デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.496-504(DK390248k) ページ画像

昭和2年8月8日(1927年)

是日栄一、アメリカ合衆国ミズーリ大学新聞学部長ウォルター・ウィリアムズヲ、飛鳥山邸ニ招待シテ茶会ヲ催ス。


■資料

竜門雑誌 第四六八号・第八七頁 昭和二年九月 青淵先生動静大要(DK390248k-0001)
第39巻 p.496 ページ画像

竜門雑誌  第四六八号・第八七頁 昭和二年九月
    青淵先生動静大要
      八月中
八日 ウオルター・ウヰリアムズ氏招待茶話会(曖依村荘) ○下略


招客書類 (二) 【昭和二年八月八日午後二時半、於飛鳥山邸茶会 (太丸ハ朱書)】(DK390248k-0002)
第39巻 p.496 ページ画像

招客書類 (二)            (渋沢子爵家所蔵)
 昭和二年八月八日午後二時半、於飛鳥山邸茶会
                (太丸ハ朱書)
                ○ウイリアムス
              未定 男阪谷芳郎
                ○上田万年
                ○三上参次
                ○簗田𨥆次郎
                ○姉崎正治
                ○小野秀雄
                ○頭本元貞
                ○主人
                ○小畑久五郎
                ○岡田純夫
              以上〆拾壱名
 一、準備 東洋軒(サンドウヰツチ・果物・紅茶・水物)


中外商業新報 第一四八九六号 昭和二年八月九日 新聞博士と渋沢翁 きのふ飛鳥山の邸に歓談(DK390248k-0003)
第39巻 p.496-497 ページ画像

中外商業新報  第一四八九六号 昭和二年八月九日
    新聞博士と渋沢翁
      きのふ飛鳥山の邸に歓談
渋沢子爵は来朝中の米国ミゾリー大学新聞大学科長ウイリアムス博士
 - 第39巻 p.497 -ページ画像 
を、八日午後二時半から立秋の風も涼しい王子飛鳥山の自邸に招いて茶菓の会を催した、これに招かれたのは阪谷男、上田万年・三上参次両博士、頭本元貞氏及び簗田本社長等であつた。席上渋沢翁にその長寿法を質問したウ博士は「渋沢さんは暦を知らない」との名句を捧げて思はず渋沢翁の童顔に微笑をたゝへさせた、さらに博士は米国における新聞記者教育に就いて熱心に説明し、またルーズベルトや下田に上陸したハリスのことについて興味ある物語をされたが、なほ博士は「曾てルーズベルト氏から日本に行つて渋沢翁に会はなければ、日本を知つたとはいへぬといはれた、私は今度四回目の来朝で、初めて渋沢翁を訪れ、こゝに初めて日本を知ることができたわけである」と語られた、一同歓を尽して散会したのは午後四時ごろであつた


竜門雑誌 第四六八号・第九三―九九頁 昭和二年九月 ウオルター・ウヰリアムス博士招待茶話会(DK390248k-0004)
第39巻 p.497-501 ページ画像

竜門雑誌  第四六八号・第九三―九九頁 昭和二年九月
    ウオルター・ウヰリアムス博士招待茶話会
   飛鳥山邸に於ては米国ミゾリー大学新聞学部長ウヰリアムス博士の為めに、八月八日午後二時半茶の会を青淵文庫に開いた。出席者はウヰリアムス博士・青淵先生・阪谷芳郎男・上田万年博士・三上参治博士・頭本元貞氏・簗田𨥆次郎氏・小野秀雄氏其他であつたが、席上ウヰリアムス博士と青淵先生とは次の如き談話を交換せられた。
子爵「東洋では年齢の多いのを尊びます。が一般的には年が多くなると、不用の人間のやうな取扱ひをする。私は人は死ぬまで相当の能力を維持して働き得べきものであると信じて居る。病気の為めなら致し方もなく、又力を出すと云ふやうなことは出来ないけれども、考へることならば、それ相当に出来ると思ふ。たゞ自分の経験でも些か記憶が悪くなり、物の判断力がにぶくなるやうでありますが、全然不用にならぬと思ひます。それで私が予て思つて居りましたのと同じ様な説を、英国のラプソン・スミスと云ふ人が書いて居るのを五・六年前に読みまして、大いに力を得た訳であります。その人の説は私の考へる通りで、三十歳までは学ぶ。それから後の三十年即ち六十年までは働く。それから更に三十年即ち九十歳まで、三十歳以後と同じやうに考へて多少養生して働くならば、充分働き得られる。英国などでも兎角六十歳以上になると若い者を口やかましく使ふから、寧ろ薬品の力で殺してしまつたらよいと云ふやうな、過激な議論があつた。がスミスは、全然それとは反対に六十以後三十年を働くと云ふことを提議しまして、確かに九十までは働き得る。又人の生命は無事に行けば、百四十六歳までは保ち得られると主張して居ります。但し九十歳まで働くに就ては手段がある。それは相変らず活動を継続することが第一、とは云へ三十歳から六十歳までの如き活動でなく、摂生して何事も過度にならぬやうにすること、第二は煩悶苦悩に陥らぬこと、換言すれば精神的に苦痛を去り、残念だと思つたり、憤慨したりしないことであります。私はスミスの此説を読むずつと前、六十歳になつた頃からさう考へて仕事に従事して居りました
 - 第39巻 p.498 -ページ画像 
ので、此説を見出してからは大いに嬉しく一層確信を得て、実行して居る訳であります」
ウ氏「誠に興味あるお話であります。子爵は暦を超越して居られるのです。自分は初めの三十年の活動期を終り、次の三十年に入つたのでありますから、大いに働かねばならぬと存じます」
子爵「人間の身体は錐のやうなもので、使つて居るうちに自然に消耗して行くのであるが、下手に使ふと破損する、と云ふて余り大切に使はないで保存して置くと錆が出て破損するのと同様の結果になるのです、日本にはどうも斯様に身体を錆させる者が多いやうです――扨て御訪問を頂いて質問致すは誠に失礼でありますが、新聞記者養成のことに就て少しく御話を願ひ度いと思ひます。日本の新聞社会も最近では余程進歩致しましたので、私も非常に喜んで居ります。此席には新聞に実際携つて居られる簗田さんの如き人も居られるのですが、新聞と云ふものは一般に広い知識を与へて、社会に貢献することが少なからぬと同時に、弊害をも伴つて居ります。私は予てから新聞の社会に対する偉力を想ふて、一層好くして行きたいと思つて居ります。博士の関係せらるゝミゾリー大学の如き新聞学部なるものが設置せられ、而も博士は其の部長であられるとのことを聞きましたに付ては、概況で結構ですから、其の実状のお話が願へますならば有難いと存じます」
ウ氏「新聞のことに就ての御質問を頂き、御答へ申上げるのは愉快であります。扨て第一に御耳に達し度いことは、私が大いに日本の新聞に興味を持つて居るのは、職業柄のみでなく日米間の親善を保つ上に於てゞありまして、新聞の記事が非常に影響する為め注意して居るのであります。そして日米親善には子爵が頗る御尽力になつて居られることをよく承知致して居ります。私は来年布哇で開催することになつて居る新聞記者大会の用向で参つたのでありますが、此会合にもどうか御声援下さるやう御願申します。それから子爵お尋ねの米国の新聞に就て少しくお話し致しませう。従来新聞は世界から好ましからぬものとして非難せられ、記者は準備も教養もなく、何か書きたいと云ふやうな人達であつたから道徳的にも調子が低く、社会の腐敗して居る状態のみを好んで書くとか、煽動的なことを書くとかと云ふ状態で、所謂黄色新聞と云ふやうなものが、あちらこちらにあつた。然し勿論新聞記者としてデーナとかグリーリーとか偉い人がないではなかつたけれど一般的には社会から批難を受けるやうな人が多かつたのであります。此の弊害を矯める為め、近頃各大学で新聞学部を置き青年を教育するやうになりましたが、ミゾリー大学の如き古くから新聞大学を設置して居りまして、私は老人であつても活動して居ります。従つて大学教育に於て新聞記者たるの修業を致しますので、今日では何れも相当の信用ある状態になつて居ります。現在米国の大学では新聞学部のあるものが十二・三に達して居ります。そして之が成立の有様を分類すると三つになります。即ち一は個人の寄附金によつて出来たものでコロンビア大学新聞学部の如きも
 - 第39巻 p.499 -ページ画像 
の、二は新聞社が力を入れて設置したシカゴのノースウエスターン大学とか私のミゾリー大学等のもの、三は個人の寄附と州からの資金とで出来て居るものであります。而して夫々其処で若い人に新聞の任務、新聞論説の心掛、記事を簡明に書くことなどを学理にのみ偏せず実際のことを教へます。私の関係して居る大学へも、米国人の外英国人、日本人などの学生があり、又卒業生があります。新聞事業は単に国内的の関係のみでなく、国際的でありまして、一般の国民として外国人に接するのは一部分の僅かな範囲の人にしか過ぎませんが、新聞は頗る広く、或る意味で大使に近い仕事をして居ります。それだけ任務として重大なるものがあり、新聞の記事に依つて非常な結果を生ずることもあるのであります。故に東京帝国大学の如きに新聞学部を置きますならば、他に見られぬやうな立派なものが出来、日本の新聞記者も一層優秀になるであらうと存じます。私は貧乏な教授ではありますが、其事が実行せられるならば、新聞に関する書物を集めて寄贈したいと思ひます。私は三十年来新聞のことに関係し、其の仕事に従事して居りますが、之より以上よい仕事はないと信じて居ります」
子爵「博士から実際状態に就てのお話を承りまして新聞学を研究せねばならぬことが、現日本で最も重要なることの一つであるのを覚りまして、よい御土産を頂いたものだと存じます。誠に国家としての日本が先進国から教へを受けて進まねばならぬのは、単に新聞のみではありません。殊に米国と日本とは情合深いお親しみを持つのでありまして太平洋問題に関しても、私は世界のことは余り知らぬが、米国の方とは常々打寄つて話して居ります。来年日本で聞かれると云ふ汎太平洋協会の会議に対しても、御希望に副ひ度と思ひます。貴方の仰せの通り、新聞は社会の出来事を早く伝へる為め確かに正しく理解することが少く、さまでゝないことを大げさに伝へると云ふ弊があり、人を賞讚し過ぎたり悪く云ひ過ぎたりする。又政治界の事件などにあつても、徒らに人を吃驚させやうと云ふ風に行走る気味があり、時に之位嫌なものはない位に思はせられることもあります。之は矯めねばならぬと思ひますがさらばどうして目的を達するか、それは種々あると思ひますが、記者の人格をよくすることが第一必要でありませう。私は新聞の勢力が拡張されゝばさる程、此の必要を痛感するので、頻りにそれを考へて居る最中で、ミゾリー大学の新聞大学のことなど知りたいと思つて居ました。従つて只今の御話を承り、日本でも其の点に深く力を入れ、記者の人格を進め、記事をして道理正しからしめて御言葉の通り国内のみでなく、国際的にあらしめよう記者其の人の人格手腕をも国際的とするようにせねばならぬと思ひます。そして日本の新聞も将来面目を新たにする為めの御教へを受けたことを同志の者と共に嬉しく存じます」
   (一時談話を終り茶菓の食卓につく)
ウ氏「ミゾリー州は北米合衆国の中央にあります。又大学の事務室の前へは日米協会から寄贈せられた石灯籠が置いてあります。之れ
 - 第39巻 p.500 -ページ画像 
はタウンセンド・ハリスが初めて日本に上陸し、暫く領事として滞在した伊豆の玉泉寺にあつたものであります」
子爵「私は英語が話せず、通訳を必要とする不自由な者でありますが米国との因縁は誠に深うございます。十四歳の時にはコンモンドル・ペリーが来朝したが、当時少年とは云へ書物が好きであつた私は、英国が支那へ阿片を売つて置いて戦争をしかけたことなどを知つてから、外国の不法を憤り、大いに攘夷論を唱へた訳で、ペリーなども英国などと同様の目的で来朝したのであらうと思つたりしました。其後外国の事情は知らねばならないと考へるやうになつて居りましたが、廿八歳の時仏国へ赴き、帰国してからは外国との親善の必要を覚り、米国の総領事で後に公使になつたハリスなどの親切であつたことを想ひ、爾来日米親善に就ては特に力を尽して居ります。たゞ移民問題は深く遺憾とする処であります。私達は国民外交の要を感じ屡々米国を訪問しましたから、米国の都市は大抵知つて居ります。そして之等の関係も貴方の御経験の通り新聞でよい方へ向はせ度いと存じます」
ウ氏「実業団を組織して御渡米になりました時、私は恰度欧洲へ行つて居り、帰国してからお噂を聞き深い印象を受けました。其の時ルーズベエルト氏に会ひますと、君は日本の渋沢氏に会つたか、新聞記者として是非会つて置かねばなるまい、と云はれました」
子爵「初めてルーズベルト氏に会ひました時、日本は美術を以て名高く且つ支那と戦つて勝つた、日本の軍人は強い。其のお国の渋沢さんに会ふのは光栄だ、とて握手されたから私は直ちに、私は銀行家である、日本の銀行は幼稚であるから御目に止る程ではありますまいが、此次には銀行もお褒め頂くやうにして置きたいと思ひますと云つた処、ル氏はそれは一本参つたと云ひ、次に会つた時には、今度は本当に褒めるとて銀行の発展のことを云つてゐました」
ウ氏「私がル氏に会つたのは子爵がお会ひになつたすぐ後でした。そから伊豆下田の玉泉寺へ行つて見たいのですが、楽に行けませうか、若し困難なら写真でも欲しいと思つて居ます」
子爵「便宜がありますから、写真を撮せてあげませう」
ウ氏「尚ほ出来ることでしたら、ハリスの墓をアメリカで御訪ねになりました折の詩を書いて頂けませんか」
子爵「よろしうございます。ハリスが安政三年来朝して伊豆下田の附近柿崎の玉泉寺に上陸以来、日本の為めに尽して下さつた事柄に就ては私達の深く尊敬して居る処で、之を記念したいと予て思つて居りました。恰度故バンクロフト大使がシカゴのウルフ氏からの寄附金で、此のハリスの記念碑が建てたいと私に相談せられたので、私も大いに力を入れ其運びにかゝつて居りましたが、バンクロフト氏は遂に逝去せられました。従つて私は今年こそは是非建てたいと、只今記録を書いて居りますが、初めて領事館旗を玉泉寺に樹てた日の日記に『昨夜は興奮と蚊の為めに安眠出来なかつた。早朝上陸して旗竿を立てやうとした処それが倒れた。幸ひ
 - 第39巻 p.501 -ページ画像 
負傷者はなかつた。軍艦から増援を得て遂に之を樹て得た。即ち日本での最初の領事館旗を掲揚したのである。此の国は今後どうなるであらうか――』と疑問のまゝ結んであります。だから私はハリスから質問されて其の負債を負ふて居るやうな気がして、此の頃では『日本も幸福になりました』と答へ度いと思ふのであります」
ウ氏「ミゾリー大学で石灯籠を貰つた時、之が建立式にハリスのお墓の写真を飾りましたが、之は斎藤総領事の心配で、私の学校の卒業生が撮つたものでありました。又松平大使も参られ、窓の外に日本の楓が三本植えてあるのを見て感心せられたが「此の楓は外へ出した方がよい――日本のだから」と笑つて云はれましたが、外に植えた方が見た処よささうでした。松平大使は米国へ深い印象を与へて居られます。ミゾリー大学からは三人の外国人中の一人として法学博士の称号を贈りました。私はこれで日本へ参ること四回目でありますから、一度あることは三度あると云う意味で今後三度を三度する。即ち尚ほ此後五回日本へ参り度いと存じて居ります」


(ウォルーター・ウィリアムズ) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年八月八日(DK390248k-0005)
第39巻 p.501-502 ページ画像

(ウォルーター・ウィリアムズ) 書翰  渋沢栄一宛 一九二七年八月八日
                  (渋沢子爵家所蔵)
        The Imperial Hotel
           of Tokyo
               August 8, 1927
My dear Viscount Shibusawa :
  I was greatly honored by your gracious courtesy of yesterday afternoon and am writing to express my deep appreciation and thanks.
  I leave August 10 for China but will be again in Tokyo at the Imperial Hotel on the last three days of August, sailing for America on the Tenyo Maru Sept. 1.
  With high regeard,
            Very sincerely,
             (Signed) Walter Williams
His Excellency
  Viscount Shibusawa.
(右訳文)
             (栄一鉛筆)
             八月十三日一覧、不及回答候事
                 (別筆)
東京市              11\11明六(八月十一日入手)
 渋沢子爵閣下       東京、一九二七年八月九日
                 ウオーター・ウヰリアムス
拝啓、益御清栄之段奉賀候、然ば昨日は御歓待を忝ふし御厚情の程誠に難有謹んで御礼申上候、小生は八月十日支那へ向け出発致、再び東京に罷越八月の末の三日間帝国ホテルに滞在致、翌九月一日天洋丸にて米国に向け出帆可致候
 - 第39巻 p.502 -ページ画像 
先は御礼旁得貴意度如此御座候 敬具


(エフ・エム・フリン) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年八月二七日(DK390248k-0006)
第39巻 p.502 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕集会日時通知表 昭和二年(DK390248k-0007)
第39巻 p.502-503 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年       (渋沢子爵家所蔵)
八月卅一日 水 午後三時 ウイリアム氏来約
 - 第39巻 p.503 -ページ画像 
        午後四時 簗田氏来約(事務所)



〔参考〕(ウォルーター・ウィリアムズ) 書翰 渋沢栄一宛 一九二八年六月五日(DK390248k-0008)
第39巻 p.503-504 ページ画像

(ウォルーター・ウィリアムズ) 書翰  渋沢栄一宛 一九二八年六月五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
           UNIVERSITY OF MISSOURI
               COLUMBIA
SCHOOL OF JOURNALISM
OFFICE OF THE DEAN
                     June 5, 1928
Viscount E. Shibusawa,
  Tokyo, Japan
Dear Viscount Shibusawa :
  Mrs. Williams and I sail for the Orient on the Siberia Maru of the N. Y. K. Line from San Francisco June 20. We plan a brief visit to Japan, China, and the Philippines, returning the latter part of August. I hope, however, during our brief stay in Japan I will have again the high privilege of paying my respects to you who have done such admirable service for the cause of international good will. With appreciation of your many courtesies and with high regard, I am,
              Very sincerely,
             (Signed) Walter Williams
P.S. My address in Tokyo will be care of the Japan Advertiser and in Shanghai care of the China Weekly Review.
(右訳文)
          (栄一鉛筆)
          七月二十七日一覧、適当之方法にて回答相発し可申事
 東京                  (六月三十日入手)
  渋沢子爵閣下
         ミツソリ州コロンビア市、ミツソリ大学
         新聞研究学校校長室にて
          一九二八年六月五日
                 ウオーター・ウヰリアムス
拝啓、益御清適奉大賀候、扨て今回小生儀荊妻同伴にて本六月廿日桑港発日本郵船会社汽船サイベリア丸にて東洋方面に向け出発可致候、日本・支那及び比律賓諸島を訪問の上、来八月下旬帰国の予定に御座候、貴国滞在は至つて短期間には候得共、国際親善の為めに讚嘆すべき大功績を有せらるゝ閣下に再び拝光の栄を忝ふ致度希望仕居候
右御挨拶旁得貴意度如斯御座候 敬具
 追伸、小生宛通信は東京にてはジヤパン・アドヴアタイザー、上海にてはチヤイナ・ウヰークリ・レヴユウ気附に願上候 草々
(欄外・別筆)
 本件に関しては八月十一日(土)電話にてジヤパン・アドウアタイザーの当局へ言附をなし置けり、蓋し今夕関西よりウヰリアムスの着京の事実を承知せしが故なり
 - 第39巻 p.504 -ページ画像 
  ○栄一ハ、昭和三年八月十三日ヨリ伊香保ニ避暑シタレバ、是年ハ面会ナカリシナルベシ。