デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
4款 中華民国国民党党首孫文歓迎
■綱文

第38巻 p.587-590(DK380065k) ページ画像

大正14年1月28日(1925年)

是日栄一、孫文危篤ノ報ニ接シ、在北京ノ高木陸郎宛ニ代理見舞依頼ノ電報ヲ発ス。三月十二日孫文逝ク。栄一、霊前ニ花環ヲ供フ。


■資料

渋沢栄一電報控 高木陸郎宛 大正一四年一月二八日(DK380065k-0001)
第38巻 p.587 ページ画像

渋沢栄一電報控 高木陸郎宛 大正一四年一月二八日 (渋沢子爵家所蔵)
            (別筆)
            大正十四年一月二十八日発電之写
 北京中日実業会社
  高木陸郎殿
                       東京
                         渋沢
孫文氏病気危篤の事を聞き心配に堪えず、小生代理として御見舞相成模様御知らせ請ふ
  ○高木陸郎ハ中日実業株式会社副総裁。


(孫文)電報 渋沢栄一宛 大正一四年二月一二日(DK380065k-0002)
第38巻 p.587 ページ画像

(孫文)電報 渋沢栄一宛 大正一四年二月一二日 (渋沢子爵家所蔵)
(翻字)
            大正十四年二月十二日入手之電報
 東京
  渋沢子爵
                      奉天にて
                         孫文
御懇篤なる御見舞拝受、御厚誼感謝す、只勇気と自信力に依り病に勝つ事を期す、幸に御放念を乞ふ。

 - 第38巻 p.588 -ページ画像 

(中日実業株式会社)書翰 白石喜太郎宛 大正一四年二月一七日(DK380065k-0003)
第38巻 p.588 ページ画像

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(江藤豊二) 電報 高木陸郎宛 大正一四年三月一二日(DK380065k-0004)
第38巻 p.588-589 ページ画像

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渋沢栄一電報控 江藤豊二宛 大正一四年三月一二日(DK380065k-0005)
第38巻 p.589 ページ画像

渋沢栄一電報控 江藤豊二宛 大正一四年三月二一日 (渋沢子爵家所蔵)
    発電写
               三月十二日午後四時東京発
 北京
    江藤取締役宛
                     東京
                      渋沢相談役
孫文氏御逝去ノ由哀悼ニ堪ヘス、霊前ニ花環ヲ供ヘ、謹ミテ弔意伝達乞フ
  ○栄一、中日実業株式会社ノ相談役タリ。


(孫科)電報 渋沢栄一宛 大正一四年三月一四日(DK380065k-0006)
第38巻 p.589 ページ画像

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東京朝日新聞縮刷版 大正一四年三月号・第三頁 大正一四年四月刊 孫文氏逝去(DK380065k-0007)
第38巻 p.589-590 ページ画像

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〔参考〕実業之世界 第二一巻・第七号 大正一三年七月一日 タゴール翁と私との問答(DK380065k-0008)
第38巻 p.590 ページ画像

実業之世界 第二一巻・第七号 大正一三年七月一日
    タゴール翁と私との問答
                    子爵 渋沢栄一
○上略 十二・三年前孫逸仙氏が来られた時、氏は東洋人種は白晢人種に拮抗するやうに奮励努力せねばならぬと云ふて、有色人種と、無色人種とを相競はしむるが如き思想を説いた。併し私は、人種を色別にして奮励させるのがよくないと思つて、日光は、決して植物によつて区別はして居ない。大根の白い花も、菜種の黄いろい花も日光は同じく照して居る。神と云ふものも、植物や動物の色によつて好悪があるべきでない、春の花は、色が違つても同じく春の花、春を飾つて居るではないか。故に色によつて相闘はしめることはいけない。先方でも、此方でもさう云ふ事は止めたがよいと話したことがある。



〔参考〕改造 第二〇巻第一号・第一四五頁 昭和一三年一月 孫文の憶出 萱野長知(DK380065k-0009)
第38巻 p.590 ページ画像

改造 第二〇巻第一号・第一四五頁 昭和一三年一月
    孫文の憶出
                    萱野長知
○上略
 孫文は欧米をひどく嫌つてゐた。東京の華族会館で大亜細亜主義の大演説をやることになり、白禍説を説かんとしたが、これは渋沢子によつて封ぜられた。死ぬる直前日本に寄り神戸で発表したが、それでは亜細亜を救ふものは日本であり、支那は日本に依つて助かる、亜細亜は日本といふ番犬が居るから保てるのだと謂ひ、勿論日本と戦争をやるなどとは微塵にも思つてゐなかつた。現代支那が教典としてゐる三民主義は、孫文は社会政策として発表したものだ。二回ほど演説して後『民報』に発表し、革命評論に翻訳したがその主旨が解らぬ。しかしこれがマルクス主義から出発したものではないことはよく分る。現時容共政策の必要上より無理にもマルクス主義とくつゝけて解釈してゐるが、マルクスのやうに剰余価値より出発したものではない。土地問題も後でくつゝけ、それを孫文も承認した。その関係も私はよく知つてゐる。
○下略