デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.582-586(DK390277k) ページ画像

昭和4年5月28日(1929年)

是日、基督教青年会理事長ジョン・アール・モット、飛鳥山邸ニ来訪シ、栄一ト対談ス。


■資料

集会控 自大正一五年一一月二六日至昭和四年六月三〇日(DK390277k-0001)
第39巻 p.582 ページ画像

集会控  自大正一五年一一月二六日至昭和四年六月三〇日 (渋沢子爵家所蔵)
    四年五月中
五月二十八日(火)前九半 モット博士来約、小畑氏通訳 飛鳥山邸

 - 第39巻 p.583 -ページ画像 

竜門雑誌 第四八九号・第八三―八八頁昭和四年六月 ジヨン・アール・モット氏来訪(DK390277k-0002)
第39巻 p.583-586 ページ画像

竜門雑誌  第四八九号・第八三―八八頁昭和四年六月
    ジヨン・アール・モット氏来訪
   基督教青年会理事長ジヨン・アール・モットー氏は、五月二十八日午前九時半ジョルゲンセン氏及び斎藤惣一氏同伴、曖依村荘に青淵先生を訪ね、青淵文庫に於て歓談、同十一時辞去された。当日の談話は左の如くである。
モ氏「しばらく振りでございます。子爵にお目にかゝると若返るやうです。聖書に木が汁液に満ちて居る故に沢山の実を結ぶと云ふことがありますが、恰度子爵は老いて益々御盛んで、よい事をなさり沢山の実を結んで居られます」
先生「私も日本の年で九十歳になりましたが、まだ生きて居りますので、出来るだけ社会・国家の為に働きたいと思つて居ります。貴方が此度日本の最高勲章を贈られましたことを御めでたいと深く御喜び申上げます」
モ氏「私としましては何等勲章を賜る程の功績もありませぬが、ただ三十三年間日本と接触を保ちつゝ同じ目的に向つて働いて居りますので、斯う云ふ優遇を旅行中に受けますといよいよ日本に対して、強い印象を持つに到ります」
先生「私も大正四年パナマ運河開通記念の博覧会が桑港で開かれました時、日米の親善に資する目的で渡米致しましたが、その旅行中旭日大綬章を授けられたと知り、遠くアメリカから御礼申したこともあります、従つて今貴方の御訪ねを得て当時の喜びを思ひ出し、特に御祝詞を申上げる次第であります」
モ氏「米国に於きましては政治家・事業家・宗教家等を初め、総ての方面の人々が沢山、子爵にお会ひ出来ることを希望して居り、また喜んで居ります、故に今日御高齢であるに拘らず御健康であることを知れば非常に喜ぶでありませう、実に子爵の如くアジアの人で米国人の敬愛を一身に集めて居られる方は他にありません」
先生「身に余る御言葉を嬉しく感じます、貴方は宗教の方が御本分でそれに対する完全な御行動を採つて居られることは常に聞いて感じ入つて居りますが、私達と会談せられるのは御本務以外であると思はれるのに、よく何かに御尽しになることを感謝致します。宗教の方でも同様であると存じますが、米国と日本との間は何処までも道理正しくあらねばならぬ、是は是とし非は非として道理に基いて交れば、自ら親善の実は挙ると思ひます。そして米国と日本とが親善であれば太平洋は安全であります、勿論世界の国を悉く道理正しいものとしたいものであるが、太平洋のみはバルカンや支那の如き動乱の原因たらしめたくない、それには幾度も申す如く道理によつて両国が共に交際することを必要と致します、米国は何ものにも進んだ国であり、国民はまた道理を弁へて居るから、私は日本人もさうあるやうに申して居ります、此の長い間の私の観念は博士の如き方はよく認めて下さるが、米国のお方に衷心を知つていただきたいと思ふのであります、今博士から右のやうな御言葉を頂いて一層さう云ふ感じを深く致します」
 - 第39巻 p.584 -ページ画像 
モ氏「子爵は確かに他に比類のない一本の柱として、日米の平和の維持に尽されました、申すまでもなく日米の親善に対して努力さるる方は他にも沢山ありますけれど、最初から一貫して如何なる場合にも精神を動かさず静かに操志を守つて居られることは、米国の者によい感化を与へ親善の基礎を為して居ります。扨て特に子爵に知つて頂きたいことは、此前千九百二十五年即ち大正十四年にお目にかゝりました時、日米の親善に就て違却の生ぜないやうにとのお約束を致しました、そのお約束をよく自ら守つて来たと此点は良心に恥ぢないのであります。即ち私は如何なる公開の席上に於いても、又地方団体の委員会のやうな席上でも、或はクーリツヂ大統領その他有力な方々にも、子爵が斯う云ふ御意見を持つて居られる旨を伝へた事であります、そして日米問題に対する教育的な啓発運動を進めつゝあり、それに力を尽して居りますことを申上げ得るのを愉快とするのであります。実は大正十四年に参りました時にも今の陛下に拝謁の栄を得ましたが、此度も拝謁していろいろの御言葉を頂戴いたしました。私が日米親善に力を尽すとか、日本の米国に在る学生の為めにいささか努力するのは斯様なことがあつたり、子爵の如き人々など、高い地位にある処の方に理解されて行くからであります」
先生「私一身の履歴に就てはくだくだしく申しませぬが、幼い時から西洋式の学問は少しもして居ないので、外国の事はよく知りません。否寧ろ青年の頃は攘夷論者として、外国は悉く悪いものだから、外国人は追ひ払はなければならぬと考へて居た程です、その後外国の事情も稍々理解するに及び、彼のハリスの行動などを知つては、その時の仕方に敬服しました、そして米国民の風習などを見て、これは真直ぐに交際すれば頼みになる国民であると感じ昔の外国嫌ひは却て米国の如き国とは交りを厚くしなければならぬと考へるようになつた、又事実日米の間は非常に円満に進んで居たのであります。処で彼の日露戦争はルーズヴェルト大統領の心配で媾和が無事に成立したけれど、償金が日本に取れなかつたので、或る場合面倒が起らねばよいがと思はれる程、日本の国民の内には不平を云ふ人もありました、従つて私達はル氏は日本の為めを思つてくれたのであると、穏やかにせねばならぬ旨を述べ逸る人々を静めたこともあります、その後米国の人々と交りを深くし、貴方の如き方と懇親を結ぶに従ひ、さらに日米両国は親善の必要であると云ふ、観念を強めた訳であります」
モ氏「子爵が日米両国間の平和を永久に維持しやうと御考へになつて居られることは、米国人の早くから了解して居る処でありまして誠に平和は子爵の御説の如く正義の上に築づいたものでなければなりません。而して此の平和の声は最近非常に強くなつて居りまして、それの明かな証拠としては、第一に十年前の平和の声は一つであつたものが、今日は十の声となりペンとなつて居る如き割合に広まつて居ります、第二には正義に基礎を置いた平和の方面へ進みつゝあり、各国民の感情がその方面に強く動き、過去のも
 - 第39巻 p.585 -ページ画像 
のは空気を打つ如き憾みがあつたけれど、現在では理解ある平和の主張となつて来ました、第三には人類の意志が一致して、平和的解決を望むに至つて居ります、又第四には外交及び国際関係上に起る誤解や曲解を取払はねばならぬと云ふ光ある運動が起つて来たことでありまして、前には国際的の事象が何となく暗かつたが、近頃では明るく光が強くなりました、例へば太平洋問題調査会とか国際聯盟とか同協会、或は国際仲裁々判等こゝ十年以来、さうしたものが非常に沢山起りました、第五には最も希望ある事柄でありますが、之れは私が職掌上いたく感じて居ることで、現代青年は実に平和と云ふ観念に満ち満ちて居る。過去に於ける青年の傾向や運動は何れも区々であつたけれど、今日では平和に対しては一致した強い希望を持つて居るのであります。斯くの如き事情を見る時、私は子爵が早くから平和を称へられて居るのは、実に予言者の声であつたと思ふのであります」
先生「五項目に分けて平和に進む世の有様を御説明になつたのは、誠にその通りであると考へます。余り細いことは理解いたしませぬが、よく御説は判りました。かつて私の娘の婿に穂積陳重と申すがあり、法律学者でありまして、枢密院議長になつて死にましたが、私と人道に就てよく論じ合ひました、穂積の方は智恵が進めば道義心も進むと申しますに対し、私は智恵のみ進んでも道義心は進まないから、精神的方面から道理を進めなければならない、と云つて居たが、真正の智恵が進めば道理を弁へるやうになる、と云ふことを、只今博士のお話でも覚りました、どうかさうした処まで是非進めたいものであります、故に遠からず私は土の中には入りますが、その日まで人間皆をそこまでにしたいものと思ふて努力致す積りであります」
モ氏「横浜から今日船が出ますので、まだ色々お話申上げたいのですが、これで失礼させていたゞきます」
先生「この冊子はハリスの記念碑を樹てた時書いたものです、又別冊はその式場でマクヴェー大使がされた演説であります。何れも英文がついて居りますから御読み下さい、更にこれは楽亭壁書の解説で今から百年程前に老中であつた、松平楽翁公のいたく守られたものであります、私は養育院の関係から、楽翁公を知り敬服して居るので、今度百年祭を行ふことに致したやうな次第であります」
モ氏「有難く頂戴いたします。最後に青年会の事を一言申上げますが第一に青年会は国際的なものであり人種共通の団体で、現在五十ケ国の青年が之に参加して居ります、第二には非常に有力なものであることで、それは九千の支部があり会員数百万人と云ふのでも判ると思ひます、第三は青年から成り将来の責任を背負ふて居ります、第四に青年を基礎とすると同時に各国の有力者、即ち帝王・大統領・大臣・学者等有力な人々から信用を得て居ります。先づ青年会は斯様なものでありますから、子爵に於かせられても之に助力を一層加へられるやう御願ひ致し度いと存じます。勿論
 - 第39巻 p.586 -ページ画像 
いろいろ御尽力下さつて居ることはよく存じて居り、又最近阪谷男爵や斎藤さんから承つてよく知つては居ります」
先生「何分老齢でありますから再びお目にかゝる事は出来ないかと存じますが、どうか日米の親善に就て御尽力の程御願ひ申します」
モ氏「いや今一度お目にかゝりたいと存じます、それでは御別れ申上げます」



〔参考〕(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 昭和四年(DK390277k-0003)
第39巻 p.586 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記  昭和四年
                    (阪谷子爵家所蔵)
四、五、二十五 モツト博士勲一等瑞宝叙勲船中電報ス、此日博士ノ誕生日ナリ二十七日十時、外務省ニテ贈呈 吉田次官、余、長尾、斎藤立会博士喜フ徳川公午餐ニ招待、博士ノ支那談アリ



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 ジョン・アール・モット宛(昭和四年七月一八日)(DK390277k-0004)
第39巻 p.586 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  ジョン・アール・モット宛(昭和四年七月一八日)
                    (渋沢子爵家所蔵)
                (栄一鉛筆)
                四年七月十二日一覧
    案
 紐育市
  ジヨン・アール・モツト殿
                   東京 渋沢栄一
拝啓、益御清適奉賀候、然ば過般御叙勲記念の為め御撮影の御写真、斎藤惣一氏を経て御送与被下、正に拝受珍蔵罷在候
貴台今般の御叙勲は従来貴台が世界的事業、特に久しく我邦の青年に対する御尽力が、我が至尊の聖聞に達したる結果に候へば、一種の天爵と解すべきものと相考へ、老生は満腔の誠意を以て御祝詞申上ぐる次第に御座候、回顧すれば一千九百十五年老生が貴国旅行中、先帝陛下の御即位式挙行あらせられ候際、日米親善の増進に努力致候との理由を以て叙勲の御沙汰に接して深く感激致候次第に御座候、而して当時老生の拝受せし勲章も同じ勲一等に有之候へば、一層感慨深き次第に有之候
右得貴意度如此御座候 敬具
  ○右英文書翰ハ昭和四年七月十八日付ニテ発送セラレタリ。