ頃日来体力気力倶々稍ヤ佳良ナル方御座候ヘハ御安意被下度、右得貴意候 拝具
二月五日
汪兆銘
高木先生
侍史
○同封孫文名刺並ニ高木宛汪書翰写略ス。
(江藤豊二) 電報 高木陸郎宛 大正一四年三月一二日(DK380065k-0004)
第38巻 p.588-589 ページ画像
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渋沢栄一電報控 江藤豊二宛 大正一四年三月一二日(DK380065k-0005)
第38巻 p.589 ページ画像
渋沢栄一電報控 江藤豊二宛 大正一四年三月二一日 (渋沢子爵家所蔵)
発電写
三月十二日午後四時東京発
北京
江藤取締役宛
東京
渋沢相談役
孫文氏御逝去ノ由哀悼ニ堪ヘス、霊前ニ花環ヲ供ヘ、謹ミテ弔意伝達乞フ
○栄一、中日実業株式会社ノ相談役タリ。
(孫科)電報 渋沢栄一宛 大正一四年三月一四日(DK380065k-0006)
第38巻 p.589 ページ画像
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東京朝日新聞縮刷版 大正一四年三月号・第三頁 大正一四年四月刊 孫文氏逝去(DK380065k-0007)
第38巻 p.589-590 ページ画像
東京朝日新聞縮刷版 大正一四年三月号・第三頁 大正一四年四月刊
孫文氏逝去
一月以来病床に横つてゐた民国改造の大立物孫文氏は、其の後ロツクフエラー病院を出で、最後の運命を漢法医の手に委ね奇蹟的余命を保つてゐたが、遂に三月十二日午前九時三十分永眠した。氏はつとに「支那革命の父」と称せられ、日清戦争の当時より革命の実行に着手し、一身の危険を冒して活躍をつゞけ、宣統三年(明治四十四年)辛亥革命起るや、推されて中華民国臨時大総統となり、清帝退位後は職を袁世凱氏に譲つて、専ら国民党の首領として同党を率ゐて第二次革命運動に奮闘したが、事敗れて日本に亡命するのやむなきに至つた。袁世凱氏が逝き黎氏が大総統となるや、孫氏は広東に至り広東政府を樹立し、幾多内外の紛争を経て大正十年九月大総統の職に就き、昨秋蘚浙の開戦に際しては、盧氏と相策応して北伐軍を起し、直隷派の没落後は段・張両氏と協力して時局拾収のため北上し、天津において病を得、遂に再び起つ能はざるに至つたのである。氏の遺言状は十三日公表されたが、その大要は次の如くである。『余は革命に従事すること凡そ四十年、その目的は、中国の自由と平等とを求むるにあつた。この四十年の経験によつて余は革命の目的を遂ぐるには、余が著した建国方略大綱・三民主義・第一次国民党全国代表大会宣言書等の中に含まるゝ主張、及び最近の国民会議、並に不平等条約排除運動等の根底をなす主張を、飽くまで貫徹するやう努力しなければならないことを発見した。余は民衆が一致協力して右の目的を最短期間内に実現せ
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んことを嘱望す』
〔参考〕実業之世界 第二一巻・第七号 大正一三年七月一日 タゴール翁と私との問答(DK380065k-0008)
第38巻 p.590 ページ画像
実業之世界 第二一巻・第七号 大正一三年七月一日
タゴール翁と私との問答
子爵 渋沢栄一
○上略 十二・三年前孫逸仙氏が来られた時、氏は東洋人種は白晢人種に拮抗するやうに奮励努力せねばならぬと云ふて、有色人種と、無色人種とを相競はしむるが如き思想を説いた。併し私は、人種を色別にして奮励させるのがよくないと思つて、日光は、決して植物によつて区別はして居ない。大根の白い花も、菜種の黄いろい花も日光は同じく照して居る。神と云ふものも、植物や動物の色によつて好悪があるべきでない、春の花は、色が違つても同じく春の花、春を飾つて居るではないか。故に色によつて相闘はしめることはいけない。先方でも、此方でもさう云ふ事は止めたがよいと話したことがある。
〔参考〕改造 第二〇巻第一号・第一四五頁 昭和一三年一月 孫文の憶出 萱野長知(DK380065k-0009)
第38巻 p.590 ページ画像
改造 第二〇巻第一号・第一四五頁 昭和一三年一月
孫文の憶出
萱野長知
○上略
孫文は欧米をひどく嫌つてゐた。東京の華族会館で大亜細亜主義の大演説をやることになり、白禍説を説かんとしたが、これは渋沢子によつて封ぜられた。死ぬる直前日本に寄り神戸で発表したが、それでは亜細亜を救ふものは日本であり、支那は日本に依つて助かる、亜細亜は日本といふ番犬が居るから保てるのだと謂ひ、勿論日本と戦争をやるなどとは微塵にも思つてゐなかつた。現代支那が教典としてゐる三民主義は、孫文は社会政策として発表したものだ。二回ほど演説して後『民報』に発表し、革命評論に翻訳したがその主旨が解らぬ。しかしこれがマルクス主義から出発したものではないことはよく分る。現時容共政策の必要上より無理にもマルクス主義とくつゝけて解釈してゐるが、マルクスのやうに剰余価値より出発したものではない。土地問題も後でくつゝけ、それを孫文も承認した。その関係も私はよく知つてゐる。
○下略