デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.58-65(DK390018k) ページ画像

明治44年9月6日(1911年)

是ヨリ先、八月二十六日アメリカ合衆国スタンフォード大学総長デーヴィッド・エス・ジョルダン来日ス。是日栄一、ジョルダンヲ高千穂学校及ビ日本女子大学校ニ案内シ、次イデ飛鳥山邸ニ招キテ午餐会ヲ催ス。尚、此前後ニワタリ各所ニ催サレタル其歓迎会ニ臨席ス。


■資料

東京日日新聞 第一二四七三号明治四四年八月二〇日 ジヨルダン博士と大に平和を語らん 渋沢男爵の談(DK390018k-0001)
第39巻 p.58 ページ画像

東京日日新聞 第一二四七三号明治四四年八月二〇日
    ○ジヨルダン博士と大に平和を語らん
                     渋沢男爵の談
我紙上に既記せし如く、米国スタンフオード大学総長ダビツド・スター・ジヨルダン博士は、其該博なる生物学とカーネギー翁世界平和団の主脳者としての使命を齎し、来る廿六日午前横浜に着し
△日本の生物を研究 すると共に東京公私立各大学を始め京都・大阪神戸・岡山・広島・福岡・熊本・仙台・朝鮮の各地に講演会を開き、大に世界の平和を鼓吹する由なるが、九月四日より東京滞在中に於て大日本平和協会々長として大隈伯を始め渋沢男、尾崎東京市長其他スタンフオード大学出身者等
△氏の為めに歓迎会 を催ほす筈なり、是に就き渋沢男は曰く「ジヨルダン博士と私とは未だ一度も手を握り合つた事は無いが、先日桑港の永井領事からジヨルダン博士来朝に就き懇々の手紙も来たし、又在桑港日本人会書記長久馬俊泰氏が、此為めに態々帰朝して居り、過日私に種々話した処もあるし博士が来られたらば大に歓迎する積りである、勿論
△東京実業団も博士 を招待して講演会を開く事に成らうが、又私は個人として此名誉ある学者であり、又最も尊い日米親善紹介者である博士に接したく、特に談話小集会を開いて博士を招き単に御馳走計りでない真に
△膝を交へて世界の 平和並に日米国際に就き彼方の意見も聞き、此方の意志も吐露するやうな会を催し度い度いと思つて居るが、博士が果して受けて呉れるか如何かは疑問である」云々


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK390018k-0002)
第39巻 p.58-59 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
八月二十七日 晴 暑
○上略新渡戸氏宅ヲ小日向台町ニ訪ヘ、米国人スタンホルト大学総長タ
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ルジヨルダン氏招宴ニ列席ス、種々ノ談話アリ、夜十時王子ニ帰宿ス○下略
   ○中略。
九月一日 半晴 冷
○上略午前増田明六来リテ、本月六日招宴スヘキシヨルダン博士案内ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
九月五日 曇 暑
○上略午飧後兜町事務所ニ抵リテ、明日ノ米人招宴ノ事ニ関シテ種々ノ指揮ヲ為ス○中略午後六時紅葉館ニ抵リ、ジヨルダン博士招宴ニ出席ス東京市長ノ開催ニ係ルナリ、食事前後ニ種々ノ余興アリ、夜十時散会帰宿ス○下略
九月六日 雨 冷
午前六時起床入浴シテ朝飧ヲ食シ、今日来訪セラルル米客饗応ニ付室内装飾等ノ事ヲ指揮ス、午前八時五十分頃帝国ホテルニ抵リ、ジヨルタン博士ニ面会シ、久万氏ト共ニ九時半高千穂学校ニ抵リ校内ヲ一覧シ川田氏宅ニテ少憩ス、後会堂ニ於テ博士ヨリ学生ヘ一言ノ訓示アリ畢テ女子大学ニ抵リ、成瀬・麻生其他ノ教授多人数之ヲ迎ヘテ校内ヲ巡覧ス、十二時半余ハ二学校ノ案内ヲ畢リテ、博士及夫人同伴王子別荘ニ抵リ、直ニ来会諸士ニ紹介シテ午飧ノ宴ヲ開ク、開会ニ先テ一場ノ挨拶ヲ述ヘ博士之ニ答フ、余興数番アリ、食事畢テ愛蓮堂ニ談話会ヲ開キ、余ハ日米親交ニ関シテ卒直ニ企望ヲ述ヘ、博士ハ全然同意ヲ表セラル、其他永井氏・高橋男・石井男等種々博士トノ談話アリ、各胸襟ヲ開キテ談話佳境ニ入ルヲ覚フ、夕五時過ヨリ散会シテ更ニ帝国座ニ同行ス、兼子モ伴ニ夜十一時迄観劇シテ深更ニ帰宿ス
   ○中略。
九月十三日 雨 冷
○上略七時○午後田町浅野氏邸ニ抵リ、ジヨルダン氏招宴ニ出席ス○下略
   ○中略。
九月十五日 曇 冷
○上略正午早稲田ニ大隈伯邸ヲ訪ヘ、米人ジヨルタン博士歓迎ノ午飧会ニ列席ス、来会者四十人許リナリ、午飧畢テ種々ノ談話アリ○中略七時半外務大臣官舎ニ抵リ、石井氏招宴ノジヨルダン博士ノ晩飧ニ列席ス夜十一時散会帰宿ス


竜門雑誌 第二八〇号・第六七―七二頁明治四四年九月 ○青淵先生とジヨルダン博士(DK390018k-0003)
第39巻 p.59-62 ページ画像

竜門雑誌 第二八〇号・第六七―七二頁明治四四年九月
○青淵先生とジヨルダン博士 青淵先生には八月二十六日来朝したるスタンフオールド大学総長ダビツド・スター・ジヨルダン博士及同令夫人を、本月六日正午曖依村荘に招待して歓迎会を催したり、蓋し先生は多年日米両国民間の交誼を維持し、且つ親密にする為めに常に尽力せられたる博士の来朝を機とし、個人として胸襟を披きて意見を交換したしとの希望を有し、博士も亦予て来朝の上は未知の知己たる先生と親しく会談するを楽しみ居られたる由、左れば青淵先生には同日午前八時三十分、自働車を駆つて飛鳥山の自邸を出で、同九時博士の
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旅宿なる帝国ホテルを訪問せられたるが、博士夫人は連日招待の疲労と過日日光にて落馬したる時の負傷を以て同行を辞されたれば、先生は博士の快諾を得て先づ博士及通訳久万俊泰氏のみ同行を請ひて、府下豊多摩郡東大久保村の高千穂学校に案内らせれたり。同校は夙に模範学校を以て知られ、且つ先生は、同校創立以来其の評議員たりし関係もあり、旁々同校長川田鉄弥氏の懇請を容れ、博士を此所に導かれたるものなりとぞ。校長は、一行を応接室に請じ、暫時休憩中先生は博士と教育上の事項に就て談話を交へられぬ、先生曰はるゝやう
 現今、学校教育の弊、動もすれば、師弟の間柄、親愛の情に乏しく随つて感化の見るべきものなし。人物養成上、洵に遺憾に堪へず、云々。
と語られけるに対し、博士は、頗る同感の面色にて
 米国に於ても、其弊に陥れり。日本は、徳川時代には、個人個人に親切に教導せられたる歴史を有する国に非ずや、斯の如き立派なる歴史は、人物養成上欠くるべからざるものなり。今日の所謂学校教育は、全く貴説の如く、恰も数千の羊を一大牧場に追ひ放せるに似たる傾向なきに非ず。
と対へられしとなん。やがて校長は、一行を講堂に案内せり。此処には、中・小学生五百名整列して博士を迎へ、先づ君ケ代の合唱あり。女生総代より博士夫人へ花籠を贈呈したるに、博士は起ちて謝辞を述べ、久万氏之を通訳し、男生総代の英語挨拶ありたる後、生徒一同は米国国歌を合唱して式を終り、それより校長は、一行を校内の自宅に案内して、高千穂学校が今日の如き盛運に向へるは、全く青淵先生其他諸先輩の賜なりと述べ、談笑の中に茶菓を饗し、更に中学生の柔道深呼吸法、小学生の授業及幼稚生の遊戯を観覧に供したるに、博士は非常に満足の意を表し、幼稚生が手に手に打振る日米小国旗に送られて、先生と共に十一時同校を辞し、先生が現に評議員たる日本女子大学を訪れたり、折柄同校は夏季休暇中にて、生徒は勿論、職員等も不在の者多かりしが、成瀬校長、麻生学監、服部教授、甲斐幼稚園主任等博士と米国にて面識ある人々を始め、十余名の男女教職員等出迎へて博士一行を桜楓館に導きて茶菓を供し、夫れより校長の案内にて幼稚園、小学校及大学部の講堂、教室等を巡覧し、且つ旧知の人々と談話を交換しつゝある間に、博士夫人は特に青淵先生の午餐会に臨むべくホテルより自働車を駆つて此処に来り会せしかば、博士は同校の授業開始を待ち来る十七日頃生徒等に対して一場の講演を為すべきことを約して十二時同校を辞し、夫人及久万氏と共に先生に連れられて午後零時三十分飛鳥山邸に到着し、出迎はれたる先生夫人・穂積夫人等と共に博士及び令夫人を洋館客間に案内せらるれば、此処には既に当日陪賓たる石井菊次郎男・高橋是清男・添田寿一・永井松三(桑港領事)中野武営・大倉喜八郎・早川千吉郎・池田謙三・佐々木勇之助・加藤正義・白石元治郎等の諸氏、待ち受け居りて一応の挨拶を交換し夫れより博士の好みに応じたる日本食の午餐に移り、青淵先生先づ起ちて簡単に歓迎の辞を述べ、之に対して博士の答辞あり、次いで博士及令夫人は他の陪賓と均しく座布団の上に坐して箸を取りいと機嫌克
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く賞味せられ、席上三曲の合奏抔一・二の余興あり、殊に博士夫人は当日先生の家族的なる饗宴を太く悦びて感謝せられぬ、午後三時饗を終り、次いで青淵先生には博士及他の賓客を愛蓮堂に導き、又青淵先生令夫人には博士夫人を別室に案内して尚数番の余興を観覧に供せしが、博士夫人は健康尚恢復せざるを押して本日の招待に応じたる事なればとて、午後四時博士に先ちて帝国ホテルに帰宿されたり、扨て愛蓮堂に於ては永井領事より簡単に最近米国に於て湧起したる日本問題に関し、博士が尽力せられたる事実を陳ぶべしとて、今春来日本人土地所有権問題、ホーマリーの日米開戦論、タフトンに於ける日本小学児童問題に関し、博士は人道上より是等の諸論に反対して桑港在住のブイ氏と共に、長文の論文を起稿して有力なる雑誌に投書し、以て米国の輿論を喚起したるは、是等諸問題を消滅せしむるに偉大なる勢力ありしを疑はずとて、博士が日本の為に常に非常なる好意を有せらるる事実を披露し、夫れより日米の関係に付き青淵先生と博士との間に種々の意見を交換せられたるが、其大要を録すれば、博士曰く
 近来日米両国民間に大なる誤解の存するは予の遺憾とする所なり、然れども米国人は決して日本に対して悪感情を抱くものに非ず、彼の移民拒絶の如きは、云はゞ労働供給てふ商取引上の繋争にして、決して両国国際間の交誼に関することには非ず、多数の米国人は今日も昔時と同様日本に対し多大の同情を有するなり、故に日本人は一部の米人が偶々煽動的言辞を弄するものあるも、之に依りて米国人全体に対する感情を害するが如き事なく、一切意に介せざらんことを望む。
之に対し青淵先生は
 予は今更千八百五十五年我国開国当時の歴史に遡りて、日米関係を云為するものに非ざるも、我国今日の文明は米国に負ふ所甚だ多く我国民は当に米国に対し全幅の好意を有せり、然るに近来稍もすれば両国民間に間隙の生ぜんとするが如き傾向あるは甚だ遺憾に堪へず、博士は移民問題は商取引の争ひにして何等外交上の関係なく、米国国民中最力なる階級に於ては決して排日思想の如きもの存在せずと述られたるも、予は之に首肯し難き節あり、移民問題は貴下の言の如しとし、又小学児童問題の如きは在米日本人に於ても大に省みざるべからざるものありとするも、近年米国有力なる人士中に日米必戦論の行はるゝが如き、満洲鉄道中立問題がノックス卿に依て提出せられたるが如き、又近くは日本人土地所有権問題の如き、日米国際関係に於て必しも昔日の交誼尚ほ存在すと認め難きものあり是に於て予は左の二問に付き博士の意見を聞かんとす、第一予は先年セントポールに於て大北鉄道社長ジエームス・ヒル氏と会見せる際、氏は満洲問題に対し予と符節を合するが如き意見を吐かれたり即ち米国人は満洲に於ける機会均等門戸開放を主張すと雖も、絶対に機会均等を唱ふる事能はざるなり、日本は満洲に対して是迄巨額の資本を下し、多大の犠牲を払ひたり、故に日本が他国に比しより多くの利権を獲得するは寧ろ当然の理にして、之に対し異議を挟むは正当に非ざるなりと、是れ実に公正の議論にして予の深くヒル氏
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に推服せる所以なるが、之に対する御高見如何、第二米国に於て一部の人士間に行はるゝ所の排日煽動的言動は必ずしも意に介するに足らぬやも知れざれども、雲起れば雷雨を想ひ、風起れば颶風を憂ふは人情の常にして、米国に於て排日的言動あれば、日米関係の将来に対し日本人が危惧の念も抱くも亦自然の数なり、故に予は米国に全然排日的言動の行はれざるを希望するものなるが、如何にせば日米間に横はる此暗雲を除去することを得べきや御意見如何。
之に対し博士は
 満洲問題に関するノックス氏の所論の真意は予の知らざる処、又オブライアン氏は満洲の経営は他国人の関係する事を得ずと云ふ意見なるが如し、左れど其理由は予の知らざる処、ヒル氏の意見に到りては米国人の大部分は同意見と見て可なり、又加州に起る排日問題に関しては米国人は孰れも均しく発言権を有すれば、傍若無人勝手に説を為すも何等根柢を有するものに非ざるを以て、将来は消滅に至るものなる事を信ずれども、予は道徳上より常に之れが非なる事を説破し居れり云々。
日本国民の代表的意見とも見るべき青淵先生の意見と、世界平和の使節とも見るべき博士の意見とは互に交換せられ、何時尽くべしとも見えざりしが、青淵先生には令夫人と共に博士を伴ふて帝国劇場見物の約ありしかば、玆に談話を中止して、午後六時帝国劇場に同伴す、博士と同行渡来したるケンブリッヂ大学教授ベニアンス氏及久万俊泰氏既に到着しあり、博士は二幕目「頼母下屋敷の場」の半ば頃より見物し始め、時々青淵先生及び通訳久万氏の説明を聞く外は、側目も振らず、其熱心なること外国人の我が観劇としては稀に見る所にして、終に中幕、二番目の喜劇迄見物したりしが、其厳格なる顔貌は狂言の喜怒哀楽に動かされし様子もなく、微笑をだに漏さゞりしは傍人の推服する所なりき、夢殿の三幕目を了るや男は博士等を貴賓室に招じて洋食の晩餐を饗したり、博士は当夜の演劇に就いて頗る興味を感じたるものゝ如く、劇場の建築構造等を賞賛し、且つ舞台の背景等も非常に美事に出来居りて欧米に対しても遜色なく、且つ劇の結構や技術に就ては何分言語を解せざる為め充分には解し得られねど、筋の如き頗る大仕掛けの物を引締めて簡略ならしめたる点にも成効し、俳優も亦台詞と動作との意外に一種の表情に依りて言外の意を表し居れる抔、前回来朝の際に見物せし折よりは凡てに於て進歩し居るものゝ如しと評し、殊に中幕扇屋熊谷の如き、日本語を解せざる人には中々了解し難き筋なるにも拘はらず、常に日本の武士道抔をも研究し居る博士には左迄了解に苦しみし様子もなかりしと云へり、尚ほ博士は当日の演劇が大に其意に叶ひしものと見え、男爵に向ひて、今日夫人が所労にて観劇の機会を逸せしは頗る遺憾なれば、他日必ず一見させ置き度し抔と語り居たり。
観劇終了後青淵先生は令夫人と共に自働車にて博士・ベニアンス氏を帝国ホテルに送りて帰館せられたり


竜門雑誌 第二八一号・第一一―一四頁明治四四年一〇月 日米間を襲ふ低気圧問題 青淵先生とジヨルダン博士の問答(DK390018k-0004)
第39巻 p.62-65 ページ画像

竜門雑誌 第二八一号・第一一―一四頁明治四四年一〇月
 - 第39巻 p.63 -ページ画像 
    日米間を襲ふ低気圧問題
            青淵先生とジヨルダン博士の問答
  本篇は青淵先生が九月六日、ジヨルダン博士を飛鳥山の曖依村荘に招待したる席上に於て、商工業上の見地よりして相互に腹蔵なく交換したる談話の要領なり。(編者識)
△青淵先生 ジヨルダン博士は永く教育界に於て専心尽瘁せられた御方であって、殊に世界の平和を以て其主義とせらるゝ紳士である。左様な高潔にして有力なる御方が、此度我邦に渡来せられたるは、日本人一般の歓迎する所であります。殊に私が今日拙宅に御招待を致したるに御多忙の御身炎暑の際にも拘らず、来臨せられたるは深く感謝する所であります。幸に自分の親友にして日本の財界に深き関係を有し重大の責任ある方々の御陪席を得ましたに就ては、午餐後庭園の一方に特に清潔なる建物がありますゆえ、其の堂上に於て形式上の事を除却し、御互に個人の資格に於て商工業上の見地から、真に胸襟を開きたるお話を交換することを希ふ次第であります。
△ジヨルダン博士 予が日本に渡来したるは今回が初めてには非ず、既往十一年前に参りました。其の時の目的は本職の魚類の研究に在りましたので、北海道から琉球辺まで跋渉致しました。併し今回日本に来りし目的は専ら世界平和の為めに尽したいと云ふのが唯一の目的であります、斯く平和の為めと称道するも其の意味は決して戦争の起るを防がんとするにあらず。何んとなれば今日の時態は戦争は殆んど有り得べからざる程に至つて居ると思ふのである。私の企望は戦争を防がんとするにあらずして、軍備の為めに世界各国民が負うて居る重荷を軽減せしめて、軍備の為めに費す莫大の資金を教育なり道路なり、総て生産的の資に供し、一般人民の幸福になる所ろのものに使用するやうに為さんことを欲する為めであります。抑も世界列国が競うて軍備に汲々として日も維れ足らざるは、相互に疑心を抱くからである。故に先づ以て其の国際間の疑心を去らしむるやう努むべきである。亜米利加が日本を親友とし、日本が亜米利加を親友とする如く、英国とも又欧羅巴諸国とも相互に親密の交りをするやうになれば、殆んど軍備の必要はないのである。夫れには各国民の間に蟠る疑心を去らしめなければならぬ。要するに世界の平和の為めに尽したいと云ふ観念で此の度渡来したのである。今日は斯様に美しき御邸に御招待を辱うすると同時に、日本の財界の有力なる諸名士と会話の機会を与へ下された御主人の御厚意を深く感謝するのであります。
 午餐後、曖依村荘の一部に建設せられた愛蓮堂にジヨルダン博士及陪賓一同を案内し、主客打寛ぎて交換したる談話の要領は左の如し。
△青淵先生 最前も申述べた通り、私が今日ジヨルダン博士を御招待申上げたるは全く一個人の資格にて、毫も外交上の関係あるに非ず、但石井菊次郎君・永井松三君等の臨場あるも、同じく親友として御参席を請ひたるなれば、御一同総て個人として親友として腹蔵なく各其胸襟を披きて談話を交換せられたし、蓋し又是れ世界の平和を企図する意念に外ならざるなり。願くば諸君に於て此微意を諒とせられんことを。偖ジヨルダン博士が世界の平和の為め、及び我日本の為に過去
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に於て尽されたる功労を深く感謝する次第であります。而して博士が日本の為めに尽されたる最近の事柄に就ては、幸に永井君より諸君へ其要点をお話あらんことを望みます。
 と述べ、此に於て永井松三君(領事)は博士が最近に於て日本の為に尽されたる日本人土地所有権問題、小学児童排斥問題、其他排斥に関する問題に付三箇の出来事を挙げ詳細に説明せられたり。
△青淵先生 只今永井君のお話せられた、最近に於ける博士の御尽力は我々日本国民の深く感銘する所であります。亜米利加人の中には昔から日本に対して非常の厚意を以て居られたのであります。古き歴史を申せば、コモドル・ペリーが今を去ること五十九年前に日本に渡来せられて、我邦をば長き眠から起して世界万国に交りを締結するやうに導かれたのである。夫れから千八百五十八年にタウンセンド・ハリス氏が駐在公使とし渡来せられた。然るにハリス氏の日本に対する親切と注意と勇気とは実に非常なるものであった。殊にハリス氏の通訳官たるヒースケンといふ人が、日本の浪士の為めに暗殺されたことがある。所が他国の公使は斯くの如き法令の行届かぬ危険なる国に駐在して居ることは出来ないと云って、国旗を捲いて本国へ引挙げやうとした。其時に貴国公使のハリス氏は是れ決し政府の意思に非ず。必竟開国匆々の際、日本政府が浪士を制御すること能はざるに基くのである。諸君去らば去れ我れ独り止まらんと云うて毅然として動かなかつた。夫れが為めに他国の公使も止まるやうになつた。若し此時ハリス氏が他の公使と共に国旗を捲いて帰られたならば、日本は如何なる運命に出遇ふたか。忽ち外国と戦端を開くことゝなり、決して今日を見ることが出来なかつたのであらうと思はれる。日本の今日あるは全くハリス氏の厚意に基くものとして日本国民は一般に忘るゝことの出来ぬのであります。
△夏時低気圧と日本人排斥問題 然るに近来亜米利加の西部に日本人排斥問題が起つては消え消えては又起り、恰も夏の夕立の雲の如き観あるは誠に遺憾である。元来日本人は非常に刺戟を感じ易い人種で、此等の問題が起る毎に甚だ快く感じないのである。只夫れ丈けなれば宜いが或は其雲が変じて雨となり、雷が落ちて物を破壊する如く、左様な問題の起る結果自他に危害を及ぼすやうなことになりはせぬかと心配するのである。之を防ぐ方法即ち雲の起らぬやうにする途はありますまいか。
△ジヨルダン博士 日本人排斥問題は資本と労働との衝突に関する附たりの問題である。亜米利加に於ける正しき考への人は総て之を善事とは思はぬ。従つて之れが為めに日米の関係が悪くなるとは思はない只今日之れに処するの途は両国民ともに忍耐する外なからう。要するに日本人の労働者が米国に出稼ぎするのは米国に於ける労働の賃銀の標準を安くする原因になると云ふのが、或る種類の人々の間に於いて反対の根本として居るのである。ゆえに今日、日本政府が執るところの手段によりて日本から労働者をば亜米利加に入れないやうにして、暫く耐忍して居たならば遠からず此の問題は消滅するだらうと思ふ。
△日本人排斥の動機 一体米国西部の或る種類の人が日本人排斥を主
 - 第39巻 p.65 -ページ画像 
張し始めたのは、千八百九十年亜米利加が布哇を合併した時である。此時に総ての労働者が布哇から米国へ渡来したので、桑港に於ける労働組合会議で二ツの点が問題になつた。第一は日本の労働者の賃銀は余りに低きに失すると云ふ事、第二は日本人の出生の割合は非常に多いから、其渡来を防がなければならぬと云ふ事であつた。夫故此日本人排斥と云ふことは、全く日本人労働者の渡来より起つたる問題である。乃ち日本対亜米利加問題に非ずして、日本人労働者対桑港労働者の関係に過ぎないのである。
△青淵先生 それは御尤もである。其の点に就ては日本政府は勉めて労働者の渡来を防がうといふ方針を執つて居らるゝから、我々は大に安心して居る。今日此の問題を話題としたのは、我々が今日日米関係を懸念して居ると云うでなくして、お互に腹蔵なく談話をしたいと云ふ精神から申述べたに過ぎないのである。
 第二は満洲中立問題の提議である。一昨年予が米国のセントポールに赴きし時、同地に於てゼームス・ヒル氏に遇つた。時にヒル氏が云はるゝには満洲問題に就ては予は日本人と全く同感である。何故かと云ふに凡そ権利と云ふものは大に其事に勤労し、又は種々の困難に堪へたるに因つて生ずるものである。日本の満洲に於けるは、従来他列国に先じて巨額の資金と多大の犠牲を払つたのである。故に日本が機会均等、門戸開放の主義を妨げざる範囲に於て、満洲に対して各国より先取権を取得すべきは当然であると話された。私は此説を真に我意を得たるものとして誠に公平無私の所見であると信じて居る。若し夫れ亜米利加の全体が此説に同意して、尚ほ且つ日本人排斥問題が起らぬやうになれば、将来日米の関係は益々親密を加へ、彼我貿易は日に増し発達するに至るは疑ふべからざることである。
△ジヨルダン博士 亜米利加の有識者は皆ヒル氏の説に賛成であると思ふ。満洲問題に就ては亜米利加の国務大臣は日本をして思ふやうにさせやうと云ふ考へであると信ずる。オブライアン氏も亦其考へであるから曩の満洲問題は、最早今日に於ては過去の出来事であると信ずるのである。
 尚ほジヨルダン博士は高橋男の問に対して左の如く答へたり。
△ジヨルダン博士 警察其の他の事は市の支配に属し、教育其他の事は州の支配に属するけれども、諸外国との条約は合衆国政府の為す所であるから、如何なる場合と雖も州若くは市は、合衆国政府の締結したる条約に違反する法律を作ることは出来ないのである云々。