デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.490-496(DK390247k) ページ画像

昭和2年7月18日(1927年)

是日栄一、アメリカ合衆国ロス・アンジェルスノ学生日本見学団ヲ飛鳥山邸ニ招待ス。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK390247k-0001)
第39巻 p.490 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
七月十八日 月 午前十時 在ロスアンゼルス日本人学生母国観光団
        招待会(飛鳥山邸)


竜門雑誌 第四六七号・第一一七頁 昭和二年八月 青淵先生動静大要(DK390247k-0002)
第39巻 p.490-491 ページ画像

竜門雑誌  第四六七号・第一一七頁 昭和二年八月
    青淵先生動静大要
 - 第39巻 p.491 -ページ画像 
      七月中
十八日 米国ロサンゼルス日本人学生母国観光団招待会(曖依村荘)
○下略


竜門雑誌 第四六七号・第九―一三頁 昭和二年八月 近事三題 青淵先生(DK390247k-0003)
第39巻 p.491-494 ページ画像

竜門雑誌  第四六七号・第九―一三頁 昭和二年八月
    近事三題
                      青淵先生
○上略
      三
  最後に日米関係であります。七月十八日加州大学外五大学の日米学生団一行が飛鳥山の宅を訪問して呉れましたので一言しましたから、大要を御話して置きます。
 今日諸君が御訪ね下さつたことを心から喜んで御迎へするのは、私が従来日米親善に就て努力致して居るからであります。英語で御話の出来ませぬのは残念でありますが、日米関係に付て平素から考へて居ることなり、希望なりを腹蔵なく申述べたいと思ひます。
 私は八十八歳の老人でありますが、米国に対する感念は子供の時から刻み込まれて居ります。私の十四歳の時、コンモドル・ペリーが来朝しました。勿論十四歳位の少年に国家的な感想などが浮ぶ筈はありませんが、当時は徳川幕府の時代で外国との交通は開けて居らず、外国船を黒船と呼んで居りました。一般に外国船の襲来を問題とし、何れも非常に心配して居りましたので、それを憂へる書物が出たのを読んでは、一種慨世憂国の念を抱きました。加之私に読書を教へた先生とか、百姓ながら書物をよく読んで居た父親とか、或は友人等の刺戟があつたから、当時から国民としての感触が強く、自国の安寧と体面とを重んじ、勢ひ我を侵さうとする外国を夷狄としたのであります。当時の議論は開国と鎖国とに分れて、所謂志士の間にも此両派がありました。そして黒船を最初に持つて来たのは米国人でありますが、露国も北の方から、都合によつては樺太のみならず、北海道をも侵略しやうと云ふやうな思案で来たらしいので、日本人としては其の有様を大に憂慮したのは無理もないことであります。
 ペリー来航の後四年を経て、タウンセンド・ハリスが米国総領事として来ました。此人に対しては別して深い感触を持つて居ります。其関係から、ハリスが安政三年九月四日初めて領事館旗を立てた伊豆柿崎の玉泉寺に記念碑を建設する計劃で、成るべく来る九月四日に除幕式を挙げやうと現に尽力致して居ります。タウンセンド・ハリスが日本の為めに尽した点は中々少くない為めに、ハリス個人に対しては勿論、延いて米国に対しても深く感謝して居る次第であります。何分にもハリスの日本に駐在した当時は、外国の事情を知る者が殆んどなく然も外国は兎もすれば力づくで侵略しようとするものでないかと思はるゝ点もあり、殊に英吉利と仏蘭西とは支那を敗り、戦勝の余勢で鼻息荒く逼つて来る。又露国は虎視耽々として我が北辺を窺ふと云ふ有様でありましたから、日本国内の人心は著しく不安の念を抱いたのは止むを得ないのであります。此危急の時に於てハリスが日本に対して
 - 第39巻 p.492 -ページ画像 
採つた行動は、政治上にも経済上にも、好意に満ちたもので、尠なからぬ効果がありました。其の実状は未だ広く伝へられては居りませぬが、調べて見ますと、ハリスが総領事であつた二年間及び公使であつた時を通じて種々の条約を締結するに当つて、常に道理正しく、何等圧迫がましい態度に出づることなく、日本の当事者たる井上信濃守・岩瀬肥後守等によく色々の事柄を教へ導いてくれましたが、就中「タリフ」に就ては、細々と日本の利益を先にして教へられ、其他の条約の如きは他国との条約の模範となることが多かつたのであります。更に安政五年一つの事件が起つた時は、ハリスの公明正大な態度によつて、よく他の外国を導いたのであります。当時国を憂へた人々所謂志士が横行闊歩して、幕府の力では中々取締がつかず、而も此等の壮士は何れも攘夷論者で、外国人と見れば危害を加へやうとする有様でありました。依て幕府では危険を慮り、夜分外出しないようにと外国公使に通達しました。処がハリスの通訳官であつた和蘭人のヒユースケンと云ふ人が、人を送つて夜分に出た為め、古川端で壮士に斬殺されました。此事変によつて各国公使は非常に憤慨し、幕府の治安維持に信頼する能はずと為し、何れも忽ち江戸を引払つて、神奈川に引上げたのであります。然るにハリスはたゞ一人公使館として居た麻布の善福寺に落付いて引上げやうとせず、『国と国との交際上、いはれなく公使館と定めた場所を引上げるのは、相手の国に対して大いなる侮辱である。吾々は幕府から取締上、夜分外出しないやうにとの注告を受けて居る。然るに個人の用事ではないにしても此注告を無視して外出した為めに此間違が生じたので此方にも手落があるのである。又一国を開かうと云ふには種々面倒なことの起るのは当然のことである。それを導くのが先進国の責任ではないか、故に私は江戸を去ることは出来ぬ』と言ふて、ハリスは端然として動じなかつたのであります。此が為め各国の公使も再び夫々の公使館に引返しました。此ハリスの毅然たる行動は武士道そのまゝであります。私は此の点に対し特に感服して居りますので、此度記念碑を建てるのも単に日米親善の意味のみではなく、ハリスを偲ぶ為めでもあります。ハリスが上陸した時の日記がありますが、それによると『上陸の前夜は昂奮して居る上に大きな蚊が沢山居て眠られず、将来の事を考へて心配であつた』とあり、『愈々上陸して玉泉寺へ領事館旗を立てる時には、風が強くて旗竿が倒れたが、漸く大勢で立て其の目的は達した、然し此国の将来は果してどう成るか――』と言外に少なからぬ意味を含ませてあります。真に安政三年九月四日に立てた此旗が未来如何に日本を導くであらうかと書いて居るハリスの心を深く推察すると、七十年前を充分思ひやることが出来ると思ひます。そして此の『どうなるか――』と簡単に切つてある処は、丁度馬琴の或る小説に、何も書いてない手紙が一番深い意味を有ち、重大な要務を果したと云ふことを書いてありますが、それと同様に深い感興を起させるのであります。
 これではお話が既往の事になつてしまひましたが、ハリスの碑を建てようとして居る時でありますから、よい機会と思ひ申し上げた訳であります。扨て其後に於ける日本と米国との厚誼は総て他の国々より
 - 第39巻 p.493 -ページ画像 
も進んで参りまして、馬関事件の償金の返却にしても、治外法権の撤廃にしても米国が率先して承諾したのでありますが、又国交上のみならず、経済的にも貿易など頗る順調に行はれて居ました。然るに彼の加州方面の移民問題が起つたと云ふことは、真に遺憾に堪えません。米国が日本に対し同情を有ち、彼の日露戦争の如き日本の戦捷を喜んで呉れたが、一方長く戦争を継続することは日本の為めに不利であるとして、大統領ルーズヴエルト氏が尽力し、遂にポーツマウスで媾和談判を開くことになつたのであります。然るに媾和成立の結果償金が取れなかつたと云ふので、一部の日本人はそれに不満を称へ、米国をよく云はなかつたのであります。又一方加州に居る日本移民の中には日本は強国露国と戦つて勝つた。日本は強いと多少とも威張る風があり、従来日本人は従順で勤勉であると云はれたのに、打つて変つた有様になつたので、米国の排日傾向にある人々をして一層不快を感ぜしめ、遂に加州に於て移民問題を惹起せしめたのであります。時の外務大臣小村寿太郎侯は此の有様を非常に憂慮して、米国は輿論の国であるから、国民外交に依り輿論に訴へるのが得策であるとして、商業会議所関係の方面へ、さうしたことの実行を慫慂せられ、どうか、是々非々主義でやつて欲しいと言はれました。当時の東京商業会議所会頭は中野武営氏でありましたけれども、商業会議所の設立以来三十年間私が会頭の椅子を占めて居た関係から、私に相談があつたのと、私も日米関係の重要さを感じて居たことゝて大いに力を入れ、商業会議所の人々と協力して尽した訳であります。そして明治四十一年には米国太平洋岸地方の八商業会議所に招待状を発した処、其の八月、四十名の一団が来ましたので、私は接待役として各方面を案内したりしました。すると翌四十二年に右の八商業会議所から渡米の勧誘がありましたので、渡米実業団を組織し一行五十六名、婦人も交つた一団として観光に出かけましたが、私は其の団長として参つたのでありました。其時既に七十歳でありましたから、そんなに若くはなかつたのであります。それから更に大正四年に渡米致しました時には、桑港でアレキサンダー氏などが中心となり、米日関係委員会なるものを組織して居りましたので、帰朝後私達も相談して同志が廿九人、実業家・学者・政治家等打寄つて、同様日米関係委員会を組織し、私が常務委員として世話を致して居ります。又紐育でもギユリツク博士やウヰカーシヤム博士等が主唱して同じやうな団体を作りましたから、折がある毎に互に意見の交換を行ひ聊か日米の親善に資して居ります。此春ギユーリツク博士の心配で沢山人形を送られました故、之を普ねく各地の学校に配布したような訳で、目下返礼の相談中であります。
 斯く私は渝らざる思入を有つて居るに拘らず、米国の排日移民法が成立したことは、折角の紳士協約を廃棄したもので、困つたことゝ思ひます。併し私の申すことが不満のやうに聞えては困ります。決して苦情がましく申すのでなく、日本人としての心事を遠慮なく御話した次第であります。従つて米国の方には何人にも常に之と同様のことを申して居りますので、私の会ふ程の人は何れも親切に『移民法の改正に努力してやらう』と云つて下さるのであります。
 - 第39巻 p.494 -ページ画像 
 以上の通り日米両国は、長い間親善であつたのでありますから、今後とも一層親密さを深めて行かねばなりません。人類の世に立つ望みは平和に尽すことにあります。此点から観察しても、両国の間のこだはりを柔かに考へて、国交を進めて行くべきでありませう。申したことが自他混淆のやうでありますが、一方面に片よらず私の考へを腹蔵なく披攊したのでありまして、日本人の温和な考へを持つ者は、何れも私のやうな意見で、彼の移民法は折もあれば改正され度い、そして欧洲の諸国と同様の取扱にして下されるやう、希望して居るのであります。


(ポール・ビー・ウォーターハウス) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年九月二七日(DK390247k-0004)
第39巻 p.494-495 ページ画像

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(エフ・エヌ・清水) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年一一月一日(DK390247k-0005)
第39巻 p.495-496 ページ画像

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