デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.341-345(DK390194k) ページ画像

大正15年3月8日(1926年)

是日栄一、アメリカ合衆国サン・フランシスコ新世界新聞社主催、日系市民男女学生母国修学観光団ヲ飛鳥山邸ニ招キ午餐ヲ饗応シ、一場ノ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一五年(DK390194k-0001)
第39巻 p.341 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一五年          (渋沢子爵家所蔵)
三月八日 晴 寒
○上略 正午米国ヨリ渡来セル青年男女二十名余来訪、青淵文庫ニ於テ接待シ、鄭寧ニ日米ノ国交及予等関係委員会ニ於ル爾来ノ経営ヲ縷述ス畢テ午飧ヲ共ニシ○下略


(増田明六)日誌 大正一五年(DK390194k-0002)
第39巻 p.341 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一五年      (増田正純氏所蔵)
八日○三月 月 晴 出勤
前十一時米国出生市民母国観光団の一行(桑港新世界新聞社主催、東京日々新聞後援)十五名飛鳥山邸ニ子爵を拝訪、面会の上種々有益なる談話を聴取す、子爵より一行ニ午餐を饗せらる


招客書類(二) 【大正十五年三月八日午前十一時、於飛鳥山邸 米国出生日系市民母国観光学生団】(DK390194k-0003)
第39巻 p.341-342 ページ画像

招客書類(二)              (渋沢子爵家所蔵)
 大正十五年三月八日午前十一時、於飛鳥山邸
  米国出生日系市民母国観光学生団
一桑港新世界社主催 東京日々 大阪毎日両社後援
一行ハ二十八名午前十一時飛鳥山邸来着
子爵ヨリ一場ノ訓諭ノ辞アリ、於青淵文庫
零時半午餐 同
 一皿盛洋食 パン すし シトロン タンサン 団子 番茶
午後二時退散

(印刷物)
    米国桑港新世界新聞社主催
      日系米国市民男女母国修学団見学日程
                     後援東京日日新聞社大阪毎日新聞社
○中略
   三月八日(月曜)
             渋沢デー
  本日渋沢子爵より凡てを斡旋さる
 ○栄養研究所 午前九時半
 ○理化学研究所 午前九時朝食
 - 第39巻 p.342 -ページ画像 
 ○農事試験所 午前十時
 ○蚕糸学校 午前十時半
 ○子爵訪問 午前十一時滝の川本邸に渋沢子爵訪問、談話交換、午餐の饗応、訓話あり
 ○醸造試験所 午後二時半
 ○王子製紙会社 午後三時王子製紙会社十条工場参観、夕食の饗応
○下略


竜門雑誌 第四五〇号・第一―六頁大正一五年三月 日米問題の経過と道徳経済合一 青淵先生(DK390194k-0004)
第39巻 p.342-345 ページ画像

竜門雑誌 第四五〇号・第一―六頁大正一五年三月
    日米問題の経過と道徳経済合一    青淵先生
      一
 私が米国の事に関係したのは一朝一夕のことではありません。自己の歴史から考へても、青年の頃には漢学書生として、兎角外国を巧利の国とし、時の政府が充分事情を研究せずして、外国の求めるまゝに応ずる風があるので、其外交の軟弱を憤り暴挙を企てやうとしたことさへある程であつて、外国を夷狄として排斥したのでありました。之は廿四・五歳までの私の考へであるが、其後はそれではならぬと考へる様になりました。それから廿八歳の時、私は欧洲へ行くことになりました。当時は未だ旧幕時代で、将軍の弟君が仏国へ使節として赴かれることゝなり、之に随従することゝなつたのであります。処が其翌年幕府が倒れ、直ぐに帰国の余儀ないことになり、予期した勉強も出来なかつたのであります。爾来数十年を経過し、世相幾変遷を見たが今にして当時を思へば実に感慨無量であります。其の時分漢学書生として外国は単に巧利を旨とし、仁義なき国であると思つて居たが、これは後に非常な間違ひであつたことを知りました。それはこの巧利を先にし仁義を考へないのは、東洋の道徳には牴触する点も少なくないけれども、之あるが為めに科学の発達を促し経済上の発展を所期することが出来ると云ふことが明かになり、仏蘭西・英吉利並に亜米利加合衆国等の実状がそれを物語つて居ることが分つたからであります。斯様な次第でありますから、私は明治維新以前から我国と関係の深い米国に対しては特に其国情を知りたいと考へて居たのでございます。
 日本と米国との接触は、コンモドル・ペリーが来航し開国の要求をしたのが最初で、実に私の十四歳の時でありました。此事実は少年の私の耳にも心にも強い感触を与へたのであります。爾来両国の関係は次第に密接となり、日本人は米国人に対して頗る深く敬意を表し、学者や実業家はお互に親しみ、貿易上でも国交上でも年と共に親密を増し、好誼を通じて居たのであります。然るに明治三十九年に面白からぬことが起りました。それは例の日露戦争の結果として、ポウツマス条約が米国大統領ルーズヴエルト氏の容易ならぬ尽力によつて成立したが、之れが日本人に不満足であつた。日本人としては日本が戦争では捷利を得たのであるから大いに都合よくなると思つて居たのに、事実は却つて露国に都合よく、日本は陥れられた様に見えた。そこで或は全権たる小村寿太郎侯の講和談判が拙かつたからであるなどとの批評もあり、初めて米国に対し面白くない感情を抱く様になつたので
 - 第39巻 p.343 -ページ画像 
あります。勿論識者には左様なことはなかつたのでありますが、多少ともあつたこの不満が米国に自然反映して行つたのであります。それから又一方では日本は欧羅巴に雄視した露国と戦つて之に捷つたのである、日本には相当の実力がある、と云ふ自惚を持ち大手を振つて歩く者も出来ると云ふ有様で、之等がいたく米国人をして日本人は誠に嫌な国民であると思はしめた様であります。従つて此頃から日本の移民が好くない待遇を受ける様になりました。紳士協約は明治四十年に締結せられたと思ひますが、翌四十一年に小村侯が移民問題の成行を非常に心配して、国交は単に政府の樽爼接衝のみでは効果は挙らぬ、国民外交が必要であると云ふので、私と益田孝君とに話があつた。私は大いに共鳴したが益田君は起たなかつたのであります。此年に東京及其他各地の商業会議所が、米国太平洋沿岸の八商業会議所の人々を招待して交歓することになりました。之が両国国民外交の初まりでありますが、米国からは婦人も混つて五十人余り見えたのであります。私は其前年、東京商業会議所の会頭は辞して居たのでありますけれども、私の次に会頭となつた中野武営君から相談を受け、私も喜んで同意し、多少の斡旋をしました。各地の歓迎も宜しきを得ましたので、一同大層悦んで帰られた様でありました。それから翌年、太平洋沿岸の商業会議所の評議で、日本の実業家を招待することになりましたので、之に応じて日本から渡米実業団を組織して、五十人ばかり米国を訪ねることになり、私が団長となつて行きました。其時私は日露戦後の感情上の誤解を解かうとして、加州方面では特に努力致しまして、例のマクラツチーであるとか労働界のシヤーレンベルグとか云ふやうな排日の強い主張をする人々と闘論しました。然し加州方面では依然として誤解があるか、稍もすれば日本人攻撃に出でるやうで、今日に於ても継続して居るのであります。斯くして遂に大正二年には、土地に関する法律が出て、日本移民は非常な迷惑を蒙ることになつた。此時にも商業会議所の会頭は中野君でありましたが、同君と相談して一時的のものでありますが、対米同志会と云ふ会を組織し、添田寿一君と神谷忠雄君を渡米せしめ、多少の尽力はしたけれども、左程有効でなかつたのであります。
 其処で私は、一時的の対策を講ずるのでは駄目である、継続的にやらねばならぬと考へました。其後大正四年の春、桑港に於てパナマ運河開通を記念する為め大博覧会を催うしたことがあります。処が其前年彼の世界大戦が勃発した為め、欧洲各国の出品がなく、日本も従来の行掛りから出品するとか、せぬとか大分議論がありましたが、兎に角日本からは出すことになり、然も其の出品は非常に多数であつたから、此時は日本に対して好感情を持つて居た。私も博覧会を参観し又同時に在留邦人の実況をも知り、今後の方法も考究したいと思ふて大正四年の秋出発渡米しました。当時桑港商業会議所の会頭であつたアレキサンダー君とも会見して、色々意見の交換をした後、東部へ参り更に又桑港に帰つてアレキサンダー君を始め、其他の諸君と熟議し、結局桑港と東京とに日米問題に関する常設の機関を組織することを打合はせて帰りました。大正五年の春帰国すると直ちに主として有力な
 - 第39巻 p.344 -ページ画像 
る実業家を以て、日米関係委員会なる団体を組織し、爾来私も重なる一人として働いて居ります。会員は主として経済界の人々で学者・政治家などもあります。小村侯の所謂国民外交の一端に努力して居る訳で勿論大なる働きは出来ないまでも、一種の同志の団体として桑港の同じ主旨の団体と相談してやつて居ます。其内、紐育にも宗教家のギユーリツク博士、法律家のウヰツカーシヤム博士等が中心となつて、日本との関係を円満にし、間違ひをなからしめやうとする会が出来ました、斯くして今日では紐育・桑港及東京の各団体でお互ひに協力し日米間の国民外交を行つて居ります。
 大正九年の春、移民問題・土地問題其他に就て丁寧に協議する為め特に日米関係協議会を開き、桑港のアレキサンダー君外六・七人を招待し、又引続いて同様の目的を以て、日米協議会の為めヴアンダーリツプ君を団長とする東部の有力者諸君を招待し、共に東京で数回協議し、種々方法を講じて見たが、結局政府を動かすことが出来ず、遂には一昨年に到つて最も面白からぬ移民法の成立を見たのであります。折角骨を折つたに拘らず一向効能がなく、面目ない訳であります。然し努めたりと云はねばならぬので、只時利あらず、此結果になつたと申してよからうと思ひます。そして米国人が移民法に関してどう考へて居るかと云ふことを遠慮なく云へば、有力な人々例へばヴアンダーリツプ、アレキサンダー、キングスレー、タフトの諸君などは真に困つた事であると口ぐせのやうに云つて居る。そして異口同音に『アヽした事をしては困る。議会がはやり過ぎた』と申して居るのであります。『では之を改正せよ』と云ひますと非常に危ぶんで居る。然し出来ないとは申さないのであります。移民法の将来は如何になるであらうか、之が今後注意せねばならぬ問題でありますが、私はそれに対しては、日本からは攻撃的に出でず、米国自らに改正させたいものであると考へるのであります。故に米国にある人達は、全然米国人となることを心掛けなければならぬのでありまして、事実の運びは遅いかも知れないが、それが最も賢明な日米問題解決の方法であらうと思ふのであります。之は私のみが申すのでなく重なる日米の同志は同様の意見を持つて居るのであります。
 以上私の米国に対する関係の概略を沿革的に申上げました。これは決して自分の働きを喋々する為めではなく、たヾ事実を有の儘に些かも修飾を加へず述べたに過ぎませぬ。
      二
次に申上げたいのは私の世に立つに就ての主義であります。これは常に若い人達には訓戒的に話して居ることでございます。東洋の昔の教は、総て忠孝が中心であつて、五倫五常を説き、殆ど精神的のもののみで、物質に関することは余り申しませぬ。故に或る点は至極当を得たものではあるが、科学的のことがなく経済的でないのであります。勿論東洋に於ては、精神の方を主として進んで行き、重んぜねばならぬでありませう。然るに西洋の教は巧利を重んじ、富を進め様と云ふことが主眼になつてゐる。従つて他人の事よりは、自分の進むことを考へるやうであります。斯様な所から道徳に就て見ましても、東洋は
 - 第39巻 p.345 -ページ画像 
精神的であり、西洋は物質的であり、又前者は消極的であるに対して後者は積極的である。確か馬太伝であつたと思ふ『人が善事を自覚すれば、自ら行ふと同時に人にも行はしめよ』と云ふ意味の言葉がある之に対して孔子の教である論語には『夫子之道忠恕而已矣』とあり又『己所不欲勿施於人』と云つてありまして、西洋の積極に比し、東洋の消極をよく現して居ります。故に東洋では権利よりも義務を先にするが、西洋では自己を先にして義務よりは権利を先にする彼の福沢諭吉君の『独立自尊』が先になつて悪く云へば、得手勝手に属する事柄が多くなります。
殊に国と国との間では、此自己を先にして自己の都合を計ると弊害が多く、道理にもとり、争を生じ、衝突を起す。そして極端になると事毎に力を以てし、争闘を事とするに至りまして、真の世界の平和は、物質的なる西洋道徳のみでは期待出来ないと思ふのであります。故に闘争を事としてゐては年月が徒らに経過するのみで、進んでは倒れ、進んでは倒れ、結局何等の進歩を見ることが出来ない、それでは実に情無い次第で、私達は今少し基礎のある道徳、換言すれば、東洋流の道徳主義を加味することの必要を深く感ずるのであります。日本も維新以来西洋流を輸入し、政党の如きも組織せられたが、甲是乙非、いがみ合ひばかりで、此頃の状態では政党など真になくもがなの感があらうと思ひます。これは自分の国の事柄で情無いことゝ思ふて居りますが、他の国々も多くはそれに近く、一般に権利思想のみ発達し、義務観念が進まぬ、為めに斯様な事態になつて居るのであります。
 知識を広め、権利を主張すると同時に、人は必ず義務観念を進めて行かねば、真の世界の平和は永久に望むこと能はざるものであると信じて居ります。故に私は大正五年実業界を退いてからは、道理を守り又之を進めることに極力努力しつゝあるのであります。私は別に学問がある訳ではないが、早くから論語主義を以て総ての事業を経営して来ました。そして道徳経済合一を以て信条と致して居りまして、常に声は涸れ、咽は破れ、筆は折れる迄強く主張して居りますが、尚、生存する限り力説する積りであります。関係の深い人々には之を話すことを、私の義務であるとして居りますから、斯く申述べた次第であります。
  編輯者附記 右は三月八日青淵先生が、米国生れ日本人学生の日本修学観光団一行を、王子邸へ御招待になりました席上での御演説でございます、一行は当日を渋沢デーと称して、青淵先生の御紹介になつた理化学研究所其他を参観いたしました。


中外商業新報 第一四三七九号大正一五年三月九日 渋沢子と同胞修学団(DK390194k-0005)
第39巻 p.345 ページ画像

中外商業新報 第一四三七九号大正一五年三月九日
    渋沢子と同胞修学団
王子の渋沢子爵邸では、八日正午米国桑港新世界新聞社主催の日本修学観光団小野徹昭氏一行を招待し午餐会を催し、席上子爵の日米関係並に経済道徳に関する訓話があつた、なほ一行は当日を渋沢デーとして同子爵の斡旋に依り、栄養研究所・理化学研究所・農事試験所・蚕糸学校・醸造試験所・王子製紙工場をそれぞれ参観した