デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.550-556(DK390265k) ページ画像

昭和3年7月18日(1928年)

是日栄一、アメリカ合衆国シアトル、ベーリ・ゲザート小学校校長アダ・ジェー・メーハン女史歓迎茶話会ヲ飛鳥山邸ニ開ク。


■資料

外務省関係書類(三)(DK390265k-0001)
第39巻 p.550-551 ページ画像

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(阪谷芳郎)書翰 渋沢栄一宛昭和三年七月一二日(DK390265k-0002)
第39巻 p.551 ページ画像

(阪谷芳郎)書翰  渋沢栄一宛昭和三年七月一二日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば来る七月十八日(水)午後四時飛鳥山渋沢子爵邸に於て、過日来邦のシヤトル市ベーリ・ケザートスクール校長エーダ・メーハン女史の為に茶話会開催致候間、炎暑の砌御迷惑とは存候得共御繰合せ御枉駕被成下候はゞ本懐の至に候、尚ほ同女史は去明治四十三年同市小学校の教職に就き、爾来現今に至るまで十八年其間在留日本児童数千名も同女史の教育を受けし趣にて、今回の来遊も右児童等の父兄が同女史に対する謝恩の印として拠金せし結果に出でたる由に有之候、右御案内申上候 敬具
  昭和三年七月十二日
                      阪谷芳郎
    子爵 渋沢栄一殿
  ○右ハ栄一病後静養中ノタメ茶話会ハ阪谷芳郎代理セルタメナリ。


外国係往復書(二)(DK390265k-0003)
第39巻 p.551-552 ページ画像

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招客書類(三) 【ベーリ・ゲザート小学校長エーダ・メーハン女史 歓迎茶話会出席者 昭和三年七月十八日午後四時、於飛鳥山邸】(DK390265k-0004)
第39巻 p.552 ページ画像

招客書類(三)              (渋沢子爵家所蔵)
 ベーリ・ゲザート小学校長エーダ・メーハン女史
 歓迎茶話会出席者
  昭和三年七月十八日午後四時、於飛鳥山邸
               来賓
                (太丸・太字ハ朱書)
                ○エーダ・メーハン女史
                ○植原悦二郎氏
                ○笠井重治氏
                ○堀内貞一氏
                ○中林菊枝嬢
                欠麻生正蔵氏
                欠井上秀子女史
                ○上代タノ子女史
                欠田中太郎氏
    日本橋十思小学校    ○木内キヤウ子女史
    神田芳林小学校     ○黒崎悦子女史
    横浜市伊東小学校    欠石川房子女史
    麻布三河台尋常小学校長 欠守田近三氏
    同校教師        ○竹田喜代子女史
    同校教師        ○山方操子女史
    下谷御徒町小学校教師  ○高橋嘉久平氏
    本所区本所小学校教師  ○柴田知常氏
                ○高野渓子
               主人側
                ○阪谷男爵
                ○添田博士
                欠堀越善重郎氏
                ○増田明六氏
                ○小畑久五郎氏
                ○岡田純夫
    以上二十四名
         内 出席十八名欠席六名
 一、準備東洋軒ニ申付ノ事(ソーダ水 紅茶 フルーツポンチ サンドウイツチ 菓子 果物(水蜜桃・枇杷))


(増田明六)日誌 昭和三年(DK390265k-0005)
第39巻 p.552-553 ページ画像

(増田明六)日誌  昭和三年       (増田正純氏所蔵)
七月十八日 水 降雨               出勤
午後三時より飛鳥山邸に小畑・岡田両氏同伴赴いた、午後四時から子爵催の米国シヤトル市小学校長メーハン嬢招待茶の会があるので、其世話を為す為と、此序に急の用務を弁する為めであつた、御病気の子
 - 第39巻 p.553 -ページ画像 
爵を煩ハしてはならぬと思ひ、予て阪谷男爵に子爵の御代理を御願したので、正四時に男爵は来着せられた、子爵には降雨でもあり応接室でメーハン丈けに面談せられ、会場の青淵文庫には御出無き様と懇願したのであつたが、最早差支無いと計りで容れられないで、和装で雨傘をさして文庫に見へた、間も無く植原悦次郎氏《(植原悦二郎)》(外務省参与官)、メーハン同伴にて来着、次いて諸氏の来会があつて子爵はメーハンと対話、小畑氏通訳で約一時間殆と尽きる処無く話された、植原氏病後の子爵に障りありてはと退坐を御願し、後は阪谷男・添田博士及我々にて接待すべけれは御懸念無き様と云はれたので、左らばとて漸く中坐せられ、其後は阪谷男爵主人代理として万事斡旋せられ、鄭重なる茶菓の饗ありたる後、庭園を雨中散策して一同退出したるは午後六時なり、本日の来会者は
子爵 メーハン嬢 阪谷男爵 添田寿一博士 植原悦次郎氏 堀内《(欠字)》
 (シヤトル会幹事) 笠井重治氏 上代たの子氏其他先年東京府より米国太平洋沿岸米国小学校視察を命せられ、彼の地にてメーハン嬢の厚遇を受けたる小学校男女訓導諸氏八氏なり
○下略


竜門雑誌 第四七九号・第七一―七三頁昭和三年八月 マハン女史歓迎茶話会(DK390265k-0006)
第39巻 p.553-554 ページ画像

竜門雑誌  第四七九号・第七一―七三頁昭和三年八月
    マハン女史歓迎茶話会
    七月十八日午後四時飛鳥山邸にて、米国シヤトルのベーリ・ゲザート小学校長エーダ・マハン女史歓迎茶話会が開かれた。
   青淵先生には御静養中にも拘らず、特に青淵文庫まで出向かれ次のやうな歓談を交された。尚当日の来賓は同女史の外、外務省参事官植原悦二郎氏、シヤトル会員笠井重治氏、シヤトル会東京支部幹事堀内貞一氏、マハン女史通訳中林菊枝嬢、日本女子大学教授上代タノ子女史、及び本年ホノルヽ市に於ての婦人協議会へ代員として出席すべき木内キヤウ子女史、黒崎悦子女史又先年東京府より太平洋岸教育事業視察の為め出張した、竹田喜代子女史、山田操子女史、高橋嘉久平氏、柴田知常氏であり、主人側よりは青淵先生の外阪谷男爵、添田博士、増田明六氏、小畑久五郎氏等が出席した。
子爵「よく御訪ね下さいました。私は永らく病気で臥つて居りましたので、外部の方にお目にかゝるのは今日が初めであります。聞きますれば貴方は御親切に日本人系の子供を教育して居て下さるさうで感謝に堪へません。私は今年八十九歳になりますが、これで米国を四回訪問して居り、其都度シヤトルへ参りました」
マ女史「お褒めいたゞく程の事は何も致して居りません。たゞこれが私の天職であると考へて、教育のことに当つて居るのみでございます」
子爵「其の御心持は実に立派です。名誉を得ようとか、人から褒められようとかしないで、自分の仕事を天職だとしておいでになるのは、誠に尊いことだと考へます。私は基督教のことはよく知りませぬ。併し東洋の道徳となつて居る儒教に就ては多少とも知り、
 - 第39巻 p.554 -ページ画像 
孔夫子の論語を守本尊として世に処して居りますが、只今言はれた教育を天職と考へて居られることは、儒教の精神に合致するものであります」
植原氏「私はマハン女史が学校を創められた当時、即ち今より十八年前から御懇意であります。之まで幾度か日本を訪問せられるやうにと在留の邦人が奨めたけれども、老齢のお母さんに孝養を尽されることゝ教育事業に尽瘁することを自己の務めであるとして居られる為め、実現しませんでしたが、今度は其のお母さんが亡くなられましたので、女史に教育せられたる日本児童の親達が醵金して提供し、之を旅費として日本訪問を決行された訳であります只今学校の生徒は一千人ばかりあり内八百人程は日本人系の子供ださうであります、今日はさうでもありませんが、最初の頃には英語の少しも話せぬ子供を教へるのですから、大変骨が折れたさうです。又夜は英語の話せぬ日本人の親達まで集めて教へたと申します。実際之を天職と心得てやつて居られることは尊いことだと思ひます」
子爵「さうですか、誰にでも中々出来ないことです」
植原「渋沢子爵は八十九歳の高齢で、日本の元勲の一人です。例へば政治界の伊藤公、教育界の福沢翁、そして経済界に於ける渋沢子爵と挙ぐべきで、明治維新以来国家に功労の最も多い方であります。そして就中日米関係に就ては少なからぬ尽力をして居られますので、先般も米国から人形を送られたり、又日本から送るに就ての世話をせられました。斯様に大切な国宝と申すべき方でありますが、先日中から御病気で静養して居られますので、今日も早く御引上げを願つた方がよいと存じます――どうか子爵には御引取下さまいして充分な御養生なさるよう御願申上げます」
子爵「此等の小冊は、私がハリスの碑を伊豆の柿崎へ建てた時に配つたものであります。又別冊は其建碑式の当時マクヴエー大使がなされた演説で、親切なものでありましたから印刷したものであります。尚ほルーズヴエルト大統領の日本観も差上げます。皆な英文が附いて居りますから御覧を願ひます。それでは誠に失礼でございますが私は御免を蒙ります」
マ女史「どうか――御静養中を御会ひ下さいまして感謝致します。どうか御大切に御願ひ申します」
子爵退出後、マ女史、阪谷男爵を中心として種々の談話が交換せられたが、尚ほ小雨の庭園を逍遥して六時過一同辞去された


(アダ・ジエー・メーハン)書翰 渋沢栄一宛一九二八年八月一四日(DK390265k-0007)
第39巻 p.554-555 ページ画像

(アダ・ジエー・メーハン)書翰  渋沢栄一宛一九二八年八月一四日
                   (渋沢子爵家所蔵)
Viscount E. Shibusawa :
  Tokyo, Japan.
My dear Viscount Shibusawa :
  Permit me to thank you for the hospitality extended me at your home in Asukayama during my tour of Japan. I deeply
 - 第39巻 p.555 -ページ画像 
appreciated your interest and the privilege of meeting and talking with you. The tea-party with you as host will always be one of my most pleasant memories of Japan.
  Trusting that you are in good health and with deep regards, I remain
             Very truly yours,
              (Signed) Ada J. Mahon
On board
  S. S. Shizuoka Maru
    August 14, 1928
(右訳文)
                 (栄一鉛筆)
                 三年九月二十八日一覧
 東京市                 (九月十二日入手)
   渋沢子爵閣下
                 静岡丸にて
   一九二八年八月十四日     エーダ・ジエー・マホン
拝啓、益御清適奉賀候、然ば貴国漫遊中飛鳥山の貴邸に於て蒙り候御款待に対し厚く御礼申上度と存じ乍失礼一書拝呈仕候、閣下の御厚志と親しく御高見を拝聴するを得たる光栄とに対し奉深謝候、閣下の御主宰被下候茶話会は、日本に於ける最も愉快なる記念中の一として永く記憶可致候
閣下の益御健全ならん事を祈り謹で敬意を表上候 敬具


(奥田平次伊東忠三郎)書翰 渋沢栄一宛昭和三年九月一日(DK390265k-0008)
第39巻 p.555 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕ミス・アダ・ゼー・メーハン校長略歴(DK390265k-0009)
第39巻 p.555-556 ページ画像

ミス・アダ・ゼー・メーハン校長略歴    (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
メーハン校長はカナダに生れました、父は愛蘭人、母は仏蘭西と英国との血を受けた婦人であります。
幼少の頃父母に伴はれて米国ワシントン州に移住し、その地で教育を受ける事になりました、小学校を卒業するとシアトルの普通師範学校
 - 第39巻 p.556 -ページ画像 
に入学、明治四十三年の九月にそこを卒業して直ちに教職に就き、最初はシアトル市メーン街なるメーンスクールに教鞭をとりました、この学校は日本人町の中心でありますから、児童の大部分は日本人で当時の就学児童は全部で百四十九名ありました、其内日系児童六十五人支那系四十五人、白人三十九と云ふ区別けになります。
其後年一年と児童の数は増加し、大正十年には五百余名となり随つて校舎の狭隘を感ずると共に、建物も古く、運動場も不完全なので、市の学務課に屡々申請の結果、現在の場所に新校舎が出来、それへ移転する事になりました。
現在のベリーゲザート・スクールは十七の教室を有し、別に食堂兼用の大講堂があります、総てが最新式で、運動場も広大であります、児童の現在通学数は九百名あり、収容し切れないので六個の仮校舎を建てました、九百名の児童中八百四名は日本人の子供であります。校長に就職して以来今日に至るまで十八年間に、七千九百名の生徒を世話して来ました、随つて又日本人の子供の数も、非常に沢山な訳であります。
        ※
以上がメーハン校長の略歴でありますが、シアトル在留の日本人は、メーハン校長が十八年間一日の如く、親切と努力と賢明との三つの特質を以て、雌鶏が雛子を其の両翼に、カバウ様に、涙の溢れる程有り難い慈愛を以て、お世話して育て導いて下さつた事を決して忘れる事は出来ません、今日は日本の各地に於ても、この恩師のお世話に浴した者が散在する事と思ひますが、メーハン校長は一ツには又此等手塩にかけた自分の生徒たちに逢ふ事が出来ると云ふ事を、此旅行中の大なる楽みの中に数へて居られます。
メーハン校長は非常な孝心の篤い方で、母には早く分れましたが、老いたる父に仕へて到らざるなく、父在す間は遠く遊ばずの主義を守り先年在留同胞の有志、日本人会当局なぞから、屡々日本へ旅行する事をお勧め致しましたが、父が居る間はと云つて常に其勧誘を実行されませんでしたが、今回は既に仕ふ可き父が歿せられたので、年来の希望を玆に実現する事に決意せられたのであります。
  昭和三年六月
                米国シアトル市北米日本人会
  ○右ハ北米日本人会会長伊東忠三郎ヨリノ栄一宛書翰ニ同封サレシモノ。
   (渋沢子爵家所蔵「在米日本人往復(二)」中ニアリ。)