デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.160-163(DK390075k) ページ画像

大正7年3月2日(1918年)

是日、アメリカ合衆国人ジョン・シー・ベリー渋沢事務所ニ来訪シ、栄一トキリスト教ニ就キ対談ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK390075k-0001)
第39巻 p.160 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年 (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 晴 風強ク寒気殊ニ強キヲ覚フ
○上略
午前十一時兜町ニ抵リ、米国人ベリー氏、通訳沢谷氏ト共ニ来ルハリス監督モ来会ス、依テ欧洲ノ戦乱ニ付基斯教ノ尽力ノ足ラサル点ヲ詰リ、両氏ト種々ノ談話ヲ為ス、ベリー氏ハ四月中旬再ヒ東京ニ来ル由ナレハ、其期ニ於テ再会ノ事ヲ約ス ○下略


九恵 東京市養育院月報第二〇六号・第二―五頁大正七年四月 珍客ベリー氏と語る 養育院々長男爵 渋沢栄一(DK390075k-0002)
第39巻 p.160-163 ページ画像

九恵 東京市養育院月報第二〇六号・第二―五頁大正七年四月
    ○珍客ベリー氏と語る
                養育院々長男爵 渋沢栄一
  左に掲ぐるは去月、院長が来訪のベリー博士と兜町事務所にて語られたるものゝ筆記なり。
 米国人ジヨン・シー・ベリー氏は、明治五年より二十六年まで前後二十有一年間、基督教宣教師として日本に滞在し、近畿・中国の間に熱心布教せらるゝと同時に、我国監獄の改良、看護婦の養成、慈善事業の指導等にも尽瘁せられたる人であるが、当時余は同氏と相見るの
 - 第39巻 p.161 -ページ画像 
機会なく、従つて談話の折もなかつた、明治二十六年に至り氏は帰米して其後絶えて日本へ来らるゝこともなかつたが、今回四半世紀を経て再び渡来せられたのである。
 是を以て我が中央慈善協会は此遠来の珍客を迎へて其労を犒らはんが為め、二月二十八日を以て帝国ホテルに驩迎会を開催し、余は同会を代表して一場の祝辞を述べ、氏も亦之れに対する謝辞と共に「監獄改良と故人に対する記憶」てふ演題にて一場の講話を試みられた、之れ余が同氏と相見えたる最初の機会であつた。
 越えて二日、即ち三月二日の午前、ベリー氏は東京在住の米国宣教師ハリス監督と相伴ふて余が兜町の事務所に来訪せられ、長時間に亘りて楽しき会話をなしたのである。既に先夜一回の面識もあり。且つ意見の交換も行ひたる後なれば、相共に旧知を見るが如き感を以て、腹蔵なき款談に時を移したのである。
 ベリー氏もハリス氏も共に宗教界の長老であり、且つ世人の尊敬する所の学者である、故に余は斯かる宗教家と胸襟を開きたる会談の機会に於て、近時余の胸中を往来しつゝある宗教に関する一の疑問を提出して、其解決を得んものと想ふて、両氏に対して左の如き問題を提起したのである。
 余は平素欧洲先進国の文明は単に物質のみに偏依するものでない、真正の哲理と満足なる信念とによりて培養せられたる所謂、道徳的文明なるものである、縦令基督教の権威が物質文明の進歩の為めに、幾分其力を欧洲の社会に減ずることあるとするも、然も余は基督教の所謂天に在す神が欧洲諸国民の精神を支配することは、今尚ほ昔のごとくにして、歳月の推移によりて変ずるものではないと確信して居るのである、然るに今日の有様は如何である、欧洲の天地は全然戦乱の巷と化し、幾多の不義無道、残虐暴戻は其国の為めてふ得手勝手の名義の下に堂々として行はれ、弱肉強食の実例は随時随所に之を見るのである、昔日宗教改革の先駆者なるマルチン・ルーテルを主として、名誉を荷ひたる独逸も、今は侵略政策の張本となりて、四隣を蚕食し、物を奪ひ人を殺し、他国の生民をして塗炭の苦しみに陥らしむるを以て、自らの誇りとして居るのである、之れ果して何が故ぞや、若し天に全能慈愛の神ありとせば、欧洲今日の現状を如何に見給ふであらうか、而して今日の宗教家は之に就いて如何なる見解を懐かるゝか。世界の犯罪は文明の進歩に伴ふて漸く減少するは、各国刑事統計の証明する所である、蓋し神は人をして幸を多からしめんが為めに智識を与へらるゝのであらう、然るに其智識を進歩し、物質文明が発展するに従ふて罪悪が天下に瀰漫して、其極遂に今日の如き欧洲の惨劇を見るに至れるは、之れ神が人心を支配する力を喪失しつゝあると言はざるを得ぬのである、而して之れに対する貴君等の宗教家の説明は如何。
 特に余一身上の歴史より之れを見れば、目下の欧洲戦乱に就いて転た感慨深きものあり、今を去六十有余年前嘉永安政の交、余は紅顔の一少年で、幼時より東洋哲学即ち孔孟の道徳説に感化せられたものであつた、当時余は欧米諸国を以て巧智に富める物質文明の国にして、其人民は即ち弱肉強食の虎狼の民なりと信じて居たのである、故に互
 - 第39巻 p.162 -ページ画像 
市交易を求むるは即ち我が日本を侵略せんと欲するなりと思ひ、切に鎖港説を主張したのである、之れ余が当時一介の田舎書生にして、勿論宇内の形勢を審らかにせざる罪なりしも、其後帝都に出で、更に欧洲に遊学して聊か外国の事情を知るに至り、始めて余が当初の見解の誤謬を悟り、欧洲国民の宗教的道義心の崇高なると、其物質文明の進歩と共に精神的文明も亦大に優れるものあるを看取し、帰国の後物質文明を大に我が国に起さざるべからざるを覚えたのである、之れ実に明治初年のことであつて、爾来余は今日に至るまで日本の経済的事業発展の為め金融に、運輸に、商業に、工業に対して、自己の微力を傾注して貢献する所があつたのである、目下老境に入るに及んでは特に経済の発展と道徳の進歩とを一致せしめ、互に相背反せしめざらんことを努めつゝある、要するに過去四十有余年間に於ける余が努力なるものは、日本をして物質的文明に於ても精神的文明に於ても、欧米先進諸国に恥ぢざらしめんと欲するに在りて、常に泰西諸国を以て標準として居たのであるが、図らざりき今回の欧洲に於ける軍国主義の惨禍は、余をして昔時青年時代の感想を再起せしむる有様となり、心中私かに昨是今非を呼ぶを禁ぜざることゝなつたのである。
 既往は追ふべからずとするも、早晩戦争の終熄を告げ、欧洲の天地再び平和克復の時に当り、各国共に愈軍国主義を助長し、所謂財力兵力の競争となりて、宗教の力道徳の行は益萎微振はざることゝなるの慮なきや、此等の点に就て余は貴君等宗教家の説明を聞かんと欲するのである。
 以上は余がベリー氏に対して発したる忌憚なき質問であつた、而して之に対するベリー氏の答は略ぼ次の如くである。
 足下の発せられたる疑問に就ては、余輩も亦同じ懸念を抱きつゝあり、さあれ今日欧洲の天地に無道暴戻の行はるゝは無道暴戻者あるが為めにして、神の力弱きが為めと言ふべからず、而して今後の宗教家は実に晏如として居るべきでない、よろしく奮起して大に世界の罪悪と戦ひ、人としても国としても自己中心の利我的邪念を去り、個人間の正義も国際間の道徳も共に進みて利他博愛の精神を発展せしめ、弱肉強食の禍害如きは全然之れを撲滅するに尽力しなければならぬ、然りと雖も此は唯意思のみの問題にあらずして、力の問題と言はざるを得ぬ、如何道義心厚くとも力あるものにあらざれば、他の邪念を匡正することは出来ぬ、足下の提起せられたる問題は現に米国に於ても識者間に種々対論せられ、夙に余輩の胸中に湧起し居れば、向後尚ほ深く攻究せんと欲するも、余は今や関西に向つて出発せんとしつゝあり望むらくは四月中旬再び東京に帰来して、更に日を期して相会し胸襟を開いて相談せんことを。
 以上は之れベリー氏の余が問に対する答の大意である、事慈善救済に関せざりしと雖も、互に虚心坦懐を以て時局に関する宗教上の一問題を快談するを得たるは、余の衷心喜悦に堪へざる所である。
 因に云ふ、ハリス監督は当日所要ありて早く去りしにより、余はベリー氏と多く談話したり、且つベリー氏は能く日本語を操つらるゝを以て仲介を要せず相語るを得たりと雖も、間々難解を感ずる箇所は同
 - 第39巻 p.163 -ページ画像 
伴の沢谷氏通訳せられ、為めに相互の意思を充分に解するを得たるは余の深く満足する所である。



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正七年(DK390075k-0003)
第39巻 p.163 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
三月二十日 曇 強風砂塵ヲ捲キ、道路暗黒ニシテ咫尺ヲ弁セス
○上略 ○午後 事務所ニ抵リ、ベリー氏東京着後ノ宴会ニ付、デビス氏ト会話ス ○下略